1970年代、碧海地区の東海道線ではほとんどの臨客をEF58が牽いていましたが、1980年頃から同形式の置き換えを目的に新製されたEF65PFへの移行が始まりました。1985年3月の改正で事実上EF58は撤退し、名鉄局、静鉄局でEF65一般型やF型の担当があったことを除けば大多数がEF65PFとなりました。
相互リンク先「汽車・電車1971〜」の多田さんとお会いした時の話です。
多田さん:「この間、東北線に乗ったら沿線にすごい人がいるんで、何が来るのかなと思ったら普通のEF65PF+14系だったんですよ。そんな時代になったんですね。」
多田さんはEF57を撮影されていた世代で、東北線ではEF58すら嫌われていた時代をご存知です。私はEF57は無理でも、EF58はずいぶん追い掛けました。それでも、既にEF65PFへの置き換えが進んでいました。ゴハチとPFのどちらが使われるかがわからない列車を撮影に行き、情報通の人に尋ねると、腕をクロスして返され、がっかりしたことを思い出します。(腕のクロスは下枠交差形パンタ、PS22を模したもので、「PFだよ。」の意味。)また、PFファンの皆さんには叱られそうですが、ゴハチを期待して構えているときにPF型の貫通扉、2個ライトが見えてくると撮らずにカメラを片づけたこともありました。
そんな経験を持つ世代として、以前ならば見過ごしていたPF+14系を皆が目の色を変えて撮っているのを見て、時の流れを感じられたことには私も大きく頷きました。
直流区間では大多数の臨客を牽いていた1980年代後半、EF58のような個性もなく、どちらかと言えば消極的に撮ったものが多いのですが、今改めて当時のネガを見直せば、もはや再び撮れないものも多数あります。本展示室では東海道の団臨をそれ抜きでは語れないEF65PFの国鉄時代の作品を順次ご紹介して行きます。
国鉄の分割民営化を間近に控えた頃、3島会社(北海道、四国、九州)の財産を強化するため、国鉄最後となる新形式気動車が導入されました。
この写真は九州向けのキハ31の回送シーンですが、度々取り上げている甲種鉄道車両輸送ではありません。ただの「回送列車」です。
国鉄時代、新製された気動車はメーカー近くの本線上で公式試運転、引渡しを済ませ、法律上正式な国鉄車両になっていたため、メーカーを荷主とする貨物として輸送する必要がなかったのです。
当時ファンの間でも「キハ回」と呼んで「甲種」とは区別していました。
2019年にキハ31形は全て引退となりました。
私が撮影を始めた1974年、大型のPS17型パンタグラフの前期型PFをよく見かけましたが、その後しばらくはあまり見かけなくなりました。
1985年3月のダイヤ改正で地元の稲沢機関区に前期型でも若い番号のPFが田端から転入してきました。その内訳は1003、1006〜1012の8両で、少し遅れて新鶴見から1013号機も転入しています。(85.4.24付)これらは貨物主体の運用でしたが、撤退したEF58に代わって名古屋地区の団臨も牽引するようになりました。稲沢では最も数が多い一般型、F型、PF型の配属があり、特に区別されることもなく使用されましたが、F型への期待があったことや、学生時代、東北本線でPF型を見慣れていたこともあってか、PFが来ると損をしたような気がしたものです。
国鉄の分割民営化時に東海会社には臨客用として5両程度のEF65が引き継がれると聞き、てっきりPF型が選ばれるものと思われましたが、結果は意外にも全て一般型でした。
当時稲沢に配属されていたPFの多くは貨物会社の配属となり、高崎、新鶴見、岡山に散り、その後、更新工事を受けて貨物機らしくなりました。一方、1011(86.3.20)、1013(86.3.14)の2両は稲沢にはわずか1年いただけで田端へ帰り、分割民営化時に東日本会社所属になりました。稲沢で送り出してくれた兄弟たちから「いいなあ、田端へ帰ってまたブルトレを牽くんだ・・・。」と羨ましがられたかどうかはわかりませんが、その後東日本会社では客車列車の減少によって余剰車となり、PF型の中では早々に廃車解体されてしまいました。
分割民営化後の所属会社、用途の相違によって同時期に製造されながらも寿命が大きく異なっている事例は少なくありません。(19.12.17修正)
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