鴨東史談 藪田嘉一郎の世界 
1.和紙研究会 2.史迹美術同攷会85周年 3.お多佳さん 
4.洛中尼寺(猫の寺)
 5.山本有三と薮田嘉一郎
 
6.寿岳文章・章子親娘  7.京都新聞 THE KYTO
8.新日本風土記 松本清張 9.松本清張関連記事三話
10.民芸と岩井武俊

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10. 民芸と岩井武俊  夏秋ギャラリー10民芸と掛軸
 

   
   
 岩井武俊氏から父あてに来た葉書に対する返信。このわけのわからなさがとってもユニークで知的かなと思い掲載しました。なお文中の「多胡の碑」は群馬県高崎市吉井町にある古碑・和銅四年(711)で、国の特別史跡に指定されている日本三古碑の一つです。

岩井武俊(1886-1965)は考古学者でありジャーナリスト、毎日新聞京都支局長として活躍。その元支局は今も三条御幸町にあり、素敵なレトロ感を出しています(一階にはギャラリー、上階にはギア)。設計は竹田五一。岩井武俊は毎日に入る前に島津製作所の社員であり、その製作所(現・フォーチュンガーデン京都)も竹田五一設計。岩井はそこで文化財の模型を製作、50年前私はここで何点かの標本を購入し、採拓の資料としました。特に中尊寺華鬘(重文)は素晴らしいものでしたが紛失しました。ということでなんとなく私までリンクしております。

岩井は多方面で活躍していますが、日本の民芸運動にも関わって、柳宗悦、河井寛次郎、棟方志功などとともに礎を築いた人でもあります。

私が拓本をアートとし、創作掛軸を始めた四五十代頃の作品では、柳や河井が東寺の弘法さんや北野天満宮の天神さんの骨董市で古物を漁ったように、古裂を蒐集し掛軸に仕立てました。最近整理していたら初期の作品が出てきたので掲載します。

夏秋ギャラリー 4.民芸と掛軸

拓本HP 民芸と拓本

そういえば目黒の時代布・池田の先代に「人形作っているの?」といわれて、掛軸といって感心されました。

←蓬莱寺
(愛知県新城市鳳来寺山)梵鐘
  棟方志功画 菩薩拓本掛軸 藍染古裂使用



9. 松本清張関連記事三話   戻る
   NARA 松本清張と台湾ミステリー小説 台湾80歳から学んだ故郷

 nara  NARA本文
NARA 奈良県立大学ユーラシア研究センター編 を知人からいただきました。これは松本清張「火の路」でゾロアスター教のことがでていたので、贈っていただきました。ありがたいことです。本書は2015年から19年におこなわれた「古代ペルシャからの贈り物「ゾロアスター教と奈良の文化」というフォーラムの講演・討論を編集出版されたものです。なおゾロアスター教と日本の関係についての言及は清張さんが最初だそうです。
とっても興味深く拝読しましたが、ここでは当時、奈良県立橿原考古学研究所所長をしておられた菅谷文則さんについて記しておきます。
父・藪田嘉一郎は京大在学中から、国史の研究だったのに、考古学にも興味を持ち、末永雅雄先生や山根徳太郎先生と昵懇となり、その縁で便利堂を退職した後、綜芸舎を創りますが、昔のよしみで末永先生には各地の発掘調査報告書の出版、山根先生には難波の宮跡の報告書出版の仕事を回していただき、なんとか商売下手の父も経営が成り立ったようです。私が経営を継いだ後もその関係は続き、末永先生の狭山のお宅や山根先生の東福寺近くのお宅にも幾度も寄せてもらいました。
そうこうするうちに、1976年父は他界!2年後、突然末永先生から電話があり、「君も拓本できるのなら、今度できるアサヒカルチャーセンターで講師をやらんか」というお誘いを受けました。最初だからということで、先生が講義、土器とか瓦は先生の助手に、外で碑の採拓は私ということになりました。なんとその助手が菅谷さんだったのです。あれから40年以上たちます。あれ以来ほとんど会うことのなかった菅谷さんを本書で見つけてびっくり!素晴らしい研究をされ、飛鳥では清張さんの案内もされたとか!縁ですね。残念なことに菅谷さんは2019年77歳で亡くなられました。

蛇足ですが、私の大好きなクイーンのフレディーマーキュリーの父母はゾロアスター教徒、最高傑作のボヘミアンラプソディー
にはその影響が出ているといわれています。
 松本清張記念館から贈られてきたのは「松本清張と台湾ミステリー小説」、展覧会は10月23日まで記念館で。そして同時に台南市「国立台湾文学館」でも行われました。清張さんの本はほとんど翻訳されているそうです!

最後に、故宮博物院とのコラボで出版されている
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」等の経本の製作に関し、僧伽林文化出版有限公司には何時もお世話になっています。謝謝! 美術・工芸
 そしてほとんど同じ時期にいただいたのが、土光洋子著「台湾 80歳から学んだ故郷」。
土光さんのおじさんは有名な経団連会長であった土光敏雄さんです。彼女は台湾で生まれ育ち、いまは東京で日本画家として活躍されています。戸越神社のお仕事以外にも、展覧会の屏風や額を作らせていただきました。
本書では戦後あまり語られてこなかった台湾のこと、そして日本との関係を、そこに生きた人間として赤裸々に語っておられます。土光さんの描かれた戸越八幡神社の絵巻と天井画は跡書をご覧ください!

ここで紹介した三冊の本、いづれも知らないことだらけ、勉強になります。これではなかなか死ねないですね‼
 清張 台湾

8. 新日本風土記 松本清張 出会いの旅路 戻る

新日本風土記 
 新日本風土記1
 新日本風土記2
京都の”怪物”との出会いが生んだ古代ミストリーに故・藪田嘉一郎が取り上げられ、私も出演!
 色紙  綜芸舎おもて
我が家での撮影。バックが本田味噌
 清張と父  工房
工房での撮影。拓本・裏打場面はカット残念
1975年9月28日松本清張さんが父の入院先であった鞍馬口病院に見舞いに来ていただいた折、居合わせた看護師の方たちに色紙を数枚したためていただきました。色紙が無くなって、父にはノートに同じ文を書いていただきました。ところが今年になって、この京都新聞を見た当時いた元看護士の方から、色紙一枚を家にあるより、そちら様にとお持ちいただきました。ありがたく頂戴しました。(2020.5.5)  

7. 京都新聞 THE KYTO2022.9.9掲載 戻る

 松本清張と父・薮田嘉一郎  

the kyoto 「松本清張が仰いだ京都の“怪物” 」 五回に渡る掲載!
在野学者としてあまり知られていなかった父・藪田嘉一郎が 2020年の京都新聞と今回のWebサイトで紹介され、ある程度認知されたことは、私や家族にとって望外の喜びであります。この記事をお読みいただいた皆様にも感謝です。

 QR
京都新聞 
 清張京都の「火」
 2021年11月26日の京都新聞 の「松本清張に京の「先生」」という題で掲載していただいた記事の関連記事として、2022年2月24日の文化欄・多面鏡「清張と京都の「火」」が掲載されました。
父・藪田嘉一郎は古代史・金石学が主な研究主題ですが、それ以外に能の研究や民俗史、精神分析学の研究にも興味を持ち、特に易学においては「周易古筮考」(紀元書房)や「梅花心易」(三密堂)の著作もあり、自己の行動においても易を利用していたことは日記からもわかります。さて父は易学の著作出版にあたり、嘉一郎から「曜山」と言う号を使い分けておりました。その号が松本清張さんの「火の路」から、曜山の曜が耀に変わったことが若井朝彦さんから指摘があったことが述べられておりますが、わたくしは知らなかったことで新発見となりうれしく思っています。またみうらじゅうの「清張地獄八景」からの巧みな記事に対しては京都新聞の樺山聰さんにも厚くお礼申し上げます。
 京都新聞


6. 寿岳文章・章子親娘 戻る

 章子書籍 壽岳章子
 頂いた単行本、右端の「文体の科学」と「日本の文章資料」は弊社・綜芸舎から出版させていただきました。 
 寿岳文章サイン 章子先生
右から石造美術の権威・川勝政太郎夫妻・壽岳章子・樺島忠夫
私が京都府立大学(当時は西京大学)に入学、史学を目指したのですが、当時はあまり充実してなく、次善に選んだ国語国文学科に偶然にもご長女の章子先生が在籍されていたのです。それ以来先生のよき同僚であった樺島忠夫先生お二人から薫陶を受け、充実した大学時代を過せました。卒業後もずっと可愛がって戴き、お父様の文章先生、お母様のしず先生、東大の天文学者であった弟君と私の車でドライブしたこともありました。章子先生がやぶちゃんこの車事故するとたいへんだよーなんていわれコチコチになって運転したものです。文章先生の推薦で電通を受けたのに試験がまったくできず落ちてしまいました。今でも恥じています。同級生であった妻との結婚式の司会、また父が亡くなった時の遺作の出版記念会での司会、忙しい中快く引き受けていただきました。そのときの写真です。その後先生も猛烈忙しく、私も多忙になってお会いする機会は減りましたが、年賀状は最後まで私の方でさせてもらいました。あまりうまくないがとっても趣のある干支を鉛筆書きしてもってこられたことつい昨日のように思い出されます(2005.8.1) 

5. 山本有三と父・薮田嘉一郎 戻る

 山本有三
 父・藪田嘉一郎は晩年、松本清張さんとは懇意にさせてもらいましたが、清張さんとお会いする前は山本有三さんとも親しく接しておりました。多くはお手紙でのやり取りでしたが。有三さんが京都に来られた折にはホテルでお目にかかっていました。有三さんも父の研究に目をかけていただき、お互いに啓発する関係だったようです。
今年6月、たまたま山本有三邸が三鷹にあることを知り寄せてもらいました。晩年は湯河原に居られたので、三鷹に本宅があることを知りませんでした。
紫陽花の咲く素晴らしい洋館に感激する一日となりました。
山本有三記念館 

 山本有三  手紙

4. 洛中尼寺(猫の寺) 戻る

洛中尼寺日記   見返し
父はかって1970年代、平安博物館(今の文化博物館)の教授待遇のような仕事をしていました。 これは日本銀行であった建物を譲り受けて、財団法人・古代学協会が平安博物館を設立、現在イベントに使われている旧館のホールに巨大な寝殿を再現しました。この設立の中心人物であった、角田文衛氏の依頼によるものでありました。そしてその館員として、史蹟をめぐる講座を立ち上げたのが、末永文子さん。そして彼女の友人の尼さん。父は晩年、病に倒れるまで、この本に出てくる尼寺・福田寺(ふくでんじ)に足しげく通って、二人に自分の研究について話すのが本当に楽しみだったようです。最近本棚から「洛中尼寺日記」(昭和出版昭和49年刊)を見つけて、読み直し、ぜひ紹介したいと思いました。
実はこのお寺は二条駅の裏、三条通近くにありました。この辺りはかって、京都の材木屋の中心で、また鉄道輸送の拠点として多くの倉庫もありました。近年、材木屋はほとんどなくなり、二条駅が改築され、イオンができ、立命館大学が来てずいぶん様変わり、福田寺もなくなったのではないかと危惧して訪れてみると、ひっそりと新興住宅の中に小さくなって残っていました。無住に近く、連絡先の兼任のご住職から電話をいただいたところでは、小説家であった末永さんはもうずいぶん前お亡くなりになられましたが、尼さんは100歳近くだがホームで元気でお過ごしだそうです。(2018.2.2) 
 国栖  福田寺尼

3. お多佳さん  戻る

 NHKBSドラマより 2016年12月10日NHKBS「漱石悶々 夏目漱石最後の恋 京都祇園の二十九日間」というドラマがありました。これは漱石12月9日没後百年記念番組で、豊川悦司が漱石を、祇園の女将を宮沢りえが演じました。 少しコミカルな番組でした。かって父・薮田嘉一郎の雑誌「東京と京都」(1962.10号・白川書院刊)の鴨東昔話④の文のなかに、お多佳さんとの出会いが書いてありましたのでここに載せておきます。また書棚に谷崎潤一郎の「磯田多佳女のこと」(全国書房版1947.9 本紙・和紙袋とじ、彩色口絵という素晴らしい本)も見つかったので併せて紹介します。なお多佳さんの料亭「大友」の跡に立つ吉井勇の「かにかくに・・」碑拓本を採っています。私が生まれる前までは我が家は祇園富長町に住んでいました。
写真1 ドラマの宮沢りえのお多佳さんが大友の提灯に火を入れる。
写真2 夏目漱石の色紙「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を隔手ゝ男女かな」(谷崎本から。この部分がドラマに・なおこの碑もあります)
写真3 谷崎潤一郎著「磯田多佳女のこと」
写真4 多佳女の部屋(前著の挿絵) 吉井勇がこの情景を歌に。そして今この場所に碑が立ち、毎年11月8日「かにかく祭」が行われ舞妓さんが献花します。これは吉井勇に対してより、かって文芸芸者といわれたお多佳さんへの後輩たちの追悼でしょうね。
「鴨東昔話④」(途中より)
 戦争の末期に北岸、即ち新橋通南側のお茶屋さんは強制疎開で潰され、戦後には道路となった。今日ではまた別趣の景観をなし捨て難いが、私は昔の風景の方が好きである。この漬されたお茶屋さんの一つに大友さんがあった。今、そのあとに吉井勇の「かにかくに祇園は恋し」の歌碑が据えられている。大友は磯田お多佳さんの経営であった。お多佳さんについては谷崎潤一郎氏や吉井勇氏の書かれたものがあるから賛しないが母の先輩であり、友人であり、母はお多佳さんを敬愛していた。私はお多佳さんの嗣子又一郎画伯とは小学校が一しょで、われわれは又一郎さんを「小ぽんちゃん」と呼んで親しんでいたが、お多佳さんとは面語したことがなかった。ところが昭和四年(1929)のことでなかったかと思うが、はからず島文次郎先生のお宅でお会いした。華水島先生はそのころ京都大学名誉教授で、銀閣寺南隣の広大な地所に小じんまりした家を建てて住まわれていた。先生は元来英文学者であったが、なかなかの粋人で、かねて知遇を賜わっていた母は私に先生の御薫陶をうけるように申付けたので、私ほ或る期間しげく先生のお宅にお邪魔した。今でもその道の書を手離さない、英国流フォーク・ロア(民俗学)を教えて頂いたのもその席に於てであった。先生ほ粋人であったが故にお多佳さんとおなじみだつたのだが、またお多佳さんの頼み人岡本橘仙さんの友人でもあったので、よけい親しかったのであろう。橘仙さんは三条小橋西入の万家という旅館の旦那さんで、高雅な文芸趣味を特たれた。晩年、小沢蘆庵を追慕してか岡崎に隠栖し、悠々自適の生活を楽しまれた。私のくだらぬ随筆がお目にとまり、ほめて頂いたということで、恐縮している。
 私は、その日が八月十五夜か九月十三夜か忘れたが、とにかく名月にあたると知らないで、島先生のお宅におったが、夕方、訪れた婦人がある。それがお多佳さんで、今夜は名月だから月待山から上る月を見せて貫いに来たとのことであった。東山殿足利義政は「わが庵は月待山の麓」と詠んだが、島先生の山荘も銀閣寺に接しているのであるからやはり月待山の麓で、庭前に山の姿がある。お多佳さん御自身の家がすでに名月風景中のものであるのにわざわざと思ったか、いくら好風景中にあっても自分ではあまりそれを感じるものでなく、他に好風景をもとめるのは人情で、それで東山時代からの月の名所にあこがれ出でられたのであろうと、その風流に感じ入った。島先生は大喜びで、お邪魔だから帰るという私をむりに引とめ、三人で月見をすることになった。庭にはわびた大きい泉水があって、鯉がときどきはね上って鈍い音をたてた。先生は「薮田君はあの鯉をとって食おうと言っているよ」と無風流なことをわざと言って笑われる。日が暮れて、今まっくろな山塊となった月待山の一角から、吐き出されたように、月がぬっと出た。出るなり、お多佳さんは、それではおいとましましょう、と言われた。その退きぎわの鮮やなことといったらない。さすがと感嘆し、お供をいたしましょうと、私も辞去した。帰途、いろいろお話をうかがったようだか、それはすで記憶にない。 
 漱石色紙
 谷崎潤一郎
 白河図
 吉井勇碑
 かにかくに屏風


(お多佳さんは1945年に亡くなっているので、この話はお多佳さん50歳のとき、父が25歳、漱石が出逢ったのは1915年、お多佳さん35歳くらい、谷崎潤一郎があっているのはそのあとくらい。谷崎潤一郎によれば、お多佳さんは色黒で、あまり化粧もしていなかったが、目が利発で才気が出てるように思ったそうです)
 

2. 史迹美術同攷会85周年 戻る

 史美会   史迹美術同攷会は今年創立85周年、11月8日妙心寺で記念会が行われました。会誌「史迹と美術」は859号、1020回となる長寿の石造美術を中心に歴史や史跡、古美術や古建築、庭園を研究する会です。
創立者・川勝政太郎先生を含めて創立時メンバーはほとんど亡くなりました。父・薮田嘉一郎は川勝先生の親友として、相談に乗ったり援助したりしていましたが、父は別に会(土俗同攷会、京都史蹟研究会、京都研究の会、故都文華会など)を作っていたので会員にはなっていませんでした。しかし節目節目には参加していて、この写真は1965年(昭和40年)二条城でおこなわれた35周年記念の時の写真です。
左から重森三玲、平塚、村田次郎、佐藤各先生と父・嘉一郎。
重森三玲さんは庭園史の先駆けとなった方で、また作庭家としても著名です。また村田次郎さんは京都大学名誉教授で東洋建築史の重鎮でした。
それから50年、私は当会の監査としてお手伝いをしています。会誌は学術論文の登竜門としての位置つけもあり地味ではありますが、例会は毎回、なかなか一般の人には行きにくい社寺や庭園を訪ねます。観光ではないちょっとクオリティの高い会なのでぜひ参加してください。
ちなみに12月13日は「湖東の文化財を訪ねて(西明寺・金剛輪寺)」、平成28年1月10日は「京都浄土寺の日吉神社と東山鹿ケ谷の文化財」詳細は綜芸舎にお問い合わせください。(2015.12.5)

1. 和紙研究会 戻る

 和紙研究会  和紙が昨年、世界無形文化遺産に登録されました。和紙をここまで存続させた最大の功労者は壽岳文章先生であることに異をはさむ人はいないと思います。先生の紙漉村旅日記は名著として残っています。
さて和紙研究の端緒は1936年から始まった和紙研究会。広辞苑の編者であった新村出先生や壽岳文章先生、染色研究の上村六郎先生、パピルス復元の大沢忍先生、印刷と紙の権威であった禿氏(とくし)佑祥師などそうそうたるメンバーで始まり、1939年1月その会誌「和紙研究」1号ががでました。
 父藪田嘉一郎はそのころ美術印刷「便利堂」にいて、その一切を取り仕切りました。この雑誌は戦後1951年まででました。
我が家に1950年5月上村邸にて行われた和紙研究会の写真が残っていました。後列後ろから 上村、藪田、香川、大沢、前列左から 野津、町田、禿氏、壽岳(敬称略)。壽岳先生や父は随分若かったです。特にお若いのは後で参加された京都工芸繊維大学の町田誠之名誉教授で、和紙に関する本では最も多く出版されているのではないでしょうか。ご存命なら100歳を超えておられます。 なおこの写真は京都森田和紙の森田康敬氏にお貸しして1996年「季刊和紙」(全国手すき和紙連合会)の「和紙研究会のこと」という記事にも掲載されました。(ちなみに和紙研究1号の出た年私は生まれています。)(2015.8.8)

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