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リレーSS『非日常的なある事件』 1-10 11-20 21-30 31-43(完)

リレーSSは、リレー・ショート・ストーリーの意味で、複数の執筆者がリレー形式でショートストーリーを書いていくというものです。
そのため、同じ場面の別視点になっていたり、突然場面が変わってまた戻ったり、キャラクターの雰囲気が少し違ったりします。
いちおう読みやすさに配慮して、場面と主な登場人物を付記してあります。
改行位置等は原文ママです。

31. 四谷『アパート月見荘』

得手 楓

夜の闇の中を真はニャンを抱いたまま飛んでいた、
人々に見つからないように出来るだけ高度をあげて。
「後少しで大久保よ。」
とニャンが道案内を続ける。
「助かったよ、ニャンさん。」
「ニャンでいいよ。」
「ああ、そうだったね。」
そんな会話を続けているうちに二人は目的地の上空に着いた。
見下ろすとたくさんの警官や機動隊員がいる。救急車もたくさん来ていた。
救急隊員がせわしなく、怪我人の治療をしている。
「もう、終わっちまったのか?」
辺りには緊迫した雰囲気はなかった。警官達は事件の後処理等で忙しく
動き回っている。
少し離れた位置に真達は降り立った。裏道を抜け事件現場に向かう途中に
反対側の路地に土部の姿を見つけた。人目を避けるようにして土部に
近づく。二人の姿を確認した、土部は小声で話しかけてきた。
「やあ、早かったですね。」
「事件の方はどうなっちゃたの?」
ニャンが真の腕の中から問い掛けた。
「宿主の方が射殺されまして…まだ、新しい宿主は現れてませんが…」
土部が渋い顔でその問いに答えた。
「今の所、大丈夫なようですが、いつ奴が現れるかわかりません。」
「しばらくは、様子見ってことか。」
真が溜め息まじりに呟く。

その頃、エスは月見荘へとバイクを猛スピードで走らせていた。
「このままでは、私が壊れてしまう…早く、恐怖を…怯える心を
喰らわねば…。」
エスはあせっていた。公雄の記憶をいくら見直しても人に恐怖を
与えられるモノが見当たらないのだ。いや、一つだけ見つけた!
これならば、恐怖を与えられる。怯える心を喰らうことができる。
公雄の手には一振のナイフが握られていた。以前ゲーム制作の為に
参考の為に手にした事のあるコンバットナイフである。重量や質感も
しっかりしている。軽く触れるだけで指の一本は落ちるほどの
鋭い切れ味を持つナイフである。

そして、バイクは月見荘の前に着いた。
公雄は壊れかけのバイクを降りて入り口までの短い通路を歩き出した。
突然、入り口が開き一人の女性が姿を現した。
金色に髪を染めたツリ目の美人、剣王 楓だ、と公雄の記憶が言っている。
「あら、得手さん、早いじゃないの。会社の方に缶詰だって聞いてたのに。」
楓は銭湯にでも行くのか桶にタオルを持っている。
「得手さん? どうしたの?」
楓は公雄の顔を覗き込むように見る。
「何でも、無いですよ。ところで、妹さん達は?」
公雄は愛想良く、楓に答える。
「二人とも、私をほっといて先に行っちゃったんですよ。
覚えてなさいよ、泉水ぃ。」
楓はボキボキと指を鳴らす。それをじっと見ている公雄の視線に気づいて。
「あらっ、ホホホ。そ、それじゃ、失礼しますわ。」
「お気をつけて。」
公雄は楓の後ろ姿を見ながら、唇を持ち上げる。邪悪な微笑みを浮かべると、
月見荘へと入っていった。
楓は今の会話に不思議な違和感を感じていた。

32. 四谷『アパート月見荘』

風飛 楓

 その時、風飛はバイクに乗る公雄を追いながらすでに確信していた。もちろん、
彼に今回の事件の元凶――確か土部から聞いた話ではエスと言ったか――が憑依
していることに。
 確かにエアガンに興味があり風飛はその点においては嫌悪していたが、その通
り、その一点だけなのだ。好意が持てると言わなくても、最低敵意を感じること
は決してなかった。
 その公雄が傷つかないと言えど自分に銃を向けたのだ。
 心変わりというのにはあまりに唐突すぎる。だがそれが人間なのかも知れない
が……。ただ、その性格が変えられようはずはない。
 そう考えながら、風飛はあるまじきことに自分が真実を見逃したことに気が付
いた。どうやら何かがおかしくなっているらしい。まぁ、その失敗に気付いたか
ら良しとしよう。
 間違いは「エアガンで自分が傷つかない」と言うところだ。例えそれがおもち
ゃであれ、銃だと認められるものの攻撃に彼は限りないほどの痛手を被ってしま
う。それが風飛が風飛である所以なのだから、皮肉なものだ。その弱点だけがな
くなるようになることはどうしても成功しない。
 幸い今エスが持っているのは銃ではなくナイフだ。
 それから、もう一つ気が付いた。
(月見荘に向かっている。なぜだろう?)
 生憎、風飛には完全に人間の感情が理解できるわけがない。どちらかと言えば、
敢えて理解しようとしてないのかも知れないが。
 それから間もなく目的の場所に辿り着いた。もはや一度見つかってしまってい
るので意味はないのだが、一応物陰に隠れながらその様子を観察していた。やは
りいつもの公雄ではない。妙に行動がきびきびとして、どこか頼り無さ気なとこ
ろが見当たらないのだ。
 月見荘にエスが入っていくと、もちろん風飛もそれに続いた。本当ならもう止
めていなければならなかったのかも知れない。ナイフを持つ今の彼に対抗するこ
とは先程に比べれば安易だった。
 しかしそれは彼の好奇心が許さない。
 そして彼の知識が阻害する。
 前者はエスが一体何がしたいのかを知りたい、ということ。
 後者はもし相手の基本能力が自分より上だった場合一人で相手をするのは無理
であるし、その場合には公雄も巻き添えにして殺してしまう可能性もある。
 無関係な人間を彼は殺したくなかった。
 しばらくしてエスが建物に入ろうとして扉を開けようとしたその時、それは中
から開かれた。出てきたのは風飛が知っている人物……いや、者だった。
 出てきたのは剣王楓と名乗っている、髪を金に染めたつり目の女性だ。彼女自
身に対して風飛はそれほど敵意はないが、泉水という彼女の2人いるうちの1人
の妹に対しては……さらに敵意がないどころか日頃遊び相手にしていた。
 自分を使い魔にしたいらしい。真剣になる彼女の周りを彼は優雅に、と言うか
ほとんど不気味に旋回してあげたものだ。もちろん彼女の命令なぞ聞かなかった
が。今度は使い魔にされるフリをして、いざというときに裏切ってあげでもしよ
う。
 そのように意味のないことを考えていると、2人は何か会話をしていた。取り
立てて聞くようなことはなかったし、エスがいきなり彼女を襲うようなこともな
かった。もしそうなれば面白いものが見物できたかも知れない。
 エスはそのまま彼女のことは何もせずにゆっくりと歩いていった。それを見て
首を傾げている楓。
 その楓に風飛は背後から不意に話しかけた。
「楓、気になるのなら協力しないカァ?用事があるなら別にいいけど」
 驚いて楓は後ろを急に振り返る。しかしそこには誰もいなかった。
 不思議がる彼女だったが、また呼ばれた。
「下」
 今度は短かったが、楓はやっと風飛の存在に気が付いたようだ。
「カラスちゃんじゃない。どうしたの?泉水にでも追いかけられでもした?」
 話がどこか抜けている。しかし、今回風飛はその点をわざと無視することにし
た。
「得手公雄の様子が変なのは気が付いてるはず。あの男は今人間でないものに憑
依されている……その記憶から武器を作り出せるエスと言う名の同種に」
 風飛は彼女にそれなりの好奇心があることを知っていた。だからこの話にはき
っと乗ってくるだろう。例え、妹たちをどこかで待たしているとしても。
「へっ?嘘。どうしてあの得手さんが……」
「そんなことは知らないカァ。別に何もしなくてもいいし、僕と同じことをして
もいいし、『女王蜂』に行ってこのことを知らせてくれるのもいい」
 それだけ言うと、風飛はエスの後を追って建物の中に入っていった。
 これから何が起こるのか楽しみだった。この点、彼が全く人間に近くないこと
の証明である。
 前方に注意を向けると、後方の楓の行動は気にならなくなった。

33. 四谷『アパート月見荘』

得手 楓 小夜

『ガチャッ!』
ここはアパート月見荘の玄関口。いま、一人の少女が背伸びしながら電話の受話器
をおいた。
「あら、小夜ちゃん。こんばんは」
声をかけてきたのは剣王楓。彼女は桶とタオルを持っていたがその美貌が損なわれ
ることはなかった。
「こんばんは」
少女の名は小夜という。受話器をおいた彼女はそう言うとぱたぱたと部屋に戻った。
部屋からは良い香りが漂ってくる。楓も小夜の料理の腕前を先日味わって感心して
いた。小夜がいつもこの月見荘の住人のために料理をする事は珍しいことではない
らしい。
小夜は部屋にもどり、鍋の火加減を調節しながら
(土部さん、今日は早く帰るって言ってたのに…)
と心の中で呟いた。土部や得手に料理を振る舞う時ほど作り手が掛る事はない。
しかし2人とも、とてもおいしそうに食べてくれるのが小夜には嬉しかった。
(ポケベルのメッセージ、すぐに見てくれるかな…)

『バタン!ドタドタ…』
その時、誰かが玄関から入ってくる音がした。いま、このアパートの管理人である
耕平はなにかの用事で出かけていた。小夜は土部だろうと思ったが、来客であると
困る。さらに、なにかいやな予感を感じたので玄関を覗いて見ることにした。
(土…あ…得手さん)
そこには得手が立っていた。たしか今日は帰らないと言っていたはずだが。それに
いつもと雰囲気が違っていた。それで一瞬、土部かと思った。なんと言えばいいか
…人間くささといったものが感じられなかったのだ。
得手は辺りを見回した。そして部屋から覗く小夜を見つけると近づいて来た。
「やあ、小夜ちゃん。耕平さんは?1人なの?」
(違う…)
小夜はそう確かに感じた。
(誰…)

エスは今、標的を発見し喜びに満ちていた。しかも、すでにおびえている様子だ。
(しかし、いっその事、この暴力性に貧しい得手公雄からこの小夜という少女に乗
り変えようか…最近の子供はすばらしい残虐な知識を身につけているからな)
エスはそう思ったが、それはまず食事を終えてからにしようと決めた。

小夜はもう一度、得手公雄を”見た”。…オーラがおかしい、なにか変な物が混
じっているような感じだ。それも、とっても嫌な物が…

エスは奇妙に思った。この娘、最初は明らかに怯えた様子だったが今はじっと自分
を見ている…エスにはそう感じられたが、自分を見る事が人間に出来るはずがないと
思い直した。
「さあ…ショータイムの始まりだ…」
突然、公雄は残虐な笑みを浮かべ、すらりと大きなナイフ−サバイバルナイフ−を取
り出して、そのギラリと光る刃をベロリと舐めた。
小夜はその雰囲気に恐怖を覚えた。

34. 四谷『アパート月見荘』

得手 小夜 風飛

 小夜は恐怖を覚えた。
 今、小夜の目の前にいる公雄は明らかに普段の公雄とは違う。
 話し方、歩き方、雰囲気に至るまで全てが異質だった。
 一歩、公雄が近付く…一歩、下がる…一歩…一歩…。
 小夜の背中が壁に当たった…。
 「貴男は………誰?」
 「ひゃはははは! そんなこと、どうでもいいじゃないか…。 どうだ? 
  怖いだろ…死ぬのは。 さぁ、泣け! 叫べ!」
 「得手さんに…乗り移っているのね?」
 「うるさい!」
 エスはナイフを振るった! 小夜の首を真一文字に薙(ナ)ぐ!
 「カァー!」
 「…何っ!?」
 忽然(コツゼン)と小夜の姿がエスの視界から消えてしまったのだ…。
 小夜が消える瞬間…一瞬、目の前を黒い影が過(ヨギ)ったが、それはすぐに
廊下の隅(スミ)に出来た影に飲み込まれるように消えていった。
 「何処だ!?」
 エスは折角見付けた獲物に逃げられたことで激しい怒りを覚えていた。
 「何処だ! 何処だ? 何処に消えたァァァ!」
 辺り構わずナイフを振り回す!

 風飛は驚いていた。
 彼はエスのナイフが当たる前に小夜を助け出そうと飛び出したのだが、彼が
到達するより前に小夜の姿がかき消えてしまったのだ。
 「何処に行ったんだ?」

 小夜は部屋の中にいた。
 短い距離ではあるが、彼女には一瞬の間に空間を飛躍する力があるのだ。
 更にこの力を使うためには水晶が必要なのだが、幸いなことに彼女は数日前
に”公雄から”水晶の付いたキーホルダーを貰っていた。
 小夜は小さな掌を開くと、握っていた水晶のキーホルダーを見つめて囁(ササヤ)
いた。
 「ふぅ…。 困ったわ…なんとかして上げたいけど、得手さんの身体に乗り
  移っているとすると手出しできない…どうしよう? お姉ちゃん…」

 ガツンッ!
 扉に堅い物がぶつかる音がした。
 小夜は思わず叫んでしまいそうになって、慌てて両手で口を塞(フサ)いだ。
 掌からこぼれ落ちた水晶が床に落ちる。
 コツン…。
 それはほんの小さな音だった。
 しかし、無差別にナイフを振るいながらも全神経を研ぎ澄ましていたエスは
その気配を感じとってしまった。
 「そこかぁ! そこにいるんだなァァァ!」
 ガチャガチャと部屋のノブが悲鳴を上げる。
 小夜は扉が壊される前に再び瞬間転移して助けを呼ぼうとして水晶に手を伸
ばした…が、その時、点けっぱなしにしていたTVから静かなピアノの音が流
れてきた。
 「いけない! …………」
 小夜はその曲を耳にした瞬間、急激に眠気に襲われた。
 彼女には「静かな曲を聴くと眠くなる」と言う弱点があるのだ…。
 全ての動作に支障をきたすほどの眠気が彼女を蝕(ムシバ)む。

35. 四谷『アパート月見荘』

得手 楓 小夜 風飛

一羽の鴉が月見荘に戻って行った。その場に残された女性、剣王 楓は
少しだけ迷って、同じく月見荘に戻るために歩き始めた。
「あんな事言われたら、ついつい見たくなっちゃうじゃない、もう。」
すこし文句を言ってみたりする。
「あっ! そうだ。泉水ぃ、覚えてなさいよ。姉さんを置いてった罪は
大きいわよ。」
銭湯のある方角を見てつぶやき、月見荘の前に戻ってきた。

その頃、銭湯では・・・
「くしゅん!」
可愛らしくクシャミをしたのは楓の妹、剣王 泉水である。
「誰か噂でもしてるのかな?」
独り言を言って再び身体を洗い始めた。
「・・・・楓姉さんじゃないの?・・・・」
隣で同じように身体を洗っていた女の子がぼそっと答えた。
彼女の名は剣王 彩。剣王三姉妹の末妹である。
「ちょっと、そう言う事言わないでくれる、彩。」
暖かい銭湯の中で泉水の顔色は一気に青くなった。
「・・・・置いてきたもん・・・・」
彩があまり抑揚の無い声で答える。
「あれは、姉さんがいつまで経っても出てこなかったからよ…。」
「・・・・でも、楓姉さん。怒ってると思う・・・・」
「はぁ〜。また、キツイおしおきが待ってるのかな・・・」
半分あきらめた感じで泉水が溜め息をついた。

その頃、月見荘では・・・
得手 公雄の身体を乗っ取ったエスは、歓喜していた。
ドアをぶち破るとそこには目的の少女が倒れていたからだ。
恐怖のあまり気絶しまったようだ。
だが、これでは恐怖を喰らうことができない…。
死を目の当たりにした人間の恐怖を…。
軽く小突いてみる。しかし、反応はない。
公雄は、醜く唇を歪めると近くにあった、ガムテープで
小夜の手足を拘束していった。
先ほどから流れている耳障りな音を消し、少女の頬を数回叩いた。
「んん・・・」
小夜は、目覚めると自分の置かれている状況を認識した。
手足の自由は奪われ、口にもガムテープを貼られて声も出せない。
「お目覚めかい? お姫様。」
公雄は楽しそうに行った。
「白馬の王子様が助けに来てくれるかな?」
小夜の耳元で囁く。小夜は人間とは違う異臭に思わず顔を背けてしまった。
それが楽しいのか、公雄は押し殺す様に笑い、ナイフを小夜の目の前に
ちらつかせた。
「んんっ!!」
声にならない悲鳴を上げ、小夜は必死でその場を離れようともがいた。
「最高だ! おまえの恐怖は! 」
少女の喉元にナイフを当てる。小夜はもう動けない。
「もっと、味あわせてくれ、その恐怖を…。」
公雄の持つナイフが少女の首筋を滑り降り、まだ未成熟な胸の膨らみの
上を這う。そして、薄いポロシャツの胸元がナイフで切り裂かれる。
淡い色の下着を見られた小夜は恐怖と恥ずかしさでただ泣いているだけ
だった。

と、その時、扉がぶち破られ公雄の身体に大量の空気がぶつけられた。
背中を強く打ちつけ、悶絶する、公雄。
「大丈夫? 小夜ちゃん。」
楓が小夜の所に駆け寄る。小夜の口に貼られたガムテープを剥がしてやる。
小夜は何も言わずただ泣くだけであった。
「あんた、見損なったよ! こんな女の子相手に!」
再び風が動く。公雄の身体は壁に押し付けられ身動き一つできない。
「今の内にここを離れるんだ!」
風飛が、楓に言うとそのまま窓から外へと飛び出していった。
楓は小夜を抱きかかえ、廊下を抜け入り口を目指し走り出した。

36. 四谷『アパート月見荘』

得手 楓 小夜

月見荘に得手公雄−エス−が到着した頃、ここ、大久保の雑多なビルの間の路地
では黒崎真が猫の姿のニャンに話し掛けていた。
「まったく、どういう性格なの?あの土部とかいうおっさんさ」
声を荒げる事はできないので、ささやくように話している。
「この状況で飯の心配かよ」
なんと土部は、ここはまかせますよ、などと思わせぶりなセリフを残して去ってし
まっていた。しかもその理由をニャンから聞き、真はちょっと不機嫌になったのだ。
その雰囲気から、ただ者ではない、と感じていただけに大いに裏切られた気分だ。
「うーん…ニャンもまだよくわからないにゃ。ただ、やさしい人だよ」
一応、フォローするニャンであった。確かにせっかく小夜が料理を作ってくれてい
るのを全く連絡せずにキャンセルすれば小夜は悲しむだろうし、恐らく帰るまでい
つまでも待っているだろうから、もし自分なら良心が痛む。
「それに先生の言うとおり、もうここにエスはいないと思うよ」
それは真も考えていたことだ。それに今、惨劇の現場はたくさんの人間が出入りし
ている。もうすでにどこかへ行ってしまっている可能性が高い。そしてなにより、
この路地に隠れていられるのもそろそろ限界のようだ。
「そうだな…確かに…ん?」
路地の入り口に見慣れた小さな手がひらひら動いている。そしてちょっと顔をのぞ
かせる・・・奈美だ。こっちに来いという事らしい。
真は警官たちの動きを面白そうに眺めているニャンをなにも言わず抱き上げて、路
地の出口に駆け出した。もちろん、それを見咎められる人間はいなかった。

真と奈美たちが合流した数分後、月見荘では事件が起こっていた。
出口に向って駆ける楓。小夜を抱えている。とにかく狭い場所は自分にとって不利
になる。それにせっかく引越したばかりのこのアパートを破壊したくはない。今、
妹の泉水がいないのはよかったかもしれない。もちろん、おいていったことを許す
つもりはないが。
「!?」
とつぜん、廊下を踏みしめた足が抵抗なくつるりと滑った!慌てて壁に手をつき、
転ぶのは免れたが…床には一面、小さなプラスチックの弾−BB弾とか言ったか−
がまかれていた。
「罠を張っておくのはハンティングの常識ですよ。楓さん」
すぐ後ろから公雄の声がした。楓は咄嗟に小夜を放り出し、身体を捻った!
『ヒュン!』すんだ音を立てて公雄の振るったナイフが首のすぐ脇をかすめる!
楓は公雄の鈍重そうな身体と人間であるという事から油断していた自分に気付いた。
しかし、だからといって妖怪としての力を振るうわけにはいかないが…しかし…
楓は第2撃目を考えて身構えたが、公雄は楓の向うを見て叫んだ。
「なにをしている!?」
その隙を逃す楓ではない。力を込めて公雄を押した!
『ドスン!』
床の抜けそうな音を立てて倒れる公雄、そして毒づいた。
「くそっ!なんて鈍い身体だ!」
そのセリフで楓は公雄が憑依されていると確信をもったが、今は外に出るのが先決
だ。すぐさま電話をしている小夜を抱えると玄関から表にでた。

エスは自分がミスをしたのかと悔しく思った。小夜がちょうど電話している所で
電話線を切る予定だったのだ。公雄の知識から、そうすると標的は怖がるらしい。
しかし、あの女−楓−の登場は予定外だったのだ。そうだ、ミスをしたわけではない
し、まだまだ、これからだ。ただ標的がもう一つ追加されただけだ。
エスは思い直し、重い身体を立ち上がらせた。

37. 四谷『アパート月見荘』

得手 楓 小夜 風飛

東京の闇夜を風飛は飛ぶ。東京では夜になっても街の明かりは絶える事はない。
しかし、そのはるか上空には闇がある。いや、上空だけではなかったか…
これこそ、風飛のその本来の”ありかた”なのだ。
目的地はスナック女王蜂。風飛なら一瞬だ。風飛にとって得手公雄は人間にしては
好感のもてる相手ではあったが、いざとなればやるしかないと思っていた。大好き
な小夜のためなら。しかし、楓という援軍が現れ、風飛はここにチャンスを見出し
ていた。飛びながら、作戦を考える。仲間たちと協力してうまくエスを包囲してし
まおう。

アパート月見荘の玄関から外に駆け出した楓は小夜をかばうようにあたりを警戒
した。外は昼間の蒸し暑さを残しながらも、風がよどんだ空気をかき回している。
ここなら楓はその力を十分に発揮できる。さあ、出てきなさい。楓は警戒しながら
気を引き締めた。

風飛はスナック女王蜂に到着した。店内には真由美と古規がいる。窓ガラスを
ノックすると真由美が開けてくれたので、風飛は手早く状況を説明した。すぐに
真由美がどこかへ電話をいれる。おそらく別行動している仲間たちにだろう。
「では、月見荘にはエスと剣王楓、小夜の3人がいるのだな?」
古規が確認するように尋ねてくる。風飛は肯いた。古規はそれを見ると少し考え込
み、そして呟くように言った。
「もし、エスに精神を支配された人間が、精神に影響する妖術をうけるとどうなる
と思う?」
しかし、真由美も風飛もわからなかった。そういった経験はないからだ。そして、
2人は気付いた。あの場には小夜がいる、そして小夜にはその力があった事を。

月見荘の玄関前では楓が公雄を押さえていた。力ずくではない。風を操って地面
に押さえつけているのだ。エスは混乱していた。まさかこの女が自分と同じ存在だ
とは思わなかったのだ。先程、あの小娘−離れた所から見ている−が電話していた
ということはこの女の仲間が来るかもしれない。どうすればいい。このままでは!
「観念しなさい。ここはほとんど人は通らないわ」
楓の言葉にエスは吹っ切れた。いままで妖怪相手に自分の力を使った事はないが、
こうなればやるしかない。自分は今日一日でずいぶん力が上がっているはずだ。
エスは精神を集中した。

楓は奇妙な感覚を覚えた。なんだろうと思っているうち、それは奇妙というより
も気味悪く感じられてきた。公雄が自分をじっと見ている。まさか、こいつ私に妖
術を使っている!?

エスは楓の精神に入り込もうとしていた。しかし、やはり人間とは根本的に違う。
自分が入り込めそうな感触がない・・・失敗だ!しかし、その時、楓は
「あっ!」
と小さく声を出し、ふらりとよろけた。自分を叩き付ける風が止んだ。憑依は出来
なかったが、集中を一瞬、乱す事には成功したのだ。公雄−エス−は思わず素早く
立ち上がりナイフで楓を切り裂く!楓の腕の裾がスパリと切られ、白く美しい肌に
一筋の赤い線が走った。やれる!公雄はこのナイフなら人間など簡単に切り裂ける
とイメージした。そして楓は人間の姿をしているのだ!
「死ねっ!」
公雄−エス−は叫び、ナイフを振りかざした。

土部は月見荘に向って急いでいた。小夜との約束はもちろんだが、実際は公雄を
追っていった風飛が戻ってこないことにある嫌な想像をしていたからだ。
「この角を曲がれば…すぐです」
嫌な想像が現実となっていない事を祈りつつ・・・
「やめてっ!」
しかしその祈りは小夜の叫び声を聞いた時、届かなかったことを知って土部は走り
出した。

エスは驚愕した。なんだ!この感触は!いままで感じた事のない感覚にエスは焦
る。ナイフを振りかざした手は止まっていた。楓はなにが起こったのかわからず、
様子を見ている。そうだっ!この身体のなかに自分以外の力が入り込んできている!
「こ、この身体は…この心は…俺のものだっ!」
エスは苦しそうに叫んだ。

「違います。その身体も心も得手君のものです。あなたにはあなたの心があるで
しょう?」
声に気付いて小夜が横を見上げると土部が立っていた。土部は厳しい表情をしてい
る。次の瞬間、土部は口からなにか白いものを吐き出した。それは最初、白い粘液
の固まりのようだったが、空中で細く分かれて糸になり、公雄に絡み付いた。
絡み付く糸から逃れようともがく公雄−エス−だったが公雄の力では断ち切れず、
続けて吐き出された糸に完全に動きを封じられてしまった。

38. 四谷『アパート月見荘』

得手 楓 小夜 土部 風飛

 土部の吐き出した糸は、エスの力……この場合公雄の力だが……では到底引き
ちぎったりすることは無理だった。何度も試みても無駄だということが分かった
ので、エスは他の打開策を考え出そうとする。
 一つだけ方法があった。しかしそれには、今ここに憑依しているもの以外に人
間の姿が必要である。
 そう、仮初めの姿ではない本当の人間の姿が。
 目の前にいるような、人間の姿を借りた者たちでは駄目なのだ。
「しかし、困りましたね。これからどうしたらいいものか」
 はぁ、と溜息を付きながら土部は呟いた。
 その場にいる楓も小夜も同じような心境だった。ただ、小夜の場合、公雄を助
けるという思いがそのことよりも先行していたりする。
 それが当然。それが小夜の優しさ。
「とりあえず、他の仲間が来るのを待った方が良さそうね。今頃、あのカラスち
ゃんが連絡してるでしょ」
 楽観的に楓が言う。ただ、それが確かに正論だった。
 その時、会話を少々きつい状態で聞いていたエスは面白いことを思い付いた。
どうして今まで考えつかなかったのだろうとも一瞬思うが、それは彼にとってど
うでもいいことになった。
「……クックック。お前たち、これで勝ったと思うなよ。俺を殺せば、当然この
男も死ぬことになるんだからな」
 身動きとれない状態ながらも、公雄の顔は勝ち誇ったように周りのものを見下
した。
 その言葉とその様子に、小夜が短く悲鳴を上げる。
「そんな……」
 絶望が彼女を襲う。無論、彼女が公雄に何かが憑依していると気付いた時点で
そのことは分かっていた。ただ、今まで認めたくなかったのに、当の本人によっ
てその希望を見事に打ち砕かれたのだ。
「クックック、クッ、ハーッハッハッハ」
 絶望に打ちのめされる小夜を、まるで馬鹿にするかのように、公雄の……エス
の哄笑がその場にこだました。


 古槻莞爾が言った言葉。
「精神を支配された人間が、精神に影響する妖術を受けるとどうなるか?」
 その言葉は前例を誰も知らぬゆえ、実行は危険であるという反面、この状況を
打開する唯一の方法だと感じられる。
 少なくとも、この店内にいるものたち、当の古槻の他、風飛、真由美にはそう
感じさせて当たり前だった。
 皆が押し黙る。
 ただその後最初に口を開いたのはカラスだった。
「……それが出来るのは小夜ちゃんだけカァ。でも、小夜ちゃんは、あの公雄に
そんな事はできない。小夜ちゃんは優しいから」
 それはほとんど人間が使う感情を込めた言葉だった。だが、もはや風飛自身そ
んな事は気にしていられない。小夜の持つ「狂気」の妖術を用いれば確かにエス
を公雄の身体から追い出すことができるかもしれない。
 もし、公雄本人にも影響が出たとしても、術を掛けたものはその影響を取り除
くことができるのだ。だからその影響は一瞬で終わるはずだ。
 だが、その一瞬が耐えられないのが小夜なのである。
 しかし、古槻はなおも言う。
「現状を打破するためには他に方法は見つからん。被害が広がらないうちに今や
れることをやるべきだと思うが、どうかな?」
「そうね。風飛、先に行ってちょうだい。そろそろみんなが月見荘の所まで来る
ぐらいだわ。あなたが小夜ちゃんに今のことを説明して」
 真由美は古槻の、この場合最も冷静かつ的確な意見に賛同した。それはやはり
自然の成り行きであって、もはやそれを変えることなどできようはずがなかった。
 風飛も、もう観念するしかなかった。しかし、やると決まれば彼はとことんや
る。……のに、今回は乗り気ではなかった。
「分かったカァ。でも、普通に説得したところで無駄だと思うカァ」
 それだけどこか悲しそうに呟くと風飛は彼のなせる最高の速度を持って、入っ
てきた窓から出ていった。
 目的地までたどり着く彼にとっては一瞬の間、空中で彼は呟く。
「小夜ちゃんだけには嘘は付きたくなかったけれど、どちらにしろ小夜ちゃんが
悲しむなら、小夜ちゃんを騙す方がよっぽどいい」
 所詮、カラスはこうなのだ……。風飛の心は悲しみでいっぱいだった。


 いつまで待てばいいのか分からない。
 その気持ちが一番膨れ上がってきたのは、剣王楓だった。土部や小夜と違い、
彼女はのんびりとはできない。
 それでもなお、かろうじて自分をコントロールできていた。暇つぶしに妹たち
の悪口を言いまくっているからである。今頃、そのあわれな妹たちはくしゃみを
しどうしだろう。
 その内容については、あまりここに載せるべきではないので説明を省くことに
する。
 そうしている間に、風飛が戻ってきた。真由美の予想とは裏腹に、まだ他の仲
間たちは集まっていないようだ。だが、おそらくもうすぐ来るだろう。
 しかし、この場面は風飛にとって好都合だった。あるいは、本当は彼にとって
は最悪の事態だったのかも知れない。
「カラスちゃんじゃない。どうしたの?みんなには連絡した?」
「真由美さんがしてくれたカァ。もうすぐ来ると思うカァ」
 少し陽気な口調で風飛は言う。実はいつもと調子が違ったのだが、そのことに
は誰も気が付いていない。
 風飛はエスを一瞥してから、小夜の方を向いて言った。
「小夜ちゃん、実はひとつだけ公雄を助ける方法があるカァ」
 小夜はその言葉に大いに驚いた。彼女にとってその言葉は、まさに渡りに船だ
った。その言葉を聞いて、エスの反応は小馬鹿にしたように笑っただけだった。
 しかし小夜の目は喜びに見開かれる。それを見て風飛は少し悲しい気持ちにな
った。
「風飛さん、それ何なの?速く教えて、得手さんをどうしても助けたいの!」
 彼はその小夜の様子を見てから、エスに聞かれぬよう彼女を少し離れたところ
に連れ出した。一応、念のためにである。
 そして、風飛は口を開いた。
「…………小夜ちゃんの術で公雄の精神を攻撃するカァ。今の公雄の精神はエス
そのものだから、その術は直接エス“だけ”に効くから、公雄は助かるカァ」
 風飛は、嘘を付いた。

39. 四谷『アパート月見荘』

得手 楓 小夜 土部 風飛

奈美に呼ばれ彼女の元に行った真は大変な事実を聞かされて驚いた。
「えっ? エスは月見荘にいるんだって?」
真は間抜けな声をあげ奈美に聞き返した。
「そうみたい。私も由美さんに聞いただけだから。」
奈美が答える。
「由美ちゃん達は?」
「もう、先に行ったわよ!」
声を荒げて奈美が答える。
「何そんなに怒ってんだよ。」
「私達も行かなきゃいけないのよ。ぐずぐずしないでよ。」
「行くったって、魔宮さんも行ったんだろ?」
「だから、あんたが私とニャンさんを連れて行くの!」
「ええっ! ニャンはともかく、おまえも運ぶのか!」
「人を荷物みたいに言わないでよ。」
「そうにゃ、ニャンは荷物じゃないよ。」
二人から責められてタジタジになる真であった。

「変なとこ触らないでよ。」
奈美がニャンを抱え、その奈美を抱き上げる様にして真は
月見荘を目指し夜の空を飛んでいた。
「誰が、おまえなんかを…」
溜め息交じりに真が言う。奈美はそっぽを向いたまま何も言わなくなった。
ニャンだけが二人のやり取りを楽しそうに見ていた。

その頃月見荘では・・・
小夜は風飛の言葉を信じて公雄をエスから開放する為に静かに集中していた。
『すまない、小夜・・・』
祈るように目を瞑り集中している小夜を見て風飛はすまない気持ちで
いっぱいだった。公雄にではなく、自分を信じてくれた小夜に対してだ。
軽く息を吐き、小夜が術に入った。
「うぅ・・・うがぁぁぁぁ・・・・」
エスは侵入してきた異質な力に必死に抵抗していた。
「抵抗しないで、お願い。」
小夜は公雄を見ながらエスに話し掛ける。
「こ、こんな…事で…うぅ…うがぁぁぁぁぁ…」
公雄の身体が二、三度痙攣を起こし動かなくなった。
小夜はほっとして公雄の側に座り込んだ。
「成功したんですか?」
土部が小夜に話し掛けた。見た所、公雄には何も起こってないように
見える。
「あの人は、得手さんの心から出て行きました。」
小夜が疲れた表情で言った。
土部が糸を解き、公雄を開放した。
公雄の側には一振りのナイフが転がっていた。
『これでほんとに良かったのだろうか・・・』
一部始終を見ていた風飛は何とも言えない気持ちで小夜の顔を見ていた。

39B. 得手公雄の心の中

得手 小夜

小夜は、エスと対峙していた。得手 公雄の精神に潜り込んで
どれくらいの時間がたったのだろう…。
何時間もたったのか、それとも何秒もたっていないのか。

「得手さんの心を返して!」
小夜は叫んだ。それと同時に黒い心が広がっていく。
「これは私の心だ!!」
エスも−この世界でも彼は公雄の姿をしている−叫ぶ。
それと同時にさらに黒い心が広がっていく。
「あなたが、得手さんをあんなにしたのよ!」
小夜はエスに強く言った。
「クックックックッ・・・」
エスはさもおかしそうに笑った。
「あれは、得手 公雄が望んでいた事だ・・・」
小夜の心が少し揺らぐ。
「そんな事はない。あなたが得手さんをおかしくしたのよ。」
再び小夜が強く心を広げる。
「そう思うか? ならば、この男の欲望をおまえに見せてやろう!」
エスは叫んで、心を取り出した。
『これを見て、ひるんだ隙にこの小娘の身体を乗っ取ってやろう。』
エスは邪悪な笑みを浮かべ、公雄の心を開いた。
「!!」
小夜は思わず目を逸らしそうになった。
絡み合う二人の男女。男は得手 公雄である。女の方は・・・
「お姉ちゃん・・・」
小夜の心が縮み始める。
『もう一押しだな・・・心がつながっていれば取り憑くのは簡単だ・・・』
さらにエスが心を動かす。
二人の男女は何度となく身体を入れ替え、交わり、果てた。
「嘘よ・・・」
小夜が口の中で呟く。
「これが得手 公雄の心だ。この娘を犯す為に私はここに来たのだ。」
女の髪を掴み引き起こし、その頬を舐めあげながら、エスが言った。
「私は宿主の欲望を満足させる力と手段を与えるに過ぎない。」

『こここ、こいつの言う事なんか。し、信じちゃいけないよ。小夜ちゃん。』
突然、聞き覚えのある声が背後からしてきた。
エスは目を大きく見開き叫ぶ。
「どうやってあの闇から出てきた!」
小夜は振り返り嬉しそうに叫ぶ。
「得手さん!!」
「さ、小夜ちゃん、ごめんね。ぼ、僕の為にこんな危険な目に遭わせて
しまって。」
公雄が、小夜に優しく話し掛けた。
「さ、小夜ちゃんのおかげでこいつの束縛が緩んだんだ。」
それを聞いたエスはヒステリックに叫ぶ。
「し、しかし、これはおまえの望んだ事だろう!!」
エスの姿がボンヤリと霞んでくる。
「そ、そうだ。これは僕の欲望だ。こ、こうなりたいと思う。だが、
これはお互いに愛し合うようになってからすればいい。
無理矢理、犯し奪うものではない!!」
公雄はエスに指を突きつけた。
「そんな、バ、馬鹿なぁ・・・!! 私の術が効かないなんて・・・
そうか、おまえもこいつと同じ・・・こ、こんな・・・事で・・・」
エスの姿は完全に消え去った。心を覆う黒い心は消え、心に元に戻っていた。
「得手さん・・・」
小夜が公雄の元に近づいてきた。
「さささ、小夜ちゃんも、ももも、戻りなよ。ぼぼぼ、僕も
じきに戻るから。」
公雄は照れくさそうに小夜に言う。
「さささ、さっきの事はニャニャ、ニャンちゃんには内緒にしてね。」
手を合わせてお願いする公雄を見て、小夜はにっこり微笑んだ。
「はい。」

40. 四谷『アパート月見荘』

楓 土部 真 アニー

真たち3人の妖怪が月見荘に到着した時、他の妖怪たちも全員そろっていた。
「エスは?」
真が誰ともなく聞くと楓が指差す。そこには一本のサバイバルナイフが落ちてい
た。
「なんだよ。終わっちまったのか」
その真の言葉はこの場では不謹慎かもしれないが、そこには一息ついたという感じ
が含まれていたので、他の面々も緊張を解かれたような気がした。
そのうち、月見荘の玄関を開けて土部が1人出てきた。土部と小夜は公雄を部屋ま
で連れていき、寝かせてきたのだ。ただ、小夜は公雄の側にいると言い、残った。
「これ、どーしまショウ」
アニーが土部に聞く。だが、聞かれて土部も困ってしまった。全員、言葉もなく考
えていたが、結局方法は一つしかないと解ってはいた。
「ぶっ壊すしかないな」
真の言葉は全員の気持ちを代弁した。いくら邪悪なものと言え、同族である事には
変わりはない。だが、いままでもこうした決断をすることは幾度もあった。
「そうですね…それしかありませんか…」
「私がやるわ」
楓が身構える。土部は心の中で感謝しながら糸を吐き出しナイフを捕らえると空中
に放り投げた。空中で楓の鎌がひらめき、ナイフは地面に落ちる前に霞のようにな
り、そして消えた。

エスは恐怖していた。いままで自分が恐怖を感じたことなどなかった。それが今
恐怖していた。敵対した妖怪たちにではない…ではなんだ!?
それは『死の恐怖』だった。エスはそれを知らなかったのだ。そして、空中に放り
投げられ、楓の鎌が迫ってくる直前に、エスはそれを知った。

一つの事件が終わり、妖怪たちは日常に戻っていく。土部は思う。もしかしたら
エスは私よりもずっと人の心を理解していたのかもしれない、と。もしエスが人間
の持つ本当の愛や優しさを知っていたら、好きな人に告白できずに悩む人間の気持
ちに軽く一押ししてやる…そんな小さな奇跡を起こす素晴らしい妖怪になっていた
かもしれない。いや、しかし…こう考える事自体、まだ人間を理解しきれないから
なのかもしれない。
「愛と憎しみは紙一重…そんなフレーズがありましたっけ」
今日、土部の心にはまた一つ、新たな疑問が生まれた。

41. 四谷『アパート月見荘』

楓 真 奈美 アニー 由美

エスのナイフは砕け、無に帰った。
「さてと、これでやっと終わったな。」
真は全員に言った。それぞれがそれぞれなりの気持ちで肯く。
「まだ宵の口だし、飲みにでも行きましょうか? 皆さん。」
真が明るく提案した。
「ちょっと、こんな時に何言ってんのよ。」
奈美がつっかかて行く。
「こんな後だから飲みに行くんだよ。」
「でも・・・」
「あっ、奈美は飲みに行けないからそんな事言うんだろ。」
真が茶化す。奈美は耳まで真っ赤にして怒った。
「そんな事言ってないわよ!」
「女王蜂なら気兼ねなく飲めるんじゃないかな?」
真は奈美の怒りの矛先をかわそうと由美に話しかけた。
「そ、そうね。」
いきなり話しを振られた由美は少々面食らっていた。
「そうですね、あそこなら誰にも邪魔は入らないでしょう。」
土部がその提案を受けた。
「そうと決まれば早速行きましょう。」
真が先に歩き出した。
「いえ、私は得手君の事が気になるので、小夜ちゃんと残りますよ。
私に構わず皆さんで行って下さい。」
土部はそう言うと部屋に戻って行った。それを見送り真は歩き出した。

扉を抜けると二人の女性がいた。
二人とも銭湯にでも行っていたのか肌がほんのりと桜色をしている。
楓が二人の前に仁王立ちになる。
「泉水ぃ〜・・・。」
いや、眼鏡をかけた女性の前でポキポキと指を鳴らす。
「よぉ〜くも、私をほっといて行ったわね。いい根性してるじゃない…。」
「そ、そんな…姉さんが来なかったから……。」
泉水の顔色が一気に蒼くなる。
「そんな事言うのは、この口か! この口か!!」
楓は泉水の頬を左右に引っ張る。
「イタィ…イタィィよ、姉さん…。」
泉水は必死になって逃げようとしたが楓の迫力に負けて動けずに
されるがままになっていた。
「ノー! 喧嘩はよくナイデース!」
それに、アニーが割って入った。
「えっ?」「なに?」
突然の事で二人は驚いて顔を見合わせた。
「喧嘩よくナイデース。シスター同士仲良くしなきゃ駄目デース。」
アニーは二人を一生懸命止めようとする。楓と泉水は顔を見合わせて
笑った。

41B. 四谷『スナック女王蜂』

真 奈美 アニー 由美 真由美

女王蜂にて・・・
店内はひどく騒がしくなっていた。最初のうちは静かにエスの…同族の死を
悼むかの如く飲んでいたが、一人の少女がその静かさをぶち壊したのだ。
「おまえ、こんなに酒癖悪かったのかよ。」
真が奈美に言う。
「エヘヘ、なぁに、ゆってんのぉ〜。あたしはぁ〜、酔ってなんかぁ〜
いませんよぉ〜、アハハ。」
奈美はすでに目の焦点が合ってない。
「ナミぃ、す〜っかりドランカ〜デ〜ス。これ以上ぉ飲んでは駄目デ〜ス。」
そう言ったアニーも目がとろんとしている。
「あちゃ〜、こっちもできあがってるよ。」
真がほとほと困った調子でつぶやく。

「真君ってお酒強いのね。」
ほんのり赤くなった顔で由美が質問してきた。
「そうかな?」
「さっきから見てるとガブガブ飲んでるわよ。」
感心したように由美が言う。
「まぁ、弱い事はないけどさ。」
由美の横に座って真が言った。
「ところで、由美ちゃん。今度デーとしない。」
真が由美の耳元で囁く。由美は耳まで赤くして俯いてしまった。
可愛らしいなと、由美の反応を見て思い、さらに言葉を続ける。
「それでさ…うわっ!!」
「マコットぉ、この頃、ちっともぉ、相手にしてくれまセンノぉ。」
アニーが真を背中から抱き締めてイヤイヤをする。
「や、やめろよ。アニー…。」
振り返るとアニーは潤んだ瞳で真の事を見つめていた。
「マコトぉ、キス ミー プリーズ……」
そう言うとアニーの身体から力が抜けた、どうやら眠ったようだ。
気まずい空気が辺りを包む。
「奥の部屋で寝かせてあげた方がいいわね。」
真由美さんが、アニーの様子を見て言った。
「ほら、真君あなたが運んであげなさい。」
「は、はい。」
真が素直に言う事をきいている。真由美の事が少し苦手のようだ。
抱きかかえられてアニーは真の首に手をまわす。
部屋に運び入れ寝かしつけて部屋を出ると奈美が立っていた。
おぼつかない足取りで近づいて来て、よろけて真に支えてもらう。
「どぉこ、さわってんのよぉ〜、えっちぃ。」
「何言ってんだよ。」
そのまま、部屋に入り込み寝込んでしまった。
「やれやれ…。」
溜め息一つして真は重要な事を思い出した。
「やばい、忘れてたぞ。」
慌ててポケットを探る。そうだ、着替えた時に荷物の中に携帯を入れっ放しに
していたんだった。部屋に入り荷物を調べる。
「あった!」
携帯の液晶には留守番電話のマークが点滅していた。
「あっちゃ〜、深雪さん怒ってるだろうな。」
真はどう言う言い訳をしたらいいかなと思いつつ深雪の電話番号を表示した。

42. 四谷『アパート月見荘』

得手 小夜 土部

 「いえ、私は得手君の事が気になるので、小夜ちゃんと残りますよ。
  私に構わず皆さんで行って下さい。」
 土部はそう言うと、ずり落ちかけた眼鏡を中指で戻して振り返った。
 ミシッ…ミシッ…。
 ゆっくりと階段を昇り、公雄の部屋へと向かう。
 階段を昇りきったところで玄関の方から泉水のものと思われる悲痛な声が聞
こえてきた。
 土部はその騒ぎに苦笑しながら振り返りかけたが、公雄の部屋の方から微か
に呻き声が聞こえてくることに気付いて踵(キビス)を返した。
 ドタドタドタ…!
 ドアを”擦り抜けて”公雄の部屋に入る。
 見ると、公雄が布団の上でまるで悪夢でも見ているかのように顔中に汗を浮
かべながら呻き声を上げていた。
 公雄の傍らで彼を勇気付けるようにそっと手を握り、心配そうな表情で様子
を見守っている小夜に小声で「どうかしたのですか?」と尋ねる。
 「オーラが…得手さん、まだ戦ってるんです…」
 「憑依が完全に解けていないのですか? エスは消滅したのでは…?」
 土部の額に一筋の汗が浮かんだ。
 「エスのオーラは感じません…。 得手さんは今、きっと、自分自身と戦っ
  てるんだと思います」
 「自分と?」
 「得手さん、自分の所為で私を危険に巻き込んだって言ってました…」
 「………」
 「それに…エスの妖術で、私に…その…心の中の他人に見られたくない部分
  を…」
 小夜はそこまでが精一杯というように顔を赤らめて下を向いてしまった。
 「得手君のような青年でも触れられたくない部分というのはあるものなので
  すね…」
 土部はそう言いながら公雄の横(小夜と対面)に腰を下ろすと、何かを考え
込んでいるような表情で腕を組んだ。
 「…う…ぁ…」
 しばらくの沈黙の後、公雄がようやくうっすらと目を開いた。
 「得手さん…大丈夫?」
 「おぉ、目を覚ましましたか…」
 「………?」
 公雄はぼんやりとした表情で、心配そうに自分を見ている小夜と安心したよ
うな土部の顔を交互に見渡した。
 「……小夜ちゃん? 土部さん? こ、ここは? 僕の部屋?…」
 土部に支えられながらゆっくりと上半身を起こす。
 「……ぼぼぼ、僕は…会社で…銃撃騒ぎを見て………」
 「得手さん、覚えてないの?」
 小夜が不安と安堵が複雑に絡み合った声で尋ねる。
 「…なんで、自分の部屋にいるの?」
 呆然とした表情の公雄を見て咄嗟に土部が口を挟んだ。
 「びっくりしましたよ。 私が玄関のドアを開けたらあなたが倒れてまして
  ね…ちゃんとご飯食べてますか?」
 「………そそそ、そう言えば…何か欲しいものがあったような…」
 ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅ…。
 その時、タイミングバッチリに公雄の腹時計が咆哮を上げた。

42B. 四谷『アパート月見荘』

得手 小夜 土部 ミクロマン

 「あっ…私、夕飯温め直して持ってきますね」
 小夜は土部と目を合わせて軽く頷き合うと、急いで部屋を出て行った。
 覚えていないのなら何も知らないままの方がいい…小夜も土部もそう考えた
のだろう。
 「さて、私も小夜ちゃんを手伝ってきましょう。 もう大丈夫ですね?」
 公雄は未だきょとんとした表情で状況が理解できていないようだ。
 「…あっ…は、はい…大丈夫…です」
 公雄の返事に土部はニコリと微笑み返すと、ポンッとひとつ公雄の肩を叩い
て部屋を出て行った。

 それは何気ない動作だった…多分、土部自身も意識してやった事ではなかっ
ただろう。
 しかし、公雄にとってはそうではなかったらしい…土部の出て行ったドアを
見つめ続ける彼の目が次第に潤み、大粒の涙が溢れ出る。
 「父さん…母さん…兄ちゃん…う…うぅぅ…」
 公雄は何年かぶりに声を上げて泣いた。
 肉親の死の正確な理由を彼は覚えていない…記憶に残っているのは血の海に
横たわる父と母の無残な姿だけであった。
 強盗殺人…叔父からはそう聞かされている。
 近所の人達の心ない噂では「その日から行方不明になっている兄が犯人だ」
などとも言われていた…が、勿論公雄は信じていない。
 しかし、彼は叔父の言う強盗殺人と言うのも信じてはいなかった。
 人間ではない、何か恐ろしいものがやった…漠然とではあるが、彼はそう思
っている。

 「ナミダ…ツチノベニ ナニカ サレタノカ? ドコカ イタイノカ?」
 不意に傍らからジャックが声を掛けてきた。
 公雄は涙を拭いて「何でも無いよ」と無理に笑顔を作ってジャックを手のひ
らの上に招いた。
 「ワタシノ チカラデハ キミオヲ スクエナカッタ」
 「ははは…。 そりゃ、ジャックじゃ、僕を運ぶのは無理だよなぁ」
 「…ソウイウ イミデハ…」無い…と言いかけたが、途中でドアが開く気配
がしたのでジャックはいつものように”ただの人形の振り”をした。
 絶対に公雄以外の者の目に動いている姿を見られてはいけない…それが公雄
との約束であったから。

 「お待ちどう様ぁ…」
 ドアが開くと、小夜が明るく声を掛けてきた。
 ついこの前までニャンと一緒の時でないと、おどおどした感じでなかなか打
ち解けてくれなかった少女とはまるで別人の天使のような笑顔だ。
 公雄はジャックを布団の横にそっと置くと、「ありがとう。 すごく美味し
そうな匂いだねぇ」とにっこり笑って小夜が差し出した料理の乗った盆を受け
取った。
 「お代りありますからたくさん食べてくださいね」
 にっこりと微笑む小夜に公雄は満面の笑みを浮かべてもう一度「ありがとう」
と繰り返した。
 「いっただきます!」
 ガツガツと美味しそうに食事をする公雄を見て、小夜はホッと一息つくと
「お味噌汁とお茶を入れてきますね」と立ち上がった。
 「ありがとう…」
 もう一度、公雄に声を掛けられた時に小夜は気付いた。
 いつもは誰に対しても何処となく遠慮がちで、常に人の顔色をうかがってい
るような感じの公雄が…自分のような目下(に見える)の少女と話す時にもす
ぐにドモってしまっていたあの公雄が、今はとても素直に感情をあらわにして
いることに…。

43. 四谷『アパート月見荘』

小夜 風飛

 元々は、人を騙すのが彼の生業だった。

 それが間違いであると始めて知ったのは、もはや死してからのことだった。

 何百年と言う歳月を掛けて彼が身に付けた能力を失う代わりに、彼はその間違
いに気が付いた。

 しかし、またもその間違いを犯したのだ。

 だから、それを償わなければならない。

 彼はそう思い込んだ。


 風飛はその時、長く暗い回想に耽っていた。
 それは、彼がこの世に人の感情によって生を受けて以来、彼が自分の目で見、
自分の耳で聞き、自分の肌で感じてきたものだ。今回のエスが引き起こした事件
にしても、似たようなものを彼は覚えている。
 エスは結局の所弱い存在だった。
 まだ若く、ほとんど感情だけで成り立っている存在は、それよりも強い感情に
対して抵抗する術がなかったのだ。
 風飛も、途中からこの事件は意外に速く解決するだろうと思ってはいた。若い
妖怪は自分で考える力に非道く乏しく、それが仇になることがほとんどだ。
 中には、更正して悪妖怪から脱するものもいるのだが、ほとんどの場合は最後
まで悪を通し、今回のエスのように人に友好的な妖怪によってその存在を抹消さ
れてしまう。
 ただ、これは若い妖怪に関してのことだ。
 ならば、かつての自分のような古くから存在する悪妖怪はどうなのだろう、と
風飛は考えた。
 そう、彼は元々人を脅かす、今の敵という存在だった。
(知るためには、自身の過去を振り返ればいいか)
 心の中でそう言い、回想を更に続けることにした。
 結論から言ってしまうと、彼は敵である正義を名乗る妖怪によって殺されたの
だ。
 それは決して簡単であったはずがない。
 なぜなら、その時の「闇夜のカラス」は「風飛」でなかったからだ。
 風飛の力は、もとの闇夜のカラスの力には到底及ばない。それは、彼が殺され
るときに、殺そうとした妖怪たちの内、数体を道連れにしたことで証明されうる
し、今ここに彼が転生して蘇っていることでも分かる。
 道連れにした妖怪たちを彼はあの時以来目撃したことはなかった。
 おそらく、二度と見ることはないだろう。
「何を考えているのだ?嫌な思い出なのに、思い出したくないのに」
 そう言いながらも、彼はその理由を自分自身で探り当てていた。
 これは自分に対する戒めだ。見たくない過去を無理矢理見せることで、罪の一
部を償わせようとしているのだ。
 一見しただけではそれほど大きな罪には思えないどころか、ほとんど考えるだ
け馬鹿らしいような罪だ。特に、人間が見たらそうなるだろう。
 彼は時々、外見だけで何事も判断しようとする人間を軽蔑したくなる。殊に、
今現在の日本の若者はそう言った風潮が強すぎて、意味もなく派手に着飾ったり
しているのを「綺麗」だの「美しい」だのと言ってはやし立てるのを見ていると
なんだか胸がむかついてくる。
 それは確かに個人の問題で侵さざるべき聖域に決まっているのだが、あのよう
な風潮から考えて人の未来は真っ暗だろう。
 風飛も光るものを集めるといった習性があるのでそのようなことが言えない、
などと思ったら大間違いだ。彼の場合はあくまで習性、生まれついてのものであ
り、続けていてもそれが影響することはないのでこれから何も変わらないのだか
ら。
 外見を気にしてどうなるというのだ?
 大事なのは内面だろう。
 そう、内面なのだ。
 彼の罪は、まさにそこに関連してくる。
 誰にでも優しく、誰をも信用している敷守小夜に彼が考えに考え抜いて付いた
嘘。
 ……それを償うために、今の彼はここにいる。

「……小夜ちゃん」
 彼は、公雄の所に持っていった食器を洗い終え、自分の部屋に戻ってきた小夜
にそう呼びかけた。彼女は普段はいない黒いカラスが自分の部屋にいることに多
少驚いたようだった。
 何のことはない、開け放されたままの窓から彼は入ってきていたのだ。
「どうしたんですか、風飛さん?お腹でもすきました?」
 驚きながらも小夜は明るく話しかけてくる。そのせいで、彼はいたたまれない
気持ちになった。
 もしかすれば、言わなくてもいいのかも知れない。
 そんな気持ちが彼の心に戻ってくるが、いずれ知られる前に言っておかなけれ
ばならないと思い直した。
「ううん、そうじゃないカァ」
 そう言う風飛の口調は、普段のような陽気な感じとは全くうって変わっていた。
元々、人間とはかなり違う思考を持っている彼なので、本当のところはその陽気
な感じとは無理に彼が創ったものだ。
 それを廃してまで、彼は今回のことを償いたかった。
「じゃあ、一体どうしたんですか?今回の事件も終わったって言うのに」
 首を捻る小夜に、彼は「まだ終わってないんだ」と本当は言いたかった。けれ
ど、それは誤解や混乱を生むだけなので避けた。
「小夜ちゃんに謝らなきゃならないことがある……カァ」
「……?何のことですか?」
「小夜ちゃんに付いた嘘のことを。
 あの公雄をエスから解放する前に、言った言葉を覚えているカァ?」
 その時、もうすでに彼はもはや迷わないことに決めていた。だから、全ての言
葉が一つの詰まりもなく自然と彼の口から流れ出てくる。
 それは、言い換えれば、どんな結果にでも耐えてみせると言った決意の現れで
あった。
 小夜の方は、普段とは違う風飛の様子に少なからず驚いていた。それは、恐怖
にも少しだけだが近かったのだろう。
 公雄にまさか何かあったのか?と思い掛けたが、先程まで彼女自身公雄を見て
いたではないかとも考えながら、風飛の出した質問に答えようとした。
「確か、『「狂気」を使えば、得手さんを安全に救える』というみたいに風飛さ
んは言いましたよね?それがどうかしたのですか?」
「……その言葉には何の確証もなかった。特に、『安全に』という部分」
「えっ?でも、この通り得手さんは助かったじゃないですか」
 その言葉を聞いて、小夜はどこまで優しいのだろうか、と彼は思わざるを得な
かった。言葉の表にも裏にも、彼女が風飛を疑っているという部分がその影すら
見つからないのだ。
 しかもその時、その心は、彼女の真の心と寸分の違いも見せていない。
 それでも、もう風飛は迷おうとはしなくなっていた。
「それは、ただの結果。可能性としてはあったが、全ては実際にやってみなけれ
ば分からなかった。だから、可能性があったことを言い訳にはしない。許してと
も言わないけれど謝りたかった。小夜ちゃんが信じてくれているのに、それを逆
手にとって嘘を付いて、騙してあんな危険なことを!
 非道いやつだと思ってくれ。恩を仇で返すようなやつなのだ……愚かな、愚か
な、どうしようもなく愚かな……」
「風飛さん!」
 話を続けていた風飛を、小夜は絶叫に近い声で止めた。
「分かってます。風飛さんが、私に嘘を付いたのは邪な考えがあってのことじゃ
ないのは。だって……もし、それで得手さんが危険な状況になってたら、全ての
責任は風飛さんがかぶろうとしたんでしょう?」
 そうほとんど無意識のうちに言ったのは、彼女がやはりあまりにも優しいから
だった。
 そして風飛の本当の気持ちも全部、彼女が優しくて誰をも信じているからこそ、
分かることができた。そうでなくても、彼女は相手の感情を大まかならば感じる
ことができる。
「そうです。それに、私、あの言葉を聞いたとき、風飛さんの気持ちが少し揺れ
ているのにも気付いてました。だから、分かるんです。私に嘘を付いたのは、決
して付きたかったからじゃないってことは。だから、風飛さんが私に謝る必要な
んて無いんです」
 その間中、風飛は黙っていた。
 実は彼にも、小夜がこういう反応をすることは予想しかけていた。完全に予想
しなかったのは、その予想が小夜の気持ちを分かっているかのように自分をして
しまうと、敬遠したからだった。
 彼は、もう何も言えなくなった。
「そんなに、自分を責めないでください。もう済んでしまったことなんです。そ
んなことを今更言っても仕方ないじゃないですか」
 小夜は、その言葉を心から言っていたに違いない。
 彼も、そんな彼女の気持ちに答えずにいられるはず無かったのだが、その言葉
通りになることは真実から逃げることだと、彼は思った。
 だから、彼は最後まで自分の言葉を続けようと、その時はまだ思っていた。
「でも……」
「それ以上言わないでくださいね。それ以上言われると、私の方が悲しくなりま
す。過去にこだわって風飛さんが謝ったら、今までのような日常が全部壊れてし
まうんです。友達を一人失うってことなんですよ、それは!」
 彼女は、この時本当に悲しかった。もう少しで泣いてしまいそうだった。
 そうなってやっと、風飛は自分が嘘を付いたことよりもとんでもない間違いを
しでかしていることに気が付いた。もう少しで、小夜の期待と信用を全て踏みに
じることになりそうだったのだ。
 例えば、友達を些細なことで失うのは、そのあとできっと後悔するだろう。そ
れと、まったく変わらぬことだった。
 考え直した風飛は、その口調を元に戻すことに決めた。隠れ蓑だと思っていた
ものだが、もうすでにそれは彼自身の口調になっていたことにもこの時気が付い
た。
 そして、彼の間違った考えは時間を掛けて正しい答と変わっていく。
 氷が溶けて水になるように、ゆっくりゆっくりとそれは、ただし明らかに変わ
っていった。
 長い沈黙があったのだろう。
 そうなって始めて完全に風飛の心は入れ替わった。
 そうしてやっと、彼は長い間出てこなかった正しい言葉を口にすることができ
たのだった。
「分かったカァ。僕は、小夜ちゃんを悲しませたりしないカァ」
 そのように彼が誓ったとき、小夜が微笑みを浮かべた。
 その微笑みを見ながら、もう二度とこんな事は起こらないようにしよう、と風
飛はもう一度心の中でほとんど反射的に誓っていた。


リレーSS『非日常的なある事件』 1-10 11-20 21-30 31-43(完)

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