離縁、つい・・・。.... 佐久間學

(05/3/16-05/4/3)

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4月3日

WAGNER
Götterdämmerung
Lothar Zagrosek/
Staatsopernchor Stuttgart
Staatsorchester Stuttgart
TDK/TDBA-0057(DVD)


シュトゥットガルト州立劇場の「指環」、ついに「第3夜(ご存じでしょうが、この作品は序夜+3夜という数え方をします)」、「神々の黄昏」の登場です。「おやぢ」をはじめたときには、まさか「指環」全曲の映像のレビューを書けるようになるなど、考えてもみませんでした。それというのも、この数年、DVDが映像メディアとしてまさに成熟したものになってきたおかげ。そして、それに伴って、オペラなどのソフトが潤沢に供給され、スタンダードなレパートリーだけではなく、このような最先端のプロダクションまでが、日常的にリリースされるようになったのです。「演出の時代」と言われて久しい昨今のオペラ界、センセーションを起こした演出が、ほとんどタイムラグのない状態で、このように手軽に映像で実際に味わえるようになれば、その傾向はますます助長されることでしょう。
ここで「神々」の演出を手がけたのは、ペーター・コンヴィチュニーという「大物」です。以前彼の演出で非常に印象的だったのが、「トリスタン」、このタイトル・ロールが初めてステージに登場したとき、彼はなんとシェービング・クリームを顔に塗りたくって、ひげそりの真っ最中だったのです。そんなオマヌケな設定から、この場面でのトリスタンのイゾルデに対する無関心さは、非常に良く伝わってきます。そんな具合に、彼の演出の根底にあるのは、卑近な「わかりやすさ」、それによって、観客の関心をドラマに引きずり込む手法には、卓越したものがあります。
「神々」でも、その「わかりやすさ」の仕掛けは際だっています。一番笑えるのが、ジークフリートがグンターに扮してブリュンヒルデを手込めにしようとする場面、状況を理解したブリュンヒルデは、もうなすがままになるしかないと、着ていたネグリジェの裾をまくり上げ、自らぱんてぃをずりおろすのです。その脱いだぱんてぃを足首に巻き付けてよろよろ歩く姿の、なんと屈辱的なことでしょう。これが、いずれはジークフリートのたくらみだと知って、復讐を果たすためにハーゲンに弱点を教えるという動機なのだとしたら、これほど「わかりやすい」仕掛けもありません。ただ、演出に関しては様々な見方がありますから、各々の理解の範囲内で楽しめばよいことです。一つの答えを得ることは、演出家の本意ではないはずですから。
演奏に関しては、この劇場の合唱団のとてつもない力には驚いてしまいました。オペラの合唱に細かい表情を求めるのはそもそも無理があると普通は思われていますが、この合唱を聴いてしまうと、そんなものはただの言い訳にしか聞こえなくなってしまいます。そんなことを言っていていいわけがない、と思えるほど、この合唱団の作り出す表現の幅は膨大、あのピアニシモのすごさなどは、コンサート専門の合唱団だって、ちょっと出すことは出来ないほどです。
ソリストでは、同じプロダクションの「ワルキューレ」でフリッカを歌っていた、ヴァルトラウテ役のティチーナ・ヴォーンが出色です。神々の窮状をブリュンヒルデに伝えるためにやってくる、その陰からの声からして、ひときわ印象的なものです。そのブリュンヒルデを演じるルアナ・デヴォルは、まさに「怪演」、この役を「神の娘」ではなく、生身の「年増の女」ととらえたコンヴィチュニーのプランにこれほど合致したキャラクターは、実年齢でも60歳を超えているこのベテランをおいて他にはないと思えるほどです。

4月1日

RUTTER
Gloria
Stephen Cleobury/
Choir of King's College, Cambridge
City of Birmingham Symphony Orchestra
EMI/557952 2


クロウベリーとキングス・カレッジ聖歌隊によるラッター作品集、「レクイエム」などを収録した前作に続いての第2集となります。曲目は、1970年代の「グローリア」、90年代の「マニフィカート」、そして、2002年に作られたばかりの「詩編150」の3曲です。
「グローリア」に関しては、前任者がレイトン/ポリフォニーのアルバム(HYPERIONを紹介していましたね。実は、今回の演奏は、レイトンのものとは版が違っています。彼らが録音していたのは、バックがブラスバンド(もちろん、木管の入っていない、イギリス流のブラスバンドのことです)とオルガンのバージョンですが、今回録音されたのはフルオーケストラバージョン、弦楽器と、そしてハープまで入った、まさにフル編成のゴージャスな響きを聴くことが出来ます。したがって、同じ曲であっても、今回は以前のものとはかなり印象が異なって聞こえます。特に、2曲目は、ほとんどオルガンだけで演奏されるモノクロームの世界だったものが、木管の輝かしい響きに彩られて、かなりカラフルなものに変わっています。しかも、演奏自体がレイトンのアグレッシブなものに比べて、クローベリーはいかにもおっとりした感じ、その結果、まるで全く別な曲のように聞こえてしまいます。楽器編成が変わることによって求められる表現までも変わってくるというのはよくあることですから、これはあるいは別の曲と考えて、それぞれの魅力を味わうべきものなのかもしれません。このフルオーケストラバージョンの持ち味は、ヒーリングにもつながろうかというゆったり感。あるいはこちらの方が、ラッター本来のテイストなのでしょう。ここでは、もう一つの聖歌隊(Gonville & Caius College Choir)が加わって、合唱の方も厚みを増し、ふくよかさは一層際だっています。
「マニフィカート」で、合唱がキングス・カレッジだけになると、ちょっと「いつもの」心細さが顔を見せてしまいます。さらに、この曲の随所に現れるソロパートは、ちょっと耳を覆いたくなるようなお粗末さ、作曲者の自演盤(COLLEGIUM)にはちょっと及ばないレベルに甘んじてしまっています。
最後の「詩編150」は、エリザベス女王の「ゴールデン・ジュビリー」にあたって作られたもの、ここでも補強された聖歌隊は、金管とオルガンだけの編成のオーケストラをバックに、華々しい響きを出しています。歌詞は英語ですが、一部にラテン語で「Laudate Dominum」と歌う箇所では、トレブル3人のソリが、ここで求められている無垢な響きを見事に形にしています。
合唱パートには多少の難がありますが、バーミンガム市交響楽団の演奏は隙のない見事なもの。特に、艶のある木管の響きは、心にしみるものがあります。それにしてもこの録音、なんと残響の長いことでしょう。ざんきょう(参考)までに、録音が行われたのは、キングス・カレッジのチャペルです。

3月30日

MANTOVANI
By Special Request
Mantovani and his Orchestra
GUILD/GLCD 5110


前回取り上げた黛敏郎は、彼の「題名のない音楽会」で、マントヴァーニ・オーケストラのアレンジについて取り上げたことがありました。「イージー・リスニング」と言うよりは、昔ながらの「ムード・ミュージック」といった方がしっくりくる、厚い弦楽器の響きが売り物のこのオーケストラ、そのサウンドは、「カスケイディング・ストリングス」と呼ばれるもので、その名の通り、まるで滝が流れ落ちるような華麗な効果を持ったものです。このアイディアは、マントヴァーニとともに彼のオーケストラを支えてきたロナルド・ビンジというアレンジャーによって考案されたもので、ヴァイオリンを多くのパートに分けて、少しずつ音をずらしながら演奏することによって、芳醇なエコーがかかったように聞こえるというものなのです。黛は彼の番組の中で、「魅惑の宵」か何かのヴァイオリン・パートの楽譜を拡大して吊りカンにぶら下げ、そこにいた東京交響楽団(だったかな)に実際に演奏してもらい、マントヴァーニと寸分違わないサウンドが再現されることを確認してもらう、というプレゼンを行ったのでした。そう、ビンジのアレンジは、後のイージー・リスニングのオーケストラが、エコーやディレイなどのエフェクトをPAに頼り切っていたのとは対照的に、アレンジだけで、ということは、クラシックのオーケストラのように一切電気的な処理を施さない場でも、たっぷりしたエコー感を与えられるものだったのですね。さらに、マントヴァーニの場合、録音を行っていたのが英DECCAという、昔から録音技術に関しては卓越したノウハウを持っていたレーベルだったことも幸いします。特にステレオ録音になってからは、その華麗なサウンドはまさに生き生きと花開くのでした。
ところで、このアルバム、レーベルはDECCAではありませんね。これはなんとGUILDという、ヒストリカル録音専門のレーベルではありませんか。実は、ここに納められているのは、全てSPレコードから「ディジタル・リストレーション(修復)」を施されたものなのです。録音されたのが1943年から1953年、DECCAの権利が及ばない音源を集めたら必然的にこうなったのかもしれませんが、ビンジが「カスケイディング〜」の手法を確立したのが1950年頃と言われていますから、はからずも、まさにその前後のアレンジの変遷がまざまざと味わえる貴重な記録にもなっているのです。
最初のトラック、1943年録音のコール・ポーターの「ビギン・ザ・ビギン」という、「最初はやっぱりきれいな人とだな」という虫のいい男の歌(それは、「ビギン・ザ・美人」)から、これが本当にSPの音だなどとは到底信じられない、ノイズも全くなく音の粒立ちもクリアな録音にびっくりさせられます。ただ、これはストリングスはほとんど目立たない、後のマントヴァーニの姿など全く感じられないただのダンスバンドのアレンジと演奏です。ところが、50年をすぎたあたりから、明らかにストリングスを前面に押し出したアレンジに変わっていきます。それはまさに劇的と言えるもの、そして、そのストリングスの音はなんと艶やかなのでしょう。コンチネンタル・タンゴの名曲「青空」(53年録音)などは、生々しさから言ったら、下手なデジタル録音など遙かに凌ぐものです。
元の録音がちゃんとしていれば、SPからでもこれほどの音が再現できるのが、最近のデジタル技術なのでしょう。クラシックでもこんな良い仕事がしてあるものがあれば、是非聴いてみたいものです。

3月28日

MAYUZUMI
Bugaku, Mandala Symphony etc.
湯浅卓雄/
New Zealand Symphony Orchestra
NAXOS/8.557693J


1966年、テレビ朝日がまだNET(日本エンタメテレビ、ではなく、日本教育テレビ!・・・本当ですよ)と言っていた頃に始まった「題名のない音楽会」は、作曲家の黛敏郎が司会を担当するだけではなく、企画の段階から彼自身、あるいは彼のブレーンが制作にタッチしていた、非常に高いレベルを持った音楽番組でした。黛といえば、政界、財界には幅広い人脈を誇っていたちょっと右寄りの論客、その影響力で、視聴率など気にすることなく、良質の企画を送り出すことが出来たのでしょう(黛の没後も現在まで続いている「題名のない音楽会21」、確かによく似た体裁を持ってはいますが、ほとんどアーティストのプロモーションの場に堕してしまっているこの番組は、当初のものとは全く別の姿に変貌してしまった、巷にあふれるバラエティと何ら変わらないものなのです)。
残念ながら、私たちが黛について知っているのは、この番組の司会者としての顔がほとんどで、本来の作曲家としての側面は、「涅槃交響曲」とか「『天地創造』の映画音楽」以外にはほとんど伝わっては来ません。事実、1970年以降は「右翼であることが災いとなって(黛)」ほとんど作曲の依頼がなく、必然的に寡作となってしまったのだと言われています。
予想以上の大ヒットとなっているNAXOSの「日本作曲家選輯」、今回は、そんな黛の初録音2曲(しかも、そのうちの1曲はこれが初演)を含む4曲が収録されています。その、今まで実際に音になったことすらなかったという、作曲家がまだ10代の時の作品「ルンバ・ラプソディ」を聴けば、彼が若くしてすでにオーケストラから芳醇な響きを導き出す技術に精通していたことが分かります。ほとんど天才的と言っていいそのセンスは、テレビで見られるとおりの「カッコ良さ」、ラヴェル、ストラヴィンスキーあたりの語法を完璧に手中にしたダイナミックはサウンドは、時代を超えた普遍性をもって迫ってきます。
「涅槃交響曲」で確立された彼独特の「日本的」な語り口、しかし、それ以後に作られた「舞楽」と「曼荼羅交響曲」をここで聴くことにより、彼の音楽の本質はやはり「カッコ良さ」にあるのではないかとの印象は強まります。「舞楽」で聴かれるのは雅楽の模倣、しかし、それは「春の祭典」を彷彿とさせる本編への導入にすぎないのです。「曼荼羅」でも、仏教的なテイストはちりばめられてはいるものの、圧倒的に印象を支配されるものと言えば、彼が留学したフランスのボキャブラリーです。そう、第2部にあたる「胎蔵界曼荼羅」の後半などは、何も知らずに聴いたらメシアンの未発表の曲だと思ってしまうほど、この、鳥の声を偏愛したフランスの作曲家の語彙に充ち満ちています。
黛の音楽の持つ感覚的な魅力を前面に押し出してくれた湯浅卓雄の指揮するニュージーランド交響楽団、その、しなやかでリッチなサウンドを聴いてしまえば、黛が後半生にほとんど曲を産まなかったことが、日本の作曲界にとって大きな損失であったという事実を、受け入れないわけにはいかなくなってしまうことでしょう。

3月26日

Moodswings
Elvis Costello, Sting, Björk etc.(Vo)
Brodsky Quartet
BRODSKY RECORDS/BRD3501


弦楽四重奏とヴォーカル、それもロック・ヴォーカルとの組み合わせなどと言うものは、ヴォーカル・インストゥルメンタルの黎明期の「ザ・ビートルズ」ですらすでに手がけていたことでした。「イエスタデイ」や「エリナー・リグビー」でのバックに弦楽四重奏(もっと多いとも言われていますが)を起用したジョージ・マーティンのセンスは、当時の聴衆にはきわめて斬新に映ったはずです。ただ、ロックだけではなく、クラシックにも愛着を持っている人の場合は、そのストリングスの使い方には、少なからぬ違和感があったのではないでしょうか。基本的に、ヴァイオリンなどはリズムを刻むことには適していない楽器。リズムこそが命のロックとの、それが一番の齟齬だったのかもしれません。ポールがギター一本で弾き語りした「イエスタデイ」の方が、「ヘルプ!」というアルバムに収められているオリジナルバージョンより遙かに美しいと感じられるのは、私だけではないはずです。
大きく分けて2通りのコンセプトから成るブロドスキー・カルテットの新しいアルバムですが、その一つの側面、大物シンガーに自作を歌ってもらい、その伴奏をカルテットが行うという部分では、いまだこのビートルズの次元にとどまったままの安直な共演に終わってしまっているという誹りは免れません。当のエルヴィス・コステロが、「弦楽四重奏で伴奏するなんて、おめえら狂ってんな」と、看護婦さんの姿で(それは「コスプレ」)言ったというのがジョークに聞こえないほど、アルバムタイトルでもある彼の曲「My Mood Swings」での旧態依然たるバッキングは、情けないものです。リチャード・ロドニー・ベネットなどという作曲界の重鎮が自ら歌っている「I Never Went Away」あたりも、ある種のお遊びとしか聴くことは出来ません。それが、ビョークの「I've Seen It All」になると、彼女の開き直りに近いクラッシックへのアプローチにより、とても新鮮な味が出てくるのには驚かされます。異質なものを無理に融合させようとしない、これは彼女のひらめきの勝利です。
その意味では、もう一つのコンセプト、カルテットのメンバーがイギリス国内の学校を巡り、ティーンエイジャーたちとの共同作業の中から曲を生み出すというプロジェクトの成果の方にこそ、より刺激的なものを感じることができます。これは、メンバー以外に、作曲家も参加、生徒たちは曲や詞にアイディアを出したり、あるいはコンサートの企画やアートワーク(パンフレットやステージング)に加わって、何らかの形で一つのパフォーマンスに関わるというちょっと素敵なものです。中でも、イアン・ショーという人が歌っている「Venus Flytrap」と言う曲は、作詞も作曲も全て生徒によるもの、とてつもない発想のメロディーラインと、それにからみつく弦楽器が、ジャンルを超えた真の意味での「コラボレーション」を実現しています。
リズムに命をかけるロックと、メロディーを偏愛することから始まるクラシック。この2つのものが、ともに何かを作り上げようとするときには、何を大切にすべきか、あるいは、何を捨てるべきか、そんなことを深く考えさせられる、かなり重いアルバムです。

3月25日

TAVENER
The Veil of the Temple
Patricia Rozario(Sop)
Steven Layton/
The Choir of thr Temple Church
The Holst Singers
RCA/82876 66154 2(hybrid SACD)


ジョン・タヴナーの最新作は、彼にしてはちょっと珍しいRCAというレーベルからのリリースです。余談ですが、RCAは「BMG」というグループの一つのレーベルであったわけですが、このCDのジャケットには「SONY BMG」というロゴがみられます。そう、だいぶ前から騒がれていたことなのですが、「BMG」と「SONY」という世界の音楽業界を牛耳ってきた二大音楽ソフトグループが、ついに一つのものになってしまったのですよ。チョコとバニラの二色(それは、「ソフトクリーム」)。元をたどれば「BMG」は「ビクター」そして「SONY」は「コロムビア」、LP時代にはともにライバルとして君臨していた2大勢力が「結婚」してしまうのですから、もはやこの業界では何が起こっても驚くことはありません。
ここで演奏されているタヴナーの作品も、規模という点からしたらメジャーレーベルほどのものを持っています。いや、「作品」と言うよりは、夜を徹して遂行される「徹夜祷」という、実際には7時間を要するという宗教行事(ラフマニノフニに「晩祷」という合唱曲がありますが、これが、本来はこの「徹夜祷」と呼ばれるべきものなのです)そのもの、その中で演奏される音楽の部分だけを集めても、この2枚組のアルバムぐらいの長尺ものになってしまうということです。その音楽は、まさにバラエティに富んだもの、ギリシャ正教、ロシア正教、そしてチベットあたりの仏教の臭いがする様々なパーツが、ほとんど脈絡なく次から次へと現れてくる様は、壮観です。ここでは、「結婚」などという生やさしいものではなく、ほとんど「後宮」あるいは「ハーレム」の様相を呈しています。ただ、注意深く聴いてみると、その果てしない流れの中にある秩序を見いだすのは容易なことです。それは、この「徹夜祷」が行われたロンドンのテンプル・チャーチの聖歌隊と、有名な「ホルスト・シンガーズ」という大人の合唱団が、別々に歌うセット、「Kyrie Eleison」あるいは「Lord Jesus Christ」という歌詞を持つ部分です。この歌詞が、最初はホルスト・シンガーズによって、まるで中世のトゥルバドールの歌のような不思議なテイストで歌われたあと、聖歌隊によって移動ドだと「ミファミソ〜、ミファミラ〜、ソラソド〜」という単調なメロディーが、見事な純正調のハーモニーに乗って歌い上げられるのです(ライナーには、この演奏者が逆に表記されていますが、作曲者と指揮者の写真を裏焼きのまま印刷するような校正のレベルですから、これはおそらく間違いでしょう)。しかもそれが、最初は「ニ長調」だったものが、曲、というか、式典が進むにしたがって、「ホ長調」、「ヘ長調」・・・と全音階的にキーが上昇してゆき、最後の部分では「ハ長調」になってフィナーレを迎えるという仕組みになっています(その最後の部分だけは、このメロディーが合唱ではなくソプラノソロによって朗々と歌われます)。この骨組みにさえ気づいてしまえば、その前後に繰り広げられる呪文のような東洋的な朗唱から、それこそラフマニノフのような大地の響きを持つ堂々たる合唱まで、存分に味わうことが出来ることでしょう。そして、全てを聴き終わったとき、高揚を続けてきた音楽とは裏腹に、体の中のどこかがいつの間にか浄化されているように感じるはずです。それこそが、タヴナーの音楽の目指したものなのかもしれません。

3月22日

DURUFLÉ
Requiem
Patricia Fernandez(MS)
Michel Bouvard(Org)
Joël Suhubiette/
Ensemble Vocal les Éléments
HORTUS/018


このサイトのマスターの自慢はデュリュフレのレクイエムの録音のコレクション。花粉症はちょっと辛いでしょうが(それは「ハクション」)。したがって、私佐久間としても、新譜が出たのなら、チェックしないわけにはいきません。しかし、このアイテムはCD店の新譜コーナーではなく、普通のところにあったので、危うく見逃すところでした。おまけに指揮者も合唱団も、全く聞いたことのない人たち、指揮者に至っては読み方すら分かりません。ジャケットもなんだか投げやりなデザイン、これでちゃんとした演奏が聴けるのかと不安になりましたが、マニアにとってはたとえどんなものであっても価値があるのだろうと、とりあえずゲットです。
かなりおどろおどろしいオルガンの響き(これは、第2稿オルガンバージョンです)の中から聞こえてきた合唱は、しかし、独特の美しさを持ったものでした。パートのまとまりやきちんとしたハーモニーといった、基本的な能力を全て満たした上で、さらに何か猥雑な雰囲気を漂わせるという、かなり高度な嗜好を満たしてくれるような魅力が、そこにはあったのです。そして、しばらく聴いているうちに、このような肌触りは、この曲にはもっともふさわしいものではないだろうか、という気になってきました。デュリュフレのレクイエムは、よくフォーレの同名曲と並べて語られることが多く、この2曲がカップリングされているアルバムも数多く存在しています。しかし、構成的には似ている部分があったとしても、そこで繰り広げられている音楽のテイストは、かなり異なっていることに、気づくべきでしょう。そんな、デュリュフレにはふんだんに含まれていても、フォーレにはちょっと似つかわしくはないような雰囲気、それが、この演奏からは止めどもなく発散されていたのです。
それに気づいてしまうと、ちょっとうるさく感じられたオルガンも、そんなある種の猥雑さを確かに助長しているものだと分かります。そう、このオルガンバージョンのオルガンの役割は、イギリスの団体によくあるような、取り澄ました合唱をただサポートするものではなく、オーケストラ版のエキスとも言うべきものを提供することだったのです。
実は、レクイエムの中ではバリトンソロのパートを合唱が歌っているのですが、これがまた凡庸なソロよりずっと素晴らしいのです。ですから、余白に入っているプーランクの「パドヴァの聖アントニオのラウダ」という男声合唱のための曲での、この合唱団の男声パートの伸びやかと軽やかさに、またびっくりさせられてしまうことになるのです。ただ、残念なことに、「Pie Jesu」でのメゾソプラノソロが、このようなアプローチとは完璧に相容れない重苦しいものであるために、このトラックだけが全く別の世界のものとなってしまっています。なぜこんなソロを使ったのか、理解に苦しむところです。
このCD、しかし、どうやらそのお店にあったのはこの1枚だけだったようで、それ以後補充される様子はありません。一つ間違えば、こんな素晴らしいものを見逃してしまって入手できなかったかもしれないと思うと、幸運さを喜ばずにはいられません。

3月20日

Krejci/Serenade, Symphony No.2
Pauer/Concerto for Fagot and Orchestra
Karel Bidlo(Fg)
Karel Ancerl/
Czech Philharmonic Orchestra
SUPRAPHON/SU 3697-2 001


「アンチェル・ゴールド・エディション」というシリーズが、チェコのSUPRAPHONで継続してリリースされています。1973年に亡命先のカナダで亡くなった往年の名指揮者カレル・アンチェルがチェコ・フィルとともに残した録音を、最新のリマスタリング技術で蘇らせようというものです。全部で42枚から成るそのラインナップを見てみると、今まで抱いていたドヴォルジャークやスメタナのオーソリティといったイメージとはちょっと違う、かなり広範なレパートリーにちょっと驚かされてしまいます。マーラーやショスタコーヴィチまで振っていたのですね。
その中で目に付くのが、聞いたこともないようなチェコの作曲家の名前です。チェコ語の表記はアルファベットにアクセント記号のようなものが付きますからすぐ分かります(インターネット環境ではそれが表記できないのが残念です)。カベラーチ、ハヌシュ、ヴォルジーシェク、ヴィツパーレク、マーハ、パーレニーチェク、スラヴィツキー、ボルジコヴェッツ、オストルチル、クレイチー、パウエル、ドビアーシュ、バールタ。どうです、この中に、知っている名前がありましたか?私は、全て初めて聞くものばかりでした。アンチェルは、彼が活躍していた20世紀の半ばには、おそらく、このような同時代の(だと思います)作曲家の作品を積極的に演奏会で取り上げ、録音として後世に残すことをある種のライフワークにしていたのでは、という思いが、この、現在の普通のクラシック音楽のリスナーにとってはまるで暗号のような意味不明の文字の羅列を眺めることによって沸き起こってはこないでしょうか。
あるいは、この中には思いもかけぬ名曲の沃野が広がっているのではないか、という予感のようなものに惹かれて買ってしまったのが、このCDです。イシャ・クレイチーという1904年生まれ(1968年に亡くなっています)の方のセレナーデと交響曲第2番、そして、イルジー・パウエル(「ジリー・パウアー」という表記を見かけますが、それは間違いです)という、1919年生まれでまだ存命の方のファゴット協奏曲が収録されています。いずれも第二次世界大戦の直後に作られたものですが、そこには、音楽史の王道であった中央ヨーロッパのたどった道からは見事に隔離された、スメタナ、ドヴォルジャークから直結している純粋培養のロマン派の世界があったのです。もちろん、それなりに「新古典主義」あたりの洗礼は受けてはいますが、「12音」や「セリー」とは全く無縁の懐かしい響きが、そこにはありました。多少散らかってはいますが(それは「セーリとは無縁」)。
アンチェルがこれほどまでに肩入れしたチェコの「現代」作曲家たち。21世紀の現代に於いてはそれらは完璧に忘れ去られているかに見えます。しかし、当時、大きな流れから見たら辺境の地であったが故にしっかり培われていたロマンティシズム、これは、人間の魂への根元的な訴えかけとなって、再評価されることもないとは限らないという確かな感触を、このCDによって得ることが出来るでしょう。付け加えれば、これらはモノラルも混じった古い録音ですが、リマスターの成果は驚くべきものがあり、古さを全く感じさせないみずみずしい音を聴くことが出来ます。

3月18日

French Connection
Emmanuel Pahud(Fl)
Paul Meyer(Cl)
Eric Le Sage(Pf)
EMI/557948 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55720(国内盤 4月20日発売予定)

昔こんなタイトルの映画がありましたね。確か、その映画が評判になっていた時に「フレンチ・コレクション」というパロディのタイトルでアルバムを出したアーティスト(某キングス・シンガーズ)がいましたが、今回のアーティスト(だか、プロデューサーだか)には、それほどのセンスは備わっていなかったのでしょう。しかし、そんなベタなセンスを補ってあまりあるほどの、これは聴き応えのあるアルバムです。
「レ・ヴァン・フランセ」としてアンサンブル活動を行っているフルートのエマニュエル・パユとクラリネットのポール・メイヤーが中心になり、オーボエのフランソワ・メイヤーとピアノのエリック・ル・サージュが適宜加わるという、まさに気心の知れた仲間による演奏、これが、楽しくないはずがありません。アルバムを聴き終わったとき、このグループの名前「フランスの風」のような、一陣の爽やかさが吹き込んできたのを、誰しも感じるはずです。「フランスの風邪」はちょっと勘弁してほしいものですが。
そんな爽やかさを引き出したのは、最初と最後に、まるで表紙のように収録されているショスタコーヴィチのかわいらしい「ワルツ」なのかもしれません。アトウミャンという人が、フルート、クラリネットとピアノのために編曲した、ともに2分足らずの小品ですが、彼の「ジャズ組曲」などにみられるようなとことんキャッチーな味わいが、力の抜けた二人の管楽器奏者によって、いっそう穏やかなテイストをもって私たちを包み込んでくれます。特に、最後の方の第4番のワルツでは、パユは本来の指定楽器であるピッコロではなく、フルートによって同じ音域を(高すぎて出ないところは、もちろん下げて)吹いているために、その脱力感は際だっています。
本編の方には、ヴィラ・ロボス、フローラン・シュミット、ミヨー、ジョリヴェ、そして、初めて聞いたモーリス・「エマニュエル」という人の、なかなか聴くことの出来ない珍しい曲が並んでいます。このエマニュエルさんの作品、3楽章から成るフルート、クラリネットとピアノのためのソナチネなのですが、その最初と最後の楽章に「メリーさんの羊」そっくりのテーマが出てきて、なかなか和めます。しかし、おそらく最大の聴きものは、フルートとクラリネットだけで演奏されるジョリヴェのソナチネではないでしょうか。ここで終始聴くことの出来る、パユのレゾン・デートルともいえる「スーパー・ピアニシモ」は、まさに絶品です。世界中を探しても、こんな音を出せるフルーティストはほかにはいないのではないかと思わせられるほどの、独特なソノリテ、パユの奏でる音は、「フルート」という楽器を超えた、別の次元の響きを運んできてくれています。もしかしたら、彼はもはや「フルーティスト」ですらなくなっているのかもしれません。そう、私がこのアルバムの価値を認めながらも、無条件で身をゆだねることが出来なかったのは、彼の「フルーティスト」としての魅力が伝わってこなかったからなのでしょう。

3月16日

WAGNER
Opera Choruses
Soloists and Chorus of the Royal Swedish Opera
Leif Segerstam/
Royal Swedish Orchestra
NAXOS/8.557714



お待たせしました。新生「おやぢの部屋」のスタートです。前任者の渋谷さんがちょっと身辺に変化、とてものんきにおやぢギャグなどをかましていられなくなったので、私、佐久間にお鉢が廻ってきました。あの有名な「佐久間学」氏とよく間違えられますが、私は「學(がく)」、全くの別人です。末永くご贔屓に。

ワーグナーの「オペラ合唱曲集」という、どこにでもありそうなタイトルですが、これがなかなか渋い選曲、しかもかなり手の込んだものなのですから、やはりNAXOSをコレクションの対象からなくそすことは出来ません。フィンランドの巨匠セーゲルスタムが、スウェーデンの王立歌劇場の合唱団とオーケストラを指揮したもの、ちょっとマニアックですが、確かな訴えかけを持ったアルバムです。ただ、添付されている日本語のタスキには明らかな間違いがあります。「ローエングリン」の中の合唱のタイトが「真心こめてご先導いたします」となっていますが、これは第3幕のいわゆる「結婚行進曲」という超有名な曲のタイトル。しかし、ここで演奏しているのはそれではなく第2幕第4場の全く別な曲なのです。同じタスキの中で、「別の曲です」と書いているにもかかわらず、タイトルだけは間違ったままなのが笑えます。
そんな、担当者が勘違いするほど、有名曲をさけた選曲、特に、「マイスタージンガー」と「パルジファル」では、一つの場面を適宜抜粋して、合唱が中心の部分を聞かせるという粋なことをやってくれています。それでもソロ歌手が入る部分は残っていますから、そこにはこのオペラハウスの歌手が参加するという、贅沢な面も。こういう形で演奏してくれると、オペラの全体の流れの中での合唱というものの姿が、きちんと見えてきます。特に「パルジファル」では騎士たち、若者たち、そして天上からの少年合唱(歌っているのは大人ですが)というそれぞれのキャラクターが、見事な対比を示しています。セーゲルスタムの演奏は、感情の起伏が大きい割には、流れはスマート、どんどん先に進む場面をさわやかに駆け抜けていきます。そして、合唱は信じられないほどの水準の高さ、一本芯の通った涼しい音色が魅力です。
「オランダ人」でも、「水夫の合唱」はきちんと最後、つまりノルウェー船の脳天気な合唱から(この男声の張りのある声も素敵)オランダ船の不気味な合唱まで全て収録されていて、やはり、一つの場面の中での合唱の持つ多様な表現をしっかり味わえるようになっています。そんな中で、もっとも珍しいものは序曲以外は、演奏される機会などほとんどない「幻」の作品「リエンツィ」からの、第2幕の平和の使者の合唱です。もちろん、私は初めて聴いた曲ですが、女声合唱によって歌われる無垢な世界は、心にしみるものがあります。この合唱が2回繰り返され、それに挟まれる形でドラマが進行するのですが、後のワーグナーからは想像できないような「伝統的」なスタイル、6時間はかかるという全曲を聴かなくても、その片鱗だけはしっかり味わうことが出来きるという、心憎い仕掛けが込められています。
もちろん、「タンホイザー」の「入場行進曲」のような「有名」な曲もしっかり押さえているのはさすがです。こんな耳慣れた曲も、このアルバムの中にあると、単なる「名曲」ではなく、ドラマの中での役割がしっかり見えてくるというのが、すごいところです。

旧バージョンのおやぢに会える、か。


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