実利行者立像の讃解読 sdノート 目次




田並・圓光寺の『紀伊續風土記』 -改訂版-



目次
《1》 概観
《2》 「飜刻趣旨」について
《3》 神職取締所と南方熊楠
《4》 寺嶋并州の圓光寺
《5》 南洋経道の「本堂再建」
《6》 俊巌の時代



(1) 概観


この小編では、『紀伊續風土記』にまつわるわたしの個人的関心や思い出を通して、わたしがお世話になった田並・圓光寺の、明治・大正・昭和の歴史の一端を書きとめておきたい。田並というのは南紀の地名で、串本から6kmほど西方にある、枯木灘に沿った海辺の村(現在は串本町田並)である。

わたしが実利行者に興味を持ちはじめたのは、すでに何度か書いているが、1989年の夏に那智の実利行者の墓を尋ねた頃からである。古い友人である寺嶋経人氏の案内で墓を探したことは旧稿「南方熊楠の日記に見える捨身行者・実利」(1989)で述べた。

わたしが寺嶋経人氏と知り合ったのは1960年代なかばの東京で、お互いに学生だった。氏はもともと南紀のお寺の家系に生まれた方で、若い頃文学や演劇に熱を上げて“坊さん”人生に叛旗をひるがえすことがなければ、立派な僧侶になっておられたと思う。しかしその場合、わたしと彼とは巡り合っていなかったであろうが。
氏は大学を出た後、出版社のアルバイト仕事などでしばらく食いつないでいたが、結局東京での生活に見切りを付けて郷里に戻り、和歌山県の中学校教師となった。山間の僻地校を受け持ったり賑やかな海沿いの町の学校に務めたり、公立学校の転任のままあちこちを移り住んだ。わたしは氏の住所が変わるたびに南紀の未知の土地柄を味わうべくそれぞれの土地で数週間の逗留をさせてもらってきた。

寺嶋経人氏の人となりを知るのに絶好であると思うので、本サイトに収めてある彼の文章を紹介しておく、寺嶋経人 作品。殊にその中の「血縁と地縁と」(1996)には曾祖父・野原祖明の墓と偶然にめぐり会ういきさつが書かれている。

寺嶋経人氏は、父・俊人が若くして中国戦線で戦病死したために、少年期以降を祖父に育てられている。臨済宗妙心寺派の田並・圓光寺の住職として人望のあった俊巌しゅんがん和尚(明治16年1883~昭和41年1966)である。

俊巌は野原氏で、本宮町の淵龍寺の次男として生まれた。本宮町と聞いても多くの方は何の印象も湧かないだろうが(わたしが最初はそうだった)、熊野本宮大社の“本宮”で、山深く谷深いところである(現在は田辺市)。淵龍寺の位置する谷あいの集落は、つぼ湯で有名な湯峰温泉と山ひとつへだてたところで、そこの教員住宅にわたしは半月ほど逗留させてもらったことがある。
俊巌は少年時代に田並の圓光寺へ小坊主として出された(山本逸郎氏のご教示による)。下で述べるが、当時(明治初年から20年代前半)圓光寺は寺嶋并州へいじゅうとその養子・経道の二人の有力和尚がいて、南紀地域の教育・文化に重要な地位を占めていたと考えられる。俊巌少年はその才智を認められ京都の花園中学(妙心寺派)に進学し、さらに東京へ出て東京専門学校(早稲田大学)に進んでいる。そこでは坪内逍遙や島村抱月の講義を聴いたという。卒業(明治41年1908)の後は、その弁舌を生かして妙心寺直属の説教師として全国を回った。

経道(文久元年1861~昭和12年1937)は大橋氏(美濃国)で、寺嶋并州和尚の養子として田並・圓光寺に入っている。圓光寺の鐘楼堂再建を記録する文書(鐘楼堂再建喜捨牒)に明治24年(1891)3月の日付と「圓光寺住職 寺嶋南洋」の署名が残っている。それゆえ、少なくともこれ以前に圓光寺住職となっていることは確かである(「南洋」は経道和尚が若い頃使用していた名前である)。

経道は、その才能・人格群を抜く人物であったらしい。鐘楼堂再建の経緯を妙心寺に報告し、妙心寺から表彰されている。さらに経道は建築以来180余年になる本堂の再建という大事業に挑戦し、明治39年(1906)に見事にそれを成し遂げている。これらについては、より詳しく第5節で述べる。
経道のこれらの事跡は妙心寺や南紀周辺寺院に広く知られていたと思われる。経道は妙心寺派寺院住職の投票によって選出される本部役員に明治40年に当選している。次は、その時の挨拶状。
謹告

這回しゃかい今回]教務本所職員選挙の際は公明なる諸師の投票により大多数の得点にて当選の栄を荷ひしは小衲しょうのう僧の自称、小生]の深く感謝する所なり(中略

  明治四十年七月        寺島経道
   本派諸刹諸大和尚 三応下

この資料は、田並の郷土史家・山本逸郎さんが妙心寺からお取り寄せになったもので、経道の教務本部への就任の年月を直接示す貴重なものである。この「教務本所職員」の任期は5年間であったようで、経道は2期務め、後半の明治45年~大正5年の5年間は第一部長の要職にあったことも今回山本さんの調査で明らかになった。
経道は明治40年から大正5年の10年間を京都の妙心寺で過ごした。日本全国に広がる妙心寺派の本寺教務部の「第一部長」は、巨大組織の重要位置にある要職であったと考えられる。彼はそういう職にふさわしい能力と見識を有していた人物であった。

俊巌は経道和尚の娘と養子縁組(明治43年1910)をして圓光寺・寺嶋氏に入籍した。経人の父・俊人が生まれたのは大正2年(1913)である。経道が妙心寺から戻ってきた田並・圓光寺には長く隠居生活をしている養父・并州和尚と娘婿・俊巌がいた。おそらく疾うに計画していたことだろうが、経道は圓光寺を俊巌に譲り、自分は和歌山・金龍寺の住職となっている(「金龍寺丁」という町名が現存していることからもわかるように、大きなお寺だったようだ。城下町和歌山の金龍寺は田並圓光寺とは比べものにならない高い寺格であったであろう。なお、和歌山城が焼失した昭和20年(1945)7月9日の和歌山大空襲の際に金龍寺も被災し、経道和尚の事跡の多くは失われてしまったという)。

俊人は龍谷大学を卒業し僧侶の資格を持っていたが、父・俊巌が健在であったので圓光寺の副住職であった。地元の田並小学校の教員となり、さらに御坊商業学校(後の県立紀央館高等学校)、和歌山工業学校(後の県立和歌山工業高等学校)の教諭となっている。俊人は、俊巌の妙心寺時代の親友である隣村江田の海蔵寺住職・西山義英の娘と結婚し、御坊や和歌山で所帯を持ち、息子経人らを得る。しかし不幸なことに、俊人は昭和19年(1944)に召集され中国戦線で戦病死する。享年三十二歳。

上に示したように、圓光寺の住職の流れが分かる系図を作ってみた(二重線は養子ないし姻戚関係を表す)。南紀のお寺は各村落毎にあるといってもいいぐらい分布しているが、その住職は代々養子縁組と血縁の網の中で受け継がれてきている。村落毎に檀家数は限られており、小さな集落での寺の経営は容易ではないという。その中では田並・圓光寺は檀家数の多い方である。
俊巌の戸籍で確認することが出来たが、并州はもと尾張の伊藤氏で、経道の養父・寺嶋并州とある。すなわち、伊藤氏から田並圓光寺の寺嶋氏に入籍したのである(実際には、明治七年に寺嶋氏として「定籍」。なお、戸籍では「并洲」とサンズイがある)。江戸時代には養子縁組で代々住職を継いできたのであろう。僧侶の婚姻を認めるようになり明治以降は男子が無い場合に養子を取ることがあった、ということになる。(なお上の系図では、出来るだけ個人名を出さない配慮から、「男」「女」としている。

◇+◇

わたしは寺嶋経人氏とは1960年代半ばからの長いつき合いなのだが、俊巌和尚がお亡くなりになってから経人氏は圓光寺と直接の縁が切れていたためであろうか、わたしが初めて圓光寺に行ったのは遅く、1995年の夏のことである。
その時に、次のような俳句を作っている(熊野夏より)。

田並の円光寺は、寺嶋経人氏が生まれ育った寺である。枯木灘に向かいあう田並は小村で、海岸から軒の混んだ路を曲がって行くと立派な石垣に突き当たる。その石垣の上が円光寺だった。境内にはビャクシンの老木があり玄関近くにはソテツの巨木が腰を屈めている。忠魂碑の前の桜の木にはクマゼミが集まり喧しい。遠い昔、経人少年が勉強部屋にしていた部屋や彼を育ててくれた祖父俊巖和尚の居間などを教えてもらう。ひろい本堂の廊下で横になっていると、海からの風が通り、半睡の意識の中でイソヒヨドリが良くさえずる。
肘枕杉板廊下の深き皺
磯鵯や少年の夢夏遠き

当時わたしは経人氏から少年時代の海や山での話は聞いていたから、初めてうかがった圓光寺にある種の感慨を持ったのを、自己流の俳句にしたのである。また、拙稿「南紀旅行 2003年春」に出てくる「E寺」が田並の圓光寺である。そこの写真は、冒頭から満開の桜までの6枚はすべて圓光寺で写したものである。

それから3年後の2006年6月にわたしは田並・圓光寺を再訪している。そのある日、本堂横の小部屋の戸棚を整理していて、『紀伊續風土記』(和歌山県神職取締所発行 明治43年)5冊をみつけたのである。

背表紙に革を使用した立派な本で、ご覧のように少し痛んでいるが、わずかの虫喰いがある程度で中身は完備している(上掲の写真は、新たに(2010年12月)寺嶋経人氏に撮影していただいたもの。なお、国会図書館デジタル化資料からpdfファイルとして参照、ダウンロードすることが可能である、【 ここ)。

『紀伊續風土記』を見つけてから数日後、わたしは南紀の山中でシーボルトミミズを写している。経人氏によると、この巨大ミミズはウナギ釣りの餌に最適で、少年時代にウナギのモドリ籠を仕掛ける際によく使ったものだそうだ。そして、「この辺ではカブラタという」と話してくれた。
わたしはさっそく『紀伊續風土記』をを引っぱり出して調べ、「第三輯」(「輯」は「シュウ」で「集」と同義)の「物産」のなかに
カブラミミズ 本草 ○和名鈔可布良美須牟婁郡にてカブラタ
とあることを知った。『紀伊續風土記』は「カブラミミズ」という項目を立て、「和名抄には可布良美須 カブラミミズとあり、牟婁郡ではカブラタという」と述べているのである。このことは「き坊の近況」6/20-2006以下で扱った。

この有名な『紀伊續風土記』(次節で見るように、初版1000部のうちの1部がここにある)を購入するだけの眼力をもっていたのは、歴代のどの住職になるのだろう。そういうことにわたしの関心が向かい始め、圓光寺の近代の歴史を調べてみたいと思うようになった。


(2) 「飜刻趣旨」について


『紀伊續風土記』は和歌山藩が編纂した地誌として有名である。
編纂は文化三年(1806)に開始され、途中で中断もあって、完成したのは天保十年(1839)のこと。仁井田好古よしふる・南陽(1770~1848)が総裁で、仁井田長群、本居内遠、加納諸平らが協力した。全195巻のうち本編97巻、高野山81巻、古文書17巻という構成で、「高野山之部」がかなりの分量を占めている。
本編97巻と古文書17巻は、「提綱」(総論など)、「若山」(和歌山)、「名草」、「海部」、「那賀」、「伊都」、「在田」、「日高」、「牟婁」と地域ごとの地誌を順に述べて、更にまとめて「物産」、「古文書」、「神社考定」とあって、ここまでで「第一輯」~「第三輯」が終わっている。
「第四輯」と「第五輯」は、それぞれ「高野山部(上)」と「高野山部(下)」に当てられている。「高野山之部」のみは『続真言宗全書』に収められて公刊されている(「平凡大百科辞典」)。

つまり、『紀伊續風土記』全5巻といっても、そのうちの「第一~三輯」が紀伊国の地誌として本編というべきもので、「第四,五輯」は分量は多いがいわば附録で、高野山の部として別扱いされている。それを何よりも証するのは、「第三輯」の巻末に、和歌山県知事・川上親晴の「後序」、倉田績の「」があり、和歌山県神職取締所による「紀伊續風土記翻刻趣旨」が置いてあることである。

そのうち「翻刻趣旨」は歴史的な経緯や活字出版しようとする意図・意識がうかがわれる貴重な資料であると思うので、ここに全文掲示しておく。(できるだけ旧漢字を使った。数個の例外を除き原文に句読点はない。3個所の改行があり、ここではそこを1行開けにした。

紀伊續風土記飜刻趣旨


紀伊續風土記は天保年間紀伊藩公が藩の碩儒を網羅し莫大の經
費と十數年の歳月とを費して編纂せるものにして其の名著たる
こと素より言を俟たす、然れとも只僅かに寫本數部を傳ふるに
止り今にして之を梓に上さされは歳月と共に漸く遺脱缺亡して
遂に斯の名著も亦之を討ぬるに由なからんとす是に於てか本所
は微力敢て之か飜刻出版を計劃し明治四十年已來屡次役員を東
京、京都、大阪等に派出し以て其の設計を爲さしめ一面代議員を召
集して之が決行を諮り明治四十二年舊紀伊藩主家徳川頼倫侯の
承認を經遂に壹千部を出版することとなれり爾来縣内外の有志
深く本所の擧を賛せられ刊行に先たち豫約の數既に壹千を超ゑ
更に第二版の印刷に著手するの盛況を呈せり

本書出版の趣旨素より名著の保存にありて營利の目的にあらす
故に之を頒つに悉く印刷實費を以てし原稿謄寫通信運搬等の諸
費全く償ふ處なかりしも幸に印刷者帝國地方行政學會亦義侠的
に之か印刷を引受け爲に豫期以上の成績を擧くるに至れるは本
所の深く其の意を多とするところなり

又本書飜刻の計劃已来前本縣知事伊澤多喜男君は本所前總裁と
して前本縣事務官佐藤孝三郎脇田琥一柴田善三郎の三君は本所
長又は幹事長として本件の進捗に盡されたる勞甚た多く其の他
各郡市支所長及所屬の神職各位か賛成者勸誘に就き多大の盡力
を致されたるは本所の深く其の厚意を謝するところなり

茲に本書の出版に當り聊か其の趣旨の存する處を記し併せて其
の顛末を叙すること爾り

  明治四十三年十ー月

                    和歌山縣神職取締所

                        總裁   川上 親晴
                        所長   相良  歩
                        幹事長  齋藤 守國
                        幹事   紀    俊
                        幹事   奥 五十鈴
                        幹事   田村 和夫

「翻刻趣旨」の要点をいくつか拾い出しておこう。
  1. 紀伊藩が天保時代に編纂した名著であるが、写本数部が残るだけであること
  2. 明治40年に「紀伊續風土記翻刻」の計画を始め、同42年に旧藩主徳川頼倫に了解をもらったこと
  3. 1千部予約が一杯になる盛況で、第二版を計画していること
  4. 印刷実費だけで頒布できたこと
人名のうち「總裁 川上親晴」は和歌山県知事(明治42~44年)、後に警視総監、貴族院議員などになった人物。「所長 相良歩」は和歌山県庁の内務部長、県官僚のトップなのであろう。南方熊楠が明治43年8月に18日間の拘留を受けるのは、相良歩の講演会場に酔って暴れ込んだ、ことによる(後述)。

小論では、こうして予約出版された『紀伊續風土記』全5巻が、田並・圓光寺にどのようにして入ってきたかを知りたいのであるから、出版の年月日などが大事なのである。
同書「第五輯」に「奥付」があり、それは下図のようになっている。

発行を明治43年(1910)7月5日にしているが、上掲のように「翻刻趣旨」の日付は同11月である。
予約を取り始めるのは徳川頼倫に了解をもらってからと考えると42年から、計画開始からとすると40年から、ということになる。


(3) 神職取締所と南方熊楠


翻刻版の編集兼発行者である「神職取締所」について調べてみたのであるが、十分に分からない。
まず、主要な歴史事典の類が取り上げておらず、この組織が(1)できたのがいつか、(2)全国組織か、(3)位置づけ、などが不明である。インターネット上の情報から、判明してきたところを述べておく。
これらの、比較的信頼できるであろうネット情報から分かることは、明治27年(1894)までにはいくつかの府県で「神職取締所」が作られていたこと、和歌山県では「郡支所」がおかれている(前掲「紀伊續風土記飜刻趣旨」には「郡市支所」とあるから、「市支所」も設けられた)。

帝国憲法(明治22年1889 発布)では「信教ノ自由」(28条)をうたいながら、国家神道の大網を日本全体にかぶせようとする矛盾した宗教政策をとった明治国家は、第2次大戦で破滅するまでその矛盾をつきつめて行くほかなかった。すなわち「国家神道は宗教ではない」と言わざるを得ない一方で、天皇は「現人神」であった。
皇祖は神話上の天皇の祖先であり、神霊はまごうかたない宗教上の神格であったから、このような特定の宗教観念に立つ憲法に規定された信教の自由が、国家神道の枠内での信教の自由であり、人間の基本的人権としての信教の自由とは異質のものであることは、余りにも明白であった。帝国憲法は「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」との大前提にたち、祭祀大権の保持者としての天皇の宗教的権威を法的に基礎づけるとともに、天皇と直結する国家神道の公法上の地位を確立した。(村上重良『国家神道と民衆宗教』吉川弘文館2006、p15)
いずれ国家神道の確立の道筋のどこかで、「神職取締所」なるものが府県単位で作られたのであろう。この村上重良の本によると、官国幣社に「神職」が置かれたのが明治20年であり、神職を宮司・禰宜・主典の3階級とした。さらに、
(明治27年2月に)府県社以下の神職制度が勅令で定められ、これまで神官であった祠官・祠掌を廃し、地方長官が任命する判任待遇官吏の社祠・社掌をおいた。この職制で府県社と郷社には社祠1名と社掌若干名、村社・無格社には社掌のみがおかれることが定められた。(村上上掲書p23)
とあるところを見ると、明治27年に下級神社の職制を整備することが行われているので、仮説であるが、この段階(明治27年)で神職取締所が府県に設置されたと考えられる。全国に設置されたのかどうか不明であるが、おそらく建前としては全府県に設置されたが、積極的に活動したところとそうでないところとあったのではないか。和歌山県などでは郡支所も置き、きわめて活発に活動したのである。

日露戦争(明治37~38年 1904~05)の際に「戦勝祈願」や「武運長久」を祈願することが全国の神社で行われ、国家神道下での神社が国民の間に滲透する。この神社勢力の拡充にとって有利な状況下で、明治39年(1906)から神社の合併が計られる。勅令が出たのは明治39年8月である(この部分は村上上掲書 p25による)。
この勅令の4ヶ月後、和歌山県西牟婁郡は社寺合併の奨励を要請している。そこで動くのが神職取締所である。
明治三十九年十二月十八日、和歌山県西牟婁郡役所は政府及び県知事の訓示を受けて郡下町村宛に社寺合併の奨励を要請、その期限を翌四十年四月までと定めた。これにより、和歌山県神職取締所西牟婁郡支所からもまた各町村神職に宛て、町村長に助力し遂行すべき旨、通牒が出され、田辺・西牟婁地方の神社合併・合祀が急ピッチで進められることになった。西牟婁郡長楠見節くすみせつは、神職取締所長も兼ねていた。楠見は直属の部下数名を督励して各町村を巡らせ積極的に合併・合祀の実を挙げさせた。(中瀬喜陽、『南方熊楠を知る事典』講談社1993 p58)
楠見節の名は後にもう一度出るので、記憶しておいて欲しい。
和歌山県に於いては、神職取締所の総裁=県知事、所長=内務部長、郡支所長=郡長となっていて、行政組織と神職取締所とが完全に重なっていたことが注目される。神道関係の命令・指示が行政命令・指示として貫徹する構造を作っていたということができる。これが他府県ではどうであったのか、不明である。

南方熊楠の神社合祀反対運動は周知のこととして詳細は述べない。熊楠が「牟婁新報」に神社合祀問題で最初に投稿したのが明治42年(1909)9月27日号である。そのあとは毎号のように熊楠の論文が掲載されている。明治43年にかけて、熊楠は地元紙だけでなく、大阪朝日、東京朝日、大阪毎日などにも投稿、掲載されている(中瀬前掲書 p61)。
熊楠が「家宅侵入」の疑いで18日間の未決勾留をくらうのは、明治43年8月21日のことである。
紀伊教育会主催の夏期講習会が田辺町の田辺中学校を会場に開かれたおり、これまで県庁の社寺係を務め、合祀督励に再三田辺に来たことのある相良渉さがらわたるが、今度県の内務部長で紀伊教育会の会長として来田することを知り、熊楠は積年の思いを叩きつけるつもりで面会を求めたのである。(中略)熊楠は、ビールの酔いも手伝って、会場に押し入り、手に持っていた標本袋を会場に投げ込み、式場は騒然とした。(中瀬前掲書p62)
前節で掲げた「紀伊續風土記飜刻趣旨」によれば、『紀伊續風土記』の出版とちょうど同年のことで、そのときの和歌山県神職取締所・所長こそが「相良」であった(ここでは「紀伊續風土記飜刻趣旨」の「歩」を使う。中沢新一編『南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー』(河出文庫1991)の注も「相良歩」である)。

熊楠が「証拠不充分で免訴」釈放されたのが9月21日である。「人魚の話」(全集6 p305~311)を「牟婁新報」に掲載したのが9月24,27日であるから、釈放直後に書いたものと思われる。始めのところに、
さて、昔の好人すきびとが罪なくて配所の月を見たいと言うたが、予は何の因果か、先日長々監獄で月を見た。昨今また月を賞するとて柴庵(さいあん 「牟婁新報」社主、毛利清雅)を訪うたところ、一体人魚とはあるものかと問われたが運の月、ずいぶん入監一件で世話も掛けおる返礼に「人魚の話」を述べる。(p305)
とあるので、よく事情が判る(「罪無くして配所の月を見ん」は中納言・顕基(11世紀前半)の言葉。例えば徒然草第5段)。「運の尽き」をわざと「運の月」と遊んでいるところに、釈放された熊楠のいくらか弾んだ気持ちが現れている。

浜へ上がったアカエイの「肛門がふわふわと呼吸いきに連れて動くところへ、漁夫りょうし夢中になって抱き付き、これに婬し畢」るという話の後へ、
返ってこの近処の郡長殿が、年にも恥じず、鮎川から来た下女に夜這いし、細君蝸牛かたつむりの角を怒らせ、下女は村へ帰りても、若衆連が相手にし呉れぬなどに比ぶれば、はるかに罪のないはなしなり。(p307)
と記してからかっている(田辺市鮎川は大塔村の中心、鮎川温泉がある)。「郡長」は、次の引用で分かるように、楠見節のことである。
「十余年前、オランダの大学者シュレッゲル」とジュゴンを「落斯馬」と記すことに関して論争して、最終的には「予は君の説に心底から帰伏せり」という「なかなか東洋人が西洋人の口から聞くこと岐山の鳳鳴よりまれなる謙退けんたい言語で降服し来たり」という自慢話をしたあとで(「岐山の鳳鳴」は、周の文王の善政をめでて岐山に鳳凰が舞い降りて鳴いたという故事)、次のように今回の18日間の拘留を語る。
とにかくそれほどパッとやらかした熊楠も(中略)、相良無武さがらないむとか楠見糞長くすみふんちょうとか、バチルス、トリパノソマ同然の極小人に陥れられて、十八日間も獄につながるるなど、思えば人の行く末ほど分からぬものはありやせん。(p309)
相良歩が「県庁内務部長」であること、楠見節が「西牟婁郡長」であることをパロっているのはいうまでもない。既述のように、相良は「神職取締所・所長」を兼ね、楠見は「神職取締所西牟婁郡支所・所長」を兼ねていた。


(4) 寺嶋并州の圓光寺


田並・圓光寺は、寺伝によると慶長年間(1596~1615)に開かれ、開山は「法宿大徳和尚」という。并州は第十世に当たる。并州は天保十四年(1843)六月十日に尾張国中島郡一之宮東村の伊藤柱蔵の次男に生まれている(寺嶋俊巌戸籍による)。いつ田並・圓光寺に入ったのか不明であるが、おそらく小坊主に出され僧侶になる道を歩き始めていたのだろう。明治維新のときに(明治元年1868)二十六歳であるから、その時点ですでに圓光寺の住職になっていた可能性がある(正確な事は不明)。并州の先代(第九世)は東令といい、明治19年(1886)に没している。

并州は圓光寺に入って寺嶋氏となっているが、清僧であることが当然と考えられていた幕府時代の故であろうか妻帯せず、美濃国大橋七右衛門の三男南洋(経道)を養子として迎えている。明治五年1872のことである。このとき南洋は十二歳であり、明治19年まで東令-并州-南洋の3人の僧による生活が行われたことになる。

山本逸郎「田並人物記 寺島経道」(田並会便り 第51号 2013)には、「田並小学校百年史」から、次のような引用がある。
寺島并州和尚(天保元年生)が、明治十八年六月に紀伊国旧六小区(江田組二十二ヶ村)本派教務取締となっている。この并州和尚は明治初年から、学区取締や教務取締に任命されて、この付近村の学事を督励したものと思われる。
「紀伊国旧六小区」というのは、明治五年(学制発布の年 1872)に和歌山全県を7大区-61小区に分割しているが、田並はその中の「第七大区-第六小区」に含まれていた、の意。「本派教務取締」の文意が不明だが、おそらく、「妙心寺派の教務取締」のことであろう。并州和尚は、明治18年に「第六小区」の22ヶ村の妙心寺派を代表する「教務取締」の地位に就いたと考えられる。これは、後に経道和尚が「教務本所役員」に選出されることの前触れと考えておいてもよい。経道の場合(2期10年)と同程度の年月就任していたとすれば、明治20年代は若き経道(南洋)が圓光寺住職に任じ、并州は古顔として本派教務取締に就いていたというふうに考えられる。

さかのぼって、并州和尚は学制発布のあと早い段階で「明治初年から、学区取締や教務取締に任命されて、この付近村の学事を督励」していたと考えられる。これは、明治新政府の学制を地域に普及せしめるための重要な仕事であった。南紀のこの地域(第六小区)の、教育・文化を推進する中心人物として并州が新政府行政から指名されたのである。

後年、俳人として有名になる内藤鳴雪も明治五年に松山の「学区取締」に任ぜられたことを『鳴雪自叙伝』(岩波文庫2002、青空文庫にも所収ここ)で述べている。この時鳴雪は二十六歳で、郷里松山に東京から戻ったところである(并州は鳴雪より4歳の年長)。
此年(明治五年)の十月太政官からの学制頒布があった。それで大学中学小学などゝいふ学校の制も定まり、就中小学校は各地に普く設置して、一般の児童は事故なき者の外就学せねばならぬ事になった。尤も此頃は府県に大区小区を置かれて石鉄県(松山を含む新設の県)は1大区から15大区まであって、各大区の下に従来の町村を幾つ宛か合した小区があった。さうして学制に於て専ら小学校設置等の事に当たる学区取締といふのを、他の府県も略同様だろうが、石鉄県は大区毎に一人を置いた。(引用は、国会図書館のデジタルライブラリの岡村書店(大正11年)版から p235)
鳴雪は「是迄に例のない小学校といふものを創設するのだから、中々困難であった」と述べている。子供を就学させたくない父兄を説得することや、穢多の子弟たちはむしろ積極的に就学させたいと申し出るし、そうなると逆に穢多と一緒に就学するのは嫌だと嫌悪するものが多く出たり、様々の苦労を書いている。鳴雪は教育畑で出世し、最後は文部省参事官までやっている。
石鉄県と和歌山県が学区取締の扱いにおいて同一であったのかどうか不明であるが、参考にはなる。また、和歌山県の近代教育史を調べれば并州和尚の事跡と出会えることは間違いない。
学区取締は原則として「其土地ノ居民名望アル者」から地方官が任命し、給料は地元負担としたが、区・戸長による兼任も認められた。(文科省「学制百年史」の「二 地方の教育行政機構」)
「学区取締」は区長・戸長の兼任とする場合が多かったらしいが、当初建前は、行政とは独立に学制を創設しようとするフランス式の教育システムを導入しようとしていた。すでに述べたように、この地域には寺の数は多く、并州和尚が「学区取締や教務取締」に任命されたのは単なる偶然ではなく、圓光寺が地域教育・文化の中心的位置を占め、并州がこの地域で尊敬される学識を備えている人物「居民名望アル者」と見なされていたからであろう。とすると、さらに先代の東令和尚を知りたくなるが、目下手掛かりがない。
そう考えれば、養子に選んだ経道が後年凡庸ならざる才能を発揮するのも頷ける。東令と并州に見いだされた経道がただ者ではなかったと言えばそれまでだが、そういう才能を花開かせる力を養父・并州らが持ち、薫陶したからこそ経道が成長しえたとも言える。すでに述べたが、このあと并州-経道の二和尚がいる田並圓光寺に小坊主として俊巌が入ってきた。そして、この二和尚の教育方針があって、俊巌少年を京都の花園中学へ進めることができたし、さらに、上京させて早稲田大学へ入学させたのである。学問こそ上昇の原動力であるとする明治の健全な教育観が後押しし、俊巌和尚が生まれたと言えよう。

并州の人物像を推測する材料は少ない。上に引用した明治初年から「学区取締」など「学事の督励」に邁進していたということ、明治18年から「本派教務取締」に就いていること。并州が南洋に家督を譲ったのは明治22年(1889)である。それ以前に養子・南洋に住職を継がせ、「本派教務取締」などの外向きのことをこなしていたということかも知れない。
南洋「鐘楼堂再建ノ顛末ヲ記ス」に、「父老」や「先師并州」についての記述が見られる。この文書冒頭
当山往昔の事徴すべきの紀なしといえどもとも、 父老の口碑に存するものを聴くに、当寺しばしば梵鐘を鋳造するも往々其鳴を失するのみと。
これは、圓光寺にはその歴史を記した文書はないが、「父老」の言い伝えがあり、何度か梵鐘を鋳造したが壊れてしまっていた、と述べている。この「父老」には、東令と并州が含まれていることは確かである。并州は浪速から古鐘を入手して使用していたが、明治18年秋に嵐にあって鐘楼が崩壊してしまった。
於之これにおいて先師再び再築を計画せしも、時機未た熟せず、空しく老退するの止むを得ざるに至れり。
「老退」は并州が隠退して南洋が家督を継いだことを意味していよう。このあと、南洋が鐘楼堂を再建し、十余年を経て本堂再建の大事業を成し遂げることになるのだが、それは次節で扱う。

そのあと并州は、昭和5年(1930)まで圓光寺の「書院」で過ごした。しかし、并州和尚が凡々たる隠居和尚ではなかったらしいことは、いまもその書院のなげしに掲げてある「梅花図」から推測できる。巧みな絵とはいえないが、これだけの大きさの墨絵を構想し我流に描ききるには並でない精神力が必要である。この「梅花図」は八十一歳の作品であることが署名から分かる。


寺嶋経人氏撮影 2011年9月24日

右に「梅花図」の署名を拡大掲示した。「八拾又一翁并州  大正癸亥みずのとい」とあり、大正12年1923に八十一歳(数え歳であろう)であったことが分かる。明治22年から隠居生活を始めているのだからこのときすでに34年間を経過していることになる。

この年齢八十一歳は先に述べた戸籍から判明する生年、天保十四年(1843)と整合する(上で示した「田並小学校百年史」の「天保元年生」は誤りである)。并州翁はどのような生活を送り、この「梅花図」にどのような人生観を込めていたのだろうか。わたしは「2003年南紀旅行」という拙文の中に、圓光寺に長澤蘆雪(1754~99)と仙涯(せんがい 正しくは「涯」からサンズイを除く 1750~1837)があることを書いている。蘆雪は串本の無量寺に多数の作品が残っており、圓光寺の「蘇鉄図」は本物と考えて良いと思う。仙涯の「博多コマ糸渡り」が本物の仙涯かどうかの詮索は別として、この立派に装幀されている仙涯を并州も見ながらこの寺で長い生涯を過ごしたことは間違いなかろう。并州はこの同宗の先達の絵にどんな感想をもったのだろうか。并州はこれらの絵を見ながら、自分の絵の勉強をしていたのであろう。
并州は昭和5年(1930)に享年八十八歳で没した(偶然ながら、并州の天保十四年生まれは実利行者と同年である。この暗合にわたしは驚いた)。

ついでに書き足しておくと、仙涯は栄西が本邦で最初に始めた禅寺「扶桑最初の禅窟」と称される聖福寺(福岡)の第百二十三世となっている。妙心寺で「瑞世」(本山住職を受けること、名誉住職)を受けるように何度も勧められているが固辞した。天保八年に八十八歳で没した。わたしは仙涯の字も絵も好きだが、「遺偈」も好きだ。自己流の訳をつける。

来時知来處 来た時には、どこから来たか知ってる
去時知去處 去る時には、どこへ去るのか知ってる
不撤手懸崖雲深不知處 手を懸崖から放さずぶら下がってると、雲が深くてどこがどこやら分からん



(5) 南洋経道の「本堂再建」


并州和尚が妙心寺派の「本派教務取締」となったのが明治18年(1885)であった。その任期が5年間とすると明治22年に任期が終わり、それを区切りに并州が「老退」した可能性がある。并州が引退し南洋に家督相続した。南洋はそのとき二十九歳である。

南洋和尚が圓光寺の新住職となり、明治18年秋におそらく台風で壊れた鐘楼堂の再建を最初の大仕事として手がけたのである。


現在の鐘楼堂、撮影2003年4月6日

この鐘楼堂再建については、南洋の書き残した文書が2種、圓光寺に残っている。
  1. 鐘楼堂再建喜捨牒」(明治24年1891 3月)

  2. 鐘楼堂再建ノ顛末ヲ記ス」(明治28年1895 1月23日)
前者は寄付者名簿の前文として書かれた再建趣旨であるが、縮こまった堅苦しいものではなく大胆で伸びやかな筆致である。後者は再建竣工の後に経緯を書き留めたもので、その報告に対して妙心寺から下付された賞状の写しを納めている。南洋経道和尚の躍動する精神が表現されている。
例えば、高額寄付をした人を次のように取り上げている。
此時に当り海老名虎吉氏の如きは、絶海万里の外幾多の星霜を閲し始めて帰郷せし紀念として、不少すくなからざる浄財を寄附せらるゝに至り、(以下略 「鐘楼堂再建ノ顛末ヲ記ス」)
当たらず障らずの無難な作文ではないことがよく分かる。この海老名虎吉は旅券記録のある豪州移民第1号で、明治17年に渡豪、同23年に帰村した人物で40円寄付している。鐘楼建造費は総額220円であった(山本逸郎「部分田並史」、ちのとの「1-3 明治から平成へ」)。

当面の課題であった鐘楼堂再建を見事に成し遂げ、本部・妙心寺からも認められ賞せられたという上げ潮の気運を、南洋は十分に感じ取っていたであろう。次の目標は、本堂の再建であった。
当時の圓光寺の本堂は享保年間に建立されたもので、既に170~180年を経てかなり損傷し再建が課題となっていたようである。すでに并州和尚は本堂再建に心を砕いていたが着手することは出来なかった。気鋭の南洋和尚が先師の意志を継いで本堂再建を果たそうとする。南洋はその経緯を「本堂再建寄付帳」という冊子に書き残している(表紙を除いて、和綴7頁。経道の3種目の文書なので、3. とする)。
  1. 本堂再建寄付帳」(明治39年1906 秋)
すでに并州和尚が再建を苦心していたと述べている個所を引用する。并州は再建に着手するところまで行かず、隠退してしまった。代わって南洋が再建の宿意を受け継いだ。
先師(并州和尚)既に之を憂ひ之が再建の企図に幾多の精神を労せしも、機未だ熟せざりしにや其はこびに至らずして空しく老退するの止むなきに至れり。予南洋亦薄稟の才を以て敢て先師の志を継ぎ寤寐ごびにも(寝ても覚めても)再建成就の念を絶たず。
南洋の熱意が実を結び、十人の発起人が集まり具体的な醵金活動が始まったのが「明治廿七年頃」である。檀家有力者を結集させる力を南洋は持っていたのである。集まった資金を「基本金」として、しばらく「利殖」によって充分な額となるのを待つことにした。近代日本の産業革命期らしい“右肩上がり”時代の発想である。
ところが、日清戦争(明治27年(1894)7月~翌年3月)の終結後、予想を超える物価騰貴が起こりとても本堂再建の工事を始めることは出来なくなった。そのため利殖年限を増して好機を待つことにした。

次に来るのが日露戦争(明治37年(1904)2月8日開戦)である。「利殖」の年限も10年を経て、ちょうどその頃には、工事着手が可能な額になっていたという。日露開戦で人心が外へ向いているときに、時を合わせて「土木を起こす」のは良くないと判断した。
ここまでは常識的であるが、いよいよ再建を決断するタイミングが非凡である。
開戦の)翌年に至り米国大統領ルーズベルト氏両国の間に斡旋の労を取られほぼ協定の議成り平和克復こくふくの曙光を見るに至り幸に人心漸く旧に復するに至れり。あたかし、此時に於て之が工事に着手せば平和克復と同時に工事の竣成を告ぐべし。しからすんば又日清戦争の轍を踏んで物価の騰貴に遭遇し哀れ多年の苦心も亦一頓挫を被るならんと。
於爰ここにおいて衆議忽ちに一決して遂に明治三拾八年旧六月十八日土木を起し、旧拾月初旬に至りて先つ旧堂をこぼち了り、仝月廿一日石礎を据え柱建はしらだてをなし(以下略
この弾んだ文体は、南洋の躍動する気持ちをよく反映していると思う。ルーズベルト米大統領が乗り出してきたのをとらえて、“いまこそ”と決断したのである。「明治三拾八年旧六月十八日」は、新暦の1905年7月20日であり、日露戦争終結のポーツマス条約が同年9月5日である。戦争終結の一月半前に工事を開始したのである。
世界情勢、日本情勢を見定めたこの決断は大したものだと思う。また、発起人たちも南洋の機を見る策をよく理解して「衆議忽ちに一決」となったところに、檀家が南洋和尚に寄せる絶大の信頼が感じられる。

  
上図右は「本堂再建寄付帳」第3頁の全体で、5行目に「米國大統領ルーズベルト」が見える。左は同寄付帳の署名部分で、「南洋経道」という署名を行っていることが分かる。
翌年明治39年3月に予定の工事がすべて完成し、3日間ぶっ通しの盛大な落成式をやった、というのも痛快である。さらに驚くのは、数百円の残金が出たので、それで納屋・裏門石垣・井戸などの付帯工事をも済ませてしまったという。
この明治39年のお盆前にすべて竣工し、新しい荘厳品も美しく、新しく生まれ変わった圓光寺が出現したのである。それから1世紀程経て、現在も堂々たる圓光寺本堂が建っている。


現在の本堂 撮影2003年3月30日

この年経道は四十六歳で、まさに働き盛りで、長年の課題であった本堂再建を果たした。第1節で紹介したように、「教務本所職員」に選出され京都・妙心寺へ出ていくのは、翌年明治40年(1907)のことである。すでに先代の并州が「本派教務取締」を行っていたこと、経道自身は鐘楼堂再建で本部から表彰されていたこと、加えて本堂再建という大仕事を成し遂げたことから、この「教務本所職員」選出はある意味ですでに約束されていた上昇の道であったと言えよう。

養子・俊巌は東京で早稲田大学で学んでいる(大学卒業は明治41年)。俊巌が経道の娘と結婚するのは明治43年であるが、前に述べたようにその後も全国を妙心寺の説教師として回ることもあった。その留守を守るのは、隠居という自由な身分で暮らしていた并州和尚であった。

  
これが、経道の風貌(年次不明)。右は「過去帳」の始めにある筆跡と印章。「明治辛亥季冬之日」は明治44年1911である。ついでながら、この年は「辛亥革命」の年。
なお、孫文が南方熊楠を和歌山に尋ねて来たのは十年前の明治34年1901のことだった。
この「過去帳」の裏表紙には「現住 経道、副住 俊巌」とあって、「明治四十四年十二月」と日付がある。このころは経道は京都・妙心寺の本部役員として働いていたわけだが、田並・圓光寺の住職の地位は継続していたのである。
寺院の部外者にとってはどうでもいいことだが、「住職」が必ずしも常住していないこともあって「副住職」を(何人か)設けて寺務を行うということがあるようだ。副住職に対して「正住職」という言い方もあるようだ。
経道は本部職員の職務を解かれる大正5年までは田並・圓光寺住職の地位を継続していたであろう。その後経道は和歌山・金龍寺住職へ転じる。いずれかの時点で俊巌が田並・圓光寺の住職になったのであろう。その間に、俊巌長男・俊人が大正2年(1913)に生まれている。



(6) 俊巌の時代


前掲の系図で分かるように、并州-経道-俊巌 の3代は養子で結ばれているが、これがむしろまっとうな仏教寺院の住職のあり方といえよう。并州は伊藤氏、経道は大橋氏、俊巌は野原氏とそれぞれ異なり、田並・圓光寺には寺嶋氏が続いていた。
すでに述べたことだが、俊巌は本宮町の淵龍寺で生まれ小坊主時代に田並・圓光寺に入り、京都の花園中学を経て東京の早稲田大学に進学。卒業の後は妙心寺で修行し、説教師として全国を回った。明治43年(1910)に経道の娘と結婚し寺嶋氏となる。俊巌は住職となってからもときどき妙心寺から請われて全国あちこちに出かけて説教をしていたそうである。

俊巌の事跡として最も名高いのが「石垣築造」である。現在田並に行ってみれば、海沿いの国道から曲がりくねった路地を入っていくと左の山裾に圓光寺があり、大人の背丈以上ある堅固な石垣にぶつかる。堂々たる本堂はその上にある。


寺嶋経人氏撮影 2011年9月24日

田並の人たちは、圓光寺の立派な本堂と石垣を誇り高く思っていることであろう。圓光寺には石垣築造の寄付帳の前文として、俊巌和尚が書き残した文書が存在している。
寺嶋俊巌「石垣建設の寄付帳」(大正9年1920 2月)
俊巌「石垣建設の寄付帳」は寄付の依頼文であり、同時に圓光寺造作の意義を述べたものである。先代・経道がなしとげた鐘楼堂(明治27年)と本堂(明治39年)の再建の後を引き継いで、俊巌は寺院建築としての総仕上げを構想した、と述べている。俊巌はいまに見られる立派な石垣を築造したのであるが、その意味づけを次のように述べている。
経道先師の代の業績により)今や殿堂は巍々整然として間然する所なきも、更に前面石垣の築造及び山門の築造併に書院の建築を終へて当寺内外の設備を完全にせんとする一事にあり。
俊巌の言う「山門」というのはどれを指すのか、わたしにはよく分からない。「書院」はわたしも見ることが出来たが、そこには并州の「梅花図」が掲げられている。上引によれば山門と書院はこれから建築にかかることのようであるから、大正9年以降に書院が完成したのであろう。并州は亡くなる昭和5年(1930)まで新築書院に起居していたことになる。

しかし、わたしが圓光寺の歴史を調べながら最も面白いと感じたのは、并州さんが隠居の形で、圓光寺の中庭に面する一室で経道-俊巌と二代に渡り約40年間、同居していたことである。正式な妻帯を認められない江戸時代の寺院の男所帯の雰囲気を残しながら、徐々に女が増えていく明治・大正・昭和の時代の移り行きを并州さんは見ていたことであろう。

この貴重な家族写真は寺嶋経人氏のご記憶では昭和13年(1938)頃で、圓光寺の中庭である。ふたりの男性は、右が俊巌さん、左が俊人さん。中庭は廊下で囲まれていて、写真に見える竹群の奥の座敷が「書院」である。


われわれの主題である『紀伊續風土記』の発行が明治43年であった。この時期は、妙心寺の本部要職に就いていた経道が正住職、隠居の并州と新婚の俊巌が副住職ということであっただろう。この3人の誰が『紀伊續風土記』に対して主たる興味を持ったのか突き止めようがないが、その誰であっても、これの購入を予約するだけの視野の広さを持っていたと考えられる。こういうすぐれた和尚が3人集まっていた明治から大正にかけての田並・圓光寺は、なかなかどうして、稀有な寺であった。

俊巌和尚にとっておそらく心残りであり諦めるのが難しかっただろうことは、後事を託すつもりであった息子・俊人が中国戦線で戦死したことである。南紀のこの地域でも多数の戦没者が出たであろうから、その霊を慰める立場にある俊巌師としては、自分の息子だけを思い嘆くような態度を表すことは出来なかったであろう。孫の経人氏にもほとんどそのことを語ることはなかったという。日本中の至るところにあった戦争がもたらした重たい悲劇である。
田並・圓光寺では俊人副住職を「第13世住職 俊人和尚大禅師」として正式にまつっている。俊巌和尚が弟子として育て上げた僧がその後を継ぎ、「第14世」となった。この代で田並・圓光寺の寺嶋氏は終わることとなった。


田並 圓光寺の紀伊續風土記  終


寺嶋経人氏には、多数の資料や写真のご提供をいただきました。特に、下にリンクを示しました経道和尚の文書3点、俊巌和尚の文書1点の写真版をいただいたことが、わたしに改訂版を書く意欲をかき立てました。

山本逸郎氏は経道和尚の事跡について妙心寺に直接調査をなさって、その結果を惜しげもなくご教示下さいました。そのことによって、それまで漠然としていた経道の経歴が俄然くっきりとした具体性を持って見えてきました。また、寺嶋俊人の職歴に関してご助言をいただきました。深く感謝いたします。

経道鐘楼堂再建喜捨牒 鐘楼堂再建ノ顛末ヲ記ス 本堂再建寄付帳   俊巌石垣建設の寄付帳

実利行者立像の讃解読 き坊のノート 目次


き坊「田並 圓光寺の紀伊續風土記」 初版 12/6-2011: 改訂版 2/19-2014
最終更新 4/14-2014