寺嶋南洋「鐘楼堂再建ノ顛末ヲ記ス」


この文書について
  • この文書は、田並・圓光寺の寺嶋南洋和尚が明治28年(1895)春に書いたものである。鐘楼堂再建の経緯を記して、最後に妙心寺から下付された表彰状を載せている。
  • 原文は縦書きである。HTML化するに際して、句読点をほどこした。改行は原文のままである。旧漢字は出来るだけ現行のものにした。
  • 注は末尾にまとめて置いた。





【1頁】

鐘楼堂再建ノ顛末ヲ記ス


当山往昔の事徴すべきの紀なしと雖とも、
父老の口碑に存するものを聴くに、当寺屡
梵鐘を鋳造するも往々其鳴を失するのみと。
適先師並注1東堂の代に至り、浪注2より一
古鐘を購ひ来り。爾来之を楼中に懸け以
て法要の器となせしも、図らざりき明治十八年
秋、忽ち風伯の怒に触れ鐘楼悉く破壊し、
独り梵鐘の依然として圓音を発するのみ。


【2頁】

於之先師再び再築を計画せしも、時機未た
熟せず、空しく老退するの止むを得ざるに至れり。
明治廿二年春不肖南洋の当寺に住するや、
窃に寺門の修造を以て自任し、第一着歩
として鐘楼の再搆を企図せり。然るに幸
にして、時の檀家総代山本宇平治山本
常次郎の両氏も亦、夙に予と其意を
同ふし、期せずして一口に出で、超へて貳十
四年三月某日遂に檀越諸士を会し、以
て予輩の素願を訴ふるや、檀頭小野


【3頁】

村上等の諸氏は、啻に巨額の金を喜捨せし
のみならず、進で発起の任に当らんことを約
せられ、議忽ち決す。此時に当り海老名虎
注3の如きは、絶海万里の外幾多の星霜
を閲し始めて帰郷せし紀念として、不尠
浄財を寄附せらるゝに至り、数日にして
壱百余圓を募集し、同年八月始めて
土木を起し、工匠太地清右ヱ門を以て棟
領となし、檀家総代山本常次郎氏を挙
げて専ら之が監督に任ず。氏や熱心夙


【4頁】

夜工を役し、同年十一月下澣工事全く
竣へ、高壮偉大なる鐘注4を建築し、寺
門の荘厳旧視に復するのみならざる也。
其十二月七日を卜し注5、派内寺院十有
余ヶ寺浦方外居士を始め檀徒諸士
百有余名を招し、以て竣成の盛典を挙
行せり。
翌廿五年一月、予は其情状を記し教務
本所及び本派の機関たる正法輪協会
に報ずるや、同会は其月十五日刊行
の誌上に於て建築当時の事情及落成式
当日の盛況等を詳記し、教務本所は
同廿八年一月廿三日附を以て、別項記載の
連名に対し賞状及開山絵伝等を下
附し、以て其功労を表賞せられたり。

嗚呼、我檀越諸士が教法に帰敬せらる
ゝの厚き一に何ぞ茲に至る。余輩千秋
の後、後統末裔たる者をして寺門の沿革
如何を知らしめ、以て諸士が奮励の功果


【5頁】

を謝せずして可ならんや。
鐘楼再建の顛末を記すること如斯。


 本派管長猊下下附賞状写
  紀伊国本派四等地圓光寺檀徒
           某甲
右圓光寺鐘楼堂新築ニ際シ斡
旋周到檀徒ノ本分ヲ悉クスニ於テ
間然スル所ナシ以テ平素我宗ヲ信ズルの篤
キヲ証明スルニ足ル仍テ爰ニ本山開山
国師御絵伝ヲ贈与シ其勤労ヲ表
賞ス
  明治廿八年一月廿三日
  妙心寺派
   管長 蘆 匡道


【6頁】

    圓光禅寺第十一世
      南洋 注6 謹誌
明治注7八初春






    【注】

  1. 並州:戸籍では「并洲」、「梅花図」署名によると「并州」である。
  2. 浪速:底本では「浪」の代わりに、「“しんにゅう”に良」と書いている。
  3. 海老名虎吉氏:山本逸郎氏のご教示によると、海老名虎吉は記録に残る田並の海外移民の第1号で、明治17年に豪州に渡り同23年に帰村した。別掲「鐘楼堂再建喜捨牒」の寄付者名簿の冒頭に「一金四拾圓 海老名虎吉」とある。それに続くのは「拾圓」1人、「五圓」3人であり、海外移民帰りの海老名虎吉の「四拾圓」はインパクトがあったのであろう。
  4. 鐘楼:現在の鐘楼堂の写真(2003年4月6日撮影)。
  5. 卜し:底本は「トシ」と書いている。これは「卜し ぼくし」の意であろうと考える。
  6. :不明。禅宗で自称の署名にこのように書く例があるのかどうか、調べている。
  7. :「廿」と同義。





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以上き坊(2014/02/14)