碧電周年記念 岡多線(愛知環状鉄道)

18.2.4更新(07.11.5開業)


やはぎてんじん
矢作天神
YAHAGITENJIN
はままつみち やつおもて

愛知環状鉄道30周年記念列車(回送)2152
 碧電では碧海5市を通る各線の他、周辺の鉄道として武豊線を扱っていますが、同様の位置づけである岡多線のページがありませんでした。それは発表するに十分な写真がなかったからに他なりませんが、古くからの友人である山崎俊さんから一大イベントであったお召列車のネガをお借りできるなど、徐々に関係写真が増え、「1駅」を構成しうるストックが整いました。そこで、碧電開業7周年の機会に岡多線〜愛知環状鉄道を扱う新駅を開業します。
 2018.1.31、岡多線は愛知環状鉄道への転換30周年を迎えました。岡多線時代の写真ばかりになったのは趣旨がずれているかも知れませんが、転換直前に走った「さよなら団臨」は貴重なものです。

●矢作天神について

碧電で扱う路線では東海道線、東海道新幹線、三河線、西尾線が矢作川を渡ります。路線図に「矢作」の名をいつかは入れたいと思っておりました。
 「天神」は言わずと知れた「岩津天神」に由来します。沿線から少し離れていますが、岡崎北部といえば思い浮かぶのが天神さんだったので使わせていただきました。
なお、「矢作天神」は東海道線の踏切として実在するようです。

エキスポシャトル ホームタウン

始発駅総合路線図へお越しの方はご利用下さい。

 

(注) 拡大画像はJava Script を使用しています。ポップアップ自動カットを停止してご覧下さい。

旅客開業間もない頃
永覚に到着する70系岡崎行き普通電車

1976.4.26、岡崎−新豊田間で旅客営業が開始されました。当日は月曜日で、当時中学生だった私たちは次の日曜日に初乗りに行っています。おじいさんと少年が電車の見物に来ているところが開業間もない頃を思わせます。
 ほんとうは駅名標を入れて撮ろうとしたようですが、悪い位置におじさんが立ってしまいました。誰も移動を頼めませんでしたが、駅名標への未練は残っていたようです。(笑)

愛知植樹祭お召列車
子供たちを始め、地元の人々に見送られるお召列車。

1979.5.27、愛知県植樹祭で岡多線にもお召列車が運転されました。高架や築堤が主体で線路に近づくことが難しい岡多線では東名高速道路の下をくぐる永覚付近は間近で見送りができる数少ないポイントでした。沿線住民との組み合わせはたいへん貴重な記録です。
 私は部活の対外試合が2日とも重なってしまって行けず。今も悔しい思い出です。

写真:山崎俊様

御料車推進回送
ゆっくりとした推進運転で北野桝塚へ向かうお召列車の回送。

当時新豊田は単線行き止まりのため、客車列車であるお召編成がどのように帰っていくかが注目されました。北野桝塚まではなんと推進運転で、ここからは迎えに来ていた予備機EF5860が先頭に立ちました。推進運転は踏切のない新しい路線ゆえ実現されたものと思われます。先頭になった電源車(供奉車)460の扉が開かれ、係員が前方を監視しています。

写真:山崎俊様

EF61の自動車輸送列車
EF61が牽く自動車輸送列車

当時岡多線には上下10本ほどの自動車輸送列車が運転されていました。そのなかで、EF61牽引の列車もありました。この組み合わせが見られたのは短期間だったと記憶しています。
 CO2排出削減のため、トヨタでは自動車部品輸送の専用コンテナ列車の運用を始めました。自動車そのもののの輸送も再び貨物列車が復活する日はやってくるのでしょうか。

写真、文:西三河鉄道局様

お召列車訓練運転
EF58111+旧型客車によるお召訓練列車。

お召列車の運転に先立ってEF58+旧形客車の編成で訓練運転が行われました。平成に入ってからのお召訓練では御料車編成を実際に使用した事例がありますが、国鉄時代は地元の鉄道管理局管内配属の客車が集められて使用されました。寝台車1両にグリーン車が2両連結され、なかなか豪華な編成です。
 御料車編成は一般の旧形客車よりも重いため、+1〜2両(6両ないしは7両)で運転されることがよくありました。

岡多線の晩年は165系
岡多線としての運行が残り1週間となった頃。

1985年3月のダイヤ改正以降、愛知環状鉄道への転換までは165系が使用されました。理由は定かではありませんが、113系4連では輸送力過剰であること、急行の廃止によって165系に余剰車が発生したことが考えられます。
 愛環への転換を1週間後に控えた頃の撮影です。

ユニチカ専用線(1)
ユニチカ岡崎工場専用線で入換中のDD51892。

北岡崎からユニチカ岡崎工場まで専用線が延びていました。東海道線内は他の貨物と混結でEL牽引であったものが、後にDD51牽引の専用列車となりました。DD51が使用された理由については、以前は岡崎駅に入換用のDE10、DE11がローテーションで毎日回ってきていたものが、それがなくなり、非電化の工場内まで直通運転を行う必要が生じたためと思われます。廃止は1999年ということですので、自動車輸送が終了し、愛知環状鉄道へ移管された後も続けられていたことになります。

写真:気楽庵様

ユニチカ専用線(2)
構内入換用DL DD351

工場内で入換に使用されていたDL、DD351です。1日1本のタンク車が発着するだけにしては立派なDLに見えます。かつてはこのような専用線のDLが各地で数多く見られましたが、今では大きく数を減らしてしまいました。

写真:気楽庵様

100系訓練運転
定期列車の合間を縫って100系の訓練列車が運転された。

JR線としての運行が残り僅かになった頃、愛環車の訓練運転が行われていました。定期列車に割り込ませるには交換駅が北野桝塚だけでは不足していたはずで、既に愛環になってから開業予定の交換駅が運転取り扱い上は使用開始になっていました。新規開業となる末野原駅の信号機が点灯していた(既に交換駅として有効)と記憶しています。

岡多線さよなら号(回送)
岡多線らしい高架橋をゆくお座敷列車の回送

愛環への転換が約1週間後に迫った1988.1.23、12系お座敷客車を使用した団臨が入線しました。マヤ34による軌道検測を除けば、1979年5月のお召列車以来の客車列車でしょうか。
 これは見逃すことはできないと、前夜の大垣夜行345Mで駆け付けました。行路上、岡崎、新豊田、名古屋で折り返すため、前後に機関車が付きました。上り方DD51、下り方EF65は当時はまだ1両ずつしかなかったユーロ色機で揃えられました。

岡多線さよなら号(客扱い)
DD51791(名)が牽くお座敷客車

新豊田でお客さんを乗せた列車はDD51先頭でやってきました。前頭部は手作り感あふれるヘッドマークが掲げられました。このDD51791は名古屋から関西、紀勢本線へそのまま運用されたものと思います。
 日の出前からどんよりとした曇り空でしたが、列車が通過するときにはスポットライトのように日が差しました。

帰ってきた113系
万博輸送による車両不足に備え、JR113系の乗務員訓練。

70系の活躍はわずか2年半で終わり、1978年12月から113系に置き換えられました。113系がありふれた存在であった当時、列車密度が低く、効率の悪い岡多線へ113系を撮りに行こうという気になる余地はありませんでした。その結果、とうとう岡多線時代に113系を撮っていません。そして思わぬリベンジの機会が訪れたのが2005年、愛知万博開催前でした。車両不足時にJRから113系を借りて運用することを見越してか、乗務員訓練が行われ、旧岡多線区間に113系が帰ってきました。

●お陰様の開業

やっと開設することができた岡多線のページは半数がご提供作品となりました。自分は行くことができなかったお召し列車のほか、それなしでは岡多線を語ることができない自動車輸送専用列車も西三河鉄道局様が掲示板の話題として紹介下さった作品を使用させていただきました。また、113系の試運転列車も掲示板に書き込みいただいた情報を元に旧岡多線区間にこだわって出掛けたもので、教えていただかなければ知らず仕舞いでした。さらに、岡多線末期の165系も実は人頼りであり、このようにいろいろな方々のおかげで写真をそろえることができました。 今回手持ちの写真や過去に伝言板で紹介させていただいた写真、ご提供写真を加えて岡多線時代の写真の充実を図りました。
 愛知環状鉄道の30周年だというのに転換後の写真はなしに等しいのはいかがなものかとも思いましたが、機会を改めます。

エキスポシャトル ホームタウン
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