《その5》

野口整体とは何か

《その5》

 

5-1 気の集散を訓練する

 「心ここにあらざれば見れども視えず、聞けども聴かず、食してその味わいを知らず」という『大学』の言葉があります。不安や気がかりなことがあったり、考え事をしながら食事をしても食べた気がしない、ということがありますが、「今、ここ」に集注できない時は感覚が働かないのです。
 済んでしまったことに心が拘っていたり、先のことを憂いて「心が今ここにない」という状態を「心が気に引きずられている」と言います。人は気がかりなことに心が行くものですが、この度が強いと心が乱れがちとなります。
 それは「気」の動いたように心が動くからです。体も「気」の動いたように動きます。
 ですから心身統一を図るには「気を心で制御する」ことが必要です。これを行気法と言い、呼吸法により心で気の動きをコントロールする方法です。

 

野口晴哉 『整体入門』(ちくま文庫)
第二章 愉気および愉気法

 心で気の集散を自由に行う

 気をおくり、気を通して元気を喚び起こす「愉気法」というのは、気をおさめる訓練を行なうことから始めます。歌を所望されて、大勢の真ん中に引き出された人が、なんとなく顔を赤くしておりました。やっぱり何かあったんだナと見ていると、その人は自分の顔の赤くなっていることに気づいて一生懸命赤くなるまいとしました。するとみるみるうちに真っ赤になってしまいました。気が集まると、心ではどうしようもありません。赤くなるまい、冷静でいようとするほど赤くなり、とうとう歌わずに引き退がってしまいました。気が顔に集まってしまったのです。(中略)

 気をおさめ、集める訓練は、そこに気が集まってしまうことではなくて、自分の体のどの部分にでも気を自由に集め、また、抜くことを行うのです。だから、気を転ずることも外すことも、気を入れることも通すこともできるようになるのです。気に心が引きずられないで、心で気の集散を自由にすることが、その訓練の内容です。

 

 野口先生はこのように、「愉気法」を行う上で必要な訓練、「合掌行気法」を説明されています。

  

5-2 野口整体の基本「愉気法」とは

 整体指導という仕事は十年、いや二十年は一人前になるのに要するのですが、それは人の体を通じて心を動かしていくという世界ですから、何より経験がものを言いますし、野口先生の文章の意味も体験とともに深く理解できるようになっていきます。
 私の経験による理解を講義で伝えているのですが、講話と実技とも「」を大切にしています。
 野口整体ではすべての基本に「愉気法」というものがあります。これは簡単に言ってしまうと昔からある「手当て」というものです。体のどこかが痛い時には思わず自分で手を当てたり、背中で言うと人に擦ってもらったりしますが、弱った時には、そうしてくれる「手」が大変ありがたく感じるものです。これは人間の本能的な行為で、野口整体の諸法ではこれが基になっています。「愉気法」は、始め「輸気法」と書いていまして、相手の心身に気を輸ることでした。先生の晩年には少しニュアンスが変わり、「愉気法」となりました。
 「愉気法」は手に「気」が集まっていることが大切で、特にプロとしては手に心のすべてが集まっていなければ、相手にはたらきかける力とはなりません。このために心身統一が不可欠です。呼吸法により心が統一し、すべてが指先に集まる時、はたらきかける力としての「手」となります。
 「気」はひとつは体に行き、もうひとつは心に届くのです。
皮膚は元来、神経、脳とおなじもので、皮膚に触れることは神経、脳にはたらきかけることなのです。 
(註)をご覧下さい。
 ですから、この「愉気法」を重ねることで心の通い合いがより深くなっていきます。
 整体指導においても、整体指導法講習会においても、野口整体の思想と技術がいつしかその人を感化し、教導するものとなっていくのは、実はこの愉気法が重要なはたらきをしているのです。

 

小林幹雄 『別冊宝島220 気で治る本』
野口整体における気の研究

 「愉気」や「活元運動」をはじめとする整体の基礎的な諸技法は、その型こそ違え、いずれも気を練り、澄ませ、「裡の要求」に敏感な身体の育成と、その要求に順った自然な生活の達成を究極の目標に置く。ここに整体法が治療術や民間療法ではなく「体育」の技法であることの根源がある。整体法における気の特質の根本は、このように、気が「裡の要求」と結びつけられ、単なる治療の手段ではなく、生の豊饒化の基礎とみなされていることである。気に敏なからだとは、生を輝かすのに必要な行動を識るからだ以外の何者でもない。今ここに必要な色彩、音、香り、味。今私に必要な所作。立つこと。座ること。手足を伸ばすこと。裡に要求が満たされ、自然の秩序が現れるとき、人はそこに快と美を見出す。ベートーベンの音楽が真に求められるとき、モーツァルトは必ずしも快感をもたらさない。野口晴哉は、『眼と精神』のメルロ・ポンティーとともに言う。美の本質は、客体や対象にではなく、「裡」なる感受性にこそあるのだと。

 

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