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   人物編Ⅰ 大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌〔人物編Ⅰ〕   大田南畝関係
 (浮世絵師・狂歌師・役者・遊女・芸者等、当世の人物)
  【は】※浮世絵師は名前別。◯は欠字、◎は表示不能文字
人名詞書・詩歌出典巻・頁年月日
ばあ
婆阿
「婆阿五十の賀に寄酒祝といふ事を 又もみん栄花の夢の五十年粟餅くはず酒をのみ/\」
〈文政元年の『諸家人名江戸方角分』に「市ヶ谷・古人・狂歌・婆阿 名丁逖(マサトヨ)。字菶中、錦江、(号)春日部。原町、薬種屋、雉髪道甫。桑名屋与左エ門」とあり〉
巴人集
徳和歌後万載
②424
①29
天明3年
1783/12/
ばいかそう
売花叟
「生活従来異俗流 還非少卜老医儔 売来売去花千朶 九十春光一担頭」南畝集17
漢詩番号3379
⑤166文化7年
1810/07/
ばいきょくじょ
梅旭女
「五月の頃、梅旭女をとひ侍りしに、いぎたなく朝寐したりとて  梅旭女
 とひきます四方はひるまもなき比のさみだれ髪で筆をとりけり
 返し 入梅に旭もいまだいづみやを雨ふりはへてたづねこそすれ」
「五月雨の比、四方赤良のとぶらい給ひし折から朝ゐしたりければ【梅旭女 堺町泉屋】
(以下、梅旭女の狂歌、赤良の「返し」上に同じ)」
〈『諸家人名江戸方角分』「狂歌師。梅旭女 堺町茶屋(和泉)市川白猿妻 父市村何虹女」〉
巴人集
徳和歌後万載
②409
①25
天明3年
1783/05/
ばくろちょう
馬喰町 (伯楽連)
「老女懐旧【馬喰町会兼題】川水のながれて年をふる婆々のむかしむかしのはなしせんたく
 大道納涼 大道の風はすずしくふけとさや夕げの神の辻うら屋より」
巴人集②408
②457
天明3年
1783/05/14
「西瓜立売【六月十四日、馬喰町会】あんどうのにあけを奪へるなまなれの西瓜にだれも腹をたちうり
 寄花火恋 閨の戸をあくる鎰やの玉々やしのび来る夜を花火とぞ待」
巴人集②408天明3年
1783/06/14
はじ の かきやす
土師 掻安 
「深川なる土師掻安のもとにて百物語のたはぶれせんとて、舟にのりて油堀といふ所にいるとて、そのわたりに椀ぐらといへる所あれば 舟もいりつく皿の油ぼり鬼ひとくちに椀蔵のかた」狂歌才蔵集①48天明7年刊
1787/01/
はせがわ
初瀬川 (相撲)
「初瀬川といへる角力、本所あい生町にて人とたゝかひうせしときゝて
 二もとの松さへかれぬ本庄の相生町の三町目にて
 角觝夫号泊瀬川 二株松樹立岩阿 乍聞讎的雌雄決 不比尋常勝負多」
あやめ草
南畝集20
漢詩番号4627
②93
⑤526
文政4年
1821/11/
はたまき
はた巻 (遊女)
「文字楼のうかれめはた巻が手本に 筆とりてかくすみ色やこきん集そのざれごとも千うたはた巻」
〈文字楼は吉原京町の大文字屋。主人は加保茶元成〉
巴人集②429天明4年
1784閏01/
はっとり なんかく
服部 南郭
「春日、徐徳卿・井子卿・鈴一貫と同じく西郊に遊。五首
 赤羽先生白賁園 茅茨欹側鎖柴門 牀頭画古余棲鶴 帳裏人空叫暁猿
 西嶽芙蓉廻望出 東隣松樹至今存 傷情不但山陽笛 伐木丁丁処処村」

 右、白賁墅【南郭服子遷先生の墅、渋谷羽沢に在り。壁上、猿鶴を画く。先生の詩に云ふ。東隣幸ひに借る青松の色、西嶽何来の白雪の光と】」 〈墅は下屋敷〉
南畝集8
漢詩番号1588
④33寛政2年
1790/02/
「赤羽橋を過りて南郭先生を懐ふ
 赤羽橋辺木葉稀 依然流水遶臨圻 遺音唯有伝天籟 南郭先生去不帰」
南畝集2
漢詩番号0251
③87安永2年
1773/10/
はないさいざぶろう
花井 才三郎
「花井才三郎によみて遣しける 狂言の花井をこいのみつ鱗手にとりみればかのかのの介をみなへし②43文化六年
1809/07/
「花井才三郎はじめて朝比奈のわざおぎすときゝて
 初春の花井才三が大入はこれ元日の三っの朝比奈」〈市村座『春栄松曽我』〉
あやめ草②58文化七年
1810/01/
「花井才三郎、亀井六郎なれば 亀屋より亀井の六郎きてみればよしのの花井才三郎丈」放歌集②167文化8年
1811/09/
はながた ぶんえい
花形 文英
「花形文英、由利子書画会【九月廿八日】
 花川戸巴屋 形是住駒形 文字伝流義 英華顕額銘
 由来書画盛 利得酒魚声 子供能稽古 会筵初幼齢
 花形の花もたかちも玉藻よきさぬきのお客おほき巴屋」
〈句頭の漢字を連ねると「花形文英由利子会」〉
七々集
巴人集拾遺
②260
②493
文化12年
1815/09/28
はなし の みみとう
歯なしの耳遠
「羽田村に耳遠といへる狂歌よむ翁、年七十九になるときヽて、わが年も六十一なれば
 我も又やがて貴様におひつかんつゞやはたちの年はたちまち
 翁予に扁茅屋に書するを請ふ。海籌の字を書して以て之を与ふ」
玉川余波②126文化6年
1809/02/03
「羽田にすめる翁、狂歌をこのみてたはれ名を歯なしの耳遠といふ。けさ鮮らけき魚を贈るとて、世中のたゞよかれゐの献上は沖にはねだの魚のとりたて、といひおこせしかば、かへし
 いはほにもなるべきさゞれいし鰈さゝげ出たる弁天の沖」
玉川余波②139文化6年
1809/03/07
はなつま
花妻
「遊女花妻が竹の画に 川竹のふしどをいでばきぬぎぬのそでひきてめてはなつまじくや」七々集
万紫千紅
②259
①290
文化12年
1815/09/
はなみち の つらね
花道 つらね
 花道つらね (市川団十郎 五代目) (別資料)
はなや ろくべえ
花屋 六兵衛
「花屋六兵衛といへるものゝ六十一の賀に 百歳のうちを六十一ひけば三十九じやもの花屋六兵衛」巴人集拾遺②476未詳
ばば きんらち
馬場 金埒
「金埒がかける大般若六百巻転読の僧の画に 大般若六百巻も何かせん金埒が歌ははだか百貫」あやめ草
千紅万紫
②69
①233
文化7年
1810/03/
はまべ の くろひと
浜辺 黒人
「はまべ黒人、車井長綱、高羽子おどりなど伴ひて、鼠山に茸狩にまかりて雨にあひて
 初たけのやぶれかさをもとりあへずふりくる雨にぬれねずみ山」
狂歌才蔵集①42天明7年刊
1787/01/
「黒づくししばらくのつらね【浜辺黒人祝髪賀宴】
 しばらく/\、桐油ほくち南蛮鉄、四位黒袍天地玄黄の其中に、玄の又玄狂歌の門、入らざるものゝあらざらんや。京橋中橋中黒の、黒いは北の水谷町、すみからすみゑの三番叟、色のくろい尉殿に、さあらばすゝ玉たどんの粉、目黒の不動大黒天、九郎判官九郎助いなり、八瀬や小原の黒木うり、甲斐の黒こま八幡黒、黒鴨の供黒仕立、香に黒方楊枝に黒文字、にがいは家伝の黒丸子、あまいは名代の黒砂糖、黒米めしの三きね半、その 神明のおはします、芝のはまべの狂歌の御奉行、黒人新翁、おなじみの黒髪山をそりこぼち、かしらもまろきかゞみ山、いざたちよりて黒主も、そこのけといふ歌仙の中へ、つん出た四方の赤つ下手は、人主が造化、請人が菅江、大屋がうら住、腹からが秋人、うしろにはつがもない、わけて此道すきやがし、黒極上の狂歌仲間、けふのまとゐの御祝儀に、おらが連中花道の、つらねが一寸口真似と、ホヽうやまつてまうす」
〈『蜀山人の研究』天明3年の狂文とする〉
四方のあか①144天明3年詠
1783/
天明8年刊
はら かじゃく
原 夏若
「長月廿日、吉田蘭香のもとにてはじめて市村家橘にあひて
 よい風が葺屋町から来る客は今宵の月をめでて太夫元
けふなん中興全枝半太夫が三回の忌日なりとて、原夏若の三味線にて家橘半太夫をかたりければ
 半太夫もとをわすれぬ一ふしもけふきく月のはつかにぞしる
をなじく夏若の三味線にて誌仲の源平兵揃蓮生道行の段をかたりけるに、とりあへず太夫元の舞出ければ
 蓮生の道ゆきかゝりとりあへずうたふもまふもつはものぞろへ」
 返し 市村家橘 はじめての連中様へ蓮生の道行かゝりさてもめいわく
巴人集②418天明3年
1783/09/20
はら ぶたゆう
原 武太夫
 原武太夫 (別資料) (観流斎 原富)
はら こうざん
原 更山
「原更山肖像 下駄新道卜居閑 伐木丁々山更山  【更山住鍛冶町西下駄新道】」
〈漆芸家。粂次郎。羊遊斎。蒔絵に名手。弘化二年、七十八歳没〉
紅梅集②314文化14年
1817/09/
ばらんてい
馬蘭亭
 馬蘭亭 (別資料) (山道高彦)
ばんき
万輝和尚
「東海寺万輝和尚にはじめて謁しける時 東海を出し一つの月かげの末はよろづのひかりとやなる」巴人集②403天明3年
1783/04/
ばんしゅうさい
万秀斎
「神無月十三日甲子の夜、堺町泉屋のもとに、万秀斎の花を挿むを見て
 甲子にこがねのきくをいけの坊水ぎはたちてきよきいづみや」
七々集②267文化12年
1815/10/13
ばんどう ぜんこう
坂東 善好
「板東善好によみておくる かたきとはうそをつき地の役まはり善を好むと聞くはまこと歟」をみなへし②43文化6年
1809/07/
ばんどう みつごろう
坂東 三津五郎
 坂東三津五郎 (別資料)
ばんどう もくぞう
坂東 杢蔵
「中村座にて坂東杢蔵といへる少年、羅生門がし青野といへる小女のわざおぎをみて
 顔色の青野がはらのきりみせもいまは千とせの靏賀新内」
〈「四天王御江戸鏑」〉
七々集②278文化12年
1815/11/