暗いバー。.... 渋谷塔一

(04/8/9-04/8/25)


8月25日

STRAUSS
Also Sprach Zarathustra, Burleske
Gerhard Oppitz(Pf)
John Fiore/
Düsseldorfer Symphoniker
HÄNSSLER/CD 98.476
リヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」です。最近では、かのK1のテーマソングとして、また、少し前までは、マスターお得意の2001年のサントラとして、とても多くの人に親しまれている作品です。しかし、この親しまれ方には少々疑問があります。全曲通すと30分を越える曲なのに、有名なのは冒頭のたった2分程度。これはまるで、「10年日記」をつけようと心に決めたけど、結局3日坊主で終わってしまった・・・・・ようなもの。ほんと、もったいないですよね。
とは言え、この曲の内容について深く語るのはとても難しいこと。かくいう私も、小学5年生の時にこの曲を聴き、ニーチェに興味を持ちました。で、新潮文庫の「ツァラ」と購入。ランドセルに入れて持ち歩きましたが、かなり挑発的な内容だということがわかったくらい。何しろ、「神は死んだ」と言う言葉を理解するためには、まずキリスト教から理解しなくてはいけないという事に気がつき、ついつい放り出してしまった記憶があります。あれから何十年も経過した今、もう一度読んだら、何か世界観が変わるかもしれません。
そんな難しいことを言わずとも楽しめるのが音楽のすごいところ。(ごまかしてます?)もちろん、シュトラウスもニーチェの思想を完全に音にしているわけではありません。これは、彼の同時期の作品「ティル」にも共通することで、当時の聴衆は、歴史的な人物である「ティル」や「ツァラ」を完全に音として耳にする事を望んでいたようですが、そんな挑発に乗るようなシュトラウスではありませんでした。あくまでも逸話に沿った創作。これがシュトラウスの書きたかったものだというのです。このツァラでも、ニーチェが書きたかった超人とは微妙に異なる人物像が描かれています。最初は宗教に救いを見出し、迷い、踊り、最後は哄笑し、どこかに消えてしまう主人公。ニーチェをほとんど読んでいない私には、これで十分なのです。
この演奏、とにかく弦の響きが柔らかく美しいのです。これは若き指揮者フィオーレの柔軟な音作りの賜物でしょう。長い歴史を持つというデュッセルドルフ交響楽団ですが、皮肉たっぷりのワルツも、壮大に流れ落ちる音も決して派手ではありません。これこそがドイツの音なんだな。と感じさせてくれるのです。
とは言え、このCDを購入した本当に理由は、カップリングの「ブルレスケ」でした。シュトラウスの若書きの作品でピアノ協奏曲の体裁をとっています。あまり録音のない曲で、今回のソロはゲルハルト・オピッツ。ベートーヴェン弾きとして知られる彼ですが、ここではいかにも楽しげな演奏で、「こんな弾き方をする人なんだ」と正直驚いてしまったのでした。女性ピアニストの、挑発的なファッションの映像でも出ないでしょうか(それは「ブラが透け」)。

8月23日

BRUCKNER
Symphony No.7
小澤征爾/
サイトウ・キネン・オーケストラ
PHILIPS/475 452-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCP-1093(国内盤先行発売)
毎年夏の終わりに松本市で開催される「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」、先日もテレビの報道番組にここの総監督である小澤征爾が生出演して、その存在をアピールしていましたね。そんなにメディアをおざわがせしなくとも、このフェスティバルはチケットがなかなか手に入らないことでも有名ですから、毎回その小澤が指揮する「サイトウ・キネン・オーケストラ」のコンサートは満員の盛況です。そして、その模様は逐一録音されて、CDとしてリリースされますから、さらにそのファンは増えていくという嬉しい現象が待っています。
これは、昨年のフェスティバルでのライブ録音。小澤としては、なんと初めてのブルックナーの録音ということで、各方面で騒がれているもの、実は少し前にテレビでも放映されていました。ただ、ライブ録音とは言っても、数回行われた同じ曲目の演奏会を適宜編集した物ですから、商品としての完成度はより高い物になっています。事実、テレビで見た時にはフルートソロがとんでもないミスをやらかしてびっくりしたものですが、CDでは見事に「修復」されています。
小澤征爾は、言うまでもなく現在はウィーン国立歌劇場の音楽監督のポストという、まさにクラシック界の頂点を極めた人です。西洋音楽の伝統を全く持っていない日本人が、その西洋音楽にどれだけ近づくことが出来るのかという「実験」を生涯にわたって実践している、まさに「偉人」といっても差し支えないほどの人物なわけですが、もちろん現在の地位を得るためにはらった努力は並大抵の物ではなかったことでしょう。
そんな彼を世界的な指揮者と認めるにはやぶさかではないものの、時としてその努力の跡が目に見える形で音楽に反映されてしまい、ちょっと聴いていて辛くなることがあります。今回のブルックナーがまさにそんな、いかにも「一生懸命やってるなぁ」と感じられるもの、ここからはブルックナーの持つ広大な地平はついに姿を現すことはなく、いたずらに力の入った、小手先の表現しか見えては来ません。例えば第2楽章、ベルリン・フィルのラデク・バボラクなどというものすごいプレーヤーのワーグナー・チューバは確かに魅力的なものがありますが、ひたすら美しい流れを醸し出そうと「努力」している指揮者の思いとは裏腹に、そこからは人為的な滑らかさしか見えては来ません。その意味で、一見意表をついたかに見えるスケルツォも、同じように、その狙いとは遠く隔たったいびつなものにしか仕上がりませんでした。ワルツ風のこじゃれたビートや、まるで高校のブラスバンドのような、スビト・ピアノからクレッシェンドなどという様な底の浅い表現は、この大指揮者には似つかわしくはありません。彼の最初のブルックナー、しかし、それははからずも、なぜ今までこの作曲家の録音が存在していなかったかという問いに対する、明確な返答になっていたのです。

8月21日

The Opera Band
Amici Forever
RCA/82876-52739-2
(輸入盤 CCCD
BMG
ファンハウス/BVCF-31121(国内盤)
すっかり定着した感のある、クロスオーヴァーヴォイス。(どこぞのメーカーで“ポッペラ”と呼びたかったようですが、定着したのでしょうか?)最近、さまざまな場所で耳にするようになりました。とは言え、クラシックを素材とし、そこに新しい味付けをして歌うという方法は以前からありましたよね。ロッシーニのように早口で歌ったり、ジャズと融合させたり・・・・・。それがまた最近になって俄然注目を集め始めたきっかけは、何と言ってもサラ・ブライトマンのアルバムでしょうか。「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」と、ヘンデルの「涙の流れるまま」を同列に扱った彼女のおかげで、ヘンデルの名前は知らずとも、メロディだけは耳に残る人が続出。「涙の流れるままに」が、本当はオペラ「リナルド」の中の一つのアリアである。なんて話したものなら67へぇくらいの驚きを持って迎えられるという現象も続出したのでした。
今回ご紹介するグループ「アミーチ・フォー・エヴァー」。5人のメンバーで構成されたグループで、グループ名はイタリア語と英語の融合で「永遠に友達」つまり「友情は不滅」ですね。彼らの音楽も、クラシックとポップスを見事に融合させたものです。各々のメンバーは、既にオペラやミュージカルでたくさんの場数を踏んだベテランばかり、実力はお墨付きです。イギリスでは15万枚以上のセールスを記録、クラシカル・チャート初登場第1位。日本でも昨年の秋に輸入盤が発売されて以来、じわじわと人気上昇中。その時から気になってはいたのです。
今回国内盤が発売され、それに伴い来日、プロモーションもあるというので、改めてこのアルバムを聴き返してみたのです。クラシカル・ベースの曲とオリジナルが半分ずつ。幅広いユーザーにアピールする選曲が心憎いではありませんか。冒頭に置かれた「プレイヤー・イン・ザ・ナイト」。この曲は、既にさんざん耳にした、あのサラバンドが原曲。そう、以前のニュースステーションのテーマ曲と同じ元ネタです。もちろんアレンジが違うので、新鮮な肌触り。(この曲の原曲はヘンデルのハープしコード組曲の中の1曲だと言いますが、どれがそれに当たるのか、私は未だに知りません。)他にも、イギリスのグループらしく、エルガーの「ニムロッド」やヘンデルのアンセムなど、なかなか凝った作りの曲が並んでいます。
このグループの特徴は、決して原曲のイメージを損なう事なく、持ち味を生かしながら、そこに現代的なビート感をプラスしたもの。だからこそ、元のメロディの美しさがストレートに伝わってくるのが見事です。ビゼーの「真珠取り」の有名な二重唱、「聖なる神殿の奥深く」などは、あのリチートラ、アルバレスの2人の歌にも匹敵する素晴らしさ。ドヴォルジャークの「ルサルカ」の「月に寄せる歌」などは、もしかしたら原曲よりも美しさが強調されているかもしれません。
ただし、あまりにも聴きやすく、耳に馴染みやすいので、聞き流してしまうのが難点かもしれません。やはり、こういうジャンルは、「何かを考えるための音楽」ではなく、「ストレスを忘れたり、リラックスするための音楽」なのでしょう。だから、ここで「ルサルカ」が気に入ったからと言って、全曲盤を買ったりする人は、そんなにいないのかもしれないなぁ。と思うのでありました。
そういえば、平原綾香ブームの時、ホルストの「惑星」のCDがばか売れしたと聞きます。しかし、「木星」以外の全曲を聴いた人が何人いるのでしょうね・・・。興味深いところです。

8月19日

PENDERECKI
Miserere
Tõnu Kaljuste/
Netherlands Chamber Choir
GLOBE/GLO 5207
少し前にこの作曲家の「ルカ受難曲」を取り上げたばかりなのですが、その中に含まれている「スターバト・マーテル」など、彼の無伴奏の合唱曲ばかりを集めたアルバムが出ました。ペンデレツキと言えば、誰しもあの「ヒロシマの犠牲者に捧げる哀歌」を思い浮かべることでしょう。以前も書きましたが、このタイトルは曲が出来てから付けたもので、そもそもは「8分37秒」という即物的なものだったというのは、その後の作曲家の歩みに照らしてみると、何か象徴的なものを感じます。とは言え、この曲で彼が示した革新的な技法は、その後の作曲界を変えてしまうほどの影響力の大きなものでした。この曲1曲で、ペンデレツキはまさに時代の寵児となったのです。ただ、あまりにもこの曲のインパクトが強かったため、それ以後の作品に若干の失望を感じた人は、少なくなかったはずです。言ってみれば、ペンデレツキは、現代音楽における「一発屋」だったのです。したがって、「一発屋」の宿命として、現在でもこの作曲家は「ヒロシマ」のようなスタイルの作品を作り続けていると思われるのは致し方ないこと、いかに「聴きやすい」スタイルに変貌して、そのような画一的なイメージを拭おうと努力してみても、それが世の中に受け入れられることはありませんでした。
合唱曲の分野で「ヒロシマ」に相当するものが、この「スターバト・マーテル」です。この曲も合唱界には多大な影響を及ぼしました。無調のフレーズ、炸裂するクラスターが醸し出す言いようのない不安な肌触り、それが、最後に長三和音によって解決されるという破天荒なこの作品は、確かに合唱の新しい地平を開くものとなりました。もちろん、常に同じところに留まろうとはしない「努力の人」ペンデレツキですから、合唱曲でも、しばらくすると、とても同じ人が作ったとはにわかには信じがたいほどの曲を作ることになります。
このアルバムでは、そのあたりの変貌ぶりをつぶさに感じることが出来ます。特に、60年代と80年代の作品を交互に並べている前半で、それは顕著に感じられることでしょう。カリユステ指揮のオランダ室内合唱団という、当代随一のメンバーが、そのどちらの年代のものでも恐ろしいほどの共感を以て掘り下げた解釈を行ってくれた結果、それぞれの目指すものの違いがとてつもない精度で迫ってくることになるのです。実際、近年の作品の中に、メンデルスゾーンやシューマンに見られるような、まさしくロマン派の「憂い」と寸分違わないものを感じたのは、かなりショッキングな体験でした。まるで、ハンバーグの上にパイナップルを見出したような(それは「トッピング」)。
数年前、これと殆ど変わらない内容の曲目をフィンランドの団体が演奏したものが出ました。彼のア・カペラの合唱曲はこれが殆ど全て、ちょうどアルバム1枚分として、例えばアマチュアの合唱団などには喜ばれそうなラインナップとなっています。彼らは、「一発屋」から脱却しようとした作曲家の軌跡としてではなく、アマチュアにも充分に演奏可能なレパートリーの参考演奏として聴くために、買っていくのでしょう。同じようなアルバムはこれからも作られていくに違いありません。

8月17日

SCHMIDT
Das Buch mit Sieben Siegeln
Fabio Luisi/
MDR Sinfonie Orchester
QUERSTAND/VKJK 0411
私は、とりあえず「クラシック音楽」と言われるものは何でも聴きますが、中でも好きなのは人の声です。それも、ソロよりも合唱。その上、オルガンの音も好きなので、その両方が聴ける作品は、もう文句なく愛してしまいます。とは言え、歌物に付きものなのは「言葉の問題」です。レクイエムやミサ曲ならば、大体同じ典礼文を使っているので意味を追うのは比較的簡単です。バッハのカンタータあたりも、解説書が豊富なので、あまり困る事はありません。しかし、ちょっとマイナーな作品になると、手引きの類いは極端に減少します。作曲家自体が知られないとなると、まず解説を探すことが不可能で、辞書と格闘するか、「音楽だけで楽しもう」と腹をくくるか・・・・。曲が素晴らしいと、その悔しさも倍増なんですね。
そんな中、この「七つの封印の書」は私のお気に入り。対訳付の国内盤CDが2種類(あんことクリーム・・・それは「鯛焼き」)も発売されていますが、これは異例とも言えること、「果たして、こんなの国内盤にしても大丈夫なの?」と、ついつい余計なお世話を焼きたくなるようなマニアックな曲です。
6人のソリスト、合唱、オーケストラ、そしてオルガン。マーラーの8番に匹敵する大規模な作品ですが、今回のファビオ・ルイージは、本当に易々と、実に的確に曲を捌いていきます。以前もマーラーを聴いて感心したことがありますが、MDR交響楽団(かつてのライプツィヒ放送響)、同合唱団のレヴェルの高さにも改めて感動です。
曲は本当にのどかに始まります。この黙示録を書いたヨハネのソロを担当するのはヘルベルト・リッパート。彼はウィーン少年合唱団の出身者とのことですが、声は良いのですが音程がちょっと上ずっているのが気になります。ま、ライヴ特有の緊張感のせいでしょうか。この曲、プロローグの部分だけでも後期ロマン派特有の音の厚みを存分に堪能できるのですが、本当に面白くなってくるのは、第一部から。そう、封印の中身なんですね。これは、昔あった袋とじ付きの雑誌のようなものでしょうか。オルガン・ソロで始まる黙示録の世界。ここにはあらゆる恐怖が詰め込まれているはずです。古くはミトロプーロスの極彩色の地獄絵、そしてメストは水墨画でしょうか。正直なところ、このルイージ盤は、この部分があっさりとしすぎて物足りません。言うなれば、「超常現象を科学的に解明する」みたいな感じ。火の玉はプラズマなんだよ・・・・と力説する解説者といえばわかりやすいでしょうか。とにかく、全ての部分が明快で、ちっとも恐くありませんでした。(一番恐いのは、こけおどしの大家、アーノンクール盤なのはいうまでもありません。)
とにかく、どの部分もスピーディに明快に気持ち良く聴かせてくれるルイージ。最後まで一気に聴いてしまうので、言葉の意味などを考えている暇もありませんでした。大体判っているからいいや。という気持ちもあり、ついぞ、対訳を開くこともなかったのでした。壮大な合唱曲を聴いた・・・そういう思いのみが残りました。

8月16日

Swinging Bach
Bobby McFerrin
Jacques Loussier Trio
German Brass
TDK
コア/TDBA-8008(DVD)
最近のDVDの普及ぶりにはめざましいものがあります。リリース件数も右肩上がり、それに伴って価格も下がってきたのも、普及のひとつの原因なのでしょう。実は今回のDVDも、2001年に最初に出た時には5千円以上したものが、今回「特別価格」と言うことで2千円台になって再発売という、初めて買う人は嬉しいけれども、初回に買ってしまった人は地団駄踏むというものなのです。「再発売」と書きましたが、今回の品番(TDBA-8008)が印刷されているのは、外側を覆っているタスキの部分だけ、中身はケースにもジャケットにもTDBA-0008という初回の品番が印刷されている、言ってみれば「売れ残り」なのですから、笑ってしまいます。このように、DVDの価格は、もはや5〜6千円といった法外なものは相手にされなくなっています。全ての製品がCD並みの2千円台、あるいはそれ以下になった時が、初めてリーズナブルな商品として独り立ちできる時なのでしょう。そうは言っても、ソフト自体は殆どが放送用に収録されたもの、本当はもっと安くなってもいいはずだ、という思いは残ります。この「スインギング・バッハ」も、例の2000年の「バッハ・イヤー」のイベントのひとつ、バッハの命日である7月28日に、ライプツィヒで行われた野外コンサートの模様で、おそらくヨーロッパでは生放送としてテレビを持っている人であれば誰でも見られたはずの映像、それを5千円も出して買うというのが、そもそも尋常な感覚ではありません。
それはともかく、この日のマルクト広場を埋め尽くした聴衆をクレーンがなめるように映し出しているのを見ると、殆どロックの野外フェスを連想してしまいます。中にはかなりお年を召した人もいるのですが、全員立ちっぱなし、後半には雨が降ってくるというアクシデントもなんのその、傘を差したりカッパを着たりと、その根性はハンパではありません。さすがに水着の人はいませんが(それは「スイミング・バッハ」)、クラシックがらみのイベントでこれだけ熱くなれるのが、ドイツ人なのでしょう。
オープニング、そして節目節目に、バルコニーで金管合奏に編曲されたバッハの名曲を演奏してしているジャーマン・ブラスが、まずイベント全体を引き締まったものにしてくれています。トランペット奏者の超絶技巧、全ての曲を暗譜で吹ききっているのも凄いものです。「スインギング・バッハ」というコンセプトを最も良くあらわしているのが、ご存じジャック・ルーシエ(「エ」は大きな文字)、もはや「古典」といっても差し支えない「ジャズ風バッハ」が、心地よく流れています。そして、自ら「平均率」を歌いながら、聴衆に「アヴェ・マリア」を歌わせるという、信じられないようなことを実際にやって見せてくれているボビー・マクファーリンのパフォーマンスも、いずれは「古典」となることでしょう。
もちろん、こういう流れでは「純」クラシックのゲヴァントハウス管弦楽団やシャハム夫妻が面白いわけはなく、完全に勘違いを犯しているジャズ・フルーティストのイルジー・スティヴィンともども、イベントに花を添えつつ、バッハの命日の夜は更けてゆくのです。

8月14日

PUCCINI
Tosca
Daniela Dessì(Sop)
Fabio Armiliato(Ten)
Ruggero Raimondi(Bar)
Maurizio Benini/
Teatro Real Madrid
OPUS ARTE/OA 0901(DVD)
最近のオペラの演出は、想像以上に進んでいるというのが、私の回りのオペラ好きの間でも、話題になることが多いのです。確かに、いつぞやのノイエンフェルスの“こうもり”然り、ひげそりしながら出てくるトリスタン然り、まさに「見るにはちょっと勇気がいる」演出が目白押し。下着姿の女性がずらっと並ぶ“ドン・ジョヴァンニ”や、ふんどしが並ぶ“サムソン”なんて珍しくもありません。
しかしながら、オペラ、いや、クラシックを殆ど聴かない人たちにとっての「オペラ」というイメージには、ある共通のものがあるのは事実です。それは、
・太った女性歌手が、裾を引きずるドレスを着て、耳をつんざくような高い声を出す。
・城や、シャンデリア、石像などが無造作に置いてある。
・主役のテノールは軟弱である(これは太っていなくても可)。
・そして、テノールとソプラノが抱き合い歌いまくる。
・低い声の悪役が出て来て、げへげへ笑い女性にちょっかいを出す。
・殺人、不倫の場面がこってり用意されている。
こんなものでしょうか?
「今時、こんなお約束のオペラなんてあるんですか?」と思った方。この2004年1月に収録された“トスカ”をご覧下さいね。ここでトスカを演じるダニエラ・デッシーと、カヴァラドッシ役のアルミリアートは実生活でも仲の良い夫婦。なかなか息のあった歌と演技を見せてくれるのです。最近の夫婦歌手というと、あのゲオルギュー&アラーニャを思い出しますが、デッシー&アルミリアートは、あそこまで露骨に熱々ぶりは披露していません。とは言え、第1幕で、「マリオ、あなたは他のオンナにウツツを抜かしているわね」と歌うデッシーの流し目の妖艶さ。その一瞬で「惚れたオトコにくびったけ」というトスカの熱く激しい性格を見事に表現しているのにはクラクラしてしまいました。
さて、舞台はとても簡素ですが、要所要所に置かれた装置は見事なものです。特に第1幕の舞台中央に置かれたピエタ像の素晴らしいこと。そして贅を尽くしたスカルピアの部屋。(もちろんスカルピアの椅子が壊れて空気椅子なんてことはありません←ネタ古)この場面、名バリトンのライモンディの演技が光ります。まさに悪代官そのもの。口元に好色な笑みを浮かべトスカに「俺とどうすか?」と迫る様は、見ててはらはらしますね。とは言え、このライモンディ、顔立ちがちょっと優しいせいか、本当の悪の化身にまでは見えないのがちょっと残念。心底憎めないんです。私がオンナだったら、完璧にこのスカルピアにいちころでしょう。ええ。ホントにいいオトコです。
そして第3幕。カヴァラドッシの「星は光りぬ」の絶唱。それからの策略。そしてトスカの声を振り絞るような嘆き。お約束どおりの展開です。ぐっと来てしまいますね。ただし幕切れは、トスカはそのまま舞台の中心に空いた穴の中に飛び込みます。これだけが悔しいところ。やはり、最後はトスカが塔の上に駆け上って、てっぺんから身を投げる・・・・これで終りにしてもらいたいではないですか。これぞ王道。お約束。
ここまで書いて気が付きました。このオペラ、筋は至って単純。その気になればいくらでも読み替えが出来そうです。もちろん現代的な演出も可能でしょう。しかし、万が一そうした場合、あまりにも生々しくなってしまって、まるでワイドショーの再現ドラマを見ている気分になってしまいそうです。主役のトスカがエプロンで手を拭きながら出てきたらイヤですよね。だからこそ、ワイドショーではなく「オペラ」を見た。そういう気分にさせるためには、こういう現実ではありえない、「クサイ」設定が必要になってくるのでしょう。夢物語であればあるほど、現実を忘れる事ができる。そんな悲しい一面をも内包しているのが、実は「オペラの世界」なのかもしれません。

8月13日

MOZART
Requiem(Ed.Druce)
Peter Seymour/
Yorkshire Bach Choir
Yorkshire Baroquue Soloists
YORK RECORDS/YBCD 1994
今回は新譜ではないのですが、長年探していたCDがひょんなことから手に入ったので、ちょっと趣向を変えてそのいきさつなども絡めて。ご存じのように、このサイトはモーツァルトのレクイエムに関してはかなりディープな内容を誇っています。ところが、なぜか「ドゥルース版」の初演者であるヨークシャー・バッハ・クワイアの録音だけは、八方手を尽くしても入手できていなかったのです。もちろん、下着屋さんも探しました(それは「ズロース」)。それが、金沢市にお住まいのDさんという方のお陰でいとも簡単に手に入ってしまいました。Dさんは、この「おやぢの部屋」の大ファン、先日のキリ番の時にめでたく±10の範囲を踏まれて、それを申告されたのですが、その時に、このCDがWDR(ケルンの西ドイツ放送)の通販サイトで手に入るということを教えてくれたのです。この団体はもちろんイギリスの人たちで、録音場所もイギリスなのですが、どうやら実際に録音を行ったのはWDRのスタッフ、それで、レーベルこそこの団体のプライヴェートっぽいものですが、きちんとWDRの管理下にあって、しっかり現役盤として流通していたということなのです。
実際にCDを入手してみると、今まで知らなかったことが明らかになりました。まず、校訂者のダンカン・ドゥルースは、依頼主のヨークシャー・バッハ・クワイアと一緒に演奏しているヨークシャー・バロック・ソロイスツのコンサート・マスターだったのです。つまり、指揮者のピーター・シーモアとは言ってみれば「仲間」、この版に満ちあふれている、こだわりのない伸び伸びとした肌触りは、そういう親密な関係から生まれてきたものなのでしょう。そしてもう1点、ドゥルースはこの録音のあとで、「Agnus Dei」を書き直しているというのです。この録音が行われたのは91年の3月、その半年後、91年の9月にノリントンが録音する時には、殆どジュスマイヤー版と変わりないような穏健なものになっていたのでした。後に出版された時も、この「穏健」版が採用されています。したがって、ここで聴かれる「Agnus Dei」は、もはや他では絶対聴くことが出来ない超レアなもの、それだけでもこのCDの存在価値は見逃せません。
もちろん、こちらでも述べられているように、この版はドゥルースがモーツァルトの時代の人になりきっていかにもそれっぽく「創った」ものであり、学究的な批判には到底耐えられるものではありません。事実、「Benedictus」あたりは、ノリントン盤ではあまり感じられなかったのですが、今回のメンバーで聴くといかにも冗長という感は拭えません。ひとつには、演奏のレベルの問題、オリジナル楽器のオケも合唱もそこそこの力はあるのですが、指揮者の踏み込みが今ひとつという感じ。さらに、ソプラノソロのおそらく指揮者の身内でしょうが、イヴォンヌ・シーモアという方が、あまりにもお粗末なのは、全体の完成度という点で致命的なものになっています。
これはあくまで私の想像なのですが、シーモアにしてもドゥルースにしても、この「補作」は出来れば仲間内だけでひっそり楽しみたかったものなのではないでしょうか。それが、WDRで録音はされるは、ノリントンなどというビッグネームにも取り上げられるは、あげくは出版までされるはと、そのあまりの盛り上がりぶりには、きっと当人たちは当惑してしまったに違いありませんよ。「Agnus Dei」を書き直したのも、出版譜も、まずジュスマイヤー版を掲載したあとに、まるで「付録」のような形で付け加えているのも、そんな状況の反映なのではないかと、私には思えてしまいます。
そんな当時のシーンが、まるで見てきたかのように眼前に広がるこのCD、もちろん、私にとって宝物のような存在になったのは、言うまでもありません。

8月11日

PENDERECKI
Passio et mors domini nostri Jesu Christi secundum Lucam
Henryk Czyz/
Das Kölner Rundfunk-Sinfonie-Orchester
BMG
ファンハウス/BVCD-38069
ドイツ・ハルモニア・ムンディ名盤撰という、BMGファンハウスが国内独自企画として力を入れているシリーズがあります。世界初CD化のものを数多く含むもので、かつてLPでこれらのレコードと出会ったファンにとっては感涙もののアイテムも多いことでしょう。もちろん、中にはあのコレギウム・アウレウムのように、録音された時代の音楽状況をあまりにも的確に反映していたために(もちろん、悪い意味でです)時が経てば必然的に忘れ去られてCD化される価値もなくなってしまっていたものもあるわけですが。もっとも、さらに時が経ち、その折衷様式を「こんな時代もあったものだ」と冷静に見直せるだけの余裕が出てきたからこそ、敢えてCD化に踏み切れた、と考えるべきなのかもしれませんね。
そんなことを考えたのは、今回のリリースの中に、まさにCD化が長いこと待望されていたこんなものすごいものが入っていたからです。ペンデレツキの「ルカ受難曲」が初演された直後、同じメンバーで録音されたものです。もちろん、かつてはLPで出ていたもの、それが国内盤で出た時には、このレーベルはBASF(バスフ)という磁気テープ(というか、ドイツ語では磁気バンド)でお馴染みのメーカーの傘下にありました。乳バンドではありません(それは「バスト」)。ですから、ジャケットにはこのロゴマークとDHMのマークが並んで印刷されていたものです。

国内盤の販売元もテイチクという、今ではクラシックからすっかり足を洗っているメーカー、しかし、この頃はこんなコテコテの「現代音楽」を、「芸術祭参加作品」として分厚いライナーノーツ(今回のライナーにも復刻されていますが、今では、「その当時この曲がどのように受け止められていたか」を知ることが出来る歴史的な「文献」として貴重です)を付けて、箱入りの装丁で販売するだけの力があったのです。今回、この曲の世界初録音を改めて聴いてみて、その気合いの入った国内盤LPの思い出とともに蘇ってきたのは、新しい曲を世に送った人たちの、尋常ではない気迫に満ちた息づかいでした。演奏の質という次元の話ではなく、1966年という、まさにその時でなければ実現できなかったオーラのようなものが、確かにここには存在しているのです。それは、言ってみれば、演奏だけではなく、そのまわりの空気まで見事に切り取って保存したような、不思議な感覚を与えてくれています。ですから、例えば、2002年録音のヴィット盤NAXOS)などからは、演奏としての完成度とは裏腹に、このある意味荒削りな切迫感は見事に消え失せてしまっているのです。それは、この曲を作った作曲家自身の変貌とも、無関係ではないと思えるのは、私だけでしょうか。
録音というものは、ある時期にしか見られない演奏様式を残酷なまでに記録してしまうことが出来ます。オリジナル楽器の演奏に過渡的な時代があったことも、そして、まるで作曲家の創作スタイルの変遷に合わせるかのように、同じ曲でも表現が変わりうることも、私たちはCDという媒体で難なく知ることが出来るようになったのです。

8月9日

STRAUSS
Die Fledermäuse
Gustav Kuhn/
Orchester der Tiroler Festspiele
ARTE NOVA/74321 98339 2
このCDを手にして、一瞬違和感を感じてしまいました。なぜだろう?と思いよく見ると、タイトルが"Die Fledermäuse"になってます。英語が"The Bats"。そう、複数形なんです。これは、「なんと2ヴァージョン収録!」という前代未聞の4枚組。廉価盤レーベルARTE NOVAの利点を最大に活かした、お得で楽しい“こうもりず”なのです。
さて演奏は、おなじみグスタフ・クーン率いる、チロル祝祭管弦楽団と歌手たち。そこそこに見知った名前があるとは言うものの、飛びぬけてビッグスターがいるわけではなく、殆どは日本では無名の人たちです。ただ、聴いてみれば一瞬でわかるのですが、全体的にレヴェルは高く、ヨーロッパの歌手層の厚さをいやというほど実感できるだけの技量の持ち主が集結しています。とても一粒11円(税込み)とは思えません(それはチロルチョコ)。
さて、前述の2ヴァージョンですが、これは、スタジオ版と、ライヴ版の違いを聞き比べてもらえるというもの。配役は、アデーレだけが別キャストで、他はほとんど同じ。と、すると大きな違いは、セリフのあるなしでしょうか。御存知の通り、オペレッタとオペラの大きな違いは、セリフの持つウェイトでしょう。よく海外に行ってオペレッタを見た人の感想に「会話を聞きながら隣りの外人が大笑いしているのが悔しかった」とあるように、時事ネタ、ゴシップ、(今ならさしずめ、大物指揮者Rと歌手Kの不倫問題?)シモネタまで色々な内容が挿入されるのですね。このCDを見ても、スタジオ版が5057秒と4433秒であるのに対して、ライヴ版が、7155秒と6807秒と、いかにセリフが多いかわかるというものです。ドイツ語に堪能な方なら、これだけでも抱腹絶倒なのだろうな。と少々嫉妬したくなるような掛け合いが繰り広げられます。途中、オルロフスキ公のパーティの場面にて突然耳慣れた単語が耳に飛び込んできます。「Prinz Honda Suzuki Orlofsky・・・・・」どうやらファルケは、アイゼンシュタインに、オルロフスキ公を「日本の王族である」と紹介したらしいのですね。チロルの音楽祭にも日本人観光客が大挙して押し寄せているのでしょうか。何はともあれ、このセリフは全てリブレットに記載されているので、辞書を引きながら読みこなすだけでも、この夏一杯楽しめることでしょう。
ライブとスタジオの違いはそれだけではありません。全体的に、畏まった雰囲気のスタジオヴァージョン。音楽も四角張って、柔軟性はあまり感じられません。ただ、音楽だけを楽しむにはこちらで充分でしょう。それに比べて、何とも楽しげなライヴヴァージョン!ホールの空気までが感じられる、のりのりの音楽です。歌手もオーケストラも、観客の拍手で盛り上がり、一層音楽が艶を増すのです。まるで会場で一緒に聴いているかのような臨場感。これは素晴らしい。
最後になりましたが、やはり「こうもり」と言えば、あのクライバーの名演が頭から離れません。聴き手も演奏家も、「こうもり」と接する時は、どこかしら彼を意識してしまうでしょう。永遠の名演・・・・その言葉にふさわしい輝かしい記録を残したクライバー。心からのご冥福をお祈りいたします。

きのうのおやぢに会える、か。


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