赤い水素水。 佐久間學

(20/9/8-20/9/29)

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9月29日

音楽の危機
《第九》が歌えなくなった日
岡田暁生著
中央公論新社刊(中公新書2606)
ISBN978-4-12-102606-4


今回の「コロナ禍」では、各方面でそれぞれの立場からおびただしい主張が送り出され、書籍化も進められています。この中には、こんな音楽の世界に軸足を置いた書籍も見受けられます。
これは、「西洋音楽史」などの刺激的な著作を始めとした、硬軟取り混ぜた多くの音楽書を世に送り出している岡田暁生さんの最新の書籍です。
あとがきによると、岡田さんがこの原稿を書き上げたのが今年の7月、コロナ禍の真っただ中、それでも少しは先のことを考えるだけの情報も集まってきた頃でしょうか。そんな時点で、岡田さんならではの豊富な知識を動員して、「コロナ後」の音楽活動はどうあるべきかという点についてわれわれが考える契機になりそうな緻密な考察が提示されています。あとがきの冒頭にある
「集まれなければどうしようもないことがある」
コロナ禍を通してわたしたちがおもいしらされたことの一つがこれだろう。(略)人はどうしても希望的観測を抱きたがる生物だから、「集まらなくてもできることがあると分かった、これからは総オンライン化の時代だ」という方向に話をもっていきがちだ。しかしだからといって、空気の共有を怖がり始めたら決定的に失われる何か(その一つが生の音楽)があるという事実から、目を離すことはできない。
という訴えかけは、全ての音楽関係者の思いを代弁しているように思えます。
ご存知のように、今回のコロナ禍によって、世の中からはコンサートというものが消え去ってしまいました。特に、この本のサブタイトルにもある「第九」については、なにしろ世の中では「最も演奏してはいけない曲」としてやり玉に挙がっているぐらいですから、多くの紙面を割いて語られています。そんな中で、ここで紹介されているテオドール・アドルノの言葉の引用が、ちょっと気になります。それは「第九」の歌詞の中のこの部分です。
Ja, wer auch nur eine Seele
Sein nennt auf dem Erdenrund!
Und wer's nie gekonnt, der stehle
Weinend sich aus diesem Bund.

そう、ただ一つの魂も
この世界で自分のものだと言えない人は
そしてそれができなかった人は
この輪から泣きながらこっそり立ち去るがいい
つまり「魂を共有できる相手がいない人は、このグループから去ってくれ」という「仲間外れ」を強要する歌詞なんですね。これは、著者自身が感じている「第九」の「押しつけがましさ」を擁護するエピソードとして登場させているのでしょう。とは言っても、著者は「第九」の偉大さを否定することはありません。
ひとまず「第九」からは離れて、まさに100年前の第一次世界大戦の際の音楽のありようを分析して、その戦争の前と後で変わったこと、変わらなかったことを具体的に明確にしている部分などは、非常に興味深く読むことが出来ました。どんなことがあっても、音楽はしっかり残ってきたのでしょう。
ただ、その後に述べられている、今回のカタストロフを経験した後で求められる音楽について語られている部分は、あまりに著者の個人的な趣味が反映されていて、素直に受け入れる気持にはなれません。いまさらジョン・ケージやスティーヴ・ライヒではないような気がするのですが。
「コロナ」を巡る状況は、特に為政者の思惑によってめまぐるしく変わっているのが現状です。たとえば、本書が書かれた時点ではまだクラシックのコンサートではホールの定員の半分以下の聴衆しかを収容することはできませんでしたが、今では100%の収容が可能になろうとしています。もちろん、この頃は「GO TO なんたら」などというものも顕在化していませんでした。著者によるこのような緻密な議論をすっ飛ばして、世の中はとても乱暴な「コロナ後」を目指そうとしているように見えてしまいます。
そんなちぐはぐな点には目をつぶって、「ある時期」に真摯にこれからの音楽活動について深く思考を巡らせていた一人の学者の記録としてとらえることはできるのではないでしょうか。

Book Artwork © Chuokoron-Shinsha Inc.


9月26日

SCHUBERT IN LOVE
Rosemary Standley(Voc)
Sandrine Piau(Sop)
Airelle Besson(Tp)
Ensemble Contraste
ALPHA/ALPHA 418


「恋をしているシューベルト」という素敵なタイトルですが、それを日本の代理店は「ポップス調アレンジで聴くシューベルト作品の魅力」という、なんとも陳腐な「邦題」に変えてしまいました。そもそも「ポップス調」ってなんなんでしょう。「ポップス風」ならまだ分かりますが、これだと「C調(死語)」みたいでなんか軽薄です。こういうことは慎重に行わないと。
ここでは、主に「ポップス」のフィールドで活躍しているフランスのシンガー、ローズマリー・スタンドレイがシューベルトの「歌曲」を歌っています。この、ドイツ語の「Lied」の訳語である「歌曲」という格調高い言葉は、ここでの「ポップス」と並べると、いかにもなミスマッチさが強調されてきますね。「歌曲」を歌うのは「声楽家」、そして「ポップス」を歌うのは「シンガー」という、明確なカテゴリーの差別化が、この国で使われている音楽用語にはまだ残っています。
そんなものが全く無意味であることは、このアルバムを聴けばすぐに分かります。まず、1曲目の「セレナード」がとてもきれいなドイツ語で歌われる、いや、「語られる」と言った方がふさわしい、とても歌詞を大切にした柔らかな雰囲気で聴こえてきたときに、そこにはルートヴィヒ・レルシュタープが描いた甘美な世界がくっきりと広がりました。同時に、以前、ヘルマン・プライという往年の「声楽家」がこの曲を歌っているのを聴いて心底がっかりしたことも思い出してしまいました。彼の歌い方はとても生真面目で、厳格ささえ備わっていたのですが、そこから聴こえてくる歌はとても重苦しく、全然楽しくありませんでした。
スタンドレイの歌によって、その美しいドイツ語に付けられたシューベルトのメロディは、いかにも軽やかに漂っています。そこからはプライの歌にはべったりくっついていた「楽典」とか「和声法」といった「学問」の雰囲気は微塵もありません。
こんなシューベルトを聴かされると、しっかりした発声法の訓練を受けた、遠くまで響く声を持っている歌い手である「声楽家」よりは、声自体は生音ではとても大ホールの隅々まで聴こえるような立派なものではなくても、細やかな情感を表現できる術を持っている「シンガー」の方がよっぽどこの作曲家の本質に迫っているのではないか、という気がしてきます。そんな大それたことを感じてしまうほど、スタンドレイの歌には「すごさ」がありました。
ですから、ここではサンドリーヌ・ピオーという「声楽家」が、そのスキルを全開にして歌っている姿には、なにか悲壮感のようなものが漂っていましたね。シューベルトはそんなに頑張って歌うもんじゃないわよ、と、スタンドレイに諭されているような。
その上、ここでバックを務めている「アンサンブル・コントラスト」という、ヴィオラ、ギター、チェロ、コントラバス、パーカッション、ピアノという編成のグループは腕利き揃い、ピアノのジョアン・ファルジョの編曲で、クラシックからジャズまでの幅広いスタイルを見事に使い分けています。
そこに、もう一人のゲスト、トランペットのエレール・ベッソンが加わると、そこはもろジャズの世界に変わります。「アヴェ・マリア」などはスタンドレイの出番はなく、始まりはオリジナルのピアノ伴奏でヴィオラのソロですが、途中からそのソロがベッソンのトランペットに変わると、瞬時にリズムがジャズのビートに変わり、シューベルトはロマン派の作曲家から、クールなジャズマンへと変貌します。
そんな、インスト・ナンバーは他にも用意されています。「交響曲第8番によるインプロヴィゼーション」というのは、あの「未完成」の冒頭のモティーフだけで即興演奏を行うというエキサイティングな試みです。「7番」ではなく「8番」と言っているのが、うれしいですね。
肩ひじ張らないとてもリラックスしたシューベルト、これはたまりません。

CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music


9月24日

TCHAIKOVSKY
Swan Lake
Santtu-Matias Rouvali/
Philharmonia Orchestra
SIGNUM/SIGCD648


日本人は、3つのものをまとめて表現することが大好きです。「三種の神器」とか「御三家」とか、3つ揃えるとなんか縁起がいいように感じるのでしょう。そのノリで、ランキングの上位3つについて「三大」という言葉を付けて崇める、ということも大好きなようです。
ですから、クラシックの曲でもその「三大」はゴロゴロしています。「三大交響曲」は「運命」、「未完成」、「新世界」でしょうか。そんな中に最近「三大宗教曲」というのがあるというのを知って愕然としているところです。それはバッハの「マタイ」、「ヨハネ」、「ロ短調ミサ」なんですって。まあ気持ちは分かりますが、こんな風にくくってしまうと、とたんにありがたみがなくなってしまうような気がしませんか?枚数が多いから高いし(それは「散財」)。
そして、チャイコフスキーの場合は、なんたって「三大バレエ」でしょうね。「白鳥の湖」、「眠りの森の美女」、「くるみ割り人形」の三曲です。しかし、よく考えてみるとチャイコフスキーの場合バレエは「三つ」しか作っていないのですから、その中から三つ選べば、当然それが「三大バレエ」になってしまいます。だから、「大」はなくてもいいのではないでしょうか。
いや、確かに「チャイコフスキーの三大バレエ」という言い方は間違っていますが、この「三大バレエ」というのは、バレエ全体を見た時の上位三つという意味だととらえれば、なんの問題もありません。そして、たまたまその三曲に、チャイコフスキーの全作品が入っていた、と言うことなのですね。
これは、ちょっとすごいことではないでしょうか。世の中では昔から今に至るまで数多くのバレエが作られている中で、チャイコフスキーの三つしかないバレエが全てそのトップに君臨しているのですからね。逆に、この三つ以外にバレエってあったっけ?なんて思っている人も多いかもしれませんね。
その中で、最初の作品である「白鳥の湖」は、それまでのバレエとは根本的に異なるコンセプトで作られていました。それは、曲全体が一つの巨大な交響曲のような確固たる構造を持っていた、と言うことです。
もちろん、それぞれにキャッチーなメロディがてんこ盛りのナンバーばかりですから、有名な曲だけを選んで組曲を作ることも可能ですが、この作品の場合は例えば「くるみ割り人形」のようなしっかり形の決まった組曲は存在してはいません。
今回の、フィンランドの俊英、現在34歳のロウヴァリが、来年秋からのシーズンには首席指揮者に就任するフィルハーモニア管弦楽団とともに録音した「白鳥の湖」では、29のナンバーからできている全曲の中から11のナンバーが選ばれています。しかし、その中には、普通よく演奏される第二幕の「白鳥の女王の踊り(No.13-5)」や、第三幕の「チャルダッシュ(No.20)」といったとても有名な曲は入っておらず、その代わりにまず耳にすることはないNo.4の「パ・ド・トロワ」やNo.19の「「パ・ド・シス、パ・ド・ドゥ」が入っています。これらは、それぞれにチャーミングなテーマの曲で、聴かずに済ますにはあまりに惜しいものばかりですから、そんな一味違った選曲で、「白鳥の湖」の新たな魅力を感じてほしいということなのでしょう。
ロウヴァリの演奏も、普通に行われている甘く華麗なものとは一線を画した、この作品にあくまで音楽として真摯に向かった結果だと思われるような、ストイックなものが感じられます。まず、リズムがとてもきっちりしています。それは、あくまで音楽の性格を重視しての結果なのではないでしょうか。言ってみればこの演奏でバレエを踊るのはちょっと大変だろうな、と言う気がするほど、音楽的な構造がきっちり伝わって来る演奏です。
それが、最後の「フィナーレ」になった途端、まるでそれまで抑えてきたものを発散させているような圧倒的な開放感があったのですから、たまりません。
このライブ演奏、お客さんも楽しんだのでしょう、終わったら大喝采でした。

CD Artwork © Signum Records Ltd


9月21日

John Williams in Vienna
Anne-Sophie Mutter(Vn)
John Williams/
Wiener Philharmoniker
DG/483 9045(CD, BD, BD-A)


ジョン・ウィリアムズがウィーン・フィルを指揮して自作を演奏したという、まさに「ありえない」コンサートは、世界中に衝撃を与えたようでした。なんたって、このオーケストラの指揮をすれば確実にランクが上がって、ギャラも倍増すると言われているぐらいですから、全ての指揮者にとってのステータスのようなものです。そこに、こんなクラシックの指揮者としてはほとんどなんのキャリアもない人が登場して「映画音楽」を演奏したのですからね。そして、それを収録したBDとCDは大ヒットとなりました。
このレーベルでは、毎年所属アーティストの写真を使ったカレンダーを発行していますが、なんでも来年の表紙をかざるのが、このジョン・ウィリアムズだというのですから、このコンサートによってこのレーベルがいかに潤ったかが分かろうというものです。おまけに、最初にリリースされた時のジャケットは、このように金色のロゴの中にタイトルが記されていたのですが、わざわざこのレーベル本来の黄色のロゴのバージョンを使ったCDと、そしてLPまで作られてしまいました。ジョン・ウィリアムズおそるべし、です。
今回購入したパッケージでは、BDによる映像ソフトと、CDとBD-Aによる音声ソフトの3形態のメディアが同梱されているということでした。ところが、開いてみるとディスクは2枚しか入っていません。どうやら、BD-Aは映像BDの中に一緒に入っているようですね。確かに、メニューを開くと最初に映像のトラックがあって、そのあとに音声だけのトラック、そして最後にはジョン・ウィリアムズのインタビューと、彼とアンネ=ゾフィー・ムターとの対談が収められていました。
そうなってくると、それらを1枚のBDに収録するには、音声データを少し切り詰める必要があったのでしょう、2チャンネルステレオでは24/96ですが、サラウンドでは24/48になっていました。ちょっとこのフォーマットでは、BD-Aとしてはしょぼいですね。専用にもう1枚のディスクを用意して、まともなハイレゾで聴かせてほしかったものです。
BDでこのコンサートを通して見てみると、これを聴いていたお客さんがいかに熱狂的であったかが如実に分かります。指揮者が入場した時には会場全体にあふれるばかりの拍手と歓声が、サラウンドで迫ってきます。そしてすでにこの時点でスタンディング・オベーションです。このコンサートでは、お客さんはいったい何度立ち上がっていたことでしょう。何より圧巻だったのは、アンコールで演奏された、当初はプログラムには入っていなかった「スター・ウォーズ」の中の「帝国のマーチ(ダース・ベイダ―のテーマ)」でしょうね。そもそもアンコール自体が、ムターのソロをフィーチャーして4曲も演奏された後にジョンが「もう1曲」と合図して始まったのですが、マーチが始まると同時に大歓声が巻き起こりましたからね。終わった時も、盛大なフライングで拍手です。
ところが、CDやBD-Aでは、この歓声も拍手もきれいになくなっています。おそらく、リハーサルの時の音源を挿入したのでしょう。これらでは、曲目もムターのソロの曲が大幅にカットされていますし、このマーチを含めて演奏の順序が入れ替わっています。これしか聴かない人は、この会場の熱気はほとんど味わえないでしょうね。ぜひBDをご覧になることをお勧めします。
この時のジョンは87歳という高齢でした。奇しくも、あのカール・ベームが亡くなったのとほぼ同じ年齢です。ですから、このオーケストラも指揮なんか見ないで勝手に演奏するのかと思っていたのですが、ジョンはきっちり「指揮」をしてましたね。
ムターとの対談では、彼はコルンゴルトにしばしば言及していました。ギャラが減るかもしれないのに(それは「減給」)。故郷ウィーンからハリウッドに渡り、そこでそれまでにはなかったゴージャスな映画音楽を作り上げたコルンゴルトは、まさにジョンの音楽のルーツです。それを引っ提げてのウィーンでの凱旋、これはまさに「必然」以外のなにものでもありません。

CD & BD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH


9月19日

SCHUMANN
Symphonies 1&4
François-Xavier Roth/
Gürzenich-Orchester Köln
MYRIOS/MYR028(hybrid SACD)

前回ご紹介した「ヨハネ受難曲」では、録音エンジニアがシュテファン・カーエンだったんですね。なんだか聞いたことがある名前だとは思ったのですが、MIRIOSレーベルのカーエンとは結びつきませんでした。鈴木さんのレポートにはエンジニアのことは触れられていませんでしたからね。いずれにしても、カーエンのレーベルは同じケルンの市内にありますから、断ったりしないですぐに駆けつけてくれたのでしょう。
カーエンが録音したこのレーベルの音は、とても密度が高く音楽の魂までもが凝縮されているような卓越したものでしたから、それをSACDで聴いた時にはまさに最高のデジタル録音なのでは、と思えました。もしかしたら、あの2Lをも凌駕していたかもしれません。ところが、最近はSACDではなく普通のCDでのリリースに変わっていたのですね。別途ハイレゾ音源の配信は行っていたようですが、それではサラウンドは聴けません。ですから、CDだけになった時点で、残念ながらこのレーベルは見限っていました。
それが、今回なんとこのレーベルから、ピリオド・オーケストラ「レ・シエクル」の創設者フランソワ=グザヴィエ・ロトと、彼が2015年から音楽監督を務めるケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団という現在注目度No.1の演奏家の録音がリリースされることになりました。この組み合わせではこれまでにマーラーの交響曲を2曲録音していますが、それはHARMONIA MUNDIというかなり大きなレーベルからのリリースでした。それがいきなりこんな、これまでに27枚のSACDとCDしか出していない超マイナーなレーベルによって録音されたのですから驚きました。しかも、このレーベルはほとんどソロか室内楽のような少人数の録音しか行っておらず、「交響曲」などは1枚も作っていませんでした。よくそんなところに任せたものですね。
そして、それはSACDだったのですよ。もちろんハイブリッドで、マルチチャンネルによるサラウンドも聴けます。別にSACDをやめたわけではなかったのですね。喜びもひとしおです。ただ、日本での代理店は、以前のナクソス・ジャパンからキングインターナショナルに変わっていたのが、ちょっと気になります。
ここでロトが取り上げたのは、シューマンの交響曲の1番と4番です。もちろん、4番は1番のすぐ後に作られた時の最初の形、第1稿が使われています。つまり、シューマンが最初に作った2曲の交響曲、と言うことになります。
まずは1番冒頭の金管のファンファーレを聴いただけで、これはもう別格な録音であることが分かりました。一片の濁りもない、楽器そのものの音だけが、豊かなサラウンドの残響を伴って響き渡っています。そして、そこに入ってきた弦楽器のサウンドのピュアなこと。ロトは、彼のオーケストラ、レ・シエクルと同じように、このモダン・オーケストラに対してもノン・ビブラートによる演奏を求めているようです。ただ、それは、これまで他のオーケストラで行われていた、いかにもとってつけたようなノン・ビブラートではなく、ひょっとしたらコン・ビブラートよりも表情豊かなものだったかもしれません。ここでは、彼らはロトの指揮の下、まるで室内楽のような細やかな表情を、まさに一糸乱れずに付けていたのです。
そこに、フルートのソロが入ってきた時には、まるでその場の空気を切り裂くような音にハッとさせられます。そこでもビブラートは極力抑えられ、あくまで楽器のソノリテを生かしたサウンドで迫っています。木管だけのアンサンブルも、完璧なピッチです。
そうなってくると、オーケストラ全体のアンサンブルも、完璧なものになります。それが、完璧な録音によって再現される様は、まさに奇跡です。
そんなサウンドで展開されるシューマンは、余計なものをそぎ落としたとてもさっぱりとした姿で眼前に広がっていました。しかし、それはあくまでSACDをサラウンドで再生した時のことです。サブスクのAACで聴いたのでは、決して味わうことはできません。

SACD Artwork © myrios classics


9月17日

BACH
St John Passion(1739/49 version)
James Gilchrist(Ev), Christian Immler(Jes/Bas)
Hana Blažíková(Sop), Damian Guillon(CT)
Zachary Wilder(Ten)
鈴木雅明/
Bach Collegium Japan
BIS/SACD-2551(hybrid SACD)


バッハ・コレギウム・ジャパンが今年の3月にケルンで録音したばかりの「ヨハネ受難曲」がリリースされました(もう聴けるんだ)。彼らは、1998年に同じ曲を同じBISレーベルに録音しています。それから20年以上経っているので、心機一転新しい録音を行ったとしても何の不思議もありません。でも、これまではほとんど日本で録音していたのになぜケルンで、という気がしませんか?そう、この録音が実現するまでには、なんともドラマティックな展開があったのです。
彼らは、その時は創立30周年記念のヨーロッパ・ツアーの最中でした。6ヶ国で11回のコンサートが予定されていたのですが、3回のコンサートを行った後に次の演奏会場があるケルンに着いた途端、それ以降のコンサートが全てキャンセルされたことを知ります。「コロナ」のせいですね。彼らは途方にくれますが、「ヨハネ」を演奏する予定だったケルンのフィルハーモニーの支配人は、この会場で無観客のライブ・ストリーミングを行うことを提案しました。
もちろん、それは承諾したのですが、そうなると何日間か暇な時間が出来ることになりました。そこで、指揮者の鈴木さんの奥さん(合唱団員)が、「レコーディングをやったらいいんじゃない?」と言ったのだそうです。せっかく最高のメンバーが集まっていて、会場は無料で提供してもらえますから、やらないわけにはいきません。
とは言っても、そこにはレコーディングのスタッフも機材もありません。そもそも、レーベルがそれを承諾するかどうかも分かりません。しかし、鈴木さんがBISのCEOのフォン・バールに電話をすると二つ返事でOKが出たので、ライブ・ストリーミングの前後にレコーディングを行うことが決まりました。ところが、その時はBISのプロデューサーたちは誰も手が空いてはいなかったのです。そこで急遽、鈴木さんの息子の優人さんが最近一緒に仕事をしたという、テルデックス・スタジオの創設者でHARMONIA MUNDIでプロデューサーを務めているマルティン・ザウアーにお願いしたところ、パリからとるものもとりあえずケルンまで来てくれました。録音機材は、ミュンヘンに「コロナ」でキャンセルになったセッションがあったので、それを使うことになりました。
ということで、日に日に「コロナ」の影響で国境を超えることが困難になっていく中でレコーディングは始まりました。その頃には街のレストランなどは全て閉店になりました。その最終日、あと少しですべての録音が終わるという時に、会場に警官たちが入ってきて、直ちにそこを閉鎖することを命じたのだそうです。しかし警官の中の一人がライブ・ストリーミングを見ていて事情を察し、録音はつつがなく終了しました。
そんな状況での録音ということもあるのでしょうか、この曲のオープニングの合唱などはまさに鬼気迫るものがあります。とても切迫感のあるテンポ、1998年のものと比べると、演奏時間は1分近く短くなっています。合唱のクオリティも素晴らしいですし、ソリストたちも健闘しています。これは、稀に見る名演なのではないでしょうか。
ところで、今回の曲目の表記には「1739/49 version」とあります。これは、こちらにあるように、1739年にバッハが新たに書き起こしたスコアが途中で中断されたので、1749年にその後を弟子が「第1稿」のスコアから書き写して完成させた楽譜の事を指し示す概念でした。新バッハ全集はこれを基本にしています。
ところが、今回はそうではなく、1739年のバッハの未完のスコアで10曲目まで演奏し、それ以降は1749年に実際に演奏された「第4稿」で演奏する、ということなのだそうです。彼らは1998年には全曲その「第4稿」で演奏していましたから、その発展形なのでしょう。それ自体は別に問題はないのですが、それを「1739/49 version」と呼んでしまったのは非常に大きな問題です。ただでさえこのあたりの事情は混迷を極めているというのに、それがさらに助長されてしまうのですからね。困ったものです。

SACD Artwork © BIS Records AB


9月15日

DESPLAT
Airlines
Emmanuel Pahud(Fl)
Alexandre Desplat/
Orchestre National de France
WARNER/90295306878


アレクサンドル・デスプラという作曲家は、ハリウッドの映画音楽の世界では非常に有名な方です。おびただしい数の映画のサウンドトラックを手掛け、アカデミー賞を始めグラミー賞やゴールデングローブ賞など多くの賞を授与されています。
彼は、そんな映画音楽だけではなく、もっと「シリアス」なジャンルの音楽も手掛けています。たとえば、2019年に日本の小説家川端康成の「無言」という作品が「サイレンス」というタイトルでオペラ化された時には、その音楽と、そして台本も担当して、指揮も行っています。
その時に、デスプラと共同で台本を執筆し、オペラの演出を行ったのが、デスプラの公私にわたるパートナー、ドミニク・ルモニエでした。彼女は「ソルレイ」という名前でヴァイオリニストとして活躍していましたが、そのようなクリエーターとしての名声も高いものがあります(近年はヴァイオリニストは引退しています)。
今回のアルバムは、そのソルレイが「音楽監督」として制作にあたりました。彼女のパートナーのデスプラは、フルーティスト、作曲家として育つ中でジャン・マルティノンが指揮するフランス国立管弦楽団をよく聴いていたといいますが、彼女は、そのオーケストラを使って、デスプラと、今の時代にフルートのレパートリーを築き上げるために人生をささげてきたエマニュエル・パユとのコラボレーションを実現させようとしたのです。
そのために彼女は、このオーケストラでデスプラが自作の指揮をし、パユがソリストとして加わるというコンサートを企画しました。それは、このオーケストラの本拠地であるラジオ・フランスのオーディトリアムで2018年12月に開催されました。そして、その時のリハーサルと本番の録音を編集したものが、このCDとなっています。録音プロデューサーはもちろんソルレイ、彼女はこのアルバムのジャケット写真も撮影しています。
まずは、デスプラの音楽がアカデミー賞を獲得したギレルモ・デル・トロ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター」のサントラから、フルートとオーケストラのために編曲された3つの曲が演奏されています。この映画は見ていませんが、その音楽はいかにもハリウッドといった、聴きやすいメロディがこれでもかと押し寄せる甘美なものでした。そんな中で、パユのフルートは、なんとも身の置き場のないような印象を与えます。シンプルなメロディだけに、あまりインパクトがないんですよね。時折技巧的なアルペジオなどが出てくる時には嬉々としてそのテクニックを披露しているのですが、肝心のテーマを歌うのがなんか恥ずかしがっているような感じです。ピッチもちょっと不安定なところもありますし。
それが、次に演奏された「協奏交響曲『ペレアスとメリザンド』」になったとたん、俄然パユの存在感は増しました。これは、2013年に指揮者のジョン・アクセルロッドの助言によって作られたもので、映画ではなく、完全にコンサートのために作られたものです。その題材となったのは、メーテルランクの「ペレアスとメリザンド」。ドビュッシーのオペラや、フォーレの劇音楽としても有名な戯曲ですね。初演のフルート・ソロは、ジャン・フェランディスが務めました。
これは、音楽自体が映画音楽とはガラリと変わった厳しいものです。激しいリズムの中に、フルートはとてつもない技巧を要求されます。パユはまさに水を得た魚のように生き生きと演奏しています。
ここではもう1曲「シリアス」な作品が演奏されています。それが、アルバムタイトルにもなっている無伴奏フルートのための「エアラインズ」です。パユのために作られ、このコンサートで初演されました。これは、ドビュッシーの「シランクス」と、武満徹の「エア」を足して2で割ったような曲です(だったら「エアランクス」)。途中で出てくる超ピアニシモのロングトーンは、まさにパユならではの味がありました。

CD Artwork © Parlophone Records Limited


9月12日

BARTÓK
The Wooden Prince, Dance Suite
Pierre Boulez/
New York Philharmonic
DUTTON/CDLX 7375(hybrid SACD)


今回まとめてリリースされたDUTTONのサラウンド復刻盤のSACDは、COLUMBIAとRCAのものは全部買ってしまいましたね。今回は全アイテムがもうヤバすぎるものばかり。まさに珠玉の名盤揃いでした。
でも、そんなお宝も、そもそもある時期にしか作られなかったものばかりですから、早晩枯渇してしまうはずです。最近は冬でもあまり見かけませんからね(それは「炬燵」)。おそらく、SONY系の音源はもうほとんど出尽くしているのではないでしょうか。この上は、まだ山のような宝が眠っているEMIからのライセンスで同じことをやってもらえると、とてもうれしいのですけどね。
ブーレーズの「オケコン」のように、到底無理だと思っていたものが、ここに書いたら実現してしまったようなことがあるので、一応書いてみました。期待はしてません。
ということで、今回購入分の最後はブーレーズとニューヨーク・フィルによるバルトークの「かかし王子(木製の王子)」です。これは1975年の録音ですが、ブーレーズは1991年にもシカゴ交響楽団とこの曲を録音しているのですね。
正直、バルトークの作品は大好きなのですが、この曲に関してはきっちり全曲を聴いたことはありませんでした。つまり、このブーレーズ盤がほとんど「かかし王子」デビューのようなものでして。
情報としては、これはバルトークによって作られた3つの劇場音楽の一つとなっています。他の2つは、オペラの「青髭公の城」とパントマイムの「中国の不思議な役人」ですが、この「かかし王子」はバレエのための音楽です。台本を書いたのは「青髭」と同じバラージュ、作られた時期もほぼ同じころです。
物語は、「青髭」同様、おとぎ話を素材にしてそこから強烈なメッセージを発信させる、というものです。なんでも、森の中で出会った王女に一目ぼれしてしまった王子が、その王女に告白しても「ごめんなさい」だったものが、王子が自分の王冠やガウン、金髪などでかかしを作ってそれを王女に見せると、王女はそのかかしに夢中になります。でも、王子本人はみすぼらしい格好になってしまったので、無視されてしまいます。しかし、森の妖精の力によって、王子が元の姿に戻ると、王女はとたんに彼を好きになるのですが、今度は王子の方が「ごめんなさい」という態度です。傷心の王女は、自らの冠やガウンを脱ぎ捨て、金髪も切ってしまい醜い姿になりますが、王子はそんな彼女をいとおしく抱きしめるのです。ここにどんな寓意があるかは、明らかですね。
そんな、幻想的で不思議なお話にバルトークが付けた音楽は、とことんスペクタクルなものでした。まず、最初の「イントロダクション」は、まるでワーグナーの「ラインの黄金」あるいはリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」のオープニングのような、低音のロングノートに乗って、静かに何かが湧き出るような音楽で始まります。その後に7つの「ダンス」が続くのですが、それはもう、オーケストレーションの粋を集めたようなドラマティックでスペクタクル満載の音の洪水です。それは、「青髭」のとても内省的(1曲だけ、派手な曲がありますが)な音楽とは正反対の、ド派手なサウンドです。正直、バルトークにこんなに色彩的なオーケストレーションが出来るなんて、思ってもみませんでした。
もちろん、それをさらに盛り上げていたのは、オリジナルの4チャンネルによるサラウンド再生です。基本的には、1972年の「オケコン」と同じ定位で聴こえてきますから、おそらくブーレーズの場合はオーケストラを聴こえてくるのと同じ配置にして録音を行っていたのでしょう。ここでも「オケコン」同様、セクションごとのアンサンブルの乱れがあちこちで起こっていますからね。
ただ、音のクオリティは「オケコン」を数段上回っていました。特に弦楽器のしなやかな音色と肌触りは、3年前の録音では味わえないものでした。このあたりも、おそらくマスターテープの劣化の度合いが影響しているのかもしれませんね。

SACD Artwork © Vocalion Ltd


9月10日

THE LAST ROSE OF SUMMER
The Queen's Six
SIGNUM/SIGCD598


イギリスの合唱団や声楽アンサンブルにかけては、幅広いアーティストを抱えているSIGNUMレーベルですが、最近、新しいグループがその中に加わっていたようですね。それは「クイーンズ・シックス」という名前の6人編成の男声アンサンブルです。
同じような名前で、やはり男声6人組、しかも同じレーベルというのに、「キングズ・シンガーズ」という長い歴史を誇るグループがいましたね。ただ、「キング」の方はカウンターテナー2、テナー1、バリトン2、ベース1という編成ですが、「クイーン」ではテナーが2人に増えていて、その代わりにバリトンが1人になっています。
彼らは、イギリス王室ゆかりのウィンザー城の中にある聖ジョージ礼拝堂付属の聖歌隊のメンバーでもあります。それは、少年合唱によるトレブル・パートに、12人のプロのシンガーによる成人男声パート(「レイ・クラークス」と呼ばれます)が加わったものなのですが、その「レイ・クラークス」の中の半分のメンバーが、クイーン・エリザベス1世の即位450年を迎えた2008年に結成したのが、この「クイーンズ・シックス」なのです。
彼らは、ですから、この礼拝堂で王室のイベントが行われる時には、聖歌隊の一員として参加していました。最近王室を離脱したことで騒がれた、ヘンリー(ハリー)王子とメーガン・マークルとの結婚式の時にも、しっかり歌っていたのだそうです。
それだけではなく、彼らはそれぞれ「タリス・スコラーズ」、「テネブル」、「ザ・シックスティーン」、「ガブリエリ・コンソート」、「ポリフォニー」などといったそうそうたる合唱団のメンバーとしても活躍しています。
彼らのCDデビューは2015年、レーベルはRESONUSでした。彼らのレパートリーは多岐にわたり、ルネサンスものから、現代のジャズやポップスにまで及んでいます。RESONUSからは、ポップスだけを集めたアルバムもリリースしています。その中では、アース・ウィンド・アンド・ファイヤーの「セプテンバー」や、マイケル・ジャクソンの「スリラー」なども歌われています。
実は、彼らの演奏を初めて聴いたのは、その「スリラー」のライブ映像でした。そこでソロを歌っていたテナーのパワフルな声に、まず引き込まれてしまいましたね。ベースの人などはビートボックス(ヴォイスパーカッション)まで駆使していますよ。
そのRESONUSのCDは手に入れにくかったのですが、最近はSIGNUMに移籍したのでしょうか、すでに2枚のアルバムがリリースされていました。そのうちの、録音されたのは2016年ですが、2019年になってリリースされたのが、今回のアルバムです。
ここでは、イギリス諸島、イングランドやアイルランドなどの伝承歌を編曲したものが歌われています。
メンバーのソロもあちこちにちりばめられています。その中で、アルバムタイトル曲「The Last Rose of Summer」(「庭の千草」ですね)、や「Danny Boy」、「Annie Laurie」といった超有名な曲では、先ほどのテナー、ドミニク・ブランドの張りのある声が聴こえてきます。他の人のソロもそれぞれに美しいのですが、ドミニクの声はやはりインパクトがありますね。まるで、ビル・アイヴスがメンバーだった頃のキングズ・シンガーズのような存在感です。
途中で、とても懐かしいメロディが聴こえてきました。それは「Early One Morning」というイングランド民謡なのですが、このメロディはかつてNHKの「みんなの歌」で「走れ並木を」というタイトルで歌われていたものですね。ただ、それは同じメロディでも、ここで歌われているようなしっとりした曲ではなく、アホみたいな歌詞が付いたとても明るい曲でした。オリジナルの歌詞は恋人から別れを告げられたという、とても悲しいものなのに。
その歌詞というのは、
続く並木をポプラの道を/走れ車輪よグングンと/風の中の小鳥のように/ドミソドシラソファミレドシド
という、別の意味で悲しくなるほどひどいものでした。最後は階名唱という手抜きですからね(なぜそうなったのか解明しよう)。

CD Artwork © Signum Records


9月8日

DEBUSSY
Préludes, Images, Children's Corner
Arturo Benedetti Michelangeli(Pf)
DG/483 8255(CD, BD-A)


アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリは、1920年に生まれ1995年に亡くなった前世紀のピアニストです。その全盛期には、完璧なテクニックと微妙なニュアンスの音色のコントロールを駆使して、多くのファンを生みました。ただ、その完璧主義ゆえに気難しい一面もあって、予定されていたコンサートを頻繁にキャンセルしたことでも知られています。日本にも何度もやってきましたが、予定通りにコンサートが開けたのは最初の来日の時だけだったそうです。
そんな性格ですから、残された正規の録音もそれほど多くはありません。そんな中で、1971年にDGに初めて録音したドビュッシーのアルバムは、そんな気まぐれなピアニストのスタジオ録音ということで、物珍しさも手伝ってセンセーショナルなセールスを記録したのではないでしょうか。
そんな評判に乗せられてこのLPを買ってみたら、そのなんとも言えないピアノのタッチと音色にすっかり心を奪われてしまいました。それは、今まで聴いたこともなかったような不思議なサウンドだったのです。収録曲は「映像」第1集と第2集、そして「子供の領分」でした。B面をそれ1曲で占めていた「子供の領分」は、何度も繰り返して聴きました。
ただ、このLPは、ちょっとした「事故」によって聴くに堪えないノイズが付けられてしまいました。もはや、あの魅力的な音は戻ってはきませんでした。
その後、CDが出た時にはすぐさま購入しました。しかし、それは何かが違っていました。その頃はまだ「ハイレゾ」の録音フォーマットは存在していませんでしたから、音がいいはずのCDなのにどうして?という思いでしたね。
今回、そのLPと、その他にDGに録音した「前奏曲集第1巻」(1978年録音)と「前奏曲集第2巻」(1988年録音)という2枚分のドビュッシーを合わせた3枚のLPが、CD2枚とBD-A1枚というパッケージで登場しました。リマスタリングは24bit/192kHzで行われ、BD-Aにはそれをロスレス圧縮したDTS-HD マスターオーディオ2.0で収録されています。これらの録音が行われた時は、ちょうど「4チャンネル」の時代ではなかったので、2チャンネルのマスターしかなかったのでしょうね。
そのブックレットを開けてみると、こんな写真がまず目に入りました。
色鮮やかな、ドビュッシーのカラーのポートレートです。この写真は確かモノクロだったはず、調べてみたら、これはモノクロをカラライズしたものでした。これは、このパッケージ、中でもCD-Aでは、オリジナルのLPがモノクロ写真だとしたら、それがカラー写真のような音に変わっていることを示唆しているのではないでしょうか。
そんな期待は、決して裏切られることはありませんでした。BD-Aから聴こえてきたピアノは、確かに昔のLPで初めて聴いた時の衝撃を完璧に再現させてくれるものでした。それに加えて、そこにはかつてはあまり気づかなかった暖かみのようなものも加わっていました。確かに、昔のLPでは、サーフェスノイズやスクラッチノイズに隠されて、そのようなところまでは気づかなかったような気がします。さらに、A面の最後、最内周にカットされていた「金の魚」などは、音自体がまるで違います。
「前奏曲」の方は、きちんと聴くのは今回が初めてでした。1978年に録音された「第1集」はもちろんアナログ録音ですから、先ほどと同じようなとても満足のいく音が聴けました。ところが、「第2集」になると、録音されたのは1988年、デジタル録音で、フォーマットも16bit/44.1kHzという最もプリミティブなものですから、他の2枚とは全然違っていました。他のものではピアノの鍵盤一つ一つの音が浮き上がって聴こえていたものが、ここではなんとものっぺりとした音でした。もちろんこれも24/192にアップサンプルしてあるのですが、元が悪ければいくらレートを上げても意味がないということが如実に分かってしまいます。そんなものが20年近くもスタンダードだったのは、とても不幸なことです。

CD & BD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH


おとといのおやぢに会える、か。



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