き坊のノート 目次

南方熊楠の日記にみえる捨身行者・実利

大江希望(1989)




1

『南方熊楠日記』の中に、捨身行者・実利(ジツカガ)の墓に触れた所があったので抜きだしておく。『南方熊楠日記』(八坂書房)の第2卷、1902年(明治35年)2月18日の前半部
午前11時過一寸出、フウトウカヅラ果なれるものをとる。午後宅後の山を歩し、金山の上に至り、更に西北へ上り、宅後の上の墓場(イバガノとて那智神官等葬し場)<此所にジツカゞ行者とて12年斗り前に滝上より飛下り終りし人の墓あり、大阪の講中より建しと。>より直下して帰る。菌、地衣若干を得たり。
< >の部分は熊楠による追記。フウトウカヅラは風藤葛で、初夏、黄色の花穂をつける。果実は小球形で、秋から冬にかけて赤く熟す、という。熊楠は、風藤葛に赤い実が付いているのを採って来たというのである。林実利が那智の滝上から座禅を組んだまま飛び下りたのは明治17(1884)年4月21日のことである。
実利の墓は翌年正月2日の日記にも出て来る。
午下妙法山に上らんとす。一寸宮よりはなれたる所にて採集、胴乱のひもきれたれば還り、ハリガネにて自ら直し復出、実利行者の墓を見。其後上に当山僧侶の墳多し。(同前 p307)
南方熊楠がイギリスから帰国したのは1900(明治33)年10月15日で、しばらく和歌山にいたが、勝浦に移ったのが翌年10月のこと。妙法山・那智山に分け入り、主として隠花植物の採集と研究に没頭する。彼が田辺に居を移したのが1904(明治37)年10月のことで、勝浦には3年間いたことになる。その間、民俗学者の目を持ってもいた熊楠は、那智一帯の神仏寺社を見聞記録しているわけである(彼は実に筆まめで、若い頃からずっと日記をつけており、内容は多岐にわたり面白い。彼が筆まめであると言っただけでは、むしろ誤解をうむかも知れない。彼の博覧強記は伝説的に有名だが、彼の超人的な速筆と筆まめぶりはその博覧強記を支える具体的な努力そのものなのである。というのは、熊楠は読んだ本の大事なところをそのままノートしてしまうという勉強法を子供の頃から実践していて、死ぬまで孜孜としてノートを作り続けた。)。そういう時期の見聞の一つに、実利行者の墓が記録されているのである。

 実利行者は岐阜県恵那郡坂下町に天保十四(1843)年に、百姓の家に生まれている(以下、資料は角川書店『捨身行者実利の修験道』アンヌ・マリ ブッシイによる)。俗名は林喜代八。地元で盛んだった御嶽講の修行に参加。更にそれ以外にも、様々な自主的な宗教活動を工夫していた。彼が出家したのは慶応三(1867)年で、24歳のときのこと。出家のきっかけについてA.ブッシイは、今もある坂下町の実利教会に伝えられているという次のような話を記録している。
坂下の信者12人と一緒に、黒沢口登山道の千本松で行なわれる御嶽教のお座立て(託宣儀礼)に参加するために、御獄山に登ったという。その時の託宣に三の池の竜王が出て、次のように告げたという。「自分は夜中に三の池の面に姿を現わすから、自分の姿を見たいものは、夜中に登って来い」このすごいお告げを聞いたものは誰もおそろしくて登ろうとするものはいなかった。ただでさえ物凄い山上湖の三の池である。そこへ夜中に出現する竜の姿を見にゆこうとするのは、余程の剛胆でなければ出来ることではない。一同黙していると実利が進みでて、「誰も行かないのなら、自分が会って来よう」といって、おどろく人々を尻目に夜中一人で頂上近い三の池まで登った。彼はそこで青竜王に会ったらしいと人々はいう。らしいというのは、明方に実利は山から降りて来たが、待っている人々には一言も口をきかなかったからである。何をきいても黙って何も語らなかったが、それから急に彼は出家したのだという。(前掲書P32)
彼はその後「名山霊場神祠名刹を巡拝」し、大峰に入る。大峰の天ケ瀬には現在
金峯山山篭り満願 実利明治四辛子年末11月吉祥日
と刻んだ石碑があるという。実利が自分で建てたものであろう。
明治5年に神仏判然令がでて修験道が禁止され、民間通俗の神仏混交の山伏修験は否定され大きな打撃を受ける。その中で実利は、大台ガ原の方面で官憲に追われたりもしながら、修験者として修行を深めていった。明治11~14年彼は中部、関東、東北の霊場を巡拝している(円空・木喰らをあげるまでもなく、各地の霊場を巡拝するというのは、古い伝統のある山岳修験者の活動形態である)。文覚上人で有名な那智の冬篭りが、実利の最後の修行となる。実利の那智の滝捨身行は、決して単純な思い付きではなくて、古い日本の修験信仰の伝統に乗ったものであった。この点についての詳細は省く。しかし、湯殿山の即身仏を想起してみても、江戸時代にも盛んに捨身行は行なわれていた。それを単に猟奇的な挿話とみなせばそれだけの事で終ってしまうが、むしろ捨身行も含めた修験道は庶民信仰の主流をなしていたと考えるべきなのである。
A.ブッシイが那智大社宮司篠原四郎から聞いたとして記録しているところによると、
明治時代には那智大社に詣でる人よりも、実利行者の墓に詣って功徳を受けようとする人々が、続々とおしかけた(同前P102)
という。
那智の滝の上には「座禅石」という平らな岩が水流に向かって斜めに出ていてその石の上で落ち口(銚子口)へ向かって流れ走る水を見ながら座禅を組む。「座禅のまま、身体を前にずらせば、そのまま水流に乗って滝からすべりおりてしまったであろう」(同前P97)。
実利が那智の滝から「すべりおりた」明治17年に、南方熊楠は18歳。前年和歌山中学を卒業し、上京。神田淡路町の共立学校に入っていた。この年の9月、大学予備門に合格したが(同期に漱石・子規・秋山真之らがあった)、もっぱら上野図書館などに通って和漢洋の書籍の読破・抄写に励んでいた。
熊楠が神社合祀反対運動に邁進するのは1909(明治42)年頃からで、面白いことにその中に、実利の墓のことが、否定的な意味で出ている。否定的というのは、合祀令が合祀・併合を勧めている淫祇小社の類を例示して、次のように述べているからである(松村任三宛 明治44年8月21日付書簡)。
(合祀令の主旨は)つまり八兵衛稲荷とか、高尾(遊女)大明神とか助六天神とか、埓もなき後世一私人、また凡俗衆が一時の迷信から立てた淫祇小社を駆除するにつとめたものなり。
那智山に実加賀行者とて巫蠱をもって民を乱迷せしめ、明治14,5年のころ滝より飛び降りて自殺せるものを、大なるしかけにて、今に香花絶えず。かかるもの到る処多く、また寺の中に天狗、蛇魅、妖狐等まつるもの多し。(全集 7-509)
熊楠の立場は、合祀令そのものに反対ではなく、それを実施する地方末端で寺社整理に名を借りて、土地売買や材木伐採が私利私欲のために無秩序に行なわれ、それによって古社古刹またそれにゆかりのある堂祠等が消滅すること、神社の森など人手を入れることを禁じてきたが故に自生的な自然系が保存されて来ているのが回復できないような自然破壊を受けること、それらに対して猛然と反対の論陣を張った(少なくとも、中央の学者にアッピールのために書いた手紙の中では、そういう態度をとっている。しかしその態度には戦略的意味がなかったとはいいきれないように思う。彼は仏教本質に対する高い見識を持ちながら、その一方で「天狗、蛇魅、妖狐等」を単純に否定はしなかったと思うからである)。
 熊楠日記(上引)によって、那智神社宮司の話の明治末に実利行者の墓が信者によってにぎわっていたことが、はからずも傍証されることになった。


2

  実利の墓探訪

 前号で、南方熊楠の日記に捨身行者・実利(じつかが)が出ていたことを述べた。今夏久しぶりに南紀を訪れる機会があり、実利の墓を見付けることができたので、報告する。

那智勝浦町の寺嶋経人さんは古い友人である。彼の家に滞在させてもらって、数日南紀の夏を満喫する事ができたのであるが、その1日、那智山の実利の墓の探訪に出かけた。寺嶋さんは、この3月まで地元の那智中学校の先生だったので、これ以上は望めない案内同行の適任である。信望があるというだけではなく、担任した生徒の全家庭を家庭訪問しているので地域のミクロな情報に詳しいのである。私の持っている実利の墓に関する情報は、那智勝浦町市野々(いちのの)の大阪屋という宿屋に長逗留していた熊楠が、日記に「宅後の上の墓場(イガノバとて那智神官等葬し場)より直下して帰る」とか「実利行者の墓を見。其後上に当山僧侶の墳多し」などと書いているのが、唯一のものであった。寺嶋さんによると、大阪屋は今は廃業しているがその家は現存しており、その隣がかって彼が担任した子の家でよく知っている、ということだった。
紀伊半島の海岸線を走る国道42号線は快晴で、海も空も青く、奇岩奇勝の連続である。台風13号の余波のうねりがまだあって、沖の岩礁に白波が高く上がっているのを見ながらのドライブ30分で、那智につく。那智の滝に通ずる自動車道を少し上ったところで、寺嶋さんはわざわざ旧道を走ってくれる。自動車1台がやっとの道で、軒の低い家並があり、苔むした石垣が続く。熊楠や実利どころではなくて、遥か中古の後鳥羽院も定家も歩いた道だと思うと感慨がある。旧道の関所跡の辺りからを大門坂(だいもんざか)というらしいが、その辺りから那智大社までは熊野古道ととして保存してある。関所跡のところの1軒が旧大阪屋であるという。建物も新しくなっていて面影はまったくない。考えていたより小さな印象だった。
旧大阪屋の裏山は、松を主体とした雑木がかなりの急峻に繁っている。その雑木山の上を峰づたいに目でたどると、やや右手が那智妙法山の山頂になる。那智の滝は山頂よりさらに右手で、ここから直線距離1㎞弱で、開けたところに出れば見える位置にある。
大門坂を少し上がり、巨大な夫婦杉の上に左への小道があったので入ってみる。薮を抜け畦道を行くと、草深い小家があり老婆の姿が見えたので声をかける。
「実利行者さんの墓というものはこの辺りにありませんか」
老婆は分からないという。豆でも食べていたらしく、喋ると口の中から白い片々が出てきて、皺だらけの口の回りに粘り付く。男の幼児がカセットテープをもっってかざしながら歩いてきて、私になにごとかを言う。若い太った女が出てきたが眼が虚ろで、老婆の方がまだしゃんとしているようだった。
「墓は幾つもあるけど、山の上の方で・・・・・・・」
と老婆は言い、草に埋もれているという意味のことを喋ったらしかったが、うまく聞き取れない。幼児の母親らしい顔色の悪い女が、窓から身を乗り出して私たちを見ていたが、彼女は終始何も言わなかった。私は老婆に、那智社の坊さん達の墓はないかときいてみた(本当は'神官達'というのだろうか)。老婆は
 「それは分からないが、行者さんの墓ならある」
と、あっさり答えてくれた。しかし、そこへ直に上る道はなく、那智社の下まで車で行ってそこから下った方が良いらしかった。

那智社の下の駐車場に車を置くと、炎天下車の誘導をしていた娘が大声で「せんせえ・・・」という。寺嶋さんは「お前かあ。帽子ぐらいかぶれよ。アホな頭がよけいアホになるで」と負けずに大声で応える。娘は気だての良さそうな丸顔で、嬉しそうにニコニコしている。数年前の卒業生だそうだ。
土産物屋や食堂の並んでいる急坂を徒歩で上っていく。観光客を呼び込んでいるおばさんに、行者さんの墓のことを尋ねてみると知らないという。社務所できいたら分かるだろうといわれ、ともかく那智神社まで上がってみることにする。神社へは何百段もの急な石段を上がらなければならないので、大変である。寺嶋さんは某神官のアホ息子の家庭訪問に行ったことがあると言いながら、商店街を通り過ぎて那智スカイラインの入り口近くで、わき道に入って上っていく。社務所に直登する裏道であるという。
その裏道は住宅の裏の、段々畑の急坂で、真夏の太陽に照らされながらあえぎあえぎ上っている途中、里芋畑のなかに屈んでいて頭も見えなかったお婆さんを見つけて、寺嶋さんが挨拶する。
「社務所に上がるのはこの道だったですかねえ」
お婆さんは腰を伸ばしながら立ち上がって、そうだという。こざっぱりした服装の小さなお婆さんである。念のためにと思って、行者さんの墓というのを知っているかと問うと
「それならうちの墓の隣で、ときどき掃除もしている」
と、まさにぴったりの答が返ってきた。社務所に上がらなくて済むことになった。スカイラインを入るとすぐ小さな橋があり、それを渡って「ちょっと行ったところから、下に降りる道がある」ということであった。
 スカイラインとは名ばかりで、単なる林道を有料にしたものと変わらない。自動車はめったに走っていない。寺嶋さんと私はぶらぶら歩きで、スカイラインに入って行った。お婆さんの言う橋はすぐあったが、「ちょっと」行っても墓地へ下る道がない。まだ若い杉林の中のアスファルト道路なのだが、蝉時雨のなかを5分歩いても10分歩いても分かれ道はない。
 「あのお婆さんが墓参りに行く所なんだから、すぐ近くだと思ったんだけど」と私は早くも不安になってくる。
「ちょっと裏山へ行ってくるといって、妙法山に登ってきてしまう熊楠さんのいたところだからね。あの婆さんの’ちょっと’だって、どうだか分からない」
寺嶋さんはさすがに熊野の人で、悠然としている。清冽な谷水が落ちている所で喉を潤す。
墓地への入り口は幅広い石段で、紛れようもないところだった。石段を下りだらだら坂を下りると、杉や雑木の林をを切り開いた平地に墓地があった。30mに50mはありそうな長方形の広く明るい墓地で、白っぽい墓石が数多く並んでいる。手近のものからみていくと、一般人の墓石も寺社関係の墓碑名もあった。無縁仏として整理されているひとまとめにかためられている墓石群もあった。しかし、ざっと見たところでは実利の墓はなく、とりわけ個性のある墓石も見あたらなかった。
 お盆のための墓掃除にきているお婆さんがいた。今日は婆さんに縁のある日である。白手ぬぐいを頭にかむって、バケツに水をくんでいるお婆さんに
「行者さんの墓というのを知りませんか」
と声をかけると、すぐそこにあるという。そこといって墓地のはずれを指し示すのだが、私には分からない。雑木が広がっているだけである。じれったがったお婆さんは、私を追い立てるようにして導いてくれた。雑木が壁になっていて見えなかったのである。雑木の壁を回ると、高さ3m位の格調高い宝篋印塔が静かに立っていた。正面には「大峰山大導師 宝篋印塔 実利行者尊像」と文字があって、杖を持ちあぐらをかいた丸顔の仙人像(けして厳めしくない好好爺ふうの像)が龕に収まった形で鎮座していた。
お婆さんは「この行者さんは源氏の殿様でのう・・・・」というふうに、求めないのに自ら語りだした。源氏の高貴な身分でありながら、ある女性に道ならぬ恋を仕掛け、無理強いにその女性の寝間に忍んで行き奪おうとすると、なんとしたことかそれは自分の妻であった。ことの不思議さにうたれた男はそのまま出家してしまった・・・・・という。
お婆さんは自ら語りながら自ら感動している様子だった。私は、少し意地悪いと思ったが、素知らぬふうで「それはいつ頃の話なんですか」ときいてみた。お婆さんは「それはもう昔のことで、源氏や平家の時代のことですがぁ」といった。実に興味深いことに、お婆さんは実利と文覚とを混同しているのである(文覚と袈裟御前の話)。お婆さんの眼の前の宝篋印塔の裏面には、はっきりと次のように書いてあるのだが。

此ノ実利尊、明治十
七年四月二十一日此大
滝於テ入定給、十八
年為供養建之

実利の行状が伝説化していくときに、平家語りで有名な文覚伝説に引き込まれる仕方で固定化していってるのだと解釈できる。
お婆さんと一緒に墓掃除をしていた中年の男は、Tシャツにブルーの大きな字で「ふるさと めぐりあい」とか書いてあるのを着ていてなんだか変だったので、私は少々敬遠気味に近寄らないようにしていたのだが、お婆さんにお別れの挨拶を言いにいったとき話をする事になった。その男は墓地管理の地区役員であって、炎天下親切に話をしてくれた。さすがに実利についても正確に知っていて「たしか岐阜の人で、今でも信者がかなりの数参拝する。那智での信者代表はそこの土産物屋の某々である」等々。彼は実利を「じっかんさん」と発音していた。そのことを私が聞きただすと、「じつかが」が正しいのだが地元ではそう言うということだった。私は熊楠の日記の記載との関連が確かめたかったので、市野々の大阪屋の所からこの墓地に上がってくる道についてたずねたところ、
「大門坂を上がり、すでにスカイラインのために廃道になってしまった葬斂坂(そうれんざか)をのぼってここまで来ることが出来た。それの他に、ここを通って那智山の山頂までいく道があったから、市野々からここまで直登することもできた」
と丁寧に説明してくれた。まことに満足すべき答である。
 採集用の胴乱を肩に、それらの小道を縦横に歩き回る熊楠先生がいっそう身近に感じられてくる実利の墓探訪であった。

(1989年夏)



実利の墓の写真 23年以上経った今年(2013)の正月、古いアルバムの中にこの時の写真を見つけた。もちろんフィルム写真時代のものだが、スキャナーでとってみるとそんなに劣化していないので、アップすることにした。

一枚目は、実利の墓の全景であるが、実は裏側から撮ったものである。樹木が壁のようになって迫っているが、その方角が正面側である。撮影者が立っている後側が開けているのである。そして、樹木の壁の向こう側に一般の墓が並んでいたのだと思う。上の探訪記のなかで「雑木が壁になっていて見えなかった」と書いているのは、このことを言っている。



2枚目は、正面側から撮ったものである。一枚目で白く直方体に見える部分の正面側である。そこは掘りくぼめられていて、趺坐している丸顔のおじいさんの像が安置されている。像は右肩に杖を置いているようだ。わたしが「けして厳めしくない好好爺ふうの像」と表現したのを認めて下さると思う。
像の3方に文字があり、上が「寳篋印塔」右が「大峯山大導師」左が「實利行者尊像」である。


【追記】(2013/01/23)




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