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6.私ごと




自然は人間生活の源です。まずは、この自然に感謝し、
日々の生活に真剣に取り組みたいものです。

◎マイストーリー

  
誕生、夢、学問との出会い、そして現在

1) 誕生の地

 私は、茨城県の岩井市(現:坂東市)という関東地方の田園地帯で生まれました。生家は、農業を営みながら、ガソリンスタンドを経営するいわゆる兼業農家でした。古くからの農家でしたが、父はその家業だけでは物足りず、起業をしたかったのでしょう。日本経済の順調な発展期に当たり、幸運にも家業は発展していきました。私の育った家は、中学生になる頃まで、懐かしい茅葺屋根の家で、土壁から入る隙間風は寒かったですが、今思えば、とてもすばらしい家屋でした。祖母は、大地に根付いた人で、暇さえあれば、畑に足を運び、米や野菜をつくり、自給自足に近い生活をしていました。父と母は、ガソリンスタンドの経営に忙しい毎日を過ごしていました。このように、関東平野の真ん中で、空は広く、遠くに、筑波山を望む伸びやかな田園風景が私の原風景です。現在、研究を続けている、「田園都市の研究」や「都市と農村の融合」というテーマは、このころの原風景に回帰したい自分の魂の叫びともいえるものでしょう。




2) 将来の夢

 小学生では、あまり勉強はせず、専ら、絵を書く毎日でした。広告の裏やノートの隙間はいつも落書きで一杯で、目に見えるものは何でも書き、学校では、先生や友人の顔を書いては喜んでいました。その成果があってか、小さい頃から、絵画では入選を繰り返し、放課後は、県展への出品作品を良く作成していました。放課後は、毎日、銀杏の下で無心に絵を描いていたのを懐かしく思います。そんな毎日でしたので、小さい頃は、画家になりたいと夢みてみていました。高学年になりますと、良い先生に出会い、勉強に目覚めます。それまでは優等生とはいえない状況でしたので、順調に成績は上がり、中学校に通う頃には、それなりに勉強もできるようになりました。スポーツでは、兄の影響もあり、テニス(軟式庭球ですが、高校まで体育会の部活に入っていました)を頑張ったり、生徒会活動などにも参加したりと活発な面がでてきました。

 ただ、このころの大きな変化は、映画少年になったことです。最初は、テレビで見る洋画だったと思いますが、田舎でしたが、
バスで何時間もかけて、有楽町に映画を見にいくようになり、当時流行っていた、「明日に向かって撃て」や「俺たちに明日はない」、「スティング」等、名画や娯楽作品まで、様々な作品を見ました。人生の良き指南書だったのです。高校に入ってからも熱は冷めず、自分で8ミリ映画を撮ったり、映画上映会をしたり、文化活動も行いました。そんなことからか、そのころには、映画監督を志すようになりました。やがて、大学受験の時期を向かえ、いろいろとやりたい事があったので、進路には悩みましたが、このころから、好きな絵画を利用した理系の科目として[建築」という領域に関心が高くなってきました。また、映画で様々な街角や風景を見る中で、建築や都市にも深い興味を持つようになり、それらを計画したり、デザインする「建築」という分野に夢が広がってがっていきました。現在の仕事への道を具体的に考えた最初の時代といえます。

 小さいころから、何となく夢見た職業は変わっているようで、どこか、共通した視点があることがわかります。まちづくりのシナリオをつくりだす「地域プランナー」という仕事は、それらの要素を統合した職能であると思っています。夢は形は変えますが、すれは、その道に近づいた証拠かもしれません。

 
風見正三 作品名「暁の桜島
(絵は今も描いています。)

3)建築から都市へ

 大学受験では、建築一本で進路を絞り、また、新たな可能性を求めて、新設の海洋建築という学科に興味を持ち、日本大学に進みました。建築の勉強は、毎日、新たな発見があり、とても楽しい毎日でした。大学では、「海洋建築研究会」という海洋空間と都市空間をいかに融合させるかという研究会を結成したり、東京都の佃島のフィールド調査をしたりしました。都市の歴史的な景観の保全や路地空間に興味がわいてきました。設計もそれなりに良い成績だったのですが、「都市住宅」という雑誌に特集された「共有空間」というテーマやまちづくりの視点に魅了され、建築単体ではなく、それらの集合体である街区や地区、都市といった広域的な視点から捉える「都市計画」に興味が移り、研究室は、都市計画系の研究室を選びました。この時の選択が、今の自分を大きく決定づけていますので、ゼミの選択というのは、まさに、人生の大きな舵をきることにつながっていくのだと今更ながらに思います。

 建築から都市へと向かった私は、大学院に進み、「都市の適正規模論」の研究で最優秀論文賞を頂いたり、研究者への道を意識し始める時期となりました。都市という大きなテーマに生涯取り組もうと決めたとき、とてもわくわくした気持ちで一杯になりました。人生の道は、そうして、あるとき、急に具体化していくようです。






4)実学への意識

 修士課程を修了した際、そのまま博士後期課程に進むか悩みましたが、そのころは、学者への道を本格的には考えていなかったため、まずは、実学を経験したいと思い、コンサルタントを目指し、財団法人の研究部に入所しました。ダム建設で水没する集落の調査や地域の振興計画を立案していましたが、政策レベルの議論では実際の地域は良くならないと感じ始め、実際のものづくりの現場に近い、建設会社に転じました。日本の景気は上向きで、バブル経済に沸く直前の1987年でした。総合建設会社では、都市開発部門に力をいれており、都市計画の専門家として、様々なプロジェトに参画できました。都市の再開発や地域開発事業を立案し、実際に推進してきました。都市や地域の事業構想、事業計画を大手の企業やコンサルタント、専門家と共に進めてきた経験は、事業構想学という分野への接近を生み出したといえます。私の場合、そのまま、研究者の道をまっすぐ歩いてきたわけではありませんが、こうした実学を通して地域の課題に触れてきた時代が、現在取り組んでいる研究の出発点になった重要な時期であったと思います。そうした中で、市民参加や計画策定の戦略性や透明性ということの重要性も体感していきました。最近、企業や行政の信頼感が薄れていますが、世の中というものは、勧善懲悪のような単純な構造ではなく、企業でも行政でも高い志を持って仕事に取り組んでいる人もたくさんいますし、これらの連携なしには、真の地域再生は困難です。やはり、重要なことは、どのような立場におかれても、そうした信頼を築くことができる市民であリ続けることができるかということだと思うようになりました。志のある実学は、世の中を変えていきます。実学を身につけ、世の中にチャレンジしていきましょう。



5)環境への目覚め

 企業での活躍が一段落してきた1991年当時、私は、その当時の日本経済のあり方や都市的なライフスタイルに疑問を感じてきていました。そのころは、企業も業績が良く、企業選抜の留学生制度がありましたので、私は、それを利用し、英国留学をすることにしました。当時、米国留学が主流であった時代、英国で何を学ぶのかといったことを言う人もいましたが、私は、長い歴史と伝統を持った国、都市計画の原点である国、なにより、すばらしい田園景観を有している英国に興味があったのです。今でも、その選択は間違っていなかったと思っています。

 そして、この当時、私の思考に大きな影響を与えたのは、宮崎映画です。当時、都会的な暮らしに疑問を感じていた私は、「天空の城ラピュタ」を見て、これだと思いました。人間は大地を離れては暮らせないという宮崎監督のメッセージは、私の思考に明解な解答を突きつけてくれました。私は、それまで、何となく、田舎を恥じるところがあったのですが、宮崎監督のメッセージに触れて、私はなんてすばらしいところで育つことができたのだろうと思うようになったのです。その後、「となりのととろ」や「風の谷のナウシカ」等を見て宮崎映画の大ファンとなり、宮崎映画は、私の人生や研究者としてのバイブルともなりました。宮崎監督は、その後も、「もののけ姫」を発表し、自然と共生する生き方を説いてきています。私は、今でも、原点を確認したい時や、元気をもらいたいときは、繰り返し、宮崎映画を見ます。

 英国に話を戻しますと、1992年には、大きな出来事に遭遇します。「地球サミット」です。この世界的な会議にロンドン大学の学生として参加し、その後の目標が定まるのを感じました。地球環境を視野にいれたまちづくりの活動や研究をしたい、そう思ったのです。英国では、地理、経済、政治の統合学問としての「都市・地域計画学」と「経営学」を学びました。経営学では、環境主義が企業活動に与える影響を研究しました。環境に配慮した地域社会の創造やそのための企業活動のあり方を提示したい、それが、人生の後半の目標だと確信しました。





6)コミュニティビジネスの世界へ

 英国から帰国した私は、仕事、研究、生活の大転換を始めました。まずは、仕事です。大手建設会社に在籍していましたが、環境計画系の部門に移るべく、動き始め、研究も環境政策分野の研究を始めるため、様々な研究会やセミナー等に出席したりしました。生活面でも地域の環境活動や個人としてもエコロジカルなライフスタイルの実現のためにできることは何かを考え始めました。

 仕事面では、設計部門に移り、環境計画、環境デザインの部門に移り、環境共生の技術やランドスケープデザインの仕事にも携わりました。また、こうした努力が実り、環境コンサルタントに出向することになり、兼務でしたが、地方自治体の環境基本計画の策定や政策立案にも関与できるようになりました。研究面でも、東京工業大学の原科教授にご指導を頂く機会ができ、都市の持続可能性に関する研究を開始することができました。地元でも、地域活動や市の行政活動への支援を始めました。その成果は、仕事面では、環境まちづくりの手法をコンペ等で発表し、国土交通大臣賞などの様々な賞を頂く事ができました。研究面では、東京工業大学に社会人ドクターとして在学し、厳しいハードルでしたが、学位(工学)を取得できました。その関連論文が関連学会の論文賞を頂くという幸運にも恵まれました。地域では、志木市の環境審議会委員としての地域貢献をしながら、地元の市民活動との協力関係を築き始めました。

 教育面でも、大学のゲストスピーカーや特別講義、非常勤講師等のお話も多くなり、環境政策、環境アセスメント、環境デザイン、環境計画、まちづくり、コミュニティマネジメント等について、東京工業大学大学院、芝浦工業大学、工学院大学、滋賀県立大学大学院等で講義を行う他、関係団体や公的機関、関係学会等で講義や講演も行うようになりました。滋賀県立大学では、近江環人地域再生学座というコミュニティアーキテクトを育てるプログラムの中の「地域診断法特論」という科目で、地域の環境特性を踏まえた地域計画手法であるエコロジカルプランニングの理論と実践を非常勤講師で教えています。





 そのような中、仕事、研究、地域の全てにおいて、新たな研究のテーマとなってきましたのが、「コミュニティビジネス」です。2002年には、福島県と協同研究してきた内容を「テーマコミュニティの森」というタイトルで出版を行いました。地方自治体でも、まちづくりや中心市街地の活性化のツールとして、コミュニティビジネスが注目されるようになり、様々な研究や実践が始まりました。最近では、生活協同組合をコミュニティビジネスとして再評価する研究会も始めました。「都市と田園の融合」も継続的なテーマです。持続可能な地域を創造するために、コミュニティを核としたまちづくりを実践していきたいと思っています。地域を良く知り、それらを育てていく技術を開発し、伝授していくことが私のライフワークになりました。


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 我が国の都市や地域は、全国的に都市化を遂げて遂げていく中で、グローバル経済が浸透し、地域の密着した仕事や直接的には儲けにつながらないような中間領域の仕事が欠落してきました。コモンズの崩壊です。懐かしい商店街や地域の互助の仕組み等、地域への愛が起点となった生活や産業を復興したい、これが、コミュニティビジネスの思想です。行政や企業、市民が連携して、地域のためのプロジェクトを創り出していくための仕組みを提示する、それが、私の現在の研究テーマです。




 宮城大学は、事業構想学という我が国で唯一の独創的な学部を有しています。今回、宮城大学にご縁ができたことは、わが人生を振り返りますと、本当に、これまでのすべての道はそこにつながっていたのだと感じます。事業を構想し、実現していく科学的な手法や実践力を研究し、それらを次世代を担う若い人たちと分かちたいと思っています。時代をつくるためには、常に、温故知新の心がけと弛まない改革の意識や高い志が必要になります。大学とは、そうした人生の智恵を学びながら、自らの人生の戦略をつくっていく場所です。人生の意味や方向をじっくりと考えられる貴重な時間である大学という場所、時間を大切にしていってほしいと思います。

 皆さん、一緒に社会を改革していきましょう!

 2010年4月




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