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「正しい正坐」のすすめ

― 身体感覚を高める ―

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

  

《その2》

 

2-1 身体を心の「拠り所とする」ために正坐がある

相模原児童相談所講演用資料 講演後V2
2008年3月18日
「気」は心と体をつなぐもの
  腰椎を中心軸にして「気」で身体を感じる より

   

 「正しい正坐」により、腰骨と仙骨がきちんとはたらくことで、心が静まり、その身体を自分の「心の拠り所」とすることができます。
 肉月に土、の「肚
(はら)」というものは、腰骨であり仙骨を、もとより含んでいました。これがきちんと働かずして「肚」もなにもないのです。
 現代、日本人は心が不安定で生きにくく、また様々な心の問題、身体の問題が起っています。
 私が若い頃、昭和三十年代までは、日本の身体文化である「腰・肚」に関する「からだ言葉」がたくさん残っていました。例えば仲間でことを進めていく上で、「あいつは腰が決まっていない」という言葉を仲間うちで交わせば、あいつとは「心を一つにする」ことができないという意味なのです。
 「本気でやる気になっていない」、「心が決まっていない」ことを「腰が決まっていない」と言い、「よし、俺は腰を決めた」と言えば、「心を決めた」と言うことです。「肚が決まっていない」というのは、さらにそれより深いことを意味していました。
 「腰の決まらぬ」人はもちろん、「腰の坐っていない」人には仕事を任せられないというのが当時までは常識でした。なぜなら、腰が坐っておれば、それは「心の集中力が発揮でき、頭もそれに従って働くからです。何より、「肚」が坐っての仕事振りは「本質を掴む力」と.「責任能力」をその身体で発揮することができます。
 心の安定、それは「情緒の安定」ですが、その働きと決断力、行動力、持続力、といった「心の力」は腰骨と仙骨にあります。
 こういった日本人のいわば「腰力
(こしぢから)」というものは正坐の生活文化を通じて伝統的に養われて来ていました。
 ところが、高度経済成長下の昭和四十年代、激変する日本の社会は家の住まい様も変えてしまいました。畳の部屋がなくなり、「坐の生活」を失ったことで、若い人には正坐したことのない人まで現れています。
 道場を訪れる人の中で、昭和四十年前後に生まれた人、及びそれ以降生まれた若者達の「心の不安定」さが目についてしかたがありませんが、私は、この主要な原因が「腰」にあると考えています。
 ここに私が、日本の身体文化を再興させるべく「正坐」を提唱する理由があるのです。

 立川昭二氏は『からだことば』(早川書房)の中で次のように述べられています。 

    

  立川昭二 『からだことば』(早川書房)
(34頁)

 先ほど「腹がたつ」とおなかが痛くなるとか、「頭にくる」と頭が痛くなるとかいいましたが、どれも別のことばでいい換えれば、「こころ」なんです。「腹がたつ」といえば、こころが裂けるような思いがしたわけです。そういうことを胸とか腹とか頭で表現しているわけですね。ここが大切なところです。
 だから、「むかつく」にからだことばが入っていないということは、こころと離れたものになってしまったことです。こころとは関係ない、まったく反射的なもので、からだのなかに、つまりこころのなかに入ってこないものになってしまった。
 からだことばの大切なことは、からだというだけではない。「胸が騒ぐ」ということは、こころが騒ぐことです。だから、からだことばは、からだの部位で心を表現することによって、心身全体で受け止め、からだごとこころを表現していたのです。
 それだけからだの文化が豊かであった。いろんなこころのありかたを「腹がたつ」とか「胸が騒ぐ」といったたくさんのことばで言い表したのは、文化の豊かさであって、それは同時に自分のからだやいのちを豊かにすることでもあったわけです。そのからだが、今キレようとしている。昔はおなかや頭といったからだで受けとめていたんだけど、今はどこで受けとめたらいいのか、よくわからなくなってしまってる。

    

 西洋文明が輸入されていなかった江戸時代においては、「からだ言葉」に表されているように、日本人の身体感覚は極めて高かったのです。高い身体感覚によって、心と体をひとつのものとして感得していたというのが「からだ言葉」そのものです。

 

 

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