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藤井寺市を通る活断層図
藤井寺市の活断層図
国土交通省国土地理院Webサイト 「地理院地図」『都市圏活断層図』より
《  凡   例  》
縦ずれ 活断層の上下方向の変位の向き。相対的
に低下している側に短線を付す。
推定活断層(地表) 地形的な特徴により、活断層の存在が推定
されるが、現時点では明確に特定できない
もの。
中位段丘面 海または河川の作用で形成された平坦地
が、約十万〜数万年前に離水した台地面。
下位段丘面  海または河川の作用で形成された平坦地
が、約数万〜数千年前に離水した台地面。
沖積低地  数千年前から歴史時代にかけて、海また
は河川の作用で形成された平坦地。
扇状地・沖積錐  河川によって形成された、谷口を頂点とし
平地に向かって扇状に開く半円錐の地形。
小規模で急傾斜なものは沖積錘とよばれる
ことがある。
市域境界  原則として、基図に表記された境界線に沿って示しています。そのため、藤井寺市管内図や市販地図などと多少異なる部分が
あります。また、一部修正・追補している部分があります。
@ ―→  ○番号は下の写真番号。→は撮影の位置と向き。   ※ 上記3段の凡例説明は、国土地理院サイトによります。
藤井寺市を通る2本の線
 上の地図は、国土地理院が製作・公開している「都市圏活断層図」の藤井寺市部分を切り出して加工したものです。国土地理院のWeb
サイトで公開されていますが、印刷版の地図も市販されています。
 1995(平成
7)年1月17日に起きた阪神淡路大震災は、都市直下型の活断層地震の恐ろしさを私たちに見せつけました。これをきっかけに
「活断層」の存在に対する認識の重要性があらためて注目されるようになり、一般市民の間でも関心が広がりました。専門機関や研究者に
よる調査・研究にも今まで以上に力が入れられて、国民に対しても様々な情報の提供が行われるようになりました。国土地理院による都市
圏活断層図の一般向け販売や
Web公開もその一つです。
 この地図では藤井寺市域に関わる断層地形が2ヵ所に表示されています。羽曳野丘陵から北へ二股に分かれて延びる下位段丘に沿って、
東側には「誉田断層
」、西側には「羽曳野撓曲(とうきょく)が存在しています。これら二つのラインが通る場所は、古墳などを除いてそのほとん
どは市街化している地域です。一般住宅はもちろん、小・中学校も市外を含めて何校もラインの近くに存在しています。2本のラインはさ
らに南の方へ続いていますが、それらの部分については、国土地理院サイトか市販断層図で確認してください。
 これらの地形の地下に推定されている断層線が近い将来に地震を起こすような可能性について、今のところ特筆するようなデータは発信
されていません。と言うより、わかっていない、というのが実態でしょう。現在のところ、これらの断層線よりも、北方にある生駒断層帯
や西方の上町断層帯の方が注目され、懸念されています。大阪府内において予想される活断層地震では、これらの活断層が動いた場合の影
響が最も大きいと考えられています。さらには、近畿地方で近い将来に最も心配されているのは、海溝型の「南海トラフ地震」です。
 誉田断層や羽曳野撓曲は、私たちが生きている間には何の変化も無いかもしれませんが、遙か遠い過去に地震を起こした断層の残した地
形が、目に見える形で存在しているという事実を、私たちは冷静に認識する必要があると思います。そういう意味で、この地図と何ヵ所か
の写真を紹介するものです。一切の他意が無いことをお断りしておきます。
 付け加えですが、上の活断層図では、藤井寺市の地形的特徴もよく現れています。藤井寺市域が「下位段丘面」と「沖積低地」の2色に
分かれていますが、これはおおむね低地性台地と低地の部分とを示しています。土地の高低がわかる地形図と比較してみるとよくわかりま
す。市の中央部に逆三角形のように低地が広がっていますが、この一帯には昔から一面に水田が広がっていました。対して、下位段丘面の
台地上には、古墳時代に大型前方後円墳をはじめ大小の古墳が多く築かれていました。また、市の南部段丘面には、多くのため池も築かれ
ており、そのいくつかは現在も存在しています。詳しくは別ページを見てください。          アイコン・指さしマーク「藤井寺市の地形」
「誉田断層」
 誉田断層は藤井寺市〜羽曳野市の地域にほぼ南北に約4kmの長さが推定されている断層線です。国土地理院
Webサイト地殻の変動によ
る地形《活断層崖》』の表では、「生駒活断層系の一部。誉田山古墳(応神陵)を変位させている東上りの断層。」と説明されています。こ
の線の東側が高く、西側が落ち込んだ地形となっています。
 地図の中で黒線が重なっている部分は、地表に断層が表れてできた段差と認定されて、推定活断層とされています。この線に沿って現地
を観察して行くと、多くの場所ではっきりとした段差を見ることができます。一部の場所では、道路建設などのためになだらかな坂になっ
ていますが、それでも段差地形であることはよくわかります。つまり、段差の高さがかなりあることを示しています。何ヵ所かについては
写真で紹介しますが、どうしても立体感に欠けます。機会があれば地図を片手に、ぜひ現地で観察してみてください。
 この誉田断層で特徴となるのが、誉田御廟山古墳
(応神天皇陵)の部分です。古墳中心線の西側をほぼ南北に断層線が通り抜けています。
近年になって研究者から指摘されたのが、墳丘前方部・北西部分の崩れた地形が地震によるものである、ということです。寒川旭氏による
指摘は、「誉田断層は、5世紀築造とされる誉田山古墳の中堤の段差などから、永正7(1510)年の摂津・河内の地震の際に活動した可能性
がある。」というものです。応神天皇陵の精密測量図を見ると、前方部北西部分の崩れている様子は、たしかに上図のラインと一致してい
るように思えます。古墳の南北に見られる段差と連続するラインだと見ることにも無理は無いように思われます。墳丘の崩れた部分を掘削
調査すれば、よりはっきりしたことがわかると思われますが、残念ながら、天皇陵の墳丘は宮内庁管理のもとにあり、掘削調査や考古学上
の発掘調査はもとより、外部者が立ち入ること自体が認められていません。地震防災研究への貢献のために何とかならないものかと、大い
に惜しまれます。                           「古市古墳群の分布と一覧−誉田御廟山古墳」
 この地図で、ついでながら紹介しておくと、応神天皇陵から北側へ向かって半島のように伸びている下位段丘面があります。三方を沖積
低地に囲まれており、この段丘面は低地性の台地となっています。地名か
ら「国府(こう)台地」と呼ばれています。地図でわかる通り、応神天
皇陵をはじめ、允恭
(いんぎょう)天皇陵、仲津姫(なかつひめ)皇后陵が台地を利用して築造されておりほかにも多数の小古墳が築かれています。ま
た、この台地の北端近くからは、石器時代〜古墳時代の複合遺跡が発見されています。日本の考古学史上でも重要な発見となった遺跡で、
「国府遺跡」と命名されました。国府台地は、藤井寺市の古代史を巡る上で大変重要な位置づけにある地形なのです。
誉田断層1 誉田断層2
 @ 誉田断層の段差地形(北より) 2015(平成27)年10月
    水路の左側が高い。中央後方の山 は誉田御廟山古墳。
   寄せ棟の建物は宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所。
A 誉田断層の段差地形(北西より南東を見る)
   高架は西名阪自動車道。側道の坂道が段差地形の高低差
  を表している。         2016(平成28)年3月
誉田断層3 誉田断層4
 B 誉田断層の段差地形(北より) 2015(平成27)年10月
    道路の右側へ下がって行く。左側の草地の斜面は古室山
   古墳の後円部。前方の高架は西名阪自動車道。
C 誉田断層の段差地形       2020(令和2)年4月
    崖の下は近鉄南大阪線。右上の段上の屋根は古室八幡
   神社の拝殿。中央部の樹木は境内のもの。

「羽曳野撓曲」
 初めに、「撓曲(とうきょく)」という聞き慣れない用語について紹介しておきます。撓曲とは、
右図のように、断層の切断面がそのまま地表に表れたものではなく、断層の上の柔らか
い地層が断層の影響を受けて“撓
(たわ)み曲がって”できた緩やかな段差地形です。この
段差は「撓曲崖
(がい)」と呼ばれるもので、段差の大きさや傾斜の程度はさまざまです。
このようにしてできた段差なので、必ずしも撓曲崖の真下の地下に断層面があるとは限
りませんが、近くに存在することは確かでしょう。
 羽曳野撓曲は北端が藤井寺市内で、ここから南へ約
15km前後続いており(諸説あり)
羽曳野市、富田林市を通って河内長野市まで延びています。上記の国土地理院サイトで
は、「大阪層群の地層が撓曲して丘陵をつくっている。」と説明されています。藤井寺
市内よりも南の地域の方が段差地形がよりはっきりしており、現在のような市街化が進
む以前の鳥瞰航空写真を見ると、その様子がよくわかります。
撓曲の説明図
 下の写真は検索で見つけたツイッターの投稿写真を拝借して加工したものですが、おおむね現在の様子を見ることができます。参考まで
に紹介しておきます。
 羽曳野撓曲ライン西側の丘陵地は、一般に「羽曳野丘陵」と呼ばれていますが、富田林市域以南の部分は富田林丘陵とも呼ばれます。藤
井寺市域は、この羽曳野丘陵の北端に接する位置に当たります。
 藤井寺市内を通る羽曳野撓曲の撓曲崖は、南部地域ほど大きな段差は見られませんが、それでも市内の各地で段差地形を見ることができ
ます。撓曲地形がある一帯はほぼ市街化していますが、市の南部では田畑の残っている場所やため池付近もあり、比較的段差地形は見やす
いと思います。市街化している場所でも、地図と照合して段差を見つけることは、わりとたやすくできると言ってよいでしょう。
 
空から見る羽曳野撓曲崖の様子
      空から見る羽曳野撓曲の様子(南東より北西方向を見た俯瞰写真)   2012(平成24)年2月   文字入れ等一部加工 
羽曳野撓曲1 羽曳野撓曲2
   D 羽曳野撓曲の段差地形(下田池北側道路より)
  この部分では坂道や畑地の中の段差を見ることができる。
          2017(平成29)年6月   
合成パノラマ
E 羽曳野撓曲の段差地形(シュラホール西側道路)
  道路左側の墓地が緩やかな斜面となって上がっていっている。
                 2015(平成27)年11月
羽曳野撓曲3 羽曳野撓曲4
 F 段差地形(葛井寺境内地の南東角を見る)
    石垣の高さが段差を表す。左奧に見えるのは南大門。
                  2015(平成27)年11月
G 羽曳野撓曲の段差地形    2015(平成27)年11月
   写真Fの石垣と道路を反対方向から見た様子。右の門は
  葛井寺の東門。
 藤井寺市内を通る羽曳野撓曲を南からたどると、まず下田(しものた)池の北方で段差地形を見ることができます(写真D)。次いでこの段差
は藤ヶ丘4丁目西端に接する市域境界線を通り
シュラホール(市立生涯学習センター)と新池西側の道路で墓地との段差が見られます(写真
E)
。さらに北へ進み、葛井寺境内の東側に接する道路で段差がわかります。葛井寺西門側の道路は商店街の通りですが、境内地との段差
はありません。東門側には塀の下に石垣が組まれており、東側の道路との間に
明かな段差が見られます
(写真FG)。この後、北に進んだ撓曲崖ラインは近鉄
南大阪線とその南側の府道190号を横切りますが、鉄道が通され
たことで、この
付近でははっきりした段差地形は残っていません。府道を見ても大変ゆるやか
な坂となっていて、沿道の建物の基部を注意深く観察しないと坂であることさ
え気付きません。よく見ると、西高東低のわずかな傾斜のあることがわかりま
す。

 もともと撓曲崖の段差は北端に近づくにつれて小さくなっていったと思われ
ます。北端付近で段差が見られるのは、藤井寺市役所の西側付近
(写真H)に進
んだ辺りです。ここから北方の市立市民総合会館東側にかけて段差を見ること
ができます。都市圏活断層図の撓曲線はこの付近で終わっています。
羽曳野撓曲5
H 羽曳野撓曲の段差地形(東より 藤井寺市役所西側)
  農地の部分では階段状のはっきりとした段差地形が見られ
 るが、すぐ北側の府道12号ではわずかな傾斜しか見られない。
 府道周辺は削り平されていると思われる。
                   2016(平成28)年10月
               アイコン・指さしマーク「藤井寺市の防災−想定地図」    アイコン・指さしマーク「藤井寺市の防災−藤井寺市の指定避難場所・避難所」

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