弦楽のためのアヒージョ。 佐久間學

(22/2/5-22/2/24)

Blog Version

2月24日

CHILCOTT
Circlesong
Andreea Muţ, Jessica Myers(Pf)
Richard Brown, Mark Stein, Leonardo Soto, Matt Richards(Perc)
Robert Simpson, Marianna Parnas-Simpson/
Houston Chamber Choir, Treble Choir of Houston
SIGNUM/SIGCD703


ボブ・チルコットの新しいアルバムです。ここで演奏しているのがロバート・シンプソンが指揮をしたヒューストン室内合唱団なのですが、彼らが2019年にリリースしたデュリュフレの合唱曲全集は、2020年のグラミー賞のクラシックのカテゴリーで、「Best Choral Performance」を受賞していたのですね。
これが、授賞式での写真なのでしょう。一緒に写っているのは奥さんのマリアンナさん(グラマーですね)、彼女もやはり合唱指揮者で、このアルバムでは自身の合唱団「ヒューストン・トレブル合唱団」という、11歳から18歳までの女性による合唱団と一緒に参加しています。彼女は、ヒューストン室内合唱団のアルトのメンバーでもあります。
タイトルの「サークルソング」というのは、チルコットが2003年にバーミンガムの合唱団のために作り、2004年に初演されているのですが、それを2019年に改訂し、翌年2月にその改訂初演のコンサートと並行してこのレコーディングも行われました。
この曲は、混声合唱と児童合唱、そしてピアノ2台と4人の奏者による数多くの打楽器という編成で作られています。テキストは、アメリカの先住民たちの詩を、英語に訳したものが使われています。それらは、チルコットによって選ばれて、導入部と「誕生」、「幼少期」、「恋人」、「成人期」、「壮年期」、「老年期」、「死」という7つの部分に振り分けられています。
導入部は、いかにもなヒーリング情緒たっぷりの豊かなハーモニーの曲で、ティンパニがアクセントをつけています。
「誕生」は、5拍子のリズミカルな曲で、ミニマル風、マリンバやボンゴで浮き立つような感じ、その後に、ア・カペラでコラール風の曲が続きます。
「幼少期」は、まずトレブルの合唱が、キラキラしたピアノと打楽器のBGMに乗って歌います。そこに、やはり少女のソロが、とてもナイーブな味をつけ、最後は静かな力を持ったキャッチーな混声合唱で締めくくられます。
「恋人」では、囃子言葉の入ったリズミカルな曲でみんなに祝福される中、温かいしっとりとした合唱が流れます。
「成人期」は、やはり囃子言葉の入ったお祭り騒ぎのようなエネルギッシュな曲です。打楽器が大活躍。
「壮年期」では、深みのあるコラールが、打楽器のアクセントをバックに歌われます。
「老年期」は、さざ波のようなヴォカリーズをバックに、静かなメシアン風のコラールが流れます。
「死」は、まず少女のソロが歌われた後、浄化されるようなア・カペラが現れますが、やがて打楽器と盛り上がり、最後は「We shall live again」という歌詞で、静かに終わります。そこには、死者はやがて生まれ変わるという「サークル」の思想が現れています。
カップリングとして、1990年代の終わりごろ、チルコットが主にトレブルのための曲を集中的に作っていた頃の4つの合唱曲が歌われています。最初の3曲はトレブルのための曲、マリアンナさんが指揮するトレブルの合唱団が歌います。シンコペーションによるリズミカルな「Like A Rainbow」、老子の世界観による深淵なテキストを美しいメロディで包んだ「All things pass」、そしてとてもキャッチーな「Circles of motion」と、それぞれに魅力的な曲を、穢れのない声で堪能できます。
最後は、大人の合唱団による演奏で、スー族の「神聖な美徳」とされている5つの言葉がテキストとなっている「Walking the red road」です。まるでリゲティのようなクラスターをバックに、キャッチーなメロディが深いハーモニーを伴って歌われる、聴きごたえのある曲です。
このあたりの曲のためのテキストを探している間に、チルコットは「サークルソング」の構想がひらめいたのだそうです。確かに、このアルバム全体には、テキストにも音楽にも、おおらかでポジティブなテイストと自然を敬う心が漂っています。それは、パンデミックでの混乱や、大国の驕りによる謀略などを目の当たりにしても、何の解決策も見いだせない現代人をあざ笑うかのように聴こえます。

CD Artwork © Signum Records


2月22日

SHOSTAKOVICH
Symphony No.7
Gianandrea Noseda
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0859(hybrid SACD)


「レニングラード」という愛称のついた、ショスタコーヴィチの交響曲の中では3番目か4番目によく聴かれている交響曲の、最新盤です。とは言っても、録音されたのは2019年の12月です。指揮者はこのオーケストラの首席客演指揮者、ジャナンドレア・ノセダです。
この曲は、ショスタコーヴィチの交響曲では最も編成が大きいのだそうです。とは言っても、特殊な楽器が使われているわけではありませんし、木管楽器はクラリネットだけは4人必要ですが、その他は3人ずつで大丈夫です。人数が多いのは金管楽器。普通の編成に、金管だけのバンダでさらに10人必要になってきます。そこに、ハープが2台にピアノも加わりますし、打楽器も非常に多く、奏者は7人必要です。そして弦楽器も、作曲家の指定ではファーストヴァイオリンは最低16人、可能であれば20人となっています。コントラバスでも最低8人、最高で12人です。ですから、これだけの人数を、すべて自前で賄えるオーケストラは、世界中探しても数えるほどしかありません。
ロンドン交響楽団は、オーケストラのランクとしては常に世界のトップ10の中には入っていますが、人数的には、例えばベルリン・フィルなどにはかなり水をあけられています。なんたって、ファーストヴァイオリンの正式メンバーは14人しかいないのですからね(ベルリン・フィルは21人)。管楽器も、ベルリン・フィルのようにそれぞれのパートで首席奏者が2人ずつという贅沢なことはできなくて、1人の首席奏者が全プログラムで演奏しなければいけません。
ですから、この録音でも、弦楽器奏者は全員出演しているようですが、それでもショスタコーヴィチの指定には足りていません。管楽器では、木管は何とかなりますが、金管では大量のエキストラが雇われています。もっとも、金管に関しては、この曲をエキストラなしで演奏できるオーケストラは、世界中探してもほとんどありません。日本では、最も裕福だと言われているNHK交響楽団でも、無理です。地方のアマチュアオーケストラなどでは、弦楽器は半数はエキストラになってしまうでしょうね。
そんな編成ですから、コンサートでのダイナミックレンジは、とても大きなものになってしまいます。この録音の場合、曲の冒頭はほぼマックス近くの音圧で始まりますから、そこであまりやかましくないあたりでボリュームを設定すると、行進曲が始まったときに最初のスネア・ドラムや弦楽器のピチカートが全く聴こえなくなって、何も音がしないのでどうなったのかな、と思っているといきなりフルートが聴こえてくる、という状態になってしまいます。かといって、それが聴こえるぐらいに設定しておくと、その行進曲の最後で金管のバンダが出てくるときには、まさに耳をつんざくほどの大音量に耐えなければいけません。
「バンダ」というのは、抽選で当たらないと見ることができない動物(それは「パンダ」)ではなく、オーケストラの本体とは別の場所で演奏される楽器群のことを指す言葉です。このコンサートが行われたロンドンのバービカン・センターはステージがプロセニアムの中にあるので、周りを囲むようなバルコニーはないのですが、サラウンドで聴いていると明らかにステージの金管セクションとは別の場所からバンダが聴こえてきます。それだけのことで、作曲家がなぜこのような編成にしたのかが、とてもよく理解できてしまいます。
この曲の中では、管楽器の長いソロが頻繁に出てきます。それらは、時には演奏者にとってはほとんど拷問のように感じられることもあるほどです。それに耐えて、見事にそのソロを吹き切った人には、心から拍手を送りたくなります。
そんな中で、第2楽章にフルート2本とアルト・フルートという、おそらくショスタコーヴィチはここだけで使った組み合わせでの細かい音符のリズムに乗って、バス・クラリネットのやはり長大なソロが用意されていますが、それだけはあまり明瞭には聴こえなかったのが、惜しまれます。

SACD Artwork © London Symphony Orchestra


2月20日

The Art of English Horn
Dominik Wollenweber(CA)
Collegium der Berliner Philharmoniker
SUPRAPHON/SU 4303-2


シンフォニー・オーケストラの編成には、普通は弦楽器の他にフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴットという4種類の木管楽器が入っています。それらの楽器を2本ずつ使ってハーモニーを作る、というのが、ベートーヴェンあたりの時代からの標準でしたが、今ではそれぞれの木管楽器にもう1本か2本、同じ仲間の楽器が加わっています。オーボエの場合はコール・アングレ(イングリッシュ・ホルン)ですね。
それらの特殊楽器は、ちゃんとしたオーケストラではそれ専門の人がメンバーになっています。ベルリン・フィルの場合だと、オーボエは1番のパートを吹く首席奏者が2人、2番のパートを吹く人が2人、そしてコール・アングレが1人、という内訳になっています。
そして、現在のコール・アングレ奏者が、今回のアルバムの主人公、ドミニク・ヴォレンヴェーバーです。
彼の父親は、バイエルン国立歌劇場のオーケストラのコール・アングレ奏者でした。しかし、彼が9歳の時に最初に選んだ楽器はオーボエではなくフルートでした。そして、14歳になった時にオーボエに転向します。父親は、せっせと彼のためにリードを作ってくれたそうです。やがて彼は、クラウディオ・アバドの指揮するEUユース管弦楽団の首席オーボエ奏者となり、同時にカラヤン・アカデミーでも、当時の首席奏者、シェレンベルガーに師事します。そして、1994年にベルリン・フィルのコール・アングレ奏者のオーディションに合格し、晴れてベルリン・フィルの団員となりました。お父さんは泣いて喜んだそうです。
ベルリン・フィルの映像を見ていると、彼がソロを演奏する時のアップなどは、なにか鬼気迫るほどの緊迫感が伝わってきます。そこには、まるで作曲家の魂が宿ったのではないか、と思われるほどの、オーラが漂っています。
そんなヴォレンヴェーバーがごく最近録音したソロアルバムでは、ベルリン・フィルで40年も弾き続けているヴァイオリンのマデレーヌ・カルーゾーをはじめとする同僚たちがしっかりサイドを固めていました。
アルバムは、バッハの「協奏曲」から始まります。もちろん、バッハにはこの楽器のための協奏曲はありませんし、そもそもその時代にはコール・アングレという楽器自体もありませんでした(まだ「オーボエ・ダ・カッチャ」と呼ばれていたんだっちゃ)。ですから、これは「イースター・オラトリオ」の中から、1曲目の「シンフォニア」とそれに続く「アダージョ」が最初の2つの楽章、そして終楽章は、9曲目のオーボエ・ダモーレのオブリガートが入ったアルトのアリアを、そのオブリガートとアルトのソロを両方吹いて協奏曲に仕上げたものです。音域も少し高いので、この楽器のイメージが一新される、軽快な味が楽しめます。
2曲目は、有名なドヴォルジャークの「新世界」の第2楽章でのこの楽器のソロを中心に編曲したもの、これも、とてもあっさりとした味に仕上がっています。
3曲目はピアノ伴奏でシューベルトの有名な即興曲(Op90-3)。この楽器ならではの循環呼吸で、とても長いフレージングをたっぷりと歌いこんでいます。
4曲目だけは、2014年のラトルとベルリン・フィルとのライブ録音で、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」です。改めて、オーケストラの中での彼の存在感が際立っていることに気づかされます。
5曲目は、コール・アングレと弦楽三重奏のためのオリジナルの作品、ジャン・フランセの「コール・アングレ四重奏曲」です。軽妙な楽章としっとりとした楽章が交互に5つ集まった作品で、フランセならではのエスプリが満載です。弦楽器のパートもそれぞれに活躍するので、コール・アングレとの掛け合いが聴きものです。
最後は、ワーグナーの「トリスタン」から、第3幕の序奏の後にこの楽器だけで演奏される牧童の歌です。そもそもは素朴なテイストを持った曲ですが、これはもう、立派すぎて圧倒されます。この流れで、「ジークフリート」の第2幕に出てくる、やはりこの楽器だけの滑稽なソロも聴いてみたかったですね(笑)。

CD Artwork © SUPRAPHON a.s.


2月18日

SCHUBERT
Die schöne Müllerin
Iestyn Davies(CT)
Joseph Middleton(Pf)
SIGNUM/SIGCD697


シューベルトの「美しき水車小屋の娘」は、のちの「冬の旅」同様、ドイツの詩人ヴィルヘルム・ミュラーが出版した同名の詩集をもとに作られています。シューベルトはおびただしい数の歌曲を残していますが、このような20曲以上の歌曲をまとめて一つのストーリーを描いているという「歌曲集」は、この2つしかありません(「三大歌曲集」とか言ってますが、もう一つの「白鳥の歌」は出版社のでっち上げですから)。もっと言えば、ミュラーの詩に曲をつけたものも、最後の作品となった「岩の上の羊飼い」(一部だけ)を除けば、この2つしかありません(最も多くの歌曲に歌詞を提供していたのはゲーテだそうです)。
いずれにしても、この2つの歌曲集は広く愛好されていて、多くの歌手たちによる録音が残っています。普通は、「冬の旅」はバリトンかバス、「美しき水車小屋の娘」はテノールが歌っているようですね。もちろん、果敢に別の声域の人が挑戦しているものもありますし、男声ではなく女声によって歌われているものもありますね。
今回は、カウンターテノールによる、「水車小屋」です。歌っているのはイェスティン・デイヴィス、ほかの人ももしかしたら歌っていたのかもしれませんが、実際に聴くのは、彼のものが初めてです。
これまで、多くの歌手のものを聴いてきましたが、最もスタンダードだな、と思えるのはペーター・シュライヤーでしょうか。とても考え抜かれた、深みのある演奏だったような気がします。
しかし、今回のデイヴィスは、そのシュライヤーとはまるで違うアプローチで迫ってきました。まず、声質がカウンターテノールですから、普通のテノールとはまるで異なる音色です。そして、そこからはあまり断定的な表現は聴こえてはこず、ファルセットならではのもっと不安定ではかない情感が伝わってきます。ちょっと窮屈ですが(それは「コルセット」)。
そこで、改めてこの歌詞をきちんと読んでみました。そうしたら、この主人公は粉挽職人の修行のために、親方(マイスター)を求めて各地を旅している徒弟、という設定ですが、それは大人びた「青年」というイメージではなく、もう少し若い、ほとんど「ガキ」のような世間知らずの「男の子」という雰囲気が強く感じられました。おそらく、恋愛経験もないようなウブな子なのでしょう。ですから、偶然たどり着いた水車小屋(正確には「製粉所」)にいた親方の娘(多分)に一目ぼれしてしまいます。それはおそらく「勘違い」のようで、娘の方はほとんど相手にしていない様子が、詩の中からは垣間見られます。それなのに、7曲目の「もどかしさ」では、なんのエヴィデンスもないのにもう勝手に「Dein ist mein Herz(僕のハートは君のもの)」と決めつけていますから痛々しいですね。
そして10曲目「Tränenregen(涙の雨)」では、どういうきっかけがあったのか分かりませんが、夜に「traulich zusammen(一緒に仲良く)」(これも、男の子の単なる勘違い)川岸に座っています。幸せさに感極まって涙を流すと、それが波紋となって広がりますが、娘はそれを見て「雨が降ってきたから、帰るね」と言います。きっと、帰るきっかけを待っていたのでしょうね。
つまり、こういう感じが、デイヴィスの歌からは痛いほど伝わって来るのですね。その次の10曲目「Mein!(僕のもの!)」の最後、「Die geliebte Müllerin ist mein!(愛する粉屋の娘は、僕のものだ!)」は、歌詞とは裏腹な、なんと自信なさげな歌い方でしょう。ですから、それは結局14曲目の「Der Jäger」でやってきた狩人に娘は夢中になってしまい、男の子はフラれてしまうというプロットの、見事な伏線になっているのですね。
そして、18曲目の「Trockne Blumen(しぼめる花)」は悲しすぎます。「Der Mai ist kommen, Der Winter ist aus.(5月が来て、冬は去る)」なんてことは絶対に起きないのに。この曲でシュライヤーはかなり技巧的な歌い方をしていました。それはそれで、素晴らしい表現ですが、デイヴィスの歌からはそんなことをしなくても、全くの自然体でその悲しさ、切なさが伝わってきます。

CD Artwork © Signum Records


2月16日

TŮMA
Requiem, Miserere
Roman Válek/
Czech Ensemble Baroque Choir(by Tereza Válková)
Czech Ensemble Baroque Orchestra
SUPRAPHON/SU 4300-2


ボヘミアの作曲家フランティシェク・イグナーツ・アントニーン・トゥーマが1720年に作った「レクイエム」の世界初録音のアルバムです。カップリングは、同じ作曲家の「ミセレーレ」、こちらも初録音です。
トゥーマは1704年にボヘミアの小さな町の教会のオルガニストの息子として生まれました。小さいころから音楽教育を受け、歌手、あるいはテオルボやヴィオラ・ダ・ガンバ奏者として音楽家への道を進んでいました。野球への道には進みません(それは「ヒューマ」)。
やがて、ボヘミア王国の元老院最高議長であるフランツ・フェルディナンド・キンスキー伯爵のオーケストラに、作曲家兼カペルマイスターとして雇われます。伯爵はウィーンでも職務があったので、常にプラハとウィーンの間を往復しており、トゥーマも彼と一緒にウィーンへ赴いていました。
やがて彼はウィーンに住むようになり、そこで、伯爵の計らいもあって、当時の宮廷楽長のヨハン・ヨーゼフ・フックスの弟子となります。そこでトゥーマは、対位法をみっちり学ぶことになりました。
1734年に、プラハの大聖堂のカペルマイスターが亡くなって、その後任者を募集していたことを知って、彼が故郷への「就活」を始めると、伯爵が直々に立派な推薦状を書いてくれました。しかし、その推薦状がプラハに届いたころには、すでに後任者は決定していたのだそうです。トゥーマは、仕方なく、ウィーンの伯爵のもとでの職務を粛々と続けることになりました。
その雇い主が亡くなる少し前、1741年に、トゥーマはその前年に亡くなったカール6世の未亡人エリーザベト・クリスティーネが新たに創設したオーケストラのカペルマイスターに就任します。しかし、彼女が1750年に亡くなると、そのオーケストラも解散してしまいます。
その後、トゥーマはフリーの作曲家、演奏家、あるいは教育者として活躍します。1768年には妻とも別れ、ウィーンを離れてゲーラスの修道院に入り、そこでの礼拝のための曲を作り続けるとともに、教育活動も続けます。そして、1774年に、ウィーンの病院で亡くなります。
「レクイエム」は、カール6世が亡くなった2年後に、彼の遺体がカプツィーナー納骨堂に収められた時に演奏されました。その後、妻のエリーザベト・クリスティーネが亡くなった1750年にも演奏されています。
編成は、4人のソリストと4声の合唱団に、弦楽合奏と通奏低音、そこにトロンボーンとトランペットとが二本ずつとティンパニが加わります。何よりも、ソリストと合唱の登場シーンが絶妙なバランスを持っていて、聴くものを飽きさせません。時には古典的なフーガなども使われますが、それと同時にホモフォニックな部分も多く、バロック後期から古典派への橋渡しをしていることが如実にわかります。
彼の音楽は、ハイドンやモーツァルトにも影響を与えたのだそうですが、そう思って聴いていると、モーツァルトの「レクイエム」に確かに似ている部分も見つかります。2回目に出てくる「Kyrie」ではフーガが使われていますが、そのテーマがモーツァルトのものと何となく似ています。続く「Dies irae」も、トランペットとティンパニのビートの雰囲気がよく似てますね。さらに、「Domine Jesu Christe」にも、そっくりな個所が見つかります。もっとも、演奏されたのはモーツァルトが生まれる前ですから、これはただの偶然?
もう1曲の「ミセレーレ」は正確な作曲年は分かりませんが、やはりエリーザベト・クリスティーネのオーケストラ時代のものだとされています。こちらは、ツィンクとフルート(リコーダー)が入っていて、それぞれにソロのオブリガートを担当しています。こちらも、合唱とソロが交互に出てきて、楽しめます。
演奏している「チェコ・アンサンブル・バロック」は、1998年に作られたピリオド楽器の団体で、合唱とソリストもその中に含まれています。今回も、ソリストたちはすべて合唱団のメンバーです。適度にストイックな演奏が、心地よかったですね。

CD Artwork © SUPAPHON a.s.


2月14日

The Berlin Concert
John Williams/
Berliner Philharmoniker
DG/00289 486 1713(CD, BD, BD-A)


以前こちらに書いたように、2020年の1月に、ジョン・ウィリアムズはウィーン・フィルを指揮して自作を披露するコンサートを、そのオーケストラの本拠地、ムジークフェライン・ザールで行っていました。これはまさに衝撃的な出来事で、DGからBDとCDによってリリースされたそのライブ映像と音声は、全世界でかなりのセールスを記録していたはずです。
それに味を占めたのでしょうか、そのDGがそれから2年も経っていない2021年10月に、今度はベルリン・フィルがジョン・ウィリアムズの指揮で行ったコンサートのライブをリリースしていました。最初、その情報を知った時は、全くその意味が分かりませんでしたね。こんなしょうもない「二番煎じ」というか、「二匹目のドジョウ」を講じなければいけないほど、この業界の経済的な土壌は弱体化していたのですね。
前回同様、今回も様々なメディアの組み合わせで何種類かの形態が提供されていました。そのうちのCDとBDというパッケージを、購入してみました。今回は、CDもBDもそれぞれ2枚という「大盤振る舞い」でしたね。つまり、前回はCDは1枚しかなかったので、コンサートの曲目のいくつかはカットされていました。そして、BDは、映像のあるBDと、音声コンテンツだけのBD-Aの2枚です。これも、容量が前回の倍になったということで、音声データのスペックがよりサイズの大きい24/192にまで拡大されています(2チャンネルステレオだけで、サラウンドは24/96)。
ただ、この映像自体は、すでにベルリン・フィルの配信サイト、「デジタル・コンサートホール」から生配信されていますし、アーカイブにもなっています。ですから、すでにそれを見た方からは、このようなレビューも公開されていました。まあ、映画音楽にとても詳しい方ならではの的確な感想なのでは、と思います。
ただ、演奏以前に、まず、正面に座っている木管セクションのメンバーに何だか違和感がありました。
木管の4パートの中で、トップの席に座っているベルリン・フィルの首席奏者は、クラリネットのヴェンツェル・フックスしかいなかったのですよ。ほかの3パート、フルート、オーボエ、ファゴットでは、見たこともない若い人たちがトップを吹いています。さらに、2番奏者にもやはり若い、知らない人がいますし、ほかのパート、例えばハープとか、弦楽器の中にも、かなりの頻度で、およそベルリン・フィルのメンバーらしからぬとても若い人の顔を見つけることができます。
チェロ・パートには、なんとガンバ奏者のヒレ・パールが(笑)。
それは冗談ですが、そもそもコンサートマスターからして見たことのない人でしたね。ちょっと古いベルリン・フィルのサイトでの写真を見る限りこんな人はいなかったような。
もう一つ不思議なのは、最後のクレジットです。
ここではベルリン・フィルのメンバーがすべて紹介されていますが、それは単なる「公式フルメンバー」のリストで、ここで演奏しているメンバーのリストではありません。ですから、もちろん先ほどの若い人たちの名前は知ることはできません。
もしかしたら、この人たちはそれこそ「カラヤン・アカデミー」あたりの生徒で、特に優秀な人がこの特別なコンサートで演奏する機会を与えられたのかもしれませんね。ただ、これだけの「エキストラ」が入ってしまったら、もはやこれはベルリン・フィルではなくなってしまいますよ。特に木管セクションは、もろにオーケストラの音色にかかわってきますから、これは紛れもない「偽装表記」にほかなりません。ウィーン・フィルではみんな正規のメンバーだったのに。
これは、その「エキストラ」の人たちがとても上手だったこととは、全く別次元の話です。そんな「ベルリン・フィルもどき」を聴いて、すべての曲の後でスタンディング・オベーションを行っていたフィルハーモニーの聴衆って・・・。いや、彼らは、オーケストラが音を出す前、この「指揮者」が登場した時に、すでに全員立ち上がっていましたね。

CD & BD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH


2月12日

B-A-C-H
Anatomy of a Motif
Simon Johnson(Org)
CHANDOS/CHSA 5285(hybrid SACD)


「モティーフの解剖学」というものものしいタイトルのSACD、しかも2枚組です。そういえば、「Grey's Anatomy(恋の解剖学)」というアメリカの医療ドラマがありましたね。確か、17シーズンで終わっていたはずなのに、まだまだ続編が製作されているようですね。最初のうちは面白かったのですが、もはや完全にマンネリ化しているので、もはや何の興味もありませんが。
こちらの「解剖学」の方は、バッハにちなんだオルガン作品のアルバムです。「BACH」という彼の名前をドイツ語の音名にあてると、日本語では「変ロ・イ・ハ・ロ」となり、半音下がって短三度上がり、また半音下がるという音列になりますね。この、ちょっと前衛的な音列をモティーフにした作品などが、ここでは演奏されています。
使われているオルガンが、ロンドンの観光名所で、故ダイアナ妃の結婚式などイギリス王室の公式行事に使われてもいるセント・ポール大聖堂にある楽器です。このオルガンは1697年に作られたものですが、それ以来何度も改修されて、今に至っています。なんといってもユニークなのは、現在では電気式のアクションで1つのコンソールから多くのオルガンをコントロールしている、ということでしょう。匂いもさわやか(それは「メンソール」)。
これが、オルガンの配置図です。
そして、おそらく、今回の録音では可動式のそのコンソールはこの位置あたりにあったのでしょう。オルガン本体は、このように西から東に長く伸びた建物の東端に位置する「クワイヤ(Quire)」という、聖歌隊が歌うスペースの、それぞれ北側(@)と南側(A)に、向かい合って設置されています。これが、メインの楽器ですね。
その他に、身廊(Nave)の西端の天井近くの部分(B)にも、水平トランペット管をずらりと並べたオルガンが設置されています。


これは「ロイヤル・トランペット」と呼ばれるオルガンで、それこそ王室の行事などでファンファーレを演奏したりするのでしょう。こんな遠くにあるのに、コンソールから操作することができます。
録音の時のメインマイクの位置は、おそらくクワイヤにある2つのオルガンの間だったのではないでしょうか。サラウンドで聴いた時には、まさにそれぞれの楽器の音がしっかり左右の壁から聴こえてきます。
1枚目のSACDは、まずはバッハ自身の「フーガの技法」からの「コントラプンクトゥスXIV」です。この作品の最後の曲で未完に終わっていますが、それをリオネル(ライオネル)・ロッグが1968年に「完成」させ、EMIに録音していました。それをさらに2020年に改訂したものが、このでは演奏されています。
続いて、メンデルスゾーンが残した自筆稿からルドルフ・ルッツがやはり「完成」させた「ソナタ」が演奏されます。これは、バッハの「マタイ」に登場する有名なコラールが主題になっており、もちろん「BACH」も聴こえてきます。さらに、シューマンとブラームスが作った「フーガ」が続きます。ただ、正直、ここまでは聴いていてちょっと退屈してしまいます。
ところが、2枚目になってリストの「バッハの名による前奏曲とフーガ」が始まったら、俄然このオルガンの音色が派手になって、イケイケの音楽に変わりました。それは、基本的に教会の礼拝の時の楽器、という制約を離れて、とても音色の多彩な、ここでのオルガニスト、サイモン・ジョンソンの言葉を借りれば「まるでカメレオンのような」正体があらわになった瞬間でした。リード管の特徴的な音色や、トレモロによってなんとも艶めかしさが加わったストップによって、このオルガンがその可能性を存分に発揮し始めたのです。
そのリストの曲のフーガの最後の部分(トラック5)の46秒あたりでは、いきなり先ほどの「ロイヤル・トランペット」が真後ろから聴こえてきます。これは、サラウンドでなければわからないサプライズです。
レーガーを経て、最後のカルク=エラートの作品になったら、もうこの楽器のなすがままに、その音色と表現力にひれ伏してしまいました。最後の、スウェルを総動員してのディミヌエンドのなんと美しかったことでしょう。

SACD Artwork © Chandos Records Ltd


2月10日

RAVEL
Orchestral Works
John Wilson/
Sinfonia of London
CHANDOS/CHSA 5280(hybrid SACD)


イギリスの首都ロンドンには多くのプロ・オーケストラが存在していますね。ロンドン交響楽団を筆頭に、ロンドン・フィル、フィルハーモニア管弦楽団、BBC交響楽団、ロイヤル・フィルといった、長い歴史を誇るオーケストラがひしめいています。そんな中で、やはり「ロンドン」という名前を背負った「シンフォニア・オブ・ロンドン」というオーケストラのSACDがリリースされていました。これは、このレーベルからすでに何枚ものアルバムを出している団体なのだそうですが、今回初めてその名前を聞きました。
このオーケストラは、実は先ほど挙げたオーケストラと同じぐらいの長い歴史を持っていました。ただ、その実体は実際にコンサートを行うオーケストラではなく、もっぱらスタジオで映画音楽などを専門に演奏する「レコーディング・オーケストラ」でした。なんせ、300本以上の映画のサウンドトラックを録音していたといいますから、すごいものです。その中には、1958年にバーナード・ハーマンがヒッチコックの「めまい」のために書いたサウンドトラックのためのスコアなども含まれます。クラシックの録音も行っていて、EMIにはコリン・デイヴィスやジョン・バルビローリが指揮をした録音などが残されています。
2018年に、指揮者のジョン・ウィルソンが、そのオーケストラの名前のもとに、年に何回か世界中のオーケストラから首席奏者級のメンバーやソリストたちを集めてレコーディングを行うというプロジェクトを始めました。言わば、日本の「サイトウキネン」のようなスーパー・オーケストラなのでしょう。そして、2019年にはこのレーベルから「デビューアルバム」である、コルンゴルトの交響曲をメインにしたアルバムをリリースしました。2021年には、スタジオを飛び出してロイヤル・アルバート・ホールでの「プロムス」でコルンゴルトを引っ提げたライブも行っています。
おそらく6枚目となるこのアルバムでは、ラヴェルの作品が取り上げられていました。これらの作品が世に出たのは20世紀の初頭でしたが、それからもはや100年近く経とうとしています。そんな中で、例えばモーツァルトやベートーヴェンのように、最初に出版された楽譜を精査して、より、作曲家のオリジナルに近い楽譜を作ろうという動きが出てきています。実際に、2018年にベルギーで設立された「XXI Music Publishing」では、そのようなコンセプトのもとにラヴェルなどの新しい楽譜を次々と出版しています。そして、それを使って録音されたアルバムなどもすでに登場しています。以前ご紹介したロトとレ・シエクルの「展覧会の絵」なども、その一つですね。確かに、ここではクーセヴィツキーによって手が入れられた部分が見事に「オリジナル」の形になっていましたね。
今回のアルバムでは、「マ・メール・ロワ」と「ボレロ」が、それぞれこの出版社の楽譜による世界初録音になっているのだそうです。そこで、まずはそれ以前の最新のEULENBURGのスコアが手元にあったので、それを見ながら聴いてみました。でも、特に変わっているようなところは見つかりませんでしたね。録音は、それぞれの楽器がくっきり聴こえてきて、多くの楽器が重なったところでもきっちり聴き分けられますから、おそらく、ダイナミクスなど細かい指定の違い程度の校訂だったのではないでしょうか。
ただ、この曲の最後に出てくる弦楽器のトゥッティでの潤いに全く欠ける音色には、がっかりしてしまいました。録音会場が教会なので、かなり残響が多いのですが、それが全く生かされていません。
それ以外の収録曲は、「ラ・ヴァルス」、「道化師の朝の歌」、「亡き王女のパヴァーヌ」、「高雅で感傷的なワルツ」です。いずれも、やはり弦楽器の存在感がとても希薄で、アンサンブルでも全体にしなやかさを与える、ということがまるで感じられません。管楽器のソロも、特にフルートはなんとも薄っぺらな音で、全く魅力を感じることは出来ませんでした。
このあたりが、「一発オケ」の限界なのでしょうか。

SACD Artwork © Chandos Records Ltd


2月8日

Sage & Mythos
Lilja Steininger(Fl)
Erika Le Roux(Pf)
ARS/ARS38 337(hybrid SACD)


「伝説と神話」という意味深なタイトルのアルバムです。ここでは、主に19世紀、「フルートの黄金時代」と言われた時期に作られたフルートとピアノのための作品が演奏されていますが、その中に1曲だけ21世紀になって作られたソロ・フルートの曲が入っています。この「Demons」というタイトルの現代曲が、なかなか、でした。
ここでフルートを演奏しているのは、1994年にベルリンに生まれたリーリャ・シュタイニンガーという、まだ20代のフルーティストです。まだ生きてますよ(「死体人間」ではありません)。彼女は、14歳の時に、初めてベルリン・ドイツ交響楽団をバックにソロを演奏していたのだそうです。それからは、クリスティーネ・ヘルマン、ロスヴィタ・シュテーゲ、ハンスゲオルク・シュマイザーなどに師事し、20歳の時にベルリン・フィルのカラヤン・アカデミーに参加します。
さらに、2015年から2019年までは、「ロシア・ドイツ音楽アカデミー」というプロジェクトでの首席フルート奏者として、ゲルギエフの薫陶をうけます。そして、2019年からは、デュッセルドルフ交響楽団の首席奏者に就任して現在に至る、というキャリアです。着実に出世街道を突き進んでいる感じですね。
最初に演奏されているのは、膨大なフルートの作品を作ったフリードリヒ・クーラウの「ウェーバーの『オイリアンテ』の主題による変奏曲」です。これは、オペラでは最初にオイリアンテの夫アドラールが、遠く離れた自宅に残してきた妻を思って歌う「Unter blüh'nden Mandelbäumen(花咲くアーモンドの木の下で)」という甘いメロディのロマンツァのテーマを用いた変奏曲です。まずは、クーラウお得意の複付点音符を多用したゆっくりした序奏から始まりますが、その低音から高音までを駆け抜けるパッセージを、全くムラのない強靭な音色で吹ききっていることに、感服させられました。特に低音の輝きが圧倒的ですね。
2曲目は、「カルメン幻想曲」でフルート関係者にはおなじみのフランソワ・ボルヌの「バラードと小鬼たちの踊り」という、珍しい曲です。前半がゆったりとした「バラード」でその後にとても技巧的なダンスが続くという、かなりの難曲です。これを、シュタイニンガーは、目の覚めるようなテクニックで鮮やかに演奏しています。
3曲目が、1961年生まれのオーストラリアの作曲家ブレット・ディーンが2004年に作った「Demons」です。この人の作品は何度か聴いたことがあり、割と穏健な作風だと思っていたのですが、これは現代奏法(倍音、グリッサンド、重音、フラッター等々)を駆使したアヴァン・ギャルドな作品です。とは言っても、例えばアンドレ・ジョリヴェの呪術的な作品や、オリヴィエ・メシアンのスケールなどが垣間見られて、存分に楽しめます。もちろん、そのようなイレギュラーな奏法をものともせず、果敢にそのメッセージを浮き彫りにしたシュタイニンガーの功績が大きかったことは、言うまでもありません。
これを折り返し点にして、後半にはまたロマンティックな作品が並びます。まずはカール・ライネッケのソナタ「ウンディーヌ」です。これも、この作品には欠かせない低音がとても良く鳴っていて魅力的です。ただ、第3楽章でもっと歌いこんでほしいな、というのは贅沢なお願いでしょうか。おそらく彼女だったら数年後にはそんなことは簡単にクリアしていることでしょう。
最後は、冒頭のウェーバーに呼応したのか、やはりウェーバーのオペラのテーマが使われている、ポール・タファネルの「『魔弾の射手』幻想曲」です。前半の「カルメン」同様、オペラの中の名旋律が次々と登場する楽しく、しかし、難しい曲を、彼女は楽々と聴かせてくれます。
これほどの音と音楽性を備えているシュタイニンガーですから、おそらく、いずれは現在のポストよりさらにもっとランクの高いステータスにたどり着くのではないか、という気がします。このデビューアルバムで聴ける彼女の音を、ぜひそのようなオーケストラの中で聴いてみたいものです。

SACD Artwork © Ars Produktion


2月5日

STRAUSS
Five Songs, Suite, Le Bourgeois Gentilhomme, Salome(excerpts)
Jessye Norman(Sop)
Klaus Tennstedt/
London Philharmonic Orchestra
LPO/LPO-0122


先日、ジェシー・ノーマンの歌う「オイリアンテ」を聴いたばかりだというのに、またまた彼女が歌っているアルバムがリリースされました。これは、彼女をフィーチャーして、1986年5月4日に行われたテンシュテット指揮のロンドン・フィルとのコンサートのライブ録音です。BBCによる放送音源で、今回が初のCD化となるのだそうです。
テンシュテットは、1983年にこのオーケストラの音楽監督となり、数々の名演を残すことになるのですが、1985年にはガンを発症し、1987年には音楽監督を辞任してしまいます。ですから、これが録音されたころは、まさに病魔と闘っていた時期にあたります。
そこに、もはやその抜きんでた歌唱はほかの歌手とは次元の異なる高みに達していたジェシー・ノーマンが加わります。
コンサートのプログラムは、すべてリヒャルト・シュトラウスの作品で占められていました。まずは、オーケストラ伴奏による歌曲が5曲演奏された後、オーケストラだけで組曲「町人貴族」、そして、最後は「サロメ」から「7つのヴェールの踊り」と、終曲です。
まず、オープニングを飾る「ツェツィーリエ」では、その前奏のオーケストラの開放的なサウンドによって、瞬時にシュトラウスの世界が広がります。それに導かれてのノーマンの第一声も、まさに彼女にしか成しえないインパクトあふれる音楽、これを聴いたロイヤル・フェスティバル・ホールのお客さんは、一様にその場に居合わせた幸せをかみしめていたに違いありません。
4曲目には、少し静かな曲調の「子守歌」が歌われていました。このような曲では、ノーマンの繊細な一面がはっきりします。落ち着いたオーケストラに乗って、彼女はとても丁寧に歌っています。この曲では、冒頭の部分が最後に繰り返されるのですが、そこではオーケストレーションが変わっています。後半には、前半にはなかったフルートの装飾音が、ほんの少し曲に彩りをあたえます。それに応えて、ノーマンの歌も、微妙に変化しているのがよく分かります。
このコーナーの最後は有名な「献呈」。その胸のすくようなエンディングに、客席からは万雷の拍手です。
次のコーナーでは、一転して薄いオーケストレーションで、いとも古風なテイストの「町人貴族」が演奏されます。ご存知のように、これは、モリエールの戯曲への付随音楽で、もともとはリュリが音楽を付けていましたが、それを、シュトラウスの相棒のホフマンスタールが上演した時に、音楽をシュトラウスが作ったものですね。まるでコース料理のように、一味違ったシュトラウスを味わった後には、いやでもメインディッシュの「サロメ」に対する期待が高まろうというものです。
そして、その「7つのヴェールの踊り」が、尋常ではないハイテンションで始まります。それは、取り澄ましたところのない、原色の音楽でした。それを支えるオーボエやフルートのソロも、とても鮮やかです。
それが終わって拍手が沸いた後、ノーマンの再びの登場です。オペラとしては、その前の曲の間にエロティックな踊りを披露して、その代償として義父に「ヨカナーンの生首が欲しいけど、よいかなーん?」と望むのですが、もちろん受け入れられることはありません。しかし、あまりの執拗さに根負けして、その生首が運ばれて来たときから始まる最後のシーンです。これはもう、圧倒的、彼女のモノローグは完璧です。
それがいったん途切れて、義父と母親の声が入る部分はカットされて、その後に出てくる「ああ、ヨカナーン。私はお前の唇にキスをしてしまった」で始まる部分では、ノーマンはダイナミクスを落とすだけではなく、メロディさえもなくした、ほとんど語りともいえる歌い方で、その不気味さを表現しています。これは、背筋が寒くなるほどの表現力です。ですから、義父の「あの女を殺せ!」という叫び(これは入ってはいませんが)は必然となるのです。
これは、まさに「奇跡」です。

CD Artwork © London Philharmonic Orchestra Ltd


おとといのおやぢに会える、か。



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