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飯? パン!。.... 渋谷塔一

(03/9/29-03/10/20)


10月20日

ALMA MAHLER
Complete Songs
Lilli Paasikivi(Sop)
Jorma Panula/
Tempere Philharmonic Orchestra
ONDINE/ODE1024-2
今回は、先週他のCDを買ってしまったため、購入を先延ばしした「アルマ・マーラー歌曲集」です。先週は確かに10枚近くありましたから、「だれもこのCDは買わないだろう」と油断していました。ですが、「まだあるまろう」と今週お店に行ったらなんと1枚しか残っていない!お店の人に聞いたところ、「ああ、あれ既に殆ど売れましたよ」とのこと。「そんなに人気あるんですか?」と訊いてみたら、「まあまあ売れますね」と、昔からのファンにしてみれば嬉しいような、嬉しくないようなお言葉。何しろ、こういうアイテムはひっそりと楽しむものと相場が決まってますので・・・。
今回の歌曲集は、完全全曲盤であることと、(3枚目になります)指揮者パヌラによる、オーケストラ伴奏編曲版であること、この2つが注目すべき点でしょう。歌手のリリー・パーシキヴィは、まだ無名の新人。北欧では既にかなり活躍しているそうで、なかなかパワーのある声の持ち主でして、オペラでも良い感じで出て来そうな人です。
アルマの歌曲は、和声の面からも、メロディーの面からも何かしら指揮者を刺激するものがあるのでしょうか。以前からの愛聴盤であるレイノルズも、自ら編曲したスコアを用いて、彼女の深い愛の世界を表現していました。私的には、そのレイノルズの音色がベースになっているので、今回のパヌラ版では、かなりの違和感を感じてしまうのは仕方のないことです。
まず編成の違いもありますね。レイノルズの方は室内オーケストラにピアノを加えた編成。こちらは取り合えずフル・オーケストラのようです。しかし、なんとなく不満を感じるのは、恐らく楽器の使い方が平板なせいかも。例えば、あの「展覧会の絵」の編曲を思い出せばおわかりかと思いますが、ラヴェルの編曲と、他の誰かの編曲を比べた場合、かなりの色合いの差がでるではないですか。今回もそんな思いを強く抱きました。
パヌラ氏のオーケストレーションは、弦と菅の役割がはっきり分けられているように感じます。だから驚きが全くないのです。アルマのピアノ譜を見るとわかるのですが、ピアノと声が同じ動きをする部分が非常に多いのですね。で、その同じ動きの部分を受け持つのが弦、対旋律を受け持つのが菅。乱暴な分け方かもしれませんが、大体こんな感じです。弦主体なので、ひたすら音色が甘くなり、まるでポップス・オーケストラを聴いているかのような安心できる響き。ところどころで聴こえてくるハープの調べが、その気分を一層盛りたてます。アルマの曲って、もっと前衛的な響きがあったはず・・・・。
最初にも書いたとおり、完全全曲盤なので、リルケの詩につけた「最初の花がゆれている」も収録されていますが、こちらも、レイノルズのような甘酸っぱい切なさが感じられませんでした。残念残念。
物足りなさを感じつつも、とにかく彼女の歌曲集は入手しただけで満足の「おやぢ」でした。

10月18日

STAR BOX
Ray Coniff
Ray Coniff and the Singers
ソニー・ミュージック/MHCP 60
先日ご紹介したミッチ・ミラーと同じシリーズのコンピレーションです。品番も1番違い。レイ・コニフという人、ミッチ・ミラーほど有名ではありませんが、やはり誰にも親しまれるコーラスを作り上げたということで、70年代には絶大な人気を誇っていました。そもそも、レイをコロンビアに引っ張ってきたのがミッチ、スタート時点で、浅からぬ縁があったのです。
このアルバムには、1956年から1990年という、30年以上に渡る彼の足跡が収められています。レイ・コニフはもともとはジャズ畑のトロンボーン奏者、ビッグ・バンドのホーンセクションを、コーラスで歌わせたというのが、彼の出発点でした。そのような初期のサウンドの代表が1960年の「ベサメ・ムーチョ」、歌詞をつけないスキャットで、男声はトロンボーン、女声はトランペットとユニゾンで歌っているのが、特徴です。器楽的にフェイクがかかったフレーズをコーラスにするという発想がとてもユニークで、このナンバーはいつ聴いても新鮮な響きを味わうことが出来ます。
1964年を境に、彼らはスタイルを一新、スキャットを捨てて、普通の歌詞の入った歌を歌うようになります。それは、決してオリジナルを作るようなことはない、その時々のヒット曲を彼らなりの味付けでカバーするという、イージー・リスニングの王道を行くスタイルです。しかし、彼らの場合、ブラシを多用した軽やかなリズムセクションと、独特のシンコペーションでメロディーに見事なアクセントを与えるという、常に変わることのないサウンドを貫いて、多くのファンを虜にしたのです。ハワイアン(Pearly Shells)であろうが、ミュージカル(Cabaret)であろうが、はたまたバート・バカラック(Raindrops Keep Fallin' on My Head)やスティーヴィー・ワンダー(I Just Call to Say I Love You)のヒット曲であろうが、彼らの手にかかれば、なんの屈託もない幸せ感いっぱいの音楽に変貌するのです。まるで、あの甘いチョコレート(それは、レイ・トリュフ)。ミッチ・ミラー譲りの、誰にも聴き取れるはっきりした発音の歌詞も、魅力の一つです。
彼らは何度か来日してコンサートを行っていますが、それはまさに「ショー」と呼ぶにふさわしい楽しいものでした。そんな雰囲気を収めたライブアルバムも、ぜひCD化して欲しいものです。ちなみに、20年ほど前に出ていたCDと今回のもので同じ曲(Yesterday Once More)があったので比べてみたのですが、その音はまさに雲泥の差、ここに至るまでのマスタリングの技術の進歩を目の当たりにする思いでした。
ほんのちょっと前にテレビで来日コンサートを見たような気になっていたのですが、レイ・コニフは昨年お亡くなりになっていたことを、ライナーを読んで知りました。金髪のカツラをかぶり、自らもトロンボーンを演奏しながらバンドを率いていた元気な姿は、もう生で見ることは出来ないのですね。そういえば、少し年上のミッチ・ミラーはまだご存命なのでしょうか。

10月15日

GODOWSKY
Schubert Transcriptions
Konstantin Scherbakov(Pf)
MARCO POLO/8.225187
近頃、ポップスの世界では「カバー」や「リバイバル」が大流行のようですね。いつかも書いたように、印象的な音楽を耳にすると、最初に聴いた時のシチュエーションまでが脳裏に鮮やかに浮かび上がってくるんですよね。(映画音楽などはその最たるものでしょう。)そのせいか、装いも新たにリメイクされた昔の名曲が、ふと街の雑踏の中から聴こえてくると、何ともいえない懐かしさと一抹の恥すかしさすら覚えてしまうのです。
そうかと思うと、マスターのように、リメイクされた曲がCMに使われた場合、その用法に誤りがあると妙な違和感を覚えてしまったり・・・。こんな場合は、あくまでも“原曲は単なる素材である”と自分に言い聞かせるほか対処法がないようにも思えるのです。
さて、今回のゴドフスキ作品集も、そんな心がけが必要な一枚です。曲は、おなじみ「シューベルトの歌曲による編曲集」ですね。そう言えば、以前、私はリストのトランスクリプションを聴いて、ちょっと違和感を感じたものでした。(遠い目)そう、あの時はたった一つの音形の違いに拘ったのでしたっけ。しかし、このゴドフスキを聴く場合はそんな事は言ってられません。「あくまでも素材だと心得よ。」「ははぁ、お代官様」なんて、すっかり、ちょんまげ my ラブの心境で聴き進めます。
まず冒頭に置かれているのが、「パッサカリア」です。これは、かの未完成交響曲の冒頭の8小節を手を替え品を替え、20分間もの長さで執拗に繰り返すというもの。まさに「パッサカリア(ゆっくりとした3拍子の変奏曲の一種)」の見本のような曲で、このしつこさを表現するには、「どんぶりでプリンを作って一人完食」とでも言えば良いのでしょうか。以前、アムランの来日コンサートで聴いた時は、日本初演だったせいもあり、予備知識もなかったので、「いつ終わるのか」と不安になったものでした。最近は、変奏の鮮やかさに耳が慣れたせいか面白く聴けますが、それでもしつこさは相変わらず。よく言えば「天国的な長さ」です。
そして、問題の歌曲編曲集。もうゴドフスキはやりたい放題です。かと言って、ソラブジのように原曲を完全に破壊しているわけではありません。本当にカバーの世界です。シューベルトが絶対に用いる事のない、半音階的手法で彩られた本来素朴な歌曲の数々を聴くにつれ、私の頭の中は違和感と陶酔感がないまぜになっていきます。比較的原曲に忠実な「しぼめる花」すら、妖しい響きがちりばめられています。私の好きな「焦燥」に至っては、もうすっかり別のもの。本来水車小屋で苦悩するはずの若者が、ネオンのざらついた喧騒の街の中で苦悩しているかのよう。冬の旅の「おやすみ」も全く寂しさを感じないナイスな曲になりかわっています。リストの時に、ちょっと悲しかったあの曲、「どこへ?」。付点音符の効いたノリの良いメロディを聴いていると、ここでも一抹の恥ずかしさを覚えてしまいます。かの陽水の「少年時代」がラップとして生まれ変わった場合とよく似ていますね。(ちなみにメロディ自体はシューベルトの原曲に忠実です。)
とは言え、全曲を通して聴いていると、なかなか面白いことも事実。何より溢れるばかりのピアニズムを体感するにはもってこいの曲ばかり。演奏しているコンスタンチン・シェルバコフ氏はNAXOSレーベルでショスタコの「24のプレリュードとフーガ」などをリリースしている実力派。安心して名技を楽しむことができますよ。何しろ、力持ちですし(それは、シェルパコフ)。

10月13日

STAR BOX
Mitch Miller
Mitch Miller/
The Gang and Orchestra
ソニーミュージック/MHCP 59
かつて、「ミッチと歌おう」というテレビ番組で、日本中のお茶の間の人気者だったミッチ・ミラー、多少セクハラ気味のところはありましたが(それはエッチ・ミラー)、本国アメリカでの人気ぶりは、先頃公開され、すでにDVDも発売されている「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」という映画を見れば分かります。詐欺師のディカプリオにまんまと騙された女の家庭では、この番組が始まる時間になるとお父さんが家族全員を呼び寄せて、テレビの前に座るのです。歌が始まれば、ミッチの指揮に合わせて涙を流しながら一緒になって歌う、そんなワンシーンがあるのですが、これは家族を捨てたディカプリオが家庭の温かさを味わうという象徴的なシーン、ということは、あの時代、このような光景がどこの家庭でも見られたというのは、誇張などではなく紛れもない現実だったのでしょう。
そのようなミッチ・ミラーの60年代のアルバムは、アメリカでは少しずつCD化され始めているようですが、国内盤ではなかなかリリースされるチャンスはないようです。そんな中で、待ちに待ったというか、何で今頃という感じで国内盤のコンピレーション・アルバムが発売になりました。これで、このサイトでミッチ・ミラーのことを知っても音を聴くすべの無かったという人が、容易にその演奏に接することが出来るようになりました。
選曲は、大御所青木啓が行っています。さすが、と言うべきでしょう、日本人に親しまれてきたレパートリーを漏らさず収録した、絶妙のコンピレーションになっています。「ミッチと歌おう」の、と言うよりこの合唱団のテーマ曲である「Sing Along」で始まって、「蛍の光」で終わるという構成も洒落ています。「ボギー大佐」や「史上最大の作戦」のような映画音楽(これがオリジナル)、「いとしのクレメンタイン」や「ユー・アー・マイ・サンシャイン」のようなアメリカの愛唱曲など、この珠玉の20曲を聴けば、この合唱団がなぜあれほど人の心を虜にしたのかが、分かるはずです。そして、そのハッピーな歌声は、現代に於いてもその輝きを失っていないことに気づくのも、容易なことです。
実は、私が最も楽しみにしていたものは、「大脱走マーチ」。あれほどヒットして、間違いなく彼らの代表作であったにもかかわらず、現在入手できる正規CDには、なぜか収録されていなかったのです(通販や海賊盤っぽいものには入っていましたが)。何十年かぶりに聴けた「大脱走」は、しかし、確かに懐かしい演奏ではありましたが、その音にはいささか問題が。ここに収められていたのは疑似ステレオバージョン、しかも、なんとなく「板起こし」っぽい歪み、妙に薄っぺらな、バランスの悪い音でした。もしかしたら、このあたりがネックで(マスターテープが存在しない)、今までのCDには収められていなかったのか、とも勘ぐってしまいます。
いずれにしても、この手のコンピはそうそういつまでも市場にあるものではありません。早めに入手することをお勧めします。

10月11日

Bravissimo I
上海太郎舞踏公司B
ユニバーサル・ミュージック
/UCCS-1028
以前ご紹介した上海太郎舞踏公司B、「朝ごはん」がパワーアップして再登場です。とは言え、ジャケ写なんかは前作と同じ。ちょこっとタイトルを替えただけと言うのがちょっとショボイかも。内容も、前作の「朝ごはん」と「風呂屋で」はそのままに、あと4曲足して、シングルCDからミニアルバムに昇格させたもの。こんなものに2000円(税込み)も払えるか!と思い、今日までほったらかしておいたのです。
でも、どうしても気になって仕方ない。CD店に行くと、先週の売上BESTにランキングされているし、もともと、あの“朝ごはん”のくだらなさというか、キッチュさは私好み。今日買う予定だった「アルマ・マーラー歌曲集」は次回に回して、やっぱり買って帰りましょう。
と、いうわけで聴いてみました・・・・・。激しく後悔しました。「なぜ今まで放っておいたのだろう?」あ〜あ〜あまりのくやしさ涙が出てくるわたし(すっかり、はまってます)そうなんです。面白いです。簡単に内容を紹介しましょうか。
「不思議の国のヒトミ」
かの“アイネ・クライネ”の軽快なメロディーが女子高校生ヒトミさんの日常生活を表現するのに、ここまでぴったりだったとは。朝寝坊して遅刻しそうになり、電車を間違え、お弁当を忘れて呆然自失の彼女の運命やいかに。まさに手に汗握る物語でした。
「愛と麻雀のボレロ」
お馴染みラヴェルのボレロで「麻雀やりたい麻雀やりたい」言われても・・・。あのリズムに乗って呪文のように果てしなく続く「ポン、チー、ロン」というコーラスが印象的。
「高い声のタコ焼き屋のおばちゃん」
営業不振に悩むタコ焼き屋のおばちゃん、その苦悩をなんと“魔笛”の夜の女王のアリア「復讐の心は地獄のように燃え」のメロディに載せて歌いまくります。この迫力は、かのジェンキンスおばちゃんと双璧をなすのです(もちろんこちらの方が格段に上手い)。
そして、この曲集の白眉とも言える「雪子」。
この曲は、なんでもあまりの内容の過激さ故か、私の行きつけのCD店ではストアプレイ禁止になったのだとか。でも、内容としてはそんなにヘンではない(ような気がします)。モーツァルトのディヴェルティメントNo.17、第3楽章のメヌエット。この気品溢れる旋律に乗って歌われるのは、若い男女のお見合いの場面。初対面のはずなのに、なぜか彼女に見覚えのあるよしひこさん。どこで見たのか思い出せないまま15年が経過。そしてある雪の夜明かされる衝撃の彼女の正体!
ねっ。面白いでしょう?
この手のアルバムは、実際に聴いてみるのが一番です。ちなみに、これを手下(25歳♀)に聴かせたところ、笑いころげてしまって仕事になりませんてした

10月9日

高橋悠治
ぼくは
12
竹田恵子(Sop)
高橋悠治(Pf)
ALM/ALCD-7071
12歳で投身自殺した在日韓国人二世が残した詩を両親が出版、その中から悠治が選んで曲を付けたものが、タイトル曲の「ぼくは12歳」、1977年に作られました。当時の悠治のスタンスは、極めて政治色の強いもの、この曲にも、おそらく詩を書いた本人の思いを遙かに超えた、過激なメッセージが込められていると、当時は思ったものです。悲惨な食生活の実態とか(それは、「ぼくは一汁一菜」)。事実、初レコーディングを行った中山千夏(往年の名子役、歌手。「ひょっこりひょうたん島」のハカセの声・・・と言えば、分かるかも)とともに、この曲が演奏された場というのは、主に政治的な集会だったのです。そのレコーディングにも参加した当時の中山の夫、ジャズ・ピアニストの佐藤允彦が、そのあたりの活動を機会に離婚を決意したというのも、何か象徴的なものが感じられます(真相は誰にも分かりませんが)。
その後、矢野顕子が第1曲目の「みちでばったり」を自分のアルバムで取り上げたことによって、この曲は新たな運命をたどります。「現代作曲家」と、「民衆運動の闘士」という、どちらか一つだけでも決してメジャーにはなり得ない肩書きを2つも持っていた人が作った曲が、ポップ・ミュージックとして幅広い聴衆を獲得してしまったのですから。
今回の竹田恵子の演奏からは、そのような時代のふるいにかけられたこの曲が、作られた当時の政治的な背景にとらわれない一個の作品としての素顔を見せていることが如実に感じられます。元は5人のアンサンブルだった伴奏もピアノ1台用に編曲されています。作曲者自身による演奏で明らかになるのは、その複雑きわまりない音の構造です。表面的に聞こえてくる韓国民謡のモードにごまかされがちですが、これは確実に高度の作曲技法と卓越した感受性がベースにある音楽、「ぼくはうちゅうじんだ」の伴奏を聴けば、そのことは容易に理解できるはずです。そして、その中から聞こえてくるあくまでも無垢なうた。
ただ、この、ややクラシカルな発声を聴くに付け、おそらく、イノセンスという点では、初演の中山千夏の方が数段勝っていたのではなかったかという思いは募ります(矢野顕子の押しつけがましさは論外)。もしかしたら、曲自体は何も変わってはいなくて、ただ、周りの状況だけが変わっていたということなのかも知れません。そう思わせられるだけの、初演時には感じられなかった完成度を、この曲に発見できたのが、このCDのひとつの収穫です。
もう一つの収穫は、最後に収録されている最新作「きく」。2000年の悠治自身の詩をもとに、このレコーディングのために作られた作品ですが、歌い手が「ささやく」「つぶやく」「語る」「吟ずる」「うたう」という5段階の表現を駆使して多分に即興的な要素を含みつつ繰り広げる世界は、圧巻です。表面的な心地よさを追求しがちな最近の作曲シーンには背を向けた古典的とも言えるある種の潔さ、「闘士」としての悠治はいまだ健在です。

10月5日

SCHUMANN
Carnaval etc.
Nelson Freire(Pf)
DECCA/473 902-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1094(国内盤)
そろそろ巨匠の域に達したと言っても良い?ネルソン・フレイレの新譜です。その味はまさに絶品(それはフカヒレ)。今回はシューマンの謝肉祭、蝶々、子供の情景、そしてアラベスクと極めてオーソドックスなプログラムです。彼の絶大なる自信が感じさせられると言ってもよいのではないでしょうか。
まず、謝肉祭から。私はこの曲が好きで、今までにも何人もの演奏を聴いてきましたが、(CDでも実演でも)なかなか「これ」という演奏には巡り合えないものですね。ポリーニやキーシンみたいにさらっと弾いてしまうと全く面白くないし、(めちゃくちゃ巧いけど)かと言ってあのルイサダみたいに芝居っ気たっぷりに演奏してくれても、ちょっと白けてしまうのです。そう、演奏家の思い入れの入る余地がたっぷりあるだけに、却って難しくなってしまう代表のような曲と言えますね。
このフレイレの演奏は、どちらかと言うと「さらっとした」部類に入るでしょう。テンポも速め。大抵25分以上かかる全曲を2319秒で弾ききっています。シューマン特有のねちっこい曲などは多少の物足りなさを感じる向きもありましょうが、しかし、どの曲も細部はものすごく考え抜かれていて、手の込んだ仕掛けを施してあるなと感じさせてくれるのです。ふっと聴き逃してしまいそうな部分にすら、細やかな味付けがしてあるのはさすがベテラン。輝かしい終曲の「行進曲」などはあまりの見事さに思わず4回も聴き直してしまったくらいです。
この「謝肉祭」には、次の曲のテーマである「蝶々」のメロディが効果的に使われているのですが、そこら辺の関連付けもばっちりです。続けて聴いていると、まるで全てが一つの曲集のように思えるくらい纏まっているのですから。シューマンの内的世界を読み解くには、聴き手としても相当の下準備を必要とするといわれています。(それがなかなか面倒で、あまり深入りしたくないのです・・・・)「蝶々」も、本来はジャン・パウルの小説にインスパイアされて書かれたもの。もちろん遊び心も謎掛けもたっぷり含まれていることでしょう。しかし、フレイレの演奏を聴いていると、そんな勉強をしなくても、ただただ聴いているだけで何となく全てがわかった気がするのが不思議です。なぜシューマンがここで同じテーマを使ったか、また複雑に書かれた内声部の役割、そんな諸々の事情が透けて見えるような、謎解きのようなとでも言いましょうか。ここでも終曲が素晴らしく、たくさんの声が呼び交わす中に流れる鐘の音。シューマンの真の意図はわからないものの、想像力を喚起させるには充分過ぎるほどの描写力といえましょう。
「子供の情景」も、過度なセンチメンタリズムに陥ることなく、程よい甘さと優しさで、聴き手の心をくすぐります。「いぶし銀のような」というのがぴったりの味のある、大切にしたい1枚です。

10月3日

MOZART
Requiem
Yuri Temirkanov/
State Academic Russian Chorus
Moscow Philharmonic Orchestra
MELODIYA/MEL CD 10 00434
ロシアのMELODIYAというレーベルは、かつてはソ連(死語)唯一のレーベルとして、特異な位置を占めていました。ある時期まではほとんど西側(これも死語)でレコーディングをすることのなかった巨匠たちの演奏は、神秘のヴェールに包まれた貴重なものだったのです。
ソ連崩壊に伴って、このレーベルも「自由化」が図られ、さらに96年頃からはなんとBMGが販売権を獲得、RCAなどと一緒に、ごく普通に新譜(新録ではありませんが)が紹介されていたのも、記憶に新しいところでしょう。しかし、このBMGとの契約も切れ、MELODIYAは再び神秘的なレーベルへと逆戻りしてしまいました。たまたま店頭で見付けたこのCDも、ジャケットにはロシア文字、作曲家もロシア表記で、このままでは見当が付きませんが、なぜか曲名だけが英語になっているので、その作曲家がモーツァルトだと、見当が付いたもの。テミルカーノフが演奏したモーツァルトのレクイエム、これは、今までのカタログではついぞお目にかかれなかったアイテムです。
ムラヴィンスキーやスヴェトラーノフ亡き後、ロシアを代表するカリスマ指揮者の名を恣にしているテミルカーノフですが、これは198312月、モスクワでのライブ録音、さすがというか、やはりというか、その当時でなければ決して出来えないような、ものすごい演奏が聴かれます。なんと言っても、合唱の国立アカデミー・ロシア合唱団が、まさに「ロシアの大地」といった、他の国の人にはどんなことをしても真似の出来ないような歌い方をしているのが最大の注目点。かなりの大人数で、最初の音が必ず下からずりあげるように入ってくるという独特の唱法が徹底されており、その結果、モーツァルトには程遠いけれどそこからわき上がるエネルギーには圧倒されないわけにはいかないという、不思議な世界が展開されています。テノールの、まるであたりを憚らない朗々とした歌い方も、モーツァルトとさえ思わなければそこからはある種の一徹さすら感じることが出来るでしょう。
ソリストたちも、まるでムソルグスキーのオペラのような雄大な表現を目指しています。特に、「Tuba mirum」でのレイフェルクスのバスからは、この曲からは絶えて聴いたことがなかったような、広々とした世界を感じることが出来るはずです。しかし、それに続いて出てくるテノール(ユーリ・マルシンという人)の情けないこと。この対比がたまらなくて、死者を悼むための曲なのに、思わず吹き出してしまうのも、決して他の演奏ではあり得ない体験です。
この演奏を聴いて思いだしたのが、あのゴロワノフのCDです。モーツァルトであろうが何であろうが、力ずくでロシアの音楽性に同化させてしまうというエネルギーは、時代を経て薄まってはいますが、確かに脈々と受け継がれているのでしょう(恐ロシア!)。そして、おそらく現在では、いかにテミルカーノフでもここまでやることはもはや無いだろうという、演奏様式の変遷を語る上で極めて貴重な記録が、ここにはあるのです。

10月1日

SCHUMANN
Das Paradies und die Peri
掘俊輔/
オラトリオ東京
東京交響楽団
LIVE NOTES/WWCC-7453
最近、海外のレーベルの推移には目を見張るものがあります。安泰だと思ってたPHILIPSERATOが衰退してしまったり、その隙間を縫って、RCAがやたら元気だったり。まあ、往々にして元気のないメジャーレーベルを尻目に、マイナーレーベルは着々とリリースを重ね、私たちファンを喜ばせてくれているのが現状です。
そんな中、日本のマイナーレーベルもがんばってます。今回の1枚は、その中でもピカイチのLIVE NOTES(ナミ・レコード)の新譜です。このレーベルは、恐らく日本の録音業界の事情に一番詳しい責任者のもと、毎月3〜4枚のペースで、日本人の優秀な演奏家の良質なアルバムを供給。このコンセプトには全く頭が下がるというものです。野平一郎さんのベートーヴェンソナタ全集も進行中。こちらも注目していますよ。
さて、その新譜はこれまた珍しいシューマンの「楽園とペリ」というもの。以前ダウス盤をご紹介しましたが、楽園を追放された天使が、また楽園に戻るために天の心に叶う捧げものを探すという物語です。球団を追放された野球監督の話ではありません(それは、「後楽園とハラ」)。この曲自体の録音が少ないものですから、これは本当に貴重な記録と言えましょう。何はともあれ、こういう作品については曲や演奏の出来不出来についてどうこう語るよりも、このような形になって世に出て、1人でも多くの人の手に渡ることが何よりも大切だと思うのです。
演奏は、掘俊輔指揮東京交響楽団、オラトリオ東京による合唱、日本を代表するソリストたちによる歌唱です。主人公のペリを歌っているのが、ドイツ在住のコロラトゥーラ釜洞祐子さん。ボーイソプラノと見紛うばかりの「穢れのない清純な声」で、堕天使の切実な思いを歌いあげます。他の独唱者もみな水準が高いのですが、なかでも一際耳を捉えたのが最近注目のテノール、五郎部俊朗さんの声でしょう。柔らかく張りのあるビロードのような声は一度聴いたらちょっとやそっとでは忘れることができません。
オーケストラでは金管などに多少のばらつきが感じられるものの、総じてひたむきな演奏。溢れる思いに胸を打たれます。
親切な日本語の解説も読み応えがあります。原作に対して、シューマンがかなりの加筆したこと、そしてその部分にとりわけ美しい音楽が付けられている事。それを知ることができたのも大きな喜びでした。

9月29日

MESSIAEN
Éclairs sur l'Au-delà
Sylvain Cambrelling/
SWR Sinfonieorchester Baden-Baden und Freiburg
HÄNSSLER/CD 93.063
1992年に83歳で亡くなったメシアンの、完成されたものとしては最後のオーケストラ作品が、この「彼方の閃光」です。包んでなくて申しわけありませんが、ご仏壇にお供えして、ご供養を(それは、「裸の線香」)。「来世の稲妻」などという表記もあるこの曲は、ニューヨーク・フィルの創立150周年記念として委嘱されたものですが、なぜか作曲家の生前には演奏されず、ズビン・メータ指揮のニューヨーク・フィルによって初演が行われたのは死後半年以上経った199211月5日のことでした。
曲は、例えばフルートとクラリネットがそれぞれ10本などという、非常に大きな編成を必要とするものですが、「トゥーランガリラ」のように、ピアノやオンド・マルトノといった特別な楽器は入ってはいません。しかも、全ての楽器が一斉に使われる箇所はほんの少し、全部で11曲から成るそれぞれの部分で、あるところでは弦楽器だけ、別の部分では管楽器だけといったような、ある意味不経済な使われ方をされているのです。そんな、曲ごとに楽器編成が異なるという作品ですぐ思い出されるのが、有名な「世の終わりのための四重奏曲」ではないでしょうか。曲全体の雰囲気も、この2曲は何か共通点が感じられます。「四重奏」でヴァイオリンやチェロのソロが延々といつ果てるともない甘美な歌を紡いでいたシーンは、ここでは5曲目や11曲目の、まるで「癒し系」のような弦楽器だけによる合奏と、見事な対を見出すことが出来ることでしょう。
このように、50年前の作品と比較してみても類似点が見つかると言うことは、メシアンがいかに作曲技法の上で生涯変わらないものを追求していたかという証となるわけです。この曲はその意味で、彼の技法の集大成とも言えます。独特の旋法は磨き抜かれた滑らかなものになり、そのメロディーラインからは巧まずして「祈り」が湧き出てきます。計算され尽くしたリズム・パターンからは、生命の息吹のようなものすら感じられるでしょう。そして、彼のアイデンティティでもあった「鳥の声」、ここでは、例えば2曲目で見られる6本のフルートによるギリシャやアフリカの鳥の歌が、見事なまでのポリフォニーに昇華されています。
この曲の録音としては、ヨーロッパ初演を行ったチョン・ミョンフンによるDG盤を始めとして、今までに3〜4枚が世に出ています。それらは皆、ほぼ1時間前後で演奏が終わっていたのですが、今回のカンブルラン盤は、トータル・タイムがなんと7629秒、異常とも言える遅さです。これは、ゆっくりとした曲がさらにゆったりと、まるで足を引きずるように演奏されているため。そのために、本当はとてつもない緊張感に支配されるはずなのでしょうが、あいにくアインザッツなどの精度が恐ろしく悪いため、ただのダレた演奏にしか聞こえないのは、残念なことです。これが成功していれば、この世のものとは思えないような静謐な世界が現れていたことでしょうが。

きのうのおやぢに会える、か。


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