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流行るぞ、オーディオ。.... 佐久間學
日本初演は悠治ですが、この曲を委嘱して世界初演を行ったのはアメリカのピアニスト、アーシュラ・オッペンスでした。そもそもは1976年のアメリカ建国200周年記念リサイタルで、ベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」と一緒に演奏するためにジェフスキに委嘱したものでした。しかし、1975年に完成された曲はあまりに長く、そして難しかったため、結局彼女は「ディアベリ」はあきらめ、これ1曲だけでリサイタルを行ったのだそうです。そして、彼女は今に至るまで、その2曲によるリサイタルを行ってはいません。 というのは、クセナキスの作品のCDで一躍有名になった日本のピアニスト、大井浩明さんからの情報です。そこで大井さんは、アメリカ建国240周年となる今年、その因縁のカップリングによるコンサートを開催するのだそうです。さらに、この曲の最後にテーマが再現される直前には即興演奏によるカデンツァを挿入するという指示がありますが、そこに上野耕路さんが作ったカデンツァが演奏されることになっています。3月27日(日)15時から、会場は原宿の「カーサ・モーツァルト」です(以上、情報提供とのバーターで宣伝させていただきました)。 一方のオッペンスは、やはり悠治と同じ年にこの曲を録音していましたが(録音したのは悠治の方が先)、それはこちらにも書いたように、数あるこの曲の録音の中でも最も演奏時間の短いものでした。 そのオッペンスが、なんと初演から40年経ったということで、この難曲をもういっぺん録音したというではありませんか。彼女は1944年の生まれ、最初の録音の時こそまだ30代でしたが、今回録音した2014年にはもう70歳という「古希」を迎えていたのですから、いったいどんな演奏なのかはとても気になります。確かに、この年代になればピアニストには独特の「枯れた」味が出てくるものですが、それはこの曲にとっては決してプラスに働くものではありませんからね。 しかし、それは全くの杞憂でした。今回は前回には演奏していなかったカデンツァをしっかり入れてますから、トータルの演奏時間は50分43秒ですが、カデンツァの分2分38秒を引くと48分5秒となって、自身の持つ世界最速記録49分17秒を48秒も縮めて、記録を更新していたではありませんか。これは恐るべきことです。 しかも、その演奏にはそんな「速さ」を感じさせない余裕のようなものすら加わっていました。テーマの歌わせ方がとてもたっぷりしているんですね。凄い演奏です。 カップリングで、ジェローム・ローウェンタールとの連弾で、この録音のためにジェフスキが書き下ろした「Four Hands」という新作が演奏されています。4つの楽章から成る、やはり衰えを知らない作曲家の筆致が冴えた曲ですが、第2楽章の「拍子なしで」という指示の曲が、年相応の枯れた味を出しています。 CD Artwork © Cedille Records |
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このSACDも、音の良さを期待して入手しました。なんたってオットリーノ・レスピーギですから音のいいのは間違いありませんからね。そして、ここでミュンヘン放送管弦楽団の指揮をしている人が、全く聞いたことのない名前なのにとてもセンスの良い音楽を聴かせてくれていたので、俄然興味が湧いてきました。 ヘンリー・ラウダレスという人は、名前もラテン系ですし、写真で見ると顔立ちもそんな感じですが、確かにグァテマラで生まれた方でした。小さいころから父親(ジノ・フランチェスカッティ、ヘンリク・シェリング、エーリッヒ・クライバーなどに師事したヴァイオリニスト、ピアニスト、指揮者)にヴァイオリンの手ほどきを受け、7歳でパガニーニを演奏してコンサート・デビューしたという「神童」です。それが、あのメニューインの目に留まり、ロンドンに留学、さらにベルギーのアントワープなどでも学んで、ヴァイオリニストとして世界中で活躍するようになります(現在はベルギー国籍)。 ソリストであると同時に、彼は多くのオーケストラのコンサートマスターを務め、今までにベルギー、オランダ、イタリア、ドイツの12のオーケストラのコンサートマスターを歴任しているそうです。2001年にはミュンヘン放送管弦楽団のコンサートマスターに就任、現在もそのポストにあります。さらに、彼は指揮者としてのキャリアも築き上げつつあって、このミュンヘン放送管とは年に2回指揮台に立つようになっています。 彼が指揮するレスピーギは、まず「リュートのための古風な舞曲とアリア」の全3曲です。この中では弦楽器だけで演奏される「第3番」の人気が突出していますが、「第1番」と「第2番」には管楽器も加わって、レスピーギの色彩的なオーケストレーションを楽しむことが出来ます。さらに、この2曲にはチェンバロまでが入っていて、原曲とされる17世紀の音楽の雰囲気も伝えてくれています。ただ、レスピーギがこれらの曲を作ったころは、それらの「原曲」に対するアプローチは今とはかなり異なっていたはずですから、今の時代にそのスコアをそのまま再現すると妙にグロテスクなものになりかねません。もちろん、チェンバロだって当時は今のような楽器は存在していませんでしたから、あくまで念頭にあったのはモダンチェンバロの響きだったはずですし。 そのような、ちょっと重苦しいオーケストレーションのはずなのに、ここで聴くラウダレスの演奏はとても軽やかに感じられます。おそらく、彼や、演奏しているオーケストラのメンバーの中では、確実に「原曲」の本来のテイストを感じられる人が増えて、その感覚をもとにレスピーギの響きを修正するような意識が働いているのではないでしょうか。この素晴らしい録音で聴く限り、使われているチェンバロはヒストリカルのような気がします。 「第3番」の中でもとくに有名な3曲目の「シチリアーナ」は、かつてはゆったりとした重々しい演奏が幅をきかせていましたが、元のリュート・ソロの演奏が浸透してくるともっとサラッとしたものに変わっていきます。これもそんな、とても軽やかでリュートの感じが良く伝わってくる今の時代ならではの演奏です。 もう一つの組曲は「鳥」です。こちらではチェンバロは使われていないため、それほど昔の曲を意識しないで自由に編曲を行ったような趣があります。なんと言っても4曲目の「夜鶯」の静謐な佇まいには惹かれますが、このフルート・ソロはあまりに及び腰で魅力が感じられません。録音も、前の2つの組曲とは時期が違うようで、ほんの少し精彩を欠いています。 SACD Artwork © Classic Produktion Osnabrück |
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ある程度は武満の著書や関連の書籍は読み漁っていたと思っていたのに、ここにはそれこそ「よそのインタビューでは全く出てこない話」(あとがき)が続々と登場して、初めて知る事柄が満載だったのには驚きました。それを引き出すために著者が行った武満へのインタビューは、トータルでは100時間にも及んだというのですから、この著者ならではの物量戦にはいつものことながら圧倒されてしまいます。ですから、雑誌連載分をそのまま収録したこの本は、とんでもないボリュームを持つことになりました。厚さが4センチ、2段組み781ページのハードカバーは、まるで井上ひさしのあの長編小説「吉里吉里人」ほどの大きさですから、文庫化される時にはおそらく3巻程度になることは必至です。 ![]() ここでは、もちろん武満へのインタビューがメインにはなっていますが、それとともに他の人へのインタビューや、関連書籍からの引用も膨大なものです。中には、武満に関しては最後にほんの少し触れられるだけという回もあったりします。そのあたりの著者の目論見は明白で、彼は武満を芯にして、同時代の日本の「現代音楽」の歴史を、生々しく語ろうとしていたはずです。その多くの人に対するインタビューと膨大な資料によって見えてくるのは、とても視野の広いその頃の音楽を取り巻く社会全体の姿です。それは、当時の世界の音楽界とのつながりにまで及びます。いや、正確にはいかに当時は外国の情報が伝わっていなかったか、という事実を知らされるということなのですが。あのころは、メシアンでさえ日本では全く知られていなかったんですね。 そのような状況を語るときのバックグラウンドとして必要な、専門的な音楽や作曲に関する知識さえも、著者はきっちりと与えてくれています。それは、よくこんなところまでリサーチしたな、と驚かされるほどの、的確なレクチャーです。ただ、1ヵ所だけそんなディレッタントならではの事実誤認を指摘させていただくと、401ページの下段2行目の「『TACET』というのは、ケージの造語で」というのは誤りです。これは普通のオーケストラのパート譜などにも頻出する表記で、ケージはほとんどジョークのノリでここに用いていたのでしょうね。 ここに登場する作曲界、美術界、さらには文学界の個人名も、したがって膨大なものになっています。この著作は間違いなくこの時代の文化を語る上での貴重な資料になるはずですから、そのような人名の索引が設けられていたら、さらに価値の高いものになっていたのではないでしょうか。 Book Artwork © Bungeishunju Ltd. |
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タイトルの「ヴォクス・バレナ」というのは、ラテン語で「クジラの声」という意味です。1929年生まれのアメリカの作曲家、ジョージ・クラムの作品のタイトルから取られました。最近ではあまり名前を聞くことはなくなりましたが、ある時期にはかなりの人気を博した「現代作曲家」ですね。この、彼の1971年に作られた作品を演奏する時には、このジャケットにあるように演奏者は全員黒いマスクをつけて顔が分からないようにしたうえで、薄暗い中で青い照明を受けて演奏するように指示されているのだそうです。いかにも、あの時代の「現代音楽」の残渣を見る思いですが、今となってはそんなこけおどしが通用するわけもなく、これは単なるデザイン上の遊びとして使われているだけです。 実際に彼らがこれを録音している場面の写真はインレイで見ることが出来ますが、そこでは彼らは普通に顔を出して演奏をしていました。それよりも、そこでのピアニストは鍵盤ではなく直接グランドピアノの中の弦を叩いているようですし、フルーティストの横にはサンバル・アンティークのセットが用意されていますから、サウンド的にかなりユニークなものが期待できます。 そもそも、この作品にはPAが欠かせないものとなっていました。単に音を大きくするだけではなく、エコーを加えたり変調を行ったりという、様々なエフェクターとしての要素も求められていたのです。そんな設定で、この「クジラの声」という壮大な作品は始まります。文字通り、作曲家はザトウクジラの鳴き声を録音したテープを聴いてインスパイアされたという通り、それはそんな水棲哺乳類の、単に鳴き声だけにはとどまらない、巨大な体躯までもが連想されるようなスケールの大きさでした。 さらに、この作品では、その「クジラ」のテーマから変奏曲が作られています。それは、この地球に生命が生まれたとされる「始生代」から始まって、「原生代」、「古生代」、「中生代」、「新生代」と続く太古の年代がタイトルとなっている通り、まさに「地球の歴史」を描いたものなのです。正直、その曲のどのあたりから「始生代」が始まるかは全く分からなかったのですが、まあ、その姿勢だけは受け取っておきましょうね。 これは、メインプログラムということでCDの最後に入っていますが、最初に演奏されているのが、やはりクラムと同じ世代のアメリカの作曲家、ネッド・ローレムの「フルート、チェロとピアノのためのトリオ」です。4つの古典的な楽章から出来ていますが、その音楽は型にはまらないなかなか魅力のあるものでした。特にフルートは、1楽章の頭からとても華やかなソロが登場して、フルーティストはそのテクニックを問われることになります。ここ演奏している「トリオ・ヴィーク」のメンバーのクリスティーナ・ファスベンダーは、師であるマイゼンやニコレ譲りのとても渋い音色とテクニックで、それに見事に応えています。それ以降は、かなりジャジーでリズミカルなところが現れて、アンサンブルの確かさも存分に楽しめます。 次の、フィンランドの作曲家サーリアホの1998年の作品「アルト・フルート、チェロとピアノのための『灰』」は、この作曲家ならではの妥協を許さない厳しい音楽です。アルト・フルートは、肉声も交えた特殊奏法が光りますし、ピアノはおそらくプリペアされているのでしょう、不思議な音響も混ざります。 そんな中で、マルティヌーの「トリオ」を聴くと、これが作られたのが1950年だということが信じられないほど、そのロマンティックな書法が際立ちます。同じ作曲家の「フルート・ソナタ」ととてもよく似た親しみやすさがあります。ファスベンダーは、ここではローレムの時とは別人のように甘ったるい演奏を繰り広げています。 それにしても、ジャケットでミスプリとは。 CD Artwork © Profil Medien GmbH |
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したがって、オルフがまだ10代だったころの1913年に作られた「Gisei」というオペラのようなレアな作品を初めて聴くという貴重な体験にも遭遇できることになります。これは、2012年と言いますから、作曲されてほぼ100年後にベルリン・ドイツ・オペラで上演された際のライブ録音です。 日本語の「犠牲」がそのままローマ字で表記されているように、このオペラは日本のオペラ、つまり歌舞伎や文楽の演目でとても有名な「菅原伝授手習鑑」の中の「寺子屋の段」をテキストに用いています。それは、こんなお話。 菅原道真の家のトイレには鏡があったわけではなく(それは「菅原便所手洗鏡」)、道真の8歳になる息子菅秀才をかくまっているかつての道真の家臣源蔵とその妻戸浪の寺子屋に、道真の政敵時平の家来玄蕃が菅秀才の首を差し出せとやってきます。実はこの日、見知らぬ女が自分の息子小太郎を寺子屋に預けていったのですが、それが菅秀才に瓜二つと気づいた源蔵は、小太郎の首を差し出します。それを見て、首実検のために同行した松王(松王丸)が「菅秀才に間違いない」と言ったので、玄蕃はそれを持ち帰ります。そこにやってきたのが、さっき小太郎を連れてきた女。彼女は実は松王の妻の千代、小太郎は松王の息子だったのです。松王は、そもそもは道真の家臣の息子、今の主君の時平よりは道真への忠義心の方が勝っていたので、わが子を犠牲にしても菅秀才を守りたかったのでしょう。これを日本語学者のカール・フローレンツが独訳したものを読んだオルフは、それに独自の構成を施して台本を書き上げました。この寺子屋のシーンの前に、原作にはない導入部が用意されています。そこには2人の顔を隠した男女が登場します。それは松王役と千代役の歌手なのですが、この時点では正体は明らかにされていません。二人は、これから起こることを予言し、嘆き悲しみます。 それ以後は、ほぼ原作に忠実に物語が進行して行っているようです。一応ブックレットには英語の対訳があり、丁寧なト書きも入っているので、細かいプロットにもついていけるはずです(でも、ミスプリントが多すぎ)。 音楽は驚くべきものでした。ここには、後にオルフの作品のベースとなる、あの何とも即物的なテイストが全く存在していないのですよ。その音楽はとてもロマンティックで、とろけるような美しさに満ち溢れています。さらに、この題材に即した配慮として、日本的な音階も頻繁に登場しますし、「さくらさくら」などはオリジナルがそのままの形で(もちろん日本語の歌詞で)戸浪によって歌われます。最後のフレーズだけちょっとリズムが変わっていますがそれは別に問題ありません。あるいは、日本の僧侶を意味するのでしょう「Bonzo」という言葉が頻繁に使われていますが、そのあたりが、この作品の10年ほど前に初演されたプッチーニの「蝶々夫人」と酷似していると感じられるのは、ただの偶然でしょうか。そう思いながら聴いていると、オーケストレーションにもプッチーニ、あるいはリヒャルト・シュトラウス(こちらにも生首が登場しますね)と同質のものがあることにも気づきます。 しかし、そののちオルフはそのようは作風とは全く異なる様式を身に付けるようになります。なんでも、「『カルミナ・ブラーナ』以前の作品はなかったことにしたい」と公言していたそうですが、それはちょっとさびしい気がします。それは、このオペラの最後のシーンの緊迫感などは、「カルミナ後」の様式では絶対に描くことはできなかったような気がするからです。 CD Artwork © Classic Produktion Osnabrück |
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指揮者のファン・レインは、かつてはフリーダー・ベルニウス指揮のシュトゥットガルト室内合唱団のメンバーだったこともあるまだ若い指揮者ですが、この世代の注目株、合唱団だけではなく、2012年にはピリオド・オーケストラも設立していますし、オペラの分野でも活躍していて、それこそ「蛸」のような多岐にわたる仕事で注目を集めています。 この合唱団のサイトではいくつかの音源が聴けるようにはなっていました。その中に、大好きなマーラーの「Ich bin der Welt abhanden gekommen」をクリトゥス・ゴットヴァルトが無伴奏の合唱に編曲したものがあったので聴いてみたら、なぜか聴こえてきたのは同じ編曲者による「Die zwei blauen Augen」という、「交響曲第1番」の中にも使われている歌の方でした。何とアバウトなサイト運営、と思ったのですが、その演奏はかなりショッキングなものでした。ゴットヴァルトの編曲というのは、あのリゲティの「Lux aeterna」という、16の独立した声部を持つ作品のようなクラスター風のサウンドを再現しようというコンセプトで作られていて、普通はかなり大人数で歌われています。それを、この音源ではそれぞれのパートを一人ずつで歌っていたのです。そんなことが可能だったんですね。とてつもない合唱団が出てきたものです。ここでの合唱団のクレジットは「オクトパス・ゾリステン」でした。「室内合唱団」より小さなユニットもあったのですね。 2015年の2月に録音されたばかりのこのCDでは、「鳥と楽園」というタイトルで、ジャケットには15人の作曲家の名前が書いてありました。その一番上にはモーリス・ラヴェルの名前がありますから、このタイトルはここで歌われている彼の「Trois chansons」の2曲目「Trois beaux oiseaux du Paradis」から取られていることが分かります。そのような、「鳥」に関係のある小さな合唱曲が15曲、この中では演奏されているということです(インレイでは16人の名前がありました。ジャケットで抜けていたのはジェラルド・フィンジ、ウェブサイト同様、このスタッフにはちょっと抜けたところがあります)。 最初に聴こえてきたその「3羽の楽園の美しい鳥たち」も、さっきのマーラーのような衝撃が与えられるものでした。まずは、録音が非常に素晴らしく、そのピュアなサウンドはSACDだと言われても信じてしまうほどのものでした。合唱はとても磨き抜かれた響きで各パートがきっちりと際立って聴こえてきます。そこに入っているソリストが、やはり芯のある、それでいて合唱ともよく調和しているクオリティの高さで迫ります。この曲の持つメッセージが、そこからは的確に伝わってくるという、とても強靭な「力」を感じる演奏です。 そんな、それぞれに確実にインパクトが感じられる曲があと15曲も続きます。たとえばメンデルスゾーンの「森の小鳥」でさえ、そのインパクトは際立っています。 CD Artwork © Quintessence BVBA |
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ネットでこのジャケットを見た時には、感激ものでした。しかし、届いてみたら、SACDのボックスが横長なので、正方形のジャケットをそのままおさめるために左右の余白が帯と同じ色に彩色されてました。これをデザインした人はアホです。せめて、ブックレット(これは正方形)でもきちんとこのボックスのミニチュアにでもなっていれば許せますが、これはなんとモノクロの印刷で曲名が書いてあるだけです。さらに、その中のライナーノーツが例によって大昔のCDに使われていた原稿の使いまわしですから、ひどいものです。この価格で、こんな貧乏くさいブックレットはないでしょう。しかも、その原稿には、とんでもないミスプリントがありました。こんなお粗末な間違いは誰かが気が付いているはずなのに、この業界は絶対直そうとはしないんですね。それは10ページの左の段の下から6行目の「1968年」という年号です。それが新バッハ全集としてこの曲が出版された年とされていますが、これは間違い、本当は「1955年」です。 なぜ、そんなことにこだわるかというと、その年号が、このジャケットに関係があるからなのです。1955年に出版された楽譜によって校訂者が示したのは、「ロ短調ミサは統一的な作品とみなすべきではない」(ライナーより引用)という見解でした。したがって、曲名も作られた時期が同じものだけをまとめて、「Missa」、「Symbolum Nicenum」、「Sanctus」、「Osanna, Benedictus, Agnus Dei et Dona nobis pacem」という4つの部分に分けるべきだ、と主張したのです。それを真に受けてARCHIVがデザインしたのが、このジャケットのロゴなのです。この、当時は「学究的」だと思われていたレーベルは、ここぞとばかりに「新説」をジャケットに反映させたのですね。親切心の表れでしょうか。 つまり、このLPがリリースされたのが1962年ですから、「1968年」に出版されたのでは、こんなジャケットが出来るわけがないのですよ。ですから、このミスプリントをこれまで訂正しなかったユニバーサルミュージックは、レーベルに対しても、そして執筆者の磯山雅さんに対しても謝罪が必要です。 ただ、そんなレーベルの思惑とは裏腹に、リヒターがこの録音のために使った楽譜はその新バッハ全集ではなかったのは、なんとも間抜けな話です。さらに、その「新説」も、今では完全に否定されていて、このようなタイトルは全く意味をなさなくなっているのですから、その間抜けさはさらに募り、このジャケットはそういう意味で「歴史的」な価値を持つことになりました。 音は、そもそもマスターテープの段階でかなりの歪みが入っていて、クオリティはかなり低いものです。冒頭の「Kyrie」などは聴くも無残なことになっています。それでも、弦楽器の音などはCDとは全然違って、肌触りまでがきっちり感じられます。合唱も、本当に静かな、「Qui tollis peccata mundi」などでは、びっくりするようなピュアな響きが味わえます。SACDによって、ワンランク上がった音を体験出来るのは間違いありません。それが価格に見合ったものなのかは微妙ですが。 リヒターの演奏様式は、そもそも旧バッハ全集を使っていたという点で現在の主流とはかけ離れたものですが、そんな外見上の些事を超えたとても熱い思いを感じることが出来ます。低速で丁寧に歌い上げられた合唱のメリスマからは、それが単なる記号ではなく、一つ一つの全ての音に意味があることを教えられます。そして、ヘルタ・テッパーの歌う「Agnus Dei」に涙しない人など、いないのではないでしょうか。 SACD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH |
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この「パーカッションの世界」というCDに収められている6人の作曲家の、それぞれこれが世界初録音となる作品を聴いていくと、もしかしたら次第にそういうものでも聴いていて楽しい気持ちにさせられるものがあることに、気づくことがあるかもしれません。もしそうだとしたら、まずここで演奏されている曲の半分には打楽器だけではなく「エレクトロニクス」も加わっていることに、その要因があることを否定するわけにはいかないのではないでしょうか。実際には、ここでの表記は「electronics」だったり「chamber electronics」だったり、あるいはそっけなく「computer」というものですが、それらは全く同じ「コンピューターで作った電子音」のことです。ですから、このアルバムのタイトルからはちょっと「反則」気味のところがあるのですが、まあそれは我慢していただくしかありません。 しかし、そうは言っても、1曲目のブルーノ・マントヴァーニの作品「Le Grand Jeu」は、聴いていてあまり気持ちがいいものではありませんでした。タイトルにある「Grand Jeu」というのは、フランスのオルガンのパイプ(ストップ)の名前で、リード管の一種、これをタイトルにして、そのストップで演奏することを指定している曲がバロック時代にはたくさんありました。しかし、これは「エレクトロニクス」の何とも刺激的な音色とフレーズがやかましすぎて、眼前にはゾンビや食虫植物のようなものがクローズアップで現れてきますから、気持ち悪いのなんのって。 しかし、2曲目のマルコ・ストロッパの「Auras」という曲は、うってかわって繊細な世界が広がるものでした。こちらはいたずらに「チェンバー・エレクトロニクス」に頼ることはなく、例えばヴィブラフォンの鍵盤を弓でこすったりして、まるでグラス・ハーモニカのような音を出すような、とてもしっとりとした味わいを楽しめます。この作曲家と、そしてそれを演奏しているティエリー・ミログリユは、打楽器には暴力的な面があると同時に、しっとりとした抒情性までも表現できるほどの幅広さもそなえているのだ、ということを身をもって知らしめているのかもしれません。 3曲目は、指揮者としても有名なハンガリーの作曲家、ペーテル・エトヴェシュの「Thunder」です。これは、ティンパニだけによって演奏されている作品です。この楽器はペダルを使うことによって連続的にピッチを変えることが出来ますから、そんな機能を縦横に使って、ただの「雷鳴」だけではない、もっと多彩な表現を追求しています。 4曲目は、今度はヴィブラフォンだけによる演奏でやはり往年の指揮者として有名だったこの中では最年長、もちろん物故者のルネ・レイボヴィッツの「3つのカプリース」です。1966年に作られた作品で、当時はクラシックとしてはとても珍しいこの楽器のソロのための曲でした。ここでは、「打楽器」というよりは、単に「鍵盤楽器」として、今では死に絶えた「12音」による無調の世界が堪能できます。 5曲目、フィリップ・エルサンの「3つの小さなエチュード」もティンパニのためのもの。なんでも、ゲーテの「ファウスト」を素材にしたベルリオーズとシューベルト、そしてグノーの3つの作品を「元ネタ」にしているというものです。グノーの「兵士の合唱」だけはとても平易な引用で、よく分かりました。 最後のジャン=クロード・リセの「Nature contre Nature」は、やはり「コンピューター」が加わっていますが、遊び心にあふれた機知に富む作品でした。 CD Artwork © Naxos Rights US, Inc. |
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さらに、「mShuttle」によって、各種の音源ファイルをダウンロード出来るようにもなっています。その最上位フォーマットは、録音時に用いられた24bit/96kHz or 192kHzのFLACです。なぜ2種類のサンプリングレートなのかは、録音の時期によってフォーマットが変わっているからです。いまいち意味が分かりませんが、2015年の1月のセッションでは192kHzだったものが、同じ年の6月のセッションでは96kHzになっています。ただ、BD-Aでは全てのトラックが96kHzになっているようです。 そんな「大盤振る舞い」になったのは、このアルバムタイトルの「1615」に関係があるはずです。もちろんこれは年号ですが、なんでも録音時からちょうど500年さかのぼったこの年には、ここで演奏している聖歌隊のホームグラウンドであるキングズ・カレッジのチャペルが出来たのだそうです。そして、同じ年に、ヴェネツィアで大活躍した作曲家ジョヴァンニ・ガブリエリの楽譜が出版されたそうで、その楽譜の中に入っている作品がここで演奏されているのです。作曲家自身はその3年前に亡くなっていますから、この楽譜は死後に出版されています。 その楽譜は2種類ありました。一つは「シンフォニエ・サクレ」というタイトルの、宗教曲を集めたもの、もう一つは「カンツォーネとソナタ」という、器楽アンサンブルの曲集です。ガブリエリはその両方の分野で膨大な作品を残していたのでした。琴奨菊は、これで膨大な白星を重ねました(それは「がぶり寄り」)。 そのどちらの作品にも、ちょっとなじみのない名前の楽器が使われています。それは、コルネット、サックバット、そしてドゥルツィアンという楽器です。「コルネットなら知ってるぞ!」という方もいらっしゃるかもしれませんが、これは、その、トランペットをちょっとかわいくしたような形の楽器とは全くの別物で、マウスピースは金管楽器のものですが、胴体は多くの穴が開いた「縦笛」のような形をしている、この時代にしか使われなかった楽器のことです。そして、サックバットはトロンボーンの、ドゥルツィアンはファゴットのそれぞれ前身となる楽器です。 とても広々としたチャペルの中で行われた録音では、そんな珍しい楽器、特にコルネットの鄙びた音色と歌いまわしが手に取るように味わうことが出来ます。サックバットの重厚な和音も魅力的、ドゥルツィアンはたった2曲にしか登場しませんが、その独特の低音はすぐに分かります。 それに対して合唱は、録音が良すぎるせいか、かなりアラが目立ちます。特にソリストたちの声が全然統一されていないのがとても聴きづらいものですというのも、多くの曲でバリトンのソロを担当している人が全然周りに溶け込まないダミ声なんですね。ビブラートも強烈ですし。なんでこんな人がソロを、と思ってしまいます。これを聴いて思い出したのが、同じ聖歌隊出身でキングズ・シンガーズのメンバーでもあったボブ・チルコットでした。彼の声もグループの中ではこんな感じ、こういうのもキングズ・カレッジの「伝統」なのでしょうか。 BD-A Artwork © The Choir of King's College, Cambridge |
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![]() ![]() 今回のアイテムは、1982年に収録されたヴェルディの「レクイエム」です。前回のモーツァルトのレクイエムは音がいまいちでせっかくのハイレゾでもあまりメリットは感じられなかったのですが、これはどうなのでしょう。一応映像ディレクターが、あのバーンスタインの多くの映像を手掛けたハンフリー・バートンなのですから、期待はできます。もっとも、一番期待をしていたのは、メゾソプラノのジェシー・ノーマンですけどね。彼女がこの曲を歌っているのを聴くのは、これが初めてです。 オープニングでステージの全景が映った時には、その合唱の人数の多さに驚かされます。会場は1914年に完成したという由緒ある「アッシャー・ホール」というところですが、客席は2,900人収容という巨大な建物で、ステージにも大きなオルガンが設置されています。その前の階段状の客席を埋め尽くしたのは総勢300人はいるのではないかという合唱団です。オーケストラのサイズは16型、管楽器も楽譜通りで特に補強はされてはいません。 その合唱が、大人数にありがちな大味のところは全くなく、とても繊細で表情が豊かです。ですから、冒頭の「Requiem」というソット・ヴォーチェには鳥肌が立つほどの緊張感が漂っていました。もちろん、「Dies irae」のような大音量のところはもう怒涛の迫力、そのダイナミック・レンジの広さには驚かされます。さすがに「Sacntus」あたりではアンサンブルが乱れてしまいましたが、それは仕方がないでしょう。「Libera me」のフーガなどは、見事に立ち直っていましたからね。一応楽譜は持っていますが、しっかり指揮者は見ているようでした。その楽譜が、使い古してボロボロになっている人もいて、さすがに歌いこんでいるのでしょう。 ソリストでは、やはりジェシー・ノーマンは圧倒的な素晴らしさでした。そして彼女とともに素晴らしかったのが、ソプラノのマーガレット・プライスです。この二人の掛け合いで始まる「Recordare」では、一人ずつで歌う時にはお互いが全く異なる方向性を見せて、まるで二人が牽制し合っているようなスリリングなことになっているのですが、一緒に歌っている時には本当に見事な、まるで奇跡のようなアンサンブルが実現していました。この曲のソリストはそれぞれ声を張り上げてばかりだと常々思っていたのに、こんなこともできるんですね。もちろん、「Agnus Dei」のオクターブ・ユニゾンは完璧です。余談ですが、プライスという人はマツコそっくりですね。 ![]() BD Artwork © Arthaus Musik GmbH |
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おとといのおやぢに会える、か。
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