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栄養の障害。.... 渋谷塔一

(03/5/16-03/6/4)


6月4日

French Choral Music
Ed Spanjaard/
Netherlands Chamber Choir
GLOBE/GLO 5215
オランダ室内合唱団の新しいアルバムです。かつてご紹介したエリクソン指揮の同じ団体のプーランクの世俗作品集ではあまり良い印象がなかったのですが、基本的にこの合唱団は高い能力を持っていますから、指揮者によってはまた異なった印象が与えられることでしょう。今回の指揮者は、オペラの分野で長年あまり目立たない活躍をしていたものが、例のボンファデッリの「椿姫」の指揮者として一躍注目を浴びることになった、オランダの指揮者、エド・スパンヤールです。きっと、ピカピカの衣装が似合う人なのでしょう(それはスパンコール)。おそらく、彼の合唱のアルバムで入手できるもの(今までなかったわけではありませんが)としては初めてのものですが、なかなかの仕上がりになっています。
曲目は、タイトル通り、全てフランスの作曲家による無伴奏の曲ばかりです。最初に収録されているのが、この手のアルバムの定番、ドビュッシーとラヴェルの「3つの歌」です。その後に続くのが、ちょっとなじみの無い曲ばかりですから、これは、フランスものをこのオランダの演奏家たちが演奏した場合の基本的なスタンスを知るには絶好の選曲となっています。それは、いたずらに情緒に流されることのない、堅固な主張を持った音楽として、私たちには感じられることでしょう。やや説明的すぎるほどの、丁寧なフレーズの積み重ねが、ありがちなファッショナブルな演奏とは一線を画したものになっています。
あとの曲は、ジョリヴェ、フランセ、メシアン、フローレンツといった、合唱に関してはあまりなじみのない作曲家の作品です(メシアンは、それでも他のCDもいくつか出ています)。特に、フランセとフローレンツは世界初録音ということで、興味がそそられます。フランセの「ポール・ヴァレリーの3つの詩」は、いかにもフランセらしい洒落た曲です。1曲目の小粋な和声、2曲目のセンティメンタルの極みといった感じの甘い情感、そして3曲目の軽やかなリズムと、非常に魅力的な作品、なぜこれまで録音されなかったのか、不思議なくらいです。そして、最初の録音が、まさにこの曲の魅力を余すところ無く伝えているであろうこの演奏だったということは、この曲にとって幸運なことであるに違いありません。
最後に収録されている、これも世界初録音になる「アスマラー」という曲を作ったジャン・ルイ・フローレンツという作曲家は、私はここで初めて知りました。1947年生まれの現役の作曲家ですが、技法的には非西洋に由来する要素を積極的に取り入れて、なかなか弾けた世界を見せてくれています。イスラム世界のお経のようなフラグメントが、ある瞬間にはメシアン風の和声に彩られるといったあたりが、この作曲家のフランス人としてのアイデンティティなのでしょうか。そのメシアンの「O sacrum convivium」の演奏に見られる、色彩的というよりはどこか力強いハーモニーの扱い方からは、このアルバムに一貫して流れているある種の力を感じないわけにはいきません。

6月1日

MAHLER
Das Lied von der Erde
平松英子(Sop)
野平一郎(Pf)
MUSICSCAPE/MSCD-0012
マーラーの“大地の歌”といえば、普通の交響曲とは全く意味合いが違うものというのは、御存知の方も多いでしょう。6つの楽章をまるで連作歌曲のように歌い繋ぐ形をとり、通常は大オーケストラをバックに、テノールとアルトが1曲づつ交代で歌っていくのが通例でしょう。(この曲があったからこそ、ツェムリンスキーの叙情交響曲も生まれたのです)まあ、時として、その組み合わせがバリトンとテノールになったり、ごく稀に、テノールとアルトがピアノ伴奏で歌ったり・・・。そのくらいの変化はありますが、やはり通常の概念を著しく逸脱することはありません。何より聴き手の方に、ある程度曲のイメージが出来ていまして、第1楽章「大地の哀愁を歌う酒の歌」では、しなやかなテノールによって「生も暗い、死もまた暗い」と歌われることが暗黙の了解になってます。
そんな中でリリースされた、この平松英子さんの“大地の歌”は一種独特な魅力を放っています。全編ソプラノ(!)で歌われる6つの楽章は、いつも聴きなれたあの悲痛な中にも甘美な毒を秘めた作品とは全く違った佇まい、どの曲も柔らかな響きに満ちていて、まるで聴き手を見えない糸で絡めとるかのようです。ピアノ伴奏のせいか、決して声を無理して荒立たせることなく、柔軟なピアニッシモを駆使して、ひたすらデリケートな内面の宇宙を描き出します。そして、野平さんの伴奏の絶妙なこと。ピアノ1台で、大オーケストラに匹敵する響きを生み出すのには驚嘆するほかありません。それはとりもなおさず、マーラーの管弦楽法がいかに不必要な響きを用いなかったか、その証明でもあるのでしょう。このCDがリリースされたのと相前後して、東京で演奏会も開催されたとの事、こちらの模様は各新聞紙上で大絶賛を浴びていましたっけ。
確かに、完成された形のこの曲を敢えて壊してみるためには、いろいろな思いが交錯していたに違いないと思うのです。作品に対する深い愛情(どうしてもこの曲が歌いたい)、ソプラノで歌いきることに拠って生じる不自然さの解消、(これは、野平さんの絶妙なピアノが良い回答を出してます)これらが混然一体となって、出てきたものでしょうが、やはり冒険であることには違いありません。しかし、そんなことを全て超えて出来上がったものの完成度の高さ!これはやはり、聴き手に幸福を与えるものなのですね。
“大地の歌”はアルト、テノールそしてオーケストラでないといけないものであるという考えは、捨ててしまった方がよいのかもしれません。

5月30日

XENAKIS
Nomos Gamma etc.
Various Artists
EDITION RZ/1015-16
Robert Zankというオーナーの名前の頭文字をそのまま使ったこのレーベルは、現代音楽のレアな音源を集めてリリースするという、例えば普通のレパートリーにおけるTESTAMENTの様な仕事で、もはや入手不可能なアイテムを血眼になって探しているコアなファンを喜ばせています。今回のクセナキスの2枚組は、1年以上前から「出るぞ、出るぞ」という噂がマニアの間で流れていたものですが、どのような事情からか発売が遅れに遅れ、やっと現物が入手できたものです。このCDに収録されているものの大半は、かつてERATOからLPが出ていたもの、クセナキスの基本的なカタログとして、ファンの全てが所有していなければならないといういわば必須アイテムであったわけですが、なぜかERATOからCD化されるということはついにありませんでした。
クセナキスといえば、作曲家であると同時に、数学者、建築家(ル・コルビュジュの弟子)としても知られています。ここで聴かれる1960年代の作品には、そのような彼の資質を総合した、きわめて壮大なプロジェクトの成果を見ることが出来るでしょう。たとえば、「モントリオールのポリトープ」は、1967年にカナダのモントリオールで開催された万国博覧会での、「フランス館」のために作られた曲です。というか、実はこのパヴィリオンの設計もクセナキスが行ったのですが、その設計プランをそのまま音にしたというのが、この曲。建築物と音楽との間にどのような関連性があるのかは、殆ど認識することは困難でしょうが、ごくおおざっぱに言ってしまえば、天井のカーブを作っている関数を音の選択に利用したとか、そのようなことなのでしょう。実際には、このフランス館の中で、4カ所に配置されたオーケストラによる演奏と、それにシンクロした照明によって、作品が完成するという途方もないものだったのです。
「ノモス・ガンマ」という曲も、「聴衆の中に散らばった」オーケストラのためにつくられています。お客さんは、じっと座っているのではなく、自由に会場内を歩き回ることも出来ます。従って、このライブ録音のような2チャンネルのステレオでは、本当は作曲家の意図は完全には伝わらないのでしょう。かつて東京でクセナキスの講演があったとき、この曲の録音(もちろん、これと同じもの)を流してそんなことを説明していた作曲家に対して、「どんなマイクアレンジで録音したのですか?」と質問していたさるジャズピアニストの疑問に応えるためには、自分でリスニングポイントを操作できるサラウンド・システムの開発を待たなければならないことになります。そんな、音場的には不完全なものでも、これが唯一のCD、足らないところは想像で補って、この未曾有の規模を持つ作品を堪能することにしましょう。
ところで、このジャケットですが、なんだか訳の分からない、鳥の足跡のようなものが描かれていますね。これは、きちんと意味のあるものなのです。5段に渡ってバラバラになっているものを、重ねてみてください。ね、ある文字が現れてくるでしょう?ただ、某CD店では、このジャケットが逆さまになって展示されていたと言います。それでは、いくら考えても謎を解くことなぞ、出来なかったことでしょう。

5月28日

BEETHOVEN
Symphony No.5&6
Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart
HÄNSSLER/CD 93.086
先日「第9」で絶賛を博した(このページでだけですが)、ノリントンのベートーヴェンは、とうとう全集として、全9曲がリリースされてしまいました。この快進撃は、もはや後戻りは出来ないものです(ノーリターン)。演奏しているシュトゥットガルト放送交響楽団は、今やノリントンの手足となって、彼の意図する音楽をごく自然に表現することが可能となってきています。この全集は、真に斬新な心を持ったノリントンのベートーヴェン像を伝えるものとして、末永く愛聴されていくことでしょう。とりあえず番号順に分売の形ですので、「1番+2番」みたいなマイナーな組み合わせも出てきてどうかと思うのですが、これは「運命」、「田園」という超名曲同士のカップリング、おそらく、最も良く売れることでしょう。
ノリントンの「運命」は、もはや幾多の巨匠が示してくれていたしかつめらしいイメージとは全くかけ離れた仕上がりになっています。どんな指揮者でも渾身の思いを込めて伸ばしきるドミナントの「運命の主題」のフェルマータで、オリジナル楽器の「クセ」である「中膨らみ」が出てきたときには、まるでノリントンに「これでいいのさ。ベートーヴェンでそんなに張り切ることはないんだよ」と言われたみたいで、心の中で喝采を送りたくなったほどです。そして、誰もが気づくのが、この「運命の主題」のリズム感の良さ。もちろん、かなり速めのテンポの中でこのリズムが気持ちよく決まっていくと、曲全体がまるでマーチのように軽やかに進んでいく感じ、言いようのない爽快感に見舞われます。これは第2楽章でも第3楽章でも同じこと。軽やかなリズムに乗って、第2楽章はまるで踊り出したくなるほど、テーマが変奏されて、だんだん難しくなっていくと、このテンポではかなり演奏が大変なはずですが、そんなことを感じさせない低弦も見事です。そして、第3楽章のトリオのスリリングなことといったら。終楽章では金管とティンパニの盛り上がりが華々しさを加えますが、あくまで軽快に曲は終わります。
これに対して「田園」は、殆ど交響曲とは名ばかりのこの曲の性格を前面に押し出した、とことん描写的な音楽に終始しています。素朴な木管の音色も、自然の生き物にふさわしい役割を演じているかのよう、フレーズの端々に、生命の息吹を感じることが出来るでしょう。第2楽章でたびたび現れるトリルも、全て上から始める形を取っているため、より濃厚な表現が伝わってきます。圧巻は第4楽章の嵐の描写。まるでハリウッド映画のような迫力あふれるティンパニの連打からは、ある種恐怖の念すらもわき起こってこようというものです。そして迎える第5楽章は、それこそハリウッドの映画音楽のクライマックスさながら、今までの楽章は全てこの盛り上がりを作るための伏線だったと言わんばかりの大迫力で迫ってきます。そう、ノリントンは、ここでは「運命」とは全く質の違う高揚感を作り上げていたのです。

5月26日

Viktor Ullmann
Symphonien ua.
Juliane Banse(Sop)
James Conlon/
Gürzenich Orchester Kölner Philharmoniker
CAPRICCIO/67 017
今回も頽廃音楽を。
このヴィクトル・ウルマンは、頽廃音楽と位置づけられている作曲家の中でも比較的知名度の高い人といえます。それは、私の敬愛する指揮者ゲルト・アルブレヒトが一昨年の読響の定期で「交響曲第2番」の日本初演を行った時に、各方面で大きな話題になったことからも、窺い知ることができるでしょう。前回書いたように、このカテゴリーを「頽廃音楽」として一括りにするには本来無理があります。したがって、各々の作風の違いを理解するには、実際の作品に一つ一つあたっていくほか方法がありません。(そして迷い込んで出られなくなるのですが)今アルバムの指揮者ジェームズ・コンロンも、以前から「ツェムリンスキーのオーソリティ」として知られる人。このウルマンの作品、実はギュルツェニヒ管の2002年シーズン最初の演奏会に客演で登場したコンロンが、ドヴォルザークの序曲「謝肉祭」と交響曲第7番の間に、この「交響曲第2番」を挟んで演奏し、聴衆を驚かせたというエピソードもあります。やっぱり頽廃好きなのですね。
このウルマンという人は、敢えて言うなら「後期ロマン派の正当な後継者」。聴こえてくる音は、ベートーヴェン、ブラームス、そしてマーラーの色彩を色濃く受け継いでます。1942年にテレジエンシュタットに強制収容され、その2年後アウシュヴィッツで非業の死を遂げた彼。もしその活動が断ち切られることがなかったら、どのような作風の変遷を辿ることになったのでしょう。
このアルバムに収録されている「交響曲第1番“私の若き日”」と「交響曲第2番」ですが、こちらはもともとピアノ・ソナタとして作曲された作品でそれを収容所でウルマン自身が簡単なオーケストラスケッチを施し、最終的にはB・ヴルフが再構築したものです。本来オーストリア生まれの生粋のオーストリア人ウルマンですが、チェコに移住し、そこでジャーナリストとしての活動を重ねるに連れて、チェコの愛国精神に惹かれるものがあったのでしょう。この交響曲第2番の終楽章、高らかに聴こえてくるコラールは、スメタナの「わが祖国」からの引用。まあ、あまりにもチェコに傾倒しすぎて、頽廃音楽作曲家の烙印を押されてしまうことになったのが彼の一番の悲劇かも知れません。他にも「トリスタン」の引用があったり、「B-A-C-H」の音形が隠されていたりとても興味深いことが多い作品です。交響曲第1番の全体の印象として一番近いのはマーラーの後期の交響曲でしょうか。特に第7番との共通性が感じられます。全体を通してグロテスクな夜の歌が終始するなか、奇妙な3拍子の中に一瞬だけ聴こえてくる「かわいいオーガスティン」のお馴染みの旋律。(マーラーの意識の底にもあったといわれる曲ですね)「私の若き日」という副題は、もしかしたらマーラーへのオマージュなのではないでしょうか。作品の背後に隠されているものを探るのも楽しい作業ですが、ただただ音だけを聴くのでも、充分楽しめます。
そして、一緒に収録されている歌曲のソロはあのユリアーネ・バンゼです。まさに私好みの万全の1枚でした。

5月23日

LIGETI,BERIO
Music for Wind Quintet
Fay Lovsky(Nar)
Fodor Kwintet
ATTACCA/BABEL 9055-2
リゲティとベリオの有名な木管五重奏の作品が収められたアルバムです。木管五重奏(彼らは「木五」などと言っています)のレパートリーとして、最近ではアマチュアによって演奏されることもある「6つのバガテル」(丸出だめ夫のお父さんではありません・・・それは「ハゲテル」)は、リゲティのハンガリー時代、1953年の作品です。これは、それまでに完成していた、11曲からなるピアノのための曲集「ムジカ・リチェルカータ」から、6曲を選んで木五のために編曲したものです。第1曲目あたりは、さらにその前に作られた「2台のピアノのためのソナチネ」の転用、ですから、この活発な曲は、言ってみればこの時代のリゲティの名刺のようなものなのでしょう。機会があれば、このオリジナルのピアノ曲を聴いてみることをおすすめします。このCDのオランダの演奏家、名前も聞いたことのない(読むことすら出来ません)人たちですが、その演奏は今までこの曲で聴かれたものとはまるで次元の違う、素晴らしいものでした。まるで精密機械のような超人的なアンサンブルで、とても5人の人間が吹いているとは思えない一体化した表現付けを、瞬時にやってのけているのです。そこから発散される音楽は、とても緊張感あふれる生々しいもの、全てのパートの全ての音に、生命が宿っています。特に、フルートの、主張が込められた、しかしアンサンブルを知り尽くした演奏は、このグループの核として、光を放っています。もう一つのリゲティの作品、西ヨーロッパでブレイクした頃の「10の小品」も、精緻な表現から、確かなリアリティを感じることが出来ます。
ところで、このジャケ写を見ると、木五と言ってもメンバーが6人写っていますね。真ん中にいるサングラスの女性が、ちょっと他の人とは雰囲気が違うのが気になってしまいます。このいかにも巨乳そうな方は、フェイ・ロヴスキーという、オランダのシンガー・ソングライター、ここでは、なんとベリオの「Opus No. Zoo」でナレーションを担当しています。この曲、タイトルは「作品200」ではなく動物園(Zoo)、これが日本で初演されたときに、谷川俊太郎が「作品番号獣」(もちろん「獣」は「十」のもじりですね)と訳したのが、最近は定訳となっています。200がなぜ10になったのかという疑問はさておいて、これはなかなかの名訳ではないでしょうか。本来は、馬や猫が登場するちょっとシニカルな英語の詩を、それぞれのプレーヤーが朗読しながら演奏するという、かなりスリリングなものなのですが、ここでは専門のナレーターとしてロヴスキーを起用したというのが、ユニークな所です。確かに、ミュージシャンで朗読の上手な人はあまりいませんから(もしかしたら、ベリオはその効果も狙ったのかも知れませんが)これは大正解、一本調子ではない、存在感のあるナレーションが楽しめます。もちろん、木五のメンバーがもう一つのベリオの作品「リコレンツェ」ともども、ファンタジーあふれる演奏を繰り広げているのは、言うまでもありません。

5月21日

WAGNER
Orchestral Music
Claudio Abbado/
Berliner Philharmoniker
DG/474 377-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1149(国内盤 5月28日発売予定)
ベルリン・フィルに「アバヨ!」と告げたアバド、これは、その“有終の美”だそうです。確かにそう呼ぶに相応しい内容を持った1枚と言えましょう。
2002年、アバドはベルリン・フィルの首席指揮者、芸術監督のポストを去りました。最近リリースされたマーラーの一連の交響曲の異常なまでの集中力と美しさを引き合いに出すまでもなく、彼らの芸術の頂点は極まったのかもしれません。そんなアバドとベルリン・フィルの最後の大きな仕事が2002年のザルツブルク・イースター音楽祭での「パルジファル」上演だったのです。この日の演奏はもちろん大絶賛を浴びたそうで、そのうち全曲盤でも出るといいのですが(今のところ予定はないそう・・・)。今回のアルバムは、そんな「パルジファル」の音楽を中心とした極めて聴き応えのある1枚です。
まず最初に置かれた“タンホイザー序曲”。ほんとにため息ものの名演でした。「どうしてもアバドの演奏って、イマイチこくがないのよねぇ」と仰る奥様、これをどうぞお聴きください。例の、聴き手が思わず恥ずかしくなるような大げさな音楽から、いい具合に俗っぽさが抜けて、まるで天上の音楽のような美しさです。ベルリン・フィルの豊麗な音と曲の昂揚感が相俟って、まさに恍惚の境地に達することができるでしょう。同じ曲をカラヤンが振ったとしたらこうはいきません。もう少し、現実的なきらびやかさに終始するはずです。続く“パルジファル”の音楽。ああ、私は思わず涙してしまいましたよ。アバド自身がまとめた第3幕の組曲「聖金曜日の奇蹟」、この難解な楽劇の、最も美しい部分を集めたとも言える音楽で、一瞬、聴こえてくる「タンホイザー」のモチーフも何とも意味ありげです。まさに目の前で浄化が行われているかの如く、ひたすら美しい響きが耳朶を打ちます。この演奏のために誂えた低い響きの鐘の音とスウェーデン放送合唱団の清冽な歌声も感動物。
その後に、“トリスタンとイゾルデより前奏曲と愛の死”が続くのですが、正直、これはいらないかも。せっかく浄化された気持ちが、また愛欲にまみれてしまうような、ちょっと残念な気持ちがして仕方ないんです・・・・。その上、日本盤のみのボーナストラックとして“ヴァルキューレの騎行”もついているのですが、ここはぜひCDをプログラミングして、最初に聴いちゃってください。だって、これらの曲の録音は200011月。あのターフェルのワーグナー・アリア集と同時期の演奏ですからね。

5月19日

PUCCINI
Tosca
Andrea Bocelli(Ten)
Fiorenza Cedolins(Sop)
Zubin Mehta/
Orchestra e Coro del Maggio Musicale Fiorentino
DECCA/473 710-2
今回はオペラの中でも最高傑作と言われる「トスカ」です。出演者全員が女装するという・・・(それはスカート)。例の如く、この曲にも数多の名演が存在します。識者に言わせると「54年のマリア・カラスがあれば他には何もいらない」とまで。でもそれではあまりにも寂しいではありませんか。演奏が上手い下手に拘わらず、様々なアプローチがあってよいのだと思います。このボチェッリのトスカのように。
「カヴァラドッシを歌うことは僕の夢でした」と彼は語ります。今回、その夢はとても理想的な形で実現しています。トスカには人気急上昇のチェドリンス、スカルピアにはグェルフィと相手役にも申し分ありません。そしてフィレンツェ5月祭管弦楽団を指揮するメータの名サポート。そんな中で歌えるボチェッリの喜び。それが全編に横溢しています。
思わせぶりな前奏、悲劇を予感させるメロディを手堅くまとめるメータ、それに導かれ、おなじみの看守とアンジェロッティの緊迫したやりとり。ここまでは良くある普通のトスカです。しかし、カヴァラドッシの登場に拠って、聞き手の心は一気に別世界に飛ばされます。ボチェッリ=カヴァラドッシの歌う「妙なる調和」の明るい響き・・・。「彼の心の目は確実に美しいトスカの黒い髪を捉えているのだ。」と感じる他ありません。そう、ここからは全て、彼の「心の目」に映るトスカの世界なのです。だから、彼にとってのトスカはあくまでも純粋無垢なオンナですし、スカルピアは極悪非道なオトコです。
第2幕、あの緊迫したトスカとスカルピアのやり取りは、正直ちょっと物足りません。これは例のカラスの名唱と比べてしまうせいもありますが、でもちょっと視点を変えてみたらどうでしょうか。そう、これはボチェッリの想像上の出来事だと思ってください。リアリティのなさが頷けるではありませんか。もちろんチェドリンスもグエルフィも迫真の歌を聴かせてくれますが、何だか物足りないのは、この場面にボチェッリが出ていないからなのです。これは冗談でも何でもなく。
そして、彼は「美しい星の輝き」を目の当たりにして、思いのたけを朗々と歌うのです。まるで愛を語るセレナードのように。この甘美な歌声は、またしても「本当は悲劇的な内容のはずなのに」と反論をかましたくなるかもしれません。でもそれはやめましょう。自らの心の中のトスカに別れを告げ、最後はトスカの「空砲だから」という言葉を心から信じて死んでいくのです。自分のために命を犠牲にする美しい歌姫も、根っからの悪人も全てはボチェッリの夢の中の登場人物。美しい寓話です。
だって、これはあくまでも「ボチェッリ」のトスカなんですからね。

5月18日

LIGETI
Requiem etc.
Jonathan Nott/
London Voices(Terry Edwards)
Berliner Philharmoniker
TELDEC/8573-88263-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11592(国内盤 5月21日発売予定)
国内盤が発売される日の1週間後、5月28日に80歳の誕生日を迎えるリゲティ、もちろん、まだ生きていて、活発に作曲活動を行っていますよ。これは、おなじみ、TELDECの「LIGETI PROJECT」の第4弾、計画ではあと1枚出ることになっていますが、ERATOとともに、ワーナーがクラシック部門を見放した今、このレーベルにそんな地味な仕事をやり遂げる力は残っているのか、少々心配にはなってきます。そこは、この老舗の良心を信じるしかないのでしょうが。
さて、このアルバム、目玉はなんといっても「レクイエム」の新録音でしょう。例の「2001年」のサントラで一躍有名になった曲ですが、今まで入手可能だった全曲録音は、68年録音のギーレン盤ただ1枚、新しい録音を待望していたリゲティ・ファンの夢が、30年以上を経てやっと叶えられたのです。サントラのトラヴィスにしても、そのギーレンにしても、そこから聞こえてきたものはいかにもおどろおどろしい、確かにあの映画のイメージとは見事にマッチしたサウンドではありました。そこでは、合唱もオーケストラも、今までこの世には存在していなかった不思議な音を創り出すことに、最大限の関心を払っていたかとすら思えてきたものです。しかし、ここでノットとベルリン・フィル、そして、テリー・エドワーズとロンドン・ヴォイセスが私たちに見せてくれたのは、もっと暖かみのある、生身の人間が演奏している「音楽」でした。特に合唱パートのしなやかなこと。今までそれしか聴くことが出来なかったドイツの放送局の合唱団とは全く次元の違う、イギリスならではの細心の配慮が行き届いた演奏は、この時代のリゲティの作品に対しても絶対に欠くことの出来ない要素であることが、実にはっきりと分かるはずです。有名な、というか、サントラで用いられた「キリエ」が、実はこれほど演奏者の思いを込めることが可能な作品だったなんて、このCDを聴くまでは気付きもしなかったことです。オケにしても、ベルリン・フィルの、特に管楽器がこれだけの名人芸を披露してくれると、かつて味わった難解さはいったい何だったのだろうという思いに駆られてしまうほどです。唯一、ソプラノソロに、今ひとつ強靱なパワーが欠けていたのが惜しまれます。
「レクイエム」と同じ時期に作られた「ラミフィケーションズ」と、「フルートとオーボエのための二重協奏曲」とともに、ごく最近の作品「ハンブルク協奏曲」が収録されているのも、嬉しいことです。女流ホルン奏者マリー・ルイーズ・ノイネッカーのために作られたホルン協奏曲ですが、実は4本のナチュラル・ホルンもソロで加わっているという、この楽器のプレーヤーにとっては聴き逃せないものでしょう。リゲティの作風も、昔とは全く異なる明るいものとなっていて、時折聞こえるジャズ風のシンコペーションからは、この作曲家の一皮むけた姿を窺い知ることができます(そしたら、ハゲティ・・・)。

5月16日

STRAUSS
Ein Heldenleben
Semyon Bychkov/
WDR Sinfonieoechester Köln
AVIE/AV 0017
元祖爆演指揮者(お店のコメントにかいてありました)、セミヨン・ビシュコフの来日記念盤だそうです。ケルン放送響を率いて、今月末から来日予定の彼、私もマーラーを聴きに行きたいとは思っているのですが、仕事も立て込んでいて、果たして聴きに行けるんでしょうか・・・・。
このビシュコフと言う人は、どうも好き嫌いが分かれるようで、例えば98年の、あの「みなとみらいホール」でのマーラー第5番、この時も「すばらしい!」と言う人と、「全くだめ」と言う人。何見ても評価が違うのが面白かった記憶があります。そんなわけで、ぜひ一度実演を聴いてみたい一人なのです。
旧ソ連出身でありながら、母国では活動の場を見出せず(そりゃ、スヴェトラーノフあたりと戦っても勝ち目はないかも)アメリカに移住したあと、なぜかパリ管に9年間、(口の悪い人は「ここで何やってたんだか」と突っこみをかます始末)それからケルン放送響音楽監督、ドレスデン州立歌劇場首席指揮者など、かなりの経歴なのですが、やはり知名度がイマイチなのはあまりCDが出ていないせいなのでしょうか。とにかく、今回のシュトラウスを聴いてみることにしましょう。曲目は私の好きな「英雄の生涯」と「メタモルフォーゼン」、これは楽しみです。
さて、「英雄の生涯」です。おなじみシュトラウスの誇大妄想的作品で、この英雄というのは何を隠そうシュトラウス自身のこと。控えめな性格の私などには到底ついて行けない世界です。しかし、第一部の冒頭、弦とホルンの力強く美しい主題を聴くだけで思わず気分が高揚してしまうのは、やはりシュトラウスの色彩豊かな管弦楽法のマジックのようなものかもしれません。ニューフィルさんでも、ぜひ一度はこの曲を取り上げていただけないものでしょうか。で、ビシュコフですが、名演とされる「カラヤン&BPO」とは全く肌触りの違う演奏です。前述の冒頭のテーマも、あのカラヤンで聴くシュトラウスのような均一な滑らかさはありません。ちょっとごつごつして、各々の楽器が自己主張しているようなとでもいうのでしょうか。例えるなら、カラヤンが「たまねぎをみじん切りにして一晩煮込んだカレー」ビシュコフは「具がごろごろしている出来たばかりのカレー」みたいな感じ。味がまだなじんでないのだけど、それはそれで美味しくて、もちろんスパイスもたっぷり利かせてあって。その面白さというか野性味が発揮されるのが、第2部から。「英雄の敵たち」での姦しいメロディの応酬の凄まじさ。そして、乱痴気騒ぎの骨頂とも言える「英雄の戦い」での荒々しい音楽(精度はイマイチかも)。ここら辺が「爆演」たる所以でしょうか。久々に面白いシュトラウスでした。やはり実演が聴いて見たいです。何とか調整しましょう。

おとといのおやぢに会える、か。


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