はままつみち 浜松道 HAMAMATSUMICHI |
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ひびきがはら | やはぎてんじん |
ひびきヶ原までの途中、依佐美信号場では行き違い列車の待ち合わせを行います。その間刈谷市南部にあった地域の象徴、「依佐美の鉄塔」をご覧下さい。
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路線図に直帰される方はご利用下さい。
JR西日本では1990年頃、様々な形式の客車を1つの列車に仕立てて「チンドコ列車」という名前の臨時列車を運転していました。意図的に混結にした列車にはかないませんが、「車検」のために車両工場に回送される「入場車」は検査期限の迫った車両をまとめて工場に送るため、普段の営業運転では見られない組成の「ミニチンドコ列車」が見られました。
当駅では浜松工場へ入場していた大垣、神領両電車区の回送列車を集めてみました。
あれは4歳くらいの頃だったと思います。それまで必ず母に連れられて行っていた電車見物に、ひとり三輪車をこいで線路端にたどりついたことをおぼろげながら覚えています。たまにではありましたが、日没間際に茶色の電車を1両含む湘南色やスカ色の混結編成が名古屋方面へ下っていくのを自宅から目にし、「茶色の電車を近くで見たい。」と強く思ったに違いありません。子供心に夕方行けば見られると思い、行動に移したのでしょう。
どんな成果があったのかは記憶にありませんが、日暮れ間近にひとりで線路際に佇む私を不審に思った顔も知らないお姉さんが家まで送って下さいました。記憶にある限りでは私にとって初めての冒険であったと思います。後に自宅と線路との間にできた交通量の多い県道もまだなく、地域の大人の目配り、気配りが行き届いていた時代のことでした。
物心ついた頃からこれらの電車を意識していたようです。特に先頭か最後部に1両だけついている茶色やスカイブルーの電車はこの時しか見られず、羨望の的でした。幼い頃は最新型の電車や特急列車に関心を持つものですが、この頃から茶色の旧形電車が大好きであったことは確かなようです。
小学生になると上り、下りの通過時間を覚え、帰宅後や夏休み
に確信もなく線路端に足しげく通いました。週1〜3回の運転で、来なくて元々のつもりで行くしかなかったのです。6年生の夏休み、初めてクモヤ90を撮影したとき、先頭に立つ茶色の電車に手が震えるほど緊張しました。結果は写真はシャッターを切るのが早すぎて、小さくしか写っていませんでしたが、それでも大いに満足でした。
後にこれらなぞの混結編成の正体が大垣電車区、神領電車区所属車両の浜松工場への入出場回送であることがわかりました。これらの控え車として活躍した牽引車クモヤ22、クモハ40やクモハ90は格好の写材でした。
大垣を拠点に美濃赤坂支線や垂井線で使われていたもので、当時からスカイブルーの塗装でした。その後、これらの区間運転が80系に置き換わった後、旅客列車の運用はなくなりましたが、両側に運転台があるため、入れ替えや牽引車の代用としてしばしば入場車のお供をしました。
正式な牽引車は「クモヤ**」の形式名を名乗り、旧性能車であっても新性能電車と連結できるように切り替え装置を備えていましたが、クモハ40は代用車のため、その装置は取り付けられていなかったと思われます。しかし、実際にはクモヤ22やクモヤ90を介すことなく、クモハ40が単独で113系などの新性能車と連結して走る光景は頻繁に見られました。ならば、新旧切り替え装置とはいったい何のために付いていたのかということになります。この点については、旧性能車のブレーキ(自動ブレーキ)は新性能車にも掛けることができるが、新性能車からは旧性能車にはない直通ブレーキを使用しないハンドル操作が必要になるという不便があったと言われます。
なお、ブレーキに関する解説と新性能車が先頭になった編成については、既稿、5周年記念企画「蔵出し個性派旧形国電(18)」を参照下さい。
元クモハ40069で、050と違い、前面が丸味を帯びた半流線型になっています。クモハ40050と共に大垣地区の区間運転で使われていましたが、その後神領電車区に転属しました。中央西線の電化完成後、神領電車区の一部の車両が長野工場にも入場するようになったため、低トンネル対策として、パンタグラフ部分が低屋根化改造されました。
当車は戦前形式の両運転台型、クモハ40では唯一の低屋根化改造車です。身延線用のクモハ43などには低屋根化改造車がありましたが、基本的には運転台側にパンタグラフがあったものは反対側へ移設したため、顔立ちが崩れることはありませんでした。しかし、両運転台のクモハ40ではそうはいきません。運転台側の低屋根化を行った珍しい事例となりました。
昭和初期に製造された旧モハ30系から中間電動車化されたモハ10型を改造した牽引車です。側面はリベットごつごつですが、運転台は両側とも新設されたため、より近代的な顔つきです。
旅客車化され、団体貸切用に飯田線で余生を送ったクモハ12041はこのグループのクモヤ22を改造したものです。118号はこの区分ではラストナンバーで、台車がDT11であることが他車と異なっています。長らく大垣区に配属されていましたが、晩年はは神領区で過ごしました。
両区の牽引車で最も古いながら、旧性能では最新のクモヤ90102導入後も浜松まで元気に往復する姿が見られました。
臨時列車の記録と私の撮影記録とを照合しましたところ、なんと全く同じ列車を私も矢作川で撮影していることが判りました。中間の103系がウグイス色だったことは記憶にありません。
撮影データを正確に記録されておられたからこそ照合できたことです。その重要性を再認識いたしました。
72系が大都市圏から追われ、地方に転出する際に、短編成化のために余剰となった中間電動車モハ72は荷物電車やこのクモヤ90などに大量に改造されました。
この005はこれといった特徴のないノーマルなスタイルでした。中京地区への転入は調査中ですが、1979.9.1付で神領区から大垣区へ転属しています。JRにもかなりの両数が引き継がれましたが、各地で続々廃車となっていく中、当車は比較的遅くまで残っていました。
2009.7、JR東海から同車が新博物館に収蔵されることが発表されました。資材が乏しかった戦時設計のモハ63として大量に製造されたものですが、これまでは正式な保存車で常時公開されているものがありませんでした。厳しい時代をくぐり抜けてきた生き証人として、時代背景を映した外観のほか、同系(72系)のメカもその後80系湘南電車に採用され、高速電車の発展に寄与した形式の保存は大いに意義深いものと思われます。
廃車後も長らく浜松工場で保管されていましたが、モハ63時代を再現して展示されるとのこと。関係者のご高配が生かされるときがついに来ます。
昭和50年にクモヤ90020を低屋根化改造したものです。上り側はおでこがなくなってしまったような異様な顔つきです。
クモヤ 90102が神領区に配属されて牽引車3両体制になると浜松工場入場車の仕業にはあまり入らなくなりました。
新製の牽引車クモヤ143を茶色にしたような車両ですが、茶色は旧性能車であることを表しており、意味のあるものです。ここでは1980年、高校生の時に作成したアルバムからテキストを引用しましょう。
意外な新車が登場した。形式はクモヤ90、番号区分は102〜が与えられている。この形式はおそらく国鉄最後の旧性能車(吊掛式駆動)の新車となるであろう。
刈谷で見られるのは1979年8月にモハ72694を郡山工場で車体乗せ替えを行ったクモヤ90102で、神領区の所属である。この車両、種車が1956年製で、改造時すでに23年を経ていたことになり、73系が激減してほとんど解体されている実状を考えるとひじょうに貴重な存在であると言える。
高校生の頃記した文章ですが、新製後23年経った車両の車体を乗せ換えての改造は異例のことという驚きが読み取れます。当時70系、72系、80系は車齢20年そこそこで廃車になっていました。無理もない感想だということになります。それが近年では車齢40年のキハ40系が観光用に改造され、しかも特急に使う事例があります。旧性能電車は保守に経費がかかることが廃車を早めた理由であり、単純比較はできませんが、特急用車両の車齢が40年超とは当時は考えられませんでした。
まだしばらくは使用されるものと思われましたが、2001.6.29付で惜しくも廃車となりました。これには2000年末の京福電鉄事故により、当局がブレーキ方式が古い車両の使用を控えるように通達を出したことも影響していると言われています。
なお、解説はやはり5周年企画「蔵出し個性派旧形国電(10)」も参照下さい。
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