《その4》

野口整体とは何か

《その4》

 

4-1 身体感覚を養う ──「正坐」と「活元運動」

 身体が「心身統一」という時、抵抗力が十全に発揮され病症を経過し健康を保つことができます。
 「脳溢血、癌、肝硬変といった重い病気は体が鈍くなって起こるものである」という、多くの臨床例に基づく野口先生の見解がありますが、体が鈍るとは身体感覚が劣化することですから、身体感覚を養い、亢めることこそ健康法となります。このためには日ごろ感覚を内側に向ける、「瞑想」的時間を持つことで、身体の統一性の度を亢めることが必要です。当会ではとりわけ「正坐」による、このような日常的「行」を勧めています。

 古来より日本の伝統的諸道の修行法は「心身統一」を目指すものでした。一般人の日常生活の中でも、正坐を中心とした行儀作法が心身統一を図るものとして行き渡り、これによって自ずと気が通った身体を保持していました。
 昨今では正坐の生活、着物の生活が廃れ、行儀作法までが忘れられて「身体性」が劣化したことにより、自らの体がどのような形になっているか、腰がどこにあるか、骨盤や座骨がどこにあるかといったことが本当に感じられなくなっています。これは決して、考えてわかることではなく感ずることによるしかありません。

 とくに現代は「脳化社会」と呼ばれ、会社生活などで頭を忙しく使っています。この頭を、十分に休めることなく生活していますと、「感じる」というはたらきが悪くなってしまいます。
 これまでの脳科学では「考える」はたらきは左脳にあり、「感じる」はたらきは右脳にあると言われていますが、右脳のはたらきは左脳に比べ「劣性脳」と呼ばれ、左脳が発達していくと、ややもすると隠れてしまいがちなはたらきと言われています。ために「感じる」という「身体感覚」を養うためには「目覚めているのに思考するはたらきが休んでいる」という「瞑想」が必要なのです。

 「目覚めているのに思考するはたらきが休んでいる」、これは段階的に、

 一、ぼーっとしている。
 二、ぽかんとしている。
 三、すっきりしている。

ということができますが、二、の段階にないと活元運動そのものが発動しないのです。
 活元運動は、「動く瞑想法」とも言われ、「錐体外路
(すいたいがいろ)」と呼ばれる「無意識」の領域の運動です。
 このように「身体感覚を養う」とは意識と無意識のつながりを良くすることなのです。

  

小林幹雄 『別冊宝島220 気で治る本』
野口整体における気の研究

 整体法は、コスモスとしての知識や理性を否定し、カオスとしての本能や無意識を肯定するという短絡した立場をとらない。無意識にこそ生命の自然な秩序が現れ、意識はその秩序の一構成要素とみなされる。意識が色濃くなりすぎたときは、意識を休めて心身を無意識に任せればよい。「意識を閉じて無心に聴く」。ここに無意識の運動神経を支配する錐体外路(すいたいがいろ)系の体育、活元運動が提唱されるのである。本能の動きは、頭の強ばりを解きほぐし、四肢五体に弾力をもたらす。意識は無意識が何を要求していたかを識る。「裡の要求」が運動をリードし、運動の洗練は感受性を高め、「裡の要求」をよりクリアに純化して意識に伝える。運動が鎮まり、からだの内奥から新たな要素が湧き起る時、人は静かに意識的生活に帰っていけばよい。
 活元運動は狂騒的なエネルギーの解放でもなければ、神秘な「霊動法」でもない。それは確固として意識の覚醒下に行われる。活元運動は正確には無意識の運動ではなく、治療法や健康法ですらない。その本質は、むしろ、鎮められた心が、躍動するからだの音楽に耳を傾け、今自らが本当に要求するものを見極めようとする感受性の訓練である。意識が、無意識と対話を繰り返すなかで、真に働く場を得るための、高度に洗練された文化の行為である。

 

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