クリスマス・キャロル
(第四章)
クリスマス・キャロルの本文テキストは、誤りや思い違いを訂正し、1 章から 5 章までをひとつにまとめた
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Up Date 2004年01月31日
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第4章 : 最後の幽霊
幻はゆっくりと、厳かに、音を立てることもなく近づいてきた。そばま
で来た時、スクルージはひざまづいた。なぜなら、幽霊が、その通る空気
中に、闇と神秘を振りまいているように思えたからだ。
幽霊は真っ黒い衣でおおわれていた。頭、顔、身体はすっぽり隠れ、差
し伸べた片方の手だけが見えた。この手がなければ、幽霊の姿と夜とを見
分け、幽霊を包む闇とを区別するのは困難だっただろう。
スクルージは、幽霊がそばまで来た時、背が高く威厳に満ち、その神秘な存在を前にして、自分が荘厳な恐れに満たされているのを感じた。幽霊は言葉を話すことも、動くこともなかったので、彼にはそれ以上のことは分からなかった。
「私は"未来のクリスマスの幽霊"の前にいるのでしょうか」
スクルージは訊ねた。
幽霊は答えず、前方を手で指した。
「あなたは今まで起きたことではなく、これから起きることの影を私に見せてくれようとしているのでしょうか」
スクルージは重ねて訊いた。
「そうでしょう?幽霊さま」
あたかも幽霊が頭を下げたかのように、衣服の上の方が、ひだになったと
ころで、一瞬縮んだ。
幽霊からの返答はそれだけだった。
スクルージは、この時には、幽霊といっしょにいることにすっかり慣れて
いたが、何も話さない幽霊がとても恐ろしく、両脚はがたがた震え、幽霊
について行こうとした時、立っていることもできなかった。幽霊はわずか
の間立ち止まり、スクルージの様子をじっと見て、回復する時間を与えた。
だが、幽霊が立ち止まったために、両脚の震えはますますひどくなった。自分はどんなに目を凝らしても、幽霊の手と黒い大きなかたまりが見えるだけで、幽霊はその黒い衣の中からこちらをじっと見つめていると思うと、漠然とした恐怖でぞっとした。
「未来の幽霊さま」スクルージは叫んだ。
「私にはあなたが今までのどの幽霊よりも恐ろしく感じられます。でも、あなたは、私のために何かしてくれるのだと知っています。私も今までの自分ではない自分になることを望んでいます。だから、あなたのお供をする覚悟はできています。感謝の気持ちでそうさせていただきます。何か話してはくださらないのですか」
幽霊は何も応えなかったが、その手は、二人の前方をまっすぐに指し示していた。
「ご案内下さい」スクルージはいった。
「ご案内下さい。夜はどんどん更けていっています。私にとって貴重な時間です。ご案内下さい、幽霊さま」
幽霊は来た時のように動いていった。スクルージは幽霊の衣の影の中におさまって、ついていった。衣の影は自分を持ち上げ、運んでくれると思った。
幽霊とスクルージが街に入ったようには見えなかった。むしろ、街が二人
の回りに突然現れ、街みずからが二人を取り囲んだように見えた。だが、
幽霊とスクルージはそこにいた。街の中心、取引所の、商人たちの中にい
たのだ。商人たちは、忙しそうに行き来していた。お金をポケットの中で
チリンチリン鳴らしていたり、かたまって話をしていたり、時計を見たり、
思案げに立派な金の印鑑をもて遊んでいたりしていた。それはスクルージ
には見慣れた光景だった。
幽霊は実業家たちのちょっとした集まりのそばで立ち止まった。その手が彼らを指しているのを見て、スクルージは彼らの話を聞こうと近寄った。
「違う」
ばけもののような顎をしたおそろしく太った男がいった。
「どっちにしても、あまり詳しくは知らないんでね。知っているのは彼は死んだということだけだ」
「いつ死んだんだ」
別の男が聞いた。
「昨夜だと思うな」
「ええ?どうしちゃったんだろう」
また別な男が、とてつもなく大きなかぎたばこ入れの中から、たばこをどっさり取り出しながらいった。
「殺しても死なない男だと思っていたけどな」
「誰にも分かりませんな」
最初の男があくびをしながらいった。
「お金はどうしたんだろう」
身なりのいい赤ら顔の男がいった。鼻の先っぽにはいぼが垂れていたが、七面鳥の雄の肉塊のようにぶらぶら揺れていた。
「聞いてないな」大きな顎の男が、またあくびをしながらいった。
「仲間にでも残したんじゃないかな。私には残してくれませんでしたがね。これだけは確かだ」
この冗談にみんなはどっと笑った。
「ずいぶんと安っぽい葬式になるでしょうな」
男は続けてそういった。
「どう考えても参列しようという人を思いつきませんからね。どうでしょう、人を集めてみんなでボランティア参加というのは」
「食事が出るなら出てもいいですよ」
鼻の先にいぼのある身なりのいい男がいった。
「参加するとしたら食べさせてもらわないと」
みんなはまたどっと笑った。
「なんだかんだいって、この中では私が一番無欲な人間ですな」
最初の男がいった。
「私は黒の手袋をはめませんし、食事もふるまってもらいません。でも、
誰か行くんなら私も行きますよ。考えてみれば、彼とは親友でなかったと
いいきる自信はないんでね。会えばいつでも立ち話をしたもんです。では
みなさん、これで失礼」
話している者も聞いている者もいつの間にか立ち去り、別の集まりに混ざ
っていった。スクルージは今の男たちを知っていた。どういうことなのか
と幽霊の方を見た。
幽霊はすうっと通りに出た。その指は立ち話をしている二人の男をさして
いた。スクルージはさっきのことはどういうことか分かるかもしれないと、
また耳をすました。
彼はこの二人の男もよく知っていた。実業家であり、大金持ちで、有力者
だった。常日頃この二人によく思われるように心がけていた。商売上とい
うことだが。ただそれだけのことだったのだが。
「やあ、これはこれは」
一方の男がいった。
「やあ、どうもどうも」
もう一方の男が応えた。
「そうそう」最初の男がいった。
「いやあ、あのおいぼれの悪魔、とうとうくたばったんだって」
「ええ、聞きましたよ」もう一方の男がいった。
「寒いですな」
「クリスマスですからね。そうそう、スケートはおやりにならないんでしたね」
「ええしません。他にすることがあるんでね。ではさようなら」
それ以上の言葉は交わされなかった。そのようにして、二人は出会い、会話を交わし、別れた。
スクルージは最初、幽霊はどうしてこんなささいな会話を重視しているの
か不思議だったが、そこには隠された目的があるにちがいないと、どうい
うことか考えてみることにした。共同経営者のジェイコブ・マーレーの死
と何か関係があるとは思えなかった。あれは過去のことで、目の前にいる
のは「未来の幽霊」だからだ。かといって、自分と直接関係があり、あて
はまる者も思いつかなかった。
誰のことを話しているにせよ、そこには自分が改心するための目に見えな
い教訓があるに違いないと、スクルージは、見たり聞いたりしたことはす
べて大切に覚えておこうと決めた。特に自分の影が現れた時には、よく見
ておこうと思った。というのは、自分の未来の行いは、今までの自分には
何が足りかなったのか、その手がかりを与えてくれるだろうし、今の会話
が何を意味するのか容易に解いてくれるだろうと思ったからだ。
スクルージは、その場に自分の姿を求めて見回したが、いつもの場所には別の男が立っていた。時計は彼がそこにいるいつもの時間を示していたが、入口から流れ込む人の中には自分の姿はなかった。だが、彼はあまり驚かなかった。なぜなら、スクルージは人生を変えようと心の中で考えていたし、新しく芽生えた決意が行われているのを見ているのだと思ったし、そう望んでいたからだ。
音も立てず、闇のように、片方の手を差し出したまま、幽霊はスクルージ
のそばに立っていた。スクルージは思索にふけっていたが、我に返ると、
幽霊の手の格好や、自分に対する位置から、見えざる目が自分を鋭く見て
いるような気がした。スクルージはぞっとした。ひどい寒気だった。
スクルージと幽霊はにぎやかなその場を離れ、人目につかない街の一角に
入っていった。スクルージはその場所や、そこの悪い評判を知ってはいた
が、一度も足を踏み入れたことはなかった。道は不潔で狭く、商店や家々
はみすぼらしかった。人々は半裸で、酔っぱらっていて、だらしなく、醜
悪だった。小路や、アーチのかけられた屋根付き通路からは、汚水だめの
ように、悪臭や汚れや生き物など、やっかいなものが、入り組んだ通りに
吐き出されていた。その一角全体が、犯罪や汚れや苦痛にまみれていた。
いまわしいこの巣窟の奥には、屋根の差し出た、入り口の低い、突き出た
店があった。そこは、鉄器具、古いぼろ布、ビン、骨、脂の多い臓物など
を買い入れていた。店の中の床の上には、錆びたカギ、釘、鎖、蝶番、ヤ
スリ、天秤、分銅、あらゆる種類のくず鉄が山のように積まれていた。見
苦しいぼろ布、腐った脂肪の塊、骨の塚には、誰も詮索したくないような
秘密が秘められ、隠されていた。古レンガで作られた木炭ストーブのそば
で、商っている商品に囲まれて座っているのは、七十近い白髪のやくざ者
だった。彼は外の寒さを防ぐために、さまざまなぼろ布をひもに掛けて、
汚らしいカーテンを作っていた。静かな老後のあらゆるぜいたくの中で、
彼はパイプをふかしていたのだ。
スクルージと幽霊がこの男の前に立ったちょうどその時、重い包みを抱え
た女が店の中にこっそり入ってきた。この女が入るか入らないかのうちに、
同じように重い包みを持った女が入ってきた。そのすぐ後に、色あせた黒
い服を着た男が入ってきた。二人の女は顔を見合わせてびっくりしていた
が、この男が二人の女を見た時の驚きもそれに劣らなかった。三人はしば
らくぽかんとしていたが、パイプをくわえた老人もだが、それからどっと笑
った。
「ほっといても掃除女が一番に来るんだよ」
最初に入った女が大声を出した。
「次が洗濯女で、その次が葬儀屋なんだよ。いいかいジョー爺さん、これ
がめぐり合わせだよ。ただで三人がこうして出くわしたんじゃないんだよ」
「三人が出会うのにこれ以上の場所はあるまい」ジョー爺さんは、パイプを離しながらいった。
「中へ入りな。お前さんは昔からそうしてるんだし。あとの二人も知らない仲じゃないしな。ちょっと待ってな、店の戸を閉めるから。ええい、この戸はやけにきしるな。こんなにさびついた金物は、ここにはこのちょうつがいだけだ。こんなおいぼれも、ここにはこのわしだけだがな。うわっはっはっはっ。みんな、ぴったりの仕事をしてる、似たもの同士というわけだ。さあさあ、居間へ入りな」
居間というのは、ぼろ布のカーテンの裏だった。老人は階段の敷物押さえ
の古びた金属棒で火をかき集め、パイプの柄でくすぶっているランプの芯
を整え(夜だったのだ)、パイプをまたくわえた。
彼がそうしているあいだ、今しがた口を開いた女は、包みを床に放り投げ、
これ見よがしに丸椅子に座り、両肘を膝の上で組むと、あとの二人をじろ
じろ眺めた。
「いったいどうしたってんだい。かまやしないだろ、ディルバーのおかみ
さん」
女はいった。
「誰でも自分第一に考えるのは当然だろ。あの男はいつもそうだったよ」
「ほんとにそうだね」洗濯女がいった。
「あんな男、他にはいないだろうよ」
「だったら、おどおどした顔して突っ立ってんじゃないよ。みんなおんな
じさ。誰もひと様のあら探しをしようなんて思っちゃいないよ」
「もちろんだよ」ディルバーのおかみさんとその場にいた男は口をそろえ
ていった。
「そんなこと思っちゃいないさ」
「だったらいいじゃないか」女は声をあらげた。
「それで十分だろ。こんなもののひとつふたつなくなったって、誰が困る
っていうのさ。死んだ人間は困らないだろ」
「もちろんだとも」ディルバーのおかみさんは、笑いながらいった。
「死んだ後も持っておきたかったんなら、あのごうつくばりのどけち」女
は続けた。
「なんだって生きている時にまともな暮らし方をしなかったんだい。そう
していたら、死神にやられた時だって、面倒見てくれる人がいただろうに。
あんなふうにひとりぽっちでくたばらずにすんだのさ」
「本当にその通りだよ」ディルバーのおかみさんはいった。
「罰が当たったんだよ」
「もう少し重い罰でもよかったんだよ」女はいった。
「私が罰を選べるんだったらそうなってたよ。間違いないよ。包みを開け
ておくれ、ジョー爺さん。いくらになるか教えて欲しいんだ。はっきりい
っておくれよ。一番先だってかまやしないし、この人たちに見られたって
かまやしないよ。ここで出会う前から、好き勝手に取ってたってことはお
互いよく承知してんだからね。罪なもんか。包みを開けておくれよ、ジョ
ー爺さん」
だが、他の二人はなんとしてもそうはさせまいとした。色あせた黒色の服
を着た男は、我先に自分が盗んできた物を取り出した。品物はそう多くは
なかった。印鑑が一つ二つ、鉛筆箱ひとつ、カフスボタン一組、大した値
打ちのないブローチ。それで全てだった。ジョー爺さんは、それらをよく
よく調べ、値踏みし、払ってもいいと思う金額をチョークで壁に書き、も
うこれだけだと分かると、合計を出した。
「これがお前さんのとり分だ」
ジョーはいった。
「釜ゆでにされたって、これ以上はびた一文出さないからな。さて、お次は誰だ」
次はディルバーのおかみさんの番だった。シーツとタオル、わずかの衣類、古臭い銀のスプーンが2本、角砂糖つかみ、ブーツ数足。これらの金額も、同じように壁に書きつけられた。
「女性にはいつも払いすぎるんだ。これがオレの欠点だな。だから身を滅ぼしたんだが」
ジョー爺さんはいった。
「これがお前さんのとり分だ。もう1ペニーよこせとか、もっともらえるなんて思ってたら、気前よくしようなんてやめて、半クラウンさっ引くからな」
「さあ、今度は私の包みをといておくれ、ジョー」最初の女がいった。
ジョーは包みを開けやすいようにと両ひざをついた。いくつもの大きな結び目を解くと、大きくて重い巻いてある黒いものを引っ張り出した。
「こりゃなんだ」ジョーはいった。
「ベッドカーテンじゃないか」
「ああ」腕を組み、前屈みになって笑いながら女は応えた。
「ベッドカーテンさ」
「あの男が横たわってるところを、カーテンとか、輪っかとか、全部ひっぺがしたってえんじゃないだろうな」ジョーはいった。
「そうだよ、ひっぺがしたのさ」女は応えた。
「それがどうしたんだい」
「お前さんは財産を作るように生まれついているんだな」ジョーはいった。
「そのうちきっとひと財産つくるだろうよ」
「手を伸ばせば自分のものになるんだ、あんな男のために、引っ込める気はないね。そうだろ、ジョー爺さん」
女は落ち着き払って応えた。
「ちょっと、毛布の上に油を落とさないでおくれよ」
「あの男の毛布か」ジョーは訊ねた。
「他の誰のもんだってんだい」女は応えた。
「あの男は毛布がなくたって、風邪なんてひきっこないよ。そうだろ」
「伝染病かなんかで死んだんじゃなきゃいいがな、ええ?」ジョー爺さん
は、手をとめて見上げながらそういった。
「心配ないよ」女は応えた。
「伝染病で死んだんだったら、そんなもんのためにあの男のところをうろつ
いて、いっしょにいたいとは思わないよ。ああ、そのシャツなら、目が痛
くなるくらいよく見ておくれ。でも、穴とか擦り切れたところとか、見つ
かりゃしないよ。あの男の持ち物の中では最上のものだよ。品質も抜群さ。
わたしがいなかったら無駄にしちまうところだったね」
「無駄にしちまう?」ジョーはいった。
「それを着せて埋めることががだよ」女は笑いながら応えた。
「どっかの馬鹿が着せたんだね。だからわたしが脱がせたのさ。着せて埋めるんだからね、キャラコがだめっていうんなら、キャラコには何の使い道もないよ。死体にはキャラコはよく似合うんだ。そのシャツよりみっともないわけないだろ」
スクルージはぞっとしながら話を聞いていた。彼らは老人のランプの薄明
かりの中、盗品を囲んで座っていた。スクルージは、激しい嫌悪感をもっ
て彼らを見た。これらの人々が、死体をやりとりする悪霊だとしても、こ
れ以上の激しい嫌悪感は抱かなかっただろう。
ジョー爺さんが、お金の入ったフランネルのバッグを取り出し、それぞれ
の報酬を床の上に数え上げると、さっきの女は「ははは」と笑った。
「最後はこうなっちゃうんだねえ。生きている時は、恐がらせて、誰ひと
り寄せ付けなかったけど、あの男は、死んだ時にはあたしらを儲けさせて
くれたよ。あははは」
「幽霊さま」スクルージはいった。全身がぶるぶる震えていた。
「よく分かりました。この不幸な男に起こったことが、私にも起きたかも
しれないのですね。私の人生は、今のところ、その方向に向かってるし。
おや、これは何だ」
スクルージは、ぎょっとして後ずさりした。場面は変わっていた。彼はベ
ッドに触れるか触れないかの所にいた。むき出しで、カーテンのないベッ
ドだった。その上には、ぼろぼろのシートの下、何か包まれているものが
横たわっていた。それは、何も語らずとも、それ自体が恐ろしい事実を物
語っていた。
その部屋はとても暗かった。スクルージは、どんな部屋か知りたかったの
で、衝動にかられ見回したが、あまりにも暗かったのではっきりと見えな
かった。空に上った蒼白い光が、直接ベッドに落ちた。そこには、剥ぎと
られ、奪われ、見つめる者も、泣く者も、世話をする者もいない、この男
の死体があった。
スクルージは幽霊の方を見た。幽霊の確固とした手は、頭部を指していた。
覆いはぞんざいにかけられていたので、スクルージが指を動かし、ほんの
少し持ち上げさえすれば、顔があらわになっただろう。スクルージはそう
しようと思った。たやすくできる気がしたし、そうしたかった。だが、傍
らにいる幽霊を追い払う力がないように、覆いを取り除く力はなかった。
おお、冷徹なおぞましい死よ、汝の祭壇をここに設け、汝の意のままなる
恐怖で飾れ。ここは汝の領土なのだ。だが、敬愛され、誉れ高き者に対し
ては、髪の毛一本も汝の思いのままにはならないだろう。顔つきひとつ醜
くすることはできないだろう。その手が重く、離せばぐったりするからで
はない。その心臓や鼓動が止まっているからではない。かつてその手が、
誰にも開かれ、寛大で誠実だったからだ。心は温かく、勇気や優しさにあ
ふれていたからだ。その鼓動が、人の鼓動だったからだ。打ってみるがい
い、死の影よ。善行が傷口から吹き出し、世界が不死の生命で種播かれる
のが分かるだろう。
声がして、これらの言葉がスクルージの耳に届いたのではないが、スクル
ージは、ベッドの上を見た時に、これらの言葉を聞いたのだ。今この男が
起きあがったら真っ先に何を考えるだろうか、スクルージは考えた。おも
むくままの欲望か、厳しい取引のことか、身を苛む気苦労か。実際、それ
らが彼をまぎれもなく死に追いやったのだ。
彼は暗く、何もない家の中に横たわっていた。あの人はこんな時やあんな
時には私に親切でしたとか、親切な言葉をかけてくれたことがあるんで、
私も親切にしようと思っているんです、などというような男も、女も、子
供もいなかった。ネコが戸口をひっかいていた。炉石の下では、ネズミが
がりがり音を立てていた。死の部屋で何を望んでいるのだ。なぜああもひ
っきりなしに、騒々しいのだ。スクルージは考えまいとした。
「幽霊さま」スクルージはいった。
「ここはぞっとする場所ですね。ここを去っても、教訓は忘れません。信
じて下さい。さあ、行きましょう」
幽霊はそれでも指で頭部をじっとさし示していた。
「わかっています」スクルージはいった。
「できるのならします。でも、私にはその力がないのです。ないのです、
幽霊さま」
幽霊は再びスクルージを見ているようだった。
「この町に、この男の死を悼む人がいるなら」スクルージはあえぎながら
いった。
「お願いです、幽霊さま、その人が誰か教えて下さい」
幽霊はスクルージの前で、黒衣を翼のようにさっと広げた。黒衣が引き下ろされると、昼の光に照らされた部屋が現れた。そこには母親とその子供たちがいた。
母親は誰かを待っていた。いてもたってもいられない様子だった。彼女は部屋の中を行ったり来たりしていた。もの音がするたびに、びくっとして窓から外を見たり、時計に目をやったりした。針仕事をしようとしたが、手につかなかった。遊んでいる子供たちの声に我慢できなかった。
やっと、待ちに待ったノックの音が聞こえた。彼女はドアに走り、夫を迎
えた。夫は若かったが、心労でやつれた、暗い顔をしていた。この時、そ
の顔にはいつにない表情があった。なにか大きな喜びだった。だが、彼は
それを恥ずかしく思い、一生懸命抑えていた。
彼は暖炉のそばに用意されていた夕食の席についた。彼女は夫に(長い沈
黙の後でだが)かすれた声で、どうでしたと聞いた。彼はどう答えていい
か戸惑っているようだった。
「いいの?」彼女はいった。
「それとも悪いの?」
夫が話しやすくするためだった。
「悪いんだ」夫は答えた。
「じゃ破産するのね」
「いや、まだ望みはあるんだ、キャロライン」
「もしあの人が態度を和らげてくれたら」
いいながら、その言葉は彼女にも驚きだった。
「まだ望みはありますわ。そんな奇跡が起きるんだったら、望みのないこ
となんて何もないんですから」
「あの人は態度を和らげないよ」夫はいった。
「死んだんだから」
彼女がその顔通りの人間なら、おだやかで我慢つよい女性だろう。だが、
彼女はそれを聞いた時、心の中でありがたいと思い、両手を固く握りしめ
たまま、そう口に出した。すぐに神に許しを請い、気の毒に思ったが、最
初に抱いた感情が、偽らざる気持ちだったのだ。
「昨夜話しただろ、ほろ酔いの女のことを。一週間延ばしてもらおうとあの人に会いに行った時だけど、あの女がいってたことは、ぼくを避けるための口実だと思ってたけど、本当だったんだな。病気でも、あの時は、死ぬまぎわだったんだ」
「私たちの借金は誰が引き継ぐのかしら」
「さあ。でも、それまでにはお金の工面がつくさ。つかなくても、よっぽど運が悪くない限り、引き継いだ人が、あれほど無慈悲ってことはないよ。今夜は安らかに眠れるよ、キャロライン」
その通りだった。慎まなければと思っても、二人の気持ちは軽やかになる一方だった。何のことか分からないまま、じっとその場で聞いていた子供たちの顔も、晴れやかになっていった。この男が死んだことで、この家族は幸福になったのだ。男が死んだことでもたらされた、幽霊がスクルージに見せることができた唯一の感情が、喜びだったのだ。
「死に関わる優しい気持ちを見せて下さい」スクルージはいった。
「でなければ、あの暗い部屋が、さっきまでいたあの部屋が、いつまでも私にまとわりつきそうです、幽霊さま」
幽霊はスクルージを、いろいろな通りに連れていった。スクルージには歩きなれたところだった。幽霊と歩きながら、スクルージは、自分を見つけようと、あちこち見たが、どこにもいなかった。二人は、貧しいボブ・クラチットの家に入った。スクルージは以前、その家に行ったことがあった。母親と子供たちは暖炉の回りに座っていた。
静かだった。もの音ひとつしなかった。騒々しいクラチットのおちびさんたちも、彫像のように部屋の隅でじっと座って、本を前にしたピーターを見ていた。母親と娘たちは、縫い物をしていた。黙々としていた。
「そして、ひとりの幼な子を取り上げて、彼らの真ん中に立たせ…」
スクルージはこの言葉をどこで聞いたのだろうか。夢に見たのではない。
スクルージと幽霊が敷居をまたいだ時、ピーターが声を出して読んでいた
のに違いない。ピーターはなぜ読むのをやめたのだろう。
母親は縫い物をテーブルの上に置き、手を顔にあてた。
「目が疲れるわ、この色」彼女はいった。
この色とは。ああ、かわいそうなおちびさんのティム。
「目が少しよくなったわ」クラチット夫人はいった。
「ろうそくの明かりだと、目が疲れるのよ、この色は。お父さんが帰って
きた時、疲れた目なんか絶対見せたくないからね。そろそろ帰ってくるは
ずよ」
「ちょっと遅いかもね」ピーターは、本を閉じながらいった。
「お父さんは、ここんとこ、いつもよりゆっくり歩いてるんじゃないかな、お母さん」
みんなは、また黙ってしまった。沈黙をやぶって、母親は、一度は口ごもりながらも、しっかりした快活な声でいった。
「お父さんが歩いているのを、おちびさんのティムを肩車にして歩いているのを、見たことがあるわ。とても早く歩いてたわねえ」
「ぼくも見たことがある」ピーターは大きな声でいった。
「何度もだ」
「ぼくもだ!」他の誰かが叫んだ。
誰もが知っていることだった。
「でもティムは、軽かったからねえ」
母親が、せっせと編み物をしながら、また口をひらいた。
「お父さんはティムをとてもかわいがってたから、肩車をしても、ちっとも苦にならなかったのよ。そうよねえ。ほら、お父さんが帰ってきた」
クラチット夫人は、急いでボブを迎えに出た。小柄なボブは、毛糸の襟巻を巻いていた。かわいそうに、ボブには、毛糸の襟巻、慰めるもの、が必要だった。ボブは中に入った。お茶が暖炉の棚に用意されていた。ボブにお茶をいれようと、みんなで争った。二人のおちびさんは、ボブの膝に乗り、小さな頬をボブの頬にすりよせた。「気にしないで、お父さん。悲しまないで」とでもいうように。
ボブはみんなの中で、とても快活だったし、家族のみんなに楽しそうに話
しかけた。テーブルの上の編み物を見て、クラチット夫人や娘たちの、熱
心で手早い仕事ぶりをほめ、日曜日よりずっと前に出来上がるねといった。
「日曜日?じゃ、今日、行ってきたの、ロバート」クラチット夫人はいっ
た。
「ああ、そうだよ」ボブは答えた。
「きみも来ればよかったのに。緑一面のあの場所を見れば、きみの心も晴
れ晴れしたんじゃないかな。でも、これから何度でも見られるからね。テ
ィムに約束したんだ、日曜にはここに歩いてくるって。私のかわいい、と
てもかわいいティム」
ボブはいった。
「私のかわいいティム」
ボブは突然泣き崩れた。どうすることもできなかった。どうにかすること
ができたなら、ボブとティムの間は、今より、もっとへだたっていたとい
うことになるだろう。
ボブは部屋を出て、二階へ上がって行った。そこは灯が明るくともり、ク
リスマスの飾りがかかっていた。その子供のそばには椅子が置かれていた。
最近まで誰かがそこにいたようだった。悲しみに沈んでいたボブは、その
椅子に腰を下ろした。少し考え、気を落ちつけると、子供の小さな頬にキ
スをした。過ぎてしまったことに折り合いをつけ、彼は晴れ晴れした気持
ちで下に下りていった。
みんなは暖炉の回りに集まり、話をした。母親と娘たちは、針仕事を続け
た。ボブはみんなに、スクルージさんの甥が、どんなに親切な人かを話し
た。「一度くらいしか会ったことがないのに、今日通りで出会った時、ぼ
くが落ち込んでいるの見て、いやあ、ちょっと落ち込んでいたからね、あ
の人はぼくに、どうして落ち込んでいるのか聞いてくれたんだ」ボブはい
った。「だから、あの人がとても感じのいい話し方をするもんで、事情を
話したんだ。すると『クラチットさん、心からお悔やみ申し上げます。あ
なたのやさしい奥さんにも、心からお悔やみ申し上げます』っていわれて
ね。でも、どうして知ってたんだろう。分からないな」ボブはいった。
「知ってたって、何をですの?」
「うん、おまえがいい奥さんだってことだよ」ボブは答えた。
「そんなこと、誰でも知ってるよ」ピーターはいった。
「その通りだ、ピーター」ボブは叫んだ。
「お母さんはいい奥さんだって、みんな知ってるね。あの人はいったんだ
『心からお悔やみ申し上げます。あなたの優しい奥さんにも。何か私にで
きることがあれば』って、私に名刺をくれたんだ。『ここが私の住んでい
る所です。ぜひおいで下さい』ってね。嬉しかったのは」ボブはいった。
「あの人のやさしさで、あの人が私たちのために何かをしてくれるかもし
れないってことじゃないんだ。まるでおちびさんのティムを実際に知って
いて、私たちといっしょに悲しんでくれているようだったよ」
「本当にいい方なんですね」クラチット夫人はいった。
「その通りだ、ピーター」ボブは叫んだ。
「お母さんはいい奥さんだって、みんな知ってるね。あの人はいったんだ
『心からお悔やみ申し上げます。あなたの優しい奥さんにも。何か私にで
きることがあれば』って、私に名刺をくれたんだ。『ここが私の住んでい
る所です。ぜひおいで下さい』ってね。嬉しかったのは」ボブはいった。
「あの人のやさしさで、あの人が私たちのために何かをしてくれるかもし
れないってことじゃないんだ。まるでおちびさんのティムを実際に知って
いて、私たちといっしょに悲しんでくれているようだったよ」
「本当にいい方なんですね」クラチット夫人はいった。
「あの人に会って話をしてみると、きっとそう思うよ」ボブはいった。
「もしあの人が、ピーターにいい仕事を見つけてくれても、いいかい、ち
っとも驚かないよ」
「聞くだけにしておくんだよ、ピーター」クラチット夫人はいった。
「だったら」妹の誰かがいった。
「ピーターは誰かといっしょになって、ひとり立ちするのね」
「ほっといてくれよ」ピーターはにやにやしながら言い返した。
「それもあり得るな」ボブはいった。
「いつかはね。でも、まだ先の話だな。みんなとは、いつ、どういう形で
別れるにしても、あのおちびさんのティムを忘れる者はいないと思ってる
よ。そうだろ?あれが、我が家で起きた最初の別れだ」
「忘れるもんですか、お父さん」みんなは叫んだ。
「それに」ボブはいった。
「あんなに小さな子供なのに、どんなに我慢強く、どんなにやさしかった
か、それを思い出したら、いいかい、お互い喧嘩しようとは思わなくなる
だろ。喧嘩するのは、ティムを忘れてるってことなんだから」
「喧嘩なんて絶対しないよ、お父さん」みんなは、また口をそろえて叫ん
だ。
「とてもうれしいよ」身体の小さいボブはいった。
「とてもうれしいよ」
クラチット夫人はボブにキスをした。娘たちもボブにキスをした。二人の
幼い子供たちもボブにキスをした。ピーターとは握手をした。ティムの幼
い魂、子供らしさは、神から授かったのだ。
「幽霊さま」スクルージはいった。
「どうやらお別れが近づいているような気がします。別れるのは分かって
いますが、どのように別れるのかは分かりません。死んで横たわっていた
あの男は、どのような人間なのか教え下さい」
未来のクリスマスの幽霊は、スクルージを以前と同じように連れていった。前とは時が違う、とスクルージは思った。幻には、未来の幻という以外、時間的つながりはない気がした。着いたところは、ビジネスマンのたまり場だったが、スクルージ自身の幻はそこにはなかった。幽霊は何があろうと立ち止まらず、頼まれたところを目指して、どんどん先に進んだ。スクルージは、待って下さいと嘆願した。
「この路地は」スクルージはいった。
「私たちが急いでいるここは、私が仕事をしている所です。長く仕事をしています。事務所の建物が見える。私が将来どうなるのか、見せて下さい」
幽霊は立ち止まった。その手は別な方を指していた。
「建物はあちらです」スクルージは叫んだ。
「なぜそんな方を指すのですか」
幽霊の指は微動だにしなかった。
スクルージは自分の事務所の窓に駆け寄り、中を見た。そこは依然事務所
として使われていたが、彼の事務所ではなかった。家具は違っていたし、
椅子に座っているのは別の人だった。幽霊は相変わらず同じ方向を指して
いた。
スクルージは幽霊のところに戻り、自分がなぜそこにいないのか、どこに
いったのか疑問に思いながら、幽霊についていった。幽霊とスクルージは
鉄の門のところにやってきた。スクルージは入る前に立ち止まってあたり
を見回した。
教会の墓地だった。ここに、これからスクルージが名前を教えてもらう哀
れな男が、地面の下に横たわっているのだった。結構な所だった。家々の
塀に囲まれ、草や雑草がはびこっていた。植物の生命が成長したのではな
く、死が成長しての草であり、雑草だった。埋葬が多すぎて、息がつまり
そうな場所、満腹でまるまる太った場所だった。結構な所だった。
幽霊は墓地の中に立ち、ひとつの墓を指していた。スクルージは震えなが
らその墓に近づいていった。幽霊はこれまでと少しも変わらなかったが、
その厳かな姿に新たな意味を感じ、スクルージはぞっとした。
「あなたが指しているその墓石に近づく前に」スクルージはいった。
「ひとつだけ聞きたいことがあります。これらのことは、将来そうなるという幻なのでしょうか、それとも、そうなるかもしれないというだけのものなのでしょうか」
幽霊は相変わらず傍らの墓の方を指していた。
「人の歩む道は、それずに邁進すれば、決まった所へと行き着きます」
スクルージはいった。
「でも、それれば、行き着く所も変わってきます。あなたが見せてくれたものも、そうだといってください」
幽霊は相変わらず動かなかった。
スクルージは震えながら墓石の方へゆっくりと近づいて行った。指が示す方を見ると、打ち捨てられた墓石には、自分の名前、エベニーザ・スクルージと書かれていた。
「ベッドに横たわっていたあの男は、私なのでしょうか」
スクルージは、両膝をついて叫んだ。
幽霊の指は墓石からスクルージへと動き、また墓石を指した。
「いやだ、いやだ、幽霊さま、いやでございます」
「幽霊の指は動かなかった」
「幽霊さま」スクルージは幽霊の衣をしっかりと握りながら叫んだ。
「お聞き下さい。私は以前の私とは違います。このように接してくださらなければ、なるべき人間にはならなかったでしょう。もし、希望が少しもないのなら、どうしてこのようなものを私にお見せになるのですか」
はじめて幽霊の手が震えているように見えた。
「善良な幽霊さま」スクルージは、幽霊の前にひれ伏して言葉を続けた。
「あなたは本心から私のためにとりなし、私を憐れんでくださっています。
あなたが見せてくださった幻は、違う生き方をすることで、まだ変えられ
るとはっきりおっしゃってください」
親切な手は震えていた。
「私は心からクリスマスを祝い、一年中その気持ちを持ち続けます。過去、
現在、未来の幽霊と共に生きるつもりです。三人の幽霊は、私を励まして
くれることでしょう。教えてくださった教訓を忘れるようなことはしませ
ん。お願いです、この墓石に書かれている文字は消すことができるとおっ
しゃってください」
スクルージは苦しみのあまり、幽霊の手をつかんだ。幽霊は振り放そうとしたが、スクルージの願いは強く、放されまいとした。だが、幽霊の方が強かった。幽霊はスクルージを突き放した。
運命を変えてもらおうと、最後の祈りとして両手をあげた時、スクルージには幽霊の頭巾と衣が変化するのが見えた。幽霊は縮み、つぶれ、だんだんと小さくなって寝台柱になった。
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