《その2》

野口整体とは何か

《その2》

    

2-1「病症を経過する」野口整体の病症観

 野口整体の中心となる健康観、身体観の一つに「病症を経過する」というものがあります。
 風邪を自然経過する、それは「医薬に頼らない」ということになりますが、四十年前は野口先生自ら「ここ(整体協会)は気違い部落です」と言われていました。最近でこそ下痢や発熱に対して、「症状を止めようと医薬の投与を徒にする」ことは控えられるようになってきましたが、西洋医学全盛の当時としては反体制的な受け取られ方をしていました。

 

『ブッククラブ回』
2002年夏49号 人物評 より

 彼が言明した事柄の中には、既存の固定観念をくつがえす骨子がある。それは、「恐るべき」とでも表現したいような。たとえば彼は、「自然流産をする時は胎児が奇形である事が多い」と言う。体のある場所を刺激することで、このセンサー的メカニズムが働く。だから、野口整体を受けている母親からは健康な子供しか産まれない、と言うのだ。また、風邪の効用についても斬新な考え方を示した。風邪とは、偏り疲労を取るために体が調整しようという症状である。風邪をひいたら喜ぶべきなのだ。ウィルスや伝染病に関する視点も、当時の常識では考えられないものだった。それは、心身を成長させるものであって、人間にとって非常に重要な役割を担っていると彼は言った。今でこそ、このような考え方は、科学的な視点からも指摘されつつある。しかし戦後の日本で近代医学がもっとも発展した時期、このような理論を打ち出したのは驚くべきことだ。軽い自然主義とは根本的に違う、凄まじい何かが彼には存在していた。

 

 整体であることの目的は、自然の健康を保持することであり、それは自己に供わる自然治癒能力を最大限に行使することです。
 医学的に言うと、人間の体は「恒常性」を保とうとしての、反応するはたらき「ホメオスタシス」により、抵抗力を発揮するのがさまざまな症状なのです。
 この時、免疫力がはたらくことでの炎症により、不快感や苦痛を伴うものですが、こういう理解がきちんとしていないと、症状を感じた時に体が毀れたと思い、症状そのものが病気なのだと、症状を敵視しがちです。しかし、これこそ体内で体を立て直そうと「免疫細胞群」が活躍している現われなのです。このように、「抵抗力」が生きているはたらき、生命力そのものであると言えます。
 「野口整体」をよく分かっていない人は、「病院に行かない、医薬を使わないこと」と思っていますが、実は自己の持つ自然治癒能力を十全に使い、生命力を最大に活かす生き方なのです。

 

小林幹雄 『別冊宝島220 気で治る本』
野口整体における気の研究

全生とは病を得て、それを活かすこと

『月刊全生』1964年7月号
整体協会

 「全生訓」 (野口先生17歳)

 人に自己保存の要求あり、種族保存の要求あり、その要求凝りて、人産れ、育ち、生く。

 もとより何の為に自己保存を為すか、種族保存を為すか、知らず、たゞ裡の要求によって行動するのみ…

 何の為に産れ、何の為に生き、何の為に死するか人知らず。只裡の要求によって行動するのみ。

 人の生きんとするは人にあるに非ず、自然の生、人になり生きる也。

 自然、人を通じて生く

 生死、命にあり

 自然に順うこと、之生の自然也

 人の生くること、生くる為也

 その生を十全に発揮し生くること人の目的也

 人の生きる目的、人にあるに非ず。自然にある也、之に順(したが)う可し。順う限り、いつも溌剌として快也。

 健康への道、工夫によりて在るに非ず。その身の裡の要求に順つて生くるところに在る也。

 いつも溌剌と元気に生くるは自然也、人その為に生く。

 人の自然、四つ足で歩くことに非ず、野に伏し、生のものを食べることに非ず。

 感じ、考え、手足を使うこと也。笑うも、憎むも、喜怒哀楽するも自然也 

 火を使い、水を使い、雷を使うは人の智慧也、器物を使い、道具を使い、時を使うは人の智慧也。

 そのもつ頭を使い、手を使うは自然也。

 人その身を傷つけず、衰えしめず、いつも元気に全生すること人の自然也。全生とはもちたる力を一パイに発揮していつも溌剌と生くること也。

  

 昭和の初期、十七歳の野口晴哉が記した「全生訓」の一節である。彼は、十二歳のときに関東大震災に遭遇して、人の生と死の直截な姿を見つめ、路上に苦しむ人のからだに手を当て、自らのうちに潜む「愉気」の能力に目醒める。以来半世紀以上にわたって独立独歩の指導者の道を歩みつづけるなかで、この全生の思想は、いささかの揺るぎもなく彼の実践を支えつづけたのである。
 整体法は、徹底した肯定性の哲学に立脚している。痛みも苦しみも悲しみも、対立も矛盾も葛藤も、すべてが自然の秩序の一環として受容される。肉体も精神も、異常も正常も、健康も疾病も、分けることのできない統一であり、いずれか片方に価値が付与されマイナスのものが排除されるという構造は存在しない。全生とは無病であることではなく、病を得てそれを活かすことである。苦や逆境をどう活かすか、楽や順境をどう生きるか、それぞれのあるべき位置が追求されるにすぎない。貧しさはいつも負ではない。豊かさは必ずしも正ではない。充足や満腹のうちにも不快があり、欠如や空腹のうちにも快感がある。感受性を開拓し、生きる領域を拡げていくことこそが、動物にはない、人間にとっての自然なのである。野口晴哉が語る自然は、天然や野生を重視し、人為人工を排した「自然」とは似て非なるものである。むしろそれは、いわゆる文化と自然の対立を対立として受けとめたうえで、文化を活かすべき時を知り、自然に還るべき時を知り、人間に内在する植物的能力、動物的能力、精神的能力のすべてを活かしきる生き方をさしている。「裡の要求」とは、その意味での自然に順応しようとする生命の働きにほかならず、近代的自我の観念的な内面性とはなんの関係ももたない概念である(「裡」は「うち」「うら」の二通りの読みがあるが、整体法では「うら」と読むのが一般的である)。

  

  

 野口整体では体のはたらきが敏感(十全)に行われている状態を「整体」と呼び、これから離れた状態を「不整体」と呼んでいます。
 体が敏感であれば、「恒常性維持機能」として風邪をひいたり下痢をしたりということで体の健康を保とうとします。
(詳しくは『風邪の効用』
(ちくま文庫)をお読みください。)

 

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