依佐美信号場
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依佐美信号場です。ここでは反対列車との行き違いのためしばらく停車します。停車中、「依佐美の鉄塔」をご紹介します。
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東海道線の375M(大垣夜行、その後の「ムーンライトながら」→廃止)は車内放送が東刈谷付近から始まっていました。ここを発車して次の刈谷との間、猿渡川橋梁を渡る頃まで、進行左側に遠望できた8本の通信鉄塔をご記憶の方もあろうかと思います。
季節にもよりますが、夜明けの頃であれば航空障害灯の赤いランプをゆっくり点滅させる印象的な姿も見られたことでしょう。これが「依佐美の鉄塔」です。
本サイトは私の鉄道写真アルバムの作品を中心にご紹介していますが、碧海地区の象徴でもあった「依佐美の鉄塔」を加えました。
依佐美の鉄塔は昭和初期、ヨーロッパとの無線通信を目的として建設された長波通信施設「依佐美送信所(よさみそうしんしょ)」の構造物で、1928年12月に完成しました。戦後、GHQに接収され、米海軍の通信基地へと機能が移りましたが、1997年、取り壊しが完了するまでの68年間、この地にそびえてきました。
高さ250m、8本が整然と立ち並び、碧海地区からならばどこからでも見られたこの鉄塔は地域の象徴でした。地域の人々は遠方に出かければ鉄塔群を見て「帰ってきたな」と思ったものですし、遠くから出稼ぎに来られる季節労働者の方々もこの鉄塔を目印に農閑期の職場を目指して来られたと聞きます。
1996年夏から1997年2月にかけて全て取り壊され、今や見ることはできませんが、私たちは幼い頃からずっと鉄塔に見守られながら育ちました。
依佐美の鉄塔が建設されたのは昭和初期。まだ道路も整備されておらず、大型トレーラー、クレーンもない時代に東京、新宿の超高層ビル群に並ぶ高さの鉄塔を建設した当時の技術力は注目すべきものがあります。ちなみに、建設資材は第1次世界大戦の戦後補償としてドイツから無償で搬入されましたが、建設地までは現名鉄小垣江駅から仮設の引き込み線が敷かれ、SLが牽く貨車で輸送されたとのことです。
(仮設の鉄道に関する文献が刈谷市の公式ホームページに掲載されています。)
また、三河地震や伊勢湾台風といった災害にも倒壊することなく、使命を全うしました。風や地震の研究データも今ほどでなく、コンピューターもなかった時代に高度な設計がなされたことには驚かされます。
1993年8月、送信業務が停止され、翌年には送信所が米軍から返還されました。鉄塔の扱いが検討されましたが、維持するだけでも多大な資金が必要で、解体やむなしとの結論に達しました。技術史的に貴重で、幼い頃から見慣れてきた象徴を失うことが残念なだけに、せめて1本だけでも残せないものかと思いましたが、全て撤去されることになりました。
解体は「エレクター工法」と「ジャッキダウン工法」の2工法が採用され、1996年夏、着手されました。しかし、作業の本格化から間もなく、大きな事故が発生しました。鉄塔を仮設のやぐらに支持させ、支持点よりも下の部分を切断しながら油圧ジャッキで塔体を降下させていく「ジャッキダウン工法」の作業中、支線のバランスを失って残り200mの状態で転倒してしまったのです。この事故で作業員の方1名が亡くなりました。高所作業が減ることやクレーンの上下に要する時間分の工期短縮がメリットとされましたが、細長い塔の下部を先に切断することは安定を確保することがたいへん難しかったということになります。
しばらくの間、工事が中断されましたが、工法を「エレクター工法」に限って再開されました。塔体に沿った仮設のレールにクレーンを登らせ、上部から塔体を吊りながら切断し、徐々に降ろす作業を繰り返す方法でした。最盛期には3台のクレーンが使用され、薄緑色に塗られた胴体はまるで鉄塔を食い荒らす巨大な青虫のようで、痛々しい姿にはカメラを向けられませんでした。