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◆◆◆◆◆懐かしの球団−近鉄バファローズ◆◆◆◆◆
  ここでは敢えて「近鉄バファローズ」を使用します。本拠地が藤井寺球場にある間は「近鉄バファローズ」だったので、愛着と
 懐かしさをこめてそう呼ばせていただきます。気持ちとしては、あの頃は「藤井寺バファローズ」だった、という感じです。
バファローズ・キャラクター
パールズ → バファロー → バファローズ
 近鉄バファローズについて書き出すときりがありません。今や伝説となって語られている数々のエピソード、個
性あふれる選手達、猛将、知将の監督達など、材料を挙げればいくらでも出てきます。消えた球団を懐かしんで刊
行されたバファローズ本もいろいろとあります。
Webサイトも数々アップされています。詳しいことはそれらに譲
るとして、ここでは近鉄球団が歩んだ足跡を簡潔に表にまとめてみました。
 1949(昭和24)年秋、近畿日本鉄道を親会社とするプロ野球チーム「近鉄パールズ」が設立され、11月26日に発足
した太平洋野球連盟
(パシフィック・リーグ)に加盟しました。球団の正式発足は12月1日でした。「パール」は、
近鉄鳥羽線・志摩線沿線の海で真珠の養殖が盛んだったことからネーミングに使用されたもので、公募による命名だったそうです。近畿日
本鉄道にとっては2度目のプロ野球球団経営となります。
 1938(昭和13)年3月に南海鉄道がプロ球団「南海軍」を設立しましたが、その後戦時中の1944(昭和19)年6月に国策により南海鉄道が関西
急行鉄道と合併して「近畿日本鉄道」が誕生し、南海軍は「近畿日本軍」に改称されました。戦後の昭和21年にプロ野球が再開されると、
近畿日本軍は「グレートリング
(近畿グレートリングとも呼ばれた)」に変わります。1947(昭和22年)6月に旧南海鉄道の事業部門が近畿日本
鉄道から分離して「南海電気鉄道」として独立すると、グレートリングの親会社も南海電鉄に移り、球団名も「南海ホークス」に改称され
ました。この時点で近畿日本鉄道はプロ野球球団の経営とは一旦切れます。
 日本プロ野球のセ・リーグとパ・リーグの2リーグ分裂に合わせて新たに
誕生したチームが「近鉄パールズ」でした。球団は1949年に発足
しましたが、
リーグ戦のシーズンとしては翌1950(昭和25)年が最初です。経営会社は初め
近畿日本鉄道株式会社の本社でしたが、その後「近鉄野球株式会社」→「近
鉄興業株式会社」→「近鉄野球株式会社
(2代目)」→「株式会社大阪近鉄バ
ファローズ」と変わります。
 1958(昭和33)年のシーズン終了後、監督交代に合わせてチーム名が変わり
ます。新監督の千葉 茂氏が現役時代に「猛牛」と呼ばれていたことから、
「近鉄バファロー」と命名されました。この新チーム名誕生に合わせて制定
されたのが、俗に“猛牛マーク”と呼ばれる球団マークです。制作者は、日
本万国博覧会記念の「太陽の塔」の制作者として知られる岡本太郎氏です。
@ 近鉄パールズ(パールス)の球団旗のデザイン A 近鉄バファローズの猛牛マーク
 @ 近鉄パールズの球団旗の
  デザイン

   小さな丸が真珠を表す。円の中に
  「KP」の球団イニシャルがある。
 A 岡本太郎氏がデ
 ザインした近鉄バ
  ファローズの猛牛
  マーク
岡本氏が千葉監督と親しかったことから球団マークの制作が依頼されたそうです。このマークは、制定されてからバファローズのシンボル
として様々なことに使用され、球団が消滅する最後まで象徴としてその役目を果たしてきました。
 1962(昭和37)年のシーズンからは、チーム名が「近鉄バファローズ」となります。「近鉄バファローズ」は、1998(平成10)年までの37
シーズンに渡って使用され、最もファンに親しまれたチーム名となりました。
「近鉄パール」と「近鉄パール
 近鉄が1949年に創設した球団は「近鉄パールズ」ですが、「近鉄パールス」の表記も見られます。近畿日本鉄道(株)の広報
部によれば、近鉄社史をはじめ近鉄が会社として製作した出版物等では、一貫して「近鉄パールズ
を用いているそうです。
創設当時の近鉄本社は間違いなく「パールズ」で球団名を決定しています。
 一方、日本野球機構
(NPB)のサイトでは、公式記録に「近鉄パールスで記載されています。どうして両者の球団名表記が
異なるのかはよくわかりませんが、野球機構に登録された球団名は「パールス」の方だったということになります。おそらく
は、球団創設時の名称登録の届出手続きの過程で何らかの記入ミスや誤認のような手違いがあったものと思われます。
 一方は球団を創設した親会社、片や日本のプロ野球全体を統括する団体であり、どちらも公式な名称として使用している現
状では、両方の存在を認めるしかありません。実際、当時の新聞等の報道では両方の表記が見られます。最近の出版物やWe
bサイトを見ると、全体的には「パールス」の方が多いようですが、「パールズ」もけっこう見られます。基にした情報源の
違いによるものと思われます。専門性の強い出版物ほど「パールス」を使用している割合が高くなるようです。プロ野球の公
式記録・資料として日本野球機構の記録・資料に基づくためと思われます。当ページでは、近畿日本鉄道の事業の一つとして
近鉄球団のことを取り上げている性格上、「近鉄パールズ」を使用しました。
最後は「大阪近鉄バファローズ」−そして球団消滅へ
 近鉄バファローズは翌1997(平成9)年のシーズンから、球団創設以来の本拠地だった藤井寺球場を離れ、完成したばかりの大阪ドームに
本拠地を移しました。藤井寺球場の位置が大阪府南部に片寄っていたため、より多くの観客動員が望める大阪市内への移転を考えたもので
す。しかしながら、この本拠地移転が間違いの始まりだったと、後々悔しそうに振り返るバファローズファンも少なくありません。
 1999(平成11)年4月、地元企業との提携と地元密着を目指すとしてチーム名が「大阪近鉄バファローズ」に改称され
、9月には従来の近鉄
野球株式会社に代わる新会社「株式会社大阪近鉄バファローズ」が設立されました。しかし、地元密着も思うような展開にはならず、累積
赤字は膨らむ一方でした。大阪ドームに移転したことで確かに入場観客数は増えましたが、一方で、大阪ドームの年間使用料が新たな負担
となっていました。とうとう親会社・近畿日本鉄道は野球事業からの撤退を考えます。
 2019(令和元)年12月2日(月)配信の「東洋経済オンライン」の記事「近鉄球団消滅
15年でプロ野球は何が変わったか」の中に、次のよう
な一節が載っていました。『
2003年の近鉄球団は、入場料、放送権料などで約35億円の収入があった。選手年俸などの人件費が23億円、大
阪ドームの使用料など支出があり、その差はマイナス約50億円。本社からの広告宣伝費として補填される10億円を除いても、赤字は約40億
円もあった。経営に苦しむ近鉄グループが球団を切り離したくなるのも理解できなくはない。

 2004(平成16)年
月、オリックス球団との合併計画が明らかとなり、この問題を中心としてこの年のプロ野球界は大揺れとなりました。
9月には日本プロ野球界初となる選手会の全球団ストライキが決行されました。全国のプロ野球ファンや世論は選手会を後押ししました。
オーナー会議が強気で進めようとした1リーグ化などの構想に、ファンと世論が待ったを掛けた状況となり、結局、楽天による新球団設立
・加盟が認められ、6球団ずつの2リーグ制が維持されることで騒動は終息しました。
 
9月24日、本拠地最終戦を迎えて大阪ドームは約4万8千人という超満員の観客で埋まりました。本拠地球場で見る戦う猛牛軍団の最後
の勇姿を、ファンはしっかりとその目に焼き付けたことでしょう。対西武のこの試合、延長11回、3対2でサヨナラ勝ちという近鉄らし
い結果で終わりました。4日後の
9月27日、ヤフーBBスタジアムで行われた対オリックス戦が、大阪近鉄バファローズの最後の試合とな
りました。最終戦がその後の合併相手となるオリックス・ブルーウェーブであったのも、何かの運命だったのかも知れません。残念ながら
この試合は2対7で敗れました。その後
9月30日には、前期優勝を果たした2軍チームがウエスタンリーグ優勝決定戦を藤井寺球場で戦
いました。後期優勝の中日チームに6対12で敗れています。これで、近鉄球団のすべての試合が終わりました。
 そして、
11月30日、近鉄球団の55年の歴史が幕を閉じました。
B「大阪近鉄バファローズ」最後のメンバーとなった全選手とスタッフ
     B「大阪近鉄バファローズ」最後のメンバーとなった全選手とスタッフ(本拠地最終戦後の記念撮影 大阪ドーム球場)
          2004(平成16)年9月24日     『洋泉社MOOK 秘蔵写真でよみがえる!近鉄バファローズ大全』(2013年 株式会社洋泉社)より

近鉄バファローズ 55年のあゆみ
チーム名 監督 順位 試合数 勝数 負数 引分 勝率 1位との
ゲーム差
チーム数 記録・その他



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1950 昭和25 藤田省三 120 44 72 .379  37.5
1951    26 藤田省三 98 37 56 .398  33.5
1952    27 藤田省三
芥田武夫
108 30 78 .278  40.0
1953    28 芥田武夫 120 48 69 .410  22.0
1954    29 芥田武夫 140 74 63 .540  16.0 田中文雄:最多勝利(26)     鈴木武:盗塁王(71)
1955    30 芥田武夫 142 60 80 .429  39.0
1956    31 芥田武夫 154 68 82 .455  29.5
1957    32 芥田武夫 132 44 82 .356  38.5
1958    33 加藤久幸 130 29 97 .238  49.5






|
1959    34 千葉 茂 133 39 91 .300  49.0
1960    35 千葉 茂 131 43 87 .331  39.0
1961    36 千葉 茂 140 36 103 .261  51.5 徳久利明:新人王(15勝・防御率3.26)












|

1962    37 別当 薫 131 57 73 .438  21.0 ブルーム:首位打者(.374)
久保征弘:最多勝利(28) ・最多リリーフ(19)
1963    38 別当 薫 150 74 73 .503  12.5 ブルーム:首位打者(.335)      久保征弘:最優秀防御率(2.36)
1964    39 別当 薫 150 55 91 .377  28.5 土井正博:最多安打(168)
1965    40 岩本義行 140 46 92 .333  42.5
1966    41 岩本義行 133 48 82 .369  31.0
1967    42 小玉明利 132 59 71 .454  16.0 土井正博:最多安打(147)
鈴木啓示:最多奪三振(222)・最多先発勝利(20)
1968    43 三原 脩 135 57 73 .438  23.0 鈴木啓示:最多奪三振(305)・ノーヒットノーラン(8月8日対東映)
安井智規:盗塁王(54)
 
1969    44 三原 脩 130 73 51 .589   2.0 永淵洋三:首位打者(.333)     清俊彦:最優秀投手(.720)
鈴木啓示:最多勝利(24)・最多奪三振(286)
1970    45 三原 脩 130 65 59 .524  13.5 佐々木宏一郎:完全試合(10月6日対南海)・最優秀投手(.773) 
鈴木啓示:最多奪三振(247)
1971    46 岩本 尭 130 65 60 .520  18.0 鈴木啓示:ノーヒットノーラン(9月9日対西鉄)・5年連続20勝・
最多奪三振(269)      
佐々木宏一郎:通算100勝
1972    47 岩本 尭 130 64 60 .5161  14.0 清俊彦:最優秀防御率(2.36)     鈴木啓示:最多奪三振(180)
1973    48 岩本 尭 130 42 83 .336 前)6位・後)6位  ※1973〜1982年は前・後期制
1974    49 西本幸雄 130 56 66 .459 前)5位・後)4位     ジョーンズ:本塁打王(38)
鈴木啓示:最多奪三振(141)    土井正博:通算300本塁打
1975    50 西本幸雄 130 71 50 .587 前)3位・後)1位   鈴木啓示:最優秀投手(.786)
神部年男:ノーヒットノーラン(4月20日対南海)
1976    51 西本幸雄 130 57 66 .463 前)5位・後)4位   ジョーンズ:本塁打王(36)
1977    52 西本幸雄 130 59 61 10 .492 前)3位・後)6位
鈴木啓示:最多勝利(20)・通算200勝    米田哲也:通算350勝
1978    53 西本幸雄 130 71 46 13 .607 前)2位・後)2位   佐々木恭介:首位打者(.354)
鈴木啓示:最多勝利(25)・最優秀防御率(2.02)・後期MVP 
1979    54 西本幸雄 130 74 45 11 .622 前)1位・後)2位   マニエル:本塁打王(37)・MVP
山口哲治:最優秀防御率(2.49)   鈴木啓示:通算250勝
1980    55 西本幸雄 130 68 54 .5573 前)2位・後)1位  マニエル本塁打王(48)・打点王(129) 
チーム:最多本塁打(239)(当時のプロ野球記録)・最多得点(791)(当時
のリーグ記録)
1981    56 西本幸雄 130 54 72 .429 前)6位・後)4位
1982    57 関口清治 130 63 57 10 .525 前)3位・後)2位
大石大二郎:最多犠打(23)・新人王    石渡茂:通算1000試合出場
1983    58 関口清治 130 52 65 13 .444  29.5 大石大二郎:盗塁王(60)
1984    59 岡本伊三美 130 58 61 11 .487  16.5 大石大二郎:盗塁王(46)    柳原隆弘:代打満塁逆転サヨナラ本塁打
加藤英司:満塁逆転サヨナラ本塁打    鈴木啓示:通算300勝
1985    60 岡本伊三美 130 63 60 .5121  15.5 石本貴昭:最優秀投手(.864)最優秀救援(26SP)
1986    61 岡本伊三美 130 66 52 12 .559   2.5 石本貴昭:最優秀救援(40SP)     栗橋 茂:通算200本塁打
1987    62 岡本伊三美 130 52 69 .430  21.5 新井宏昌:首位打者(.366)最多安打(184)
阿波野秀幸:新人王・最多奪三振(201)    大石大二郎:盗塁王(41)  
1988    63 仰木 彬 130 74 52 .587   0.0 吉井理人:最優秀救援(34SP)    チーム:通算4000本塁打
1989 平成 元 仰木 彬 130 71 54 .568 ブライアント:本塁打王(49)・最多三振(187)・MVP
阿波野秀幸:最多勝利(19)・最多奪三振(183)
1990      仰木 彬 130 67 60 .528  14.5 大石大二郎:満塁逆転サヨナラ本塁打   野茂英雄:最多勝利(18)・最
優秀投手(.692)・最優秀防御率(2.91)・MVPなど全8冠
1991      仰木 彬 130 77 48 .616   4.5 野茂英雄:最多勝利(17)・最多奪三振(287)
大石大二郎:通算300盗塁(19人目)    
トレーバー:打点王(92) 
1992      仰木 彬 130 74 50 .597   4.5 野茂英雄:最多勝利(18)・最多奪三振(228)
赤堀元之:最優秀防御率(1.80)・最優秀救援(32SP)
高村祐:新人王    新井宏昌:通算2000安打
1993      鈴木啓示 130 66 59 .528   7.0 ブライアント:本塁打王(42)・打点王(107)
野茂英雄:最多勝利(17)・最多奪三振(276)
赤堀元之:最優秀救援(32SP)    
大石大二郎:盗塁王(31)
1994      鈴木啓示 130 68 59 .5354   7.5 ブライアント:本塁打王(35)    赤堀元之:最優秀救援(33SP)
石井浩郎:打点王(111)・通算100本塁打
1995      鈴木啓示 130 49 78 .386  32.0 大石大二郎:通算400盗塁(7人目)
スチーブンス:6試合連続本塁打(リーグ6人目)
1996      佐々木恭介 130 62 67 1 .481  14.5 赤堀元之:最優秀救援(30SP)
藤立次郎:3打席連続代打本塁打(プロ野球3人目)
1997      佐々木恭介 135 68 63 .519   7.5 小池秀郎:最多勝利(15)   赤堀元之:最優秀救援(33SP)
山本和範:通算1500試合出場
1998    10 佐々木恭介 135 66 67 .496   5.0 大塚晶文:最優秀救援(38SP)     中村紀洋:通算100本塁打








|
1999    11 佐々木恭介 135 54 77 .412  23.5 ローズ:本塁打王(40)・打点王(101)・通算100本塁打
2000    12 梨田昌孝 135 58 75 .436  15.0 中村紀洋:本塁打王(39)・打点王(110)    鈴木貴久:通算1500試合
出場     エルビラ:ノーヒットノーラン(6月20日対西鉄)
2001    13 梨田昌孝 140 78 60 .565 ローズ:本塁打王(55)(プロタイ記録)・通算150本塁打・MVP
中村紀洋:打点王(132)・通算200本塁打・通算1000試合出場
2002    14 梨田昌孝 140 73 65 .529  16.5 ローズ:打点王(117)・通算200本塁打・通算1000安打
中村紀洋:通算250本塁打・通算1000安打
パウエル:最多勝利(17)・最多奪三振(182)ほか
2003    15 梨田昌孝 140 74 64 .536   8.5 ローズ:本塁打王(51)・通算250本塁打・2試合連続満塁本塁打(プロ野
球4人目)・通算1000三振    高村祐:通算1000奪三振
2004    16 梨田昌孝 133 61 70 .466  12.5 岩隈久志:最多勝利(15)・最優秀投手(.882)   中村紀洋:通算300本
塁打     水口栄二:通算1000安打・通算250犠打
       55シーズンの合計・通算 3261 3720 271 467
忘れられない試合−痛恨のダブルヘッダー“10.19
 バファローズは4回の日本シリーズを経験していますが、そのうち藤井寺球場での開催は一度きりでした。1989(平成元)年のシーズン、
仰木彬監督2年目のことです。この時期にバファローズで活躍した元選手達が、口を揃えたように挙げる“忘れられない試合
”があります。
それは、優勝した年の前年、1988年のシーズン最終戦となる対ロッテのダブルヘッダー
(同日2連戦)で、10月19日のことでした。
 場所はロッテの本拠地・川崎球場で、バファローズにとってはビジターゲームでシーズンを終える
129・130試合目でした。この2試合
が終われば、バファローズのシーズン全日程が終了です。ただし、この2試合はバファローズにとっては大変重要な試合でした。
 この年、近鉄は西武と激しい優勝争いを演じていましたが、前日の18日までに全
日程を終了していた西武の成績は、
73勝51敗6(.589)で、追う近鉄は73勝52敗3
(.584)でした。近鉄が逆転優勝するためには、19日の対ロッテ戦ダブルヘッダー
で2連勝するしかありませんでした。1敗はもちろん、引き分けも許されない状況だ
ったのです。第1試合はロッテが先制しますが、同点で迎えた9回に代打・梨田昌孝
が決勝タイムリーを放ち、4対3で逆転勝利します。パ・リーグ優勝の行方が掛かっ
たこの緊迫した2連戦の状況を前に、テレビ朝日系列の緊急生中継が行われました。
関西地区では2試合とも朝日放送が完全中継し、全国中継でも連続刑事ドラマとニュ
ースステーションを休止して放送されました。しかも、CMを一切入れないという大
英断の特別放送で、近畿地区での視聴率は、歴代3位となる
46.7%というとんでも
ない高視聴率を記録したのでした。
 第2試合もロッテが先制しますが、その後追いつきと勝ち越しをくり返し、同点で
迎えた8回にブライアントがソロ本塁打を打って4対3とすると、多くの近鉄ファン
は十中八九の勝利を確信しました。ところが、その裏にリリーフしたエース阿波野秀
幸投手が、ロッテ高沢にまさかの同点本塁打を打たれます。同点のまま迎えた9回裏
は、0点に抑えて延長戦で勝ち越したい近鉄でしたが、ロッテは無死1,2塁という
C 第2試合8回裏同点本塁打を打たれた阿波野投手
 C 第2試合8回裏、高沢に同点本塁打を打たれ
 てがっくりした阿波野投手
  1988年10月19日
  
『大阪近鉄バファローズ 伝説の野武士軍団 DVD BOOK』
     (2005年 株式会社宝島社)より
1打サヨナラのチャンスをつくります。ここで、予期しなかった展開が始まります。阿波野の投げた
2塁へのけん制球で2塁走者がタッチアウトになりますが、これに対してロッテ・有藤監督が猛抗議
し、試合が9分間中断しました。結局、9回裏のロッテは無得点に終わるのですが、10回表の近鉄
の攻撃も0点に終わります。望みは10回裏を0点に抑えた後の11回です。しかし、この時点で、
試合開始から3時間
57分が経過していました。「4時間を超えて新しいイニングには入らない」とい
う当時のリーグ規定があり、事実上この時点で近鉄の勝利、つまり優勝の可能性は消滅したのです。
引き分けではだめだったのです。テレビ中継では、10回裏に守備につく近鉄の選手を映し出しまし
た。画面を見ていた近鉄ファンは、何とも言えない気持ちだったことでしょう。
 以上が今や伝説となった「10.19」の概略です。この夜の中継放映には近鉄ファン以外の多くの野
球ファンも惹きつけられ、翌日には多くの職場や学校でこの試合が話題となりました。近鉄の確定勝
率は「
.587」で、優勝した西武との差は 「.002」、ゲーム差は0でした。
  「10.19」にはもう一つおまけがあります。第1試合の途中で、「阪急ブレーブスのオリエント
リースへの球団譲渡」が発表され、パ・リーグファン、特に阪急ファンはびっくり仰天でした。後の
「オリックス・ブルーウェーブ」誕生の第一歩が始まったのでした。
 右の新聞記事は、ダブルヘッダー翌日の1988年10月20日の朝日新聞大阪本社朝刊に掲載された近鉄
バファローズ健闘むなしを伝えた記事です。なぜか、私が保存している新聞切り抜きの中にこの1枚
が含まれていました。切り抜き保存した理由は記憶にないのですが、悔しさのあまり忘れられない出
来事として残したかったのかも知れません。スポーツ新聞ではもっと大きく派手な記事になっていた
ことでしょう。負けた試合で、これだけ話題となり球史に残る試合となった例も少ないと思います。
多くのプロ野球ファンに強烈な印象を残したダブルヘッダーでした。
D1988年10月20日の朝日新聞記事
 D1988年10月20日の朝日新聞記事
二 人 の 名 将
 バファローズは球団創設から廃止までの55年間に、4回の
リーグ優勝をしています。そのうち2回は西本幸雄監督、1回
は仰木彬監督、もう1回が梨田昌孝監督です。西本・仰木の両
監督は故人となられましたが、“藤井寺バファローズ”の時代
を知る往年のファンにとっては、この2人の監督の存在はチー
ムの活躍と共に強烈な思い出となって強い印象
を残しています。
悲運の闘将−西本幸雄監督
 西本監督は8年という長きに渡って近鉄バファローズの指揮
を執り続けました
。8年の監督年数は歴代16人の監督の中で最
多です。日本シリーズで日本一に2度挑戦しましたが、わずか
な運の差のような負け方で、2度とも「日本一」にはなれずじ
E 西本幸雄監督 F 仰木 彬監督
E 西本幸雄監督 (1974〜1981年) F 仰木彬監督(1988〜1992年)
『大阪近鉄バファローズ 伝説の野武士軍団 DVD BOOK』より
まいでした。特に強く印象に残るのは、昭和54(1979)年、広島カープと争った日本シリーズでした。最終第7戦の9回裏に無死満塁のチャ
ンスを迎え、一打逆転サヨナラで優勝か、という息詰まるようなゲームが展開されました。世に言う“江夏の
21球”という、抑えピッチャ
ー・江夏豊投手のとんでもない投球術の前にバファローズは涙を飲みました。この試合も日本シリーズの“伝説”となって語り継がれてい
ます。翌1980年にもリーグ優勝して再度日本一に挑戦しますが、その夢はまたしても広島カープによって阻まれました。
 西本監督は近鉄監督就任の前年までの11年間、阪急ブレーブスの監督を務めました。その前にも大毎オリオンズの監督を1年務めてお
り、通算
20年の監督歴です。大毎で1度、阪急で5度のリーグ優勝を遂げており、合わすこと8度も日本一に挑戦してきましたが、ことご
とく日本シリーズでは敗れてしまいました。“悲運の闘将”と言われてきたゆえんです。しかしながら、西本氏ほど多くの選手、ファンか
ら愛された監督も希有でしょう。気迫あふれる闘将ぶりの一方で、にじみ出る温かい人柄が多くのファンをひきつけ、選手たちにも慕われ
てきました。1981年10月4日、日生球場での阪急戦は
2万5千人の超満員となりました。試合後の引退セレモニーで、西本監督は近鉄・阪急
の両チーム選手によって胴上げされました。西本氏の人柄を表すエピソードとして語り草となっています。
強豪チームの近鉄へ−仰木 彬監督
 仰木監督は、外部からの招聘ではなくヘッドコーチからの昇格でした。西鉄ライオンズが“野武士軍団”と呼ばれていた黄金期に、その
一人として活躍していました。この監督によって“野武士軍団”の流儀と雰囲気が持ち込まれたのかも知れません。仰木監督時代のチーム
カラーとしてよく似た雰囲気が見られました。第2の“野武士軍団”と言ってよかったかも知れません。
 その西鉄時代の監督であった三原脩氏からコーチ就任の要請を受け、西鉄コーチだった仰木氏は1970年に近鉄コーチとなります。仰木氏
は西鉄監督時代の三原氏に選手としてスカウトされており、三原氏は仰木氏に指導者としての資質を見出していたと言います。三原氏と共
に近鉄で指導に当
たったのは、この1970年の1年間だけでしたが、それ以後も4人の監督のもとでコーチを務めました。計18年間という長
きに渡ってコーチを務め
、5人の監督に仕えました。1984年からはヘッドコーチを務め、88年に岡本伊三美監督の後を受けて第13代の監督
に就任しました。その際に仰木氏は、「目標は将来につなぐために若い選手を育成して勝つこと。私は三原さんから智恵を学び、西本さん
から情熱を学んだ。お二人を足したような野球をやりたい。」と話しています。
 監督に就任した当時の仰木氏は、多くのプロ野球ファンにとっては無名に近い存在でしたが、監督就任の年である1988年には、シーズン
の最後の最後で上記のような「10.19」があり、多くの人に近鉄バファローズというチームを印象づけました。また、この年の途中で移籍
入団したブライアントに代表されるような豪快な一発攻撃が多く見られ、黄金期にあった西武ライオンズのライバルとして急浮上したのが
近鉄バファローズでした。多くの近鉄ファンに「優勝は近い!」と思わせてくれた1988年だったのです。
 翌1989年、西武・オリックスとの三つどもえの優勝争いとなりましたが、対西武ダブルヘッダーでブライアントの“奇跡の4連発”が西
武の息の根を止め、見事優勝を手にします。ファンはこの年、はっきりと“強い近鉄”を意識することができました。しかしながら、巨人
との日本シリーズでは、まさかの3連勝4連敗という結果に終わり、またしても日本一を逃しました。仰木監督も近鉄では日本一を獲るこ
とはできませんでした。
 “仰木マジック”と呼ばれる巧みな選手起用や打順構成による試合運びでファンを喜ばせた一方で、冷徹とも見える投手交代や代打起用
などもあり、勝利を追求する強い姿勢が感じられました。ともあれ、仰木監督時代の5年間の成績を見ると、2位・1位・3位・2位・2
位というもので、毎年優勝争いに加わる強豪チームであったことは確かです。ファンは、“強い近鉄”の時代を楽しむことができました。
 ちなみに、バファローズが最後の優勝を飾ったのは梨田監督の時ですが、この年の日本シリーズでも日本一は達成されませんでした。結
局、一度も日本一になることなく、近鉄バファローズというチームは消えていきました。そのことが、余計に球団への郷愁を誘います。
最強の助っ人−ラルフ・ブライアント(Ralph Bryant)
 いわゆる“助っ人”と呼ばれる多くの外国人選手が日本プロ野球で活躍していますが、バファローズでも多くの外国人選手が活躍してき
ました。その中で、私にとって特に印象の強かったのがラルフ・ブライアントです。何人もの強力助っ人がバファローズで活躍してきまし
たが、その中でも“最強の助っ人”としてブライアントを挙げるバファローズ・ファンも多いのではないでしょうか。
 ブライアントは1988年6月28日、つまりシーズン途中で近鉄バファローズの選手となっています。6月7日に当時の近鉄の主砲
・デービスが
大麻不法所持で逮捕されるという事件が起き、急きょ代わりの主砲が必要となりました。外国人選手の獲得期限は 6月30日までとなってお
り、渡米して助っ人選手を探す暇のない近鉄球団は、中日ドラゴンズの2軍に在籍していたブライアントを譲り受けます。外国人枠の人数
制限の都合でブライアントは1軍での活躍の機会に恵まれず、中日としては譲渡に応じても大勢に影響は無かったのです。実力を吟味する
間もなく賭けのような獲得で入団したブライアントでしたが、これが大当たりとなりました。
 6月29日のお披露目の試合での2塁打に始まり、その後は驚異的なペースでホームランを量産していきました。走者を置いて
のホームラン
も多く、「ミスター・ツーラン」の異名も取りました。この年、74試合で放ったホームランは何と34本。単純計算で130試合に換算
すると、年間本塁打60本ということになります。数字だけではなく、その豪快なバッティングも魅力を感じさせました。ものすごいスウ
ィングで豪快な一発を飛ばすか、当たらなければ見事な三振、というはっきりしたバッティングに、多くのファンが喝采を送りました。こ
のブライアント活躍初年が、あの10.19」を経験した仰木監督の初年でもありました。多くの近鉄ファンに「何かが起こりそう」
という
予感を持たせました。
 ブライアントの魅力は何と言ってもその豪快な長打力にありました。中でもホームランのかため打ちはすごいものでした。日本で記録し
た「1試合3本塁打」は
8度もあります。ホームラン世界記録の王貞治氏でさえ、22年間で5回しかなかった記録なのです。ブライアン
トの日本での活躍は8シーズンなので、毎年1度は1試合3本塁打があった計算になります。「すごい!」と言うしかありません。
 豪快なバッティングには粗さも付きもので、ブライアントの三振の数もケタはずれでした
2年目の1989年には187三振という日本記録
を樹立します。翌年にはあっさりと自己の日本記録を更新
し、さらに1993年には204三振という大記録をつくってしまいました。20数年経
った現在もこの記録は破られていません。ちなみに、年間三振数日本記録の1位から4位まではブライアントの記録です。
 記録と言えば、唯一ブライアントだけが残した記録があります。1990年6月6日、東京ドームでの対日本ハム戦でのことです。日ハムの角
投手から打ったブライアントの打球がドームの天井スピーカーを直撃し、東京ドーム特別ルールの規定に従って史上初
の「認定ホームラン」
となりました。推定飛距離は
160mと言われています2016年に天井吊り下げスピーカーは撤去され、認定ホームランの規定はなくなりま
した。この認定ホームランは、後にも先にもブライアントだけが残した永遠の記録となりました。
G ブライアント1 H ブライアント2 I ブライアント3 J ブライアント4
G ブライアント選手1 H ブライアント選手2 I ブライアント選手3 J ブライアント選手4
『大阪近鉄バファローズ 伝説の野武士軍団 DVD BOOK』より
 私が最も印象に残っているブライアントの活躍は、何と言っても伝説となった“奇跡の4連発”です。“本塁打かため打ち”の真骨頂が
発揮された大勝負でした。それは、入団2年目の1989年、10月12日に西武球場で行われた対西武ダブルヘッダーでのことでした。この年、
西武・オリックスと三つどもえの激しい優勝争いを演じていた中、前年に経験した「
10.19」と同様、ダブルヘッダーで2連勝しなければ
優勝はなくなるという日を迎えました。
 第1試合、0−4の劣勢で迎えた4回に、ブライアントがまずソロホームランで反撃の口火を切ります。1点追加されて1−5の6回、
今度は満塁ホームランで一気に同点とします。2発とも郭泰源投手からでした。同点のまま迎えた8回、西武はブライアントに対して渡辺
久信投手を送ります。この年渡辺はブライアントに1本もホームランを許していません。わずか3安打に抑えていたのです。当然の投手起
用だったでしょう。カウント2−1とあっさり追い込むと、渡辺はとどめの1球としていつものように内角高めの直球をコントロール良く
決めました。いつもならこれで三振バッターアウトですが、この日は違っていました。
 ブライアントのバットはそのボールにジャストミート、ものすごい打球がライトポール際の最上段に飛び込みました。まさかのホームラ
ンに、渡辺は思わず膝をついてしまいます。写真Hがその瞬間です。このホームランについては、のちにブライアント氏はインタビュー記
事の中で、「
あのときは打てたけど、渡辺にはいつも苦労させられたよ。大事な試合、大事なときに打てたけど、あのとき一度きりさ。だ
から、あのホームランが一番印象に残っているんだ。自分が打てるボールを待って
速球を打ったんだよ。(以下略)(『近鉄バファローズ球
団史』
ベースボール・マガジン社 2012年)と回想しています。
 第1試合はこのまま6−5で近鉄が勝ちました。こうなると、あとは勢いの戦いとなります。第2試合、ブライアントは最初の打席はフ
ォアボールでしたが、第2打席でまたもやホームランをライトスタンドに打ち込みました。4打数連続本塁打という驚異のホームランショ
ーを見せたのです。この先制点を切っ掛けに
して、チームは14−4という大勝の結果でダブルヘッダーを終えました。まるでブライアント
1人にやられたような負け方で終わった西武は、これで息の根を止められました。「アンビリーバブル!」と、当の本人も驚いた、まさ
に“奇跡の4連発”で、ミラクル・バファローズを象徴する派手なダブルヘッダーとなりました。
 その2日後に藤井寺球場で行われた対ダイエー戦に快勝し、
129試合目で近鉄は優勝を決めました。ブライアントはこの年、49本塁打
121打点という好成績を残し、ホームラン王とシーズンMVPのタイトルを手にしました。この年の近鉄バファローズの優勝は、ブライ
アントの存在抜きには実現し得なかったことでしょう。まさに“最強の助っ人”だったのです。
 ブライアントが得た主なタイトルは、
最優秀選手 ’89】【本塁打王 ’89,’93,’94】【打点王 ’93】【ベストナイン ’89,’93,’94 です。
また、通算8年の打撃成績は、下の表の通りです。安打の実に
33%、1/3が本塁打だったのです。
試合数 打 数 得 点 安 打 2塁打 3塁打 本塁打 打 点 盗 塁 四死球 三 振 打 率
773 2980 512 778 124 259 641 23 342 1186 .261
 ブライアントはファンに対しても気さくで、自宅から球場まで近鉄電車で通勤し、車中で気軽にサインに応じる姿がよく見られました。
近鉄には1988年から1995年まで在籍しましたが、最後の95年は故障に悩まされて出場試合数も半分以下とな
り、売りものの本塁打も10本に
終わりました。結局、この年でブライアントは引退・退団し、選手生活を終えました。その後、2005(平成17)年に合併で発足した新生オリ
ックス・バファローズの仰木彬監督に招かれ、この年1年間オリックスで打撃コーチを務めました。
球史に残る一発 −“代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン”
 バファローズが最後に優勝した
2001(平成13)年、その優勝決定戦のゲームは実に“ど派手”
な終わり方を見せました。プロ野球史上初となる一発でケリがつき、その瞬間に近鉄の4回目の
リーグ優勝が決まったのです。その一発を放ったのは、北川博敏選手でした。
 北川選手は前シーズンまで阪神タイガースの2軍選手でした。入団初シーズンにはジュニアオ
ールスターゲームで
MVPを獲得する活躍を見せたりしましたが、選手層の厚さもあって1軍で活
躍する機会には恵まれませんでした。前年秋、放出されるように近鉄に移籍して来ましたが、こ
の移籍が北川選手にとっては大きなプラスとなったことが、その後の活躍でわかります。移籍し
て迎えた2001年のシーズン、いきなり4月にプロ初ホームランを打ち、その後も勝負強い打撃で
チームに貢献していました。5月27日の誕生日には、これまたプロ初のサヨナラ打を放ち、
マジ
ック1」とした優勝決定戦2日前の試合でも、西武・松坂大輔から勝利へつなぐ代打本塁打を飛
ばしていました。
 梨田昌孝監督2年目となるこの年、“いてまえ打線”と呼ばれた近鉄打線は、弱体と言われた
投手陣を十分にカバーする爆発を見せていました。中でも、中村紀洋とタフィ・ローズの両主砲
は驚異的なペースで本塁打を量産していました
。9月の残り16試合の時点で、ゲーム差2の中に
西武・ダイエー・近鉄の3チームが並ぶ混戦が続いていました。しかし、スポーツ新聞や解説者
の大方の予想は、西武・ダイエーが有利と見るものでした。ところが、ここから近鉄の大進撃が
K 北川博敏選手のホームラン
 K 北川博敏選手のホームラン
                 2001(平成13)年9月26日
 『別冊宝島1634号 プロ野球Xファイル
   「伝説のホームラン」100連発』
     (2009年 株式会社宝島社)より
始まります。優勝決定までの12試合を何と11勝1敗という神がかり的な成績で走り切ってしまいました。
 ついに優勝マジックナンバー「1」として
、9月26日本拠地大阪ドームで対オリックスの優勝決定戦を迎えました。久々の優勝の瞬間を
見届けようと詰めかけた近鉄ファンを中心に、4万8千人の大観衆でスタンドは埋まっていました。ところが、近鉄ファンの期待をよそに
この日のいてまえ打線は今ひとついつもの調子が出ません。9回裏、最後の攻撃を迎えた時には2−5の劣勢で、詰めかけた近鉄ファンも
意気が上がらす、場内は静まり返っていました。私もスタンドの一員でしたが、「やっと手に入れた入場券だったのに、今夜は胴上げシー
ンはお預けだな…。」とほぼあきらめ気分になっていました。巡りも悪く、9回は下位打線からの打順だったのです。
 しかし、ここから筋書きの無いドラマが始まります。吉岡雄二選手、川口憲史選手のヒットが続き、代打・益田大介選手が四球を選んで
無死満塁という絶好のチャンスが出来上がりました。「うまくいけば延長戦に持ち込めるかも…。」と私は淡い期待を抱きました。ここで
梨田監督の打った一手が、一発のある「ピンチヒッター・北川」でした。2日前の北川選手の代打ホームランを知っている近鉄ファンは、
代打のコールを聞いて大歓声を挙げました。同点で延長戦へ、という望みが大いにふくらんできたのです。カウント2−1と追い込まれた
次の1球は真ん中に入る甘いスライダーでした。この失投を見逃すことなく、北川選手は見事に打ち返しました。打球は美しい放物線を描
いてバックスクリーン左のスタンドに飛んで行きました。打球の上がった瞬間、ほんのわずかな時間でしたが、球場内では一瞬の静寂があ
りました。そして、その直後の大歓声!。スタンドの近鉄ファンは大騒ぎとなりました。ついさっきまで、「今日の優勝は無理か」という
空気が漂っていたスタンドが、大変なお祭り騒ぎに変わっていました。プロ野球史上初の「代打逆転満塁サヨナラ優勝決定ホームラン」と
いう球史に残る一発で、この夜の優勝決定戦にケリがつきました。3点差をひっくり返す“お釣り無し”の黄金ホームランでした。
超レアな「代打逆転満塁サヨナラ本塁打」
 「逆転満塁サヨナラホームラン」、勝ったチームのファンとしてはこれ以上気分の良いことはありません。しかし、観戦していて遭遇す
ることはめったにありません。過去の統計から計算すると発生の確率は約2年に一度ぐらいだそうで、生で見られることがめったにないの
もうなずけます。これに「代打」が付くとなると、さらに希少価値の高まることは容易に理解できます。
 日本プロ野球の記録では、代打逆転満塁サヨナラホームランは過去に8回あります。その内の2回が近鉄選手による記録です。初めは、
1984年6月11日藤井寺球場での対南海戦で、代打・柳原隆弘選手が南海の山内和宏投手から
パ・リーグ初となる代打逆転満塁サヨナラ本塁打
を打ちました。2度目が上記の北川選手によるホームランです。
 上の2本を含む「逆転満塁サヨナラホームラン」は、近鉄では4回記録しています。1984年6月9日藤井寺球場での対南海戦で加藤英司選
手が最初で、次いで、雨天中止をはさんだ2日後の6月11日に上記の柳原選手のホームランが出ました。つまり
、2試合連続で逆転満塁サヨ
ナラホームランが出たのです。2試合連続というのも史上初の記録でした
。3回目は、1990年6月26日対ロッテ戦での大石大二郎選手、そし
て4回目が2001年の北川選手です。こうして「逆転満塁サヨナラホームラン」の記録を見てくると
、「代打」が付いて、尚かつ「優勝決定
が付いた北川選手のホームランは、いかに珍しく貴重なものであったか、改めて思い知らされます。
最後の優勝−2001
 最後の優勝となった
2001年、シーズンを終えた時のバファローズのチーム防御率はリーグ最下位の「4.98」で、これもプロ野球史上
初のことでした。何しろ、前年、前々年と最下位が続いていたチームで、優勝を目指すには投手力が足りないと見られていま
した。しかし、
その弱点を補って余りある打撃パワーが爆発した年でもあったのです。“いてまえ打線”が残した
、「211本塁打・748得点」という数字
が大逆転の優勝をもたらしたと言えるでしょう。年間勝利数
78の内、逆転勝利が実に40回もあったのですこの年本塁打王となったタフ
ィ・ローズは
55本塁打、打点王の中村紀洋は132打点・46本塁打という成績を残しています。これ以上増えることのない近鉄バファロー
ズの記録ですが、様々な記録を見ていると、往年のバファローズの活躍の場面がよみがえってきます。
 
2001年優勝のヒーローとなった北川選手は、2004(平成16)年オフのオリックスとの合併による近鉄球団消滅に伴う分配ドラフトで、
オリックス・バファローズに移りました。2012年秋に引退するまでオリックスの中心打者の一人として活躍し、選手会長も務めました。引
退後はオリックスやヤクルト、阪神の各球団で打撃コーチなどに就任しています。
最後の監督−梨田昌孝監督
 最後の優勝となった4度目のリーグ優勝に導いたのは
、第16代で最後の監督となった梨田昌孝監督で
した。近鉄球団史で最後の5年となる2000年からの5年間に監督を務めました。現役最後となった1988
年の
“10.19”では、ダブルヘッダー第1戦で優勝に望みをつなぐ逆転決勝のタイムリーヒットを放って
おり、記念の一打となっています
。この年、近鉄球団が引退試合興行を検討したそうですが梨田氏はこ
れを固辞し、「僕の引退試合は
10月19日です。これで最高の舞台です。」と言ったそうです。
 引退後は4年間解説者などをつとめ、その後1軍バッテリーコーチ
(3年)と2軍監督(4年)を経て、
2000(平成12)年に監督に就任します。梨田監督は、小玉明利
(1967)鈴木啓示(1993-1995)佐々木恭介
(1996-1999)の各監督に次いで4人目となる近鉄生え抜きの監督でした。そしてバファローズ最後の監
督でもありました。
 梨田監督は、西本監督・仰木監督に次いで3人目となる優勝に導いた監督です。この3人は別々の時
期に優勝を果たしながら、実は近鉄バファローズというチームの中で、深いつながりのあったことがわ
かります。
 M表は、西本・仰木・梨田の3監督を中心として、監督の在籍時期をグラフ化したものです。これを
見ると、西本監督の後の時期に監督を務めた仰木・鈴木・佐々木・梨田の4監督は、西本監督時代の8
年間、近鉄バファローズの選手・コーチとして共に戦ってきています。
L 梨田昌孝監督(2000〜2004年)
L 梨田昌孝監督(2000〜2004年)
 『ad-vank.com 〈スポーツ〉より』より
 この4人は、阪急ブレーブスを5度も優勝に導いた西本監督の指揮ぶりを8年間見続けてきたわけです。仰木氏はコーチとして西本監督
を支えてきました。また、梨田・佐々木両選手を入団から引退まで見てきました。そして、若き日の梨田・佐々木氏たちを鍛え育てたのが
西本監督だったのです。球団史に輝く成績を残した鈴木投手は、初めは西本監督に反発しながらも、西本氏の熱心な指導によって新たな投
球術を身に付けたことで、長い現役生活を送ることができ、数々の記録・成績を残すことができました。これらの人々が西本監督の影響を
受けなかったはずはありません。監督としての結果には違いがあるものの、チーム作りや試合を指揮する中では、どこかに“西本イズム”
が生かされていたものと思われます。
     M 近鉄球団の監督在籍時期(1966〜2004年)
M近鉄球団の監督在籍時期
 梨田氏は鈴木氏とのある対談記事の中で、『まあ、仰木さんもおられましたけど、僕にはやっぱり近鉄イコール西本さんですから。西本
さんに耕してもらって、種まいて、育てていただいたということですね。西本さんに出会えてなかったら、僕自身、ここまでになっていな
いですし。近鉄というチームにも、西本さんの時代から、
打力をメーンに」という伝統が息づいてきたのではないですかね。(『近鉄バフ
ァローズ球団史』
ベースボール・マガジン社 2012年)と回想しています。佐々木恭介氏も、「僕のバッティングは西本監督の教えがすべてでした。」と
述べています。その佐々木氏は、1978年には首位打者の栄誉を得てリーグの代表的バッターとなっています。
 近鉄球団最後の監督となった梨田昌孝監督は、2004年秋に合併で誕生した新生オリックス・バファローズの監督に就任した仰木監督から
ヘッドコーチへの就任を要請されますが、進路の決まっていない選手やスタッフがいる中で自分が先に他球団に入るわけにはいかないと、
その要請を断っています。後に日本ハムファイターズの監督に就任し、ここでも2年目の2009年にリーグ優勝に導いています。2016年のシ
ーズンからは、楽天イーグルスの監督にも就いています。比較的地味な印象に見られがちな梨田監督ですが、近鉄監督時代の通算成績では
勝ち越しています。近鉄では1シーズン以上務めた歴代監督が
16人いましたが、通算成績で勝ち越しているのは三原 脩、西本幸雄、仰木
彬の各監督と梨田氏の4人だけです。3人の偉大な名監督に次ぐ戦績を残し優勝も達成した梨田監督は、近鉄の球団史を飾る代表的監督の
一人と言ってよいでしょう。
OB会活動の終了
 2019年
1月12日(土)、近鉄バファローズのOB会親睦会が大阪市の天王寺都ホテルで行われ、今回限りでOB会としての役目を終えること
が決定
表明されました。最後のOB会長は鈴木啓示氏副会長は梨田昌孝・藤瀬史朗の両氏でした親睦会の様子を伝える日刊スポーツの
サイトから記事を紹介します。
 『
梨田昌孝元監督(OB会副会長)、土井正博前中日打撃コーチ、村上隆行中日打撃コーチ、羽田耕一三田学園総監督ら63人が出席し、
木啓示
OB会長があいさつ。寂しいですが、今回を最後にしようということになりました。2時間しかないですが、きょうは存分に楽しん
で下さい」と、この日の開会を最後にすることを伝えた。
 
’04年のオリックスとの球団合併で「近鉄バファローズ」の球団名が消えたあとも、近鉄本社の支援もあり、近鉄単独のOB会として鈴
木会長・梨田昌孝副会長のもとで開催を続けていた。ヤクルト坂口・近藤、巨人岩隈が近鉄最後の現役選手として活躍中。ただ今後
新た
な入会者が出ないことから、事務局として4
5年前から活動を取りやめる可能性をにおわせてきた。鈴木会長は「球団がなくなったあと
OB会としての活動は続けてきましたが、限界でした。休会では(再開を)期待する人も出てくる。だからきょうをもってOB会も懇親会も
終わりにしようということになりました」と説明。バファローズを代表する大エースで、近鉄一筋だった鈴木会長は「球団がなくなるとい
うことは、それだけ寂しいことです」と悔しさを押し殺した。

 近鉄バファローズの元選手や元監督などの個々人の状況を見ると、まだプロ野球界や野球関連で活動している人はたくさんいます。また
少数ながら現役選手として活動している人もいます。しかしながら、
OBの人数は減っていくことは決まっていても、二度と増えることは
ありません。団体としての活動は鈴木会長の言う通り、まさに限界が来たということでしょう。今後は個々の
OBの人たちの姿の中に、か
つての「近鉄バファローズ」の勇姿を思い起こすしかないのかも知れません。いずれにしても寂しい限りです。
〔 2022(令和 4)年のペナントレース終了を前にして、東京ヤクルトスワローズ在籍の坂口智隆選手が現役引退を表明しました。坂口選手
は2002年度ドラフト会議で大阪近鉄バファローズから1位指名を受けて入団した、近鉄球団所属歴のある最後のプロ野球選手でした。これ
で近鉄球団を経験した現役選手はとうとう居なくなってしまいました。時代の移り変わりとは言うものの、これまた、寂しい限りです。〕

 【 参考図書 】 『 近鉄バファローズの時代 「悲劇の球団」に捧げる惜別のノンフィクション 』(2004年 潟Cースト・プレス)
         『 宝島MOOK 大阪近鉄バファローズ 伝説の野武士軍団DVD BOOK 』(2005年  兜島社)
         『 別冊宝島1616号 プロ野球 「助っ人」伝説 』(2009年 兜島社)
         『
別冊宝島1634号 プロ野球Xファイル 伝説のホームラン100連発 』(2009年 兜島社)
         プロ野球 伝説の猛牛軍団 近鉄バファローズ クロニカル 』(2011年 潟Xコラマガジン)
         
B.B.MOOK833 近鉄バファローズ球団史 1950−2004 』(2012年 潟xースボール・マガジン社)
         『
洋泉社MOOK 秘蔵写真でよみがえる 近鉄バファローズ大全 』(2013年 蒲m泉社)
         BBMタイムトラベル 俺たちの藤井寺バファローズ 』(2015年 潟xースボール・マガジン社)
         『
俺たちのパシフィックリーグ 近鉄バファローズ1988 』(2020年 潟xースボール・マガジン社)
         『 俺たちのパシフィックリーグ 近鉄バファローズ1989 』(2021年 潟xースボール・マガジン社)   〈その他〉

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