寺嶋南洋「鐘楼堂再建喜捨牒」   -清書版-


この文書について
  • この文書は、田並・圓光寺の寺嶋南洋和尚が明治24年(1891)3月に鐘楼堂再建の寄付を募るために作成したものである(下に見るように和尚は「寺島」を使用しているが、戸籍上は「寺嶋」である)。この文章に続いて寄附金額と寄付者の名簿がある。また、この文書とほぼ同文の下書きが残っている。そのためにこれを「清書版」と称することにした。鐘楼堂は翌年秋に竣工したが、その経緯は南洋和尚による「鐘楼堂再建ノ顛末ヲ記ス」(明治28年)に記されている。
    これら文書はいずれも田並・圓光寺に保存せられている。
  • 原文は縦書きである。HTML化するに際して句読点をほどこした。改行は原文のままである。旧漢字や異体字は現行のものに出来るだけ直した。
  • この時南洋和尚は三十歳で、活きのいい格調ある文章であるが、やや長文のところもある。他宗である本願寺の再建成功をあげてその信仰心の発露を称揚しているのは、なかなか大胆な寄付依頼と言えよう(東本願寺の御影堂は明治13年起工し28年に竣工したが、それを指すか)。





【1頁】

鐘楼堂再建喜捨牒


梁之武帝達磨大師に問ふ。曰く、造寺度僧何の
功徳かある。磨曰く、無功徳と。今や当山功徳
乃有無に拘らず、爰に鐘楼の再搆を企図するものは
抑も亦故なきに非ざるなり。惟ふに宗教なるものは
社会生存の一大要素をなすものにして、人心を支
配し道徳を維持するに於て非常の勢力を有する
ものたるは古今東西の学者皆以て然りとする所なり。
之は歴史に徴し事実に推すに宗教隆替の


【2頁】

結果は引て社会の事態に及ぼす顕象歴然と
して、敢て見難きを覚えざるなり。故に少しく方
今の情勢を察し得るものは、苟くも緇素を論
ぜず鋭意熱心に是が拡張を謀り、或は海外の
宣教を試み、或は内地の伝道を隆にし演説に
育才に其方法一にして足らずと雖ども、将来益
教線を伸張せんとするの今日に当り、寺観堂
宇の増築再搆を促さヾるを得ざるは、洵に不
得止の状勢なり。故に各宗諸派到る處として土
木の起らざるなし。就中真宗本願寺の如きは巨万
の資材と幾多の星霜とを費し、巍乎として空に


【3頁】

聳へ、燦然として目を奪ふの大伽藍を竣工するに
到れり。聞く内外人にして一度此地に遊び此工事を目
撃せし者は、其規模の盛なるに驚ろき、且彼等信
徒が宗教に対する熱情を発露せしを感歎せざる
ものなしと。是徒らに外観の美を装ふものにあらず、実
に其必要を感ずる所以のものあるを以てなり。予の初
め当山に住するや、堂宇を一観して窃に遺憾に
堪えざるものあり。彼の鐘楼の如きは往年風伯の為
に破壊せられ爾来未だ再搆を果さず、荏苒殆んど
十星霜を経過せり。予輩竊に焦心苦慮する所
ありと雖ども時機未だ熟せず、徒らに自己の薄徳浅


【4頁】

信を憾むのみ。況んや頻年荒凶相踵ぎ、往々菜
色の人あるに於てをや。今や春風駘蕩として氷
雪全く解け花唇笑を呈し柳眼眠を催すの好
時機となり、世間又不景氣の嘆声を聞かず。
陽気藹々として人皆陶然悠然たらんとす。爰
に於て宿志復た勃然として禁ずべからず。乃ち二
三有志の士に就て再搆の挙を果さんことを謀る。
幸に其賛助を得たり。予が積年の計画漸く
緒に就き、至愉極快謂ふ可からず。遂に諸君に向
て微衷を訴ふるの不可止に至れり。諸君の炯眼
なる夙に方今の状勢を洞観し、奮て浄財を喜捨


【5頁】

せられんことは窃に期して疑はざる所なり。果して諸君
協賛の力に依り壮観偉大なる鐘楼の竣功を見
るに至らば、豈啻予輩及発起人の希望を満
足せしむるのみならんや。若し夫れ建築の方法
に至つては別に有司の設計あるを以て、敢て茲に
贅せず。


   明治二十四年三月

   寳珠山圓光寺住職
      寺島南洋


【6頁】

   檀家総代
      山本宇平治
      山本常次郎
      温井良造

   発起人
      小野常右ヱ門
      辻内甚平
      村上安兵衛
      尾崎栄作


【7頁以下】

鐘楼堂再建費寄付者芳名  [以下略




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以上(2014/02/10)