■碧海猿渡駅第4展示室

その4:大多数の臨客を牽いたEF65PF

●EF65PFの勢力拡大

1970年代、碧海地区の東海道線ではほとんどの臨客をEF58が牽いていましたが、1980年頃から同形式の置き換えを目的に新製されたEF65PFへの移行が始まりました。1985年3月の改正で事実上EF58は撤退し、名鉄局、静鉄局でEF65一般型やF型の担当があったことを除けば大多数がEF65PFとなりました。

●EF58を追い掛けた世代としては・・・

相互リンク先「汽車・電車1971〜」の多田さんとお会いした時の話です。
多田さん:「この間、東北線に乗ったら沿線にすごい人がいるんで、何が来るのかなと思ったら普通のEF65PF+14系だったんですよ。そんな時代になったんですね。」
 多田さんはEF57を撮影されていた世代で、東北線ではEF58すら嫌われていた時代をご存知です。私はEF57は無理でも、EF58はずいぶん追い掛けました。それでも、既にEF65PFへの置き換えが進んでいました。ゴハチとPFのどちらが使われるかがわからない列車を撮影に行き、情報通の人に尋ねると、腕をクロスして返され、がっかりしたことを思い出します。(腕のクロスは下枠交差形パンタ、PS22を模したもので、「PFだよ。」の意味。)また、PFファンの皆さんには叱られそうですが、ゴハチを期待して構えているときにPF型の貫通扉、2個ライトが見えてくると撮らずにカメラを片づけたこともありました。
 そんな経験を持つ世代として、以前ならば見過ごしていたPF+14系を皆が目の色を変えて撮っているのを見て、時の流れを感じられたことには私も大きく頷きました。
 直流区間では大多数の臨客を牽いていた1980年代後半、EF58のような個性もなく、どちらかと言えば消極的に撮ったものが多いのですが、今改めて当時のネガを見直せば、もはや再び撮れないものも多数あります。本展示室では東海道の団臨をそれ抜きでは語れないEF65PFの国鉄時代の作品を順次ご紹介して行きます。


(注) 拡大画像はJava Script を使用しています。セキュリティーの設定次第では正常に動作しないことがあります。

EF651124+門トス12系お座敷
碧海地区まで来ることは滅多になかった門司局12系お座敷客車

 スロ81系の老朽化に伴い、お座敷列車は順次12系の改造車に置き換えられるようになりました。その第1編成は九州でデビューし、スロ81系では塗装規定の変更によって消されていたグリーン車の帯が復活しました。
 碧海地区まで来ることはほとんどありませんでしたが、たまたま所用で帰省したときに撮ることができたものです。

EF651001+20系
深夜の名古屋駅で発車を待つEF651001(吹)+20系

 定期列車からは撤退していた20系は臨時急行や団臨にしばしば使用されていました。夜行急行「ちくま」に乗車するため最終電車で名古屋へ行くと、たまたま20系の団臨が停車中で、牽引機がPF型のトップナンバーであったため、慌てて三脚を立てました。
 当時の同機は吹田機関区の配属で、関西地区の団臨をしばしば牽いていました。左は乗って来た最終電車の113系。

EF651004+サロンカーなにわ
夕日を浴びて東海道を上るEF651004+サロンカーなにわ

 JR東海の機関車運転士の養成中止によって客車列車自体が来なくなりましたが、「サロンカーなにわ」は国鉄時代にはそこそこの頻度で見ることができました。吹田機関区のPFはほとんどがPS22パンタを装備した後期型でしたが、時々前期型が充当されることがあり、少しだけ得した気分になれたものです。
 EF62が牽く下り荷物列車が危うく被るところでした。

EF651010+「ユーロライナー」
意外と貴重な前期型PFとユーロライナーの組み合わせ

 「ユーロライナー」がデビューした国鉄時代、東海道線では専用機もなく、多くの場合は稲沢機関区のEF65一般型の担当でした。学生時代からPF型にはややアレルギーがあり、貫通扉が見えてきたときは「な〜んだ」と思いましたが、よくよく考えてみれば稲沢では両数が少ないPF型との組み合わせは貴重でした。東海道では数えるほどしか実績がないはずです。

EF651131+「みやび」
EF651131+14系座敷「みやび」

 ファンの間でミハ座と呼ばれて親しまれたスロ81系が86年1月末で引退し、86年4月、14系を改造した「みやび」がデビューしました。この「みやび」もPFに牽かれて何度かやって来ました。
 この年の12.28、山陰本線余部鉄橋でお座敷列車の回送が強風を受けて全車転落というニュースの第1報を受けました。慌てて鉄F誌の団臨情報を見ると確かに「みやび」が同鉄橋を渡る運用になっていて愕然としました。デビューからまだ9ヶ月の「みやび」が衝撃的な最期を迎えるとは思いも寄りませんでした。私にとっては11月、EF65一般型との組み合わせを113系に被られて撮り逃したのが同車を見た最後になってしまいました。

甲種ではない新車回送
九州のローカル線向け新型車キハ31型×5がEF651111(田)に牽かれて東海道を下る。

 国鉄の分割民営化を間近に控えた頃、3島会社(北海道、四国、九州)の財産を強化するため、国鉄最後となる新形式気動車が導入されました。
 この写真は九州向けのキハ31の回送シーンですが、度々取り上げている甲種鉄道車両輸送ではありません。ただの「回送列車」です。
 国鉄時代、新製された気動車はメーカー近くの本線上で公式試運転、引渡しを済ませ、法律上正式な国鉄車両になっていたため、メーカーを荷主とする貨物として輸送する必要がなかったのです。
 当時ファンの間でも「キハ回」と呼んで「甲種」とは区別していました。
 2019年にキハ31形は全て引退となりました。


●稲沢のEF65PF

私が撮影を始めた1974年、大型のPS17型パンタグラフの前期型PFをよく見かけましたが、その後しばらくはあまり見かけなくなりました。
 1985年3月のダイヤ改正で地元の稲沢機関区に前期型でも若い番号のPFが田端から転入してきました。その内訳は1003、1006〜1012の8両で、少し遅れて新鶴見から1013号機も転入しています。(85.4.24付)これらは貨物主体の運用でしたが、撤退したEF58に代わって名古屋地区の団臨も牽引するようになりました。稲沢では最も数が多い一般型、F型、PF型の配属があり、特に区別されることもなく使用されましたが、F型への期待があったことや、学生時代、東北本線でPF型を見慣れていたこともあってか、PFが来ると損をしたような気がしたものです。
 国鉄の分割民営化時に東海会社には臨客用として5両程度のEF65が引き継がれると聞き、てっきりPF型が選ばれるものと思われましたが、結果は意外にも全て一般型でした。
 当時稲沢に配属されていたPFの多くは貨物会社の配属となり、高崎、新鶴見、岡山に散り、その後、更新工事を受けて貨物機らしくなりました。一方、1011(86.3.20)、1013(86.3.14)の2両は稲沢にはわずか1年いただけで田端へ帰り、分割民営化時に東日本会社所属になりました。稲沢で送り出してくれた兄弟たちから「いいなあ、田端へ帰ってまたブルトレを牽くんだ・・・。」と羨ましがられたかどうかはわかりませんが、その後東日本会社では客車列車の減少によって余剰車となり、PF型の中では早々に廃車解体されてしまいました。
 分割民営化後の所属会社、用途の相違によって同時期に製造されながらも寿命が大きく異なっている事例は少なくありません。(19.12.17修正)

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