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タバスコの夜....渋谷塔一

(00/12/20-00/12/31)


12月29日

POULENC
Secular Choral Music
Eric Ericson/
Netherlands Chamber Choir
GLOBE/GLO 5205
エリック・エリクソンという、くどい名前の指揮者が広く知られるようになったのは、ごく最近のことです。アバドがベートーヴェンの「第9」を録音したときに起用したのが、「エリック・エリクソン室内合唱団」。実は、この合唱団は以前は「スウェーデン室内合唱団」と言われていたものですが、長年この合唱団の指揮者だったエリクソンが後進に道を譲った際に、その実績をたたえて改称したものなのです。
この合唱団と、「スウェーデン放送合唱団」(前述の団体とは、メンバーが重複していると言われています)の指揮者だったエリクソンは、「合唱の神様」という、いささか大げさな呼び名で、合唱関係者の間では以前から有名な存在でした。「ザラストロと夜の女王は実は夫婦だった」というショッキングな設定の、名画としての誉れ高いベルイマン監督の「魔笛」のサントラを担当したのも、実はこの方。
で、フリーの身になったエリクソンは、最近では様々な合唱団の客演をするようになっていますが、この「オランダ室内合唱団」もその一つ。2年程前にプーランクのア・カペラ宗教合唱曲をリリースしていましたが、今回はその世俗合唱曲編です。この合唱団は、最近ではフランス・ブリュッヘンの18世紀オーケストラと来日して、モーツァルトのレクイエムの素晴らしい演奏を披露してくれました(GLOSSAからCDも出ています)。
というわけで、有名な指揮者と有名な合唱団の共演、期待はいやがうえにも高まろうというものです。ところが、なぜか、素直には楽しめない演奏なのですね。プーランクの持ち味である洒脱感というものが、まるで伝わってこないのです。「人間の顔」などは確かに重たい曲ではありますが、なにもここまでしなくてもいいのではないかと思ってしまいます。「酔っ払いの歌」だって、もっともっと羽目をはずしてもらいたいもの。
思うに、エリクソンというのはとても真面目な方なのでしょう。その人間性が生かされればとても格調の高い演奏が実現するのでしょうが、この作曲家のこのような曲には、いささか荷が重いというか、オーバースペック気味。かくして、軽さからは程遠い鈍い演奏になってしまいました。
合唱団の張り切りすぎた発声もそぐわないもの。しっとりした音色で私が感激したモツレクの時のメンバーと比較してみると、おそらく半数以上が入れ替わっているのでしょう。合唱団というのはまさに生き物、コンディション次第ではとんだ劣悪なものがでてこないとも限らないということなのでしょうか。さらに、レベル設定のミスという初歩的な間違いを犯した録音スタッフも、敗因の一つに数えられるでしょう。聴き終わって、えらく損をしたような思いを抱きました。

12月28日

BRUCKNER
Symphony No.2
Stanislaw Skrowaczewski/
Saarbücken Radio SO
ARTE NOVA/74321 77065 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCE 38029(国内盤)
北国はもう雪の中、ブルックナーこそは寒いときに聴きたいものですね(アンマン・ブルックナーで体を温めましょう!)。とか言ってますが、じつはおやぢはブルックナーが苦手。マスターのようにきちんと分析して聴いたりできませんし、特にこの2番などは、ほとんど聴いたことがないのですよ。でも、スクロヴァチェフスキーの演奏は大好きですから、この曲も何の予備知識もなく聴いても、きっと面白いだろうという予想は大当たり、私の好きな曲がまた増えました。
第1楽章は、初期の作品の特徴なのでしょう、ところどころに妙なリズムで別な楽器がからんでいたりします。こんなところが、いかにも血気盛んなブルックナーという感じで、後期のある種整ったものにはない魅力を感じます。
第2楽章はとてもメロディアスな歌にあふれています。特にこの演奏は、すべてのパートがきちんと歌っていますから、音楽がとても自然に流れていきます。
第3楽章はお決まりのスケルツォ。でも、荒々しさは感じられず、とても洗練された響きが聴けます。
これが第4楽章になると、この洗練さを保ったまま昂揚感が増してきます。交互に挿入される穏やかな部分との対比がとても見事。ちょっと変な感想なのですが、一瞬、まるでウェーバーを聴いているような錯覚に陥ってしまいました。やはり、ブルックナーというのはドイツロマン派の正当な後継者となのだないう感慨を新たにしたわけでして。
この楽章の最後、終わるかなと思うと別なエピソードが出てきてなかなか終わらないでいるうちに、いきなりというか、無理やり長調になって終わるというとても不器用なことをやっています。こんなところも、ほほえましさを感じて、好きになってしまうところ。
スクロヴァチェフスキーと、ザールブリュッケン放送響という息のあったコンビは、各パートがとても自発的、なおかつ、お互いの演奏を良く聴きあっているのが良く分かります。同じフレーズを全くニュアンスを変えずに受け渡すという見事な芸が、いたるところで聴けます。
妙なハッタリなど一切用いないで、曲自身に本来持っている魅力を語らせているという、とても自然な演奏なのでは。
暖かさとともに、ある種の清涼感も味わえるという、オールシーズンの用途につかえるCDですね。

12月26日

PICCOLO MARMELADE
Jean-Louis Beaumadier(Picc)
CALIOPE/CAL 9290
ご幼少のみぎり、テレビでのお気に入りは着ぐるみの3人組、袋小路じゃじゃまる、ポロリ・カジリアッチ3世、そして、フォルテシモ・ピッコロでした。今ごろはどこでどうしているのやら。そう、ピッコロちゃんはフンボルトペンギンの女の子、裏表山猫と海賊ねずみを従えて、元気にがんばっていましたっけ。
えっ、そのピッコロじゃないんですか?失礼しました。そうですよね。おやぢが「おかあさんといっしょ」なんて、ちょっとブキミ。
フルートの1オクターブ上の音を出す楽器ピッコロは、イタリア語の「小さな」という形容詞から命名されたものです。正確には「フラウト・ピッコロ flauto piccolo」。しかし、なぜかイタリア人はこの名称を使わないで、「ottavini」と言ったりしていますが。
とても甲高い音を出す楽器なので、本来は独奏楽器には向いてはいないのですが、パリ音楽院出身のフルーティスト、ボーマディエは、昔から大真面目にこの楽器のための曲を録音、CALIOPEレーベルに、数多くのディスクを残しています。
今回のCDは、「ピッコロ・マーマレード」というタイトルのとてもお洒落なアルバムです。その名のとおり、バッハから現代の作曲家までの、オリジナル曲から編曲物まで、一緒くたになったもの。ただ、アルバムの最初と最後を飾っているバッハは、ピッコロ、マリンバ、ヴィブラフォンという面白い編成で、他の現代曲との違和感は全くありません。「組曲第2番」が、まるでおもちゃ箱のような印象に変わっているのも、新鮮な驚きです。
ボーマディエのために作られたピッコロのためのオリジナル曲は、どれも魅力的で、この楽器の持ち味をいかんなく発揮してくれています。ピッコロとヴィオラ・ダモーレという特異な組み合わせで書かれた「アヴィニョン橋変奏曲」の技巧的なことといったら。さらに、パトリック・ガロワとのデュエットのために、アコーディオン伴奏という形に編曲された、ガニエールの「おしゃべりピエロ」という曲などは、この楽器が生まれながらにして備えているチープな祝祭性といったものを見事に前面に押し出した楽しいものです。これで、ピッコリスト(というのかな?)の音程感覚が正常で、過剰なビブラートを取り去る努力を怠らず、テクニックの修練に時間をかけていれば、このCDはさぞかし美しいものに仕上がっていたと思うのですが・・・。

12月25日

BACH
Goldberg Variations
Angela Hewitt(Pf)
HYPERION/CDA67305
おやぢにとっての「ゴルトベルク」の原体験は高橋悠治。多感な少年時代にライブでこの曲を聴いたときの衝撃は、テレビで見たクーベリックの比ではありませんでした。ステージ上には蓋を取り払ったグランドピアノ。その上のほうには銀色の円盤が吊られていて、反響板の役割を果たしています。ピアノのまわりにはスポットライトが置かれ、変奏ごとに照明が微妙に変わると言う仕掛け。もちろん、そんな外面的な物に惑わされようも無く、悠治の演奏は挑発的なものでした。ペダルはいっさい使わず、音色は極めてストレート、しかし、バッハが書いたすべての音符と、音と音とのつながりに意味を見出さずにはおかないような、鬼気迫るものでした。今になってみれば、それからしばらくして起こったオリジナル楽器のムーブメントの先駆けをこの中に見るのは、とても容易なこと。
指定された反復をすべて省略して、時間が余ってしまったものですから、ロビーで即興の「討論会」を開いたりしたことも、さらに印象を深めた要因だったかもしれません。
このコンサートに先立って録音されたのが、76年のDENON盤。これさえあれば、ゴルトベルクはもういらないとさえ思っていました。
しかし、最近、吉田ヒレカツ先生、ではなく、吉田秀和先生が、「アンジェラ・ヒューイットという人のバッハが素晴らしい」ということを、あちこちでおっしゃっているのを見て、どんなものかと気になり、このCDを聴いてみる気になったのです。
確かに、素晴らしい演奏です。冒頭のアリアからして、一音一音慈しむようなていねいな弾き方。続く変奏は、もちろん繰り返しをすべて行っていますが、2回目になったときには、決して1回目と同じことはやってはいません。最初に左手を強調していたと思うと、繰り返しでは右手を強調したり、歌い方を微妙に変えたりと、同じ曲で2度楽しめます。ウナ・コルダを多用して、音色もとても多彩。痒いところに手が届くような演奏(虫さされにはウナコーワ)、さすが、秀和先生ご推薦だけのことはあります。
おそらく、ピアノという表現力の豊富な楽器で演奏されたゴルトベルクとしては、これは現在望みうる最高の演奏といっても良いのではないかというぐらいに、聞く人に満足感を与えずにはおかないCDです。しかし、そのあまりの雄弁さゆえに、バッハの音楽が持つある種ストイックな面に対する物足りなさを抱くのは、トラウマとして悠治の演奏を背負い込んでいる者の宿命なのでしょうか。

12月24日

FANTASIA 2000
ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント /VWSS4392
(字幕スーパー版セルビデオ)
今回はちょっと趣向を変えて、映画の紹介です。とは言っても、もちろんただの映画ではなく、クラシック音楽を使ったアニメーション「ファンタジア2000」というあたりが、おやぢたる所以。
「ファンタジア」というのは、60年前に作られた音楽アニメの古典、あのレオポルド・ストコフスキーが指揮をした音楽に、ディズニーが映像をつけたものです。で、今回それの続編として製作されたのが、これ。あれだけの名作の「2」ということで、公開にあたっては大々的なイベントが催されました。映画の中で指揮をしているジェームズ・レヴァインが実際に生オケを振って、スクリーンの画像とシンクロさせるというコンサートには、皇族を始め、芸能人、各界の名士が一同に会したといいます。それよりも何よりも、最初のうちは「アイマックス」という巨大なスクリーンを備えた、全国に何箇所も無い劇場のみでの公開でしたから、連日長蛇の列ができて、いやがうえにも特別な映画であるという印象が強まったことでしょう。
そこまで気合を入れて見に行くほどの根性は持ち合わせてはいないおやぢとしては、このたび発売になったビデオとDVDで、炭酸飲料片手にゆっくり鑑賞することになるというわけです(飲み物はファンタ味)。
今回の製作者は、音楽と画像とのミスマッチという点に異常なほどの情熱を注いでいるのでしょう。ありきたりの連想でイメージを抱くのは恥だとばかりに、ことさらへそ曲がりな画像を挿入してきました。その最たるものが、「ローマの松」。この曲で、まるでクリスティアン・ラッセンのようなタッチの鯨たちを浮遊させた日には、この作品全体が「自然保護」みたいなイデオロギーを持たない限りは、とても収まりがつかなくなってしまいます。「威風堂々」をノアの方舟にしたり、「火の鳥」で緑の尊さを謳いあげたのは、そのあたりの気配りなのでしょうか。同じミスマッチでも、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲を「錫の兵隊」のBGMに置き換えたセンスは、文句なしに評価できます。こういう意外な組み合わせから生まれるものこそが、この作品の魅力なのですから。
結局、この60年間にアニメーションの世界で私たちが手に入れたものはいったいなんだったのだろうという素朴な疑問を抱きさえすれば、得られたものよりも失ったものの方がはるかに多かったのではないかという、ややひねくれた指摘にも、たやすく納得させられてしまうことでしょう。とてもしょぼかった「魔法使いの弟子」のサウンドトラックを、見違えるような音に修復した技術のみが、この作品の成果だと言われても、はたして、アニメーターたちに返す言葉はあるのでしょうか。(本稿の執筆にあたっては、サウンド&ヴィジュアルライターの前島秀国氏から寄せられた情報を活用させていただいたことを、感謝を込めて表記するものです。)

12月22日

HOMMAGE À RAMPAL
James Galway(Fl&Cond)
London Mozart Players
RCA/09026 63701 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-31044(国内盤1月24日発売予定)
独奏者としてのフルーティストの地位を確立し、数多くの録音を残した偉大なプレーヤー、ジャン・ピエール・ランパルがこの世を去ったのは、今年の5月のことでした。13歳のときにそのランパルの演奏をラジオで聴いて以来、生涯彼のファンとなったジェームズ・ゴールウェイの、これはいわばトリビュートアルバム。ランパルの十八番だったフランソワ・ドゥヴィエンヌの協奏曲が2曲と、ドメニコ・チマローザの2本のフルートのための協奏曲が収録されています。
ゴールウェイは、ここではバックのオーケストラも振っています(振る人と書いてふるうと)が、ドゥヴィエンヌの第8番の協奏曲が始まった瞬間、そのオーケストラの生き生きとした音に引き込まれてしまいます。彼のフルートと同じ肌触りを持ったどこまでも伸びやかな音楽。そのゴールウェイ、もう60歳をとうに超えているはずなのに(録音は99年)、テクニックにはいささかの衰えも見られません。これは、いつも感心させられることなのですが、彼の場合、どのような難しいパッセージでも、テンポが乱れるということが決してありません。もちろん、表現としてのルバートやアゴーギグはありますが、技術的な困難さに起因するごまかしというものがいっさい無いのです。この点に関しては、本家のランパルには数段水をあけています。このような曲でのランパルのいい加減さといったら。
もちろん、あの誰にも真似の出来ないとてつもなく多彩な音色も健在です。2楽章では、それにたっぷりとした歌いまわしが加わって、極上の工芸品のような肌触り。
3楽章では、茶目っ気たっぷりの軽快さが見られます。ただの音階のなんと音楽的なことでしょう。そして、どこを取ってみても、出てくるのはゴールウェイの顔。これはもう、好きな人にはたまりません。
7番のほうも同じこと、とても楽しめます。これらは、有名な曲ではありませんし、セールス的には問題があるのでしょうが、ゴールウェイが吹けばこんなに素晴らしいものになるのです。「リラクゼーション」などには目を向けないで、このあたりのレパートリーをもっともっと録音しておいて欲しいものなのですが。
チマローザのほうは、奥さんのジーニーとの共演です。ここでは、ゴールウェイは相手を気遣ってかなり歩み寄った演奏をしています。その結果、ドゥヴィエンヌほどの奔放さは見られません。何よりも、2人の音色、音楽性があまりにも違いすぎるものですから、アンサンブルとしての魅力に物足りなさを感じてしまいます。そういえば、かのランパルの録音でも2番フルートは指揮者の奥さんかなんかで、かなり悲惨なものだったのですよね。

12月21日

渋谷牧人作品集
「ひかりあれと ねがふとき」
Ensemble Patata
自主制作盤
音楽の世界では、プロとアマチュアの差というのは歴然としています。と言うより、求められているものが全く違っているのでしょう。プロのオーケストラがマーラーを演奏できなければもはや廃業するしかないわけですが、アマチュアではマーラーが出来なくても何の恥にもなりません。実情に合ったことを、無理をしないでやっていれば、そこそこ楽しめるものなのです。
作曲家の場合でも、同じこと。何をもってプロと認定されるかという点については、意見が分かれるところですが(クラシックの場合、作曲だけで生活している人など、日本においてはほんの一握り。)、少なくとも、依頼人の要求を満足させるだけの器用さを備えていないことには、職業としてはやってはいけないはずです。自分がやりたいことを貫くためには、アマチュアでいたままのほうが良いのかもしれません。
今回のCD、そのような、やりたいことがいくらでもある才能ある若者が、気心の知れた仲間たちと自分の作品を録音したというものです。
曲を作った渋谷さんは、ここで演奏している「アンサンブル・パタタ」のチェロ奏者。自らも演奏に参加しています。
さて、曲を聴いてみましょうか。何の予備知識も無く聴かされたら、おそらく、これらの曲がごく最近作られたと考えるのは難しいかもしれません。それほど、無理のない、どこか懐かしささえ感じられるようなたたずまいです。
アルバムタイトルにもなっている弦楽合奏のための曲は、まるでシェーンベルクの「浄夜」のような雰囲気を持っていますが、あのような退廃的なテイストは皆無。あくまで分かりやすいメロディーと、期待を裏切らない和声でもって、私たちを心地よい世界に誘ってくれます。おそらく、ちょっと間違えると「癒し」という鼻持ちならないカテゴリーに分類されてしまいそうな印象ではありますが。
アルバム全体を支配するのも、そのような、「これ、どっかで聴いたことがあるね」という既視感と、次の音がどのような進行をするのかが見事に分かってしまうという安心感です。「ゲンダイオンガク」が忘れてしまった音楽の原点、聴いて快く感じられるという当たり前のことが、確かにここには存在するのです。
もちろん、演奏は、作曲者への共感に満ちたあたたかいもの。技術的にもそれこそプロ顔負け、というよりは、プロだったらここまではていねいにはやらないだろうという、愛情溢れるものです。作曲者と演奏者とのとても幸福な出会いが記録されたこのCDに、拍手を送りましょう(パタタタ・・・)。

12月20日

BRAHMS
Symphony No.4
Mariss Jansons/
Oslo Philharmonic O
SIMAX/PSC 1205
ヤンソンスがオスロ・フィルの音楽監督になったのが1979年ですから、この両者の結びつきはもはや20年を超えています。いまやすっかりヤンソンスの手足と化しているオスロ・フィルの最新アルバムは、ブラームスの4番。そして、カップリングとして、ヨーゼフ・ヨアヒムの大変珍しい序曲が入っています。
さて、ブラームス。1楽章出だしのテーマ、シ−ソのソ、ミ−ドのドのように、スラーの最後の音が異常なほどふくらまされているのが印象的です。これによって、先へ先へとフレーズを有機的につなげていこうとするヤンソンスの意図がはっきり示されることになります。いくぶんのんびり目に始まったこの楽章も、後半になるにしたがって次第に高まりを見せてきて、最後は圧倒的な盛り上がりとともに終わります。そこに至るまでの細かい積み重ねが、とてもていねい。さらに、楽譜の細かい指示をきちんと守った上で、各パート間の表情付けを見事にシンクロさせていますから、聞いている人には迷うことなく演奏者の考えが伝わってきます。
オケの音色は、もう、独特のくすんだもの。地の底を這うようなコントラバスの響きの上に、決してきらびやかにはならない弦楽器が乗っかっているという感じ。木管もしっとりと落ち着いていますし、金管に至ってはまさに冬の曇り空のような渋さ。ブラームスにとって、これ以上似つかわしい音色はめったにないと思えるほどです。
このサウンドで弾かれれば、2楽章も3楽章も、どこまでも深く訴えかけることはあっても、決していたずらに浮かれ騒ぐことはありません。
そして4楽章。冒頭のパッサカリアのテーマは、まるで溜息のように始まります。そのあとに続く変奏の表情付けがとても見事。ある時はすすり泣くような弦楽器、それを支える木管。オケ全体が、完全に一つのものを求めていることが良く分かります。例のフルートソロは、伸びのある、それでいて飛び出すことのない音で淡々と吹かれます。決してソロだけが目立つことがない、チームプレイに徹した演奏です。
ブラームスの友人であり、指揮者、ヴァイオリニストとして有名だったヨアヒムの作品は、「ハインリッヒ4世への序曲」。原作はシェークスピアの「ヘンリー4世」ですが、ヨアヒムがオペラを作ったという訳ではなく、これは、「序曲」とはいっても、殆ど「交響詩」と言ってもいいような、極めてロマンティックな曲です。ヤンソンスはそのロマンティックな面を思い切り強調して、ブラームスとはうって変わって開放的な音楽を、あくまでも節度を持ってとても生き生きと聞かせてくれています。この珍しい曲を、十分に名曲たりうるものに仕上げた手腕は、やはり並みのものではありません。どんな曲を聴いても、もは損するようなことは無い、安心できる指揮者です。

おとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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