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フェロモンの雅歌。.... 渋谷塔一

(02/3/23-02/4/14)


4月14日

ZEMLINSKY
Lyrische Symphonie
Soile Isokoski(Sop)
Bo Skovhus(Bar)
James Conlon/
Gürzenich-Orchester Kölner Philharmoniker
EMI/CDC 557307-2
ここのマスターは「モツレク、フォーレク研究家」として業界でも認知されておりますが、その向こうを張るなら、この私は自称「ツェムリンスキーまにあ」です。とりあえずの「まにあ」の条件は、コンロンの新譜は全て購入することと、ダゴールの詩の日本語訳を知っていることでいいでしょうか?あっ、「笑っていいとも」を毎日欠かさず見ることも・・・(それは「タモリンスキー」)。
「大地の歌」を模範として書かれたというこの叙情交響曲。確かに構成は似ていますが内容は似て非なるもの。客観的な目と静かな諦観に満ちた「大地の歌」と違い「叙情交響曲」は基本的に愛の歌。詩の内容に於いても全ての楽章が関連づけられていて、2人の独唱者は一見かみ合わない詩を歌いつつも実は濃厚な愛の言葉をかわしている・・・そういう曲なのです。
さて、この曲には過去に2種類の名盤があります。一つは、なぜかあの廉価盤レーベルARTE NOVAから発売されているギーレンのもの。こちらはとても見通しのよい演奏で、この曲の持つ叙情性(そのままじゃないか)が見事なほどにばっさりと切り取られた潔さが魅力です。(余談ですが、ここでバリトン・ソロを受け持ったジョンソンは、先日の新国「ヴァルキューレ」でヴォータンを歌い大好評を博したそうです。関係者からその話を聞いて、「行きたかったぜ」と3日ほど仕事する気にならなかった私を誰が責められましょうか。)もう一つの名盤は、いわずと知れたシノポリのもの。複雑な曲のはずなのになんとも柔軟。もちろん聴かせどころもしっかり押さえた素晴らしい演奏です。何しろこちらはソロがあのターフェルとヴォイト。あまりターフェルを好きでない私ですら、あまりの巧さに舌をまいた次第です。こちらは先日国内盤で再発され、(もちろん対訳付き)ツェムリンスキーまにあの数を増やすのに大きく貢献した事も付け加えておきましょう。
さて、今回のコンロンです。全体的に落ち着いた演奏で、シノポリの時のような派手さは見られません。とても繊細な表現で、ツェムリンスキー独特の割り切れない和声も余す事なく描き尽くされているのですが、却ってそちらばかり強調されていて、この曲の持つドラマティックな部分が少々薄まってしまっている気がします。ソロのスコウフスもイソコスキもさっぱりとした歌を聴かせてくれます。あのターフェル、ヴォイトの組み合わせのように、聴いていて恥ずかしくならないのが嬉しいような物足りないような・・・。「叙情交響曲」だけ見ればシノポリ盤で満足できるかもしれません。しかし、おまけとして収録されている序曲集が聴けたのはとても嬉かったです。
やはり「まにあ」としては持っていなくてはいけない1枚ですね。

4月12日

ECLECTICA
J. Mäntyjärvi/Choral Works
Hannu Norjanen/
Tapiola Chamber Choir
FINLANDIA/0927-41563-2
ここのマスターは、ひょんなことから書いたものが編集者の目にとまって、いつの間にかプロのライターになってしまったそうですね。世の中、何がきっかけで人生が変わるか判ったものではありません。今回ご紹介するフィンランドの若手作曲家(1963年トゥルク生まれ)、ヤーッコ・マンティヤルヴィも、もともとは大学で英語と言語学を学んだのち、翻訳システムのエンジニアをなさっていたのだそうです。このFINLANDIAというレーベルでも翻訳家として仕事をしていたとか。そんな彼が、以前ご紹介した「シャンティクリア」のクリスマスアルバムでもアレンジャーとして名を連ねるほどの、売れっ子の合唱作曲家になってしまったのですから、ほんと、面白いものです。
このCDは彼の作品を集めたもの、彼の作風は「折衷様式」と言われているものだそうで、これがそのままアルバムのタイトルになっています。昔使われていた男性用下着ですね(それは「越中」)。これがどんなものなのか、早速聴いてみることにしましょう。
1曲目、「プセド・ヨイク」でいきなり聴こえてくるのは、普通の合唱曲ではまず使われることのない、「地声」です。それも、かなりダミ声に近いもの。リズムも5拍子という変拍子が使われていて、一瞬たじろいでしまいます。しかし、和声自体は別段変哲のないオーソドックスなもの、気持ちよくハモる低音には心地よいものがあります。これが「折衷」だったのですね。伝統的な骨組みの上に、適宜何か目新しい技法を盛り込んで新鮮な響きを追求するというものなのでしょう。「エル・ハムボ」という曲では、やはり5拍子のリズムに乗って、今度はジャズ的な要素が加わっていましたね。
シェイクスピアのテキストを用いた曲も収められていますが、これは歌詞のせいもあるのでしょう、ぐっと伝統的な書法が前面に出てきていて、まるでロマン派の合唱曲のようです。しかし、ところどころに大胆な北欧風(それがどういうものかは、うまく説明できませんが)の和声があらわれて、ある種不思議な風景をかもし出しています。
最後に収められているのが、「コウタ」というオーケストラが入った大曲。いくら折衷といっても、日本語の「小唄」とは全く関係がなくて、これは北欧の物語に出てくる魔法使いの名前だそうです。カンタータのような形式をとっていて、最初バリトンソロによる、まるでお経のような導入の語りがあったあと、合唱が平坦なメロディーの「コウタのテーマ」を提示して、ソロと合唱が交互に物語が進行していくという構成です。マンティヤルヴィという人は、基本的に合唱専門の作曲家のようで、この曲でのオーケストラの使い方には少々幼さを感じないではいられません。
日本でいうと、そうですね、大中恵みたいな感じでしょうか。アマチュア合唱団のレパートリーには最適かもしれません。

4月10日

CHOPIN
Études
Murray Perahia(Pf)
ソニーミュージック/SICC-56(国内盤先行発売)
ここのマスターも執筆なさっている小冊子Magi、私も読ませていただいてます。私が今月号で一番気になったのが、他のライターさんのぺライアの記事でした。「このCDは今年発売されるあらゆるクラシックのアルバムの中でも特に注目の・・・“ピアノ”というカテゴリーに限って言えば最も注目すべき・・・1枚である(原文のまま)」。しかも記事には、「注目した結果」は何も書いてないのです。さあ、この文章を読んで心躍らないピアノマニアがいるでしょうか?
さて、「この曲の現在最高の演奏とは?」と訊かれたら、これも記事にあるように、多くの人は「72年のポリーニ!」と応えるに違いありません。ショパンの練習曲は楽譜どおりに演奏する事すら難しいのですが、そんなことを微塵も感じさせないほどの完成度でした。それほどまでに、あの演奏はスゴかった。完璧なテクニック、機械的ともいえる硬質なタッチ、冷たく、メタリックな輝きを帯びた人間離れした凄演だったのです。
今回のぺライアの演奏も、テクニック的には申し分ありません。ですが、はっきり言ってポリーニのものとは全く肌触りが違います。彼の演奏って、最近リリースされたバッハの協奏曲もそうでしたが、空間に音が満ちると、そこだけふわっと明るくなるような、まるで春の日差しのような柔らかな微笑みに満ちた暖かさが感じられます。これはぺライアの「音楽への喜び」がストレートに聴き手である私に伝わるせいかも知れませんね。例えば最初の曲、Op10-1を聴いて見てください。この天空に架かる虹をイメージさせるアルペジョの練習曲を、構成する音の一つたりともおろそかにすることなく雄大かつ壮大に弾きこなす様には、全くため息が出るばかりです。有名な「別れの曲」の優雅な表情、「黒鍵」「革命」「木枯らし」での期待通りの指さばきもスゴイの一言です。
全部の曲に言及するスペースはありませんので、私が好きなOp10-10について。この2分ちょっとの小品は「アクセントとタッチを絶妙に変化させる」と言う課題を完璧にクリアすると、美しいメロディが浮かび上がってくる仕掛けになっています。今までいろいろなピアニストでこの曲を聴いてきましたが、ぺライアが最高でした。思わず鼻の奥がつんとするような、悲しくなるほどの美しさとでもいうのでしょうか。これ1曲を聴けただけでも、私はこのCDに注目した結果が出せた!と思いました。やっぱりペライアは偉いや

4月8日

SCHUMANN
Symphony No.4 etc.
Gianluca Cascioli(Pf)
Mario Venzago/
Sinfonieorchester Bazel
NOVALIS/150 163-2
(輸入盤)
キングレコード
/KKCC-4346(国内盤)
このページでしばしばご紹介している「知られざるR・シュトラウス」のシリーズは私にとっての愛聴盤ですが、今度は別のレーベルから「シューマンの異稿版」というシリーズがリリースされました。これはその最初の企画で、1曲だけ世界初録音が収録されています。それは「ピアノとオーケストラのための幻想曲イ短調」。13分程度の曲ですが、実に興味深い事項がたくさん込められています。
あのピアノ協奏曲の第1楽章の元になった、この「幻想曲」ですが、完成された形の協奏曲と比べると、まだまだ耳障りな部分、(例えば妙にデコラティブなテーマの音形とか、ムダに聴こえるオケパートとか)が多いと感じてしまうのは既存の協奏曲の出来が素晴らしすぎるのか、それとも単に耳慣れていないからなのかはよくわかりません。
ただ、シューマンと言う人は一つの曲を書くために、いろいろな思索を重ねた人。若干の例外を除いては(例えばミルテの花など)どんな曲にも様々な仕掛けが施されていて、出来上がった作品には「確かに手がかかっているな」と思させるのに充分な説得力があります。晩年の作品はそれが悪いほうに働いてしまうのは皮肉なことですが。
だから、このスケッチに近い段階である「幻想曲」を聴いて、なんだかシューマンの恥ずかしいところを覗き見してしまうような、ちょっとドキドキするような感覚に陥るくらい、アブナイ気分になりました。シューマン好きにはこたえられない快感かもしれません。
さて、ピアノを弾いているのは、ジャンルカ・カシオーリ。イタリア、トリノ生まれの若手ピアニストでして、この人の最新の演奏を聴けるのも、このアルバムの一つの売りですね。彼はDGにいくつかの録音があります。ベートーヴェンやバッハを弾くのと同じ感覚でヴェーベルンやリゲティを弾きこなす・・・。確かに新時代のピアニストの一つの形でもありますが、一種ひんやりとした肌触りの音、そしてその独特なセンスとスタイルは「まるでポリーニみたい」と感じた人も多かったようです。
そんな彼のシューマンは意外なほど情熱的な演奏でした。カシオーリ自身がこの作品を校訂したといいますが、彼の演奏は、先ほど書いたこの「幻想曲」と「協奏曲」との違いを鮮やかに切り取って目の前に並べてくれるような明快な演奏です。かつ情熱的。素晴らしいの一言ですね。こんなCDを届けてくれたお礼に、「萩の月」でも持ってご挨拶に伺いますか(それは「菓子折り」)。
それに比べると、交響曲第4番は極めて普通の演奏。まあ「おまけ」だと思えばよいのでしょうか。

4月5日

THE HIT PARADE
PUFFY
EPIC/ESCL 2288
「アジアの純真」で衝撃的なデビューを飾った女声デュオ「パフィー」も、もはや6年のキャリアを誇る中堅アーティスト、デビュー当初ほどの大ヒットこそないものの、その特異なキャラクターで、ファン層は大きな広がりを見せています。
久しぶりのリリースとなったフルアルバムは、全曲カバーで占められているという最近流行りのスタイル。原由子の「東京タムシ」ではなく「東京タムレ」の売れ行きを見ても分かるとおり、過去の名曲をリメークするというこの手法は、確実なヒットを生む安全策として定着しつつあり、元気のない音楽業界にとっては絶好の「回春剤」となっているのです。(念のために言っておきますが、「いつでも夢を」の完コピ振りには感嘆しつつも、原由子は完璧に私の好みではありません。)
ここでパフィーが取り組んだカバーの元ネタは、言ってみれば彼女達の愛唱歌、ヒット曲「愛のしるし」を作ってもらったスピッツのカバーに始まって、BOØWYやブルーハーツといったバンドから、WINK、田原俊彦のようなアイドルまで、じつに多彩というか無節操な選曲になっています。
じつは、今挙げたWINKと田原俊彦の曲は、最初からそれ自体カバーだったもの。「カバーをカバーする」という、オリジナリティの欠如に由来するアクションは、これからもなくなることはないでしょう。しかし、この「愛が止まらない」は、本家カイリー・ミノーグのユーロ・ビートとも、そのテイストをそのまま移しかえたWINKとも全く異なる、AOR風の仕上がりになっているのには驚かされます。プロデューサーの奥田民生は、その意味で、とことん自分の好みを反映させたサウンド作りを楽しんだことでしょう。ほとんどライブ感覚で演奏されているグルーヴ感あふれるバンドは、とても魅力的で、例えば「ハイティーン・ブギ」からは、近藤真彦の歌よりは、山下達郎の曲が前面に見えてきます。
ビートたけしの「嘲笑」などという、フェイントを食らわす場違いなものもありますが、パフィーの本領は、やはりシャネルズの「ハリケーン」とか、ダウンタウン・ブギウギ・バンドの「カッコマン・ブギ」といったノリの良い曲でしょう。前者の井上大輔の作品に見られるようなレトロな感覚を、気負わずにさりげなく歌うことができるのは、彼女達をおいては他にいないのではないかとさえ思えてきます。
従って、時代的にはもっともレトロと言ってよい、三田二郎の「青い涙」は、GS(グループ・サウンズ)で育った世代にはたまらないものとなるわけです。このラーメン屋さんのような名前のアーティストは、当時としてはあまりにも斬新なコード進行を多用したために、ごく一部のマニア以外には全く知られることはありませんでした。このような形で蘇った「幻のアヴァン・ギャルドGS」、ぜひともオリジナルを聴いてみたいものです。

4月3日

SCHÖNBERG
Gurrelieder
Karita Mattila(Sop)
Simon Rattle/
Berliner Philharmoniker
EMI/CDS 557303 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55391(国内盤)
シェーンベルクがまだドデカフォニー(十二音技法)に手を染める前、1900年に着手したどでかい作品で(尤も完成にこぎ着けたのは10年後ですが)大掛かりな管弦楽と独唱、合唱を必要とするものです。もちろん作風も当時頻繁に使われた解決されない和声、(そう、これは全くワーグナー風!)を多用した、かと言って調性を逸脱する事はない、ぎりぎりの音楽と言ってもいいでしょう。
この曲には、今までもたくさんの名演がありますが、例えば「国民的指揮者」の過去の演奏などを聴いてみますと、さすがお祭りオトコ、この曲がいかにたくさんの演奏家を必要とするかが良くわかる、ステキに騒々しい音の世界が展開されています。物語の起伏、怒り、悲しみと言った、登場人物の心の動きがはっきり理解できるドラマティックな演奏とでもいいましょうか。
さて、ラトルです。以前発売されたベートーヴェンの「運命」で聴き手の想像をはるかに超えた解釈を披露してくれた彼、この「グレの歌」でも新しいことをしてくれるに違いありません。それは、最初に置かれたオーケストラの序奏から明らかになります。それは何と透明で美しい響きでしょうか。ラトルは、インタビューの中でこの曲のことを「世界で最も大きい弦楽四重奏」と位置付けていますが、この序奏の部分だけで、その考えがすっかり具現化されているのです。(ある雑誌では「朝の情景」とありましたが、これは黄昏の音楽ですね)
以降の歌の部分でも、そのスタンスは変わることありません。某指揮者のように、気持ちが外へと向かうのではなく、一つの世界をとことん見つめ、そこから物語を掬い取る、そのためには、歌だけが雄弁に語るのではなく、その背景を担うオケにもしっかり気を配る必要があるのでしょうね。彼の視点は「山鳩」よりも高いところにあるのでしょう。まるで俯瞰図を眺めるかの如く、冷静に物語が進むのです。
その独唱者ですが、今回トーヴェを歌っているのが、あのカリタ・マッティラです。このところ大活躍のソプラノで、先日ドイツ・アリア集もリリースされた期待の人ですね。本来、予定されていた歌手があのテロの影響で出演できなくなったとかで、急遽録音に加わったそうですが、彼女の透明な声は、この不思議な物語に全くぴったりで、確かにヴァルデマル王でなくても寵愛したくなるでしょう。第1部の熱き語らいはまるで浄化されたトリスタンの世界です。もちろんモーザーの「ヴァルデマル王」も端正な歌い方で、どんなに身を持ち崩すことになろうとも、決して王としても品格を失わない精度の高いものです。オッターの山鳩も見事です。それにも増して良かったのがクヴァストホフの語りの部分。愛する人を失う悲しみは計り知れない。しかし、王がどんなに神を呪い、悪行の限りを尽くしても、その怒りはいつしか静まる・・・・。
そんな彼の語りは、世界の混沌に一筋の明るい光をもたらします。その光があたり一面に広がるとき、この稀有な物語も終わりを迎えるのです。

3月31日

KORNGOLD
3 Piano Sonatas
André De Groote(Pf)
TALENT/DOM 2910 73
以前、映画音楽をご紹介したコルンゴルト、あの時も書いたように、世が世ならあのR・シュトラウスとともに、後期ロマン派の香りを20世紀に語り伝える「クラシックの」大作曲家として名前が知られていたのかも知れませんが、その方面ではついにマイナーな地位を抜け出すことは出来なかったようです。映画音楽によって見直されたその業績のおかげで、彼が本来目ざしていた分野の曲にももっと関心が寄せられるようになればよいのですが。
彼は生涯に3曲のピアノソナタを残していますが、そのすべてが収められたCDは、ジェフリー・トーザのCHANDOS盤に続いて、確かこれが2枚目となるはずです(1番と2番だけなら、もう2枚以上はありました)。もちろん、私が聴くのは今回がはじめて。
第1番のソナタは、1908年、作曲家の11歳のときの作品。いやぁ、これが11歳の子供の作ったものでしょうか。まるで、あふれ出るばかりのアイディアをそのまま音にしたというような、激情のともなったテーマが、分厚い和声に彩られて豪華絢爛な世界を作り上げています。フィナーレに見られるポリリズムからは、世紀末の頽廃感すら聴こえてくるではありませんか。「第九」を演奏するにはちょっと辛いかも知れませんが(それは体育館)。心の中に確かなファンタジーを持っていて、なおかつそれを外に向かって表現する技術をこの年齢にして確立しているという、まさに「神童」の手になる音楽が、ここにはあるのです。ただ、感情の吐露に重点を置くあまり、リズム的な処理というか、背景になるべきビート感が完璧に欠如していると感じてしまうのは、現代の様式感と比較してしかものを言えない者の悪い癖なのでしょうね。
それから2年後に作られた第2番のソナタになると、自らの感情を理性でコントロールしようという意志がありありとうかがえます。その反面、第3楽章で描かれる翳りのある情感の、なんと深みのあることでしょう。たった2年で、コルンゴルトが作曲家としての資質に決定的な物を獲得したことが、よく分かります。
それ以後、彼は室内楽やオペラの作曲に打ち込み、ピアノソナタというジャンルからは遠ざかってしまいます。そして、第2番から20年を経て完成されたのが第3番のソナタ、ここには、すでに「老成」を感じさせるほどの熟達感があります。もはや、自分の技法に迷いはないといわんばかりの第1楽章には、まさに自信の程がうかがえます。第2楽章の歌も、無駄な装飾を排した感銘深いもの、ちょっと時代を遡行させたかと思わせられる第3楽章の典雅さも、曲全体の中でのハイライトとして、確かにバランスよく響きます。第4楽章の洒脱さからは、この作曲家が到達した見晴らしのよい世界観すら感じ取ることが出来るでしょう。
歴史的な障害さえ無かったならば間違いなく作曲界のビッグ・ネームになれたであろう彼の才能がたどった足跡を生々しく感じさせられる、そんなアルバムです。初期の作品に見られるリズム感の欠如という側面は、あるいは演奏者のデ・グローテに起因するものなのかもしれませんね。

3月29日

CAGE
Works for Percussion
Quatuor Hêlios
WERGO/WER 6651 2
NHKの「裸にしたい男たち」というシリーズで、劇作家の三谷幸喜が取り上げられていました。新作のコメディーの初日に向けての脚本家の葛藤というありふれたものですが、その舞台となっていたのがパルコ劇場、私にとっては懐かしい空間です。あれは今から何年ぐらい前のことだったでしょうか。渋谷・公園通りにあるパルコ劇場は、当時は「西武劇場」と呼ばれていたウェスタン専門の映画館でした(それは「西部劇場」)。現在ではもはや見る影もありませんが、その頃は「西武」といえば、新しい芸術や文化の発信地を気取っていた企業として認知されており、確かに独特なリーダーシップを誇っていたものです。そのグループの所有するこの劇場では、連日、世の中から最先端とみなされているアーティストたちが、スノッブを装った聴衆たちにメッセージを送り続けていたのでした。
ジョン・ケージが、マース・カニングハム・ダンス・カンパニーと来日して、この劇場で自作の「Cartridge Music」などを演奏したのは、そんな、まだ前衛的な音楽が充分「教養」として聴かれることができる素地が残っていた時代でした。Gジャン姿のケージは、ステージの片隅で、満員の聴衆を意識するでもなく、ダンスの背景となる「音」を作るために淡々とピックアップの前で木片や金属片をこすり合わせていたのでした。20世紀の音楽を根底から変えてしまったこの音楽家は、まるでおもちゃと遊ぶ子供のような無邪気な表情で、ひたすらダンスの動きとは無関係な耳障りな音をつむぎだしていたのです。
そんな昔の風景を思い出したのは、本当に久しぶりにジョン・ケージのアルバムを聴いたから。4人の打楽器奏者のアンサンブル「エリオス四重奏団」の演奏からは、そのように間近で感じたケージのある種の無邪気さが伝わってきます。
1曲目の「Credo in US」は、サウンド的にとてもヴァラエティに富んでいる作品。もちろん、タイトルは「in As(変イ長調で)」のもじりでしょう。いきなり聴こえてくるのが「レコード」の音。レコードプレーヤーを操ってLP(作曲当時はSP)レコードを再生することが演奏表現になりうるというアイディアは、このところのクラブDJの発想でもなんでもないのですね。それどころか、いまやケージを聴かないDJはもぐりだとさえ言われているとか。このアンサンブルにはピアノも含まれていますが、もちろんこれはプリペアド・ピアノ。シンセでは決して作ることの出来ない、ある意味新鮮な音が、クラブで聴かれる日は近い?
久しぶりにケージならではの感銘を受けたのは、3曲目の「Inlets」。基本となるのは「水」の音、しかし、滴り落ち飛び跳ねる液体の、ほとんど耳をそばだてなければ聴こえないほどの「歌」に耳を傾けるために払わなければならない集中力といったら、とても尋常なものではありません。突然、びっくりするような法螺貝が出てきたと思えば、締めは火が燃える音。ケージが仕掛けた罠に気付いた頃には、無意味な呪縛から開放されたつもりでいる自分が発見できるでしょう。その時脳裏に浮かんでいて欲しいのは、もちろん西武劇場での作曲家の悪戯好きな素顔です。

3月25日

BRAHMS
The Sonatas for Violin & Piano
Pierre Amoyal(Vn)
Frederic Chiu(Pf)
HARMINIA MUNDI/HMU907272
このコンビによるリリースは2年ぶりですね。前作のグリーグのヴァイオリン・ソナタは私も聴きましたが、数多いヴァイオリン・ソナタの中では地味な存在のこの曲を、彼らは熱演。グリーグの曲の持つ叙情性と民族性(使い古された言い回し)が直接耳に届くという極めて説得力の高い演奏だったのを覚えています。
今回は、ブラームスのソナタ全曲と、おまけとして「F.A.E.ソナタ」のスケルツォ。所謂ヴァイオリンの定番名曲です。まず最初の第1番から。アモイヤルという人はかなり激情的な人なのでしょうか。そして、ピアノを弾くチュウも。この静かで美しいはずの第1番の第1楽章が、彼の手に掛かると思い切り劇的な音楽となるのです。この曲もブラームスお得意の2拍子と3拍子が入り混じる微妙な拍子の変化を伴ったもの。この2人は、今まで聴いたどの演奏よりもその揺れを強調しているようです。結果、そこに現れる歌は軽い眩暈を伴うもので、ブラームスを聴いてなぜこんなに幻惑にとらわれるのだろう?と訝しく思うのです。ヴァイオリンの音色の艶っぽさ、ピアノの歯切れの良い音色も心地良いもので、演奏する人によっては、あのブラームスもここまでエロティックに成り得るのですね。それにも増して聴き応えあったのが第3楽章。こちらのピアノとヴァイオリンの対話は、全く緊張感に満ちたもので、お互いの持てる力の全てを出し切った上での駆け引き、そんな凄惨さすら感じさせる名演です。
スケルツォは、1853年に作曲されたもので、シューマンとディートリヒ(この曲にてのみ名前が残っている)との合作のソナタの第3楽章です。昔、この曲にはアファナシェフとクレーメルの共演盤があったのですが、現在入手不可能です。あの演奏でこの曲を知った人も多いことでしょう。ここでのアモイヤルは、思い切りはじけてますね。ここまで熱くしていいの?と思えるほどパワフルな語り口に、思わず引き込まれてしまいます。
続く第2番。こちらも激しい演奏です。その気になれば、限りなく素っ気無く演奏できるはずのこの穏やかなソナタですが、彼らは全く容赦ありません。もちろん第3番は、曲の持ち味を最大限に生かした演奏になってます。第2楽章の渋い歌も、弾く人によっては年寄りの戯言のような枯れた表現になりますが、彼らの演奏はとことん瑞々しく、また艶かしいのです。
全体的に説得力のある、極めて主張のはっきりした演奏といえましょう。何度も書いたように聴き手にはかなりの緊張を強いられますが、慣れれば心地良い疲労感を手にすることができます。
ただ、このアモイヤルの演奏、ブラームスに「押し付けがましさ」を求めたくない人には不向きなアルバムかもしれません。もっと思いやりを感じたければ、グリュミオーあたりがいかがでしょう。

3月23日

PALESTRINA
Songs of Songs
Philip Cave/
Magnificato
LINN/CKD 174
以前もご紹介して、「タリスの最良の演奏」と感激しまくったマニフィカートの新盤です。といっても、録音されたのは95年、あれよりも前のものになるのですが、なぜか今までお蔵入りになっていたという、よくある話です。最近は録音されてすぐリリースになるのがあたりまえのようになっていますから、7年も前の録音を「新譜」にするなんて許せないと思われるかもしれませんが、クラシックの世界ではかつては発売までに5〜6年かかることなどは普通のことだったはずです。賞味期限が短いアイドル(カリスマ?)指揮者のライブならいざ知らず、中身に自信のあるものであれば、何年経とうが価値が下がるなどということはないはずです。クナの「神々〜」のように、ちょっとしたトラブルがあったりすれば、50年近くたってからやっと陽の目を見ることだってあるわけですし。
ただ、注意しなければいけないのは、このような「アーリー・ミュージック」の範疇に属するものは、シーンとしての成熟の度合いが日進月歩ですから、ほんの数年の違いで、演奏様式の価値観がガラリと変わってしまうことがあるということです。現に、最近ご紹介したコンチェルト・イタリアーノなどは、10年前の演奏などとても聴けたものではありませんでしたから。
しかし、この「マニフィカート」に限っては、そのような心配は無用です。すでに確立した様式感を持ち、高い評価を得ていた「タリス・スコラーズ」というグループで活動をしていたフィリップ・ケイヴが、その「タリス」の成果をそのまま、すでに評価の確定している実力者のみによって具現化したものがこのグループな訳ですから、1991年の創設以来、そのレベルは保証されていたのです。
ここで取り上げられているのは、パレストリーナの有名なモテット集「ソロモンの雅歌」。このあたりの音楽は苦手という人も試すといいな。タイトルは、ラテン語では"Canticum Canticorum"、その名のとおり、旧約聖書の「雅歌」からテキストが取られています。このテキスト(歌詞)、そのまま読んでみると、とても濃厚な恋愛の歌であることが分かります。「私の乳房は葡萄の房、あなたの口と歯で味わうにふさわしい。どうぞ召し上がって。(若干意訳入ってます)」などという赤裸々なもの。もっとも、これはあくまで「聖書」の中の表現ですから、きちんと人と神との対話に置き換えて読み取るべきだとか言われていますが、別に言葉どおり受け取っても一向に構わないわけでして。
こんなことを考えたのも、この演奏がとても色気に満ちたものであるから。一応宗教曲ですので、敬虔な表現というものが求められるのでしょうが、ケイヴたちはそこに現代人にも通用するような感情の高まりをきちんと盛り込んでいます。具体的には、参加しているメンバーすべての主張に富んだ歌い方、特に女声があくまでルネッサンスの様式内での、極めてエモーショナルな表現を実現させています。今までなじんできたヒリヤード・アンサンブル(EMI)も、この演奏の前には影が薄くなってしまいます。

おとといのおやぢに会える、か。


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