ジュニア版 神社仏閣ミニ辞典        P 8
              ー入門篇、神道・民俗信仰の部ー 
        
                                                    参考文献日本の宗教(村上重良)
                    
                                    神道の成立(高取正男)
                                             
         日本の神々と社(読売新聞社)
                                                                神道事典(弘文堂)
  ほか 

・・・民俗信仰・・・

 
広辞苑によると、神道とは”わが国に発生した民族信仰”とあります。これを広義神道とすると民俗信仰も広義神道に含まれますが、ここでは神道を”神社で行われる信仰や特定の教祖や教えを持つ宗教”(狭義神道)として広義神道に含まれるそれ以外のものを民俗信仰としてまとめてみました。
 
 民俗信仰は広範囲にわたっており、祈りの形も様々で、とても全部をあげるわけにはいきませんが、日本で信仰されている代表的なものを拾ってみました。

 



エビス信仰

 
 生業(生活のための仕事)や福をもたらすと信じられている福神エビスにかんする信仰で福神信仰の一つです。
 エビスは釣り竿を持ち鯛を抱えた福々しい姿の神像として親しまれていますが、元来は蛭子尊(ひるこのみこと、日本神話でイザナギ、イザナミ二神の間に最初に生まれた子)であるといわれ、時代を経て漁業の神として漁民の間に信仰されるるようになったと考えられています。
 中世には商業の発達とともに商売の神としての性格ももちはじめ、関西では1月10日を「十日戎」として大阪市の今宮戎神社、西宮市の西宮神社が多数の参拝客で賑わいます。
 農村でも豊作を祈願する神として祀られています。


今宮戎(講談社・日本の祭り)


陰 陽 道
(おん
ょうどう)


 陰陽道は道教の陰陽五行説にもとづき天文・暦数(こよみ)・占いなどを研究し吉凶を定める思想です。

 陰陽五行説はあらゆるものは「木・火・土・金・水」の五つの元素(行)からできておりそれぞれ陰と陽があって互いにつながりあったり、戦ってすべての現象や運動が起こるという理論です。
 五行には陰と陽があるので
  「甲=木の陽・・・キノエ」「乙=木の陰・・・キノト」
  「丙=火の陽・・・ヒノエ」 「丁=火の陰・・・ヒノト」
 ・・・・・となりこれを十干と呼びます。
 これを十二支(子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥)とむすびつけて、年、日、時刻、方角、などあらゆる現象にあてはめます。

 陰陽道は古代では公家の政策に、中世では武家の戦術にとりいれられ一般民衆の間にも浸透し、近代にいたり、迷信打破の考えから表面的にはかげをひそめましたが、今なお婚礼・葬式の日取り(大安、仏滅)方位(鬼門)など人々の間に根強く残っています。


 
陰陽師安部清明(921〜1005)

 安部清明は大化の改新政府の左大臣阿部倉梯麻呂の子孫といわれ、天皇をはじめ朝廷貴族の占いに従事し名声がきわめて高く、後世わが国第一の陰陽家とされました。子孫は陰陽道をもって朝廷に仕え土御門(つちみかど)家といいました。
 夢枕獏の原作「陰陽師」は安部清明を主役とする神秘的な世界を描いたものですが映画やテレビドラマともなり、陰陽師ブームをひきおこしました。

六十花甲子表













   
 



赤字は十二支


青字は十干












  





  




































 中国では古くから十干と十二支が組み合わされ、「六十花甲子」とよばれ年を表わすのに使われました。
 日本でも壬申の乱や戊辰戦争などと使われ、神武天皇が即位された辛酉の年は革命がおこるとされました。


観音信仰
(かんのんしんこう)

 
 観音菩薩は各時代を通じて最もひろく信仰された仏で観音という呼び名は法華経の中に「人々が一心にその名を唱えるとその音声を聴いて救いに現れる」とあることに由来しています。
 観音菩薩が三十三に姿を変えて人々を救うとされることから、平安時代には貴族の霊場詣でや修験者の諸国霊場巡礼が盛んになり、平安末期には西国三十三所巡礼が生まれますが、江戸時代には商人や農民など一般庶民もこの観音霊場めぐりに参加し、更に坂東三十三所と秩父三十所をあわせ日本百観音霊場が成立します。
 これにより民衆は宗派を超えて、霊場巡りを楽しむようになります。
 観音菩薩は三十三に変身することからさまざまな観音が現世利益
(げんぜりやく、死後の極楽世界のこと=来世利益=ではなく現世で実際に得られる利得や幸せ)を求める民衆に信仰されます。
 
馬頭観音像が馬の守護神として江戸時代にはひろく交通業者の間で信仰されあるいは旅の安全を祈るものとして峠などに安置されるようになり、またマリア観音像が聖母像の代わりとして隠れキリシタンにひそかに礼拝されてきました。

杉本寺(鎌倉市)
杉本観音として親しまれており、鎌倉最古の寺ともいわれ、寛和2年(986)板東三十三所の一番札所と定められとされています

 
庚申信仰
(こうしんしんこう)


 庚申(かのえのさる)の夜に身を慎んで徹夜すると長生きできるという信仰で、その起源は中国の道教で説く三尸(し)説です。
 
 三尸(し)説では人間の体内には三匹の虫がいて庚申の夜、人が眠っている間に天に昇りその人の悪口を天の神に告げるので、それを防ぐために徹夜してこれを避けることが説かれており、これを守庚申といいます。
 この
尸説は8世紀ころ日本に伝わり10世紀になると天皇を中心とする守庚申が宮中で恒例として行われるようになり、やがて仏教と結びつき青面金剛(密教の神)を祀るようになります。
 江戸時代には一般庶民の間にも普及し庚申講が組織されるとともに仲間とともに徹夜して祭事を営む風習ができ、
庚申塔の建立も盛んに行われるようになりました。
 明治時代には神道の国教化政策の影響を受けて神道と習合し
猿田彦大神も祀られるようになります。

庚申塚(横浜市金沢区、三艘)
向かって左は青面金剛、右は三猿を刻んだ石塔





御霊信仰
(ごりょうしんこう)


 御霊とは災害をもたらす強い霊を敬った呼び方でこれをなだめ抑えるのを御霊信仰といいます。不幸な死に方や非業の死を遂げた人の場合霊魂は安定した場所を失い浮遊し「物の怪」「怨霊」「無縁仏」「幽霊」となってさまようとされました。

 祇園社(八坂神社)は876年に疫病が大流行した時、占いで仏教の牛頭天王
(ごずてんのう)の祟りとわかり平安京に牛頭天王を祀ったのがはじまりです。 
 もともと農耕儀礼にはじまった神社の祭りは春と秋の夜間の祭りが基本でしたが、都市では人口の集中により夏季の疫病の流行が多く、この強い霊を鎮めるために,御霊の祭りは昼間のはなやかな夏祭りとし行われ、やがて神社の祭り自体が昼間の行事を中心とするようになりました。
 御霊信仰は都から地方に広がり、農村では病虫害などを抑える御霊の祭りが普及しました。

祇園祭(山鉾巡行)
 元来は祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)とよばれ疫神(御霊)の退散を祈願して矛60本を立てたのがはじまりといわれます。現在巡行する山鉾は31基で山鉾巡行は国の重要無形文化財となっており7月中〜下旬に開催。


山岳信仰


 わが国には昔から人里はなれた山や海などにこの世とは別の世界(他界)があるとする信仰がありました。なかでも山岳には稲作や生活に必要な水などをもたらす神がいると信じられ人々は山を霊地として崇め、山に入ることをタブーとし山麓に祠を作ってそこに山の神を招いて豊作や生活の安定を祈りました。
 [山 伏]
 やがて山林修行を重んじる仏教や道教が伝来すると山岳に積極的に入って修行する宗教人(密教の修行者、神職、陰陽師)が現れてきますが、そのうちの加持祈祷にすぐれた人が修験者といわれるようになります。
 修験者は山中の大地に身を伏せて山の神の不思議な力を直接身につけることから山伏ともいわれました。
 鎌倉時代に入ると各地の霊山で山岳修行を行っていた宗教者は独立した集団をつくり戦乱が続いた中世には各地の山野を渡り歩き武力集団化します。
 江戸時代になると幕府の政策もあって山伏は村や町に人々の現世利益的要求にこたえて加持祈祷、調伏(呪い殺す)、憑き物おとしなどの活動に従事しました=里山伏。

日本の主要山岳霊場


大黒信仰
(関連・
大黒天)
 


 大黒天は七福神の一つで右手に打ち出の小槌、左手には袋を背負い、俵を踏んでいる姿が有名です。
 大黒天はマハーカーラと呼ばれるインドの神が最澄によってもたらされた天台宗の寺院で厨房に守護神として祀られましたが、中世以降の神仏習合の進展にともない大国主命(オオクニヌシノミコト)の大国と大黒の音が通じ合うことから、両者が混同、同一視され室町末期には民間にひろまり、エビスと共に台所やかまどに祀られるようになります。
 大黒天は商人には商売繁盛の神として、また農村では稲の豊作をもたらす田の神として信仰されるようになりました。

 人々に親しまれた大黒の名は大黒柱、大黒煎餅、大黒傘、大国舞など身近な生活にかかわるものに取り入れられるようになりました。


田の神として祀られる大黒天
(大国天信仰と俗信・雄山閣出版)


地蔵信仰


 地蔵菩薩は釈尊入滅後、弥勒菩薩がこの世に現れるまでの仏のいない時代に六道にさまよって苦しむ人々を救う菩薩でしたが、日本では、中世後期から近世にかけ、さまざまな民間信仰と習合し、本来の経説(お経に書かれたおしえ)の枠を超えた独特の信仰を形成します。
 地蔵菩薩は信者の身代わりになってくれる身代わり地蔵への信仰へと発展し、江戸時代には更に現世利益的になり延命地蔵(長寿)、子安地蔵(育児)、田植地蔵(農作業)など民衆によって多くの地蔵が作られました。
 また地蔵菩薩が六道を巡って人々を救うことから六地蔵信仰も生まれ、子供の守護神ともされ、死んだ子供の救いを親は赤いよだれかけを掛けて地蔵に祈ります。
 
 ♪石の地蔵さんのよ 村はずれ
 と歌われた地蔵尊はあらゆる場所に現れて人々を救うと伝えられ、また道祖神とも習合したことから村境などに多くの石仏として祀られました。
 


延命地蔵(横浜市金沢区、光明院表門前)


道祖神(どうそじん)信仰


 道祖神(サエノカミともいいます)は集落の外部から侵入してくる疫病や災害などをもたらす悪霊や神を防ぐために村境や辻に祀られた神でご神体は自然石や男女二体の石像などです。

 道行く人の安全をまもり、境は地理的なものだけでなく、この世とあの世との境界とも考えられています。
 道祖神の祭りは毎年小正月に火祭りとして行われどんど焼きと呼ばれ、村境や四つ辻で竹や緑の杉の木を中心にして円柱状や円錐状に門松や正月飾り、書き初めを一緒の燃やしてこの火で餅や団子を焼いて食べると無病息災で書道、学問が上達するといわれてきましたが、どんど焼きは現在では道祖神とは関係なく、門松やしめなわなどをまとめて外で燃やす一般的な正月の行事となっています。

どんど焼き(横浜市金沢区、海の公園にて)
地方によっては左義長(さぎちょう)とも呼ばれています

前ページへ

次   へ

トップページへ