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交遊編大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔交遊編〕大田南畝関係
(大田南畝、あるいは大田直次郎として交遊のあった人)
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交遊詞書・漢詩・狂歌出典巻・頁年月日
ひがしかんのんじ
東観音寺住職
「三河の国小松原東観音寺のあるじ小松を贈られけるに
 子の日する比と三河の小松原御免の綱のためしにぞ引
 東観音寺はむかし神君より漁猟のあみ御免の寺なれはなり」
紅梅集②324文化15年
1818/02/02
ひぐち げんりょう
樋口 元良
 樋口元良 (別資料) (樋季成)
ひさがい
久貝
「久貝氏馬見所聯
 勇立春駒一春始 馴来秋草千秋中
 いにしへの耳のけものをまのあたり口とらせつヽみるぞめでたき

 二条摂政良基公嵯峨野物語、馬を耳のけものと云ふあり」
あやめ草②91文政4年
1821/09/
ひさぎ げんしょう
檟 玄昌
「国医檟氏に代る(清水の少傳近藤氏の還暦宴に氏の代作)
 曾識梁園一老臣 更逢初度会良辰 酒傾東海青春満 歌入南山白雪新 藩国棟梁施大厦 公門桃李卜芳隣
 称觴献寿沾余瀝 敢接嘉賓席上珍」
南畝集3
漢詩番号0330
③118安永4年
1775/01/
「九日、岡公修・山君忠・山道甫・井伯秀・辺公僚・檟氏・森氏・形叔邦・原士立と同じく江古田に遊ぶ。文韻を得たり (詩は省略、時候編の「重陽」参照)」南畝集3
漢詩番号0500
③173安永5年
1776/09/09
「檟玄昌を哭す 弟子如雲哭素牀 一時空惜失扁倉 上池水似千行涙 結作飛霜落白楊」南畝集3
漢詩番号0510
③177安永5年
1776/11/
ひさなが
久永
「久永氏の庭に白鷺池あり しら鷺の池としきけばいやにても五位の上いはのぼるべらなり」あやめ草②55文化6年
1809/11/
「冬日、市河世寧寛斎・菊池無絃五山と同じく久永氏に宴す
 坐茅洲上挹漁徒 長者街中引宿儒 泛愛豈図容計吏 管城曾易算盤珠」
南畝集17
漢詩番号3283
⑤137
ひさま くんてい
久間 君定
「久間君定の「碧溜池に蓮を看る」を和す
 赤阪門前碧水隈 池辺菡萏一時開 孤霞忽散関中彩 十歩争登月下台 白露色随珠玉砕 清香気逐綺羅来
 三三五五諸年少 酔裏幽情不易裁」

「君定に和す
 城門臨大海 郷国隔西肥 釃酒乗余暇 裁詩競落暉 垣墻車馬近 邸舎世塵稀 慢戯聊揮筆 空慙束広微」 〈佐嘉侯中邸、石井良弼舎集〉
南畝集9
漢詩番号1858
1860
④129寛政5年
1793/07/
びしちゅう
尾子中
「青山吟社、尾子中の広瀬侯に従つて雲州に帰省するを送る
 都門行色借氛氳 千騎東方従使君 已識青嚢医大国 還過白社惜離群 山川気鬱双竜剣 帝子歌停五彩雲
 更見郷園桑与梓 清陰不改望栄芬」

〈青山吟社は南畝も交遊した耆山上人の詩社。尾子中は南畝の詩友で出雲広瀬藩の家臣か〉
南畝集3
漢詩番号0354
③126安永4年
1775/04/
ひだぶんごのかみ
肥田豊後守
「崎の鎮台に陪して猟を観る
 燧木高原外 金峰墜石隅 人牽黄耳立 兎入緑陰趨 榛曲迒離脱 砲声響不孤 鎮台余暇日 夏獮歩平蕪」
【燧木場、地名。金毘羅峰に墜石有り】〈鎮台は長崎奉行肥田豊後守〉
南畝集15
漢詩番号2661
④378文化2年
1805/04/02
「秋日、肥鎮台【豊後守頼常】に陪して時津を巡撿す
 晴煙連彼杵 漁海望時津 更命漁人網 将探巨口鱗 四山囲紫翠 孤島聳嶙峋 鎮府乗余暇 清秋此一巡」
南畝集15
漢詩番号2725
④398文化2年
1805ウ08/09
びとう じしゅう
尾藤 二洲
 尾藤二洲 (別資料) (寛政の三博士・昌平黌教授)
ひとつやなぎ
なおのぶ
一柳 直陽
(会津藩)
「一柳直陽の暫く会津に還るを送る 大国霊神草創年 会津風土紀山川 九丘八索誰能読 左史唯余倚賢」
「其の二 春秋先軫敦詩書 文事翩々武備余 将削遺編供国学 寧栄衣錦耀郷閭」
〈会津藩士・別称新三郎。宝暦3(1753)年~天保5(1834)年〉
南畝集13
漢詩番号2291-2
④264享和3年
1803/05/
「会津の師徒蝦夷を鎮むと聞き、柳 直陽 奉先に寄す
 一自霊神降会津 雄藩喬木蔭賢臣 新分虎竹東方 更鎮蝦夷北海浜 伝令五申先已熱 折衝千里有誰倫
 衰翁六十聞斯語 伏櫪高歌撃節頻」
南畝集16
漢詩番号3158
⑤98文化5年
1808/04/
「会津藩一柳氏 直陽 の邸舎の作
 曲倉朱邸寓城隅 披巻晴軒対九衢 尽日主人長兀坐 如雲士女闉闍」
南畝集18
漢詩番号3597
⑤232文化9年
1812/02/
ひめじこう
姫路侯
 姫路侯 (別資料) (酒井雅楽頭・酒井忠道)
ひゃくせんろう
百川楼
 百川楼 (別資料) (桃李園・紀軽人)
ひゃくせんろう
百川楼
「田 映 玄対の百川楼の集ひ 解道長鯨吸百川 々々楼上酔群仙 雲煙過眼誰探得 赤水玄珠出九淵」南畝集17
漢詩番号3501
⑤200文化8年
1808/03/
ひらが
平賀(隣家)
「南隣平賀氏の庭の桜さかりなり 南殿の桜の宴もかくやらんみなみ隣の花おぼろ月」七々集②304文化13年
1816/03/
「ことしも南隣の平賀氏の庭のさくらさかりなるに、あるじは去年身まかりて給ひしかば、去年の春、歌よみかはせし事など思ひいでゝ
 つぼの中にひらがの桜さきにけりたれかはすえん花のかげ膳」
紅梅集②332文化15年
1818/03/
ひらが
平賀(柏原藩医)
「柏原侯の園中に玉芝を生ず。此れを賦して奉賀す。応藩医平賀生の需に応ず
 江北朱門映水清 侯園新見玉芝生 楚臣采罷称三秀 漢代歌成頌九茎 気借栄芬承雨露 色随膏沢似華苹
 何憂駟馬兼高蓋 却笑当年四皓情」
南畝集3
漢詩番号0510
③177安永5年
1776/11/
ひらた
平田
「「竹色を改めず」を賦して平田氏の五十を寿す
 満庭修竹擢千竿 滴露随風落玉盤 秀色清陰斉不改 寿筵長対碧琅玕」
南畝集5
漢詩番号1054
③360天明1年
1781/11/
ひらた こうさい
平田 弘済
「十四夜、雨ふる。榊原 敬文 子礼・平田 弘済(二字欠) 過らる【時に伯姉を喪ふ】
 (詩は省略、交遊編の「交遊」参照)」
南畝集16
漢詩番号3197
⑤109文化5年
1808/08/14
ひらた たいちゅう
平田 太沖(米沢)
「崎陽の官舎に平田弘済太沖の米沢に還るを送る。寄せらるる原韻を次ぐ
 壮年高志抱雄才 老子中心委死灰 若木将求神薬種 鎮台長混簿書堆 海南賈舶多呉会 封内深山本楚材
 人事世情何促迫 新知楽与別離哀」
南畝集15
漢詩番号2675
④383文化2年
180505/
ひらつか
平塚
「暮春、少府郎平冢君に陪して佐久間氏に宴す
 池塘藉草夕陽沈 翠蔓留春碧水深 更有主人吹玉笛 紫藤花底学竜吟
 蜿蜒藤蔓倚林叢 踏石穿苔曲径通 池上微風吹細浪 閑花時自落杯中
 其の二
 高堂一酔接簪纓 自笑疎狂故態生 鶏舌含香郎署客 鴬声勧酒主人情 其の三」
〈『大田南畝全集』の「年譜」は「御小納戸平塚為善」とする〉
南畝集6
漢詩番号1094-6
③378天明2年
1782/03/
ひらの
平野
「平野氏の浪華に戌たるを送る 経過東海道 征戌浪華城 来往軽離別 瓜期自有程」南畝集7
漢詩番号1489
③511天明8年
1778/11/
ひらの
平野 (長崎)
「訳司平野氏に託して王蘭谷に画虎に題せんことを乞ふ
  毎思蘭谷恋芳叢 為蝶為周夢不同 願得彩毫題画虎 能令絹素一生風」〈唐通事〉
南畝集15
漢詩番号2698
④389
文化2年
1805/06/
ひらやま
平山
「平山氏の七十を寿す
 品海春濤瀉寿盃 霞関瑞気遶楼台 即今致仕懸車日 未老登高作賦才」
南畝集7
漢詩番号1453
③501天明8年
1788/04/
ひろせ
広瀬
「広瀬氏の豊後州に還りて其の姉を寿するを送る
 西去関山幾日程 迢遥駅路入雲平 啼鵑忽響三春後 衣錦何労万里行 海上帆檣連鶴崎 天涯剣気指豊城
 団円共喜家庭宴 先勧飛觴寿女兄」

「蒼松篇を賦し得て広瀬氏の令姉の五十才を寿す
 不羨蟠桃樹 蒼々百尺松 色迎青鳥媚 蓋帯白雲重 聊献南山寿 長思泰嶽封 流膏看入鼎 千載玉為容」
南畝集4
漢詩番号0539
0540
③190安永7年
1778/03/
ひろせ
広瀬
「広瀬氏の盆松、延宝年間種うる所。今に至つて百余年、繁茂して改めず。広瀬氏、人をして之を図せしめ、予に詩を請ふ
 延宝之年種一松 百余霜後更重重 請看老瓦盆中物 蟠屈孤根似蟄竜」
南畝集6
漢詩番号1287
③442天明5年
1785/08/
ひろつ よしぞう
広津 善蔵
(肥前田代)
「崎陽の客舎に懐ひを広津善蔵・緒方信国宝に次ぐ
 邂逅田城駅 乍辞岐路傍 九州難接界 二子各分香 徒有采薪疾 不臨釃酒觴 嗣音君莫惜 一歳在茲郷
 又。国宝の韻を次ぐ 朝望蛾眉山 暮望蛾眉山 何日携壷酒 与君酔此間」
南畝集14
漢詩番号2561・2
④346文化1年
1804/10/
「田城駅に宿す。是れ去年宿せし所の処。会々広瀬(ママ)・緒方二子酒饌を携ふ
 十月紫陽今夜月 一庭蒼色去年松 飄然二客来相訪」
〈本文には「広津氏良蔵」とあり⑨12〉
南畝集15
漢詩番号2768
④412文化2年
1805/10/13
びわまる
せいざんどう
青山堂枇杷丸
「青葉集はし書
 青山堂杷枇麿、詩歌連誹書画をあつめて一帖とし、座右の玩びものにせんと、さもこと/\しき赤表紙に、こその雪をもあざむくべき紙をかさねて、これがはし書せよといふ。この比中便利になりもてゆきて、三幅対の中尊の仏画をぬき、手鑑のうちに明店多し。詩一首の横竪もの、和歌の懐紙、短冊の台表具、連誹の句々、書画の数々、一々裱褙したらんには虫干もむつかしく、軸の落るに堪ざるべし。故に此一帖を作りて、つゞれのにしき乞食仕立、七色茶漬の菜のごとし。卓袱料理の台のごとく、箸のごとく筆とり給へといふ事しかなり」
〈山手の書肆、雁金屋清吉。平々山人〉
巴人集②453不明
Top浮世絵師総覧交遊編大田南畝関係