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(1) 概観
経道は明治40年から大正5年の10年間を京都の妙心寺で過ごした。日本全国に広がる妙心寺派の本寺教務部の「第一部長」は、巨大組織の重要位置にある要職であったと考えられる。彼はそういう職にふさわしい能力と見識を有していた人物であった。
この資料は、田並の郷土史家・山本逸郎さんが妙心寺からお取り寄せになったもので、経道の教務本部への就任の年月を直接示す貴重なものである。この「教務本所職員」の任期は5年間であったようで、経道は2期務め、後半の明治45年~大正5年の5年間は第一部長の要職にあったことも今回山本さんの調査で明らかになった。
田並の円光寺は、寺嶋経人氏が生まれ育った寺である。枯木灘に向かいあう田並は小村で、海岸から軒の混んだ路を曲がって行くと立派な石垣に突き当たる。その石垣の上が円光寺だった。境内にはビャクシンの老木があり玄関近くにはソテツの巨木が腰を屈めている。忠魂碑の前の桜の木にはクマゼミが集まり喧しい。遠い昔、経人少年が勉強部屋にしていた部屋や彼を育ててくれた祖父俊巖和尚の居間などを教えてもらう。ひろい本堂の廊下で横になっていると、海からの風が通り、半睡の意識の中でイソヒヨドリが良くさえずる。
肘枕杉板廊下の深き皺 |
カブラミミズ 本草 ○和名鈔可布良美須牟婁郡にてカブラタとあることを知った。『紀伊續風土記』は「カブラミミズ」という項目を立て、「和名抄には可布良美須 カブラミミズとあり、牟婁郡ではカブラタという」と述べているのである。このことは「き坊の近況」6/20-2006以下で扱った。
(2) 「飜刻趣旨」について
紀伊續風土記は天保年間紀伊藩公が藩の碩儒を網羅し莫大の經 費と十數年の歳月とを費して編纂せるものにして其の名著たる こと素より言を俟たす、然れとも只僅かに寫本數部を傳ふるに 止り今にして之を梓に上さされは歳月と共に漸く遺脱缺亡して 遂に斯の名著も亦之を討ぬるに由なからんとす是に於てか本所 は微力敢て之か飜刻出版を計劃し明治四十年已來屡次役員を東 京、京都、大阪等に派出し以て其の設計を爲さしめ一面代議員を召 集して之が決行を諮り明治四十二年舊紀伊藩主家徳川頼倫侯の 承認を經遂に壹千部を出版することとなれり爾来縣内外の有志 深く本所の擧を賛せられ刊行に先たち豫約の數既に壹千を超ゑ 更に第二版の印刷に著手するの盛況を呈せり 本書出版の趣旨素より名著の保存にありて營利の目的にあらす 故に之を頒つに悉く印刷實費を以てし原稿謄寫通信運搬等の諸 費全く償ふ處なかりしも幸に印刷者帝國地方行政學會亦義侠的 に之か印刷を引受け爲に豫期以上の成績を擧くるに至れるは本 所の深く其の意を多とするところなり 又本書飜刻の計劃已来前本縣知事伊澤多喜男君は本所前總裁と して前本縣事務官佐藤孝三郎脇田琥一柴田善三郎の三君は本所 長又は幹事長として本件の進捗に盡されたる勞甚た多く其の他 各郡市支所長及所屬の神職各位か賛成者勸誘に就き多大の盡力 を致されたるは本所の深く其の厚意を謝するところなり 茲に本書の出版に當り聊か其の趣旨の存する處を記し併せて其 の顛末を叙すること爾り 明治四十三年十ー月 和歌山縣神職取締所 總裁 川上 親晴 所長 相良 歩 幹事長 齋藤 守國 幹事 紀 俊 幹事 奥 五十鈴 幹事 田村 和夫 |
(3) 神職取締所と南方熊楠
皇祖は神話上の天皇の祖先であり、神霊はまごうかたない宗教上の神格であったから、このような特定の宗教観念に立つ憲法に規定された信教の自由が、国家神道の枠内での信教の自由であり、人間の基本的人権としての信教の自由とは異質のものであることは、余りにも明白であった。帝国憲法は「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」との大前提にたち、祭祀大権の保持者としての天皇の宗教的権威を法的に基礎づけるとともに、天皇と直結する国家神道の公法上の地位を確立した。(村上重良『国家神道と民衆宗教』吉川弘文館2006、p15)いずれ国家神道の確立の道筋のどこかで、「神職取締所」なるものが府県単位で作られたのであろう。この村上重良の本によると、官国幣社に「神職」が置かれたのが明治20年であり、神職を宮司・禰宜・主典の3階級とした。さらに、
(明治27年2月に)府県社以下の神職制度が勅令で定められ、これまで神官であった祠官・祠掌を廃し、地方長官が任命する判任待遇官吏の社祠・社掌をおいた。この職制で府県社と郷社には社祠1名と社掌若干名、村社・無格社には社掌のみがおかれることが定められた。(村上上掲書p23)とあるところを見ると、明治27年に下級神社の職制を整備することが行われているので、仮説であるが、この段階(明治27年)で神職取締所が府県に設置されたと考えられる。全国に設置されたのかどうか不明であるが、おそらく建前としては全府県に設置されたが、積極的に活動したところとそうでないところとあったのではないか。和歌山県などでは郡支所も置き、きわめて活発に活動したのである。
明治三十九年十二月十八日、和歌山県西牟婁郡役所は政府及び県知事の訓示を受けて郡下町村宛に社寺合併の奨励を要請、その期限を翌四十年四月までと定めた。これにより、和歌山県神職取締所西牟婁郡支所からもまた各町村神職に宛て、町村長に助力し遂行すべき旨、通牒が出され、田辺・西牟婁地方の神社合併・合祀が急ピッチで進められることになった。西牟婁郡長楠見節の名は後にもう一度出るので、記憶しておいて欲しい。楠見節 は、神職取締所長も兼ねていた。楠見は直属の部下数名を督励して各町村を巡らせ積極的に合併・合祀の実を挙げさせた。(中瀬喜陽、『南方熊楠を知る事典』講談社1993 p58)
紀伊教育会主催の夏期講習会が田辺町の田辺中学校を会場に開かれたおり、これまで県庁の社寺係を務め、合祀督励に再三田辺に来たことのある前節で掲げた「紀伊續風土記飜刻趣旨」によれば、『紀伊續風土記』の出版とちょうど同年のことで、そのときの和歌山県神職取締所・所長こそが「相良歩」であった(ここでは「紀伊續風土記飜刻趣旨」の「歩」を使う。中沢新一編『南方熊楠コレクション Ⅲ 浄のセクソロジー』(河出文庫1991)の注も「相良歩」である)。相良渉 が、今度県の内務部長で紀伊教育会の会長として来田することを知り、熊楠は積年の思いを叩きつけるつもりで面会を求めたのである。(中略)熊楠は、ビールの酔いも手伝って、会場に押し入り、手に持っていた標本袋を会場に投げ込み、式場は騒然とした。(中瀬前掲書p62)
さて、昔のとあるので、よく事情が判る(「罪無くして配所の月を見ん」は中納言・顕基(11世紀前半)の言葉。例えば徒然草第5段)。「運の尽き」をわざと「運の月」と遊んでいるところに、釈放された熊楠のいくらか弾んだ気持ちが現れている。好人 が罪なくて配所の月を見たいと言うたが、予は何の因果か、先日長々監獄で月を見た。昨今また月を賞するとて柴庵(さいあん 「牟婁新報」社主、毛利清雅)を訪うたところ、一体人魚とはあるものかと問われたが運の月、ずいぶん入監一件で世話も掛けおる返礼に「人魚の話」を述べる。(p305)
返ってこの近処の郡長殿が、年にも恥じず、鮎川から来た下女に夜這いし、細君と記してからかっている(田辺市鮎川は大塔村の中心、鮎川温泉がある)。「郡長」は、次の引用で分かるように、楠見節のことである。蝸牛 の角を怒らせ、下女は村へ帰りても、若衆連が相手にし呉れぬなどに比ぶれば、はるかに罪のない咄 なり。(p307)
とにかくそれほどパッとやらかした熊楠も(中略)、相良歩が「県庁内務部長」であること、楠見節が「西牟婁郡長」であることをパロっているのはいうまでもない。既述のように、相良は「神職取締所・所長」を兼ね、楠見は「神職取締所西牟婁郡支所・所長」を兼ねていた。相良無武 とか楠見糞長 とか、バチルス、トリパノソマ同然の極小人に陥れられて、十八日間も獄に繋 がるるなど、思えば人の行く末ほど分からぬものはありやせん。(p309)
(4) 寺嶋并州の圓光寺
寺島并州和尚(天保元年生)が、明治十八年六月に紀伊国旧六小区(江田組二十二ヶ村)本派教務取締となっている。この并州和尚は明治初年から、学区取締や教務取締に任命されて、この付近村の学事を督励したものと思われる。「紀伊国旧六小区」というのは、明治五年(学制発布の年 1872)に和歌山全県を7大区-61小区に分割しているが、田並はその中の「第七大区-第六小区」に含まれていた、の意。「本派教務取締」の文意が不明だが、おそらく、「妙心寺派の教務取締」のことであろう。并州和尚は、明治18年に「第六小区」の22ヶ村の妙心寺派を代表する「教務取締」の地位に就いたと考えられる。これは、後に経道和尚が「教務本所役員」に選出されることの前触れと考えておいてもよい。経道の場合(2期10年)と同程度の年月就任していたとすれば、明治20年代は若き経道(南洋)が圓光寺住職に任じ、并州は古顔として本派教務取締に就いていたというふうに考えられる。
此年(明治五年)の十月太政官からの学制頒布があった。それで大学中学小学などゝいふ学校の制も定まり、就中小学校は各地に普く設置して、一般の児童は事故なき者の外就学せねばならぬ事になった。尤も此頃は府県に大区小区を置かれて石鉄県(松山を含む新設の県)は1大区から15大区まであって、各大区の下に従来の町村を幾つ宛か合した小区があった。さうして学制に於て専ら小学校設置等の事に当たる学区取締といふのを、他の府県も略同様だろうが、石鉄県は大区毎に一人を置いた。(引用は、国会図書館のデジタルライブラリの岡村書店(大正11年)版から p235)鳴雪は「是迄に例のない小学校といふものを創設するのだから、中々困難であった」と述べている。子供を就学させたくない父兄を説得することや、穢多の子弟たちはむしろ積極的に就学させたいと申し出るし、そうなると逆に穢多と一緒に就学するのは嫌だと嫌悪するものが多く出たり、様々の苦労を書いている。鳴雪は教育畑で出世し、最後は文部省参事官までやっている。
学区取締は原則として「其土地ノ居民名望アル者」から地方官が任命し、給料は地元負担としたが、区・戸長による兼任も認められた。(文科省「学制百年史」の「二 地方の教育行政機構」)「学区取締」は区長・戸長の兼任とする場合が多かったらしいが、当初建前は、行政とは独立に学制を創設しようとするフランス式の教育システムを導入しようとしていた。すでに述べたように、この地域には寺の数は多く、并州和尚が「学区取締や教務取締」に任命されたのは単なる偶然ではなく、圓光寺が地域教育・文化の中心的位置を占め、并州がこの地域で尊敬される学識を備えている人物「居民名望アル者」と見なされていたからであろう。とすると、さらに先代の東令和尚を知りたくなるが、目下手掛かりがない。
当山往昔の事徴すべきの紀なしとこれは、圓光寺にはその歴史を記した文書はないが、「父老」の言い伝えがあり、何度か梵鐘を鋳造したが壊れてしまっていた、と述べている。この「父老」には、東令と并州が含まれていることは確かである。并州は浪速から古鐘を入手して使用していたが、明治18年秋に嵐にあって鐘楼が崩壊してしまった。雖 とも、 父老の口碑に存するものを聴くに、当寺屡 梵鐘を鋳造するも往々其鳴を失するのみと。
「老退」は并州が隠退して南洋が家督を継いだことを意味していよう。このあと、南洋が鐘楼堂を再建し、十余年を経て本堂再建の大事業を成し遂げることになるのだが、それは次節で扱う。於之 先師再び再築を計画せしも、時機未た熟せず、空しく老退するの止むを得ざるに至れり。
来時知来處 | 来た時には、どこから来たか知ってる |
去時知去處 | 去る時には、どこへ去るのか知ってる |
不撤手懸崖雲深不知處 | 手を懸崖から放さずぶら下がってると、雲が深くてどこがどこやら分からん |
(5) 南洋経道の「本堂再建」
此時に当り海老名虎吉氏の如きは、絶海万里の外幾多の星霜を閲し始めて帰郷せし紀念として、当たらず障らずの無難な作文ではないことがよく分かる。この海老名虎吉は旅券記録のある豪州移民第1号で、明治17年に渡豪、同23年に帰村した人物で40円寄付している。鐘楼建造費は総額220円であった(山本逸郎「部分田並史」、ちのとの「1-3 明治から平成へ」)。不少 浄財を寄附せらるゝに至り、(以下略 「鐘楼堂再建ノ顛末ヲ記ス」)
先師(并州和尚)既に之を憂ひ之が再建の企図に幾多の精神を労せしも、機未だ熟せざりしにや其南洋の熱意が実を結び、十人の発起人が集まり具体的な醵金活動が始まったのが「明治廿七年頃」である。檀家有力者を結集させる力を南洋は持っていたのである。集まった資金を「基本金」として、しばらく「利殖」によって充分な額となるのを待つことにした。近代日本の産業革命期らしい“右肩上がり”時代の発想である。運 に至らずして空しく老退するの止むなきに至れり。予南洋亦薄稟の才を以て敢て先師の志を継ぎ寤寐 にも(寝ても覚めても)再建成就の念を絶たず。
(開戦の)翌年に至り米国大統領ルーズベルト氏両国の間に斡旋の労を取られこの弾んだ文体は、南洋の躍動する気持ちをよく反映していると思う。ルーズベルト米大統領が乗り出してきたのをとらえて、“いまこそ”と決断したのである。「明治三拾八年旧六月十八日」は、新暦の1905年7月20日であり、日露戦争終結のポーツマス条約が同年9月5日である。戦争終結の一月半前に工事を開始したのである。畧 協定の議成り平和克復 の曙光を見るに至り幸に人心漸く旧に復するに至れり。恰 も好 し、此時に於て之が工事に着手せば平和克復と同時に工事の竣成を告ぐべし。否 らすんば又日清戦争の轍を踏んで物価の騰貴に遭遇し哀れ多年の苦心も亦一頓挫を被るならんと。
於爰 衆議忽ちに一決して遂に明治三拾八年旧六月十八日土木を起し、旧拾月初旬に至りて先つ旧堂を壊 ち了り、仝月廿一日石礎を据え柱建 をなし(以下略)
(上図右は「本堂再建寄付帳」第3頁の全体で、5行目に「米國大統領ルーズベルト」が見える。左は同寄付帳の署名部分で、「南洋経道」という署名を行っていることが分かる。)翌年明治39年3月に予定の工事がすべて完成し、3日間ぶっ通しの盛大な落成式をやった、というのも痛快である。さらに驚くのは、数百円の残金が出たので、それで納屋・裏門石垣・井戸などの付帯工事をも済ませてしまったという。
これが、経道の風貌(年次不明)。右は「過去帳」の始めにある筆跡と印章。「明治辛亥季冬之日」は明治44年1911である。ついでながら、この年は「辛亥革命」の年。この「過去帳」の裏表紙には「現住 経道、副住 俊巌」とあって、「明治四十四年十二月」と日付がある。このころは経道は京都・妙心寺の本部役員として働いていたわけだが、田並・圓光寺の住職の地位は継続していたのである。
なお、孫文が南方熊楠を和歌山に尋ねて来たのは十年前の明治34年1901のことだった。
(6) 俊巌の時代
寺嶋俊巌「石垣建設の寄付帳」(大正9年1920 2月)俊巌「石垣建設の寄付帳」は寄付の依頼文であり、同時に圓光寺造作の意義を述べたものである。先代・経道がなしとげた鐘楼堂(明治27年)と本堂(明治39年)の再建の後を引き継いで、俊巌は寺院建築としての総仕上げを構想した、と述べている。俊巌はいまに見られる立派な石垣を築造したのであるが、その意味づけを次のように述べている。
(経道先師の代の業績により)今や殿堂は巍々整然として間然する所なきも、更に前面石垣の築造及び山門の築造併に書院の建築を終へて当寺内外の設備を完全にせんとする一事にあり。俊巌の言う「山門」というのはどれを指すのか、わたしにはよく分からない。「書院」はわたしも見ることが出来たが、そこには并州の「梅花図」が掲げられている。上引によれば山門と書院はこれから建築にかかることのようであるから、大正9年以降に書院が完成したのであろう。并州は亡くなる昭和5年(1930)まで新築書院に起居していたことになる。
この貴重な家族写真は寺嶋経人氏のご記憶では昭和13年(1938)頃で、圓光寺の中庭である。ふたりの男性は、右が俊巌さん、左が俊人さん。中庭は廊下で囲まれていて、写真に見える竹群の奥の座敷が「書院」である。 |
田並 圓光寺の紀伊續風土記 終
寺嶋経人氏には、多数の資料や写真のご提供をいただきました。特に、下にリンクを示しました経道和尚の文書3点、俊巌和尚の文書1点の写真版をいただいたことが、わたしに改訂版を書く意欲をかき立てました。
山本逸郎氏は経道和尚の事跡について妙心寺に直接調査をなさって、その結果を惜しげもなくご教示下さいました。そのことによって、それまで漠然としていた経道の経歴が俄然くっきりとした具体性を持って見えてきました。また、寺嶋俊人の職歴に関してご助言をいただきました。深く感謝いたします。