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アンサンブル・アメデオ 第20回定期演奏会
パンフレットより

Ensemble Amedeo The 20th Regular Concert
〜 Happy Anniversary! 〜
2004年1月24日(土)17時30分開演
於:文京シビックホール 大ホール
 


曲目解説
| イタリア奇想曲 | ピアノ協奏曲第二番 | 「展覧会の絵」 |

第1部

イタリア奇想曲ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
(1840 〜 1893)

 1878 年の暮れにモスクワ音楽院教授を辞め、ある程度時間のできたチャイコフスキーは、各地に旅行するようにもなりました。この曲は、1879 年の暮れに弟モデストとともにベルリン・パリを経てローマに旅した時に、イタリアの印象をスケッチしたものです。

 曲は、奇想曲の名のとおり、特定の形式に拘束されない自由なもので、チャイコフスキーがローマで知ったイタリアの旋律のいくつかを巧みに配列しています。導入部はローマの滞在中、ホテルの前庭のイタリア騎兵隊の宿舎から毎日聞こえてきたというファンファーレです。途中、管楽器で奏される8分の6拍子の明るいメロディーは、イタリア民謡「美しい娘」に基づいています。そして曲はタンバリンの奏するタランテラのリズムで、明るく、高らかに、力強く終わります。

 暗く、重々しい作品が多いチャイコフスキーの曲の中で、最も明るく、楽しい雰囲気を持った曲といえるでしょう。

◇作曲者について

チャイコフスキー ロシアの生んだ名高い作曲家で、ロシアのベートーヴェンともいわれています。

幼少の頃から音楽の才能はあったのですが、最初は法律学校に入学し、音楽はアマチュアとして勉強していました。1861年に正式に音楽学校に入学して作曲を学び、音楽家の道を歩み始めました。

彼はロシアの国民性にドイツやフランスの洗練されたスタイルを加え、独特の地位を築きました。数々の名曲を作りましたが、特に名高いものは、交響曲「第4」「第5」「第6(悲愴)」、序曲「1812 年」、「スラブ行進曲」、「弦楽セレナード」、「アンダンテ・カンタービレ」、バイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲、バレエ音楽「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」などで、どれも美しく人の心を動かすものばかりです。

モスクワ音楽院の先生をしたり、スイス、イタリア、アメリカなど欧米各国を、自作を指揮して演奏旅行をするなど、目ざましい活躍を続けました。ところが、1893 年11 月6日生水を飲んだのが原因でコレラにかかり、この世を去りました。

ピアノ協奏曲第二番セルゲイ・ヴァシリェーヴィチ・ラフマニノフ
(1873 〜 1943)

 ラフマニノフという作曲家にとって、このピアノ協奏曲第二番は、人生の転機となった曲といえるでしょう。それは、作曲家として一度挫折を味わったラフマニノフが、復活を果たすきっかけとなった曲だからです。

 若くして才能を発揮し、チャイコフスキーにも才能を認められたラフマニノフは1892 年19 歳の時に有名な「前奏曲嬰ハ短調」を作曲し、すでに教壇に立ち、演奏活動も行うようになっていました。1895 年には野心作「交響曲ニ短調」を作曲しましたが、これはまるっきりの失敗作でした。初演は大不評で、批評家からは酷評され、新聞には「地獄に音楽院があったなら、ラフマニノフは優等生だ」といった批評まで書かれてしまいます。この失敗によって、繊細なラフマニノフは作曲に対し極度の自信喪失におちいってしまったのです。

 作曲をやめ、演奏活動に打ちこもう、と考えていたラフマニノフは、ロンドンのフィルハーモニック協会に招かれ、ピアニストとして大成功を収めました。その上、協会からは新しいピアノ協奏曲の作曲も依頼されたのです。ところが、かつての心理的打撃は重くのしかかり、その作曲は遅々として進みませんでした。

 この不幸な状況から彼を救ったのは、精神科医のニコライ・ダール博士です。彼は自分でもチェロを演奏する音楽愛好家で、ラフマニノフの才能をなんとか救いたいと考え、暗示療法を試みたのです。3ヶ月にわたる治療の末、ラフマニノフは回復し、作曲にとりかかることができるようになりました。

 1901 年、完成した曲は自身のピアノとシロティの指揮で初演が行われました。その結果はダール博士の暗示「君は協奏曲の作曲を始める。そしてその協奏曲は傑作になる」との言葉通り、大成功をおさめ、作曲家としてのラフマニノフの名前は一躍世界に知られるようになったのです。
各楽章の解説

第一楽章:モデラート、ハ短調、2分の2拍子。重々しい鐘の音を模したようなピアノの和音による導入ではじまります。続 いてオーケストラで示される第一主題は「情熱をもって」と示される暗い情熱に満ちた旋律です。第二主題はピ アノが単独でより甘美でニュアンスに富んだ旋律を奏でます。この2つの主題をもとにソナタ形式で作曲されて います。この曲で特徴的なことは、第一主題の提示、第二主題の提示、展開部など、各部分がそれぞれクライマッ クスの強奏によって結ばれ、推移が大変分かりやすくできていることです。
第二楽章:アダージョ・ソステヌート、ホ長調、4分の4拍子。3部形式をとる抒情的緩徐楽章。弦と管楽器による序奏の のち、アルペジオを奏でるピアノの上に管楽器が甘美な主題旋律を演奏します。
第三楽章:アレグロ・スケルツァンド、ハ長調、2分の2拍子。力強いスケルツォ風の主題と情緒に満ちた優美な主題とい う鋭い対比をなす二つが交互に現われながら進行する一種のロンド・ソナタ形式と言えるでしょう。特に後者の 美しさは格別で、アメリカではこれに歌詞をつけてポピュラー音楽として歌われたほどです。

◇作曲者について

ラフマニノフ  ロシアを代表する作曲家・ピアニストであったラフマニノフは、1873年セミョノフの生まれ。父は近衛隊将校という由緒ある貴族の家柄で、4〜5歳の頃から母や祖父からピアノの手ほどきを受けました。ところが1882年、農奴開放政策の影響で一家が没落し家族はペテルブルグへ移住。これに伴ってペテルブルグ音楽院へ入学、やがてモスクワ音楽院へ進むことになった彼はピアノをズヴェーレフやジロティに、また対位法や和声などの作曲技法をタネーエフやアレンスキーに師事しています。

 音楽院在学中からピアノと作曲ですでに抜きん出た才能を発揮したラフマニノフは、最初の歌劇「アレコ」がモスクワのボリショイ劇場で上演されるなどいち早く頭角をあらわし、チャイコフスキーにも賞賛されるなど順調に作曲家としての道を歩むかに見えました。それからの交響曲第一番の失敗とピアノ協奏曲第二番の成功の経緯はご紹介した通りです。

 結婚や長女の誕生を経て安定した私生活を得た彼は「吝嗇な紳士」「フランチェスカ・ダ・リミニ」という二つの歌劇を完成させるとともに、その初演を含め1904 年から2シーズンの間、ボリショイ劇場の指揮者として活躍しました。このときの指揮者としての手腕は後世まで語り継がれるほどすぐれたものだったと伝えられてい ます。しかし、作曲に専念する必要性を感じたラフマニノフは06年イタリアを経由してドイツのドレスデンに移り住み、この地で交響曲第2番などを作曲することになりました。また1909 年には初めて演奏旅行でアメリカ合衆国を訪れ、ツアー中に完成させたピアノ協奏曲第3番を自ら独奏して初演を成功させています。その後もピアノ練習曲集「音の絵」や合唱曲「晩祷」なども生み出した彼でしたが、ロシア革命の勃発による混乱を避けて17 年、北欧を経由してアメリカへの亡命を敢行する運命をたどりました。ところが新大陸でのラフマニノフの名声はもっぱら演奏家として知られていたこともあり、彼に求められた活動はほとんどピアニストとしてのものに限られ、亡命後の作品数は次第に少なくなっていきます。

 そして1943 年、ラフマニノフは米国の市民権を獲得しますが、ソ連政府の招きに応じて帰国の準備を進めるうちに病に倒れ、結局は祖国の土を再び踏むことのないままカリフォルニア州ビヴァリーヒルズで生涯を閉じました。

「展覧会の絵」
モデスト・ペトロヴィッチ・ムソルグスキー
(1839 〜 1881)

ムソルグスキー  「展覧会の絵」という一風変わったタイトルを持つこの曲は、作曲者ムソルグスキー が実際に訪れた展覧会に発想を得て作られたものです。ただ、この展覧会は彼にとって 単なる展覧会ではありませんでした。無二の親友であるガルトマンの遺作展だったので す。

 ドイツ系ロシア人のデザイナー・画家であるヴィクトル・アレクサンドロヴィッチ・ ガルトマン(1834-73)とムソルグスキーの交友は、1870 年頃に始まったと言われて います。1860年代に交友が盛んだった「5人組*」の関係が徐々に希薄となってきたさ なか、良き支援者であった評論家スターソフの仲介で、二人は出会ったのです。ロシア の文化と歴史に深い関心を持っていたムソルグスキーは、同じくロシア的なモチーフを 作品にとりこもうとしていたガルトマンと意気投合しました。彼らは頻繁に会って音楽 や芸術を論じていたそうです。芸術によってロシアに貢献し、ロシア様式を創造・確立 することが彼らの共通の目標でした。

 ところがその交友は長続きしませんでした。1873 年7月、ガルトマンは動脈瘤のため急死したのです。これに際し、ム ソルグスキーはその死を悼む手紙の中で、最後に出会ったときのエピソードについて述べています。「散策中、ガルトマンは 突然息切れし立ち止まりました。しかし、私はその病状を気遣いもしなかったのです」と自責の念を語り、最後にはこう記 しました。「彼の死でロシア芸術は孤児となり、多くの試練にあう」と。

 ガルトマンも同じエピソードを手紙に綴っていました。短い文章ですが、そこには次のように記されています。「私が取り 乱してしまったのにもかかわらず、ムソルグスキーはとても親切にしてくれました。彼は私にとって、いつも神様のような 存在です」

 1874 年2月、スターソフらの奔走でガルトマン遺作展が開かれ、絵画と設計図など約400 点が展示されました。そこに 訪れたムソルグスキーの心の内には、強烈なインスピレーションが生まれました。それが、ピアノ曲「展覧会の絵」作曲の 原動力となったのです。

ガルトマン  作曲の最中、ムソルグスキーはスターソフに手紙を送っています。「僕は全力でガル トマンに取り組んでいる。音の響きとアイディアはまだ曖昧だ。僕はそれを飲みこみ、 まわりをかじり、かろうじて書きなぐる。早く思い通りに仕上げたい」と。実際、この 作品は1874 年6月の3週間という期間で書き上げられたのです。

 この曲はムソルグスキーの没後5年の1886年に出版されながら、長きに渡り注目さ れませんでした。原作者の死から約40 年後、ほぼ忘れられたこの作品をパリで復活さ せたのがオーケストレーションの魔術師、ラヴェルによる編曲です。

 もともと、原曲のピアノ曲の多彩な表現は、当時のピアノ音楽のイメージやこの楽器 の可能性を超えており、ムソルグスキーには管弦楽編曲の意図があったとも言われてい ます。その作品をもとにラヴェルは、管楽器と打楽器を効果的に使い、音色と強弱をダ イナミックに多様に変化させ、単純な表現から華麗な色彩効果をひきだしたのです。初 演は好調で、以後世界各地でこの曲が演奏されるようになりました。ラヴェル以降も、 ストコフスキーやアシュケナージなど多くの音楽人が編曲に挑戦しています。

 アメデオが今回演奏するのは、小穴雄一氏によるマンドリン合奏・管楽器・打楽器・ピアノのための編曲です。第10 回 演奏会のときの編成に管楽器はありませんでしたが、今回は加わり、より一層多彩で色彩豊かな表現ができるようになりま した。

* 5人組…ロシア国民楽派とも呼ばれ、19世紀後半のロシアでロシア音楽を志向した作曲家の集まりで、バラキレフ、キュ イ、ムソルグスキー、リムスキーコルサコフ、ボロディンがメンバーです。特にバラキレフが指導的役割を果た していました。

各曲の解説

 この曲は、プロムナードと呼ばれる間奏が、遺作展の出展作をモチーフにした10 曲をつなぐ構成です。ちょうど展覧会 に訪れた作曲者が、会場を歩きながら一つ一つの絵を見ていく様子を表しているようです。特にプロムナードの部分には、絵 から絵へと移動する間の作曲者の心境が色濃く表現されています。
 この作品に収録された10 曲のもととなった原画については、かねてから調査が行われてきました。最近では、NHK の番 組での調査が本にまとめられています。それによれば、明確に作品が特定できるものもありますが、複数の原画を一つの曲 にしたと考えられるもの、特定が難しいものなどがあり、今なお議論の種になっているようです。今回はNHKの調査に基づ いた原画を掲載しながら、各曲を紹介していきたいと思います。絵画を鑑賞し、作曲者の心境を想像しながら、曲を聞いて いただければ幸いです。

プロムナード

 散歩・遊歩という意味を持つ一種の間奏曲です。以降各曲の合間に挿入され、ムソルグスキー自身の心の内を巧みに表現 しています。4分の5拍子と4分の6拍子が繰り返されるロシア風の素朴で力強い主題を持ち、楽譜にも「ロシア風に」と の記載があります。あくまでロシア的な音楽を表現しようとするムソルグスキーの気持ちが現われているといえるでしょう。

グノーム グノーム

 グノームは、ロシアの伝説に登場するこびとで、地の底に住み、奇妙な格好 で動き回ります。ガルトマンはクリスマスツリーを飾るために寓話に登場する グノームのくるみ割り人形をデザインしました。地底で動き回るグノームの奇 怪な姿が曲でも表現されています。

古城

 イタリア語で書かれた題名や、スターソフのコメントから、イタリアの中世 の城の前で吟遊詩人が歌っている絵画だと推測されています。ところが、遺作 展にはフランスの城はありましたが、イタリアの城の絵は出展されていません でした。マンドラが演奏するひなびた旋律が、吟遊詩人の歌を表しています。

テュイルリー

 自筆楽譜には、「遊びのあとの子供たちのけんか」と記されています。テュ イルリーは、パリにある有名な公園の名前です。遺作展の作品カタログには テュイルリー公園を描いた作品があったとの記録がありますが、絵は紛失し てしまったようです。掲出の絵画はガルトマンがパリで子供を描いた絵です が、そこに公園は描かれていません。子供のけんかとそれをたしなめる親を 描いたかわいらしい小品です。

古城
テュイルリー

ビドロ
殻をつけた雛どりのバレエ
ビドロ

 ビドロは、ポーランド語で2つの意味が存在します。@家畜(牛)A(家畜の ように)虐げられた人々。スターソフによれば、この曲は牛車を表しているとの ことですが、そのような絵画は遺作展のカタログには残っていませんでした。曲 の重々しさ、ガルトマンがポーランドで描いた唯一の絵画(掲出の絵画「ポーラ ンドの反乱」)などに基づいて、抑圧されたポーランドの民衆を描いたものだ、 とする意見もあります。ムソルグスキーがスターソフに送った手紙の中では、ロ シア語の解釈によって、ビドロは牛車とも、そうでないともとれるように記され ており、この議論には今なお結論は出ていません。

殻をつけた雛どりのバレエ

 ヴァイオリンの名手ゲルベルはボリショイ劇場でバレエの指揮・作曲に活躍し ました。彼のバレエ「トリルビー」の衣装デザイン画として、この絵は描かれた のです。この衣装は「小さな子供たちがカナリヤになって叫び声をあげる」とい う場面で利用されました。曲はまさに雛どりの跳ね回るかのようなリズムを刻ん でいます。

サミュエル・ゴールデンベルグとシュミュイレ

 ガルトマンは金持ちで篤志家風のユダヤ人と貧乏でみすぼらしいユダヤ人、 二枚のスケッチをムソルグスキーに贈りました。ムソルグスキーはその2枚 の絵画をもとに一曲のドラマを作りだしたのです。最初に登場する重々しい 旋律が金持ちのゴールデンベルグ、続いて登場する小さくせわしない響きが 貧乏なシュミュイレを表しています。やがて二つの旋律は重なり合い、最後 にはゴールデンベルクがシュミュイレを圧倒して終わります。

サミュエル・ゴールデンベルグとシュミュイレ

リモージュの市場
バーバ・ヤガーの小屋

リモージュの市場

 リモージュは陶器産業で有名な中部フランスの街です。自筆楽譜に は「女たちがけんかをしている。はげしく激昂してつかみかからんば かりに」との描写があります。この原画は紛失してしまったとの説も ありますが、フランスで描かれた14枚のスケッチを該当とする説もあ ります。市場に集まる女性たちのせわしない会話を曲は描いています。

カタコンブ

 パリの地下墓地の絵にはガルトマン自身の姿も描かれています。自 筆楽譜には「亡くなったガルトマンの創造精神が私を頭蓋骨へと導い ている。やがて頭蓋骨は静かに輝きはじめる」との記載があり、それ に続くプロムナードには、「死者とともに死者の言葉で」との副題がつ けられています。ムソルグスキーがガルトマンに捧げたレクイエムと も言えるでしょう。

鶏の足の上に立つ小屋(バーバ・ヤガー)

 バーバ・ヤガーは、ロシアの子供たちにはおなじみの妖怪(魔女)で す。深い森の中で、人骨の柵に囲まれた鶏の足の上に立つ家に住み、ほ うきにのって空を飛びます。そして、道に迷った人間を自分の小屋に 連れこんで食べてしまうのです。ガルトマンはバーバ・ヤガーの小屋 を模した時計台のデッサンを残しました。バーバ・ヤガーのスピード 感あふれる行進とおどろおどろしい魔女の得体の知れない怖さを表す 中間部からなります。

カタコンブ

キエフの大門 ボガティル−キエフの大門

 ウクライナの首都キエフには、市街地の中央に一つの門が残されてい ます。「黄金の門」と呼ばれ、11 世紀にヤロスラブ大公によって作られ ました。ロシアに初めて統一王朝ができたとき、ヤロスラブ公が外敵を 退けたことを記念して作られました。ボガティルとは、ロシアの伝説的 英雄の名前です。
 ガルトマンが生きた時代にはこの門は破壊され荒れ果てたままとなっ ていました。曲のモチーフとなった絵は、ガルトマンがこの門を再建す るために設計した新しい門のためのデッサンです。この絵は、キエフ市 が開催したコンテストに応募され、大好評を博しましたが、門の建設は 実現されませんでした。
 教会から聞こえてくる聖歌隊の合唱・鐘楼から鳴り響く鐘の音など、 絵から伝わってくる壮大な情景が曲に反映されています。「栄光のロシ ア」を見事に表現し、ロシア的なものをすべて凝縮してこの曲は幕を閉 じます。
(渡邊安彰)


◇参考文献

「クラシック名曲ガイドA管弦楽曲」音楽の友社
「クラシック名曲ガイドB協奏曲」音楽の友社
ショーンバーグ作 亀井旭・玉木裕 訳「大作曲家の生涯」共同通信社
團伊玖磨・NHK 取材班「追跡ムソルグスキー『展覧会の絵』」NHK 出版
スコア「ムソルグスキー(ラヴェル編曲)展覧会の絵」音楽の友社
スコア「展覧会の絵(ピアノ譜)」日本楽譜出版社
アビゾワ著 伊集院俊隆 訳「ムソルグスキーその作品と生涯」新読書社
ロイヤル・フィルハーモニック・コレクション42 CD ジャケット
BMG Rachmaninoff Piano Concertos Nos.1-4 CD ジャケット

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