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「正しい正坐」のすすめ

― 身体感覚を高める ―

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

  

《その3》

 

3-1「身体感覚」とは「気」を感じること

相模原児童相談所講演用資料 講演後V2
2008年3月18日
「気」は心と体をつなぐもの
  腰椎を中心軸にして「気」で身体を感じる より

   

 十七世紀以来、西洋では精神と肉体の二元論が主流となってきましたが、東洋、日本では「気」というものの存在によって、心身一元論でした。
 「気」には様々な解釈がありますが、野口先生は「気は心と体をつなぐもの」と言われました。「気」は呼吸とともに体の内と外を循環しているのですが、体に気の滞りができると心身の不調の元となります。
自分の心と体がどのようであるか、心の動きや体の動きに滞りがあるかないかという「気」を感じるために重要なのが「身体感覚」です。
 高い身体感覚を保持していた江戸時代までの日本人は、「気」の感覚に敏感でした。

 立川昭二氏は、同著の中で「気」についても次のように述べられています。

 

  立川昭二 『からだことば』(早川書房)
(50頁)

 気について説明するのに、わかりやすいことばがあります。それは「色気」です。
「色気」といったとき、「色」と「気」はどうちがうのか。
 気は目に見えないもので、まだからだのなか、奥にあるものです。
(中略)
 ところが、「色気」というのは、その「気」が「色」に出てくることなんです。表情やしぐさに「色」として出てきてしまう。それが色気です。
(中略)
 ここが大切なところですが、「気」があれば、それは「色」に出るわけです。病気についていいますと、からだの奥にあるときは、まだ「気」なんです。
 ところが、「気」のうちは、まだわからない。そのうちに「色」に出るようになる。
(中略)症状として出てくれば痛いし苦しい。(中略)だから医者は「色」に出る前に、「気」のうちに治療しようとする。これが早期診断です。
 というわけで、「色」に出る前に、「気」がわからないといけない。本来ならば、人間ドッグに入って検査をしてもらう前に、自分で自分の「気」がわかっていれば、自分で早期診断ができるはずなんです。
 江戸時代の人たちは、「気」をよくわかっていたんでしょう。それが「色」に出る前に、自分で早期診断、早期予防をしていた。それだけ、からだに対する生理感覚が鋭く強かった。だから、当時の医学を「気の医学」といいますが、現代のような近代医学がなかった江戸時代には、人びとはこの気をいち早く察知した。
 貝原益軒の『養生訓』に書かれていることばのなかで、いちばん多いのは「気」なんです。「気をめぐらせ」「気を滞らせてはいけない」とくり返し語っています。要するに、「気」をきちんと活かす。そして、あまり使いすぎてはいけない。でもじっとさせてはいけない、ということをしきりにいうわけです。それは、「気」という眼に見えないものが「色」に出てしまうところで、きちんと自分で調整しなさいということなんですね。
 「気」や「色」ということばの本当の意味を見失ってしまったわたしたちは、だんだんいのちに無防備になってしまったのではないでしょうか。

   

   

3-2 身体感覚と正坐(2)

友永ヨーガ学院にて「野口整体」を講義する V13
第二回 2008年3月29日
「正坐と活元運動によって身体感覚を養う」を講義する
はじめに より

  

 野口整体では正坐を大切なものとしています。それは何より、指導を行う側がきちんとした正坐ができることで「気」により観察と働きかけができるからです。
 良い「気」の働きは統一した心身から生まれるのです。愉気法は、この「気」の感応により相手の「気」が変化し、その気がやがて自身の心と体をひとつにするのです。
 体の乱れと心の乱れはひとつであり、体が整えば心も整い、この時それぞれそのように「気」が働いています。この「気」というものをきちんと使うことで、心も正され、体も正しくなるのです。

 ところが、これが型として身につかないと、体の偏り、心の動きによって、すぐにきちんとできなくなるのが正坐で、特に正しい正坐となると、いつもできるものではありません。ですから、これが自分の心身の状態のものさしとすることができます。
 先ほどまではきちんとできていたのに、疲れてきたことで体が偏り、先ほどと正坐が違ってしまったということは、私自身絶えず経験しています。それほど微妙に体というものは動いています。私金井は、これによって身体感覚を養い、高めて来ました。
 上虚下実の身体、それは気が充ちていて心が落ち着いている。これにより愉気法を基本にした整体指導が行えるのですが、自分の気のありよう、それは重心といってよいのですが、これが狂うときちんとできていた指導が行えなくなってしまうのです。
 気を下(下実)を保つには、何より脊椎の構造に沿って腰椎と骨盤部の働きを鍛えることでした。このことで上体の力が抜け頭も余分な働きをしない(上虚)ことを可能にするのです。

  

  

3-3 紙一枚から教えられること
         ―― 坐して「紙一枚」をきちんと置く ――

友永ヨーガ学院にて「野口整体」を講義する V13
第一回 2008年1月12日 より

  

★きちんと置くことで体が変わることを感じ取る

1、二人で組む。置く前に背中を押す練習をする。
 ・手を当てる位置を決める。
 ・腕の力が抜けると「呼吸が分かる」ことを確認する。
 ・相手が吐く時に、後ろからすっと押す。

2、紙を放るように置く
 ・後ろから押す。

3、紙をきちんと置く
 ・きちんと置いた後、同様に後ろから押す。
 ・2の場合との比較をする。

 座して紙一枚を机の上に置く。これを、今から「書」を始めるつもりで、机に対して紙が相似形になるよう、紙の四隅に「気」を配って置くのである。
 ただそうするだけなのだが、置いた後は体がきちっとして、自分が被験者として、「背を後ろから人に押してもらう」と、いい加減に置いた後とではまるで違うのである。
 放るように紙を置いた時は、後ろから押されると、体に抵抗力が無いが、きちんと置いてみると、自分の体にしゃんと「気」が入り、後ろで押す人は、まるで別人の体と見紛うほどに感じるものである。
 子どもの頃、書道を少しはやったが、座卓に置かれた「紙に対座した身体」にこれほどの効用があったのかといまさらながらに驚く。書道を行うことの精神的な意味がここにある。
 これは「座しての『茶碗と箸』による食事作法」においては一層に顕著となる。
 このように、日本の生活文化における伝統的作法には、これほどの身体的効用が意図されているのだが、思えばこの半世紀、日本人は多くのこの類のことを忘れ去り、家庭教育を疎かにしてきたのである。

 紙一枚をきちんと置く。ここから教えられるものは、紙一枚という「対象の四隅」にきちんと「気を配る」ことで、実はこのことで自分の四隅、つまり「全身に気が通る」ということである。

  

 体を通して気持ちをきちんと使うことで、抵抗力のある体の状態になるわけです。抵抗力があるとは、「反応するが揺らがない」、「揺らいだとしても自分を持っていかれない」という弾力のある状態です。これが正坐の効用で、それは腰力(こしぢから)なのです。

 

 

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