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◆  誉田御廟山古墳
《 応神天皇恵我藻伏崗陵(おうじんてんのうえがのもふしのおかのみささぎ)
 《 こんだごびょうやまこふん 》 別名:誉田山古墳  第15代応神天皇陵  国史跡(外濠・外堤の遺構)
  大阪府羽曳野市誉田6丁目地内(外濠・外堤の遺構部分は誉田5丁目地内)
  ユネスコ世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」〔2019(令和元)年7月登録決定〕構成資産No.33
                           宮内庁サイト「天皇陵-應神天皇惠我藻伏崗陵」
 近畿日本鉄道南大阪線・土師ノ里(はじのさと)駅より南西へ約1.2km(拝所まで)徒歩約18分 駐車場無し
 近畿日本鉄道南大阪線・古市
(ふるいち)駅より北へ約1.1km(誉田八幡宮境内・内堤南側放生橋まで)徒歩約17
 国道170号(大阪外環状線)・西古室交差点より東へ約
300m(拝所入口まで) 駐車場無し
 国道旧170号・道明寺5丁目北交差点より西へ約550m(拝所入口まで)     
推定築造時期 5世紀中頃




埴   輪 円筒埴輪
形象埴輪(家・衣蓋
(きぬがさ)・盾・靫(ゆぎ)・草摺(くさずり)・ 短甲形、
水鳥形(8体)、馬形)
古  墳   形 前方後円墳




(m)
  
墳 丘 長    425
前方部    300 土 製 品 魚形(クジラ・イルカ・タコなど)
高さ     36 木 製 品 蓋形、鋤(すき)形、板状、棒状、天秤棒状、傘状など
後円部    250 そ の 他 土師器の子壺
高さ     35 埋葬施設 竪穴式石室・長持形(ながもちがた)石棺の存在が推定されている。
頂高     59.3
その他の造り 三段構成の墳丘、二重の濠と堤、くびれ部に方壇状の造出し(つくりだし)がある。
① 誉田御廟山古墳の遠景(東より)
① 誉田御廟山古墳の遠景(東より)  右手前の高架道路は西名阪自動車道  2013(平成25)年5月
② 誉田御廟山古墳の遠景(西より) ③ 誉田御廟山古墳の遠景(北西の藤井寺市役所より)
② 誉田御廟山古墳の遠景(西より)  2013(平成25)年5月
           後方背景の山地は生駒山地の南部。
③ 誉田御廟山古墳の遠景(北西より) 2009(平成21)年8月
     後方背景の左端は二上山、右端は葛城山頂。
古市古墳群の中心-巨大な古墳
 誉田御廟山古墳は、何と言っても古市古墳群で最大、全国でも2
番目というその巨大さが特徴です。
 総長
600mを越える巨大な前方後円墳で、応神天皇陵に治定され
ています。墳丘長は
425mで、堺市の大仙古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ
大きさですが、表面積や体積
(143万m3以上)では仁徳陵を上回り、
全国一の巨大前方後円墳です。古市古墳群の中でも、とびぬけた大
きさです。
 大き過ぎるため、近くに行って見ても、ただの山があるようにし
か見えず、全体の様子はさっぱりわかりません。上の写真①~③は
古墳の全景を遠方から撮影したものですが、これだけの全景を撮ろ
うとすると、相当な距離を取らなければなりません。
 「御廟山」とか「誉田山」と昔から呼ばれてきたように、そこに
在るのはまさに「山」です。古市古墳群の存在を知らない人が初め
て見れば、ただの山が在るとしか思わないでしょう。
 右の写真④は真上から見た最近の誉田御廟山古墳と周辺の様子で
す。中学校や府営住宅地、市役所、警察署などの建物と比較すると
その巨大さがよくわかります。現存部分の面積を概算すると
25
ヘクタールぐらいにもなります。小中学校なら10数校分、住宅地
なら相当な戸数が並びそうです。しかし、誉田御廟山古墳の巨大さ
はこれにとどまりません。5世紀に築造された時の大きさはもっと
大きく、現在は無くなっている外濠と外堤も備わっていました。そ
の中心線上の総延長は
700mを越える規模となります。
残る外濠・外堤の遺構-国史跡に指定
 築造時には二重の濠と堤を持つ巨大な古墳であったと考えられて
いる誉田御廟山古墳ですが、現在は内濠と内堤がだけが残っていま
す。内濠の幅は一部に狭い部分があるものの
、約60m近くあります。
また、幅が約
60mある内堤の上部は35mの幅があります。外濠・
外堤の跡地と見られる遺構の一部が西側に地割りとして残っていま
す。この部分の外濠幅は約
40mあり、外堤幅は約20mです。この
遺構は、誉田御廟山古墳全体の規模を推定する上で貴重な存在とな
っています。この外濠・外堤跡の遺構は
「応神天皇陵古墳外濠外堤」
として国史跡に指定されています。公有地化が進められ、羽曳野市
によって整備が行われています。遺構は現地で間近に見ることがで
き、遺構の中を通る遊歩道を歩いて散策することもできます。
 東側の内濠と内堤が大きくくびれており、そのくびれ部に接して
「二ツ塚古墳」があります。これは、二ツ塚古墳が先に造られてい
たためにこの部分の濠と堤を屈曲させて誉田御廟山古墳を築造した
と考えられています。そのために、東側の外濠は西側に比べてかな
り狭くなっています。2007(平成19)年の羽曳野市教育委員会による
二ツ塚古墳東側隣接地の発掘調査で、誉田御廟山古墳の東側の外濠
幅は約17m、外堤幅は約29mであることがわかりました。また、
④ 真上から見た誉田御廟山古墳
  ④ 真上から見た誉田御廟山古墳     文字入れ等一部加工
      周辺施設と比較すると古墳の巨大さがよくわかる。周囲には小古墳も多い。
               〔GoogleEarth  2017(平成29)年5月
〕より
⑤ 誉田御廟山古墳の鳥瞰写真(北東より)
  ⑤ 誉田御廟山古墳(北東より鳥瞰)  2009(平成21)年頃と思われる
         サイト『Pinteres
t』「見てみる-アジア旅行-大阪」より
この調査結果から、外濠は二ツ塚古墳の濠と共有していたと考えられています。
 それにしても、大王の墓を造るに当たってわざわざ本来の設計を変更し、変形させてまでして残された二ツ塚古墳とは、いったいどんな
人が葬られていたのでしょうか。主墳に葬られた大王との関係に興味が湧きます。また、二ツ塚古墳を残すにしても、誉田御廟山古墳自体
をもう少し西側に造ることはできなかったのだろうか、などという疑問も湧いてきます。西側には東山古墳とアリ山古墳がありましたが、
これらも誉田御廟山古墳と同じ頃に前後して造られたと推定されています。地形的には、もう少し西側に造ることは可能だったのではない
かと、私には思えます。他の何らかの理由があったと思われます。
⑥ 誉田御廟山古墳外濠の遺構(北西より) ⑦ 外濠跡地内の様子(北西より)
⑥ 誉田御廟山古墳外濠の遺構(北西より)  2017(平成29)年4月
    左側の樹林地は内堤。右端の一段高い地形が外堤の跡地。外濠跡地
  の遠方に 見える山は、奈良県との境にある金剛山。
 合成パノラマ
⑦ 外濠跡地内の様子(北西より)
 最近、遊歩道が造られ、説明板が設置された。

          2017(平成29)年4月
多くの周辺古墳-陪冢の存在
 二ツ塚古墳のほかにも周辺には多くの古墳があります。その内、東
山古墳、アリ(蟻)山古墳
(消滅)、誉田丸山古墳、栗塚古墳、東馬塚(ひ
がしうまづか)
古墳は推定される築造時期から誉田御廟山古墳の陪冢(ばいちょ
う)
と考えられています。
 アリ山古墳はすでに墳丘が消滅していますが、東西約3m、南北約

1.4m
の土壙(どこう)からは、2,600点近くにも及ぶ大量の鉄器が3層
に分かれて出土したことがよく知られています。また、誉田丸山古墳
からは、国宝に指定されて有名
な「金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ)
2具分が出土しています。
 宮内庁は、現在のところ、考古学上の裏付けの有無に拘わらず8基
の古墳を陪冢に治定しています。以下に紹介しておきます。
 1)
二ツ塚古墳(応神天皇陵域内陪冢)
  2)
誉田丸山古墳(応神天皇陵域内陪冢)
  3)
東馬塚古墳(応神天皇陵い号陪冢)
 4)
栗塚古墳(応神天皇陵ろ号陪冢)
  5)
西馬塚古墳(応神天皇陵は号陪冢)
  6)
向墓山古墳(むこうはかやまこふん)(応神天皇陵に号陪冢)
  7)
墓山古墳(応神天皇陵ほ号陪冢)
  8)
サンド山古墳(応神天皇陵へ号陪冢)
 右の図では、誉田御廟山古墳の周囲に築かれた古墳の分布状況がわ
かります。この図には4基の陪冢があります。
 東馬塚古墳と栗塚古墳に接する点線は、誉田御廟山古墳の東側外堤
の東縁位置を示しています。つまり、東馬塚古墳は外堤上に築かれて
いることがわかります。また、二ツ塚古墳は完全に古墳内に取り込ま
れていることもよくわかります。
⑧ 誉田御廟山古墳と周囲の小古墳群
 ⑧ 誉田御廟山古墳と周囲の小古墳群 『大阪府立近つ飛鳥博物館
         図録 55』(大阪府立近つ飛鳥博物館 2011年
)より
   古墳名を打ち直し、現存小古墳にも着色のほか、縮尺の修正等、一部加工。
 ⑧図で色の着いていない古墳は、墳丘が消滅していて現存しないものです。盾塚古墳・珠金塚古墳・鞍塚古墳なども誉田御廟山古墳のす
ぐ近くに築かれていますが、これらは陪冢ではないと考えられています。逆にアリ山古墳は、築造時期や埋設されていた大量の鉄器などか
ら考えると、誉田御廟山古墳との強い関わりが推測される古墳です。残念ながら、陪冢や史跡の指定対象となる以前に開発によって消滅し
てしまいました。
 ⑧図の範囲に入っていない陪冢が、5) ~8) の古墳です。このうち墓山古墳は、墳丘長が古市古墳群内で5番目という規模の大型前方後
円墳です。全国でも
23位の規模で、周囲には複数の陪冢を従えています。どう見ても、大王かそれに準ずる最有力層に属する人物の墓と考
えられるのですが、なぜか宮内庁の治定では陪冢の扱いです。
 サンド山古墳は、唯一藤井寺市域に存在する誉田御廟山古墳の陪冢です。上図の他の陪冢に比べると、誉田御廟山古墳からはかなり離れ
た位置にあり、陪冢と聞いても何か違和感を覚えます。しかも墳丘の形がかなり変形しており、未だに本来の古墳の形は不明です。なぜ陪
冢に治定されたのか知りたいところです。
⑨ 誉田御廟山古墳周辺の小古墳(北より) ⑨ 誉田御廟山古墳周辺の小古墳(北より)
             1954(昭和29)年11月11日
  『日本の古墳』(末永雅雄著 朝日新聞社 1961年)
  「図版第56」より
   文字入れ等一部加工

   アリ山古墳・盾塚古墳・鞍塚古墳・珠金塚古墳・
  珠金塚西古墳は、墳丘が現存しない。また、赤面山
  古墳は現在は高速道路の高架下に保存されている。
   内堤西側の外濠・外堤の遺構を示す地割りがよく
  わかる。当時のこの一帯は昔ながらの田園風景であ
  った。
大量の円筒埴輪
 誉田御廟山古墳の墳丘は三段構成で、くびれ部両側に方壇状の造出しが設けられています。
墳丘と内堤の内外の法面には葺石が施されており、墳丘の平坦部と内堤・外堤には円筒埴輪が
巡らされています。円筒埴輪の総数は2万本以上と推定されています。中には、口径
50cm
高さ1mを越える大型のものも使用されていました。さすが巨大古墳、という感じです。ほか
にも、水鳥形や衣蓋形などの形象埴輪も出土しています。
 墳丘内部は調査されていないので不明ですが、竪穴式石槨
(せっかく)に長持形石棺が納められて
いると考えられています。石槨や石棺の一部が露出していたと伝えられているからです。古墳
の南側に隣接する誉田八幡宮に、竪穴式石槨と長持形石棺の一部と推定される石が残されてい
ます。
崩れている前方部-古墳の真下には活断層
 航空写真や測量図
(図)を見ると、墳丘前方部の西側が大きく崩れているのがわかります。
以前には築城など人為的に崩されたとする説もありましたが、近年の活断層研究によって、地
震による墳丘の崩落が指摘されています。この辺りから北方の藤井寺市古室・沢田・林にかけ
て、活断層の段差地形が残っています。「誉田断層」と名付けられた断層線の地表地形です。
⑩ 水鳥形埴輪
 ⑩ 水鳥形埴輪
    左)61.8cm  右)42.8cm
  『大阪府立近つ飛鳥博物館図録 42 応神
   大王の時代-河内政権の幕開け-』(大阪
   府立近つ飛鳥博物館 2006年)より
この断層線は、古墳中心線の西側をほぼ南北に断層線が通り抜けています。    「藤井寺市の断層地形」 
 近年になって研究者から指摘されたのが、墳丘前方部の崩壊地形は
この活断層が動いたことによるものであるということです。
 右の図は、航空レーザー測量によって作成された微地形等高線図で
す。等高線を
10cmか20cm間隔で描き、地表の細かい微地形を表した
ものです。航空レーザー測量は近年実用化された測量技術で、航空機
から地表に照射したレーザー光の反射光を捉えて、その地面の標高を
測定するものです。樹木が繁っていても、レーザー光がわずかな隙間
を通り抜けることで測定が可能です。航空機による撮影や測量データ
のコンピューターによる処理、及び作図など、相当な手間と費用を必
要としますが、従来の光学写真撮影や1m間隔等高線図に比べれば、
格段に早く精密な等高線図ができるようになりました。天皇陵のよう
に一般人が立ち入れない場所や、危険で人が入れない場所でも、難な
く測量することができるようにもなったのです。上空から肉眼では見
えない地形でも測量が可能というのも大きな進歩と言えるでしょう。
 地震考古学
を提唱した寒川旭(さんがわあきら)氏による指摘は「誉田断層は、
5世紀築造とされる誉田山古墳の中堤の段差などから、永正7(1510)
年の摂津・河内の地震の際に活動した可能性がある
」というものです。
 誉田御廟山古墳の測量図を見ると、前方部北西部分の崩れている様
子は、確かに誉田断層のラインと一致しているように思えます。古墳
の南北に見られる段差と連続するラインだと見ることにも無理は無い
ように思われます。墳丘の崩れた部分を掘削調査すれば、よりはっき
りしたことがわかると思われますが、残念ながら、天皇陵の墳丘は宮
内庁管理のもとにあり、掘削調査や考古学上の発掘調査はもとより、
外部者が立ち入ること自体が認められていません。地震防災研究への
貢献のために何とかならないものかと、大いに惜しまれます。幕末の
修陵の時にもこの崩れは修復されず、そのまま現在に至っています。
 右の⑪図を見ると、確かに前方部西側の崩れははっきりとしていま
す。崩壊部分以外の墳丘は、
1500年経った今も形をきれいに保って
⑪ 誉田御廟山古墳の微地形等高線図
 ⑪ 誉田御廟山古墳の微地形等高線図
   (航空レーザー測量による等高線図)

          『大阪府立近つ飛鳥博物館図録 59 歴史発掘おおさか 2012』
           (大阪府立近つ飛鳥博物館 2013年)より

       他の地図・写真と参照しやすいように天地を回転させ、古墳名・
      遺構名等を追加して縮尺も書き直している。
おり、やはりこの崩れ方は尋常なことではなさそうです。少々の大雨ぐらいでは、ここまで崩れはしないでしょう。地震による崩壊からで
500年経っているのに、崩れた形がほぼそのまま残っているぐらいですから。地震の威力をまざまざと見せつけられた感じです。
 と思っていたら、話は急転しました。実は、寒川旭氏は他の古墳についても地震の痕跡の調査に関わっておられ、2007年の大阪府高槻市
の今城塚古墳の調査の結果を見て、上記の誉田御廟山古墳の前方部崩壊についての見解をあっさりと撤回されたのです。今城塚古墳も真下
に有馬-高槻断層帯の安威断層が走っており、文禄5(1596)年の伏見地震によって墳丘が大きく崩れていたことが判明しました。2段築成
だと思われていた後円部は、3段目が崩落で失われていたことがわかり、横穴式石室の基礎である17.7m×11.2mの大規模な石組み遺構は、
地震によって北側へ4mも滑り落ちていました。伏見地震は、畿内を震源とするマグニチュード8近い史上最大級の内陸地震とされる大地
震で、寒川氏が確認した伏見地震の被害を受けた関西一円の遺跡は
30数ヵ所にのぼるそうです。 高槻市サイト「今城塚古代歴史館」
 今城塚古墳の調査で、直下の活断層によるすさまじい墳丘の崩落を目の当たりにした寒川氏は、新たな認識を持つに至ります。「
あの応
神天皇陵の墳丘の崩壊は、これまでの解釈でいいのだろうか?墳丘直下を走る活断層が動いた場合、あの程度の崩落ですむはずがないので
は…
」という疑問が湧き、「誉田断層が存在し、大きな活動を起こしたことは間違いありませんが、それは3万年、2万年前のことで、こ
の断層はそれ以降は動いていないと判断せざるを得ません。
」と結論されました。「永正7(1510)年の摂津・河内の地震による崩落」とい
う以前の見解を率直に撤回されたのです。
墳丘崩壊は天平6年地震か
 一方、寒川旭氏の永正7年地震説の提唱に対して、日下
(くさか)雅義氏は誉田御廟山古墳の墳丘崩壊の原因は活断層による地震であることは
認めつつも、永正7年地震説には否定的な見解を示していました。日下氏は、墳丘崩壊を起こした地震の時期について、『続日本紀』に記
述された天平6(734)年の地震か
、『扶桑略記』記載の治暦2(1066)年の地震である仮設を提起していました。そんな中、1989(平成元)年に
出版された『続古地震
(萩原尊禮編著 東京大学出版会)の中で一つの見解が示されました。地質学・地震地質学・歴史学・地震工学など
の研究者による共同研究の成果として出された結論でした。それは、寒川説ではなくて、天平6年の地震による、というものでした。
 同書では、「
寒川は、その断層の活動が永正七年(1510)の地震と考えたが、その地震の最も著しい被害は大阪天王寺であり、誉田山古墳
付近ではむしろ軽微であることがわかった。この古墳を変位させた地震としてむしろ天平6年(734)の畿内
七道諸国の地震が、その地震に
該当する可能性がおおきくなった
」と記し、さらに天平6年の史料を示して、「陵墓群に関する語句に出合うのは、後にも先にもこの地震
のみであり、しかも文面は、陵墓になんらかの被害が発生したことを示唆している
」と述べています。そして、永正7年の地震が崩壊させ
たとすれば、同じ断層上に在る誉田八幡宮やその南方に在る古市集落、高屋城などにも大きな被害があったはずであるが、調査の結果それ
らの被害の発生は見られない、と結論づけています。巨大な誉田御廟山古墳の墳丘を崩壊させた天平6年の地震は、マグニチュード7程度
であったと推定されています。
変えられた川の流路
 誉田御廟山古墳を突き抜ける誉田断層に関連して付け加えると、断層線に沿った谷部分を流れていた大水川の流路が、誉田御廟山古墳が
流路にかぶさるように築造されたため、大きく変えられています。下の⑫図が誉田御廟山古墳ができる前の状態で、大水川は数本に分流し
ながら北へ下っていました。この流路を断ち切るように古墳が築造されましたが、この時、大水川を人為的に1本にまとめて外堤の西側に
迂回させるという、流路の改変が行われています。⑬図が改変された新しい大水川の流路を示しています。古墳築造の前後の変化がよくわ
かる地図だったので、一瀬和夫氏の著書『巨大古墳の出現-仁徳朝の全盛』から拝借しました。古墳の築造だけでもあの巨大さから考えて
大変な大工事だったと思われますが、それに加えてこの流路付け替えの工事もあったわけで、一大土木事業であったことが想像されます。
 上で述べた、二ツ塚古墳を取り込んだために外堤がくびれていることは、もしかするとこの大水川の流路に関係しているのかも知れませ
ん。誉田御廟山古墳をもっと西へずらして造った場合、谷の地形全体が埋められることになり、さらにその西側を流すことは困難だったの
かも知れません。これについては、もう少し詳しく知りたいところです。
 なお、「大水川」は現代に至ってから付けられた名称で、江戸時代以前から伝承されていた名称は「大乗川
(だいじょうがわ)でした。江戸時代
の1704(宝永元)年に大和川の付け替え工事が行われ、その付帯工事として大乗川は誉田御廟山古墳の南方で石川に注ぐように切り替えられ
ました。上流から石川の合流点までは、現在も「大乗川」の名称です。⑫図・⑬図では、出典の書物で著者が用いている表記に従って「大
水川」で表示しました。                                「大水川-藤井寺市の川と池」
⑫⑬ 古墳築造で変えられた大水川の流路
       ⑫ 古墳築造で変えられた大水川の流路 〈 築造前 〉    ⑬〈 築造後 〉
                                  『新・古代史検証  日本国の誕生2   巨大古墳の出現』(一瀬和夫 文英堂 2011年)P.167より

                          河川流路と誉田御廟山古墳を彩色加工の上、誉田断層・羽曳野撓曲の段差ラインと古墳名等を追加。
応神天皇陵
 誉田御廟山古墳は、陵墓としては「応神天皇恵我藻伏崗陵
(えがのもふしのおかのみささぎ)という名称があります。第15代応神天皇の陵に治定され
ています。「恵我」というのは、現在の藤井寺市域やその南の羽曳野市から西の松原市東部辺りまでを指す古代の地名のようですが
はっ
きりとした地図的な範囲はわかりません。宮内庁が治定した陵墓には、恵我の付く陵墓名が3ヵ所あります。応神陵のほかに
「仲哀天皇
恵我長野西陵
(えがのながののにしのみささぎ)と「允恭天皇恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)」が藤井寺市内にあります。俗にこれらを「恵我三陵」な
どと言ったりします。
 これらの陵墓名は、古事記・日本書紀・延喜式に書かれている陵墓名を基にして、幕末から明治中頃までに定められました。あまりにも
長ったらしいので普段にこの名称で呼ぶ人はまずいません。言いやすい「応神陵」が普通で、少し丁寧で「応神天皇陵」です。現在の内堤
北西角の西にある国道
170号の交差点名は、ずばり「応神陵前」です。古くからの地元の人々は「応神さん」とも言いました。今はありま
せんが、以前には応神陵から北へ約1kmの藤井寺市内の場所に、
「Oujin」という名のパチンコ店がありました。これには少々驚きました。
親しまれるのも程度ものという感じがします。それに、場所がちょっと離れ過ぎです。
 写真⑭が天皇陵の正式名称を掲げる制札館
(せいさつやかた)です。制札はどこの陵墓にも建てられており、表札兼注意書きです。制札の形式は
どの陵墓でも同じで、陵名のほかに3ヵ条の注意書きがあります。『
一、みだりに域内に立ち入らぬこと 一、魚鳥等を取らぬこと 一、
竹木等を切らぬこと 宮内庁
』とかかれています。現代社会だと、他にも注意したい事柄があるようにも思われるのですが、なぜこの3ヵ
条なのか、機会があればお聞きしてみたいものです。
 拝所に向かう進入路の入口には、「宮内庁書陵部 古市陵墓監区事務所」と彫られた標石があります。これも表札です。この標石の南側
の奧の一段低くなった所に、古市陵墓監区事務所の建物があります。この辺りの段差地形は、上で述べた誉田断層が残した断層地形の一部
でもあります。写真⑯が事務所の建物です。寄せ棟瓦屋根の建物で、聞かなければ、官庁の建物の一つであるとは見えません。周囲の樹木
はきれいに刈り込まれていて、庭園のようです。いわゆる「景観への配慮」なのでしょう。
 全国の陵墓や陵墓参考地の管理を管轄するのが宮内庁書陵部陵墓課ですが、1都2府
30県にまたがる約460ヵ所の対象地を管理するた
めに、全国を5つの陵墓監区に分けて監区事務所を置いています。日常的にはこの監区事務所が陵墓の管理を行っています。古市陵墓監区
事務所のほかに、多摩陵墓監区事務所
(東京都八王子市)・桃山陵墓監区事務所(京都市伏見区)・月輪陵墓監区事務所(京都市東山区)・畝傍
(うねび)陵墓監区事務所(奈良県橿原市)があります。古市陵墓監区事務所が管理するのは、和歌山県・香川県・徳島県・愛媛県・高知県内と大
阪府・兵庫県の一部の陵墓です。各監区事務所には、参拝に訪れる人のために、監区内の陵墓の「御陵印」が置かれています。寺社の御朱
印のようなものですが、御陵印は無料で記念スタンプのように自分で押します。           宮内庁サイト「天皇陵」
⑭ 応神天皇陵の制札 ⑮ 宮内庁書陵部の標石(北西より) ⑯ 古市陵墓監区事務所(北より)
⑭ 応神天皇陵の制札館
 2013年3月 拝所進入路に立つ。
⑮ 宮内庁書陵部の標石 (北西より)
  2014年4月  左端は制札館の屋根
古市陵墓監区事務所(北より)  2019年6月
 事務所付近には誉田断層による段差地形が見られる。
意外と新しい拝所の姿
 「陵墓」とは歴代の皇室関係の墓所のことですが、現行の皇室典範第
27条では、『天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を陵、そ
の他の皇族を葬る所を墓とし、陵及び墓に関する事項は、これを陵籍及び墓籍に登録する。
』と規定されています。陵墓管理はここから始
まっています。
 右の写真⑰は応神天皇陵の拝所です。どの陵墓に
も拝所はありますが、応神天皇陵は陵そのものが巨
大であるために、拝所の面積も古市古墳群の他の陵
墓よりずっと大きく、広々としています。写真は真
正面から撮ったものですが、もし参拝施設が何も無
かったとすると、まるっきりただの山です。大き過
ぎてお墓には見えません。樹木もよく繁っていてま
るで原生林のような様相を見せています。
 実は、今日私たちが見慣れているこのような陵墓
⑰ 応神天皇陵拝所(北より)
  応神天皇陵拝所(北より)       2019(令和元)年5月    合成パノラマ
     陵が巨大なだけに、拝所も古市古墳群の中では最大の広さである。拝所は二重の石柵
    で囲まれており、一般参拝者は外側石柵から中には入れない。
の拝所の様子は、築造からの長い年月を考えると、意外と新しい状況なのです。応神陵の歴史約1500年に対して現在のような拝所のスタ
イルはその
10分の1ほど、約150年あまり前からのものです。
 近世に行われた陵墓修補の最初は1697(元禄10)年で
、85陵の墳丘に竹垣をめぐらせる工事が施されました。その後、享保期・文化期にも
修補事業が行われています。1855(安政2)年には、京都所司代が元禄以来の修補事業に加えて、
15天皇陵を調査し治定しました。
 近代以降の陵墓の姿につながる景観上の陵墓改変は、「幕末の修陵」と呼ばれる修補事業を通して行われました。公武合体運動が進めら
れていた文久
(1862)年10月から慶応元(1865)年5月にかけて、宇都宮藩家老・戸田忠至(ただゆき)などが中心となって各地の修陵事業が行わ
れ、
109ヵ所の天皇陵が修補されました。「文久の修陵」と称されるものですが、この修陵によって、「白砂敷きの方形拝所に木柵、拝所
の正面には鳥居と内側に一対の燈籠、」という、墳丘を聖域化し拝礼する近代以降の陵墓景観が登場したのです。鳥居が建ったということ
は、その中が神域となったことを意味します。つまり、陵墓が神の居ます神域として人々の礼拝の対象に変えられた瞬間でした。その後、
石造の玉垣への改造などを経て今日まで引き継がれてきました。
 多くの陵墓を管理・修補する財力の無い皇室に代わって、近世の修陵事業は幕府が担ってきました。その幕府を倒して新政権を立てたの
は、他ならぬ皇室・天皇を戴いて倒幕クーデターを起こした薩長等の尊皇・倒幕勢力でした。尊皇の中味が問われます。
植え替えられた墳丘の樹木-変わってきた陵墓の景観
 外池昇氏の著書『天皇陵の近代史
(吉川弘文館 2000年)の中に、「明治年間の墳丘の伐採・植樹」という表があり、古市古墳群内の6基
の陵墓についての記録が紹介されています。その内の3陵について紹介します。
 応神天皇陵『かしわ(原文は漢字)が多かったのを明治20年頃に悉く伐採。また荊棘(いばら)・藤・蘿(つた)・根笹(ねざさ)等が繁茂していたのを同
        時に掃除(
「御陵沿革取調書」)
 
仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)『(くぬぎ)・2本の樟樹(くすのき)からなっていたのを明治初年に樟樹を残して開拓し松・杉を植樹。(「陵
                          墓誌」
)明治11年11月に松苗150本を植付(「大阪府庁文書御陵墓願伺届」)
 
允恭天皇陵(市野山古墳)『かしわ(原文は漢字)多かったのを明治18,9年頃に悉く伐採し檜(ひのき)の苗数千本を植樹(「御陵沿革取調書」)
 おもに明治前半期に、これらの天皇陵で樹木の意図的な伐採や植え替えが行われていたことがわかります。他の3陵も同じような記録が
紹介されています。この頃を境に、陵墓墳丘の樹木景観は一変することになったのです。やがて年月と共に、人々は鬱蒼と常緑樹の茂った
陵墓の景観を見慣れていくこととなります。今日の私たちもまた、それらの人です。
 1899(明治32)年7月8日付の『大阪朝日新聞』に掲載された「
(大阪)府下の御陵墓拡張」の記事で諸陵寮(書陵部に相当)は、府下の陵
墓二六ヵ所の兆域・参道の拡張を行い、
兆域地形」を前方後円墳で二重濠をめぐらし、また1876(明治9)年以来の測量技術を改めようとし
』という内容を伝えています。さらに、陵墓の景観について、『又従来御陵墓には梅桜等の花樹を植附けられしも、開花の候遊客群集し
て冒瀆
(ぼうとく)せん恐れもあればとて、花樹は総て之を取払ひ常磐木(ときわぎ 常緑樹)を植附けらるべしと聞く。』と書かれています。
 仁徳天皇陵のように近世に桜の名所とされた陵墓が文久の修陵以降にも各地に存在していましたが、近代以降、全国の神社が国家神道の
もとに管理されるのと併行して陵墓の聖域化・神域化が進められ、やがて神社と同じようなものと見なされていきます。そして、神社の杜
のように木々が繁る荘厳常緑の墳丘が、近代の陵墓景観としてふさわしいとされるようになりました。戦前の拝所の写真を見ると、現在は
広々としている拝所前の砂利の場所にも、沢山の松の木が立っています
(下のライブラリー写真参照)
 現在、すべての陵墓に拝所が設けられていますが、もともとは存在しなかったものを無理に造営したので、陵墓によっては寂しくなるよ
うな窮屈な拝所もあります。応神陵や仁徳陵のような巨大古墳の場合は十分な広さを確保できていますが、それ以外の陵墓ではなかなかそ
うもいかないのが実態です。前方後円墳の陵墓では、ほとんどの場合が本来の内堤であった部分に拝所が造られています。その内堤の規模
によっては、拝所の設置に制約を受けることもあるわけです。また、拝所の前や近くに専用駐車場が併設されている陵墓も多いのですが、
用地の確保ができなくて駐車場の無い所もあります。この駐車場は、皇族の参拝や宮内庁職員の公務のためのもので、一般利用はできませ
ん。ユネスコ世界文化遺産に登録された百舌鳥・古市古墳群ですが、世界遺産登録が実現したことで来訪者が増えた場合、いったいどうな
るのだろうかと、心配せざるをえません。専用駐車場の無い陵墓は、それだけ周囲が市街化しているということでもあります。
 
後円部頂にあった仏堂
 江戸時代には、応神天皇陵の後円部頂に六角形の仏堂が
あり、これは後円部の南側に隣接する誉田八幡宮の奧の院
でした。八幡宮から周濠を渡ることができ、さらに陵上の
仏堂に登る階段がありました。神仏一体となった信仰の場
であったのです。
 誉田八幡宮の祭神である八幡神は、誉田別命
(ほんだわけのみこ
と)
とも呼ばれ、平安時代の頃からは応神天皇と同一とされ
ていました。神仏習合により仏教とも結
びついていました。
 応神天皇陵の所在地は羽曳野市誉田
(こんだ)いい、誉田八
幡宮の「誉田
も誉田別命に由来すると考えられます。「
田」は「ほんだ
」と読むのが一般的ですが、この地では「こ
んだ」となっています。なお、応神天皇の名は「ホム
(ン)
ダワケ」と言い、日本書記では「誉田別
」、古事記では「品
陀和氣」となっています。
 全国にある八幡宮の総本社は九州の宇佐八幡宮ですが、
八幡神と同一の応神天皇が眠る陵とセットで存在し続けた
誉田八幡宮も、相当な重い由緒を持つ神社と言えるでしょ
う。江戸時代初期には、戦火に合った伽藍の復興に豊臣秀
頼が支援しています。もっとも、大坂夏の陣が起きたため
に、再建途上の拝殿工事が途中で止まってしまい、未だに
拝殿の天井は張られていないままです。
⑱『河内名所圖會』に描かれた応神天皇陵
  ⑱『河内名所圖會(図会)』に描かれた応神天皇陵(南東より)
                     『河内名所図会』(柳原書店 1975年復刻版)より
     
「當宗社」と共に2ヵ所だけ表示されているので、「こん田八幡」と思われるが、
       原図の字体では「八幡」なのかは判然としない。
                 見開き2ページを合成の上、着色・文字入れ等の加工。
 享和元年(1801年)に刊行された『河内名所圖會(図会)』の「應神天皇陵」の絵図の中には、
後円部の麓から一直線に陵頂に上る階段と陵上の六角堂が描かれています。上の⑱図がその絵
です。応神陵の周囲は省略されていますが、誉田八幡宮はしっかりと描かれています。陵の麓
に社殿の設けられている様子がわかります。左下に見える街道は東高野街道ですが、実際には
こんなに広い道ではありません。実際の3倍ぐらいの広い道路に描かれています。名所図会で
はよく見受けられることです。
 右の⑲図は、⑱図の陵頂の仏堂付近を拡大して、彩色加工したものです。イメージとして見
てください。柱が朱塗りであったかどうかはわかりません。私の勝手な想像です。色はともか
くとして、立派な造りであったことがわかります。石段の両側には桜が植えられていたと名所
図会は書いているので、きっとこんな感じだったであろうと思います。
 河内名所圖會の説明本文には、応神天皇陵について当時の様子を知ることのできる記述が見
られます。次の文です。
⑲『應神天皇陵』絵図の陵頂部分(彩色イメージ)
  ⑲『應神天皇陵』絵図の陵頂部分
   (彩色イメージ)
     絵図の陵頂部分を拡大して着色加工
 陵上に、近年、六角の宝殿(ほうでん)を建る。外側にも亦、六角の塗塀(ぬりへい)を立たり。…(中略)…。陵道一町計、左右に桜を植て、石
灯炉
(いしとうろ)二十基、其下に宣命場中門(せんみょうじょうちゅうもん)あり。これより、雑人(ぞうにん)陵上へ登る事を禁ず。過って昇る時は神祟(しんそう)あり。
四辺に、古松繁茂し、赤土壺
(はにつぼ)、山陵に多くうずめり。蓋(けだし)、これは殉死の代(かわり)として、宦人(かんにん)の名をしるしてこゝに埋む。
一説には、これに雨水を湛
(たた)えて、山陵の崩れざる用意と聞へし。
 六角の仏堂を建て、周りを囲む塀も六角で塗り壁でできていたと書いています。「塗り壁
」は、土壁や漆喰塗りのことだと思います。陵頂
に登る石段は約
100mあり、左右に桜が植えられて石灯籠が20基も建てられていた、とあります。麓には宣命場中門があり、そこから陵上
の六角堂へは、一般人が登ることは禁止されていたこともわかります。祭礼の時に神職や社僧が登ったものと思われます。「禁を破って昇
った時は神の祟りがある」というのもおもしろい書きっぷりです。「山陵に多く埋められていた赤土壺」とは円筒埴輪列のことだとわかり
ます。なにしろ推定2万本以上という数ですから。一説には円筒埴輪に雨水をためて墳丘が崩れるのを防ぐ備えであるとも聞く、とありま
すが、これは根拠がなく、まず無理なことでしょう。
【 河内名所圖會(かわちめいしょずえ)
  
◆発行 享和元年(1801年)9月   ◆著者 秋里籬島(あきさき りとう)    ◆画 丹羽桃渓(にわ とうけい)
  ◆出版社 《京都》出雲寺文治郎・小川多左衛門・殿為八   《大坂》高橋平助・柳原喜兵衛・森本太助
  
◆構成 6巻6冊 《巻之一》錦部郡  《巻之二》石川郡  《巻之三》古市郡・安宿郡
           
《巻之四》志紀郡・丹南郡・丹北郡・八上郡・渋川郡・若江郡  (※ 葛井寺の所在は丹南郡)
           
《巻之五》大縣郡・高安郡・河内郡    《巻之六》讃良郡・茨田郡・交野郡
  
※ 大坂心斎橋・柳原喜兵衛の書肆(しょし)河内屋をもととして、大正時代に合資会社・柳原書店を設立。戦後
   京都に移転し、2002年に柳原出版株式会社に組織と社名を変更。現存する日本で最古の出版社とされる。
    復刻本の『河内名所圖會』は柳原出版
(柳原書店)の出版で、文章ページは活字版で印刷されている。
絵図に見る修陵前の御陵の姿
 図⑳は『文久山陵図
(新人物往来社 2005年)に掲載されている江戸時代の応神天皇陵の絵図です。この絵図は『山陵図』
(鶴澤探眞画 国
立公文書館内閣文庫所蔵 。内閣文庫所蔵目録の書名は『御陵画帖』)
という、文久の修陵の時に作成された天皇陵図にあるものです。『文
久山陵図』は、鶴澤探眞の『山陵図』と谷森善臣の『山陵考』
(通称で本来の書名は『所在考証』)で構成されており、修陵の終わった慶応
3年10月に山陵奉行戸田忠至
(ただゆき)から朝廷・幕府に提出された修陵事業の報告書のようなものです。もともと、文久の修陵事業は、宇都宮
戸田藩の当時の藩主・戸田忠恕
(ただゆき)の建白を受けて行われることになったものでした。幕府は迅速な対応で修陵事業の実施を決め、新た
に「山陵奉行」を置くこととし、戸田藩筆頭家老の戸田忠至
(間瀬(まなせ)和三郎)を山陵奉行に任命しました。その相談役として陵墓の考証や
治定に大きく貢献したのが谷森善臣(よしおみ)でした。間瀬和三郎は事業完了後に大名に取り立てられて大和守(やまとのかみ)に任命され、戸田忠至
と改名しました。
 
 『山陵図』には初代・神武天皇から第121代・孝明天皇までの
天皇陵と神功皇后陵の絵図が収載されています。孝明天皇陵以外
の御陵はそれぞれに「荒蕪」図と「成功」図の2通りの絵図があ
ります。「荒蕪
(こうぶ)」とは「土地があれはてて雑草が生い茂って
いること
(広辞苑)」ですが、言うなれば「工事着手前」図という
ことです。「成功」は修陵が完了した「竣工」図ということにな
ります。2種類の絵図を比べて見ると、御陵がどのように修補さ
れたのかがよくわかります。古代山陵墳の中には、修補と言うよ
りも改造と言った方が相応しい例も多く見られます。灌漑用水と
して利用する周濠の水量を増やすために、濠や堤を改造した例も
あります。極めつけは御陵の「創造」です。神武天皇陵がそうで
す。考証家たちがしぼった3ヵ所の候補地の中から孝明天皇が決
めたと言われていますが、もともと神話の中の天皇の墓地がどこ
にあったのかを探ること自体に無理のある話です。そうやって整
えられたのが現在の神武天皇陵です。
⑳ 修陵前の応神天皇陵絵図(北東から見た図)
 ⑳ 修陵前の応神天皇陵絵図(北東から見た図)
       応神陵内の中央に見える小古墳は、二ツ塚古墳と思われる。
      中央後方の後円部頂に仏堂が見える。左は誉田八幡宮。
   『文久山陵図』(新人物往来社 2005年)の「應神帝 恵我藻伏崗陵 荒蕪」より
                  上部の約半分と空の部分はカット処理
『文久山陵図』の「應神帝 恵我藻伏崗陵」
 さて、⑳図の絵ですが、これは応神天皇陵の「荒蕪」図です。カットした上半分には、「
應神帝 恵我藻伏崗陵 荒蕪 河内國志紀郡古市村
と書き込まれています。まさに、修陵工事着手前の応神天皇陵の姿です。写真の無い時代の記録としては大変貴重な絵図と言える
でしょう。
応神陵と周濠を共有する二ツ塚古墳の姿もはっきりと描かれています。堤の外側、御陵の下側と右下側に小さな樹林が見えますが、応神陵
の周囲にあった陪冢群のいずれかだと思われます。位置関係や大きさのつり合いに不確かさがあり、古墳名の特定までは難しい感じです。
 この絵図で見ていただきたかったのは、後円部の陵頂に見える「六角堂」の姿です。左下に見える誉田八幡宮の奧の院として、社殿や神
宮寺を見下ろす位置にそびえ立つ立派な仏堂の姿は、後円部周囲の誉田村の家々や東高野街道からもよく見えていたことでしょう。
 なお、絵図では応神陵の所在地が「河内國志紀郡古市村」となっていますが、正しくは「古市郡誉田村」です。羽曳野市史の絵図類にあ
る村絵図でも、誉田村の真ん中に応神陵が大きく描かれています。1790(寛政2)年から幕府領とな
り、隣接する古市村に上方代官所が置かれ
てその支配下に入ったこともあって、鶴澤探眞の誤認があったのかも知れません。参考までに紹介しておきます。『河内名所圖會』の「応
神天皇陵」の項には、「
社家刑部老人日、御廟陵は志紀郡、御社は古市郡なりとぞ。」の一文が見られます。つまり、誉田八幡宮社家の老
人が言うには、応神御陵は志紀郡であるが八幡宮は古市郡であると。著者の秋里籬島自身が現地取材で直接聞いたものでしょうか。いずれ
にしても、「荒蕪」図にある「志紀郡古市村」という地名はあり得ないものでした。
排除された仏教色
 誉田八幡宮と応神御陵では、陵頂の仏堂に象徴されるような神仏一体の信仰や祭礼が何百年と続けられてきました。ところが、これらの
神仏習合の形態も、「文久の修陵」に始まる幕末の陵墓修補事業に合わせた国家祭祀の整備・再編により排除されてしまいます。国学に基
づく尊皇思想の高まりの影響もあり、仏教的なものが一掃されていきました。各地の天皇陵には拝所が設けられて、鳥居が建
てられました。
応神天皇陵でも陵上の仏堂や階段が撤去され、周濠も渡ることはできなくなりま
した。拝所は、八幡宮とは反対側となる前方部(本当に陵の
前側かどうかは未だに不明)
の北側に造られました。
 さらに明治初期には新政府によって神仏判然令
(分離令)が出され、それをきっかけとして、全国に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐が吹き荒れまし
た。神宮寺として誉田八幡宮に存在した長野山護国寺は、大半の建物が壊されて廃寺となりました。現存するのは南大門だけです。
 『河内名所圖會』「長野山誉田八幡宮」の項では、本地堂(護国寺)・観音堂・十三層石塔婆・奥の院(宝蓮華寺)・阿弥陀堂・薬師堂ノ址
・多宝塔ノ址・大師堂ノ址・護摩堂ノ址・輪蔵ノ址などの仏堂の名称が紹介されています。神宮寺といえども、護国寺は相当な規模の寺院
であったことがわかります。それらがすべて跡形も無く消えてしまったのです。しかし、これは廃仏毀釈のほんの一例に過ぎません。
消えた六角堂と石段を示す跡
 右の図は、宮内庁書陵部が編纂した『陵墓地形図集成』という図書に
掲載されている「応神天皇恵我藻伏崗陵之圖」です。この図書は大変大き
く高価なものですが、陵墓の実測図としては最も正確で権威あるものとし
て、貴重な存在となっています。おもに大正年間から昭和初期にかけて帝
室林野局によって測量・作図が行われたものです。帝室林野局は、戦前に
存在した宮内省の外局で、皇室財産である御料林の管理経営を行っていま
した。
 『陵墓地形図集成』には全国に在る陵墓・陵墓参考地の実測図が網羅さ
れています。陵墓の周囲の様子は今ではすっかり変化していますが、今な
お陵墓古墳の正確な地形を知る上での価値は衰えてはいません。数年前に
縮小版が出版されていますが、それさえも2万円ほどします。当面は図書
館頼みです。
 さて、戦前に作成された「応神天皇恵我藻伏崗陵之圖
(図)」ですが、大
15年に測量、昭和3年に作図が行われています。よく見ると、後円部頂
にあった六角堂の跡と陵道であった石段の跡を見
つけることができます。
 大判の原図を見ると、陵頂は円形の平坦地になっていて、六角堂の基礎
とおぼしき六角形に並ぶ石組みの形が描かれています。帝室林野局が測量
した時点で実際に基礎やその遺構が残っていたのか、少々疑問ではありま
す。 六角堂が撤去されてから
60年を経た時点での測量ですから。六角堂
が在った場所を示すためにわざわざ書き込んだ可能性も無
くはありません。
 そこから麓まで、石段の跡と見られる地形が一直線となって現れていま
す。石段の跡は上の⑪図のレーザー測量図でもわかります。拡大図で見る
と、石段のあった部分の等高線が少しくぼ地であることを示しています。
石段を撤去した後の埋め戻しで土が不足していた、埋め戻した部分が経年
変化で沈み込んだ、草木が茂るまでに埋め戻した土が雨水で削り流された
などの理由が考えられます。
 レーザー測量図で陵頂部を見ると、中央が少し高くなった円形の土地に
なっています。また、この図では、後円部の麓と内堤との間に架けられて
いた橋の橋台部分と思われる地形が残っていると見られます。わずかに周
21)「応神天皇恵我藻伏崗陵之圖」
「応神天皇恵我藻伏崗陵之圖」
 
       『陵墓地形図集成』(宮内庁書陵部 学生社 1999年)より
     天地を回転させて神社・古墳を彩色加工の上、古墳名等を追加。
    方位記号を拡大し、縮尺も修正書き直し加工。
濠内に出っ張っている地形です。
 急斜面に造られた石段、陵頂に建立された立派な仏堂、それらを造営した時の手間や費用を考えると、こんなにきれいに撤去されてしま
ったことがもったいなく感じられてきます。文久の修陵に臨んだ幕府や藩の人々には、それだけ仏教色排除の思いが強かったということな
のでしょう。修陵工事を見ていた誉田村の人々は、いったいどんな思いで見ていたことでしょうか。やがて政権が変わり、八幡宮の神宮寺
・護国寺が壊されて消えて行くことなど、この時には想像すらされていなかったと思います。

フォト・ライブラリー 《 誉田御廟山古墳 》
 藤井寺市内の他の古墳もそうですが、かつては古墳を囲んでいた田園風景が、今ではすっかり市街化してしまいました。誉田御廟山古墳
の場合も、かつては西側や北側は田園風景が広がっていたのですが、戦後の高度経済成長期以降またたく間に市街化が進んで、すっかり周
辺の様子が変わってしまいました。その変貌ぶりを数々の写真で見ていただきたいと思います。
① 田園風景の向こうに見える誉田御廟山古墳(西より)
① 田園風景の向こうに見える誉田御廟山古墳(西より)     左右2枚の写真を合成し文字入れ加工
   野中宮山古墳から撮影されたものと思われる。手前にその周濠が見える。
現存しないアリ山古墳・藤の森古墳・
   茶臼塚古墳が展開している。左下や中央付近にブドウ畑と思われる果樹園が見える。

  『 陵墓古写真集Ⅱ-古市古墳群・磯長谷古墳群・宇土墓・三嶋藍野陵- 』(堺市博物館 2011年)より  1931(昭和6)年8月
  写真は、90年ほど前の誉田御廟山古墳の遠景です。同じ位置
から撮った現在の様子と比べて見たいのですが、現実には無理なの
です。広々と広がる水田地帯は、現在は多くの住宅やらマンション
で埋まっています
。それらに遮られて誉田御廟山古墳は見えません
あまりにも変貌著しくて、聞かなければ同じ場所だとは思えないほ
どです。
 上で紹介したように、明治期以降に多くの常緑樹、特に松や檜の
針葉樹が植えられましたが、それらが育って森となったのがこの写
真の様子です。現在はその頃よりも針葉樹は減っているようで、見
た目には広葉樹の方が多いように思われます。
(写真⑰参照)
 写真から23年後、同じ方向を俯瞰撮影したものです。驚
くほど変わっていない周囲の様子が印象的です。地域の変化の速度
がいかにゆっくりであったのかがよくわかります。針葉樹が繁っていた様
子も、よりもさらによくわかります。
② 上の①の場所を俯瞰した様子(西より)
② 上の①の場所を俯瞰した様子(西より)  1954(昭和29)年11月11日
    写真⑨と比べて見ると、この頃の墳丘や内堤の大きな樹木は針葉樹が
   中心であったことがわかる。①から23年経っているが、ほとんど変わって
   いない田園風景である。
            文字入れ等一部加工
       『日本の古墳』(末永雅雄著 朝日新聞社 1961年)「図版第55」より
③ 昭和初期の応神天皇陵拝所の様子 ④ 昭和初期の応神天皇陵入口と誉田丸山古墳(北より)
③ 昭和初期の応神陵拝所の様子    1930(昭和5)年8月
   拝所の周囲には多くの松の木が植えられていたことがわかる。
    陵墓古写真集Ⅱ』(堺市博物館 2011年)より
  天地をトリミング
④ 昭和初期の応神陵入口と誉田丸山古墳(北より)
  現在は無い大量の松の木が繁っている。
  天地をトリミング
 『大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告 第五輯』(大阪府 1934年)より
⑤ 戦後間もない時期の誉田御廟山古墳と周辺の様子  写真の拝所の様子は、上の写真⑰と比較すると、違いが一目瞭然で
す。この頃には、拝所の周囲にも松の高木がたくさんあったことがわか
ります。薄暗い雰囲気が拝所に神秘性をより感じさせたのかも知れませ
ん。現在の拝所は広々としていますが、松の木の何本かは周辺に残され
ているようです。
 写真は応神天皇陵の入口と陪冢の誉田丸山古墳(左側)の昭和初期の
様子です。参道の両側にも丸山古墳にも、松と見られる多くの木が繁っ
ています。細長い形状から見て、一度に大量の苗木が植えられたことが
わかります。戦後に大幅に手が加えられたのか、現在は参道入口から拝
所までは高木は無く、丸山古墳も松の木はずっと少数になっています。
⑥ 南から見た誉田御廟山古墳と周辺の様子
⑤ 戦後間もない時期の誉田御廟山古墳と周辺の様子 
 〔米軍撮影 1948(昭和23)年9月1日 国土地理院
〕より 文字入れ等加工
 ⑥ 南から見た誉田御廟山古墳と周辺の様子  1954(昭和29)年11月11日
  『日本の古墳』(末永雅雄著 1961年)「図版第53」より 文字入れ等一部加工
 写真は、戦後間もない1948(昭和23)年に、当時占領駐留していた米軍が撮影したものです。高度経済成長期の開発による変化の前の様
子がわかる貴重な資料写真です。参考のために古墳名を入れておきましたが、現在は消滅していて見ることのできない小古墳がいくつも写
っています。当時は民有地の古墳が多く、住宅や施設、道路などの建設で次々と壊されてしまいました。ページ上部の
写真や以下の写真
で、その変化の様子を比較しながら見てください。
 写真
は、写真から6年後の様子です。後円部の南側から見た数少ない航空写真です。周辺の様子は写真の頃と全くと言ってよいほ
ど変わっていません。上方に見える現在の藤井寺市域の様子を見ると、驚くばかりの田園風景です。建物が密集した今日の住宅都市の面影
は全く感じられません。地域が変わる、時代が変わるというのは、このような変化をを言うのでしょうか。

 下の写真は、写真から7年後の様子です。日本は高度経済成長期に入り始めており、大阪市の郊外では次々と住宅地開発が進められ、
藤井寺市域
(当時は美陵町)でも各地に公営住宅が建設されていきました。いわゆるベッドタウン化です。誉田御廟山古墳の周りでは、大阪
府営住宅が建設され、盾塚古墳・鞍塚古墳・朱金塚古墳が姿を消しました。また、誉田御廟山古墳の西方には電鉄資本による住宅地が開発
されますが、蕃所山古墳
(モッコ塚)を残すように街区設計がなされ、ミニラウンドアバウトの中に古墳が存在しています。公共事業の府営
住宅では一度に3基の古墳が消滅し、民間事業の方では保存の措置が取られたのです。今日よく見られるケースとは逆の状況でした。
⑦ 1961(昭和36)年の様子 ⑧ 1974(昭和49)年の様子
1961(昭和36)年の誉田御廟山古墳と周辺の様子
       (1961年5月30日 国土地理院)より    文字入れ等加工
1974(昭和49)年の誉田御廟山古墳と周辺の様子
          (1974年8月28日 藤井寺市)
より  文字入れ等加工
 さらに13年経った様子が写真です。この間に、その後の地域の変化を決定づける大きな変化がありました。1970(昭和45)年に大阪府の
千里丘陵で開催される日本万国博覧会
(大阪万博)に向けて、大阪府内外では新しい道路網の建設が急ピッチで進められました。藤井寺市域
では、美陵町が1966(昭和41)年に市制施行で藤井寺市となり、市内でも新しい幹線道路の建設が続きました。誉田御廟山古墳の周りでも、
西名阪道路
(現西名阪自動車道)、主要地方道・大阪外環状線(現国道170号)、府道・堺羽曳野線が相次いで開通しました。その結果、新しい
幹線道路沿いには次々と施設や大型店舗などが開業し、藤井寺市内を通り抜ける自動車の流れが変わりました。この頃、日本は急速に“ク
ルマ社会
に変化しつつあったのです。大阪外環状線は国道170号のバイパスとして計画されましたが、まずは下の写真のように、誉田御廟
山古墳の西側で東寄りに折れて国道170号に接続する
ルートが開通しました。これで、羽曳野市以北のバイパス線が一応完成したわけです。

 昭和40年代の初めには、外環状線に沿って美陵ポンプ場が建設されました。外環状線の地下に府営水道の新たな幹線送水管が埋設され、
泉北
泉南地域へ送水する体制が強化されたのです。ポンプ場建設と外環状線の建設によって、藤の森古墳と蕃上山古墳が姿を消しました。
これも公共事業による消滅です。戦後まで存在していた5基の古墳が、これらの事業によって
10年足らずの間に相次いで消滅してしまいま
した。市域の狭い藤井寺市で、すべての古墳を残して都市開発を行うのは不可能でしょう。苦しいところです。
⑨ 1968(昭和43)年の様子(北より) 1968(昭和43)年の様子(北より)
   『古墳の航空大観』(末永雅雄著 学生社 1975年)より
    1968(昭和43)年6月1日   文字入れ等一部加工

  ⑦と⑧の中間の時期。槌音高く…、という建設真っ最中
 の様子である。やがて高速道路の高架で見えなくなる赤面
 山古墳が見えている。
  大阪外環状線の工事も併行して進められていた。左写真
 の部分は、写真⑧にも見える国道170号への接続線
である。
 東山古墳の南から南東部分はまだ工事が未施行。
  アリ山古墳はこの時点で墳丘が姿を消していた。藤の森
 古墳も消滅していた。
 写真のちょうど中間の時期の様子が上の写真です。新設道路の建設
真っ最中の様子がよくわかります。末永博士はよくぞ撮影していてくだ
さった、
と言いたくなる貴重な1コマです。高速道路の高架でやがて覆われてしまう赤
面山古墳が、この時はまだ空から見える状態です。大阪外環状線の工事も同時
に進められており、国道 170号への接続線の途中までが、路盤工事の最中のよ
うです。周辺の田畑の様子が戦後間もない頃とほとんど変わっていない中、新
しい大規模道路の存在がひときわ目立ちます。東京オリンピックの4年後、大
阪万博の2年前のことでした。
 写真
から12年後の様子が写真です。写真では広々と広がっていた水田
地帯に住宅が建ち並んでいる様子や、事業所があちこちにできている様子が見
えます。写真左下に見える三叉交差点は野中東交差点です。新設された大阪外
環状線の接続線と府道新
31号が接続され、この地域の自動車交通に大いに役立
つこととなりました。
⑩ 1980(昭和55)年の様子(南西より)
 ⑩ 1980(昭和55)年の様子(南西より)  1980年9月
  『大阪府立近つ飛鳥博物館図録18
百舌鳥・古市 門前 古墳航空
   写真コレクション』(大阪府立近つ飛鳥博物館 1999年)より
⑪ 1985(昭和60)年の様子 ⑫ 2007(平成19)年の様子
 ⑪ 1985(昭和60)年 (1985年10月8日 国土地理院)より 文字入れ等加工 2007(平成19)年 (2007年8月11日 国土地理院)より 文字入れ等加工
 写真から11年後の様子が上の写真です。誉田御廟山古墳の周囲には、さらに住宅や施設、事業所などが増えています。写真では
まだ建設工事が着手されていなかった外環状線の本線が開通しています。そして
、この3年前には外環状線は一般国道170号に指定されて
います。墓山古墳の北東側では、170号接続線に沿いに羽曳野市役所に次いで羽曳野警察署が移転新築され、病院も進出しました。
 写真
からは少しとびますが、22年後の様子が写真です。20年ほどの間の変化の大きさというものがよくわかります。東山古墳の周
辺や大水川周辺で見られた農地はほとんどが姿を消しています。大水川は治水対策として拡幅・護岸工事が行われ、北方の下流では新流路
が造られました。かつて、田園地帯にこつ然と現れたように誕生した幹線道路に沿って、ほぼ切れ目無く事業所や施設が並んでいます。
 写真中央上部に見える古室山古墳は公有地化が進められて、古
墳域内の民家や工場などが徐々に減ってきました。かつて耕作地
に利用されていた墳丘部も市によって植樹や整備が行われ、古墳
公園としてよみがえっています。中規模前方後円墳としては珍し
い、どこからでも自由に墳丘に登ることのできる古墳となってい
て、市民の憩いの場として、古墳ファンや小学生の見学の場とし
て、大いに親しまれています。以前に植えられた桜の木が大きく
育ち、春には見事な桜景観を見せてくれます。
 この間に府営藤井寺道明寺住宅は高層化が進められ、余剰とな
る面積を利用して新たに公園が造られました。「盾塚古墳公園」
です。府営住宅敷地の真ん中に、昭和30年代に府営住宅建設で消
滅した盾塚古墳を再現する形で造られました。と言っても、施設
としては公園なので、円形部の中央が少し盛り上がった程度の芝
生広場です。それでも、上空から見た形は立派に古墳そのものと
いう感じで見えています。開発で消えて行った数々の古墳の墓碑
でもあるかのように目をひく存在です。
⑬ 現在の誉田御廟山古墳(南東より)
 ⑬ 現在の誉田御廟山古墳(南東より)  2019(令和元)年夏場と思われる
   「nippon.com-百舌鳥・古市古墳群の登録決定:国内23件目の世界遺産
    2019.07.06」より (撮影:黒岩正和・藤井和幸氏)
 文字入れ等一部加工
 写真は、写っている建物などの状況から見て、2019年もしくは2018年の夏場の様子だと思われます。世界文化遺産登録間近の様子とい
うことになります。墳丘も内堤もモコモコとした姿で、すっかり広葉樹林の様相になっています。上のと比べると、その違いは歴然
としています。
4,50年の歳月を経て、原始の温帯広葉樹林にも似た立派な森林が出来上がっています。

【 参 考 図 書 】 藤井寺市の遺跡ガイドブック No.6 新版・古市古墳群 』(藤井寺市教育委員会 1993年)
ふじいでらの歴史シリーズ3 探検・巨大古墳の時代 土・石・埴輪がつくる世界 』(藤井寺市教育委員会 1998年)
古市古墳群を歩く 』(古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議 2010年)
大阪府立近つ飛鳥博物館図録18 百舌鳥・古市 門前 古墳航空写真コレクション 』(大阪府立近つ飛鳥博物館  1999年)
大阪府立近つ飛鳥博物館図録42 応神大王の時代-河内政権の幕開け-』(大阪府立近つ飛鳥博物館 2006年)
大阪府立近つ飛鳥博物館図録55 百舌鳥・古市の陵墓古墳 巨大前方後円墳の実像 』(大阪府立近つ飛鳥博物館 2011年)
平成24年度冬季特別展 歴史発掘おおさか2012-大阪府発掘調査最新情報-』(大阪府立近つ飛鳥博物館 2013年)
『 大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告 第五輯 』(大阪府 1934年)(1974年復刻版 大阪文化財センター)
  『 日本の古墳 』(末永雅雄著 朝日新聞社 1961年)
『 古墳の航空大観 』(末永雅雄著 学生社 1975年)
『 河内名所図会 』(柳原書店 1975年復刻版)
『 続古地震 』(萩原尊禮編著 東京大学出版会 1989年)
『 古代景観の復元 』(日下雅義著 中央公論社 1991年)
『 陵墓地形図集成 』(宮内庁書陵部 学生社 1999年)
『 天皇陵の近代史 』(外池 昇著 吉川弘文館 2000年)
『 文久山陵図 』(新人物往来社 2005年)
『 歴史のなかの天皇陵 』(高木博志・山田邦和著 思文閣出版 2010年)
『 日本史リブレット97 陵墓と文化財の近代 』(高木博志著 山川出版社 2010年)
新・古代史検証 日本国の誕生2 巨大古墳の出現-仁徳朝の全盛 』(一瀬和夫著 文英堂 2011年)
『 陵墓古写真集Ⅱ-古市古墳群・磯長谷古墳群・宇土墓・三嶋藍野陵- 』(堺市博物館 2011年)
『 天皇陵の誕生 』(外池 昇著 祥伝社 2012年)
『 天皇陵 』(矢澤高太郎著 中央公論新社  2012年)
古代史研究の最前線 天皇陵 』(洋泉社編集部 洋泉社 2016年)
『 なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか 』(島田裕巳著 幻冬舎 2013年)      〈 その他 〉

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