Top      浮世絵文献資料館 人物編Ⅰ
 
   人物編Ⅰ 【は】大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔人物編Ⅰ〕大田南畝関係
  【原 武太夫】(はら ぶだゆう)(観流斎 原富)◯は欠字、◎は表示不能文字
詞書・漢詩・狂歌出典巻・頁年月日
「原富五郎 市谷大隅町【後尾州御やしき囲込になる、五段坂辺也】に住て御先手与力をつとめし人、其節三絃の名人也。武芸にも達せしと云。予十六七のとき、加賀屋しき原【市谷】内山賀邸先生の宅にて見しに、惣髪にて太刀こしらへの大小をさしたり。七十位の年成べし」一話一言補遺
参考編1
⑯150明和1-2年
1764-5/
「観流斎原富は近代三絃に名だゝる人也。その子夏若子たはれ歌の名をこひ侍りければ、布留の糸道と名づけ侍るとて いく千代もふるの糸道跡たへぬ君がちすぢをたれかさみせん巴人集②400天明4年
1784/
「遊女高尾朱腕記 此器や、山谷わたりに名だゝる遊女、三浦屋のもと何がしとかや、最上氏に従良せし時、百の椀器をつくりて、したしきかぎりにわかちあたへんとなん。時うつり事さりて、原富の子香玉子の家蔵となり、美人の彤管にもかへざるべし。原富はむかし、あし引の山の手に、名だかき三弦の妙手なり 今も世に名のみ高尾の紅葉ゞは朱椀朱おしき昔なりけり四方のあか①114天明8年刊
1788/
「原富五郎【後称武太夫】表徳は原富(又武)、三線に堪能なる人なりけり。いつの年にやありけん、市谷長流寺にて原富の三線に白獅【市谷袋寺町一向宗浄栄寺先住】が尺八にあはせて、道成寺の曲をなせしに、此しも秋の末なりしが、空にはかにくもりて雨ふりけるとなん。此座にありあふ人々、その妙を感嘆しければ、原富笑ていはく、三線は淫声にて雅楽にあらず、道成寺の浄るりまた古の曲にあらず、何ぞ天の感じ給ふ事あらん、ほどよく雨にふりたるはわが幸なりと申き。此時先新九郎(遊翁)【鼓の名人】先山彦源四郎【三線の名人】歌舞伎役者尾上菊五郎【梅幸】市村亀蔵【五代目羽左衛門】は聞居て感じけるとぞ〈原武太夫は安永五年没〉俗耳鼓吹⑩28天明8年序
1788/06/
「砧の弁(ウタ)」安永元辰十二月 原武太夫盛和〔原富〕行年七十六〈「砧の弁」は原富の「砧」の古曲に関する識語。生年は逆算すると元禄10年(1697)になる〉俗耳鼓吹⑩30
天明8年序
1788/06/
「大門より内へ士人のいるに編笠をかぶらざりしは、原富よりはじまれりとぞ。原富は御留守居与力原富五郎武太夫、三線の名人也」金曾木⑩290
文化6年序
1809/05/
「原氏某は岡安の門人にて、宝永の比より三弦を以て鳴りたる人也。ある日、品川のある楼に行ける時、三弦の音つねに変りたるを聞て、海嘯のあるべきをしり、其席を終らず一座の友を誘ひて急に帰りけるに、程なく大に沓潮して、浪の為に其ほとりの家ども流失し、人も多く損じたるよし。一時の技芸といへども、その妙に至りしを人々感じけるとぞ」仮名世説 上⑩326
文政8年刊
1825/01/