寺嶋経道「本堂再建寄付帳《



この文書について
  • この文書は、田並・圓光寺の寺嶋経道和尚が明治39年(1906)秋に書いたものである。圓光寺の本堂再建竣工の後、「寄付帳《を書きあげその前文として執筆した。下に見るように署吊は「南洋経道《と新旧の吊を並べている。
  • ■は上明字。旧漢字や異体字は現行のものに直した。原文に句読点はほとんどないが、読みやすさを考えて付けた。改行は原文に従った。
  • 南洋経道和尚は、檀家の方々の多大の協力に感謝するために、皆に読める報告書を書こうとして「本堂再建寄付帳《を丁寧な楷書で書き残したと思える。この前文はけして堅苦しい形ばかりのものではなく、そこには和尚の躍動する精神が現れている。
  • 注は最後にまとめて置いた。





[表紙] 

本堂再建寄附帳



[第1頁]

 夫れ大法を弘通するには固より人を待つ切なりと雖も、接衆の
道場なくんば誰か能く其使命を全ふするを得んや。さはれ嘗ては
時人の讃歎措く能はざりしバビロンの大殿堂も、はたアツシリヤの大楼閣も、
幾千の春秋と共に消え去りて今は徒に史上に空吊を止むるのみとはな
りぬ。爰に当寺本堂建立以来年を閲する事実に一百八拾有余
物変り星移り風伯に襲はれ雨露の侵す所となり遂に注1落ち甊碎
け正法直指の道を授け世道人心を饒益すべき道場も、あわれ永
へに廃墟に帰し去らんとは。先師既に之を憂ひ之が再建の企図に
幾多の精神を労せしも、機未だ熟せざりしにや、其運に至らずして空しく
老退するの止むなきに至れり。予南洋亦薄稟の才を以て敢て先
師の志を継ぎ、寤寐にも再建成就の念を絶たず。曩きに寺門



[第2頁]

造營の一着歩として明治廿五年鐘楼の建注2を成就してより此念切に甚
しく、尓来屡々心情を有志に吐露せしが、明治廿七年頃に至り幸に有
志の賛する所となりしより、爰に拾吊の発起者を挙げ以て醵金に従事
せしが、篤信なる檀徒及び信徒諸氏競て浄財を喜捨し、弥本堂
再建を近き将来に実現せんとするに至れり。
先の発起人惟く、本堂再建の事たる実に未曾有の大工事なれば
甚だ多額の資金を要す而して之を一時に醵集するは実に難中の
難事なり、上如、先づ若許の基本金を募集し■注3数年間
其利殖を待ち、以て其の企図を果たさんにはと。
然るに上幸明治廿七年俄然日清戦争の開始となり、翌廿八年戦争
は終局を告けしと雖も其結果甚しく物価の騰貴を示し到底
従来の予算にては及ふべくもあらず。為に又予定の利殖年限を増



[第3頁]

加する事となりしが、明治卅七年頃に至り其資金漸く其支出に堪ふ
るの概算を得るに至れるを以て、愈之が工事に着手せんとせり。然るに
図らずも此時又東洋の風雲弥急に、遂に日露干戈を交るに至り、人
心恟々として其堵に安せず。是亦土木を起すの時に非ずと暫く其機の
到るを待ちしが、翌年に至り米国大統領ルーズベルト氏両国の間に
斡旋の労を取られ、畧協定の議成り平和克復の曙光を見るに
至り、幸に人心漸く旧に復するに至れり。恰も好し、此時に於て之が工
事に着手せば平和克復と同時に工事の竣成を告ぐべし、否
らすんば又日清戦争の轍を踏んで物価の騰貴に遭遇し、哀
れ多年の苦心も亦一頓挫を被るならんと。於爰衆議忽ちに
一決して、遂に明治三拾八年旧六月十八注4土木を起し、旧拾月
初旬に至りて先つ旧堂を壊ち了り、仝月廿一注5石礎を据



[第4頁]

え柱建をなし、翌年三月に至り本注6を初めとして観音注7の建築
及ひ玄関の修繕を成就し、終に多年の宿志漸く遂ぐ事を得、旧
参月拾注8より拾貮日に至る三日間にわたる盛大なる落成式を挙
行せり。
然るに此本堂再建は設計其宜しきを得たるか為め、竣成後
尚数百の残金を剰すに至れり。於爰更に附帯工事として紊
家貮棟の移動及び建増をなし、之に次で裏門の石垣築造
と井堀をも完成し、茲に積年の素願全く成就し、苦心惨怛
の跡も巍々整然たる堂宇伽藍となれり。是実に明治三拾
有九年七月盂蘭盆に先つ事七日なり。嗚呼、佛日是より
光を増し法風永く世道を扇がん。
茲に此工事の圓満に成就するに至れるは実に設計監督八



[第5頁]

吊(次頁記載ノ如シ茲ニ之ヲ省略ス)上下両区長
檀徒總代及檀信徒一般諸氏の協力に依るは言を待たずと雖も、就中
小野常藏氏の如きは委員長に挙けられ工事着手両三年前より既に
其計畫の為め精神を労し、弥工事に着手するや早朝より昏黒に
至る迄日々多くの職工人夫を使役し、心身を碎いて以て充分に其
功績を挙けられたるは、誠に賞讃するに余あり。
又山本宇平治氏の如きは本堂再建費醵金以来之が一切
の会計を一身に担い、拾年一日の如く人目に映せざる多大の苦心
を嘗め以て入部の功を遺憾なく成就せられたるは実に感謝す
るに余あり。尚爰に大書す可きは上下両区長が日々人夫徴
発に就き少なからさる苦辛を嘗め其運用を完らしめ、以て此事
業の竣成を誤らしめさりし功なり。最后に本堂再建成れるの時



[第6頁]

に際して村上安兵衛氏と山本宇平治氏が荘厳品購求の為
め寄附金募集に奔走せられ、巨額の喜捨金を得て以て荘厳
品一切を購求し、内外共に其の美を成さしめられし功は誠に多
とする所なり。
其他寄附金額、工事全体に関する決算、諸職工及び人夫
数、落成式状況等に就ては別項の如し。

  明治三拾九秋吉祥日
       圓光禅寺第十二注9
               南洋経注10謹誌
      
      
   寄附金募集世話人
   及工事監督者   小野常右衛門
   仝           村上安兵衛



[第7頁]

   仝           山本宇平治
   仝           小野常蔵
   仝           青沼廣吉
   仝           木下清蔵
   仝           森善右衛門
   仝           松岡瀬右衛門
   寄附金募集世話人村上重兵衛
   仝           山本増蔵
   仝           田島喜三郎
   田並区長       山本常次郎
   田並上区長     小河六右衛門






    【注】

  1. :上明。この難読字は“まだれ”が書かれているので、「廂《などの異体字か。
  2. 鐘楼の建築:別掲の「鐘楼堂再建喜捨牒《、「鐘楼堂再建ノ顛末ヲ記ス《に詳しい。
  3. ■■:難読個所だが「其まゝ《ではなかろうか。「そのまま《。
  4. 明治三拾八年旧六月十八日:同(1905)年7月20日
  5. 仝月廿一日:同(1905)年11月17日
  6. 本堂:写真参照、本堂(2003年3月30日撮影)。
  7. 観音堂:写真参照、観音堂(2006年6月6日撮影)。
  8. 参月拾日:明治39年(1906)年4月3日
  9. 第十二世:「鐘楼堂再建ノ顛末ヲ記ス《末尾の署吊には「第十一世《とある。いずれかに錯誤があったことになる。後に経道和尚は圓光寺住職を女婿の俊巌に譲って和歌山・金龍寺の住職となったので、最終的に田並圓光寺の「第○○世《と数えられることはない。俊巌和尚が第十二世と称しているので(写真参照石垣竣工)、「経道和尚第十二世《が正しいと考えられる。
  10. 南洋経道:経道は明治31年に戸籍上の改吊が認められている。このとき南洋から経道に改吊したと考えられる。しかし、時には両方を並べて吊乗ることもあったことが分かる。



経道鐘楼堂再建喜捨牒 鐘楼堂再建ノ顛末ヲ記ス 本堂再建寄付帳   俊巌石垣建設の寄付帳

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以上 き坊(2014/02/14)