百均まみれ。 佐久間學

(22/1/13-22/2/3)

Blog Version

2月3日

Traditional
Shenandoah(Arranged by Cindy McTee)
James and Jeanne Galway(Fl)
Leonard Slatkin/
Manhattan School of Music Symphony Orchestra
NAXOS/9.70333


ジェームズ・ゴールウェイは、個人的には世界最高のフルーティストだと思っています。彼の前にも後にも、彼以上のフルーティストは存在していなかったのでは、とさえ思うほどです。その根拠はいくらでも挙げることはできますが、なんと言ってもまずはその音自体の美しさでしょうね。彼の音を聴いていると、先日「オイリアンテ」を歌っているのをを聴いたばかりのジェシー・ノーマンの声を思い出してしまいます。彼女の声がすべての音域で輝きと力強さを持っているのと同じことが、ゴールウェイのフルートからは感じることができるのです(彼自身は「パヴァロッティ」と言ってましたね)。
そして、彼の最も魅力的なところは、そのような音を武器にして、思い切り歌いきっている、というところではないでしょうか。時には、いくらかデフォルメされているように感じることはあるかもしれませんが、そのような形で常に音楽の中から「歌」を掬いだしてそれを聴くものに提供する、という彼の基本的は表現手法からは、どんなにシンプルなメロディからも最高の魅力が伝わってきます。
もちろん、いくら難しいフレーズでも顔色一つ変えずに冷静に処理できる、無敵のテクニックも備わっています。
1939年に生まれたゴールウェイは、1961年からイギリスのオーケストラの中に入って演奏していました。そして、1969年にはベルリン・フィルの首席奏者となったのですね。数多く残されているそれらのオーケストラでの録音を聴けば、彼が演奏しているだけでオーケストラ全体の音色と、もしかしたらオーケストラ全体のモチベーションまでもが変わってしまっていることを感じることでしょう。いまだに、ベルリン・フィルの首席フルート奏者のレベルは、ゴールウェイを超えてはいませんからね。
1975年に彼はソリストとして独り立ちするためにベルリン・フィルを辞めます。それ以降はRCAの専属アーティストとして、70枚ほどのアルバムを制作することになります。ただ、その後、今世紀の初めごろには、DGに「移籍」するのですが、そこではもはや彼の持ち味を生かすような企画は、最後まで作られることはありませんでした。
それ以降は、公式な録音などは行わず、コンサートやマスタークラスなどでの「後進の指導」などの活躍していたのでしょうね。
そんな彼が、なんとNAXOSからニュー・アルバムをリリースした、というのですよ。今では「アルバム」と言ってももはやCDとは限らず、基本的にインターネットでダウンロードやストリーミングで聴くことができるデータのことを指し示す言葉になっています。裸で走ったりはしませんが(それは「ストリーキング」)。これもそのような「デジタル・アルバム」、というか、演奏されているのは3分足らずの曲が1曲だけですから、「デジタル・シングル」ですね。
それは、「シェナンドー」という、合唱曲としてもおなじみのアメリカの伝承曲です。それを、レナード・スラトキンの奥さんのシンディ・マクティーがフルート2本とオーケストラのために編曲したもので、スラトキンが指揮をしています。
ドヴォルジャークの「新世界」の第2楽章冒頭のコラールをそのままオープニングに使って、その後でテーマが出てくるという凝った編曲では、もちろんゴールウェイがそのテーマを演奏することになります。しかし、それはもはや、かつてのゴールウェイの音ではありませんでした。音色そのものにはいくらかの面影はありますが、それを支えるビブラートが、なんとも醜いものになっています。そして、かつて「歌」を奏でていた時の武器だった長いブレスが、ここでは無残にも小刻みに切り裂かれています。後半でヴァリエーションになった時には素早い上向スケールが出てくるのですが、それも余裕のない、出たとこ勝負の雑な演奏になっています。最後のピアニシモの高音のロングトーンにも、かつての彼の音の片鱗すら見られません。なんで、こんなものをリリースしたのでしょう。
録音は2019年の10月、ゴールウェイは12月生まれですから、まだ79歳だったはずです。

Album Artwork © Naxos Digital Services Ltd.


2月1日

WEBER
Euryanthe
Jessye Norman(Euryanthe/Sop), Nicolai Gedda(Adolar/Ten)
Rita Hunter(Eglantine/MS), Tom Krause(Lysiart/Bas), Siegfried Vogel(King/Bas)
Marek Janowski/
Leipzig Radio Chorus, Dresden Staatskapelle
BRILLIANT/BC94682


前回、「オイリアンテ」のBDを見たのは、その前にこのアルバムがリリースされていたからでした。録音されたのは1974年と、もうほとんど半世紀近く前ですが、そのキャストの中にあのジェシー・ノーマンの名前があったものですから、ぜひ聴いてみたいと思いました。とは言っても、そのサブスクにはブックレットは付いておらず、ネットでもあらすじぐらいは分りますが全曲の日本語対訳はありませんから、このオペラの流れと、どこで彼女が歌っているのかを知るには、そのBDが唯一の手掛かりでした。
おかげで、思っていた以上の素晴らしい体験が出来たところで、やっとこちらを聴き始めることが出来ました。これは、「オイリアンテ」全曲の世界初録音で、1975年にEMIから4枚組のLPボックスで発売されています。それはなんと、4チャンネル盤でした。ただ、録音スタッフは、ドイツ・シャルプラッテン(DS)のクルーで、録音会場は、そのレーベルが数々の名盤を産んだドレスデンのルカ教会です。EMIが1970年にカラヤンの指揮でワーグナーの「マイスタージンガー」を録音した時も、同じオーケストラとスタッフ、そして同じ会場が使われていましたね。
さらに、ヤノフスキは、1980年から1983年にかけては、カラヤンと同じシチュエーションで「指環」の世界初デジタル録音を敢行することになるのですね。その時は、EURODISCと、日本のDENONが共同で制作を行っていました。そして、そこでもノーマンがジークリンデを歌っていたのです。
この「オイリアンテ」は、のちにBERLIN CLASSICSから3枚組のCDとしてリリースされています。今回のBRILLIANT盤は、それがライセンス元になっているのでしょう。
演奏時間をBDと比べてみると、あちらは正味162分なのに対して、こちらは174分ありました。実際に、BDではナンバーが一つ抜けてますし、それ以外にも舞曲などが途中でカットされているようなところもありました。演出家あたりの意向だったのでしょう。「カットしていこう」。とか。
まず、序曲が始まったときに、それがまさにこの会場でのDSの録音だとはっきりわかるサウンドだったのには懐かしくなりました。いかにもいぶし銀といった音色の弦楽器は、とても艶やかな高音を響かせています。管楽器も、それぞれの楽器がくっきりと浮かび上がって、弦楽器とのえも言えぬバランスを作っています。低音楽器や打楽器の底力も存分に伝わってきます。
オープニングで入ってくる合唱は、ちょっとおとなし目の歌い方で少し物足りませんが、ソリストたちはそれぞれに強い存在感を持ったスターたちですから、それを的確にとらえた録音は、とても聴きごたえがあります。しばらくして、本命のノーマンの登場、それは、予想通りの素晴らしさでした。BDで歌っていたジャクリーン・ワーグナーもとても素晴らしい声を聴かせてくれていたのですが、このノーマンの声を聴いてしまうと、いかにも「ただの人」に思えてしまいます。何より、高音を全く力強さと音色を変えることなく歌いきれる力には、感服させられます。その上で、あまり声を出さない場面もとてつもない表現力を誇っていますし、レシタティーヴォからさえも、しっかりとした表情が聴こえます。
物語の後半では、オイリアンテはエグランティーネとリジアルトの策略によって夫アドラールから裏切り者だと思われてしまい、山の中で殺されるところでしたが、そこに現れた大蛇から身を挺してかばったため、命だけは助かります。しかし、アドラールはその場所にオイリアンテを置き去りにしてしまうのです。
そこに、たまたま猟に来ていた王様の一行に助けられることになるのですが、その時に演奏されるのが、ホルンと男声合唱による、まるで「魔弾の射手」に出てくるような音楽です。これも一つの聴きどころでしょう。
こんな素晴らしいアルバム、オリジナルのサラウンドで出してくれるようなレーベルはないでしょうかね。SONY系はほぼすべてのアイテムをSACD化したDUTTONでも、EMIは無理なのでしょうか。

CD Artwork © Brilliant Classics


1月30日

WEBER
Euryanthe
Jacquelyn Wagner(Euryanthe/Sop), Norman Reinhardt(Adolar/Ten)
Theresa Kronthaler(Eglantine/MS), Andrew Foster-Williams(Lysiart/Bar)
Constantin Trinks/
Arnord Schoenberg Choir(by Erwin Ortner)
ORF Vienna Radio Symphony Orchestra
Christof Loy(Dir)
NAXOS/NBD0107V(BD)


ウェーバーのオペラと言えば、まずその序曲が有名ですね。「魔弾の射手」、「オイリアンテ」、「オベロン」あたりが「三大序曲」と呼ばれているのかもしれません。とは言っても、「魔弾の射手」だけは本体のオペラもかろうじて普通のオペラハウスのレパートリーになっていますが、あとの2つはほとんど上演されてはいないのではないでしょうか。それでも、一応「オベロン」だけは機会があって全曲版のCDを聴いたことがありますが、「オイリアンテは」いまだに序曲しか聴いたことがありませんでした。というか、ウェーバーの場合は「魔弾」だけ見ておけば、他のものは別に見る必要もないのでは、とさえ思っていました。
そんな時、ごく最近その新しい映像が発売されていたことに気づきました。それが、いつもの通販サイトでバーゲン扱いになっていたので即注文しましたよ。ただ、そういうものの常で、これはもう「入手不可」だ、という案内が届いてしまいました。ところが、その通知が来て数日後に、なぜかそれが手元に届いたのですよ。そんなこともあるのですね。
それは、2018年にウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で収録されたものでした。しっかりサラウンドで、日本語字幕も入っていました。これなら、何の不満もありません。
演出は例によって現代風に読み替えが行われていますが、ストーリー自体は、まるで韓国ドラマのようなどぎつい三角関係などが登場していますから、現代に置き換えても何の違和感もありませんでした。
まず、序曲の途中で幕が開いて、そこで男に女が強烈にアタックしていても、結局振られてしまう、というシチュエーションが演じられます。これによって、その女、女官のエグランティーネが、主人公オイリアンテの夫であるその領主アドラールに強い恨みを持っていることが分かります。
そのアドラールは、現在は単身赴任中で、遠くにいる妻のオイリアンテのことを思っていると、別の領地を持っているリジアルトが、彼女の貞操を疑い、自分が懇ろになったら、アドラールの領地をもらうという賭けを提案します。このあたり、まるでダ・ポンテの「コジ・ファン・トゥッテ」ですね。
ところが、リジアルトはオイリアンテには鼻もかけられません。そこでの彼のオイリアンテに対する復讐心を表す場面での演出が、ものすごいことになってました。まず、彼の妄想を表すために、そこにいるはずのないオイリアンテはベッドに横になっています。そして彼自身は、なんと全裸になっているのですよ。これまで、女性が全裸になるというオペラは何度か見たことがありますが、男性は初めて。というか、はっきり言ってイケメンには程遠いフォスター=ウィリアムズというこのバリトン歌手の裸なんか、見たくもありませんけどね。
それを、カメラは「的確」に、見えてはいけないものを隠すアングルで撮り続けています。もちろん、お客さんには見えているんですけどね。これほど露骨に「カノジョとヤッちゃったんだぜ」という演技をワンシーン、フルで(「フリで」ではありません)やり切ったこの人に拍手、です。まさに体を張っての演技ですね(「貼って」ません)。
幕切れでは、死んだと思われていたオイリアンテが、無事に生きていて登場という、これはオリジナルの設定ですが、これなんかは現代のドラマでもすぐ使えそうなサプライズですね。
音楽的には、その前の「魔弾」ではジンクシュピールなのでセリフが入っていましたが、ここではそれはきちんとレシタティーヴォ・アッコンパニャータになっており、それが気づかないうちに二重唱になっている、というような、油断のできない作風に変わっていました。常々、「ウェーバーはワーグナーの先駆者だ」というのを聞いて「どこが?」と思っていたのですが、こんなのを聴かされれば、これはもうあと少しでワーグナー、ということが納得できます。
3時間近くがあっという間でした。こんな面白いオペラなんですから、もっとどんどん上演してほしいものです。

BD Artwork © Naxos Rights(Europe) Ltd


1月27日

MOZART
Die Zauberflöte
Johannes Silberschneider(Narr)
Neue Hofkapelle Graz
Annie Laflamme(Fl), Lucia Froihofer(Vn), Peter Trefflinger(Vc)
ORLANDO/OR0051


モーツァルトの時代には、ヒットしたオペラの中の曲を小編成のアンサンブル用に編曲して、それをご家庭で楽しむ、ということが普通に行われていました。その頃は著作権などという概念はありませんから、それらの楽譜は作曲家の承諾などなしに勝手に作られ、出版社は大儲けしてもモーツァルトにとっては何の収入にもなりませんでした。
たとえば「魔笛」の場合は、23種類以上の編曲が存在していたそうです。そのうちの一つ、自身もホルン奏者だったニコラウス・ジムロックの出版社から出版されていたフルート、ヴァイオリン、チェロのための編曲が、このCDでは演奏されています。
ただ、そのジャケットの右下には、「Triofassung mit steirischem Papageno」という、不思議な言葉が記されていました。確かに、ここではさっきの3つの楽器の他にもう一人、映画俳優のヨハネス・ジルバーシュナイダーがナレーターとして参加しているのですよ。彼が、このオペラのいわば狂言回しである「パパゲーノ」を演じているのでしょうか。
ただ、その「パパゲーノ」の前にある「steirischem」という形容詞が気になります。「スタイリッシュ」でしょうか? まさかね。これは、「シュタイヤ―の」という意味なんですね。フランス語だと「Styrienne」となるのですが、これを見てもしかしたら初心者のピアノエチュード「ブルクミュラー 25の練習曲」の中の14番目、「La Styrienne」を連想される方がいるかもしれません。これは、昔私がさらった頃は「スティリアの女」という日本語訳が付いていました。
ところが、最近では
このように「シュタイヤ―舞曲(アルプス地方の踊り)」と訳されているようなのですね。「シュタイヤ―」というのは、オーストリアの南東部に位置する「シュタイヤ―マルク州」の事なのです。アルプス山脈の近くの地方ですから、その3拍子の曲はとても優美でのどかでしたね。その首都はグラーツ。つまり、ここで楽器を演奏している団体「ノイエ・ホーフカペレ・グラーツ」同様、ジルバーシュナイダーも「シュタイヤ―」の出身なのですね。
ジムロックの編曲は、おそらくオペラの全曲が演奏されるようになっているのでしょうが、ここでは、序曲を含めて全部で22曲の「魔笛」のナンバーから15曲だけが演奏されています。カットされた曲の中には、夜の女王が歌う2つのアリアが含まれています。もしかしたら「シュタイヤ―」とはちょっと趣味の違うきつさがあったからなのでしょうか。
確かに、まず聴こえてくる序曲は、何しろ楽器が3つしかありませんから、とてものどかな感じに仕上がっていました。フルートはバロック時代のワンキーの楽器ではなく、モーツァルト時代のマルチキーの楽器を使っていますから、ピッチは相変わらずアバウトですが、音色はとてもクリア。いつしか、その完璧なアンサンブルによる心地よい雰囲気に酔いしれるようになっていきます。
そして、その後には、モーツァルトのジンクシュピールのセリフの部分をアレンジしたナレーションが続きます。ここで、歌われていないナンバーの内容なども声色を変えたりしながら紹介されるので、きっちり物語をたどることができるようになっています。
その次のパパゲーノの最初のアリア「Der Vogelfänger bin ich ja」も、最初はのどかなフルートが歌っているのですが、2番になったらいきなりジルバーシュナイダーがダミ声で歌い出しました。それはもう、とても気持ちよさそうに歌っているのですが、正直言って音痴、でも、もしかしたらこれを初演した時にこの役を歌っていた台本作家のシカネーダーもこんな感じではなかったか? と思わせられるような独特な魅力をもっていました。
彼はもう1曲のアリア「Ein Mädchen oder Weibchen」と、第2幕のフィナーレにも登場し、「首吊りの歌」などを歌った後、パパゲーナと結ばれるまでのくだりを演じて、賑やかに幕となります。
もう一つ、ザラストロのアリアまで、これはほとんど朗読のように「語って」いましたね。

CD Artwork © Paladino Media GmbH


1月25日

West Side Story
Original Motion Picture Sound Track
Ansel Elgort(Tony), Rachel Zegler(Maria)
Gustavo Dudamel/
New York Philharmonic, Los Angeles Philharmonic
Additional Musicians
HOLLYWOOD RECORDS/D003694602


レナード・バーンスタインとスティーヴン・ソンドハイムが1957年に作った「ウェストサイド・ストーリー」というミュージカルは、1961年にロバート・ワイズと、オリジナルの振り付けを担当したジェローム・ロビンスの二人の監督によって映画化され、アカデミー賞の主要部門を総なめにするほどの大ヒットとなりました。
それからちょうど60年経って、スティーヴン・スピルバーグ監督によって2度目の映画化が行われ、2021年の12月にアメリカで公開されました。これも、アカデミー賞に迫るほどの評価を得ているようです。
日本での公開は今年の2月になるのだそうですが、そのオリジナル・サウンドトラックは、すでに輸入盤では入手できますので、一足先に聴いてみました。
そのCDのクレジットを見てみると、そこではものすごい人たちが関わっていることが分かりました。なんと、指揮者はグスタボ・ドゥダメルだというのです。さらに、オーケストラもニューヨーク・フィルとLAフィルという、2つの超メジャーなオーケストラの名前がありました。こんなものすごいオーケストラが使えるなんて、さすがスピルバーグ。
ただ、ブックレットのメンバー表にはその2つのオーケストラの他に「Additional Musicians」というくくりで、それこそメジャーなオーケストラがまるまる一つ出来てしまえるほどの大人数のメンバーが載っています。そこには、バーンスタインのスコア(正確には、ミュージカルのピット用にオーケストレーションを行ったシド・ラミンとアーウィン・コスタルによるスコア)では必要とされていてもさっきのメジャー・オーケストラには誰もいないサックス・セクションのメンバーが多数登場しています。
ということは、このサントラの大部分は、この「Additional Musicians」たちによって録音されていたのではないか、という気がするのですが、どうなのでしょうか?
クレジットでは、さらに、「Music Arranged by David Newman」と「Music Consultant:John Williams」という2人の有名な映画音楽の作曲家の名前があり、ジョン・ウィリアムズはライナーノーツも書いています。しかし、このCDを聴いた限りではオリジナルのオーケストレーションで手が加えられている部分はほとんどありませんから、デヴィッド・ニューマンの仕事は、映画に合わせて柔軟に多少の手直しをする程度のことだったのではないでしょうか。ジョン・ウィリアムズに至っては、スピルバーグとの関係での単なる名義貸しだったのでしょう。
最も興味があったのは、1961年の映画で大幅に変更された「Cool」と「Gee Officer Krupke」の曲順ですが、ここではいずれも元の場所には戻らずに、61年版とも違う場所に変わっているようです。さらに、「Prologue」と「Jet Song」の間では「La Borinqueña」というプエルト・リコの国歌(革命歌)がシャーク団によって歌われています。もちろん、これもオリジナルにはないものですが、シャーク団をジェット団と対等に扱おうというスピルバーグの配慮なのでしょうか。
さらに、オリジナルでは「A Girl」というキャストがバックステージで歌うことになっている「Somewhere」を、なんと61年版のアニタ役だったリタ・モレノが歌っています。彼女はしっかり「ヴァレンティーナ」という役を与えられています(なんせ、エグゼクティブ・プロデューサーですから)。齢90歳にしてのパフォーマンスは、いろんな意味ですごすぎて、何も言えません。
最後の「End Credits」はもちろんオリジナルにはない音楽ですが、こちらは61年のエンド・クレジットと序曲で使われた、いずれもミュージカルの中のナンバーのインスト・バージョンのメドレーとなっていて、61年版へのリスペクトが感じられます。
主役の2人、トニー役のアンセル・エルゴートと、マリア役のレイチェル・ゼグラーは、今まで聴いた中で最高のキャスティングだったのではないでしょうか。もちろん、オペラ歌手が歌った勘違いCDとは一線を画していますし、特に、ゼグラーの素晴らしさは、61年版のマーニ・ニクソンの比ではありません。

CD Artwork © 20th Century Studios


1月22日

Flutissima
Concertos by Benda & Mercadante
Sylwia Kubiak-Dobrowolska(Fl)
Łukasz Wojakowski/
Sinfonia Nova Orchestra
DUX/DUX1805


シルヴィア・クビアク=ドブロヴォルスカというポーランドのフルーティストのソロ・アルバムです。ブックレットのバイオグラフィーによると、彼女はポーランドの音楽大学でフルートを学びましたが、あのジャン=ピエール・ランパルのマスタークラスを受講した時に、彼の名を冠した国際フルートコンクールにポーランド人としては初めて招待されたのだそうです。ただ、これまでのこのコンクールの入賞者のリストには彼女の名前はありませんでした。ポーランド人では、ウーカシュ・ドウゴシュが2008年の第8回コンクールで2位になっているだけです。
この頃はもうランパルは亡くなっているので、本人から招待されたということは亡くなる2000年よりも前の事でしょうから、彼女がエントリーしたのは1998年の第5回以前ということになります。この時に2位(1位は該当者なし)となった瀬尾和紀さんは今年で48歳になりますから、現在の彼女の年齢はそのあたりかそれ以上、ということになりますね。
そう思ってこのジャケットやブックレットの豊麗な写真を見てみると、とてもそんなご高齢とは思えないピチピチとした肌艶に驚かされます。大胆におみ足を出している純白のドレスもとてもよく似合っていて、ほとんどアイドルか、と思えるほどです。その若さと美貌を保つためには、さぞかし手間暇をかけて努力なさっているのでしょうね。
彼女は、別の写真で楽器を2本紹介しています。1本はゴールドのC管、ストレートのリングキー、もう1本はシルバー(プラチナ? リッププレートはゴールド)のH管、オフセットのリングキーEメカ付きです。あいにく、この録音がどちらの楽器を使って行われたのかまでは、分かりません。
彼女のレパートリーは、クラシック音楽に限らず、もっと新しいジャズやポップスやダンス音楽、さらにはエスニック音楽までもカバーしており、そういうジャンルのアーティストとのコラボレーションも頻繁に行っているそうです。
ここで彼女が演奏しているのは、フランツ・ベンダとサヴェリオ・メルカダンテのフルート協奏曲です。いずれも、バックは弦楽器だけのオーケストラです。ベンダはフリードリヒ大王のポツダム宮殿で、フルーティストのクヴァンツや、鍵盤楽器奏者のエマニュエル・バッハなどと一緒に活躍したヴァイオリニストです。もう一人のメルカダンテは、もう少し後の時代、ロッシーニなどと同じ頃にオペラをたくさん作っていたイタリアの作曲家です。
ベンダは間違いなくクラシック音楽ですが、メルカダンテの方は、もちろん本来はクラシック音楽には違いないのですが、この終楽章の「ロンド・ルッソ」を1983年にベルディーン・ステンベルグというオランダのアイドル・フルーティストがディスコ・ビートに乗せて演奏して世界中でヒットさせたという、かなり「ポップス」として有名な曲なので、今回のシルヴィアちゃん(笑)にはお似合いなのではないでしょうか。
という「期待」をもって聴きはじめると、彼女の演奏はとても「おとなしく」聴こえます。音色はそこそこ華やかなのですが、息のスピードが遅いのか、なにかどんくさい感じがするのですね。そのために、ゆっくりした楽章では音が上がりきらなくて、ちょっとずれたピッチになってしまっています。
さらに、早い楽章ではリズムに乗りきれないようなところも頻繁にあって、時折オーケストラと大幅にズレていたりもします。特に、早くて細かい音符のパッセージでは、それこそ晩年のランパルのように派手に走ってしまって、かなりみっともないことになっています。
さすがに、難しいところでも音が抜けるようなことはありませんが、メルカダンテの終楽章の最後の三十二分音符の嵐では音を外すまいと躍起になっているのがありありと分かって、なにか涙ぐましくも感じられてしまいます。
彼女が美貌に費やす努力の半分も、基礎的なテクニックの維持に費やしていれば、これほど情けないことにはならなかったのではないでしょうか。

CD Artwork © DUX Recording Producers


1月20日

MADERNA
Requiem
Carmela Remigio(Sop), Veronica Simeoni(MS)
Mario Zeffiri(Ten), Simone Alberghini(Bas)
Andrea Molino/
Coro e Orchestra del Teatro La Fenice
STRADIVARIUS/STR37180


1920年に生まれた作曲家で指揮者のブルーノ・マデルナは、1973年に病に襲われ、53歳の若さで亡くなってしまいました。ワクチンがあればもっと生きられたのに(それは「モデルナ」)。
彼は、第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜になって強制収容所に送られるという体験から、1946年に「レクイエム」を作曲しますが、それは初演されることはなくそのスコアは長い間アメリカの図書館に眠っていました。というより、マデルナ自身は、1948年にヘルマン・シェルヘンから指揮法のレッスンを受けた時に、当時の最新の音楽技法(12音、セリーなど)に目覚め、それまでの古典的な技法によって作られていた自らの作品にきっぱりと決別したのですね。結局その「レクイエム」は、作られてから63年後の2009年11月19日に、やっとヴェネツィアのフェニーチェ劇場で「初演」されたのでした。
少し前、2015年にリリースされたCAPRICCIO盤は、その初演の4年後、2013年に、マデルナの「没後40周年」ということでこの「レクイエム」が演奏された時のライブ録音でしたが、それには「世界初録音」というクレジットがありました。ところが、実は「初演」の時のライブ録音もしっかり残っていたのですね。どういう事情があったのかは分かりませんが、その、本当の「世界初録音」盤が、今年に入ってからリリースされました。ジャケットには「1920-2020」という年号が記されていますから、マデルナの「生誕100周年」に合わせてリリースされたということなのでしょうね。
初演の前にヴェニエロ・リッツァルディによって校訂されたスコアは、イタリア国内ではZerboni、それ以外の国ではSchottから販売されています。そこで楽器編成を見てみると、オーケストラの編成は、弦楽器と金管楽器、そこにピアノが3台と、多くの打楽器が加わっているという、木管楽器が全く含まれていないものでした。ちょっとオルフみたいなサウンドですね。ソリストはソプラノ、アルト、テノール・バスが一人ずつ、合唱は女声3パート、男声4パートの7声部、人数は「最低80人」という指定があります。
改めて聴き直してみると、この作品の中にはいわゆる「現代音楽」の技法は全く使われていないことに気づかされます。CAPRICCIO盤を聴いた時にはシュプレッヒ・ゲザンクのように思えた歌い方も、どうやら単に張り切り過ぎて音程を無視して歌っていたようですね。さらに、グレゴリオ聖歌っぽいテーマの引用からも、この翌年に作られるデュリュフレの「レクイエム」とよく似たテイストを感じることができました。
最も長大な楽章の「Dies irae」は、まさにドラマティックで起伏の激しい音楽でした。時折、テノールとバスのソリストの掛け合いでのオーケストラの伴奏からは、まるでミュージカルのような音楽が聴こえてきたのも、新鮮な発見です。この楽章の終わり近く、「Lacrimosa」のあたりでは、合唱と一緒にピアノ3台がそれぞれポリフォニックに絡み合うといるのが、かなり古典的な印象を与えられます。
至る所で美しいメロディが現れて、しっかりと心に響く音楽、これは、間違いなくベルリオーズやヴェルディの「レクイエム」を正当に受け継いだ作品だと言えるのではないでしょうか。今だったら、堂々と胸を張って自分の作品だと言えたことでしょうが、あの時代の「現代音楽」のシーンでは、それは許されませんでした。マデルナがもう少し長生きしていたら、この「レクイエム」ももっと広く知られていたかもしれませんね。
先ほどのCAPRICCIO盤と聴き比べてみると、合唱の精度は今回はちょっと落ちていますが、熱気のようなものは今回の初演盤の方がはるかに豊かなような気がします。録音も、今回の方がより生々しい音になっています。
曲の最後は、超ピアニシモのア・カペラの合唱が終わっても、ティンパニが聴こえるか聴こえないかという静かさで叩き続けています。それがほんとうになくなって無音状態が30秒以上続いたあとで、やっと始まる拍手までが、ここでは収録されています。

CD Artwork © Milano Dischi s.r.l.


1月18日

VALENTINE
Un inglese a Roma
Ensemble Barocco di Napoli
Tommaso Rossi(Tr, Rec), Raffaele Di Donna(B.Rec)
Patrizia Varone(Cem), Marco Vitali(Vc)
Ugo Di Giovanni(Lut), Giovanni Battista Graziadio(Fg)
STRADIVALIUS/STR 37154


アルバム・タイトルはイタリア語で「An Englishman in Rome」です。スティングの曲に「An Englishman in New York」というのがありますが、それとは全く関係がありません。
スティングの場合は「Englishman」は彼自身の事でしたが、ここでは彼の300年ほど前にイギリスのライスターで生まれた作曲家、ロバート・ヴァレンタインの事を指し示します。具体的には1671年ごろとされていますから、大バッハが生まれる14年ほど前ですね。彼はヴァイオリン、チェロ、フルート、オーボエの奏者として、ライスターで活躍していましたが、1693年から1700年の間(はっきりしない?)にイタリアに渡り、名前も、イタリア風の「ロベルト・ヴァレンティーニ」と変え、イタリア人の女性と結婚してローマで演奏家、作曲家として名を成し、1747年にその地で亡くなりました。彼は、演奏家、作曲家であると同時に、ビジネスマンとしてのスキルも高かったそうで、自作を数多く出版し、それらはヨーロッパの多くの都市で販売されて大評判となり、再版を繰り返していたのだそうです。
このアルバムでは、トラヴェルソ奏者のトマゾ・ロッシを中心に2010年に結成された、「アンサンブル・バロッコ・ディ・ナポリ」によって、1730年に出版された「作品12」に含まれる6曲のフルート(トラヴェルソ)・ソナタと、1710年に出版された12曲のリコーダー・ソナタから成る「作品3」の中の第11番と第12番、計8曲が演奏されています。
それらが1枚のCDに収まっていて、トータル・タイムは58分ですから、それぞれのソナタは平均7分ちょっとしかかからないという、とてもコンパクトな作品たちです。ほとんどの曲が「教会ソナタ」の形式によるアダージョ、アレグロ、アダージョ(アンダンテ)、アレグロという4つの楽章から出来ています。
そして、この時代の音楽ですから、楽譜にはソロ楽器と、数字付き低音の2つのパートしか書かれてはいません。そこで、ここではその低音のためにチェンバロ、チェロ、リュート、ファゴット、そしてバス・リコーダーという5つの楽器を用意して、それぞれを様々な組み合わせ、あるいは単独で使うという形を取って、曲によってヴァラエティを感じられるような配慮をとっていました。
例えば、フルート・ソナタでは、「1番」では、ごく一般的なチェロとチェンバロという低音になっています。これは長調の曲なのですが、次の2番は短調になっていて、そこでは低音がリュートとバス・リコーダーに変わります。そうすると、低音のメロディラインはバス・リコーダーが吹くことになるのですが、ゆっくりとした楽章では、その、なんともはかない音が、哀愁感の漂う音楽と非常にマッチしているのですね。それが、早い楽章になると、フルートとバス・リコーダーとの掛け合いになって、とてもスリリングなバトルに変わります。
それから、基本は長調の曲で3楽章だけ短調にするとか、その逆の形を取るなど、単調さを避ける工夫もあちこちに見られます。どの曲でもその3楽章で豊かに歌って、最後にはカデンツァが演奏され、その後の快活なダンスの楽章に躍り込む、という定石には、何かホッとさせられるものがあります。
「5番」では、低音楽器がチェロ、チェンバロ、リュートと最も大きな編成となって、サウンド的にもとても贅沢な感じがします。それに続く「6番」でリュートが抜けただけで、ガラリとサウンドが地味になってしまうのですから、聴き飽きません。それは、この録音が非常に卓越したものであることもその一助となっているのでしょう。リュートなどは、フレットを抑えるときのノイズまでしっかり生々しく聴こえてきますよ。
最後の2曲では、ロッシがリコーダーに持ち替えています。この人は、トラヴェルソよりもこちらの方が合っているような気がします。トラヴェルソでは、低音の鳴りはとても素晴らしいのですが、ピッチ・コントロールが現在のレベルからはちょっと見劣りがしますので。

CD Artwork © Milano Dischi s.r.l.


1月15日

J.S.BACH, C.P.E.BACH
Magnificat
Miriam Feuersinger, Anja Scherg(Sop), Marie Henriette Reinhold(Alt)
Patrick Grahl(Ten), Markus Eiche(Bas)
Hans-Christoph Rademann/
Gaechinger Cantorey
ACCENTUS/ACC30563


ヨハン・セバスティアン・バッハ(いわゆる「大バッハ」)が、ライプツィヒのトマス教会のカントルに就任したのは、1723年でした。そして、その年のクリスマスのために作られたのが、「マニフィカト」です。新天地での最初の大規模な作品でしたから、力が入ったでしょうね。その時、大バッハは38歳でした。彼は後にこの作品を改訂していますが、それ以後、このテキストで曲を作ることはありませんでした。
一方、彼の息子のカール・フィリップ・エマニュエル・バッハも、同じ「マニフィカト」を作っています。彼は、ご存知のようにポツダムのフリードリヒ大王の宮廷楽団で鍵盤楽器奏者として活躍していて、基本的にその作品も鍵盤楽器のためのものがメインでした。それが、彼が35歳になった1749年に父親が病に倒れて後任のカントルが必要になった時、エマニュエルが父親の後を継ぐために、そのプレゼン用として作ったのが、その「マニフィカト」だったのです。図らずも、ほぼ同じ年齢の時に、親子がそれぞれに「マニフィカト」を作曲することになったのですね。
結局、諸々の事情でトマス教会のカントルになることは出来ませんでしたが、その作品は残りました。さらに、後年のハンブルク時代に改訂を行い、トランペットとティンパニを加えて華やかな響きのオーケストレーションを施しました。さらに、第4曲の「Et misericordia eius」を全く別の音楽に書き換えました。さらに、多くの受難曲なども作ることになりますが、「マニフィカト」は父親同様これ1曲しか作ってはいません。
この曲は、そもそもは当然父親の作品のことも知っているライプツィヒの関係者に聴かせるものでしたから、もろにそれと比較されることになります。そこで、息子としてはあくまで父親の作品をリスペクトしていることをアピールすることが必要だったのでしょう、多くの部分で父親の作品からの借用が見られます。冒頭の合唱曲からして、その華やかなテイストは瓜二つですし、その後のアリアや重唱でもとてもよく似たフレーズが登場しています。
しかし、それだけではただのエピゴーネンになってしまいますから、アリアなどでは絶対に父親には書けなかったようなメロディを登場させていますし、最後の曲では、フーガを前面に出した曲を提供していますが、それは、父親のような厳格なものとは一味違う、なにか和ませるものを持ったフーガでした。ここでしっかりエマニュエルは、彼自身の個性をもアピールしたかったのでしょう。
現在ではこの「Magnificat」というタイトルの日本語表記は「マニフィカト」となっているようですが、以前は「マニフィカート」という呼び方もあったようです。確かに、父親の作品では、「Mag-ni-fi-cat」というテキストの最後の音節「cat」に長い音符を当てていますから、「カート」と聴こえます。それに対して、息子の作品では短い音符になっているので「カト」とか聴こえます。まあ、どちらでもいいのではないか、と思うのですが。余談でした。
今回の録音は、2020年12月に行われています。当然、その時期はパンデミックの影響のためにホールに観客を入れることは出来ませんでしたから、ステージではオーケストラも合唱も広く間を空けて広がり、無観客でのライブ配信の模様が録音されています。
おそらく、このパンデミックで最も被害を受けたのは合唱関係者なのではないでしょうか。たぶん、その結果なのでしょう、合唱のパート内の密度がスカスカに感じられてしまいました。特に父親の作品の最後の合唱の「Gloria」の部分などは、「グローリア!」という感じが全く伝わってきませんでした。息子の作品でも、合唱に関しては終始よそよそしさが付きまとっていました。
一つ不思議なのは、息子の作品はここではきちんと改訂後の形で演奏されているのですが、IMSLPにアップされている印刷楽譜では、トランペットとティンパニは入っているのに4曲目だけは改訂前の形になっていることです。実際、古い録音だと、そのように演奏しているものもありますし。

CD Artwork © Accentus Music


1月13日

MOZART
Symphonies 38 & 39
Andrew Manze/
NDR Radiophilharmonie
PENTATONE/PTC5186 765


マンゼと北ドイツ放送フィルとのモーツァルト、その第1弾は2017年と2018年に録音された「40番」と「41番」でしたが、それから3年経った2021年3月に録音されたのが、今回の第2弾となるアルバムです。前回はライブ録音でしたが、今回は録音された日からも分かるように、ライブを予定していたコンサートを無観客で録音したのでしょう。
そのこととは関係ないのでしょうが、以前はSACDだったものがCDになっていました。これは最近のこのレーベルの動向から十分予想されたこと、もはや「SACD離れ」は現実のものとなっています。このレーベルの出発点は、かつての「4チャンネル」の音源を現代のサラウンド技術で甦らせるということだったはずですが、そのようなポリシーはいつの間にかなくなってしまっていたのでしょう。とても残念なことです。
今回のモーツァルトのアルバムでは、「38番」と「39番」が演奏されています。この調子で番号を遡っていって、モーツァルトの交響曲の「全集」あるいは「選集」を作っていくのかどうかは、現時点では分かりません。
前回のモーツァルトでは、やっとマンゼとモダン・オーケストラとの接点が確立したな、という印象を受けました。特に弦楽器には、かなり徹底したノン・ビブラートを要求していて、マンゼの本来のフィールドであるピリオドの世界が垣間見られるようになっていました。
それから3年経ってのこの両者は、おそらくもっと新しいフェーズで、お互いの思いを近づけ会って来ているのではないか、と、このCDを聴いて感じました。ここでは、かつては普通のスタイルで演奏されていた木管楽器までがしっかりノン・ビブラート奏法を取り入れていたのですよ。まあ、クラリネットはもともとビブラートはかけませんし、ファゴットはこの時代の交響曲ではそれほどソリスティックなことは要求されないのでそれほど変わりませんが、フルートとオーボエはガラリとその容貌が変わってしまっていました。フルートなどは、その上におそらく木管の楽器を使っているのでしょうから、音色までもモダン楽器とは少し変わっています。
とは言っても、それが、バロック時代の楽器であるフラウト・トラヴェルソをただ模倣しただけのものにはなっていない、というところがこの演奏のユニークなところです。つまり、ビブラートをかけずに、音色も少しトラヴェルソに寄せた上に、モダン楽器の特性である正確なピッチで吹くことによって、そこではモダン・オーケストラよりもピュアなハーモニーが実現されている木管セクションが生まれていたのです。それは、やはりピュアな弦楽器のサウンドと相まって、まさにモダンもピリオドも超えた極上の響きが感じられるものでした。もしかしたら、これが現時点では最も成功した「HIP(historically informed performance)」の姿なのではないでしょうか。ラップじゃないですよ(それはHIP HOP)。
そのようなオーケストラを率いて、マンゼはこの2つの交響曲から全く異なる側面を浮き彫りにしてくれました。
「38番」は、ふつう「プラハ」という愛称で呼ばれている通り、プラハでモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」が上演された直後に、同じオペラハウスで初演されています。他の後期の交響曲とは異なり、その第3楽章にあたるメヌエットの楽章がないのも、確証はありませんが、プラハの様式(同じ時代の作曲家ミスリヴェチェクが作った交響曲は、全てその3楽章で出来ています)を模したのでは、とも言われています。これを、マンゼは少し遅めのテンポでかなり内面的なものを浮き彫りにするような演奏を行っているように感じられます。実際、第1楽章の展開部では、ポリフォニックな要素が頻出することに、改めて気づかされます。
しかし、「39番」では、おおむねキレの良いテンポ感で、ドライブ感あふれる演奏を展開しています。第2楽章の、途中で短調に変わる部分では、音符の長さも短くして、とても厳しい表現を見せています。
そんなさまざまな要素が入り混じって、とても得をしたような気になれたアルバムでした。

CD Artwork © Pentatone Music B.V.


おとといのおやぢに会える、か。



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