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家主、癖、空き巣。.... 渋谷塔一

(01/11/19-01/12/10)


12月10日

ENCHANTMENT
Charlotte Church(Sop)
SONY/CK 89710
(輸入盤)
ソニー・ミュージック
/SICP 18(国内盤)
「3年前12歳の少女は、3年後15歳になった。」こうやって書いてみると、「それがどうしたの?当たり前じゃん。」としか思えないのですが、この年頃の女の子の3年間の変化と言うものは、想像以上に劇的なものです。内面的にも、外見的にも、それは、恰も蛹が蝶に変化するが如く目覚しい成長を遂げるのが「10代前半の女の子」なのです。
そう、シャルロット・チャーチもまさにその例にもれません。12歳でデビュー。瞬く間に世界中のアイドルとなり、CDも驚異的な売上を記録しましたっけ。(そういえば日本の某お菓子メーカーも彼女の人気に目をつけ、CMに起用しましたね。)あどけない笑顔と透明な歌声はまさに「天使の歌声」でした。しかし、あれから3年たって彼女は劇的に変化しました。
まずジャケを見てびっくり。なんとも妖艶な女性が微笑んでいるではありませんか。たしかに面影はあるのだけど、これがあのチャーチ?そう考えつつ音を聴いてみます。おやおや、声も随分オトナになりました。
第1曲目の「トゥナイト」。いやぁ、しっとりしてます。おぢさんはぞくぞくしちゃいました。第3曲目の「ハバネラ」。これは一昨年大ヒットしたアノ歌手の向こうを張っているのでしょうか。ジェシー・クックのアレンジがおしゃれで、スパニッシュ。とにかくスゴイ意気込みです。でもここまでやるとちょっと無理があるかな。ついでに言うなら、「こうもり」のアリアも同じく無理を感じた曲かも。これも、もう少しオトナになってから出直しなさい。って感じです。
いくらオトナっぽくなったといっても、そこはまだ15歳の女の子。子供の殻を完全に脱ぎ捨てたわけではないのですね。オトナと子供のぎりぎりのきょうかい線、これがなんともいえない味を醸し出しているというわけです。そういう意味でのオススメは、このアルバムのプロデューサー、デヴィッド・フォスターの作曲した「ザ・プレイヤー」。この美しい祈りの歌は、彼女の無垢な部分が完全に残っています。
そんな彼女は将来オペラを歌いたいのだとか。しかし、別に意地悪な言い方をするわけではありませんが、彼女の声が完成されるのは少なくとも10年後くらい。その頃恐らく彼女はクラシックなんて歌っていないでしょう。もっと言うなら、3年後くらいにヴェルディのオペラアリア集をリリースしたとしても買うのは物好きなファンくらいでしょうね。(そういえば以前、ボチェッリもそういうの出しましたよね)
彼女の存在自体がドリームなのです。夢の世界の住人は、オペラのようなどろどろぐちゃぐちゃの世界に足を突っ込んではいけませんよ。お節介なおやぢの一言でした。

12月9日

MAHLER
Symphony No.4
Linos Ensemble
CAPRICCIO/10863
大手CDショップのフリーペーパーで、「マーラー4番の室内楽版のCDが登場」なんて紹介文を見かけました。しかしこの手のCDは、以前私の前任者が紹介していたはず。記憶を辿って調べたら(いやいや、もくぢのおかげで簡単に検索できました)やっぱりありました。今更ながら、前任者のアイテムの偏愛ぶりにため息をつく私です。
しかし、このような珍品が2年間に2枚もリリースされるというのも、面白い現象なのかもしれません。オーソドックスなものより、変わった物の方が売れるということでしょうか。今更!と思いつつも、ついつい購入してしまうおやぢです。
曲の詳細については、その前任者の解説に頼ることにしましょう。(しかし、あの人はどこでこういう情報をしいれていたのでしょう?)
こういった編曲物が目指すところは、最終的には「いかに原曲に近い響きを作り出すか」ということでしょうか。大編成の見本のようなマーラーの交響曲を、簡素な室内楽に置き換えることは、楽しくも苦難に満ちた作業のはずです。
マーラーの録音では「大地の歌」室内楽盤というのもありますが(これは、最近来日したヘレヴェッヘが指揮していたため、その来日にあわせ、安い値段で再発売されたので、聴かれた人も多いでしょう)あの曲は、作曲家自身のピアノ編曲版も存在するほどの、小編成で演奏しても違和感のない曲といえましょう。
さて、この4番ですが、これを聴くときは原曲のことは忘れましょう。全く違う音楽だと思わなくてはいけません。過去のNOVALIS盤よりもこなれた演奏です。このLINOSアンサンブルは、あのオルフェウス室内菅弦楽団のように指揮者をおかないヴィルトゥオーゾ集団。そのうえ編成も軽いせいかかなり小回りがきくのでしょう。1楽章など、テンポがとても速いのですが、(あのブーレーズ盤に匹敵するほど)まったく不自然さを感じさせません。もちろん、あのゆったりとした第2主題は、この音では多少物足りないですが、さっき自分で原曲は忘れようと誓ったはず。たまに主旋律が埋もれてしまうところもありますが、これは多分、そのメロディーを受け持つ楽器の選択ミスだと思われます。「これじゃ聴こえないじゃないか」と編曲者シュタインを心の中で罵倒するのもいいかもしれません。
終楽章で独唱を受け持っているのはアリソン・ブローネル。この人はバロック音楽方面を得意とする人で、その清潔な発声が「天上の生活」感を絶妙に表現しています。妙に媚を売るボーイ・ソプラノより、こちらの方が自然な感じです。
このCD、おまけとして「さすらう若人の歌」の同じく室内楽版も収録されています。こちらで歌っているのが、あのオラフ・ベーアという豪華さ。これを聴けただけでも、この1枚を買い求めた甲斐があるというものです。

12月7日

KALEIDOSCOPE
Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION/CDA67275
マニアお待ちかねのアムランの新譜です。
唐突ですが、私の友人の話を聞いてください。3ヶ月前、故あって私の前から姿を消した男です。(別にジプシー女についていったわけではありません)高級志向でプライドが高く、そのくせ繊細。彼と話をする事は、私にも良い刺激になったものでした。
その彼の一番の楽しみというのは、「極上のオンナのわき腹を撫でること」なんだそうです。別に彼女をどうこうしようというのではなく、ただひたすら滑らかな肌の感触を掌で味わう。これが究極の快感なのだとか。「それって、猫の背中を撫でるのと似た物があるわけ?」「いいや、それは違う。その快感の中には、視覚的なもの、感覚的なもの、全てが統合され、なおかつ征服欲も満たされるのだ」と彼は言うのです。
その話をしたときは、「そんなばかな」とも思いましたが、考えてみれば、アムランの弾くピアノを聴くのも、それに似た感触があるのかも知れません。彼のピアノの音は、とても滑らか。全く、若い肌を水滴が滑っていくが如くの流麗さと言えば想像がつくでしょうか。
前置きが長くなりました。そのアムランの新作は「カレイドスコープ」。その題名が示すとおり、まさに万華鏡を見るかのように、小品ながらも独自の煌きを持つ曲が集められています。彼のコンサートに出かける楽しみの一つに、「アンコールを聴く」事があります。毎回、彼の自作も含め、聞いたこともない曲ばかりが用意されていて、下手するとリサイタルの本編より楽しかったりするのです。(ちょっと大袈裟)
そんな彼の好きなアンコールピースをたっぷり収録したこの1枚。面白くないわけがありません。よくこんな曲を見つけてきたな。と思う作品ばかり並んでいて、ブックレットの作曲家の顔を見るだけでも楽しい1枚です。
例えばアムラン自作のエチュード第3番。この曲のベースは有名な「ラ・カンパネラ」ですが、言うまでもなく一癖も二癖もある編曲です。もちろん超難曲なのですが、彼の真意は、「聴く人を混乱させてやろう」に尽きるようです。もう彼ほどの腕になると、今更超絶技巧のひけらかしなんて必要ないのですね。ショパンの即興曲を徹底的に難しくした「ミシャロフスキーの練習曲」。これもため息物。ゴドフスキーの上を行く編曲物でしょう。
他にも、ギンペルの「海兵隊賛歌による演奏会パラフレーズ」。これは有名な行進曲がテーマですが、(この元ネタがオッフェンバックだったのは知らなかった)これも「すげぇ」の一言。以前のホロヴィッツの「星条旗よ永遠なれ」に匹敵する編曲物・・・いわゆるヘンタイ物です。こういう音の流れに身を任せているのも、究極の快感の一つだと思うのですが。
しかし、こんな曲を嬉々として演奏するアムランって一体・・・。私にはわからん

12月5日

BACH
Johannes-Passion
Rubens(Sop), Scholl(CT), Padmore(Ten),
Noack(Bas), Volle(Bas)
Philippe Herreweghe/
Collegium Vocale Gent
HM/HMC 901748.49
バッハの「ヨハネ受難曲」は、「マタイ受難曲」に比べると人気という点では一歩立ち遅れているという感は否めません。現に、この「おやぢの部屋」でも、「マタイ」や「ロ短調ミサ」はさんざん取り上げてきたのに、「ヨハネ」はこれが最初なのですから。言い換えれば、この2年近くの間には、「ヨハネ」のメジャーな新譜のリリースはなかったということになります。
しかし、正確には、昨年MDGというレーベルから新しい録音のCDがリリースされていたのです。ペーター・ノイマンの指揮によるこのCD、「ヨハネ」の「第2稿」による録音ということで、その方面では注目されていたようですが、生憎私の情報網には引っかかりませんでした。
バッハは、生前にこの曲を4回演奏していますが、その度に細かいところで内容を変えています。で、2回目の1725年のときに用いられたのが第2稿。現在では1739年に作られたスコア(これによる演奏はありませんでした)を元にした新バッハ全集の楽譜によって演奏される機会が最も多くなっていますが、それとはまったく別のアリアや合唱が使われているこの第2稿にも、最近は目がむけられるようになってきました。リリンクあたりも、HÄNSSLERへの新録ではその第2稿の曲だけ別に収めたりもしていましたしね。
先頃「マタイ」の新録音で素晴らしい演奏を披露してくれた、今やこの手の宗教曲の最も信頼のおける演奏家となっているヘレヴェッヘがこのたび再度録音した「ヨハネ」でも、この第2稿が使われています。
なぜ、彼が第2稿を使ったのかは、定かではありませんが、私が第1稿に常々感じていたのは、曲全体の終わり方がどうもしっくりしていないということです。「Ruht wohl〜」という堂々とした合唱で終わってしまっても一向に差し支えないのに、そのあとにさらに「Ach Herr〜」というコラールを続けているのが、いかにも間抜け。もちろん、これには「ヨハネ」全体を支配する静的な雰囲気を象徴するものなのかもしれませんが。
それに対して、この第2稿の終曲は、はるかに全体を締めくくるにふさわしい重みのあるものです。
この新録音を聴いてすぐ気付くのが、合唱のとてつもない雄弁さ。各パート4人ずつというコンパクトな編成ですが、その表現の幅広さには驚異的なものがあります。とくに、ソプラノパートの熱さには引き込まれてしまいます。さらに、新全集の21fWir haben ein Gesetz〜」のポリフォニーなどでは、各パートが全く異なる歌い方で「我々の掟では彼は死に値する」という恐ろしい言葉を叫び合っていますし。もしかしたら、これは必ずしもバッハに適した表現ではないのかもという思いもありますが、このダイナミックさはとても魅力的なものです。
この合唱に張り合うかのように、エヴァンゲリストのパドモアもかなりドラマティック、それに対してイエスのフォレは、いかにも慈しみ深い温和な人柄といった感じ。この辺の分かりやすいキャラクターが、この劇的な要素の強い第2稿にはとても似つかわしくてよはね(九州弁)。

12月3日

TRINITY
Slava(CT)
ビクター・エンタテインメント/VICP-61616
スラヴァです。癒し系ハイトーン・ヴォイスの先駆的存在。クラシックからポピュラーまで幅広いレパートリーを持ち、本名のカガン=パレイで現代オペラまでも歌っている人です。すでに「アヴェ・マリア」という名前のアルバムもあり、こちらは全世界で大ヒットを果たしており、名前は知らずとも、彼の声は誰もが一度は耳にしたことがある・・・はずです。
さて、いつぞやのこの欄で「優れたヒーリング・アルバムを作るというのは、実はそれほど簡単なことでない。」と書いた記憶があります。その時は、「ヒーリング・ミュージックに関しては、そのような感情の昂ぶりというものは、邪魔にこそなれ決して相応しいものではないのである。」と続けてましたっけ。今回のスラヴァのアルバム、確かに収録曲などはその時のものと似通ったものがありますし、名曲「アヴェ・マリア」に現代的なアレンジを加え、(もちろん電子音や残響もばりばり使用するのですね)聴かせるなどの、いわゆるヒーリング効果はばっちりです。(もちろんあの独特の声には好き嫌いが別れるでしょうけど。)
しかし、決定的に違うのは、これは彼の亡き母の思い出のために作られたもの。自らの悲しみに沈んだ心を鼓舞したい、更に聴き手にもちょっとだけ勇気と希望を分けてあげたい。そんな思いがたっぷり込められているのです。そうなると、このアルバムを“単なるヒーリング”と言い切ってしまうのには不可能ですね。
というのも、私自身、最初聴き始めた時は、「どうせいつものスラヴァでしょう」と構えていたですが、実際聴いてみたら全く印象が違ったのです。鳥の声に導かれ、教会に行き、まず「アルカデルトのアヴェマリア」でそっと包み込む。その次の「アヴェ・マリア」の曲の涙の出るような悲しさを湛えたぎりぎりの美しさ。これは私もはじめての曲で、彼のオリジナルかと思ったら、何とサン=サーンス!彼の選曲のセンスにちょっと驚きましたね。次は癒し系のアルバムに必ず入っている「アルビノーニのアダージョ」、これも彼独特の味付けで、悲しさと諦観に満ちた表情がたまりません。そこからは、現代のアヴェ・マリア。モリコーネやジマー、スラヴァ自作など、各々の心情にあったマリア(母)賛歌が繰り広げられます。これも素晴らしい。最後の収録曲、モリコーネの「聖母マリア」を聴く頃にはすっかり彼のとりこになっていた次第。
もちろん、そのまま終わりではありません。聴き手は、もう一度鳥の声とアルカデルトに見送られつつ、教会を後にするのです。確かに勇気を少しだけもらって。
毒にも薬にもならない単なる“ヒーリングアルバム”とは一線を画した、とてもステキな1枚ですらば

11月29日

FAURÉ
Barcarolles
藤井一興(Pf)
FONTEC/FOCD3487
街はすっかり晩秋の佇まい。深夜、枯れ葉の舞い踊る裏通りを歩くのにはちょっと寂しい季節です。しかし、そんな時こそ携帯CDプレイヤーに、この藤井さんのフォーレをセットして聴きながら歩くのが至上の楽しみである私は、もしかして、かなりのへそ曲がりなのかもしれません。
藤井さんの演奏には、メシアンにしても、以前ご紹介したフォーレにしても、決して真似の出来ない独自の世界があるのです。日本のピアニストの中では、彼ほどフランス音楽に通じている人もいないでしょう。
フォーレの音楽の特徴の一つとして、転調と和声の美しさが挙げられますね。それはまるで水に映る光の煌きのよう、変幻自在に移ろい行く音の流れは、聴き手に軽い眩暈を覚えさせるような本当に微妙で繊細な音楽です。
とりわけ、この「舟歌」というジャンルは、文字通り「水っぽい」曲集です。寄せては返す波、水と戯れる光の美しさを存分に味わうのにぴったりてすし、もう一ついうなら、このジャンルは、彼が終生に渡って愛したもの。第1番は35歳の時の作品、最後の13番は亡くなる3年前、76歳の時の作品なのですね。そのため、彼の作風の変化を目の当たりにするにももってこいなのです。例えば、第4番までは全く聴きやすいのですが、5番になるとそれは一変、深い思索に彩られた曲になるのです。それが6番で一休み。一瞬だけ親しみ易い表現(サロン風とも言う)に戻るのですね。それから後の1900年代の作品は、すっかり晩年のフォーレの音楽。これが手にとるようにわかるのです。
藤井さんの演奏は、どの曲も感心することばかりなのですが、とりわけ、後期の作品(一見つかみどころのないような9番や10番)が素晴らしいといえましょう。さすがにメシアンを得意とするだけあってか、破壊寸前の調性をもう一度紡ぎなおして、後期独特の煙るような和声をしっかり拾い出しているところがさすがなのです。そうそう、11番のつぶやくような冒頭の音の連なりには、今までは不気味さしか感じていなかったのですが、こんなに美しかったのですね。逆に、今までほっと一息ついた第12番や13番、これは初心に立ち返ったような曲なのですが、この曲がこんなに複雑だった事にも改めて気がつきました。
昔からの名演奏、例えばドワイヤンやユボーを聴き慣れた耳にはなんとも新鮮なフォーレです。秋(fallフォール)にはやっぱりこういうしみじみした音楽がいいですね。

11月28日

PEACE
Music for Reflection and Consolation
Various Artists
FINLANDIA/0927-42219-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン/WPCS-11228(国内盤)
タイトルは、「平和、回想(リフレクション)と慰め(コンソレーション)のための音楽」、ジャケットには白い鳩。そうなれば、このアルバムのコンセプトは何か、自ずと明白ですね。人と人が憎しみあい、互いに殺しあうということが日常的に行われている世界に対する、静かな抵抗というか、ある種のメッセージが込められていると思って間違いないでしょう。
とはいえ、これはオリジナルのアルバムではなく、タイトルにもあるコンソレーション、ではなくてコンピレーション、過去にリリースされた音源を組み合わせたものになっています。ここで選ばれているのは主に無伴奏の合唱曲、そう、最近は「癒し系」としての需要がとみに増しているジャンルの音楽、ですね。このFINLANDIAレーベルは、こういう合唱曲の宝庫、北欧にキラ星のように存在する優秀な合唱団のカタログにかけては、自信があります。さらに、ここでは、同じワーナー系のERATOからも参加している団体があって、いっそうのヴァラエティを見せています。
最初の曲は、ペルトの「De Profundis」、ご存知のように、ペルトの曲はいつ果てるとも知れないゆったりとした時間軸の中に置かれた音が特徴ですが、この曲の場合、「深き淵から」というタイトルどおりの、重苦しい響きが支配的。歌っている「ヴォーカルアンサンブル・タラ」は、その暗めの音色で、暗澹たる気配を表現しています。
この合唱団に限らず、北欧系の団体の渋い響きというのは、とても魅力的なものです。その響きを支配しているのが、男声メンバーの声。地を這うようなベース、いぶし銀のようなテナー、それらの集合体は、とてつもない底の深い音楽を提供してくれます。エストニアの作曲家トルミスの「God Protect Us from War」という、いかにもこのアルバムに似つかわしい曲を歌っているエストニア国立男声合唱団で、その特性は端的に味わうことができるでしょう。まるで呪文のように繰り返される同じパターンの、なんと味わい深いこと。
そこへ行くと、ERATOからのレンタルで、有名なバーバーの「アニュス・デイ」を歌っているイギリスのオクスフォード・ニュー・カレッジ聖歌隊は、そんな北欧系とは全く異なった華やかさを持っています。録音からして、ホールトーンをたっぷり取り入れた豪華な仕上がり、この、「バーバーのアダージョ」の編曲をしみじみと聴かせてくれます。何度も聴いたことのあるこのテイク、しかし、このような文脈の中で歌われると、言いようもない悲しみが伝わってくるから不思議です。全く同じ曲が、ある意味を持ったコンピレーションの中にあるだけでまるで違った表情を見せるということが、図らずも実感されてしまったものです。
最後に収録されているフィンランドの作曲家カイパイネンの「Antiphona Super 'Alta Trinita Beata'」は、ヘルシンキ大学合唱団とタピオラ合唱団の合同演奏のライブ録音。異様な熱気で盛り上がる聖歌のあとで歌われる、女声だけによる鳥の声の模倣が、なんとも印象的です。

11月26日

JANACEK
The Diary of One Who Disappeared
Ian Bostridge(Ten)
Thomas Adès(Pf)
EMI/CDC 557329 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55357(国内盤)
今回はヤナーチェクの歌曲集「消えた男の日記」を(ヤマエチェクの「惚れた男の日記」ではありません)。この曲はCDが少なくて、現在入手できるのはシュライアー盤(輸入)ぐらいのものでしょうか?しかし、これはドイツ語訳の歌詞で歌っているものですから、曲の本質を100%伝えているとは言い難い演奏かも知れません。今回は、ボストリッジが来日することもあり、輸入盤と同時に国内盤も発売され、もちろん対訳も付くので、この美しくも妖しい歌曲集が広く再認識されるきっかけになることでしょう。
そんなわけで、この曲は存在だけは有名ですが、実際にはあまり聴く機会もなく、内容も「ジプシー娘に誘惑された若い男が、故郷を捨てて彼女について行く話」くらいにしか認識していませんでした。この原詩「消えた男の日記」というのは、1916年にチェコの日刊紙の日曜版に2週間に渡って掲載された連作詩集で、作者は匿名。一介の農夫の息子という説明の割には、詩の出来が良すぎると当時でも話題になったとかで、モラヴィアの学者たちは長年原作者についての議論を重ねていたのだそう。そのため、シュライアーの演奏が世に出た頃のデータにはもちろん、私の手元にある音楽事典にも、作詞者は不明とされていますね。この件にとりあえず決着がついたのが1997年。やはり有名な詩人だったのだそうです。日本でも一部で報道されましたっけ。
ま、それはさておき、ヤナーチェクがこの詩を入手した時は、まさか自らが同じような体験をするとは夢にも思ってはいませんでした。当時62歳のヤナーチェク、この詩を携えて保養地に向かったまさにその年、彼にとっての永遠の女性である、カミラ・ステッスロヴァーに出会うのですね。まさに「老いらくの恋」。どういう関係であれ、彼女がヤナーチェクに与えた影響は計り知れない程大きく、また実り多き物でした。彼の晩年の作品群はまさに彼女のためにあるのであって、その経緯は彼が残した722通の手紙(今ならさしずめメールってとこでしょうね)にも端的に見ることができます。その霊感の最初の発露がこの歌曲集というわけです。若者におけるジプシー娘ゼフカは、そのままヤナーチェクにおけるカミラなのですね。
今まで日本語の対訳を持っていなかった私は、ドイツ語訳からの切れ切れの意味のみで、この曲を味わっていたものです。今回しみじみ意味を紐解いてみて、「随分アブナイ曲なのだなぁ」と感じた次第。
「私の肌の色ってそんなに浅黒いかしら?日焼けしてないところはもっと白いのよ」娘はそっと胸のあたりを広げて見せる・・・・。(第10曲より)全くぞくぞくしますね。
演奏については、もう何も言う事はないでしょう。ボストリッジの歌は、いつもながらとても危うい魅力を秘めています。前述のシュライアーの端正な歌とは全く違い、破滅の予感に満ちた危なさがぷんぷん匂い立つような、ぎりぎりの音楽です。イギリスの新進気鋭の作曲家のアデスのピアノが一層その危うさを強調。
この1枚、日常生活に飽きた人にオススメします。

11月23日

Plays X'mas Songs
Marimba Tropicana
Tropical Symphony Orchestra
リスペクトレコード/RES-56
今年も、クリスマスの季節がやってきました。ちょっと前まではサンタクロースが牽くトナカイの橇が描かれていた街のショーウィンドウも、この頃では昔ながらのトナカイが牽くサンタクロースの橇に書き換えられ、いつもと変わらない年の瀬の風情を演出しています。ここに、良質のクリスマスミュージックのCDでもあれば、愛し合う二人に言葉などは要りません。窓の外はしんしんと降り積もるダイヤモンドダスト。二人にとって、夢のような至福の時間が過ぎてゆくのです。そんなシチュエーションを彩るCDは山ほどリリースされていますが、ここではちょっと毛色の変わった最新アルバムを紹介してみましょう。
それは、最近のクリスマスアルバムには珍しく、「ホワイト・クリスマス」や「サンタが町にやってくる」といった、王道とも言うべき選曲で迫っている、「マリンバ・トロピカーナ」のサードアルバム「プレイズ・クリスマス・ソングス」です。このグループは、もともとは4人の女性マリンバ奏者を中心に結成されたアンサンブルで、マリンバにパーカッションやウクレレ、ギターを加えるというなかなかユニークな編成で注目されてきました。マリンバの持つ素朴な響きと、一見単調に聴こえるリズムから、「癒し系」として位置付けることも可能なサウンドを展開してくれます。今回はさらにその名も「トロピカル・シンフォニー・オーケストラ」という強力なゲストが加わって、サウンドに一層の深みが加わり、いまだかつて実現したことのない「格調高い南国風クリスマス」のアルバムが誕生しました。
このゲスト達というのが、リーダーの小野雅司の古くからの友人である読響のコンサートマスターの小森谷功とかN響の主席チェロ奏者の木越洋といったそうそうたるメンバーが中心になったストリングスと、やはり小野の友人の一戸敦(フルート)率いる読響の木管セクションで固められた木管四重奏という豪華なものです(ファゴットには、かつて仙台フィルに在籍されていた武井さんが!)。ここで嬉しいのは、クラシックのプレーヤーがこういうセッションに参加した時にありがちな「スタジオ仕事」とは無縁の、極めて親密なコラボレーションを聴くことができることです。その最も実りある成果が、ジョン・レノンの「ハッピー・クリスマス」。オリジナルでは児童合唱によって歌われる"War is over…"というリフレインがこのストリングスによって奏でられるときに体験できる、マリンバとの対話の妙。さらに、もちろんそんなことはありえないのですが、このメッセージが昨今の時勢に向けられたものと読み替えることすら、可能になってくるのですから。
それはともかく、このアルバムの基調をなす明るいリズムに身を任せていれば、二人が更なる親密なステップへ移っていくのはいともたやすいことなのです。今年は、トロピカルな趣向で、一味違った聖夜にせいや。メリー・クリスマス。

11月21日

R.STRAUSS
Die Ägyptische Helena
Gérard Korsten/
Orchestra e Coro del Teatro Lirico di Cagliari
DYNAMIC/CDS374/1-2
「エジプトのヘレナ」は、シュトラウスのオペラの中ではいささか地味な曲で、CDの数も少なければ、上演回数も少ない上、曲についての解説も殆どないという、いってみれば間違いなく最も人気の低い演目です。今回は久々にこの曲の新譜が発売されたので、(とは言ってもライヴ録音ですが)全日本シュトラウス愛好会×××地区会長としては(そんな会あるの?)、ぜひ多くの人に知らしめる責任があるというわけです。
この作品はお馴染みホフマンスタールとの共同作業によるもの。初演されたのは1928年ですが、構想に取り掛かったのは1923年。実は、1919年の「影の無い女」の初演の頃からこの2人の関係は少々悪化気味でした。理由はシュトラウスがスランプに陥っていたとか、自らの露悪趣味の頂点とも言える「インテルメッツォ」の台本をホフマンスタールに頼んだところ一笑にふされたとか、いろいろあるようでして、ま、長らく共同で作品を生み出していると、意見の食い違いもあるという事でしょうか。良いものを作るためにはケンカも止むを得ないのは、いつの世も同じなのかも知れません。しかし、結局、「ばらの騎士」に続くものを作りたいという情熱が2人の関係を修復したのです。
この思いは、後に「アラベラ」という美しい作品に結実するのですが、その前に「ちょっとしたオペレッタ風の作品を仕上げましょう。」と言うことで書かれたのがこの「エジプトのヘレナ」なのです。確かに地味な作品で、台本は良く考えられていてなかなか面白いのですが、音楽がちょっと・・・やっつけ仕事ですね。でもこういうのもいいではありませんか。
内容は、ポセイドンの恋人である女魔法使いのアイトラと、その彼女の気まぐれに翻弄される、倦怠期の夫婦ヘレナとメネラスの物語。夫に殺されかけても、開き直るヘレナ、若返りの薬によって、とりあえず妻への愛を取り戻したものの、また若いライバルが出現して心が揺れるメネラス。彼は悲哀を漂わせつつも、ちょっと滑稽な存在として描かれています。この関係はもしかしたら、シュトラウスの家庭そのものなのでは。ちなみにこの魔法使い、得意技は帽子から鳩を出すこと(それは「エジプトのテジナ」)。
さて、このライヴ録音。オーケストラの響きも(ウィーンフィルに比べれば)足りないし、ヘレナ役とアイトラ役の歌手の声のトーンが似ているため、音だけ聴いていると、メリハリに欠けるのが難点でしょう。ただし、メネラス役のシュテファン・オ・マーラ(Ten)はなかなかの逸材かも知れません。すぐ怒って剣を抜く一本気(?)なおやぢ。この純情がしみじみ感じられる良い歌でした。
まあ、数々の不満はあるものの、CDとしてカタログに載るだけでもありがたい・・・と思えば、そんな難点など物の数ではありますまい。

11月19日

XENAKIS
Orchestral Works
Arturo Tamayo/
Orchestre Philharmonique du Luxembourg
TIMPANI/1C1062
今年の2月、79歳の誕生日を待たずに亡くなったヤニス・クセナキス、性癖に問題はありましたが(「癖はキス」・・・うそです)生涯に渡り、自分自身の手で確立した音楽語法を貫き通した、本当の意味での天才です。音楽を自然現象の一つと捉えたならば、確率論や統計論で制御することが可能ではないかと考えた結果生まれたものは、今まで誰もが創造し得なかった特異な音響世界でした。メロディーやハーモニーの代わりに使われたのが、グリッサンドやクラスター。彼に操られた音たちは、まるで個々の分子のように自由に舞い踊っていたのです。
当初、このような方法論に難癖をつける輩は数知れませんでした。日本の作曲家B氏などは、生半可な数学の知識をひけらかして、無謀にもこの天才に歯向かおうとしたのです。しかし、歴史はクセナキスの歩みが正しかったことを証明してくれました。世界中の団体からの委嘱は引きもきらず、大オーケストラのための曲だけでも、40曲近く生まれることになったのですから(もちろん、現在ではB氏の存在すら忘れ去られています)。
最近、フランスのTIMPANIというレーベルが、このクセナキスのオーケストラの作品をすべて録音するという計画を立てたのも、彼の作品が後世に残るものだと判断したからにほかなりません。今までCDでは聴けなかった作品がどんどんレコーディングされるでしょうから、このプロジェクトはとても楽しみなもの。
今回リリースされたのは、その中の第2巻。昨年出た第1巻(1C1057)では、すべての曲が世界初録音でした。今回は収録された4曲のうち2曲が初録音です。
1C1057
1977年の作品「Jonchaies」は以前にも録音されたものはありましたが、私が聴いたのは初めて。冒頭の弦のグリッサンドに続いて、フラジオレットのトゥッティの中から沖縄民謡が聴こえてきたのにはびっくりしてしまいました。初録音の「Shaar」と「Lichens」という、いずれも1983年に作られた曲は、もちろん、私にとっても世界初演。これらの曲は、彼の最初期作品、「ピソプラクタ」とか「メタスタシス」とは、明らかに作風が変わっています。もちろん、それはペンデレツキあたりとは全く異なる次元の話なのですが、この頃のものには昔には見られなかった「歌」が感じられるようになるのです。弦だけの「Shaar」ではグリッサンドにも表情が見られるようになり、ほかの声部との対話みたいなものも、極めて具体的にイメージできるようになっています。さらに、「Lichens」では、まるで師メシアンのようなカラフルな音色と、わかりやすいリズムまで見られるようになっています。
最後の「Antikhthon」(1971)は、最初のクラリネット群のクラスターを聴いただけで、クセナキスの世界に入り込むことの出来る曲。終始、派手なサウンドに身を任せられます。
特筆すべきは、このCDの録音の優秀さ。個々の楽器が芯のある暖かい音で捉えられ、全体も見通しのよいすっきりした仕上がりになっています。

きのうのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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