寺嶋俊巌「石垣建設の寄付帳」


この文書について
  • この文書は、田並・圓光寺の寺嶋俊巌和尚が大正9年(1920)2月に書いたものである。
  • 圓光寺の石垣建設などのために檀家に寄付を呼びかけた寄付帳の前文であるが、先代の経道和尚がなしとげた鐘楼堂・本堂などの再建事業を歴史的に振り返っているところに特徴がある。そして、自分が目差す石垣建設などの事業は経道和尚の事業を継続しその完成となるものであると位置づけている。
  • ■は不明字を表す。旧漢字は現行のものに直し、原文になかった句読点をつけた。改行は原文に従った。読みにくい所に振り仮名をおぎなった。
  • 注は最後にまとめて置いた。





【1頁】

先に当寺先師経道東注1在職中
壇信徒諸氏の溢るゝ如き信條と熱烈
なる努力の結果、鐘楼堂の新築并に本堂の建
築を成就し、引続いて観音堂の建築及び側面石注2
築造乃至納屋貳棟の建て増しをも完成して、実に
其面目を一新した注3。予俊巌乏しきを以て敢て先師の後


【2頁】

を享け、爰に拾星霜になんなんとす。此間常に予の念頭
に往来して、寤寐ごびにだも忘る可からざるは、今や殿堂は巍
々整然として間然する所なきも、更に前面石垣の築
造及び山門の築造併に書院の建築を終へて当
寺内外の設備を完全にせんとする一事にあり。爾
しばしば是を有志に謀りしが幸に諸氏の賛する


【3頁】

所となり、時機いよいよ熟し一二年前より波濤万里
を越えて外国に奮闘努力せる我壇信徒諸
■■注4神戸に新宮に居を移して拮据黽勉きつきょびんべん
せられつゝある壇信徒諸氏より、浄財一千余金
を喜捨せらる。於爰ここにおいて弥よ村内壇信徒諸
氏の寄付を乞ひ、石垣の築造を初めとして


【4頁】

追々他の建注5をも竣成し、以て素願を成就
せんとす。希くは諸氏予の微衷の存する
所を察し、応分の喜捨あらん事を。


大正九年貳注6


      圓光寺住職   寺嶋俊巌
      同寺檀徒総代 小野常右ヱ門
      同         亀岡直助






    【注】

  1. 東堂:禅門で引退した住職を指す語
  2. 側面石垣:下に出てくる「前面石垣」に対する語。経道和尚「本堂再建寄付帳」には「裏門の石垣築造と井堀をも完成し」と記されているのに相当するのだろう。寺院敷地東側境界に沿った石垣。なお、俊巌和尚が築造した「前面石垣」は南側境界の道路に沿っている。
  3. 面目を一新したり:先代経道住職の数々の普請業績を挙げている。別掲の「本堂再建寄付帳」、「鐘楼堂再建喜捨牒」を参照のこと。
  4. ■■:虫喰いによる難読個所。「亦は」か。
  5. 他の建築:従来、俊巌和尚の業績として石垣築造に焦点が当てられるが、山門・書院の建設をも行ったことを忘れてはならない。
  6. 大正九年貳月:この文書の日付が、どのタイミングのものであるのか、問題が残る。石垣築造に関して「大正九年春」と刻んだ石が現存している(写真参照、石垣築造記念2011年9月24日撮影)。上で「一二年前より」海外移民檀家などから寄付金が集まっていると述べていることからすると、「大正九年貳月」には既に工事が始まっていた可能性がある。あるいは石垣築造は「竣成」していたのではないか。「追々他の建築」を行って素願を成就したいというのは、山門・書院の建設はこれからなのであろう。俊巌和尚はそういうタイミングで「村内壇信徒諸氏」に対して寄付を呼びかけたと推測できる。




経道鐘楼堂再建喜捨牒 鐘楼堂再建ノ顛末ヲ記ス 本堂再建寄付帳   俊巌石垣建設の寄付帳

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以上き坊(2014/2/13)