珍ドコ電車クモヤ22やクモハ40などがお供した大垣、神領電車区の浜松工場入出場車

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はままつみち
浜松道
HAMAMATSUMICHI
ひびきがはら やはぎてんじん

依佐美信号場

ひびきヶ原までの途中、依佐美信号場では行き違い列車の待ち合わせを行います。その間刈谷市南部にあった地域の象徴、「依佐美の鉄塔」をご覧下さい。


快速 ホームタウン

路線図に直帰される方はご利用下さい。

    
18.4.29
     

JR西日本では1990年頃、様々な形式の客車を1つの列車に仕立てて「チンドコ列車」という名前の臨時列車を運転していました。意図的に混結にした列車にはかないませんが、「車検」のために車両工場に回送される「入場車」は検査期限の迫った車両をまとめて工場に送るため、普段の営業運転では見られない組成の「ミニチンドコ列車」が見られました。
 当駅では浜松工場へ入場していた大垣、神領両電車区の回送列車を集めてみました。


■混結電車との出会い

あれは4歳くらいの頃だったと思います。それまで必ず母に連れられて行っていた電車見物に、ひとり三輪車をこいで線路端にたどりついたことをおぼろげながら覚えています。たまにではありましたが、日没間際に茶色の電車を1両含む湘南色やスカ色の混結編成が名古屋方面へ下っていくのを自宅から目にし、「茶色の電車を近くで見たい。」と強く思ったに違いありません。子供心に夕方行けば見られると思い、行動に移したのでしょう。
 どんな成果があったのかは記憶にありませんが、日暮れ間近にひとりで線路際に佇む私を不審に思った顔も知らないお姉さんが家まで送って下さいました。記憶にある限りでは私にとって初めての冒険であったと思います。後に自宅と線路との間にできた交通量の多い県道もまだなく、地域の大人の目配り、気配りが行き届いていた時代のことでした。
 物心ついた頃からこれらの電車を意識していたようです。特に先頭か最後部に1両だけついている茶色やスカイブルーの電車はこの時しか見られず、羨望の的でした。幼い頃は最新型の電車や特急列車に関心を持つものですが、この頃から茶色の旧形電車が大好きであったことは確かなようです。

■茶色の電車をアルバムに入れたい

小学生になると上り、下りの通過時間を覚え、帰宅後や夏休み に確信もなく線路端に足しげく通いました。週1〜3回の運転で、来なくて元々のつもりで行くしかなかったのです。6年生の夏休み、初めてクモヤ90を撮影したとき、先頭に立つ茶色の電車に手が震えるほど緊張しました。結果は写真はシャッターを切るのが早すぎて、小さくしか写っていませんでしたが、それでも大いに満足でした。
 後にこれらなぞの混結編成の正体が大垣電車区、神領電車区所属車両の浜松工場への入出場回送であることがわかりました。これらの控え車として活躍した牽引車クモヤ22、クモハ40やクモハ90は格好の写材でした。

クモハ40050
これぞチンドコ電車
クモハ40を先頭に大垣区と神領区の混結編成がゆく。1975.7.28 刈谷−東刈谷

クモハ40を先頭とした大垣区、神領区併結の入場車。牽引車が3両も入り、わかりにくいながら、後部に湘南色、スカ色の80系や113系、70系が加わったこれぞチンドコ電車。
興奮してシャッターを切ったため、少し流れています。最高の成果でしたが、あいにくネガを紛失しました。色あせたプリントからスキャンし、かなり強引な補正をかけました。

クモヤ90+クモハ40
クモハ40050+クモヤ90005

牽引車同士で浜松に向かうところです。後打ち撮影ですが、記録ノートによれば先頭はクモヤ90005(名カキ)です。出場車に運転台がない場合やサハ1両やクハ2両という場合などに見られました。

大垣を拠点に美濃赤坂支線や垂井線で使われていたもので、当時からスカイブルーの塗装でした。その後、これらの区間運転が80系に置き換わった後、旅客列車の運用はなくなりましたが、両側に運転台があるため、入れ替えや牽引車の代用としてしばしば入場車のお供をしました。
 正式な牽引車は「クモヤ**」の形式名を名乗り、旧性能車であっても新性能電車と連結できるように切り替え装置を備えていましたが、クモハ40は代用車のため、その装置は取り付けられていなかったと思われます。しかし、実際にはクモヤ22やクモヤ90を介すことなく、クモハ40が単独で113系などの新性能車と連結して走る光景は頻繁に見られました。ならば、新旧切り替え装置とはいったい何のために付いていたのかということになります。この点については、旧性能車のブレーキ(自動ブレーキ)は新性能車にも掛けることができるが、新性能車からは旧性能車にはない直通ブレーキを使用しないハンドル操作が必要になるという不便があったと言われます。
 なお、ブレーキに関する解説と新性能車が先頭になった編成については、既稿、5周年記念企画「蔵出し個性派旧形国電(18)」を参照下さい。

クモハ40800
クハ76+クモハ40800
クハ76023+クモハ40800

パンタグラフがない側は半流線型の美しい形状を保っていました。
クモハ40800(後)+クハ76023(前)

低屋根改造側のお顔
クモハ40800+モハ70+クハ103

パンタグラフ部分の屋根が削られ、独特の顔つきになっていました。後ろにモハ70とクハ103が続く神領区らしい入場車です。パンタ側の写真はこの1枚しかありません。

113系のお供を
クモハ40800を先頭に名古屋へ到着した回8612M

中央線を走り、名古屋に到着した神領区の入場車です。旧性能車が先頭の場合は新性能車と併結しても問題なかったものと思われます。
 この日は大垣区の入場車もあり、下り側へ引き上げて転線し、大垣編成と併結しました。
 写真を並べてみて気付きましたが、この頃取り付いていた幌は後に撤去されたようです。

元クモハ40069で、050と違い、前面が丸味を帯びた半流線型になっています。クモハ40050と共に大垣地区の区間運転で使われていましたが、その後神領電車区に転属しました。中央西線の電化完成後、神領電車区の一部の車両が長野工場にも入場するようになったため、低トンネル対策として、パンタグラフ部分が低屋根化改造されました。
 当車は戦前形式の両運転台型、クモハ40では唯一の低屋根化改造車です。身延線用のクモハ43などには低屋根化改造車がありましたが、基本的には運転台側にパンタグラフがあったものは反対側へ移設したため、顔立ちが崩れることはありませんでした。しかし、両運転台のクモハ40ではそうはいきません。運転台側の低屋根化を行った珍しい事例となりました。

クモヤ22118
クモヤ22+クモニ83
クモヤ22118+クモニ83021

後ろは荷物電車クモニ83021です。クモニ83も両運転台のため、牽引車に使えそうでしたが、実際に使われることは滅多にありませんでした。クモニ83だけが入場するのであれば単行でよかったはずですが、この日は出場車があったものと思われます。
クモヤ22118+クモニ83021

夕日を浴びて帰途に
クモヤ22118+クモハ40050

入場車を送り届けて大垣へ帰るクモヤ22とクモハ40です。この日、入場車は撮影しなかったようですが、自宅から見て「しまった」と思ったに違いありません。
 出場車はダイヤ改正によって違いがありますが、自宅付近を18時台から19時過ぎに通過しました。厳しい条件のせいか、まともに撮れているのはこの1コマだけです。

神領区転属後のクモヤ22
神領区に転属後のクモヤ22

神領区に転属後のクモヤ22118です。ブルーのサハ103が神領区の入場車であることを物語っています。

昭和初期に製造された旧モハ30系から中間電動車化されたモハ10型を改造した牽引車です。側面はリベットごつごつですが、運転台は両側とも新設されたため、より近代的な顔つきです。
 旅客車化され、団体貸切用に飯田線で余生を送ったクモハ12041はこのグループのクモヤ22を改造したものです。118号はこの区分ではラストナンバーで、台車がDT11であることが他車と異なっています。長らく大垣区に配属されていましたが、晩年はは神領区で過ごしました。
 両区の牽引車で最も古いながら、旧性能では最新のクモヤ90102導入後も浜松まで元気に往復する姿が見られました。

クモヤ90005
うぐいす色の103系を含む編成
回8612Mで名古屋に到着した神領区の入場回送

回8612Mで名古屋に到着した神領区の回送です。113系の後ろにはうぐいす色の103系(クモハ103-49+モハ102-146)が入っています。103系はスカイブルーが基本でしたが、一部はうぐいす色のままでした。出場時にはスカイブルーに塗り替えられたことでしょう。

偶然にも同じ列車を!
左と同日同列車。1979.8.14 安城-岡崎

臨時列車の記録と私の撮影記録とを照合しましたところ、なんと全く同じ列車を私も矢作川で撮影していることが判りました。中間の103系がウグイス色だったことは記憶にありません。
 撮影データを正確に記録されておられたからこそ照合できたことです。その重要性を再認識いたしました。

夏休みの終わりに
夏休み最後の日のクモヤ90005単行

今日で夏休みも終わり。冬休みまで撮れないと思うと行っておかなくてはと思いました。夏休みは部活の練習が午前中にあり、部活が休みになる最後の1週間しか撮りに行けなかったようです。確率は1/2以下でしたが、運良くクモヤ90がやってきました。単行でしたが十分満足でした。
 調べたところ、なんと、撮影した翌日付で神領から大垣へ転属になっています。想像の域を出ませんが、折り返し大垣区の出場車のお供をしてそのまま大垣区の所属になったかも知れません。

72系が大都市圏から追われ、地方に転出する際に、短編成化のために余剰となった中間電動車モハ72は荷物電車やこのクモヤ90などに大量に改造されました。
 この005はこれといった特徴のないノーマルなスタイルでした。中京地区への転入は調査中ですが、1979.9.1付で神領区から大垣区へ転属しています。JRにもかなりの両数が引き継がれましたが、各地で続々廃車となっていく中、当車は比較的遅くまで残っていました。

 2009.7、JR東海から同車が新博物館に収蔵されることが発表されました。資材が乏しかった戦時設計のモハ63として大量に製造されたものですが、これまでは正式な保存車で常時公開されているものがありませんでした。厳しい時代をくぐり抜けてきた生き証人として、時代背景を映した外観のほか、同系(72系)のメカもその後80系湘南電車に採用され、高速電車の発展に寄与した形式の保存は大いに意義深いものと思われます。
 廃車後も長らく浜松工場で保管されていましたが、モハ63時代を再現して展示されるとのこと。関係者のご高配が生かされるときがついに来ます。

クモヤ90804
低屋根改造側のお顔
パンタグラフ部分が低屋根改造されたクモヤ90804

単行で入場車の迎えに出るクモヤ90804。中学1年の夏休みに入ったばかりの撮影です。運転日の情報はなく、来ればもうけでしたが、「一発当り」で幸先の良い1コマです。

103系にお供して
ブルーの103系のお供をするクモヤ90804

103系の最後尾に付いて快走するクモヤ90804。103系はクモハ+モハのため全電動車の強力編成です!

低屋根改造前
クモヤ90804が低屋根改造される前のクモヤ90020。

低屋根改造される前のクモヤ90020。小学校6年生の冬休み中の撮影です。碧電では数少ない昭和40年代の写真です。

113系のお供を
クモヤ90102+サハ103+クハ111+クモヤ22118

撮る機会が比較的少なく、しかもパンタ側が先頭に立つことはさらに少ないため、鮮明な写真がないものと思っていました。スキャンしていたモノクロのネガにたまたま写っているのを見つけました。高く上がったパンタグラフが誇らしくさえ見えます。
 低屋根改造が必要な区間へ乗り入れ、長野工場への伴走を行う機会も少なからずあったようです。

昭和50年にクモヤ90020を低屋根化改造したものです。上り側はおでこがなくなってしまったような異様な顔つきです。
 クモヤ 90102が神領区に配属されて牽引車3両体制になると浜松工場入場車の仕業にはあまり入らなくなりました。

クモヤ90102
茶色いクモヤ143?
クモヤ90102+サハ103+クハ111+クモヤ22118

入場車をクモヤ22118と夾み浜松へ向けて快走するクモヤ90102です。
 春休み終了間際、学業に戻る直前の撮影で、4年生になると卒業研究多忙のため長期の休暇が取れなくなり、入場車をとらえるチャンスもありませんでした。

381系の入場車
名古屋駅に停車中のクハ381+クモヤ90102

土曜、日曜、年末年始は殆ど運転されなかったため、社会人になってからは撮影のチャンスがありませんでした。
 この日は臨時急行「たてしな」を新守山駅に撮影に行った帰り、土曜日にもかかわらず入場車が名古屋駅に停まっていました。
 すでに大垣区の担当は名古屋工場になっていましたが、その後、神領区の担当も名古屋に移管されたため、物心ついたころから見てきた浜松工場への入場車は見られなくなりました。
 その結果、この列車が入場車最後の撮影となりました。

浜松へ向けて東海道線へ
浜松へ向けて東海道線へ

名古屋を発車したクハ381+クモヤ90102です。こうして見ると屋根の高さの違いがよくわかります。クモヤ90102はパンタグラフが折りたたみ高さの低いPS23となり、局部的な低屋根化はされていません。
 10番線を発車した列車はうねうねとポイントを亘りながら中央線、東海道下り線を横断して東海道上り線へ入ります。

新製の牽引車クモヤ143を茶色にしたような車両ですが、茶色は旧性能車であることを表しており、意味のあるものです。ここでは1980年、高校生の時に作成したアルバムからテキストを引用しましょう。

意外な新車が登場した。形式はクモヤ90、番号区分は102〜が与えられている。この形式はおそらく国鉄最後の旧性能車(吊掛式駆動)の新車となるであろう。
 刈谷で見られるのは1979年8月にモハ72694を郡山工場で車体乗せ替えを行ったクモヤ90102で、神領区の所属である。この車両、種車が1956年製で、改造時すでに23年を経ていたことになり、73系が激減してほとんど解体されている実状を考えるとひじょうに貴重な存在であると言える。

 高校生の頃記した文章ですが、新製後23年経った車両の車体を乗せ換えての改造は異例のことという驚きが読み取れます。当時70系、72系、80系は車齢20年そこそこで廃車になっていました。無理もない感想だということになります。それが近年では車齢40年のキハ40系が観光用に改造され、しかも特急に使う事例があります。旧性能電車は保守に経費がかかることが廃車を早めた理由であり、単純比較はできませんが、特急用車両の車齢が40年超とは当時は考えられませんでした。

 まだしばらくは使用されるものと思われましたが、2001.6.29付で惜しくも廃車となりました。これには2000年末の京福電鉄事故により、当局がブレーキ方式が古い車両の使用を控えるように通達を出したことも影響していると言われています。
 なお、解説はやはり5周年企画「蔵出し個性派旧形国電(10)」も参照下さい。

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