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「正しい正坐」のすすめ

― 身体感覚を高める ―

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

  

《その4》

 

4-1 正坐、それは上虚下実の身体

友永ヨーガ学院にて「野口整体」を講義する V13
第二回 2008年3月29日
「正坐と活元運動によって身体感覚を養う」を講義する はじめに より

  

 動物の中で、最も進化した人間だけが二足歩行が可能です。歩くことから上肢(腕)が解放され、腕を歩行以外のことに使うことから脳が発達しました。
二足歩行を可能にしたのは、腰椎と骨盤の構造(背骨の生理的湾曲・S字状のカーブ)によるものです。腰椎の反りと仙椎の構造が歩行だけではなく、脳の働きに大きく影響しています。
 日本人が腰と言う時、実は腰椎だけではなく骨盤部、つまり臀部を指していますが、正坐により仙椎部にきちんと力が入り、気が下がる(みぞおちの力が抜け、丹田に力が入る=上虚下実)ことで大脳の働きは活性化します。
 腰という字は体(月・にくづき)に要と書きますが、元来、「要」という字の字源は、上が腰椎、下が骨盤の象形から成っています。古来より「要」とは、物事の中心、大事な部分を指してきました。正坐をすることが激減した現代日本では、多くの若者が腰力を発揮していないと言って良いでしょう。
 そこで自分の体に「身体」としての「中心軸」を作ることを提案します。

  

  

4-2 腰と心の耐震性

友永ヨーガ学院にて「野口整体」を講義する V13
第二回 2008年3月29日
「正坐と活元運動によって身体感覚を養う」を講義する はじめに より

  

 今、日本人の十五人に一人が一生に一度は経験するといわれる「鬱」ですが、本人に自覚がない状態の軽い鬱状態は、指導の場では頻繁に見かけます。
 それはどういう状態かというと、体の動き、心の動きが止まっていて、頭の一部だけがぐるぐるしているということが私には分かりますので、それを本人に指摘しますと「あ、そうでした」と気づくことができます。
 それは何か感情的なもので、心に引っかかりがある、つまり葛藤しているということで、思うようにならなかったことを逡巡させているのです。軽い状態では、活元運動的な体の動きが起きると、情動による閊えていたエネルギーが発散し、頭の中が抜けさっぱりするのです。
 鬱的でなくとも、感情に閊えがあったものが抜け、気が下がる(上虚下実)と、腰椎や骨盤部にきちんと力が入りやすくなるものです。この時、清々とした自分を感じ、自分を取り戻すことができます。

  

  

4-3「上虚下実」の身体

相模原児童相談所講演用資料講演後 V2
2008年3月18日(火)
「気」は心と体をつなぐもの
  腰椎を中心軸にして「気」で身体を感じる

  

 「上虚下実」とは、みぞおちが柔らかく、下丹田が充実していることです。みぞおちが硬く、「上実下虚」という時は呼吸が浅く、この時、体に気が十分に回りません。
 頭に偏った生活や、感情的な滞りがあると、気がみぞおちから上に上がり、気を体で感じることも、気を活かすこともできないのです。
「上虚下実」の身体を作るために、着物の帯と正坐が大きな役割を果たしていました。
 腰に帯を締めた時、身体に生ずる「中心感覚」は、物事にいたずらに動揺せず、感情に流されない安定した身心のあり方を支えるもので、これが「上虚下実」の身体感覚そのものです。この状態があるから「自分の健康は自分で保つ」ことができるのです。
 私は指導の時、長年かけて自分で考案した、「廻
(まわ)し袴(ばかま)」という股にマチの入った袴に、廻し状の芯地を付けたものを穿(は)いています。
 「廻し」と言う以上、全く相撲の力士が付ける、それそのものです。
 野口先生は講義の時、いつも羽織袴姿でした。そして、「着物を着て動作をし、着崩れないようになったら一人前だ」と仰っていましたが、今では、成人式の振袖姿やお祭りの時の浴衣姿の場合、着慣れていないのですぐ着崩れしてしまう人が多いようです。そんな時、昔の人は「体が浮いているから着崩れる」と教え、着物の時の歩き方や「立ち居振る舞い」を伝えたものでした。
 着物というのは、体の使い方を身につけなければ体に沿ってこないように出来ており、着崩れやその傷みから、「自分の体の使い方」、の癖を省みることができたのです。
 私の考案した「廻し袴」も、腹に力が入らないうちは、体に沿ってきませんが、腹に力が入ってくると、穿いた時にしっかりとした安定感を感じるようになります。
 「着物を着ていて着崩れしない」ということは、「体に『型』が身に付いている」ということなのです。

 女性の和服での正装では帯が最も高価なものですが、帯は後で結んだ形が最も美しく見えるように、模様などが考えられています。
 野口先生は「背中が人間の表である」とも言われました。それは中枢神経が背骨を通っているから、ということでもありますが、日本人は無意識に背中、腰を観る事を知っており、「後が本来の表である」という感性があったのです。
 心というものを「腰」に置いてきたという感性が、坐による宗教、禅というものを成立させてきたのだと思います。

  

  

4-4「行雲流水」の身体

相模原児童相談所講演用資料講演後 V2
2008年3月18日(火)
「気」は心と体をつなぐもの
  腰椎を中心軸にして「気」で身体を感じる

  

 行く雲、流れる水の如く、心の流れが途絶えないということが「より良く生きる」ためには大切なことであり、禅における重要な命題となっていました。
 思考は情緒や心のありようがきっかけで動くもので、悪い想念に支配されていれば、頭の中でぐるぐると思考が渦を巻き、煩悶葛藤するだけで、まともな頭の使い方はできません。
 不安、恐れ、怒りといった感情は上腹部にあり、それが滞りとなって体に残っていると、そのような頭の使い方になるのです。
 腰が入ると気が下がり、上腹部に滞って痞えていたものがすとんと落ちるようになります。心はすっと流れを取り戻し、頭がしゃきっとしてきます。

 生きて、生活していれば、体調を崩す時もあり、心乱れるような出来事も避けることはできません。しかし、腰に「軸」ができていると、そういったことに自分が振り回されなくなります。
 それは、軸の安定した独楽がちょっとした衝撃では、回転を保つことができ、倒れないのと同様で、「自ら立て直すはたらき」が生まれるのです。

 

  

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