■碧海猿渡駅第1b展示室

碧電開業8周年記念:EF58の活躍(2)

国鉄時代のEF58が牽く臨時列車を集めた当展示室は碧電開業初期の頃以来の更新になります。
 1980年代に入り、主にEF65PFへの置き換えによって急速に数を減らしていったEF58ですが、1983年くらいまではまだまだ元気な姿を見ることができました。


(注) 拡大画像はJava Script を使用しています。セキュリティーの設定次第では正常に動作しないことがあります。

123号機+43系相撲列車
43系による大相撲巡業列車を牽くEF58123(東)

小学校の卒業間際の日、仲間たちと日中ずっと撮影をしていました。しかし、カラープリントが高価な時代で、1日いても数枚しか撮りませんでした。そんな中、EF58123(東)が牽く相撲列車(その1でも扱いました。)はシャッターに手が動きました。後年思いましたが、正面窓がHゴムではないゴハチは東京区、浜松区では既に貴重になりつつありました。
 急行「桜島・高千穂」はもう廃止間際でしたが、なぜか写っていません。別の日に撮った今ではお見せできないような写真で満足してしまい、「もう撮ったからいいや。」になってしまったようです。
 実は笹の葉が列車にかかっていたのですが、画像上で「剪定」をしています。

14号機+東京南局お座敷車
初めて撮れた南シナのスロ81系お座敷客車

スロ81系お座敷客車は非冷房だったスロ80系を置き換えたものですが、種車であるスロ62系が古く、登場が早かったものは後継の12系改造車への置き換えが考えられていました。しかし、東京南局では1980年に新たなスロ81系が導入されました。9/21の8103列車で下って行ったのを偶然見掛け、祝日である9/23の8102列車を待っていたところ、期待どおり帰って来ました。
 この頃私は受験生で撮影の機会は激減。5月に入れたフイルムをこの月、やっと現像に出すことができました。

124号機40系気動車回送
新製されたキハ40系気動車を回送する124号機

この頃まだ増備が続いていたキハ40系の回送もEF58が牽いていました。東京区のゴハチが担当していることから、富士重工製のものと思われます。
 機関車の次位の客車はスロ62です。気動車の連結器は強度が低いため、機関車からの衝撃が直接伝わらないようにするための控え車が必要であったとされています。しかし、国鉄末期、キハ31型の回送(解説も参照下さい。)では控え車はありませんでした。
 この写真は露出を失敗してしまい、ひどいアンダーでしたが、スキャンとレタッチによって大幅に救うことができました。

●EF5861を初めて撮った日

国鉄時代、東京機関区のEF58は10両が配置されていました。その内の1両が61号機で、検査やお召列車の準備期間を除けば他の機関車と同様に使われていました。東京区には定期運用はなく、専ら臨時列車を牽いて碧海地区へも姿を見せていました。東京区担当の臨時列車があるときで、しかも単純計算で1/10の確率ではなかなか61号機を見ることはできませんでした。実際に指名登板以外の運用で撮影できたのはごく僅かです。

61初撮りは「銀河52号」
思いがけず61が牽いてきた急行「銀河52号」

ゴールデンウイークの連休(と、言っても当時はせいぜい3連休)や秋の行楽シーズンにはオール座席車による臨時急行「銀河」が運転されていました。上下の51号だけでは輸送力が足りないときには下りだけの52号が走り、碧海地区は6時台の通過で撮影可能でした。
 臨時列車はこの頃から14系座席車で運転されるようになり、旧形客車で運転されていた定期列車よりもグレードが高くなりました。まだ14系座席車は特急用という印象が強く、「EF58が牽く特急」のような写真が撮れるのが楽しみで撮影に出掛けました。
 最初は太陽を背にしていてわかりませんでしたが、国道419号線立体交差工事の仮線に差し掛かったとき、サイドの銀帯で61号機とわかりました。「あっ、お召し機だ!」この日が61号機の初撮りになりました。

銀河52号の客車返却回送
急行「銀河52号」の14系を回送するEF5861

急行「銀河52号」は京都行。上りは8104レで回送されました。そうなると同日中にもう一度61号機を撮れることになります。この日、仲間たちは名古屋駅へ各種列車の撮影に行きましたが、私は不参加でした。名古屋駅は東海道本線上り列車の撮影には不向きであったことや、地元刈谷で61号機を迎えたいという思いがあったからと思われます。
 名古屋駅にいるH君から電話があったと、後で祖父から聞きました。その時間、私は自宅で落ち着いていられず、早めに沿線に出ていました。初めて61号機が撮れた喜びと興奮からH君はわかっていることにもかかわらず電話をくれたのでしょう。

61号機+東京南局お座敷車
何度も狙ってやっと撮れた61とシナ座の組み合わせ

学生時代を関東で過ごした私には61号機を撮るチャンスがそこそこありました。EF58は12系や14系よりも旧形客車の方が似合います。クリーム帯が入った12系のような塗装とは言え、スロ81系「シナ座」は撮りたい組み合わせでした。東京区のゴハチが牽く機会毎に意識して撮りに行きましたが、来るのは青ガマばかり。やっと撮れたのは大学生活が半分終わった1983年3月のことでした。8101レは光線状態があまり良くありませんが、初めての61+「シナ座」を撮れて思わずガッツポーズでした。
 この1年後には東京区のEF58は3両のみとなり、61号機もしばしば「シナ座」を牽きました。しかし、SGを使う運用から一度外れてしまうとなかなか入らず、地元で撮れたのはこの1往復のみに終わりました。

●ゴハチの臨時列車が1日3本

近年では客車の列車自体が珍しくなってしまいましたが、1980年代は日によっては何本もの臨時列車が運転されました。予定臨と呼ばれるあらかじめ設定されたダイヤで運転されることが主体で、撮影可能時間帯の下り8101、8411、8103レ、7111レ、上り7112レ、8102、8104、8106レのうち半数以上のスジが埋まっていて、それが全てEF58という日もありました。
1983.2.27は日中の1時間ほどの間に8411、8102、8103の3本が走りました。刈谷付近では8411レと8104レの時間が接近していて、移動が困難なため、矢作川橋梁へ行きました。

36号機+金沢局お座敷車
金沢局のお座敷客車を牽く36号機。

まずは8411列車です。8411列車のスジは米原から北陸線へ入る列車によく使われていました。この日の客車は金沢局の12系お座敷客車であったため、北陸線へ入っていたものと思われます。米原のEF58が団臨を牽くことはそれほど多くはなく、いざ走るとなるとファンの注目を集めました。人気の36号機が充当され、荷物列車以外の組み合わせがなかなか撮れなかった36号機の貴重な記録となりました。
 客車は後々「わくわくだんらん」に改造され、多くのファンのネガ(ポジ)に記録されることになります。

138号機+天王寺局お座敷車
EF58129牽引43系相撲列車

8411レの次は上り方へ移動し、8104レを迎えます。1981年7月、天王寺局にも12系お座敷客車が配置され、竜華区に配属されました。この日は宮原機関区のEF58が担当しましたが、次第にEF65PFに運用を取られることが多くなっていきました。
 この客車も後に「いきいきサロンきのくに」に改造され、「ワカ座」と呼ばれてファンに親しまれることになります。

12号機+12系
12系9連(北オク)を牽くEF5812(東)

8104レを撮った後は再び下り方へ戻ります。3本目は12系9連(北オク)です。12系の臨時列車は頻繁に見られました。やはり長い列車を牽いて颯爽とやって来るのがゴハチらしい姿です。
 東海地区のEF58で最後まで走っていたのは122号機、157号機ですがこんな写真を見るとトロッコ列車や工臨を牽く姿は本来の姿からはかけ離れていたと改めて思います。
 絶好の光線状態ですが、編成の長さがつかめなかったからか、前パンがポールに重なってしまったのはちょっぴり残念。

122号機+名古屋局12系お座敷車
静岡転属後碧海地区で初めて撮ったEF58122。

1986年の秋、EF58122号機が静鉄局へ転属して来ることを聞きました。撤退したはずのゴハチがなぜ静岡へ?既に61、89号機以外で僅かに残っていたゴハチはいつ廃車になってもおかしくない時代でした。
 最初は謎でしたが、その後、翌年4月に国鉄を引き継ぐ新会社JR東海が自社用として使うことを前提に要請されたものであることがわかりました。国鉄時代から使われ始めましたが、汚れが目立ち、地味な運用がほとんどでした。新会社への移行時、「旅立ちJR東海号」など、しばしば記念列車の先頭に立つようになります。

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