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皿、茶碗、土瓶も。....渋谷塔一

(01/10/14-01/11/2)


11月2日

The Art of Toshiya Eto
江藤俊哉(Vn)
BMG
ファンハウス/BVCC-38160/63
全く、毎日毎日たくさんのCDがリリースされるものです。メーカーも売れると踏むからこそ、たくさんのCDをリリースするのでしょうが、そんな風潮ですから、「CDさえ出していればBIGなアーティストである。」と思ってしまう人がいても不思議ではありませんね。逆にいえば、CDを出さない人は、どんなに素晴らしい演奏をしても知られる機会が少ないという事です。特に日本人演奏家ですと、その傾向が顕著でして、どんなに演奏が芳しくなくても、CDが出てるというだけでもてはやされている人も少なからず存在しそうな気配です。
今回、戦後を代表する偉大なヴァイオリニスト江藤俊哉が70年から72年にかけて録音したものが、初めて4枚組のCDで発売されました。タイトルは「江藤俊哉の芸術」。優れた教育者(現在著名な日本人ヴァイオリニストは殆ど彼が育てたようなもの)、また「違いのわかるオトコ」として有名な彼ですが、やはり本領は独奏者。あのジンバリストの流れを汲む正統派ヴァイオリニストとしての彼の偉業を、ここでたっぷりと堪能しようではありませんか。
ここに収められているのは、いわゆる四大協奏曲(ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキー、ブルッフ)とラロのスペイン交響曲、そしてクライスラーなどのお決まりの小品集。このレコーディングが行われた頃は、同じRCAレーベルには、あの燦然と輝くハイフェッツの録音があり、それに勝負を挑むには、ぜひとも人気曲の録音が必要だったそうなのです。しかし、出来上がったものは、全く違った色合いの音楽になっています。
例えばベートーヴェンの協奏曲。手元にあるハイフェッツの40年録音、トスカニーニ指揮のものと比べて見ましょうか。ムダを極力廃したハイフェッツの禁欲的な表現、「これでもか」と迫るトスカニーニの指揮。とにかくハイフェッツは淡々とベートーヴェンを音にして行く印象で、口の悪い評論家が「この曲はまるでスケールの練習のようだ」と言ったのがさもありなんと言う、情緒を求めるには全く適さない演奏です。そこへ行くと、この江藤さんの演奏は何といったらよいのでしょう。ライトナーの指揮で、独特のバランスの濃い音を出しているオケの中で繰り広げられるヴァイオリンソロの美しさ。一見つまらないベートーヴェンのスコアから、歌を存分に引き出している・・・そんな演奏でしょうか。何とも懐かしい気持ちで一杯になりました。ハイフェッツではこんな気持ちにはなりません。何故でしょうか?
ベートーヴェン、チャイコフスキー、ブルッフと聴き進んできて、はたと思い至ったのが、そう「演歌」の世界です。日本独特の節回しで歌われる、嘆きの歌。チャイコフスキーの1楽章のメランコリックなテーマもブルッフのほの暗い情念も、全て日本人の心情にぴったり来るように巧妙に置き換えられている・・・。だからこそこんなに懐かしい思いがしてもええんか、と思われてしまうのでしょう。
とにかく4枚まとめて聴けば、江藤さんファンになること間違いなしです。

10月31日

LEHÁR
La Veuve joyeuse
Yvon Leenart/
Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire
EMI/CZS 574094 2
このところ、オペレッタが静かなブームです。先日ご紹介したMUSIDISCレーベルからも、まとまってCDが復刻されています。その中には、あのオッフェンバックの「ジェロルスタン大公妃」(「ブン大将」でお馴染みの曲)やガンヌの「サルタンバンコ」などの、浅草オペラの頃からのマニアの心をくすぐる物が含まれていて、あの、大物アナウンサーT氏も大喜びで全タイトルを購入した・・・・とは、いつものお店の人の話です。
そんな中、EMIからもフランス・オペレッタ集という事で、過去の名録音から12タイトルが発売されました。これまたオペレッタファンの熱い視線を集めているというわけです。親しみ易い曲想といい、おしゃれな筋立てといい、確かに、どんな人にも受け入れられる間口の広い音楽と言えましょう。今回はこの中から、レハールの「La Veuve joyeuse」を。
これは、「メリー・ウィドウ」のフランス語版で、タイトル・ロールのハンナは、なぜかアメリカ人、ミーシア・パルミエリ。ツェータ男爵はポポフという具合。架空の町、ポンテヴェドロもマルソヴィという名前に変えられていますし、その他の登場人物名も、かなり変更されています。録音は1957年頃と資料にあり、歌手も全く知らない人ばかり。その上、ミュージカルの発声法ですから、まるで別の曲のような風情です。日頃シュヴァルツコップや、ステューダーのハンナで聴きなれている耳には最初、かなりの違和感がありました。しかし、聴き進んでいくうちに、フランス語の会話の美しさと、飾り気のない歌声にすっかり魅せられはることになってしまったのです(なぜか京都弁)。
しかし、この味わいの深さは、何と表現したらよいのでしょうか?オーケストラはパリ音楽院管とありまして、なんとなく安っぽい響きと妙に甘ったるい弦のポルタメントが、これまた心地良いのです。
その伴奏にのって繰り広げられる架空の恋物語。胡散臭いあらすじも、あの美しいワルツに乗せて歌われると、夢のようなおとぎ話に変化するのですね。
「言葉にしなくても愛する心は伝わる」として知られている有名な二重唱も、もちろんフランス語です。歌い始めるのが、ダニロではなくミーシアなのもフランス語版ならではの変更点。とことん、女性が主導権を握る愛の物語といったところでしょうか。しかしながら、ここだけは、あのニューフィルの定期で歌われた日本語の歌詞、「云わねど知る恋心、思ふ人こそ、君よと・・・」がぴったり来るじゃない。なんて考えてしまうのは、やはり日本人。
言葉が変わっても人の気持ちは共通、浅草オペラの頃を知らなくともノスタルジーに浸れる、そんな一枚です。

10月29日

VIVALDI Gloria
HANDEL Gloria, Dixit Dominus
Gillian Keith(Sop)
John Eliot Gardiner/
The Monteverdi Choir
English Baroque Soloists
PHILIPS/462 597-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCP-1046(国内盤1121日発売予定)
今年の3月に発見されて、世界中の音楽ファンが大騒ぎしたという、ヘンデルの「グローリア」については、以前にもその世界初演盤をご紹介した時に触れたことがありますね。あのCD(BISは、その発見直後の5月に録音されたものですが、それに遅れること1ヶ月、6月に同じ曲を録音したのが、オリジナル楽器のビッグネーム、ジョン・エリオット・ガーディナーです。こういったものには目がない彼としては、「世界初録音」を成し遂げることが出来なかったのは、つくずく残念だったことでしょう。それならば、カップリングで勝負と、BIS盤と同じ「ディキシット・ドミヌス」を、BIS盤のような安直な使い回しではなく、きちんとした未発表のものを入れ、さらに、ヴィヴァルディの「グローリア」まで併録するという太っ腹で、収録時間はBIS盤を30分近く上回る、お買い得品にしてくれました。
で、当然のことながら、最初にやるべきことは、この「新しい」ソプラノ独唱のためのグローリアの初録音盤との比較になるわけです。ここでソロを歌っているのは、カナダの若手ジリアン・キース。なかなか爽やかな声の持ち主ですが、BIS盤のカークビーと比べてしまうのは、ちょっと可哀想というものです。テクニック、音程、表現のどれをとっても、まだまだ勉強不足、「あたしと張り合うなんて10年早いわよ」と、古楽歌唱の女王に軽くいなされてしまうという感じでしょうか。
その代わりと言ってはなんですが、ガーディナーの指揮するオーケストラの方は、BIS盤を完全に凌駕しています。気配りの量が違うというか、フレーズの端はしにまで行き届いた、極めて音楽的な配慮が、胸を打ちます。
このCDでは、総じてソリスト陣に物足りなさを感じてしまいますが、それを補ってあまりあるのが、合唱の素晴らしさです。ヴィヴァルディの「グローリア」(彼にはこのテキストの曲がたくさんありますが、これはもっとも有名なもの)の最初の合唱の部分の活き活きとした表現には、思わず引き込まれてしまいます。特に圧倒的なのが、フーガの部分。「Propter magnam gloriam」では、それぞれの声部が確固たる主張を持って競い合っていますし、最後の「Cum Sancto Spiritu」の二重フーガは、テーマのキャラクターの違いによって、さながら複雑な構造の建築物を見せられているよう。こうなってくると、ヴィヴァルディの曲自体にも、まるでバッハの音楽のような隙のない緊張感が生まれてくるから、不思議なものです。
同じようなことは、「ディキシット・ドミヌス」にも見られて、合唱の雄弁さによってこの曲が今まで聴いてきたものとは全く異なる、深みのあるものに感じられてしまうのです。だから、この合唱に比較してしまうと、独唱がいかにも平板に聴こえてしまうということにもなるのでしょう。
そもそも、カークビーと比較されたりするなどというのが、このソリストたちにとっては酷なことなのでしょうがね。

10月26日

BRAHMS
Symphony No.3 etc.
Eliahu Inbal/
Radio-Sinfonie-Orchester Frankfurt
DENON/COCQ-83563
つい先頃、ブラームスの3番をじっくり聴いたばかりなのに、また同じ曲が手元に。秋はブラームスの季節なのでしょうか?
さて、このインバルの3番、録音は96年で、それほど新しくはありませんが、ある雑誌には、「巨匠的なゆとり」が感じられるなどと書かれていました。まあ、(私の書いていることも含めて、)批評なんてあてにならないのは今に始まったことではありません。だって、インバルほど「巨匠」という言葉が似合わなそうな指揮者もいないような気はしませんか。巨匠を目指してガンバルというタイプでもなさそうですし。
この3番、先頃のハーディングの演奏と比べて聴いたのですが、これが実に面白いのです。もちろんオケの編成の違いもあるので、一概にいえませんが、このフランクフルト放響の演奏は、確かに音は豊かです。それ以上に違うのは、当たり前でしょうけど、解釈の違い。まず第1楽章のリズム処理。ハーディングが、意識的にぼかそうとした形跡のある3拍子のリズムを、インバルははっきり意識させ、音楽の流れを揺るがすことは決してありません。「4分の6拍子であろうが、4分の9拍子であろうが、3で割り切れるんだぞう。」そんな主張が感じられました。もちろん複雑な音の絡み合いは明晰に処理されていて、あいまいなフレーズは一切ありません。あるべきところにきちんと物が収まっている。そんな印象です。第2楽章も意外に淡々とした音楽で、「あの情熱的なマーラーを振るインバル」とはまるで違った演奏です。
有名な第3楽章。こちらもオケの響きはたっぷりしているので、ものすごくロマンティックに聴こえましたが、決して感情の昂ぶりから来るものでなく、きちんと計算されているもので、そこにはある種の冷徹さすら感じてしまいます。終楽章、こちらも全く統制のとれた音楽で、決して音の奔流に飲み込まれることはありません。美しいけど、他人を寄せ付けない・・・そんな冷たいブラームスかも知れません。
カップリングの新ウィーン楽派(シェーンベルク、ウェーベルン)の2曲も、演奏は全く同じ次元にあるようで、フランクフルト放響の豊麗な響きを全面に押し出しながらも底辺に流れている冷たい感情を顕わにしています。だから、この1枚を通して聴くと、ブラームスから20世紀初頭へ連なる音楽の流れが身近なものとして感じられること請け合いです。
私のイメージする巨匠というのは、「最終的には音楽に準拠する人」「ある作曲家を神として崇め、その音楽を天上の高みまで引き上げる人」「誰が何と言おうと、己の音楽を貫く人」・・・
あっ、やっぱりインバルは巨匠かも知れません。

10月23日

MOZART
Piano Sonatas
Alfred Brendel(Pf)
PHILIPS/468 048-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCP-1038(国内盤)
この盤は、先に国内盤が発売され、雑誌に批評が出たこともあり、「別にとりあげなくてもいいや」・・・・とほったらかしにしていたもの。しかし、やっぱりブレンデルマニアの私としては、通り過ぎてしまうにはあまりに惜しいではありませんか。少々遅くなりましたが今回の1枚という事で。
確かに、最近のブレンデルのモーツァルトはどれも素晴らしく、何回聴いても飽きません。前回、マッケラスと共演した協奏曲、昨年リリースされたソナタ集第1弾、そしてアルバン・ベルクSQと共演した協奏曲第12番など、いずれも、この上ない優しさと茶目っ気にアフレテル、味のあるモーツァルトなのです。
今回選ばれているのは、モーツァルトの中期のソナタ、12番、13番、14番と「アダージョロ短調」というもの。
この「12番ヘ長調 K.332」は、昔ピアノを習ったことのある方ならお馴染みの曲でしょう。私も小学生の時に練習した記憶がありますね。一見さりげない風を装って始まる第1楽章、しかし、これを軽やかに演奏するのはとても難しいはず。ゆったりと流れる第2楽章。これは小さい子供にはちょっと退屈でした。そして、相当指が回らないと弾きこなせない終楽章、これは難しくて、ほんと泣きながら練習したものです。他の曲も、譜面は簡単そうに見えますし、これはブレンデル自身も昨年のインタビューで話していた様に記憶していますが、およそ30年前は、モーツァルトは簡単な曲に分類されていて、「真面目に弾くのは子供と初心者のみ」などというレッテルが堂々と貼られていたのです。今では信じられないことですが。
さて、今年70歳を迎えたブレンデル。先日、彼の若い頃の録音であるリストのオペラ編曲集を秘密ルートで入手。これと聞き比べると、やはり彼の演奏のスタイルは格段に変化しています。今の彼は何の力みもなく、モーツァルトをしみじみ弾きこなしているのです。とは言え、時折見せるチャーミングな表情は彼ならではのもの。前回のピアノ協奏曲で見せてくれた、感情の発露ともいえる自由な装飾もふんだんに盛り込まれていて、あたかもモーツァルトと一緒に呼吸してるかのような自然な息遣いが感じられます。
先ほど触れた、K.332の第2楽章も何と言う美しさでしょう。言うなれば、渋茶の味わいでしょうか。確かに10歳くらいの子供には、この秋空のような美しさは理解できないはず。まさにオトナの味。
実は、ピアノソナタK.457にも嫌な思い出があるのだけど、少なくとも、これを聴いている間は、そう言う個人的な感情は遠くに押しやって、純粋にモーツァルトを楽しむことが出来ました。そして、K.457のソナタは、よくK.475の幻想曲が一緒に奏されますが、このアルバムでは演奏されていません。これが残念です。どうしても、この2つはセットであるような気がしていましたし、今回収録されているK.540のアダージョの自由な音の飛翔を楽しんでいたら、やはり、ハ短調の幻想曲もブレンデルの演奏で聴きたくなったのです。
これは次回以降のお楽しみという事で。

10月20日

BRAHMS
Symphonies 3&4
Daniel Harding/
Die Deutsche Kammerphilharmonie Bremen
Virgin/VC 545480 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55349(国内盤1024日発売予定)
今秋来日する、イギリス生まれの若手指揮者、ダニエル・ハーディング、イギリス紳士の例にたがわず、趣味はハンティングガーデニングだそうです(うそ)。彼の最新盤は、ブラームスの交響曲3番と4番。この激シブの曲を弱冠26歳の彼がどのように演奏するのでしょうか。
まず、3番です。さぞかし若々しくて、溌剌とした演奏だろう。と思い聴き始めたのですが、これがなかなかどうして・・・。まず第1楽章。ちょっと聴くと、単なる3拍子にしか思えないこの曲、実は4分の6拍子と、4分の9拍子なんてややこしい仕掛けがされているのはよく知られたことですね。この4分の6拍子というのは、1小節を2つにも3つにも分けることができて、とりわけ、ヘミオラを愛したブラームス好みの拍子といえます。そのため、単なる3拍子とは違う効果をもたらし、何ともいえない浮遊感がずっとついて回るのです。その微妙な感覚をハーディングは見事に表現しています。彼は、主旋律と対旋律のテンポをほんの少しずらすことによって、揺れ動く水面のようなメロディを、一層不安定なものにして、聴く人の感覚を混乱させます。
続く2楽章、この冒頭の木管合奏の美しさは、このオケの資質でしょうか。ここで、束の間の安らぎを得て、次の第3楽章に向かうのですが、この第3楽章でも、ハーディングは変拍子の効果を上手く使うことによって、独特の効果をあげます。冒頭に置かれた何かを問い掛けるような有名な主題、彼はここに、忘れ得ぬ一瞬の空白を置くのです。しかし、それは最初だけで、後は素知らぬ振り。音楽の美しさにひたすら飲み込まれてしまうのも、彼の作戦なのでしょうか?答えのない質問を投げ掛けられたかのように、戸惑ってしまいました。
終楽章は音の奔流です。全曲を通じて、とてもしなやかで流麗な音楽なのですが、ところどころで不思議な深みと陰影のあるブラームス。このところ書店で話題の女流小説家の最新作ではありませんが、「水にまつわる狂気」を内包しているように感じるのは私だけでしょうか?
同じくブラームスの第4番。いつぞやのニューフィルの定期の演目として、すっかり耳に馴染んだ名曲ですが、このハーディングの演奏は、一切ムダな力の入ってない、極めてしなやかなもの。金管が咆哮することもなければ、嵐のような弦のうねりもないという、「重厚、もしくは激情形」の演奏を期待する方にはちょっと物足りないかな?と思わせる、知的で控えめな演奏かも知れません。特に終楽章、なぜこんな静けさを湛えているんだろう?と思えるほど、落ち着いた演奏です。
全曲聴き終えて不思議な感動が胸に広がる、そんな若き巨匠(確かに変な表現だ)のブラームスです。

10月18日

Musical Humour with the Bach Family
Hermann Max/
Das Kleine Konzert
CPO/999 797-2
バッハ一族というのは、有名な大バッハ、すなわちヨーハン・ゼバスティアン・バッハの何代も前から綿々と続いている音楽一家なのです。現在では、そのゼバスティアンと、彼の何人かの息子しか注目されてはいませんが、それは、このバッハ一族全体から見れば、ごくごく一部分に過ぎないのですね。「バッハ一族との音楽のユーモア」というタイトルのこのCDには、そんな知られざるバッハの親戚ばっはりが、たくさん登場しています。
一番の年上は、大バッハの義理のおじさんにあたるヨーハン・クリストフ・バッハさん。彼の「結婚カンタータ」は、実際に大バッハの兄さんのクリストフ(同じ名前が出てきて、紛らわしいですね。曲を作ったクリストフとはもちろん別人です。)の結婚式で演奏するために作られた物なのです。何でも、その時に演奏したメンバーというのが、あの「カノン」という大ヒット曲で知られるヨーハン・パッヒェルベルとか、大バッハのお父さんのヨーハン・アンブロジウスとか、そうそうたる音楽家だったといいますから、すごいものです。アンブロジウスが註釈を記入した写譜が残っていますが、それによると、歌手も演奏家も、式にきたお客さんをとことん楽しませるように趣向を凝らしていたそうなのです。確かに、ご馳走やお酒でいい気分になったお客さんが喜びそうな、装飾たっぷりのヴァイオリンとか、「愛する人よ、食べたまえ!友人達よ、飲みたまえ!」などという最後の合唱など、多いに盛り上がったことでしょうね。
この方の息子、すなわち大バッハのいとこにあたるヨーハン・ニコラウスさんのコミカルな歌芝居「イェーナの酒呼び男」も、楽しい作品です。音楽はイタリア風の軽やかな運びで、大バッハのある種の作品に見られるような厳格さはどこにも見当たりません。最後の全員での合唱で、リフレインの中の「wunderlich」というテキストを、「wunder-, wunder-, wunder-, wunder-, 」と繰り返すあたりは、まるでマドリガルを思わせるような軽やかなスタイルです。
その他には、もう少し時代が新しくなって、フォルテピアノ1台の伴奏の曲が6曲ばかり。その中で出色なのが、大バッハの孫のヴィルヘルム・フリードリッヒ・エルンスト君が作った、「詩人と作曲家」という、テノールとバスの二重唱です。この頃になると、もう時代は19世紀、美しい言葉とメロディーを紡ぎだそうと創造に熱意を燃やす2人のアーティストの心を、ロマンティシズムたっぷりに歌い上げる・・・と思いきや、表から聞こえてくる物売りの大声が邪魔になって、さっぱり仕事がはかどらない、という、まるで「スネークマン・ショー」のような仕掛けが施されているのです。結局、「もうやめた!酒でも飲もう!」ということになってしまうのですね。
こんな愉快な一面を持つバッハ一族の姿がうかがえるこのアルバム、演奏もなかなかのものです。
この一族の伝統が、20世紀になって花開いたのが、例の「P・D・Q・バッハ」だというのは、容易に想像できたオチでしょうね。

10月17日

LISZT
Sonata in B Minor & Late Pieces
Valery Afanassiev(Pf)
DENON/COCQ-83560
1020日発売予定)
確かに深夜、アファナシエフを聴くなどというのは、心臓に悪い事の筆頭でしょう。その上、曲目がリストのソナタと来ればなおさらです。
深夜近くに帰宅して、諸々の用事を済ませ、「さて・・・・」とパソコンに向かいつつ、入手した新譜を聴く。これが、私の生活パターン。明かりを落とした書斎で、パソコンのモニター画面だけが、煌々と光を放ち、静寂を破るはエスプレッソ・マシンのざわめきのみ。こんな異様な環境で原稿を書いていたりします。
何しろ、アファナシエフと言ったら、イッチャッタ演奏家の代表格。以前、前任者が取り上げていた「ショパンの夜想曲」も、ショパンを聴きたい人には全く不向きな音楽でしたが、アファナシエフを聴きたい人には、全く嬉しい一枚だったのですから。
さて、今回は前述の通り、リストのソナタ。近、サイの新盤で、かっこいい演奏を聞いたばかりの私ですが、「あれと比べてはいけない」と聴く前にわが耳に言い聞かせておいたというわけです。演奏時間だけでも41分、普通だいたい30分前後で演奏する曲ですから、これだけでもアファナシエフの世界観がわかろうというもの。
予想を裏切ることなく、冒頭で2回打ち鳴らされる単音の響きからして、異常なものでした。第1打の響きが完全に遠ざかるまで、彼は次の音を叩きません。その空白が何だか永久に続くような、そして私はどこか別の世界に放り出されたような妙な孤独感を、そして、何かとても大切な物を置き忘れているような、そんな様々な思いを、たった最初の2音だけで感じてしまう・・・。そんな不思議なリストです。
聴き進むうちに、まるで眩暈のような感覚にとらわれ、いつしか自分のいる場所がわからなくなってしまう、これがいつもの彼のやり口なのですが、今回もしっかり術中にはまったとでも言いましょうか。もちろん考え抜かれた演奏であることは間違いなく、狂ったような超絶技巧をひけらかす部分もあり、停止寸前の音楽のかけらもあり、メリハリのついた、41分であることは保障します。
もちろん、彼自身の書いた難解な解説もお約束どおり。これを読むだけでも別世界に行くことは十分可能です。
カップリングは、晩年のリストの大作、「悲しみのゴンドラII」と「不運」。これらの曲は、最近良く取り上げられますが、何しろ、殆ど無調に近く、とても難解な曲でして、弾く方も聴く方も、かなりの心構えが必要な作品です。
もちろんアファナシエフには、これ幸いなのでしょうが。
その2曲と、ソナタの間に挟まっているのが、彼にしては珍しく表題のついていない、2つの「ピアノ小品」です。この2曲、短いながらも清澄な美しさを湛えた「リストらしくない」曲で、ま、正露丸糖衣錠みたいな味わいであります。
ああ、やはり夜聴いてはいけない音楽です。

10月15日

Christmas with Chanticleer
Dawn Upshaw(Sop)
Chanticleer
TELDEC/8573-85555-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11123(国内盤11月7日発売予定)
街はすっかりクリスマスの装い、ショーウィンドウには雪のようなエアブラシでサンタクロースが牽くトナカイの橇が描かれ、オーナメントの限りを尽くした樅の木は、ショップの門口で、オーナーのセンスを誇示するかのように聳え立っています。・・・というのは、いくらなんでも早すぎますね。しかし、世間の季節感とは裏腹に、CD業界では、もはやこの時期から、クリスマス商戦は始まっているのです。
そんな、ほんの少し歳時記を先取りしたアルバムの1つが、このシャンティクリアのCDです。アメリカの男声コーラスグループの最高峰、シャンティクリア、今回は、ゲストにドーン・アップショーを迎えて、数々のクリスマスナンバーを披露してくれました。
今、「男声コーラス」と書きましたが、ご存知のように、このグループには、テノールやバス、バリトンの他に、高い声の男声、つまりほとんど女声の音域をカバーできるような、カウンターテナーとか、ハイ・テノールと呼ばれる声を持つメンバーがたくさん参加しています。だから、聞こえてくる響きは、ほとんど混声合唱と変わらないもの、それどころか、女声が混ざっていない分だけ、音の均質感は増しており、より純粋なものになっています。さらに、そのような素材的なものだけではなく、定期的なオーディションで不適格者は排除されるという、いかにもアメリカ的なスキルアップのプロセスを経ることによって、驚異的なアンサンブルと音楽性を兼ね備えたグループになったのです。
クリスマスアルバムと言っても、これは安易な名曲集ではありません。あえて有名な曲は避け、ヨーロッパで歌い継がれているマイナーなものが集められています。実際、私が聴いたことがある曲は、全23曲のうち、わずか2曲しかなかったのですから。曲調も、しっとり系のものからリズミカルな物まで、幅広い選曲となっています。編曲もヴァラエティに富んでいて、いかにも聖歌というものから、テンションコードや不協和音をふんだんに使ったものまで、さまざまです。さらに、ここには、あの癒しの帝王、ジョン・タヴナーの新作まで収録されています。中世的なテイストの「A Christmas Round」とグレゴリオ聖歌のような変拍子の「Today the Virgin」の2曲、いずれも、昔からのキャロルの中に何の違和感もなく溶け込んでいます。
サウンド面では、どんな曲でもとても豊かな響きで、ハーモニーにはいささかの曇りもありません。カウンターテナーも、ありがちなひ弱さは微塵も感じられない、力強いもの。さらに、特筆すべきは、言葉の明瞭さ。クラシックの「合唱団」では、時としておざなりになりがちな明確な発音というものが、ここでは見事に神経が行き届いたものになっています。特に、アップテンポの曲の場合この効果は絶大で、歌詞と音楽の融合が心から楽しめます。
最後から2番目はゴスペルで華々しく歌いきったあとには、「Silent Night」が原語のドイツ語(「Stille Nacht」)で歌われてしんみりとアルバムを閉じるという構成も、なかなかのもの、この曲などでソロをとっているアップショーは、その芯のある声で、コーラスと融合しながらも、主張のある歌を聴かせてくれています。

10月14日

FIRE & ICE
Sarah Chang(Vn)
Placido Domingo/BPO
EM/CDC 5572202
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55356(国内盤117日発売予定)
サラ・チャンが、「天才少女サラ・チャンデビュー!」というタイトルのCDでEMIからデビューを果たしたのは、1992年のこと、録音した時点では、彼女はまだ9歳でした。サラサーテやパガニーニの超絶技巧を駆使した曲が収められたこのアルバムは、全世界で驚異的なセールスを記録し、彼女は一躍大スターとなったのです。しかし、同時に彼女は、この種の「若すぎる」才能の台頭に対しての、一部の保守的な批評家の妬みともとられかねない悪口にさらされることにも、耐えなければなりませんでした。曰く、「テクニックは完璧だ。しかし・・・」、曰く、「精神的な高みを求めるのは、先の楽しみとしたい」等々。
あれから約10年、コリン・デイヴィス、サヴァリッシュ、デュトワ、ハイティンク、ヤンソンスといった大指揮者との共演を経て、着実に演奏家としてのキャリアを確かなものにしてきた彼女が、あのプラシド・ドミンゴの指揮するベルリン・フィルをバックに従えて、デビューアルバムにも収録されていたサラサーテの「カルメン幻想曲」を含む、小品集をリリースしました。
このアルバム、オリジナルタイトルは「Fire & Ice」、缶コーヒーとアイス、ではなくて、「火と氷」というわけですね。これは、かなり暗示的なタイトルなのではないでしょうか。このアルバムの構成は、「カルメン」、「ツィゴイネル」というサラサーテの技巧的な曲がメインになってはいますが、それと同じほど、例えば「タイスの瞑想曲」とか、「G線上のアリア」といったような、しっとり歌い上げる曲のウエイトも大きくなっています。いわば、技巧的・情熱的な「Fire」と、叙情的・瞑想的な「Ice」を共存させ、そのどちらの面からも彼女の魅力を引き出そうというコンセプトが、このタイトルには込めらているのではないでしょうか。
第1曲目、「カルメン幻想曲」は、ドミンゴのいくぶん遅めのテンポで開始されます。それに乗って、サラは、ことさら技巧を誇示しない、極めて自然な歌を歌い始めるのです。そう、もはやテクニックを見せびらかすことは必要ない、私には音楽で勝負できる自信があるのよ、そんな意気込みすら感じることができるほどの余裕たっぷりの表現が、そこにはあります。
2曲目の「タイスの瞑想曲」に至って、彼女の音楽的な深みというものは一層目に見える形になってきます。フレーズから次のフレーズに移る際の、ほんのちょっとしたテンポの揺れ、それを味わうだけで、この通俗名曲から全く新しい表情を感じとることができました。ひとしきり盛り上がったあとでもう1度テーマが現われるところのソット・ヴォーチェのあまりの美しさに、不覚にも涙腺が緩んでしまったと言えば、その素晴らしさが少しは伝わるでしょうか。
ベートーヴェンの「ロマンス」や、バッハの「G線上のアリア」といった、「渋い」曲にも確かな魅力を注ぎ込んでくれたサラ・チャンは、もはや単なる「天才少女」ではなく、一人の完成された「音楽家」に成長していました。このアルバムは、そのことを、聴いた人誰にでも知らしめてくれます。もちろん、聴き終わったあとの、心地よい充足感とともに。

おとといのおやぢに会える、か。


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