小林幹雄 『別冊宝島220 気で治る本』
野口整体における気の研究
全生とは病を得て、それを活かすこと
「全生訓」 (野口先生17歳)
人に自己保存の要求あり、種族保存の要求あり、その要求凝りて、人産れ、育ち、生く。
もとより何の為に自己保存を為すか、種族保存を為すか、知らず、たゞ裡の要求によって行動するのみ…
何の為に産れ、何の為に生き、何の為に死するか人知らず。只裡の要求によって行動するのみ。
人の生きんとするは人にあるに非ず、自然の生、人になり生きる也。
自然、人を通じて生く
生死、命にあり
自然に順うこと、之生の自然也
人の生くること、生くる為也
その生を十全に発揮し生くること人の目的也
人の生きる目的、人にあるに非ず。自然にある也、之に順(したが)う可し。順う限り、いつも溌剌として快也。
健康への道、工夫によりて在るに非ず。その身の裡の要求に順つて生くるところに在る也。
いつも溌剌と元気に生くるは自然也、人その為に生く。
人の自然、四つ足で歩くことに非ず、野に伏し、生のものを食べることに非ず。
感じ、考え、手足を使うこと也。笑うも、憎むも、喜怒哀楽するも自然也
火を使い、水を使い、雷を使うは人の智慧也、器物を使い、道具を使い、時を使うは人の智慧也。
そのもつ頭を使い、手を使うは自然也。
人その身を傷つけず、衰えしめず、いつも元気に全生すること人の自然也。全生とはもちたる力を一パイに発揮していつも溌剌と生くること也。
昭和の初期、十七歳の野口晴哉が記した「全生訓」の一節である。彼は、十二歳のときに関東大震災に遭遇して、人の生と死の直截な姿を見つめ、路上に苦しむ人のからだに手を当て、自らのうちに潜む「愉気」の能力に目醒める。以来半世紀以上にわたって独立独歩の指導者の道を歩みつづけるなかで、この全生の思想は、いささかの揺るぎもなく彼の実践を支えつづけたのである。
整体法は、徹底した肯定性の哲学に立脚している。痛みも苦しみも悲しみも、対立も矛盾も葛藤も、すべてが自然の秩序の一環として受容される。肉体も精神も、異常も正常も、健康も疾病も、分けることのできない統一であり、いずれか片方に価値が付与されマイナスのものが排除されるという構造は存在しない。全生とは無病であることではなく、病を得てそれを活かすことである。苦や逆境をどう活かすか、楽や順境をどう生きるか、それぞれのあるべき位置が追求されるにすぎない。貧しさはいつも負ではない。豊かさは必ずしも正ではない。充足や満腹のうちにも不快があり、欠如や空腹のうちにも快感がある。感受性を開拓し、生きる領域を拡げていくことこそが、動物にはない、人間にとっての自然なのである。野口晴哉が語る自然は、天然や野生を重視し、人為人工を排した「自然」とは似て非なるものである。むしろそれは、いわゆる文化と自然の対立を対立として受けとめたうえで、文化を活かすべき時を知り、自然に還るべき時を知り、人間に内在する植物的能力、動物的能力、精神的能力のすべてを活かしきる生き方をさしている。「裡の要求」とは、その意味での自然に順応しようとする生命の働きにほかならず、近代的自我の観念的な内面性とはなんの関係ももたない概念である(「裡」は「うち」「うら」の二通りの読みがあるが、整体法では「うら」と読むのが一般的である)。