納豆の日。.... 佐久間學

(07/3/28-07/4/16)

Blog Version


4月16日

Swider
Te Deum
Jan Lukaszewski/
Polski Chór Kameralny
CARUS/83.176


ヨゼフ・スヴィデルという、1930年生まれのポーランドの作曲家の合唱作品を集めたアルバムです。腰のラインがセクシーですね(それは「くびれる」)。スヴィデルという名前は初めて聞きましたが、ポーランドではかなり有名な作曲家なのだそうです。オペラやピアノ協奏曲、宗教曲に室内楽、独奏曲、さらに映画音楽まで幅広い分野で活躍していますが、1980年代以降はもっぱら合唱曲を中心に作曲を行っているということです。現在までに作られたア・カペラの合唱曲は250曲を超えるといいますから、ちょっとすごいものがあります。おそらく、日本のアマチュア合唱団でも、スヴィデルの作品を取り上げて演奏しているところはあるのではないでしょうか。
この年代のポーランドの作曲家と言えば、1933年生まれのあのペンデレツキを思い浮かべることでしょう。かつて「現代音楽」の一つの潮流であったポーランド、しかし、スヴィデルはメシアンに共感を寄せることはあっても、当時吹き荒れた「12音」や「セリエル」といったある種の「トレンド」には断固抵抗の姿勢を示したといいます。確かに、このアルバムの曲たちには、素直にツボを刺激されるロマンティシズムが脈々と流れているように感じられます。
オーケストラをオルガンにリダクションした伴奏で最初の「Jubilate Deo」の演奏が始まった時、その確かにメシアンを思わせるような和声に乗って聞こえてきたポーランド室内合唱団の声は、ちょっとしたとまどいを感じさせられるものでした。パートの人数が少ないのでしょうか生の声が聞こえてしまって、あまり心地よいものではなかったのです。しかも、歌い出しに音程をずり上げるというかなりみっともないクセが、特に女声に見られます。いかにも洗練とはほど遠い合唱団だったのですが、なぜか聴き進んでいくうちにこれがスヴィデルの音楽に妙に馴染んで来るのですから、不思議です。おそらく、これがポーランド流のある種の感性なのでしょう。
そんな声に乗って、スヴィデル・ワールドに踏み行っていくと、彼の作風の幅の広さにも気づかされます。2曲目、ア・カペラで歌われる「Pater noster」などは、おしまいあたりにはまるでペンデレツキの「Stabat mater」を思い起こさせられるようなシュプレッヒ・シュティンメのようなものが聞こえてきますが、背を向けたはずの「現代技法」をさりげなく取り入れるあたりにある種の貪欲さを感じてしまいます。収録曲の大半はラテン語によるモテットなのですが、中にはポーランド語による宗教曲もあります。3曲目が、そんな、ラテン語の「Credo」を意味するポーランド語のタイトルによる曲ですが、これがまるでロシア正教の聖歌のような趣だったのにも、彼の幅広い嗜好がうかがえます。そして、5曲目の「Czego chcesz od nas Panie」というポーランド語のテキストによる曲のキャッチーなこと。殆どポップ・ミュージックと変わらない軽やかなコード進行には、思わずハモりを入れたくなってしまうほどです。女声だけで歌われる「Vocalisa "pax"」も、曲自体の澄んだテイストのお陰で、合唱団の変なクセも殆ど気になりません。
Missa minima」という曲が、なかなか味のあるものでした。ほんの4分半程の短い曲なのですが、その中でミサ通常文のうちの「Kyrie」「Sanctus」「Agnus Dei」が全て歌われているという、名前の通りの「小さなミサ」、これ1曲で長ったらしいミサ曲をコンパクトに味わえます。「Requiem aeternam」も、いわゆる「レクイエム」の最初の曲ですが、分かりやすい形で死者を悼む情感を表現した素晴らしい曲です。
10曲から成る大曲「Te Deum」は、オルガンと打楽器による伴奏(本来はオーケストラ)とソプラノとバリトンのソロが入った分、大味になってしまったという印象が残ります。このアルバムを聴く限り、ア・カペラの合唱にこそスヴィデルの魅力が集約されているような気がするのですが、どうでしょう。

4月13日

MOZART
Betulia Liberata
Jeremy Ovenden(Ozía)
Marijana Mijanovic(Giuditta)
Julia Kleiter(Amital)
Franz-Josef Selig(Achior)
Ireana Bespalovaite(Cabri)
Jennifer Johnston(Carmi)
Christoph Poppen/
Konzertvereinigung Wiener Staatsoper
Münchner Kammerorchester
DG/00440 073 4248(DVD)


「新モーツァルト全集」のカテゴリーによると、「オペラ」に分類されている作品は未完のものを含めても20曲しかありません。しかし、2006年のザルツブルク音楽祭での全「オペラ」上演プロジェクトのタイトルは「M22」、つまり「22曲」のオペラを一挙上演するという内容が込められているものでした。実はこの22曲のうちの2曲は、そもそもの「全集」では「宗教的声楽曲」として分類されているものなのです。しかし、それらは内容的には「オペラ」と見なしても差し支えないと判断され、ここに含まれるようになったのでしょう。
そのうちの一つ、「2部から成る宗教劇」というサブタイトルの付いた「救われたベトゥーリア」は、旧約聖書に描かれた物語をメタスタージョがイタリア語の台本として「脚色」したものです。6人のソロがきちんと役柄を演じながら、レシタティーヴォとアリアを交互に歌い合うというもので、演奏時間は2時間、形の上では間違いなく「オペラ」です。ただ、終曲で合唱が典礼風のナンバーを歌うというあたりが、「宗教劇」としてのアイデンティティなのでしょう。もちろんネイティヴ・アメリカンは出てきません(それは「酋長劇」)。
ストーリーは、アッシリアの軍によって包囲されたユダヤ人の町ベトゥーリアが、そこに住む美しい未亡人ジュディッタの働き(色仕掛けで敵の将軍の首をはねてしまいます。なんと恐ろしい)によって、救われるというもの、もちろんそれを可能にしたエホバの神を賛美することも忘れてはいません。そんな「ドラマティック」なお話ですから、もちろん才能のある演出家の手によって、まさに「オペラ」として上演することも可能だったのでしょう。しかし、今回は敢えてコンサート形式で、この非常に珍しい曲の上演をとりあえず人々に知らしめる、といった考えだったのでしょうか。確かに、陳腐な「読みかえ」で音楽が台無しになってしまうよりは、こうして珍しい曲を淡々と味わえる方が、幸せなことなのかもしれません。
会場はお馴染みフェルゼンライトシューレです。ジャケットにあるのがなんのセットも組まれていない、元々の岩肌のステージです。この演奏会が行われたのが8月の18日だったのですが、その頃はこの会場では例の「ティートの慈悲」が上演されていました。アーノンクールが途中でコケてしまったため、「M22」のDVDには別の年のものが収録されてしまったという、いわく付きのものです。ですから、この演奏会はその「ティート」のセットが組まれているままのステージで行われています。この映像ではステージ全体を収めたアングルというのが殆ど登場しないので良く分からないのですが、「ティート」の映像を見た人ならば、このオーケストラと合唱は巨大な櫓が組まれた真ん中の狭い空間に収まっているということが分かるはずです。
映像ならではの楽しみは、オケの楽器編成です。木管はオーボエとファゴットしかいないのが分かりますが、なぜかフルートがホルンの前に遠慮がちに座っているのが気になります。このフルート、出番は第1部の中の5番のジュディッタの最初のアリアだけ、彼女の気高さを現すような柔らかいオブリガートが印象的です。しかし、第2部にはもはや出番はありませんから、休憩後にはいなくなっています。もちろん、このアリアでオーボエの出番がないことから分かる通り、モーツァルトの時代にはオーボエ奏者が楽器を持ち替えて演奏していたはずです。
ポッペンによって見事に日の目を見た、作曲者が15歳の時のこの堂々たる作品ですが、肝心のジュディッタ役のミヤノヴィッチが、彼女の芸風なのでしょうか、あまりにも役に埋没してしまったために、その音楽的なメッセージが素直には伝わってこない、という重大な欠陥を抱えることになってしまいました。それによってこの曲が嫌いになる人がいなければいいのですが。

4月11日

Christmas Carols
Soile Isokoski(Sop)
Matti Hyo()kki/
YL Male Voice Choir
ONDINE/ODE 1088-2


このレーベルから出ている「YL」、つまりヘルシンキ大学男声合唱団のアルバムはこれで2度目の紹介となります。以前のものの時には半年以上待たされてやっと手に入ったと嘆いていましたが、今回はお花見のシーズンにクリスマスアルバムです。フィンランドはなんと遠い国なのでしょう。
北欧の男声合唱団では、先ほどご紹介したスウェーデンの「オルフェイ・ドレンガー」が何と言っても有名ですが、こちらのYLも歴史と実力においては勝るとも劣らないものを持っています。特に前回のアルバムで印象的だった「ソプラニスト」のパートによる抜けるような音色は、ある意味「男声」を超えた不思議な魅力を放っていたものでした。
「クリスマス」での魅力は、ソプラノ・ソロも交えた、多彩なアレンジの妙と、それを生かし切った素晴らしい録音でしょうか。教会で行われた録音セッションの成果でしょう、オルガンも加わった華やかなサウンドがスピーカーの間を埋め尽くしています。さらに、確かな耳を持つエンジニアによって過剰な残響を取り込むことを注意深く抑えられたために、ここでは豊かな響きは保ちつつもそれぞれのパートがくっきりと浮かび上がってくるクリアな音場が実現しています。特にソプラノ・ソロのふくよかな肌合いは、ごく一般的な再生装置でも十分にその真価が味わえるはずです。
アルバムの大半のトラックは、フィンランドの作曲家による聴いたこともないような曲で占められています。その作曲家もシベリウスとラウタヴァーラ以外は全く聞いたことのない名前です。しかし、ものは「キャロル」ですから、素直に入り込んでくるものばかり、難しいことは考えず、思い切り楽しめることが出来ます。こういう曲にしてはちょっと存在感のありすぎるイソコスキのソプラノ・ソロはちょっと場違いな気がしないではありませんが、録音の良さに免じて許すことにしましょうか。バックの男声合唱は見事なサポートぶりを見せていることですし。
合唱だけで歌われる曲ではトンプソンという人の「アレルヤ」がなかなか聴き応えのあるものです。「アレルヤ」というテキストだけで盛り上がるという曲想、男声ならではの力強く澄んだ響きが圧倒的に迫ってきます。
終わり近くになっていきなりグルーバーの「きよしこの夜」が聞こえてきました。これだったら、誰でも知ってます。なんたって「楽天イーグルス」のマスコットですからね(それは「カラスコの夜」)。聴き慣れたメロディだけについ批判がましい聴き方になってしまいますが、最高音のリードパートに前作ほどの煌めきが感じられなかったのが、ちょっと残念なところです。
一番最後には、「クリスマス組曲」というタイトルで、誰でも知っているクリスマス・チューンが4曲演奏されています。これはユッカ・リンコラという人のかなり凝ったアレンジを楽しめるものです。まず、全ての曲にオブリガートとしてコール・アングレが用いられているというのがユニークなところでしょう。ちょっと地味なこの楽器の音色は、まるで牧童の吹く角笛のような穏やかな雰囲気を醸し出しています。時折擬音を加えたり、「もみの木まなかに」などは複雑な変拍子が用いられるなど、スリリングな瞬間が現れるうちに楽しく曲は進みます。ただ、ここでは、合唱団のメンバーがソロを担当しているのですが、いずれの人もちょっとソリストとしての魅力に乏しいのが気になります。「きよしこの夜」で感じた物足りなさは、こんなところに起因していたのかもしれません。

4月9日

御訛りII
伊藤秀志
CROWN/CRCN-20333

秋田県出身で名古屋在住のシンガー・ソングライター伊藤秀志が2003年にリリースした「御訛り」というアルバムは、強烈なインパクトを持っているものでした。それは、かつてヒットしたフォークソング(あるいは、「ニューミュージック」などとも呼ばれていました)の名曲を、秋田弁でカバーした、というものだったからです。イントロの合いの手に三味線が入るという分かりやすいアレンジで井上陽水の「夢の中に」が、「何(なん)どご探してらんだすか」という完璧な秋田弁のテキストで歌われているのを聴いた時、軽いカルチャーショックを誰しもが感じたことでしょう。

  CRCN-20293
しかし、このアルバムは、嘉門達夫清水ミチコが目指した「お笑い」とは一線を画すものでした。確かに秋田弁(かつて「ズーズー弁」と侮蔑的に呼ばれたことを逆手にとって「ZuZuバージョン」と言っています)によって殆ど意味が分からないほどにデフォルメされてしまった歌詞を聴くことから生じる「笑い」というものを一元的に狙っていたことは否定は出来ないでしょうが、ここにはそれだけにはとどまらない確かな訴えが込められていたことも事実なのです。それは、おそらくこの「ズーズー弁」圏内の言語で生活した経験のある人なら誰しも感じるはずの懐かしさのようなものなのかもしれません。たとえば、「貨物列車」を「貨物の汽車ッコ」(赤ちょうちん)、「造り酒屋」を「酒こしぇる家」(案山子)と言い換えた時に生まれる言いようのない優しさは、おそらく都会育ちの人にはわかりにくいことでしょう。しかし、さだまさしがちょっと気取って書いた歌詞がズーズー弁で歌われた時、私達には驚くほど素直に細やかな情感が伝わってきたのでした。それは、号泣すらも誘うものでした。
そして昨年、「II」が登場しました。ここでも前作のコンセプトは健在ですが、さらにパワーアップした世界が広がっていたのには、喜びを隠せません。それはまず、音楽的な幅広さです。いきなりオープニングで聞こえてきたファンキーなR&Bには、一瞬たじろいでしまうことでしょう。しかし、これは秋田弁が英語に聞こえるというかなり高度なネタでした。確かにスペースシャトルの「Endeavor」は「えんでばぁ」と聞こえます。同じネタはフリオ・イグレシアスの名曲「Nathalie」にも及びます。「ナタリー」を「納豆売り」と読み替えることに始まって、全てのスペイン語の歌詞を秋田弁に置き換えた結果、この歌は「デブの納豆売りがしつこく納豆を買うことを強要する」という内容のものに変わりました。これは大傑作。
ところで、なぜか、秋田弁の歌を聴いていると、韓国語に聞こえる瞬間があります。それに気づいた伊藤が雅夢の「愛はかげろう」をカバーした時、そこには二重の意味でのおかしさが生まれることになります。お気づきの方もいるはずですが、この曲は数年前大ヒットした韓国ドラマ「冬のソナタ」のテーマ曲に酷似しています(正確には、「冬ソナ」のほうが似ているのですが)。特にサビの部分は全く同じメロディ、ですから、これを聴けば秋田弁の彼方にヨンさまの愁いに満ちた横顔が浮かび上がるという、シュールな世界が広がることになるのです。
その様なサービス精神旺盛な、「Special Thanks」として紹介されている同じ名古屋のつボイノリオにも通じるような豪快な笑いの側面と同時に、前作で見せてくれた繊細な暖かさも健在です。伊藤のオリジナル曲、両親への思いを語りも交えて歌ったまるで「母に捧げるバラード」のような趣の「僕はゲロクト」は、武田鉄矢のような押しつけがましさなど全く感じられない心に染みる作品です。もう一つのオリジナル「らいす」も、秋田県出身者ならではの深い思いが伝わってきます。決して際物ではない、「フォーク」の精神の確かな継承が、そこにはあります。
タイトルは美川憲一の「お黙り!」でしょうね。いくらズーズー弁でも「女ばり(意訳:女性がたくさんいていいな〜)」ではないはずです。

4月7日

FABBRICIANI
Graciers in Extinction
Roberto Fabbriciani(hyperbass flute)
COL LEGNO/WWE 1CD 20254


楽器には、同じ構造でありながら大きさが異なることによって音域が変わってくる「仲間」があります。ヴァイオリンを少し大きくするとヴィオラ、もっと大きくするとチェロ、といった具合、大きくなれば当然演奏の方法も変わってきます。
フルートの場合も、そんな「仲間」がたくさんいます。一番小さいものはご存じ「ピッコロ」、これは普通のフルート(C管)の1オクターブ高い音を出す楽器です。低い方になっていくと、G管の「アルト・フルート」、C管の1オクターブ下の「バス・フルート」などが、かろうじてオーケストラでも使われることがあるという「仲間」です。
しかし、最近ではさらに「仲間」の絆を深めて、フルートだけで合奏する時に必要な、もっと低い音の出る楽器も作られるようになってきました。日本の「コタト・フクシマ」というメーカーがこの方面では熱心で、こんなラインナップを作り上げてしまいました。

左端が普通のC管ですが、右に行くにしたがって1オクターブずつ低い音が出る楽器が並んでいます。「バス・フルート」では、管を曲げないことには指が届きません。楽器を支えるのも大変ですから、ちゃんとつっかえ棒が付いています。その右の「コントラバス・フルート」になると、もはや横には構えられませんからこんな形になりました。そして右端が「ダブルコントラバス・フルート」、3オクターブ下の音が出る楽器です。軽く背丈を超える巨大な「フルート」です。
オクターブ下の音を出すためには、管の長さを2倍にしなければなりません。「コントラバス」でさえこんなに大きいというのに、それよりもさらにオクターブ下まで出る楽器「ハイパーバス・フルート」を作ってしまった人がいるのですから、驚きます。それは、現代音楽ではお馴染みのイタリアのフルーティスト、ロベルト・ファブリッチアーニです。

全体の画像がないので正確にどんな形をしているのかは分かりませんが、こうなるともはや「楽器」というよりは「建造物」と言っても差し支えないほどの規模がありそうです。もしかしたら、もはやこの場所から運び出すことすら出来ないのかもしれません。材質は、写真で見る限り水道管に使われる塩ビのパイプのようですね。ファブリッチアーニは「軍手」をはめていますから、「演奏家」というよりは殆ど「大工さん」といったノリなのではないでしょうか。 気になるのは、音程を変えるためのキー・メカニズムが見当たらないということです。もしかしたら、2〜3人がかりであちこちのパイプの開口部を手で押さえてまわるのかもしれませんね。
しかし、ファブリッチアーニ自身による「絶滅に瀕した氷河」という、実際に今でも残っている各地の氷河から触発されて作ったという6つの部分から成る長大な作品を聴くと、そんな「音程」などは些細な問題であることが分かってきます。これは、まさにこの「楽器」のとてつもない低音を体全体で味わうための曲、というよりはある種の音のスケッチのようなものだったのです。テープに録音した音を流しながら演奏するというものですが、そのテープには生音だけが収録されていて、電気(子)的な処理は一切施されていないといいます。そう言われてもとても信じられないような、その多彩な音には、圧倒されっぱなしでした。C管の最低音の4オクターブ下ということは、ピアノの鍵盤の左端よりもさらに低い音が、リードも何もないところに息を吹き込むだけで出てくるのですからね。
そう、まるで嵐のように不気味に鳴り響く風の音や、氷河が砕ける様な「ブワン」という恐ろしげな音、ファブリッチアーニはもっぱらそういうものを聴かせたいためにこれを作ったのではないかと思われるほど、「音程」とか「メロディ」とは全く無縁の楽器が、そこでは鳴り響いていたのです。

4月5日

MOZART
Mitridate, re di Ponto
Richard Croft(Mitridate)
Netta Or(Aspesia)
Miah Persson(Sifare)
Bejun Mehta(Farnace)
Ingela Bohlin(Ismene)
Günter Krämer(Dir)
Marc Minkowski/
Les Musiciens du Louvre - Grenoble
DECCA/00440 074 3168(DVD)


「ポントの王ミトリダーテ」は、モーツァルトが14歳の時に初めて作った「オペラ・セリア」です。お話は、ちょっとした寸劇を書かせたら右に出るものはいないという放送作家の物語(それは「コントの王」)ではなく、王である父親の婚約者と恋仲になった王子の苦悩の物語です。この頃に行われた第1回のイタリア旅行の、これは最大の成果と言えるものでしょう。ここには、モーツァルトがその地で学んだ「イタリアオペラ」の神髄が宿っています。それは、例えばヘンデルあたりのオペラと同じ様式、「伝統的」で「保守的」な、もっと言えば「過去」のスタイルです。ということは、技巧の粋を尽くしたダ・カーポ・アリアのてんこ盛り、最後にはとどめのカデンツァが付くというもの、聴き慣れたモーツァルトのオペラとはちょっと異なるスタイルです。そうなってくると、これはとりもなおさず今では「バロック・オペラ」と総称されているものを取り巻くある種のムーヴメントと同じものが、この作品を上演するにあたっても適用することが出来るはず、確かに、かつては冗長で退屈なものとされていたこの種のオペラを見事に現代に蘇らせたそんな動き、それがこのザルツブルクとブレーメンとの共同プロダクションでも綿々と脈打っていることが分かります。
それを演出サイドで成し遂げた功績は、ギュンター・クレーマーのユニークなステージ・プランでしょう。場面転換は全く行われず、固定された装置の中で物語が進行していくのですが、それは、ステージの上に45度の傾斜で設置された鏡で装置の裏側を反射させるというアイディアによって、不思議な空間を生み出しました。ジャケットに見えるのがそんなシーン。序曲の間にスロープがついているセットの背面を、モーツァルトの時代の扮装をした13人のアンサンブルが滑り降りていくところが、その「鏡」に映るとこのように見えるという見本です。このアンサンブルはシーンによって様々に衣装を変え、マスゲームのような動きをしますから、それを「上」から見た映像が観客には見えることになります。それは、あたかも「パラダン」で見せつけられたデジタル処理の映像を、手軽にアナログの道具で作り出したようなものなのでしょう。
そして、音楽的な功績は、もちろんミンコフスキによるものです。彼は幾分締まりのないこの作品を、ナンバーをカットしたり入れ替えたりすることによって見事に引き締まったものに変えてしまいました。それでも多少かったるい部分は残りますが、そんなものはこの作品をあくまで「バロック・オペラ」ととらえた彼の指揮とキャストの歌が生み出す生き生きとしたグルーヴの前では、殆ど気にならない程のものになってしまっています。中でも、本来カストラートによって歌われるシーファレとファルナーチェのナンバーは、声のブリリアンシーとオーケストラのブリリアンシーが見事にかみ合った、スリリングなまでの快感を生むものに仕上がっています。このロールを歌っているのがメゾのパーション(「ペルソン」という表記もあります)とカウンターテナーのメータなのですが、それぞれに持ち味を見せてくれていて楽しめます。声自体は甲乙付けがたいものがありますが、外見的にはやはりパーションの勝ち、カウンターテナーにはなぜ○ゲが多いのでしょう。
そんな中で、心ならずもアスパージアとの別れを告げるシーファレ(パーション)の歌う13番のアリア「Lungi da te, mio bene」は、「伝統」の殻を破った、モーツァルトにしか書けない甘美な世界を見せています。このアリアを通して、子供から大人に変わろうとしているモーツァルトの姿までをも、この演奏から感じ取ることは出来ないでしょうか。

4月3日

Hommage à Poulenc
Abbie de Quant(Fl)
Elizabeth van Malde(Pf)
FINELINE/FL 72410


オランダのCHALLENGEのサブレーベル、FINELINEからりリースされた、オランダのフルーティスト、アビー・デ・クワントのソロアルバムです。この写真でもお分かりのように決して若くはない、経歴を見ると恐らく「還暦」前後の年齢ですが、長年のキャリアに裏付けされた渋いアルバムが出来上がりました。
「プーランクへのオマージュ」というタイトル通り、ここでは、プーランクのフルートソナタを愛してやまない演奏家が、プーランクの先駆けとなった作曲家と、プーランクに何らかの形でリスペクトを捧げている作曲家の作品が集められています。あんこも入っておいしそう(それは「お饅頭」)。
「プーランク以前」として、タファネルの「アンダンテ・パストラルとスケルツェッティーノ」と、ケックランの「ソナタ」が、ことさらに技巧を誇示しない端正な語り口で演奏されています。それは、ある意味落ち着きを持った音楽として聴くことを求められているような、穏やかなもの、老境にさしかかった演奏家の熟達の境地なのでしょうか。
そして、メインとも言えるプーランクの「ソナタ」です。特にフィナーレなど、メカニカルな面での傷がなくはないものの、曲の隅々にまで配慮が行き届いていることは十分に受け止めることは出来る味わいのある演奏なのではないでしょうか。
「プーランク以後」、あるいはプーランクと同時代の作品としては、デュティーユの「ソナチネ」やオネゲルの「牝山羊の踊り」、そして「6人組」のメンバーである女流作曲家タイユフェールの「フォルラーヌ」が、やはり同じような端正なフォルムで演奏されています。とかく技術のひけらかしに終わりがちなデュティーユでも、情感を優先させた豊かな音楽は魅力的に響きます。タイユフェールでの細やかな表現も、心を惹き付けられるものがあります。
このアルバムの、恐らく目玉とも言えるものが、オランダの作曲家の作品3曲でしょう。そのうち、デ・クワント自信が曲の成立に関わっていたものが2曲含まれています。1962年生まれのバート・ヴィスマンという人の「メロディー」という静かな曲では、ちょっと非ヨーロッパ的なその旋律が魅力的です。特に「現代的」な奏法が求められているものではありませんが、デ・クワントは音色をガラリと変えて、不思議な世界を創り出しています。
もう1曲、デ・クワントの求めに応じて作られたものは、1961年生まれのヤン・ブスという人の「Cherchez l'Orange」です。タイトルは「オレンジを探せ」でしょうか。作曲者によると、この「オレンジ」というのは「完璧なフォルム」の比喩なのだそうです。プーランクのソナタからの引用などが垣間見られる、興味深い作品です。
最後に収録されているのが、ユダヤ人であるために第二次世界大戦でナチによって命を奪われた1919年生まれの作曲家ディック・カッテンブルクが17歳の時に作った「ソナタ」です。3つの楽章から成るオーソドックスな書法による聴きやすい作品、中でも真ん中の楽章のラテン的なテイストが、とっても「粋」に聞こえます。
この3曲の、恐らく「初録音」が、一見なんの変哲のないアルバムに、確かなアクセントを与えてくれています。

4月2日

MOZART
Idomeneo
Ramón Vargas(Idomeneo)
Magdarena Kozená(Idamante)
Ekterina Siurina(Ilia)
Anja Harteros(Elettra)
Arbace(Jeffrey Francis)
Ursel and Karl-Ernst Herrmann(Dir)
Roger Norrington/
Salzburger Bachchor
Camerata Salzburg
DECCA/00440 074 3169(DVD)


今でこそ最後の作品「ティートの慈悲」が異常とも言える脚光を浴びていますが、少し前まではこのモーツァルトが25歳の時の作品「クレタの王イドメネオ」が彼の「オペラ・セリア」の中では最も良く聴かれているものだったのではないでしょうか。BSなどで幾度となく放映されたパヴァロッティ、ベーレンスなどの豪華キャストを擁する1982年のMETにおけるポネルのプロダクションは、この作品の魅力を広く知らしめたものだったはずです。「オペラ・セリア」とは言っても、いたずらに技巧的なパッセージをひけらかすという場面は殆どなく、「ダ・ポンテ・オペラ」にも通じるようなモーツァルトの姿が垣間見られることを、それを見た時に知ったのです。
今回のヘルマン夫妻のプロダクションは、「コジ」で見られたシュールな空間が、左右方向ではなく前後方向に広がっているというものでした。新装なったモーツァルト・ハウスのオーケストラ・ピットは周りがかなり広いスペースで囲まれていて、それ自体がステージとして機能しています。そして、薄いカーテン(紙製?)で隔たれて本来のステージが奥深く広がっており、「コジ」同様、その先はカット・オフになっています。本来登場しないはずのネットゥーノ(ネプチューン=海神)を、役者が演じているあたりがユニークなところでしょうか。
ピットの床はかなり下げられているため、オーケストラの姿は映像では全く見えません。わずかに指揮者のノリントンの頭がピッとのぞいている程度、したがって、観客の目は全てステージに集中できるという「バイロイト効果」が現れています。そんな「見えない」オケは、逆にとても豊かな音楽を提供してくれることになりました。それは、モダン楽器によるピリオド・アプローチという最近のノリントンの方法論は、モーツァルトに於いてこそ十全に花開くものだということをまざまざと見せつけてくれるものでした。彼は、ロマンティックな手垢の付いたモーツァルトを一旦「素」に戻したあとで、その中から自然にわき出てくる美しいものを掬い出そうとしているかに見えます。それは何とも穏やかな、心に染みる音楽でした。この同じ会場でほんの1月前に行われた「フィガロ」で、ノリントンとよく似たアプローチをとっているとされる指揮者が見せたものとは、それは雲泥の差の魅力あふれるものでした。
そんな魅力が如実に伝わってきたのが、このオペラの中で最も有名なイドメネオのアリア「Fuor del mar」です。この役のヴァルガス、その、まるで西田敏行のような鈍くさい風貌と相まって、最初のうちはいかにも「イモ」という歌い方に感じられました。しかし、それは実はノリントンの音楽と見事にマッチしたものであったことが、このアリアが始まるやいなや分かったのです。イントロでのオケは、良く聴かれるような鋭角的な激しいものではなく、もっと滑らかで暖かい響きを持っていました。それにヴァルガスは見事に応えて、とても柔らかな音楽を作り上げてくれました。そして同時に、この曲のドラマティックな側面をダ・カーポの見事な装飾で完璧に表現するという、奇跡的なことも行ってくれたのです。
他のキャストも粒ぞろいです。コジェナーの凛々しさいっぱいのイダマンテや、初めて見たロシアのソプラノ、シウリナの可憐なイリアも素敵でしたが、中でもエレットラ役のハルテロスの存在感の大きさといったら。大詰めで歌われるやけっぱちのアリア「D'Oreste, d'Aiace」ではあまりに拍手が続くので、演出上の破綻が見られた程です。
さらに、合唱がとても素晴らしかったのが、嬉しいところです。「ザルツブルク・バッハ合唱団」という、恐らく普段はオペラに出たりはしない団体なのでしょう、最初のうちはオケとずれているところも見られましたが、その澄んだ声は普通のオペラハウスの合唱団からはまず聴くことの出来ないものでした。走り回りながら歌うというかなり無茶な演出もあるのですが、そこでアンサンブルが乱れることは決してありません。その上、「芝居」がとてもうまいのですから驚いてしまいます。
ピットの後(つまり観客側)で歌手が歌っている時に振り向いて指揮をしているノリントンの穏やかな表情がとても印象的でした。これが、これほど幸せになれる音楽を生み出したのですね。

3月30日

MOZART
Il Sogno di Scipione
Blagoj Nacoski(Scipione)
Louise Fribo(La Constanza)
Bernarda Bobro(La Fortuna)
Iain Paton(Publio)
Robert Sellier(Emilio)
Anna Kovalko(Soprano soli nella licenza)
Robin Ticciati/
Chor des Stadttheaters Klagenfurt
Kärntner Sinfonieorchester
DG/00440 073 4249(DVD)


「シピオーネの夢」は、そもそもCDですら2、3種類しか出ていないというレアなもの、それが映像で見られるというだけでも、このDVDは価値を持っています。それにしても、このクレジットに現れている名前のレアなこと、私が知っているものは一つとしてありませんでした。そもそもこれは「M22」とは言っても「クラーゲンフルト歌劇場」との共同制作なのですが、その「クラーゲンフルト」からして分かりません。健康食品でしょうか(それは「コラーゲン」)。調べてみるとこれはオーストリア南部、殆どスロヴェニアとの国境近くの町でした。そして、指揮者のロビン・ティツィアーティ。これも全く初めて聞く名前ですが、それもそのはず、1983年生まれといいますから、まだ20代の若者なのだそうです。
この作品、物語の基本は英雄シピオーネが富の女神フォルトゥーナと貞節の女神コンスタンツァのどちらを選ぶかを迫られるという、男にとっては大変おいしいお話です。そんな贅沢な悩みなど到底自分だけでは解決出来ずに、天上の祖先にアドヴァイスを求めるというのが、サブプロットになっています。元々は上役(というか、雇い主)のごますりのために作られた音楽劇、主人公のシピオーネをその上役に見立てておおいに盛り立てようというコンセプトで制作されたものです。もちろん、現代ではそんなものはなんの意味も持ちませんから、様々な読みかえを行って一つのドラマに仕立てるというのがお約束です。
そこで、このプロダクションが用意したのが、まるでアメリカのテレビドラマのような設定でした。2人の女神は、それぞれシピオーネの奥さん(すでに子供が2人!)と、愛人というもの、当然のことながら奥さん役は「貞節の女神」です。物語の中心はこの2人がシピオーネにアピールする姿となり、それが究極のリアリティをもって描かれています。つまり、直接的な「愛」の形、ベッドシーンが頻繁に登場して観客を喜ばせてくれるのです。9番の奥さんコンスタンツァのアリアなどは、その直前にダンナが愛人フォルトゥーナといちゃいちゃしている現場を見てしまった反動でしょうか、とことん積極的。シピオーネをベッドに押し倒して、ズボンのファスナーを開け、騎乗位でまたがりながら歌い出しましたよ。そのコロラトゥーラが激しいよがり声に聞こえてしまうのは当然のことでしょう。これは痛快。
エピローグでは、ちょっとしたどんでん返しが仕込まれています。本来はここでおべんちゃらの種明かしをして上役の徳をたたえるというアリアを歌うソプラノが、実は今までベビーシッターとして登場していた目立たない女性だったのです。ソリス家のメイドだったシャオ・メイが、代理出産することになってガブリエルと立場が逆転したようなものでしょうか(「デスパレートな妻たち」というドラマがネタです。見てない人、すみません)。さらに、次のコーラスが現れると、彼らはこちら向きに観客席に座っているというセット、この話全体が劇中劇だった、というオチになっているのです。確かに、これはハリウッドあたりでも使えそうな手の込んだプロットです。もちろん、いくら策を弄そうがそこからはなんの感銘も与えられないのは、テレビドラマと全く共通した薄っぺらさのせいでしょう。
歌手の中では、女神を演じたフリボとボブロが出色の出来でした。その安定したコロラトゥーラも見事ですが、それこそテレビドラマに出演してもおかしくない程の美貌は特筆ものです。ブロンドのフリボの下着姿と腰の使い方は、今でも目に焼き付いています。これで隠れ女神のコヴァルコの声にもっと張りがあれば、終幕での効果は抜群だったでしょうに。
それに比べると、男声陣は思わず笑いがこぼれてしまうようなお粗末さでした。車椅子で登場、最後はとうとう棺に入ってしまうという設定のプブリオなどは、そんな瀕死の役柄が歌に出てしまっているのですから、笑うに笑えません。
レベル的にかなり怪しいところのあるオーケストラをきっちりまとめていたティツィアーティくんは、これからも期待できそうです。

3月28日

FAURÉ
Requiem
Ana Quintans(Sop)
Peter Harvey(Bar)
Michel Corboz/
Ensemble Vocal de Lausanne
Sinfonia Varsovia
MIRARE/MIR 028


2005年に来日した時に東京のオペラシティで録音されたCD(AVEX)の記憶もまだ消えていないというのに、またまたコルボがフォーレの「レクイエム」を新しく録音してくれました。合唱は前回と同じローザンヌ・ヴォーカル・アンサンブルですが、オーケストラがシンフォニア・ヴァルソヴィアに変わっています。実はこのメンバーは今年の「熱狂の日」、そう、あの屋台も出てお祭り騒ぎとなる音楽祭(そんなのやだい、と顔をしかめるへそ曲がりは、もう居ません)に出演するために5月に来日するそうですが、その顔見せの意味合いも、このCDにはあるのでしょうね。もう剥がしてしまいましたが、ジャケットには「ラ・フォル・ジュルネ」のロゴシールがしっかり貼ってありました。初めて見るこの「MIRARE」というレーベルも、本拠地はフランスのナントですからこの音楽祭に何らかの関係があるのかもしれませんね。
AVEX盤は「レクイエム」1曲だけという超経済的な(もちろんこれは皮肉です)コンテンツでしたが、こちらには「熱狂」でのレパートリーでもある、メサジェとの共作の「ヴィレルヴィルの漁師たちのためのミサ曲」と、モテットが3曲カップリングされていますから、「商品」としては「良心的」と言えるのかもしれません。しかし、たった1年後に(正確なデータは表示されていませんが、おそらく2006年の録音)同じ曲を録音するという神経には、ちょっとムカつきます。
というのも、東京ライブではちょっと詰めが甘いのではないか、と感じた部分が、ここではもっと練られたものに仕上がっているように思えたからなのです。それは「Libera me」での7分48秒という異常とも言える東京盤のテンポ設定です。それは遅いテンポで表現するという必然性の乏しい、単に情緒が上滑りしてコントロールがきかなかったという、はっきり言ってライブでの「事故」としか思えないようなものだったのです。しかし、今回の録音では6分21秒とかなり引き締まったものとなって、その「遅さ」が、実はしっかりとした意志に基づいたものであることがはっきり伝わってくる演奏に、確実にバージョン・アップしていました。後半、シフトダウンしてじっくり迫ってくる合唱、好き嫌いはともかく、これでしたらコルボが描いた設計図が見事に再現されている事が感じられます。東京ではまだリハーサルの段階だったものを、収録時間は少ないは、値段は高いわというちょっとした「欠陥商品」として買わされてしまった「消費者」の立場は、微妙です。
それとは逆に、オーケストラが変わった事によってちょっとした不満が生まれる部分もあります。シンフォニア・ヴァルソヴィアは、東京でのローザンヌのアンサンブルと比べると、かなり自発的な音楽を仕掛けてくれています。それはそれで魅力的なのですが、この曲の中で最も美しい部分であるはずの「Agnus Dei」から「Lux aeterna」に移る部分のエンハーモニック転調で、合唱の和声が変わる前にハープが盛大なアルペジオで、先の和音を聴かせてしまっているのです。ここでのハープのパートは、最近コルボが使うようになった「ネクトゥー・ドラージュ版」にしか入っていませんが、指定はアルペジオではなくアコード、もっと慎み深く弾いて合唱を立てて欲しかったところです。
その版の問題ですが、確かにオケのパートはきちんと演奏しているのに合唱パートが今までの第3稿のものをそのまま使っているというのも、不思議なところです。今回はただ「version 1893」と表記されているだけ、東京盤も「第2稿に『準拠』」という言い方でしたから、単に「参考にした」という程度のノリだったのでしょうか。そういういい加減さが、演奏に反映されていなければいいのですが。

おとといのおやぢに会える、か。


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