三浦半島の歴史 P9  

ファミリ−版 三浦半島の歴史 P9

参考文献;郷土出版社「図説・三浦半島の歴史 ーその歴史と文化」 文芸社「三浦半島通史」 三浦市「目で見る三浦市史」 司馬遼太郎「三浦半島記」 神奈川新聞社「三浦半島再発見」 横須賀市「横須賀市史」 郷土出版社「セピア色の三浦半島」 ほか
関連サイト;かねさはの歴史(江戸時代W) ;横浜の歴史(江戸時代A)

([)江戸時代B [幕末の三浦半島] 18世紀末頃から異国船の来航に備えて幕府は三浦半島の海岸防備に力を入れ、沿岸各所に陣屋をおき砲台 を設置しましたが、やがてペりーの来航によって日本は開国への道を歩みます。 幕府高官も志士たちも黒船を見ようと江戸から浦賀に早馬を飛ばし、大騒ぎとなったこの時代の三浦半 島は日本中の注目を浴びました。

 <異国船の来航>
 1635(寛永12)年の鎖国以来外国との接触を断って
いた日本にも18世紀末頃からヨーロッパやアメリ
カ等の異国船が来航するようになります。

来航の目的は1845(弘化2)年までは商船、捕鯨船に よる食料、水、燃料補給と漂流民を護送するための非 公式な来航でしたが、1846(弘化3)年以後は軍艦を仕 立てて、政府の公式な通商交渉を目的としていまし た。 一方日本国内各地でも諸外国との政治的な摩擦事 件が発生し、外国船舶への攻撃をも視野に入れて海 岸防備のために台場(砲台)が築造されるようになり ます。 <三浦半島の海岸防備> -寛政期(1789〜1800)- 三浦半島では寛政期に入ると異国船の出没も多く なり1792(寛政4)年のロシアのラクスマン来航や林 子平の「海国兵談」により、幕府は江戸湾に有力な譜 代大名を配置し、三浦半島の城ヶ島、走水、房総半島 の州の崎、百首に台場を築き陣屋を置く計画を立て ましたが、立案した松平定信の老中辞任で実現せず 浦賀奉行を中心に川越藩に補佐させる体制がとられ ました。 -文化期(1804〜17)- 文化期に入ると幕府はロシアのレザノフ来航やロ シアと松前藩の紛争により江戸湾防備計画を実現さ せ1810(文化7)年には会津藩に三浦半島西岸を担当 させ、房総半島を白河藩に担当させました。 -文政期(1818〜29)- 文政期には浦賀奉行に沿岸防備の任務が加えられ 1820(文政3)年浦賀奉行を中心に川越、小田原両藩を 補佐させることになり、1837(天保8)年浦賀奉行は異 国船打払令に基づき日本人漂流民を送り届けに来た アメリカ商船モリソン号に砲撃を加え退去させまし た。 -天保期(1838〜43)- 1842(天保13)年の異国船打払令の撤回に伴い、幕府 は江戸湾防備体制を強化して房総は忍藩、相模湾は 川越藩に防備させる体制をとり、川越藩は三浦半島 のほぼ全域を領地として与えられ、陣屋を浦郷から 大津へと移し領地には幕府の改革組合村を設定せ ず、藩独自の支配を行い、三浦半島の領民を動員する 体制をつくり外国船来航に備えました。 -弘化期(1844〜47)- 1847(弘化4)年からは相次ぐ外国船来航と浦賀奉行 等の意見により房総を会津・白河藩に、三浦半島を川 越・彦根藩に防備を担当させる四藩体制(四藩御固め 体制)をとりました。川越藩は三浦半島東岸を彦根藩 は西部を担当しそれぞれ三浦半島に領地、預地(管理 を任された土地)を与えられ支配しました。 -嘉永期以後(1848〜) ペリー来航後は江戸湾防備体制の大改革が行なわ れ、川越・彦根藩は江戸内海の防備にまわされ、1853 (嘉永6)年三浦半島の海防は熊本・萩藩(長州藩)が担 当することになりました。 熊本藩は大津に陣屋を置き150人の藩士を常駐させ ました。萩藩は上宮田に本陣を置き、ここには若き日 の木戸孝允や伊藤博文も勤務したといわれます。 1885(安政5)年、日米修好通商条約が締結されると 海防の必要性はうすれ、防備体制も縮小されました。 安政から文久年間(1854〜63)にかけて熊本藩が、元 治年間(1864〜65)年には佐倉・熊本藩が担当しまし たが、江戸湾岸の防備についてはあまり重点が置か れなくなり、1867(慶應3)年からは代官江川太郎左衛 門が領地を支配し海防も事実上なくなりました。 -海防と村人たち- 海岸の防備がはじまると三浦半島は海防担当藩の 領地や預地となり、外国船来航による連絡や出兵、移 動で助郷(人馬の提供)が増加し漁船や水主(かこ、船 員)、人足や兵糧米の徴発が頻発しました。これらの 人や物を動員、徴発するため各藩では独自に村々や 村民たちの動員体制をつくりあげていきました。 こうして三浦半島の村人たちは海防のための臨戦 体制に組み込まれ年貢を納めるだけでなく、重い負 担を課せられ苦しめられていきました。 また遠い本国からの海防のため赴任して死亡した 藩士も多く、三浦市城山や横須賀市鴨居など各所に その墓が残されています。会津藩のように海防が長 期化すると考え、妻子を連れて藩校まで設置した藩 もありました。 <ペリーの上陸>(参考・黒船と村人たち) 1853(嘉永6)年6月、アメリカ東インド艦隊指令長官 ペリーが率いる四隻の軍艦が浦賀沖にその姿を現し ました。 来航の目的は幕府にアメリカ大統領フィルモアの 国書を手渡し、開国を迫ることでしたが、来航の知ら せを受けた浦賀奉行は早馬により江戸へ急便を出す 一方、与力の中島三郎助をオランダ語通訳掘達之助 らとともにペリーの乗る旗艦サスケハナ号に派遣、 副官のコンティ大尉と会見、長崎へ行くことを要求 しましたが、アメリカは当地で国書を渡すことを主 張し、受理しなければ武力を行使すると威嚇したの で日本側は返答を猶予しました。 ペリーは日本側から返答が出る前の6月6日に測量 隊をミシシッピー号とともに江戸近郊まで航行させ 観音崎、猿島から江戸湾内まで侵入し金沢・杉田沖 (横浜)まで進んだため幕府は大統領の国書を受け取 ることを決め、6月9日浦賀の西南、久里浜につくらせ た特設の接待所で国書を受理しました。 ペリーは来年再び幕府の返答を受け取りに来航す ることを約束して日本を去り、翌1854(安政元)年1月 再来航、3月日米和親条約が締結され日本は鎖国から 開国へと外交方針を大転換し、三浦半島全体も混乱 なく維新政府へ引き継がれることになりました。 <咸臨丸の太平洋横断> 和親条約締結ののち赴任したアメリカ領事のハリ スは老中の堀田正睦に対して通商条約を結ぶよう強 硬に迫りました。ハリスの強い要求を拒みきれなか った老中堀田は京都に上り、条約締結の勅許(天皇の 許可)を得ようとしましたが出来ませんでした。 その後井伊直弼が大老になると勅許を得られない まま日米修好通商条約に調印してしまいました。 この条約の批准交換のため1860(万延元)年幕府は 正使として新見豊前守を、副使に村垣淡路守、目付に 小栗上野介をそれぞれ任命してアメリカへ送ること になり、このためアメリカから軍艦ホーハタン号が 差し向けられました。 この一行の渡米に木村摂津守を指令として艦長を 勝安房(海舟)とする日本軍艦咸臨丸も同行すること になり、1月浦賀港を出航し、日本人だけの手で初め て太平洋を横断して5月浦賀に帰港しました。 この条約批准交換でアメリカを訪れた人たちは先 進国アメリカに目をみはり、新知識を持って帰りま したが、これらの人たちの力が近代をつくる力とな り、やがて生まれる横須賀製鉄所の建設につながり ました。 <中島三郎助> 中島三郎助永胤は浦賀奉行与力として1853(嘉永) 6月ペリー来航の時、日本人として最初に米艦に乗り 込み交渉に当たった人で、日本海軍の近代化に貢献 した人物としても知られています。 ペリー来航時三郎助は奉行の命令でペリーの旗艦 サスケハナ号に乗り込んで、大砲をはじめ細かな質 問を発しその造詣の深さはアメリカ人を驚かせてい ます。 幕府がその年の8月東浦賀の大ヶ谷に造船所(浦賀 造船所)を建設すると三郎助はその建築主任に命ぜ られ日本最初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造、以後幕府 の海軍関係の要職を務め日本海軍の近代化を進めま した。 1867(慶應3)年の大政奉還後、新政府が樹立される と榎本武揚らとともに開陽丸に乗り北海道の箱館に 渡りましたが、1869(明治2)年五稜郭の戦いで二人の 息子とともに戦死しました。中島父子終焉の地はそ の名をとり北海道の函館市に「中島町」として現在も 残っています。 前のページへ トップページへ 次ページへ

ビッドル来航
1846(弘化3)年三浦郡野比村の海岸から 数キロほどの沖合に、アメリカ合衆国の東 インド艦隊司令長官ビッドル提督が率い るコロンバスとビンセンス号の二艘が来 航、停泊しました。 来航の意図はアメリカ合衆国政府の公的 使節として、日本国政府との通商を求める ものでした。 ビッドル艦隊は武器、乗員とも桁外れの 大船で、日本人が始めて目にした実物の軍 艦は江戸湾に設置されたすべての台場の 大砲の数よりも多く、それが自在に動き回 ることで、台場もさほど効果がないことを 思い知らされました。 幕府はビッドル提督の申し出を拒否した ため艦隊は野比沖を離れましたが、この事 件は徳川幕府が鎖国政策の一環としてと って来た大船建造禁止を廃止させるきっ かけともなりました。
江戸湾を去るビッドルの艦隊 (三浦半島通史より)
三浦半島の台場・陣屋分布図
海防陣屋跡の碑(三浦市・上宮田)
1847(弘化4)年、三浦半島の警備を命ぜられ た彦根藩主井伊直弼が上宮田に三浦郡・鎌倉 郡の軍政の本拠を置いたところです
ペリー上陸記念碑(久里浜・ペリー公園)
碑文は伊藤博文の筆で「北米合衆国提督伯 理上陸記念碑」と刻まれています

ペリー来航と狂歌
ペリー来航当時の人々の様子を詠んだ狂 歌が残されており、人々の驚きやしたたか さを知ることができます。 「泰平のねむりをさます上喜撰 たった四杯で夜もねられず」 *上喜撰はお茶の名、蒸気船に かけていて杯は船を数える単 位ともなっています 「陣羽織 異国から来て洗いはり ほどいてみれば裏がたいへん」 *裏が は 浦賀 にかけてありア メリカ船を迎えて戦いの用意 をしようとしたけれどボロが でるばかりで大変 「武具 馬具屋 アメリカさまと そっといい ペロリ」 *騒ぎの中でもちゃっかり商売 して儲けた人もいたようです
ペリー肖像画(横浜開港資料館蔵)
勝海舟断食の碑(東浦賀・東叶神社)
勝海舟がアメリカへの航海に際し、航海の 安全を祈願して東叶神社の裏山で断食をし たと伝えられています
中島三郎助肖像画[中島義生氏所蔵 ・浦賀文化センター保管]
中島三郎助は和歌・俳諧・漢詩・書画などに も親しみ、特に俳諧では「木鶏」の号を持つ俳 人として知られ、五稜郭の戦いの最中にもし ばしば句会を開き 「ほととぎす、われも血を吐く思いかな」 を遺しています。 西浦賀の浦賀文化センターの中島三郎助資 料室には様々な関係資料が展示され、三郎助 の業績を今に伝えています
略 年 表
江戸時代(続き) 1818 ゴルドン乗船のイ ギリス船ブラザー ズ号、浦賀に来航 1820 幕府、会津藩主松 平容衆の相模海防 役を免じる 1821 川越藩、相模海防 役引継のため、家臣 を三浦郡に派遣し 調査させる 三浦郡のうち、金 谷村など17ヵ村を 川越藩、佐島村など 六ヶ村を小田原藩 領、平作村など十六 ヵ村を浦賀奉行の 役知とする 川越藩、公卿村名 主らを水主差配役 とし、一人限りの苗 字帯刀を許した 1822 安房方面に来航し いたイギリス船サ ラセン号、浦賀に入 港して薪水を求め る 1824 浦賀奉行小笠原長 休、三浦郡巡視の見 分を「甲申旅日記」 にまとめる 1825 川越藩、異国船打 払令を三浦郡領内 に触れる 1826 横須賀名主ら、江 戸、神奈川宿への旅 人が隣村大津村か ら乗船することの 禁止を領主川越藩 に願い出る 1829 田越橋荒浪により 破損、修理中の船渡 賃一人五文、中馬一 疋十二文への切替 を領主川越藩代官 所に願い出る 三崎大火、七十軒 焼失 1837 アメリカ船モリソ ン号、日本人漂流民 七人を乗せ浦賀沖 に到着 1841 竜崎戒珠三浦郡中 の寺院を巡回し、 「三浦諸仏寺院回詣 記」を著す 1843 川越藩大津陣屋の 建設を始める 走水村の旗立山、 十万台場完成 1844 川越藩、領分村々 に異国船渡来時の 心得を三回発す 1845 アメリカ捕鯨船メ ルカトル号、日本人 漂流民引渡しと食 料補給のため浦賀 入港を求める 1846 長坂村の塩場普請 にかかわる村方騒 動がおこる 東インド艦隊司令 長官ビットル、アメ リカ使節として軍 艦2隻を率いて浦賀 野比沖に来航 芦名村漁民、秋谷 沖にデンマーク船 ガラテア号を発見、 大津陣屋に注進 川越藩主ら52人、 相模海岸を巡見す る  浦賀奉行与力同心 が増員され、千駄ヶ 崎に台場築造が決 定 1847 猿島台場で始めて の大筒稽古実施 1849 三崎の漁夫、城ヶ 島沖にイギリス測 量船マリーナ号を 発見、イギリス船浦 賀へ入港 1851 浦賀奉行浅野長柞 、西洋式の台場を千 代ヶ崎に建設 1853 ペリー浦賀沖に 来航 ペリーら久里浜へ 上陸、応接係戸田氏 国書を受け取る ペリー明春再来を 約して浦賀を去る 1854 ペリー艦隊7隻、 江戸外湾に現れる ペリー艦隊マセド ニアン号、長井沖の 横根沖に座礁 日米和親条約締結 1855 中島三郎助、長崎 に赴任する勝安房 に同行 安政大地震により 猿島台場など損傷 をうける 萩藩、地震倒壊の 大津陣屋修理のた め、木挽、大工、左官 、屋根師を動員 1858 日米修好通商条約 締結 浦賀の宮原屋吉三 郎ら四人、干鰯問屋 再興について願書 提出 1859 アメリカ船、浦賀 に来航し、近くイギ リス船が来航し、開 国要求がある旨を 浦賀奉行に伝える 1860 咸臨丸、浦賀出港 (次ページへ続く)