◆◆◆◆ 船 橋 遺 跡・船 橋 廃 寺 ◆◆◆◆ | |||
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川底に眠る遺跡−造られた川の下 「船橋遺跡」と普通に言った場合の遺跡は、狭義の「船橋遺跡」を表すことが多く、 この場合は「船橋廃寺跡」を中心とする一帯を指しています。一方、広義の「船橋 遺跡」は、「周知の埋蔵文化財包蔵地」として藤井寺市教育委員会作成の『藤井寺 市文化財分布図』で示されている「船橋遺跡」を表します。この広義の船橋遺跡は 藤井寺市の北東部に展開する広大な遺跡で、北側に隣接の柏原市にまたがる東西約 1.3km、南北約1.2kmの範囲に広がっていると推定されています。 ![]() 遺跡の中心部と推定される場所は、遺跡範囲の中央を東西に流れる大和川の河床 部分にあります。つまり、川の底から大量の遺物や建物跡が発見されたのです。 実はこの大和川は、江戸時代の1704年に洪水対策のために造られた人工の川なの です。遺跡が広がる河床部分は、川が造られる前は村の集落の一部や農地でした。 川を造るために土地を掘っていれば、その時点でこの部分の遺跡は破壊されて消失 していたでしょう。しかし、この場所に造られた大和川は、土地を掘るのではなく ほぼ平坦な土地に大量の土を積み上げて両側の堤防を築くという造り方でした。そ のため、すでに集落や農地の下に埋もれていた遺跡は掘り返されることもなく、川 底の下に眠ってしまったのです。ここが川底になったことで、後世に建物や道路が 建設されることもなく、遺跡は破壊を免れたわけです。 ![]() その後時代を経て、大和川の川底が水流によって少しずつ削られていき、やがて 埋もれていた遺物が徐々に姿を現してくることになったのです。特に1954年(昭和29 年)に船橋地区北部に堰堤(えんてい)が造られてからは、増水時の堰堤からの落下水流に よって遺跡の露出が急速に進み、大量の土器などが人目に触れるようになりました。 ある研究者によってこれが遺跡であると最初に認識されたのは1948年(昭和23年) |
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@ 空から見た船橋遺跡周辺 河内橋以東は大和川・石川が柏原市との境界となっている。 〔GoogleEarth 2017(平成29)年5月〕より |
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のことです。数年後には、川底に現れた土器などを大勢の人々が目にするようになったのです。ようやく本格的な調査が行われるようにな り、昭和20年代末〜30年代に河床の遺跡調査が何度か実施され、建物遺構の確認や出土物の年代構成についての研究が進んで行きました。 こうして、この地の遺跡は「船橋遺跡」と名付けられたのです。 その後、自治体の文化財保護態勢も整い、大和川の河床以外の周辺部分の発掘調査も進んできました。しかし、その範囲があまりにも広 く、多くは市街地になっているため、遺跡の全体像を知るまでには至っておりません。 昭和40年代ぐらいまでは大雨の後の大和川河川敷で土器のかけらをいくつも見つけることができました。硬く焼かれた須恵器(すえき)のかけ らは摩耗することもなく、きれいな割れ口や紋様のままで見ることができました。こんな様子も、川底の遺跡ならではのことでしょう。 下の写真Aが船橋遺跡の中心部の現在の様子です。左寄りの立木の周辺が中心となる辺りです。右側の段状の構造物が堰堤です。大雨の 時にはこの堰堤から濁流がすごい勢いで流れ落ちます。その落下水流によって河床が削られ、埋もれていた土器などが現れたのです。 |
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A 船橋遺跡の中心地(藤井寺市北條町 北西を見る) 2019(令和元)年9月 川中の構造物は水位調整のための堰堤(えんてい)。昭和30年頃に造られた。この堰堤の落下流 により遺跡が現れた。左端に見える橋は「河内橋」で国道旧170号が通る。写真中央左寄り の辺りが船橋廃寺の中心地。 合成パノラマ |
大量・多種の土器・石器・古瓦 大和川河床の船橋遺跡からは、大量の土器・石器・古瓦などが出現しています。またその種類も多く、この遺跡が縄文時代から近世にま で連綿と続く複合遺跡であることを示しています。特に縄文・弥生時代の土器、古墳時代の土師器(はじき)や須恵器、飛鳥・奈良時代の古瓦な どが多く出土しています。これらの中には、土器研究において貴重な資料となっているものも数々あります。 大学や自治体などの研究・調査機関によって発掘・収集された出土資料も多いのですが、船橋遺跡の場合は掘らなくても拾うことができ たので、個人によって収集されたものも多くありました。出土物の学問的価値を認識した個人の一人、柏原市在住の郷土史家であった故・ 松岡樹氏は、昭和20年代から出土資料の収集を続けてこられ、かねてよりその収集資料を大阪府が所有することを希望されていました。そ して、1991年(平成3年)2月に大阪府立弥生文化博物館が開館することになり、その前年に大量の収集資料が松岡氏から大阪府に譲渡されま した。その数、実に約6,400点に上ります。下に紹介する写真はその一部です。 ![]() |
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多くの古墳・遺跡・文化財−古代河内国の要地 下のF図は、船橋遺跡とその南に広がる国府遺跡の周辺を表した地図です。この地図の範囲は、おおむね道明寺東小学校の校区に重なる 区域です。この地域は藤井寺市の中でも文化遺産の密度が大変高い場所です。他ページでも紹介していますが、巨大前方後円墳の「市野山 古墳(允恭天皇陵)」と小古墳群、旧石器時代からの複合遺跡である「国府遺跡」、古代寺院の「船橋廃寺」を中心とする「船橋遺跡」、国 府遺跡に重なる「衣縫廃寺」、古代律令時代にこの地域に置かれたと推定されている「河内国府」、その近くに設けられたと推定されてい る「餌香市(えがのいち)」、古代からの重要な幹線道路であった「長尾街道」と「東高野街道」、江戸時代に造成された「大和川」、近畿日本鉄 道の全路線の中で最も古くに開業した歴史を持つ「近鉄道明寺線」など、古代から近代に至るまでの数々の歴史的文化遺産がこの狭い地域 に集まっているのです。そのような地域的背景を持つ船橋遺跡について、多くの研究者が様々な探求を行い、いろいろな見解を提示してき ました。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
船橋遺跡と国府遺跡の周辺地図 |
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F 船橋遺跡と国府遺跡の周辺地図 この区域は、ほぼ道明寺東小学校の校区に重なる。 |
建物遺構・礎石・古瓦−何が在ったのか? 船橋遺跡では、大量の土器類のほかにも、大きくて重要な建物(施設)が在ったと推測させる様々な遺物が出土しています。柱の礎石と思 われる多数の大きな石、様々な種類の古代の瓦、多種類の古代の銅銭や銅銭の鋳造に使う道具など、多種・大量の遺物の出土が、後に多く の研究者に様々な推定説を提唱させて行くことになります。いくつかを紹介しておきます。 (1) まずは古代寺院です。古代においては、礎石に柱を立てて瓦屋根をのせるような建物は、お寺のほかには考えにくいことから、今まで では最も有力な説となっています。遺構などから推定される寺の規模はかなり大きいものです。「船橋廃寺」については後述します。 (2) 次に、「河内国府」があったとする説です。廃寺遺構とは別に、掘立柱(ほったてばしら)建物の跡がいくつか見つかっており、柱穴の大きさか ら一般の住居よりも太い柱を持つ立派な建物があったと推定されます。出土した土器の多くが、当時飛鳥や奈良の都で使われていた土器 と同じようなものであることも、官衙(かんが 国の役所の建物)の存在の有力な要素となっています。 また、廃寺とされる建物は、8世紀以降も平城宮式軒瓦・平安宮式軒丸瓦など宮殿・官衙で見られる瓦ばかりを用いており、そのこと から氏寺ではなく、官寺か官衙であったとみる説もあります。 これに関連して、この遺跡には「河内鋳銭司」(貨幣の鋳造所)が置かれていたとする説があり、国府のような重要な役所と共に存在し たと考えられます。根拠としては、無文銀銭や和同開珎をはじめ皇朝十二銭のほとんどが多量に発見されたこと、鋳造に関わる遺物が出 土していることなどがあります。 国府が存在したことは古代寺院の存在を否定はしませんが、当地の地形的条件を考えると、国府のような重要な建物がこの場所に造ら れたとするには疑問があります。と言うのも、この場所は河川氾濫の影響を受けやすい沖積地であり、わずか500m南には洪積段丘の国府 台地があることを考えると、わざわざこの場所を選んで国府を設置したとは考えにくいのです。現在、河内国府跡の推定位置として、国 府台地上の国府(こう)遺跡周辺が有力視されていることにも関連してくると思います。 ![]() なお、官衙説の中でも、船橋遺跡が河内国志紀(しき)郡の中心部に位置することから、「志紀郡衙(ぐんが)」とする説もあります。 (3) 古代に「河内の市」とも呼ばれた「餌香市」があったとする説があります。いくつかの古代の書物の中に、餌香市についての記述が出 てきますが、餌香市は現在の藤井寺市国府周辺に在ったとする説が有力です。そして、近くに流れていた餌香川は石川の古代の旧名とさ れています。しかし、餌香市の所在地や餌香川の比定については昔から諸説があり、定説にまでは至っていません。 船橋遺跡の場所が古代に奈良と結ぶ重要な水運路であった大和川の近くに在り、河内国府もすぐ近くであったと推定されていること、 古代の重要な街道であった東高野街道が遺跡の横を通っていたこと、さらに大阪湾と奈良方面をつなぐ大津道(後の長尾街道)がすぐ南側 を通っていたこと、出土した土器・瓦などから多くの他地域と交流があったと見られること、などを関連付けて考え、餌香市が船橋遺跡 の場所にあったとする説が出されています。そうだとすると、この一帯は当時の河内国の中では、最もにぎわった“繁華街”であったと 考えられます。 ![]() 「餌香市」推定説に立つとしても、古代寺院説、河内国府説との併存は可能だと思われます。それらの説の関連が解き明かされるには まだまだ新たな材料が必要で、今後の調査・研究が期待されます。 (4) もう一つ紹介しておきます。それは、大和川の水運を利用して設けられた瓦の集積地であったとする説です。たくさん出土した瓦が多 種類であったことに基づく推定ですが、これも「餌香市」説などとは併存可能だと思われます。この説が多少疑問に思われるのは、当時 の大和川の河岸からこの集積地まで400〜500mほど離れていることです。大量の重い瓦を扱う点から考えると、当時にあってはこの距離は 無視できない条件ではなかったかと思われるのです。 ![]() ![]() 以上のように、「船橋廃寺」「河内国府」「河内鋳銭司」「志紀郡衙」「餌香市」「瓦の集積地」など、この遺跡については多くの研究 者によって諸説が提唱されています。それぞれ、何らかの遺跡や遺物をもとにして仮設が提示されているのですが、いずれも決め手を欠い ているのが実情です。定説のような段階に至るまでには、まだまだ時間を必要とするようです。今後の発掘調査や研究が大いに期待される 遺跡ではあります。古代史ファンがロマンを感じさせられる興味深い地域だと言えるでしょう。 |
船 橋 廃 寺 | ||||
創建の古い寺院 船橋遺跡の中心部は、古代寺院の跡であると推定する説に基づき、この寺院遺跡を「船橋廃寺」と呼んでいます。多くの古代瓦の出土、 ほぞ穴のある礎石や土壇(どだん)の存在などは、他の古代寺院遺跡とも共通する重要な要素です。 瓦では、古くは7世紀前半の飛鳥寺U式軒 丸瓦が使用されており、この寺の創建の古さがわかります。寺域は東西・南北が100mに及ぶとみられ、礎石や遺構の配置から四天王寺式 伽藍(がらん)配置の可能性が推定されています。 では、この船橋廃寺はどのような性格のものだったのでしょうか。有力豪族の氏寺だったとする説が多いのですが、その氏族については 意見が分かれます。「玉井家(たまいのみやけ)」と墨書された土器が出土していることから、玉井氏の氏寺であったとする説があります。一方、 『和名抄』に書かれている「河内国志紀郡 井於郷(いのえごう)」はこの辺りのことで、船橋廃寺は飛鳥時代の推古33年(625年)に高句麗の僧・慧 灌(えかん)が河内で建立したとされる「井上寺」だとする説もあります。また、志紀郡の中心部に位置することから「志紀郡寺(しきぐんじ)」とする 説もあります。 また、上で述べたように、この寺は8世紀以降も宮殿・官衙で見られる瓦ばかりを用いており、そのことから氏寺ではなく、官寺であっ たとみる説もあります。 創建の古さや古代の東高野街道沿いにあること、大津道にも近く河内国府が近くにあることなどからみても、いずれにせよこの寺が重要 な位置を占める寺であることは間違いのないところでしょう。 |
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4つの古代寺院 ついでながら、周辺に在ったと推定されている他の古代寺院との関係を紹介しておきます。船橋遺跡からほぼ真南に600mほど離れた所 には、「衣縫(いぬい)廃寺」が在ったと推定されています。この2つの寺は、西側に古代の東高野街道が接していました。また、真西に800m ほど離れた所には「大井廃寺」(藤井寺市大井)が在ったと推定されています。 さらに、大井廃寺から600m真南、つまり衣縫廃寺から800m真西に、「拝志(はやし)廃寺」(藤井寺市林)が在ったと推定されています。 4つの寺は長方形の4つの頂点の位置にきれいに並ぶことになります。偶然と言うにはあまりにも見事な長方形です。何らかの意図や計画 性があったと考えるべきですが、よくはわかっていません。 この4寺院の長方形は、現在の藤井寺市の北東部に位置しています。現在、大井廃寺の推定地には式内社・志疑(しぎ)神社が、拝志廃寺の推 定地には同じく式内社の伴林氏神社(ともばやしのうじのじんじゃ)が在ります。 ![]() ![]() |
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