【図2】藤井寺市の色別標高図 | ロールオーバーになっています |
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国土地理院サイト『色別標高図』より 線画・文字入れ等一部加工 |
図2が藤井寺市の色別標高図で、図1の藤井寺市部分を拡大したものです。かなり細かい高低差を見ることができます。この色別標高図 は、土地そのものの標高を表すものなので、人工造営物であるビルや塔、橋、高架高速道路、高架鉄道などの高さは除外されていますが、 人為的に盛り土された部分は新しい地面と見なして表されています。大和川や石川の堤防、古墳の墳丘部、橋に至る取付道路部分、インタ ーチェンジの盛り土部、水みらいセンターの盛り土敷地などがそれに当たります。中でも古市古墳群の大型前方後円墳の存在がひときわ目 立ちます。この地域の特徴の一つです。 自然地形を見ると、市の南側部分が少し高くなっているのがわかります。羽曳野丘陵と呼ばれる丘陵部の先端部分に連なる大変緩やかな 傾斜地形です。この台地性の地形は藤井寺市内では、東寄りと西寄りの二股に分かれて北に向かっています。東側は市野山古墳や仲津山古 墳、国府(こう)遺跡などが位置する低い台地性の地形で、「国府台地」と呼ばれている部分です。図2では、その台地の形がはっきりと見て 取れます。西側は、岡ミサンザイ古墳周辺から藤井寺駅を越えて北へ延びる地形です。国府台地ほどのはっきりした段差はありませんが、 標高自体は同じ程度の高さがあります。これらの二股の台地性地形に挟まれた中央部分は、北へ向かうほどさらに低くなり、大和川堤防付 近は市内では最も低い部分の一つとなっています。その辺りにある水みらいセンターの敷地が、かなり盛り土されているのはそのためだと 思われます。市内各地の標高の高低関係は、下の『図4・等高線図』でより詳しく見ることができます。 |
【図3】南から鳥瞰図として見た色別標高図 |
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国土地理院サイト「地理院地図 Globe」で『色別標高図』を鳥瞰図化 色補正のうえ文字入れ加工 |
図2の色別標高図の範囲を少し広げて、南から鳥瞰的に見た様子が図3です。立体感がよく表れるように、色の濃さやコントラストを強 調してありますが、斜めから見ることで土地の凹凸の様子がわかりやすくなっています。南から北へ向けて、ゆるやかな傾斜地形となって いることもわかりやすくなりました。 国土地理院は、2016年春に「地理院地図Globe」というサイトの試験公開を始めました。これは、「『誰でも・簡単に・日本全国どこで も』地理院地図を地球儀のように、シームレスに3次元でみることができる。」という優れものです。標準地図や空中写真、色別標高図な どを3D化して鳥瞰的に表示することができます。これを利用して藤井寺市とその周辺を鳥瞰図化してみました。図2と対比しながら見て いただけたらと思います。 |
「等高線図」で見る藤井寺市の地形 図2の色別標高図で見られる地形の様子を、2m間隔(50m以上は10m間隔)の等高線と段彩で表したのが図4の等高線図です。実際にはわ ずかな高低差の地形も、段彩の色を工夫することで高低の変化の様子を強調することができます。土地の高低を手描き製図で表す手段とし て、昔から用いられてきた地図表現方法です。 上記で述べたように、南から延びる丘陵部の先端が二股に分かれて台地性地形を造っている様子が、段彩によってよくわかります。東の 国府台地の部分は等高線が詰まっており、急傾斜の段差になっていることがわかります。それに対して、西側の台地性地形の部分は、等高 線の間隔が広く空いています。つまり、北の方へ緩やかに下がっていっていることを表しています。そして、東西の台地性地形に挟まれた 低い中央部分が、逆三角形のように広がっている様子もよくわかります。 これらの地形は、このまま北へ行くほど低くなっていきます。図1の色別標高図を見ると、この辺りの南北の標高の変化がよくわかりま す。この地域に降った雨水が川を造ると、この南高北低の標高の変化に沿って、南から北へ向かって流れます。「水は低きに流れる」の原 理です。ところが、その原理とはまったく異なる流れ方をしている川が大和川です。東から西の大阪湾に向かって流れているのです。自然 の地形とはまったく合わない流れ方です。これは、自然にそういう流れ方の川ができたのではなく、人の手によって造られた川だからなの です。この地図にある大和川は、江戸時代に大規模な工事で造成された人工の川なのです。地形に沿って北へ流れていた旧大和川を、洪水 対策と新田開発のために、現在のように西へ向かう川として付け替えたのです。今日、「大和川の付け替え」と呼ばれる、歴史的な一大土 木事業でした。その後の大阪平野の農業のあり方や人々の生活を大きく変えた、歴史的転換点と言ってもよいものでした。 ![]() |
【図4】藤井寺市の等高線図 | ロールオーバー機能で鉄道・道路・地図記号・主要古墳名を表示します |
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『津堂城山古墳』(藤井寺市教育委員会 2013年)より 「古市古墳群分布図」を基に加工・作成 |
「藤井寺市の等高線図」について この等高線図は、藤井寺市教育委員会発行『津堂城山古墳』( 2013.3)に掲載された「古市古墳群分布図」を基図として作成しました。 この種の分布図は今までにも、同教育委員会文化財保護課編纂の出版物に度々掲載されてきました。全体的にはほぼ同じと言ってよいの ですが、少し変わってきた部分も見られます。新しい調査結果に基づいて修正されてきたものと思われます。今回の等高線図製作に当た っては、開始時点で最も新しい出版であった『津堂城山古墳』のものを使用しました。以下に、製作の要点を挙げておきます。 @ 製作では、一部等高線の抜け落ちやかすれなどを他の出版物の図を参考に修正し、段彩となるように彩色しました。そして、このペ ージの表現に必要な線画や文字・記号などを入れました。 A 段彩は、台地性地形の様子が見やすくなるように意図的に色を配置しました。低地部分の緑色系から台地部分の黄色系に変わるとこ ろが目立つのはそのためです。また、全体的に高低差の様子を強調する配色にしたため、山地部分の色がかなり濃い茶系色となり、感 じとして高い山地のように見えてしまいますが、実際は100m以下の丘陵地です。 B この地図は、もともとが古市古墳群の分布と地形を表すものなので、中心は当然ながら古市古墳群の古墳です。古墳は元の分布図に 描かれたものに、墳丘や堤の緑、周濠の水色の彩色をしました。古墳の形・規模を表すことに重きを置いたので、段彩による高さの表 現はしていません。また、元の「古市古墳群分布図」は、今までの発掘調査に基づいて築造当時の古墳の形が表されており、現在は 消滅している堤や周濠を復元した図として描かれています。誉田御廟山古墳や市野山古墳、津堂城山古墳が二重の周濠になっていたり 古室山古墳や三ツ塚古墳などに周濠が描かれていたりするのはそのためです。大型前方後円墳の分布を見ると、台地性地形をうまく利 用して築造されていることがわかります。 余談ですが、地図の中央下部に高屋築山古墳があります。その部分の地形を見ると、南北に長い島のように盛り上がった土地であるこ とがわかります。低い小山の地形ですが、土地の人々には昔から「城山」と呼ばれてきました。中世の室町時代後半に管領の畠山氏が高 屋城を築いたことからその呼び名ができたと思われます。墳丘は城の本丸に利用されたためにあちこちが変形しました。おまけに幕末の 陵墓改修でさらに改変が加わり、本来の古墳の形は未だにはっきりとしていません。二の丸・三の丸の場所は現在はすっかり住宅地にな っています。高屋築山古墳は宮内庁よって天皇陵に治定されており、陵墓名は「古市高屋丘陵(ふるいちのたかやのおかのみささぎ)」です。 |
参考資料−色別標高図と等高線の組み合わせ |
図2の色別標高図と図4の等高線図を組み合わせて表現された藤井寺市の地形図を見つけました。地形の特徴が端的にわかり、参考にす ることができそうなので紹介しておきたいと思います。この図5は藤井寺市の公式サイト内で公開されている図です。『藤井寺市地域防災 計画』の付属資料の中に掲載されています。この防災計画は、もともと市の公文書として印刷・製本されたもので、膨大なページ数から構 成されています。その全てがデジタル化されて公開されています。この図5では等高線は5m間隔で図4よりも粗いのですが、図2・図4 の説明で述べた藤井寺市の地形の特徴はよく表されています。国府台地の形や南の羽曳野丘陵の様子などがよくわかります。 この図では、古墳が図4と違って現状の通りに表されており、古墳の規模、周濠の様子、墳丘の標高など、今の様子がよくわかります。 誉田御廟山古墳の墳丘前方部の西側の崩れた地形もよく表れています。この崩れの場所は活断層の通っている部分で、地震による崩壊だっ たことがわかっています。また、北側の低地性平坦部では、図2の標高図で見える特徴も見て取れます。 同じ地形でも表す手法によって図の感じがずいぶん違いますが、その土地が持っている地形的特徴は同じように見つけられます。3種類 の地形図を見比べながら、藤井寺市の地形に親しみを持っていただければ幸いです。 |
【図5】藤井寺市の地形図 《『藤井寺市地域防災計画』(平成27年3月)より 》 |
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藤井寺市サイト『藤井寺市地域防災計画』「資料編・第1編 総則関連資料」より「1-1地形図」 凡例等一部を加工・修正 |