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アンサンブル・アメデオ 第14回定期演奏会
パンフレットより

Ensemble Amedeo The 14th Regular Concert
後援 イタリア文化会館(イタリア大使館 文化部)
1998年1月24日(土)
於:かつしかシンフォニーヒルズ
  "モーツアルトホール"
 


曲目解説

 いきなりクイズです。ジャジャーン!今宵、勢ぞろいしました作曲者のみなさんをご紹介しましょう!
 どうぞ拍手でお迎えください!ボッタキアリ、プッチーニ、ヴェルディ、レスピーギ。さて、いったい誰がいちばんお兄さんでしょう?生まれた年順に並んでみてください。これは難問ですね。(正解は曲目解説のおわりに・・・・)  


交響的前奏曲

  今宵、唯一のマンドリンオーケストラのために書かれたオリジナル作品です。作曲者ボッタキアリはカステルライモンドという街で生まれました。マスカーニに師事し、オペラの作曲家として活躍。マンドリンアンサンブルのためにも、素敵な曲をたくさん残しています。本曲は、しばしば演奏会で取り上げられる人気演目のひとつです。
  ところで題目にある「交響的」とはいったいどういう意味でしょう。そもそも交響曲というのは楽曲の形式で、よくご存知のように、4つの楽章から成り立っているものです。1楽章はソナタ形式、2楽章はロマンスなどの叙情楽章、3楽章はメヌエットやスケルツォなどの舞曲、そして終楽章は軽快なロンドです。本曲は4つの楽章から構成されているわけではありませんが、いわゆる素材としての基本的な節、通常は8小節でひとつのフレーズができ上がります。その素材を「モチーフ」なんていうんですね。和訳では「動機」いわゆる「Motivation」っていうやつ。それに、桃太郎でいえばお供の雉や犬や猿みたいな「副主題」っていうのが付いてまわるんです。それらが有機的に絡んだり、ちょっと細胞が分裂して進化するみたいに、さまざまな音楽的技法を駆使して展開していきます。こういうのを「交響的」っていうんでしょうね。ですから冒頭で聞こえてくる旋律、どこか「七つの子」にも似た郷愁を帯びたメロディ、これが主題ですね。
  楽譜の頭には「Largo Appassionato」って書いてあります。「ゆったりと、情熱を持って」という意味です。おおらかな主題に比べて、副主題は、どこかもの悲しく、切なく、感傷的なトーン。どこか揺れ動く不安な心を表しているかのようです。この2つのモチーフが絡み合いながらあらゆるかたちに七変化して現れます。ときには悲しそうに、時には望郷の思いを馳せて、そしてクライマックスでは確信に満ちあふれ勇壮に響きわたります。ボッタキアリはあえて複数の楽器を重ね合わせるなど、独特なオーケストレーションにより弦楽器だけの合奏にもかかわらず多彩な音色を編み出すことに成功しています。純粋なマンドリン合奏の音色をお楽しみください。


歌劇「ラ・ボエーム」パラフレーズ

  プッチーニはミラノの音楽院でポンキエルリに師事しました。ポンキエルリといえばディズニーのファンタジアで「かば」が大活躍する「時の踊り」、あれは愉快でしたね。その歌劇「ジョコンダ」くらいしか知られていませんが、それに比べると弟子のプッチーニはすごいですよ。文字通り彼はオペラのヒットメーカー、現代のロイド・ウェッバーみたいな感じです。でもプッチーニの評価は、その人気に比べてあまり高くないようです。通俗的すぎるからでしょうか?三枝だ成彰さんの著書「大作曲家たちの履歴書」に次のように記されています。

  「イタリア人が尊敬するのは誰だといえば、それは、ヴェルディだ。なぜプッチーニが尊敬されないのかといえば、彼らにいわせると、プッチーニの音楽はメッセージ性に欠け、ロジックに弱いというのである。なるほど、それは否定できない。ヴェルディは無器用で朴訥ながらも、強烈な祖国愛を持ってオペラを書き、「ナブッコ」などはイタリア独立運動の大きな精神的支えにすらなった。だとすればプッチーニは、実に器用に、職人的情熱をもってオペラを書いたのではないか、と思うのだ・・・・専門家には「聴衆の低俗な本能を助長した」と軽蔑されるプッチーニ。しかし、プッチーニのオペラはそれゆえに人間の音楽に対する感受性を試す踏み絵になる。理念から音楽を捉えようとする人、たとえば目の前にある料理ではなく、料理人の名前やレシピでその善し悪しを判断してしまうような人は、プッチーニのオペラを見ても、おそらくは感動しないだろう。僕は彼のメロディを聴いてどうしようもなく心を揺さぶられることがないとしたら、きっとその人は、音楽そのものに対する感受性が欠けているのだとすら思うのである。」

  履歴書の性格欄を見ると「陽気、ささいなことでくよくよする」とあります。1幕物の「妖精ヴィリ」にはじまり東洋の仮想大国を舞台にした遺作「トゥーランドット」に至るまで12のオペラを作曲しました。「ラ・ボエーム」「蝶々夫人」「トスカ」はプッチーニの三大オペラであり、世界の五大オペラが数えられるときは、少なくともこのうち2本は必ずその中に入るんだそうです。

  「ラ・ボエーム」はパリ・ラテン区の屋根裏部屋に住み着いた貧乏芸術家たちの暮らしを描写したオペラで、原作の登場人物にはすべてモデルが実在していたといわれています。主人公の詩人ロドルフォは、原作者ミルジュ本人といわれているそうです。プッチーニはそのボヘミアンたちの笑いと涙の青春を、美しい旋律をデリケートな音楽で綴り、詩情豊かでロマンティックに描ききっています。全曲どこをとっても美しく魅力的なところばかりで、それこそ、抜粋するのに苦労しましたが、1幕と2幕から特に人気のあるアリアを中心に、メドレーに仕立てあげてみました。以下抜粋したところを記しておきます。

  1. 幕開きの音楽。飛び跳ねるように軽快な音楽。貧乏なのに、高い理想と夢いっぱいの芸術家たちがクリスマスイヴにくりひろげる楽しい会話が聞こえてきます。
  2. アリア「なんと冷たい小さな手」。ロドルフォは、ミミが暗やみで落とした鍵をこっそり隠してしまいます。さりげなくミミの手にふれてしまうんですね。暗やみでドッキリ!ここいらがじつにしらじらしいというか、バタくさいというか、あけっぴろげというか、奥ゆかしくありませんね。そして、なんと初対面のくせに「はじめましてぼくは詩人です。お金はないけど、夢と空想と、お空に描くお城のおかげで、わたしは百万長者の心をもっているのだ!」どうだ、みたいに自己紹介。「ところであなたはどんな人なのでしょう?」とたずねます。それに答えるように・・・・
  3. アリア「みんなは、わたしのことをミミと呼ぶ」。でもほんとうの名前はルチア。いつもミサに行くわけではないけど、よく神様にお祈りするの。ひとりぼっちで白い小さなお部屋で暮らしています。いいですね。ジーンときますね。そしてアリアのクライマックスのせりふがいい。「でも、やがて四月になって雪が溶けるときの、最初の太陽はわたしのもの!」(il primo sole e mio!)
  4. カフェ・モミュスの雑踏。2幕冒頭の音楽です。楽しいクリスマス・イブの様子。はしゃぐ子供たち、忙しそうに行きかう人々の描写。
  5. ムゼッタのワルツ。ムゼッタは画家マルチェロのもと恋人。金持ちの老人アルチンドロにさんざん買い物をねだりながら登場する。「わたしがひとりで街を歩けば、人々は立ち止まってわたしの美しさに見とれるわ」ワルツは次第に高揚してクライマックスに達します。
  6. 2幕幕引の音楽。「鼓笛隊だ!ほら、ご覧。鼓笛隊長、金色の指揮棒がきらきら光っているよ!」子供たちが喜んで帰営の行進を追い回す。


イタリアン・ファンタジー

  作曲者服部正氏は、慶應義塾大学在学中よりマンドリンクラブの指揮者に抜擢され、以後半世紀ちかく指導にあたられました。
  服部氏は「次郎物語」はじめ多くの映画音楽、オペラ、さらにはラジオ、テレビ関係の分野でも活躍。だれもが知っている「ラジオ体操第一」は服部氏の作曲によるものです。マンドリン合奏のためにも精力的に作曲編曲を手がけられ、現存する楽譜を数えるだけでも、作曲90曲、クラシック編曲170曲、ポピュラー編曲150曲にも及んでいます。代表作は「人魚姫」(1955年)「かぐや姫」(1957年)など、お伽噺をミュージカル風にまとめあげた合唱付の大作、正倉院の御物に因んで作られた雅楽を基調とする組曲「迦楼羅面」(1931年)海を駆ける健康で可憐な少女を描いた小品「海の少女」などがあげられましょう。服部氏の作風は抜けるように明るく、常に大衆性を忘れず、どれもわかりやすいものばかりです。

  イタリアン・ファンタジーは、1965年慶應義塾マンドリンクラブ第95回定期演奏会のために作曲されました。曲は1960年のサンレモ音楽祭優勝曲「ロマンティカ」で、華やかに幕を開けます。恋の歓び、あこがれを歌ったもので、まさに澄みきった青空のように壮快なオープニングです。たちまちアレグロに転じ、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」1楽章、冒頭部。どこまでも、抜けるように明るいイタリアの印象をさわやかに奏します。やがてオッフェンバッハの歌劇「ホフマン物語」の舟歌が中低音パートにより、ゆったりと甘く歌われます。ここまでで、もうすっかり気分はイタリア。そこで調子のよいカンツォーネ「マルキアーレ」。水がとてもきれいなマルキアーレの海岸の美しさを歌った曲です。素朴で情熱的なナポリ気質がよく表されています。続いて、ゆったりとした「遙かなるサンタ・ルチア」遠く、海に漕ぎ出た漁夫たちの望郷のうた。作曲者マリオは民謡風の曲をたくさん作りました。転じて足踏みするような、うきうきする二拍子のリズムに乗って、元気なうたが聞こえてきます。おなじみサデロ作曲の「麦打ちのうた」。「ちょいと姉さんどこ行くの?」と粗野なかけ声が黄金色の麦畑にとどろきます。軽快で粋なワルツは「チリビリビン」。すっかり楽しい雰囲気も次第に暮れなずんでいきます。赤い火を吹く山?ベスビオ火山を登る、登山鉄道のうた「フニクリ・フニクラ」の登場。これは懐かしい曲ですね。タランテラのはぎれのよいリズム。じりじりっと登っていく感じは、度重なる転調によって一層強調されます。なんだ坂、こんだ坂、頂上めざしてえっちらこっちら。そして、曲も一気にクライマックスに達します。冒頭の「イタリア」そして「ロマンティカ」が再びよみがえって、壮大な音響のなかに幕を閉じます。


  とっても楽しい本を見つけました。玉木正之さん著「クラシック道場入門」(小学館)。そこで、ヴェルディについてこんなふうに紹介されています。
  「ジュゼッペ・ヴェルディは1813年10月10日北イタリアのパルマにある小都市ブッセートにある寒村レ・ロンコーレに生まれ、1901年1月27日、ミラノで亡くなった。享年87歳。その生年がドイツの大作曲家ワーグナーと同じで両者とも「音楽と劇の融合」を生涯のテーマとし、見事なオペラを数多く作曲したことから、19世紀の二大オペラ作曲家と並び賞されている。が、日本では「二大」というのはタテマエで、ワーグナーばかりが高く評価され、ヴェルディは、通俗音楽家に毛の生えた程度にしか評価されていない、というのが現実である。たとえば・・・・・・野村胡堂の著した「楽聖物語」の目次は次のようになっている。
  [戦闘の人ヘンデル/音楽の父バッハ/交響曲の父ハイドン/真の天才モーツァルト/英雄ベートーベン/旋律の泉シューベルト/純情の奇才ベルリオーズ/幸福な天才メンデルスゾーン/ピアノの詩人ショパン/情熱のシューマン/ピアノの巨匠リスト/巨人ワーグナー/音楽の隠聖フランク/孤高の哲人ブラームス/悲哀の権化チャイコフスキー/ドボルザークの郷愁/印象派の勝利ドビュッシー]
  あくまでドイツの作曲家が中心で、フランス、ロシア、ポーランド、チェコといった「地方」にも手を伸ばしているのもかかわらず、音楽の発祥の地イタリアは、なぜか無視されている。・・・・それは明治時代に西洋音楽が輸入されて以来、ドイツ音楽−とりわけベートーベンを中心とする「精神性の高い」音楽を主流とした近代日本の「悪しき伝統」の影響というほかはない。・・・・・ジャジャジャジャーンという音に、扉をたたく「運命」の重みを感じ、ミミファソファミレという旋律に「苦悩を抜けて歓喜に至る」テツガクを感じ、ワーグナーの無限旋律を聴いてショーペンハウエルからニーチェにいたる深遠な思想に思いを馳せる。それが明治の精神と合致した。ところが、ヴェルディは「風のなかの、羽のように、いつも変わる、女心・・・・」なのである。この歌がヴェルディのオペラ「リゴレット」の第3幕で歌われるカンツォーネである、ということを知らなくても、また「女心の歌」という日本語の題名を知らなくても、そのメロディを知らない人はいない。その通俗性が明治のアカデミズムに嫌われた。クラシック音楽を「精神主義」で語る人物には嫌悪されたのだ。」(五木寛之推薦、是非お試しください。)


歌劇「ナブッコ」序曲

  ヴェルディは、生涯に26曲のオペラを作曲しました。旧約聖書に登場するヘブライの王ネブハデネザル2世を主人公とするものがたりをもとにした「ナブッコ」は、その第3作目にあたりますが、作曲家として初めて大成功をおさめた記念すべき作品といえましょう。その作品には愛国的なテーマが盛り込まれていて、当時オーストリーの支配下にあって独立の気運が高まっていたイタリアの人々に熱狂的に歓迎されたのでした。とくに第3幕のヘブライ人たちの望郷と祖国へのあこがれを歌った合唱は、初演から聴衆の深い共感を呼び、以来イタリアの第2の国家として愛されているものです。
  序曲は勇壮な序奏にはじまり、例の合唱曲「行け、思いよ、金色の翼に乗って」の美しい部分をはさんで、再び快活奔放でエネルギッシュなアレグロに転じて一気に駆け抜けます。


歌劇「椿姫」一幕、三幕への前奏曲

  古代をテーマにした大掛かりなオペラを書き続けたヴェルディにとって、「椿姫」は初めて現代の素材をテーマにしたオペラで、現実主義的なオペラの先駆的作品でもあります。以下、黒田恭一氏の解説から抜粋します。
  「オペラ椿姫の第1幕への前奏曲は、アダージォで、ロ短調である。とくに開始の部分は悲痛な表情に満ちている。・・・・・・しかし、やがて、あかるい音楽が導入される。もっともそのあかるい音楽も、ながくは続かず、こまかい音をスタッカートで刻みつづける弦がディミヌエンドしていって静かに終わる。いずれにしろ、寂しげな陰の濃い前奏曲である。そういう前奏曲が終わって幕があがると、そこはヴィオレッタの家のサロンである。シャンデリアが輝き、着飾った人たちがしゃれた身のこなしで、はなやかな雰囲気をたのしんでいる。音楽はアレグロ・ブリアンティッシモ・モルト・ ヴィヴァーチェである。アレグロ・ブリランティッシモつまり、目もくらむばかりにきわだって光り輝くアレグロ....しかも、モルト・ヴィヴァーチェ=非常に快活に、と但し書きまで添えられている。前奏曲の音楽と、この1幕冒頭の音楽の対比はいかにも強烈である。前奏曲の暗とアレグロ・ブリランティッシモの明とのコントラストはしかし、このオペラ全体を支配する。1幕のさざめきを可能にしたありあまるほどの光は、すでに3幕にはなく、病床に横たわるヴィオレッタをつつむほどの光のうちに開始されそのシャンデリアの蝋燭が一本一本消されていって、ついに最後の一本が消えたところで、終わる。ドラマは光から闇へとうつりゆく推移のうちにある。」


交響詩「ローマの松」

  オットリーノ・レスピーギは近代イタリアを代表する作曲家。ボローニャに生まれ、同地の音楽院を卒業した後、リムスキーコルサコフに師事して作曲を学びました。はじめはヴァイオリニストとしてスタート、作曲に専念しはじめたのは30才になってからで、ローマに移ったのは34才のときでした。そこでは、サンタ・チェチリア音楽院の作曲科教授に就任しましたが、ローマに移住したことで、2つの大きな刺激を与えられたのでした。ひとつは古都ローマの美しい風物に心をとらえられたこと。もうひとつは音楽院の図書館に所蔵されていた古い時代の膨大な資料の数々に接することができたということです。レスピーギ曲の特徴として見逃せないのは、リムスキーコルサコフ譲りの類希なる高度な管弦楽法にありますが(後にはリヒャルトシュトラウスやドニュッシーらの影響も少なからずうけました)なんといっても、その旋律の美しさでしょう。それは、まさにイタリア人らしいのびのびとした流麗さと、感傷的な叙情性であり「美しく書くこと」がこの作曲家の偏執であるとさえいわれています。
  ローマ三部作といわれる一連の交響詩はレスピーギの代表作で、いずれもローマ風物と歴史から霊感をうけて作曲されたものです。「ローマの松」は第2作目で、3曲中もっとも芸術的といわれています。1926年1月15日に開かれたフィラデルフィア管弦楽団の演奏会で、自ら指揮をとったレスピーギは、プログラムのなかで次のように述べています。
  「ローマの松では、記憶と幻想を呼び起こすための手始めとして自然の素材を用いることにしました。きわめて特徴をおびてローマの風景を支配している、何世紀にもわたる樹木は、ローマの生活での主要な事件の証人となっているのです。」

 第1部「ボルゲーゼ庭園の松」
  ボルゲーゼ庭園はローマの中心にある庭園で16世紀の作といわれています。古い庭園の夕暮、老松の下でこどもたちが賑やかに遊んで飛び回っています。輪になっておどり、兵隊さんごっこ、行進したり、戦争したり、それは夕暮れ時の燕のように、興奮して群をなして行ったり来たりしています。
  曲は、いきなり華やかな出だしで、管楽器の上がったり下がったりするスケールは、駆けずり廻る子供たちを描写しているかのようです。無邪気で明るい調子、イタリアのわんぱくな、いたずらっ子たちの様子が手に取るよう。めまぐるしく飛び回る様子は、次第に高揚していったかと思うと、ピアノのグリッサンドとともにいきなり唐突に中断されます。

 第2部「カタコンベの傍らの松」
  カタコンベは古代キリスト教徒たちの地下のお墓。彼らは邪教徒として迫害されていたために、密か地下で礼拝をおこなっていました。地面のそこから響いてくるような賛美歌、やがてグレゴリア聖歌が断片的に現れます。はるか彼方から聞こえてくる清らかな旋律、これは天使たちの歌声にちがいありません。割り切れない拍子は異国の情緒を醸し出すには十分。信者の祈りを象徴するようなうたが、これも最初は遠くの方から、しだいに盛り上がり、迫ってきます。やがて力強くひとつの頂点に達したあと、ふたたび深い闇の彼方に消えていきます。

 第3部「ジャニコロの丘の松」
  ジャニコロはテレベ河の西岸、ヴァチカンの南に広がる丘陵。レスピーギ自身の引用を紹介しましょう。「そよ風が大気をゆする。ジャニコロの松が満月の明るい光に遠く、くっきりと立っている。夜鴬の声が響きわたる。」
  丘のうえは、月の明かりで照らされています。ボーっと照らし出された木々の茂み。あたりはすっかり静まりかえっています。甘く、まろやかなクラリネットのソロがふくよかな旋律を奏でます。キラキラとまばゆいばかりの光の分散和音にのって、この世のものとは思えないような甘美で恍惚とした旋律がうたわれます。本曲中でもっとも美しいところでしょう。それは息の長いフレーズで、あたかも寄せては返す波のように繰り返されます。遠くの方からふたたびクラリネットのメロディが蘇ってきます。夜鴬のさえずりがあたり一面を覆い尽くしたかと思う間もなく消えていきます。

 第4部「アッピア街道の松」
  アッピア街道は、ローマの西側にあるサン・セバスチャン門から連なる軍道で、紀元前312年にアッピウス・クラウディスによって建設されたものです。古代ローマ軍は、ここから進軍し、帰還したのです。街道に立つ松たちは、その栄光に満ちた凱旋行進の幻想を語りかけてきます。打楽器とすべての低音楽器で不気味に刻まれる行進のリズム。はじめに現れるのは、むしろ戦いで病んだ兵士たちの苦痛の叫びでしょうか。やがて長調に転じると、足取りも勝利に満ちた勇壮たる音楽に変遷していきます。華麗なるファンファーレが高らかに鳴りわたり、圧倒的なクライマックスへと向かっていきます。


  やれやれ、おつかれさまでした。さて、クイズの正解です。一番お兄さんは、ヴェルディ(1813年生まれ)でした。ワーグナーも同じ年に生まれたんですね。ちなみにリストが1811年、ヨハン・シュトラウスは1825年です。次にくるのがプッチーニ(1858年)そしてボッタキアリとレスピーギは、いずれも1879年ですから、なんと同期なんですね。ボッタキアリが3月10日、レスピーギが7月9日生まれですから、いちばん若いのはレスピーギというわけです。ちなみに、ワーグナーは5月22日生まれ、ヴェルディは10月10日(おっと体育の日ですね!ふむふむ)ということは、ワーグナーの方が、ちょっとお兄さんということになりますね。
  作品の方も復習してみましょうか?「ナブッコ」が古いですね。1842年初演です。この年にアヘン戦争が終結しました。なんとウィーン・フィルハーモニーの誕生年でもあります。「椿姫」は1853年、ということは、黒船来航の年。「ボエーム」は1896年で、その年に第1回オリンピックが催されました。「ローマの松」初演は1929年。おやおや、これはウォール街で株が大暴落した年でした。この辺にしておきましょうか。きりがありませんから。

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