アナキズムFAQ

I.4.12 いかなる社会主義社会でも、資本主義事業が再出現する傾向はないのだろうか?

 これは、右翼リバタリアンがよく口にする反論である。例えば、ロバート=ノージックは次のようなシナリオを憶測している。

 社会主義社会では、禁止されない限り、小規模工場が次々に生じるだろう。私は自分の私的所有物を溶かし、これを原料として機械を作る。他の物資と交換するために週に一度哲学の講義を開催する、といった具合である。社会主義産業での仕事を辞め、この民間企業で常勤として仕事をしたいと思う人がいさえするかも知れない。このようにして、社会主義社会において、生産手段についてさえも私的所有が生じるだろう。

 このため、ノージックは『社会主義社会は、合意した人々間での資本主義行為を禁じねばならない』と主張している [Anarchy, State and Utopia, pp. 162-3]。
 しかし、ジェフ=スタインは次のように指摘している。『労働者が資本家に雇用されたいと思う唯一の理由は、他に生計を立てる手段がない、自分自身を売り渡すことでしか生産手段を手に入れることができない、ということである。資本主義的産業部門が存在するためには、生産資源を私的に所有するための何らかの形態が存在し、代案がほとんどないという状態でなければならない。労働者は、自分の雑事を管理する上で平等な発言権を自ら進んで放棄し、ボスを受け入れなければならないほどの経済的絶望状態にいなければならないのだ。』["Market Anarchism? Caveat Emptor!", a review of A Structured Anarchism : An Overview of Libertarian Theory and Practice by John Griffin, Libertarian Labour Review #13, Winter 1992-93, pp. 33-39]
 アナキズム社会においては、資本主義行為を『禁じる』必要などない。人々がしなければならないことは、資本家になろうとしている人が生産資産の独占をする手助けを止めることである。この理由は、既にセクションB.3.2で記したように、こうした独占を保護する何らかの国家がなければ資本主義は存在できないからだ。もちろん、リバータリアン社会主義社会において、国家は最初から存在しない。従って、資本家になりたがっている人による生産手段の独占を保護することを含め、国家に何かを行うことを「止めさせる」など問題外である。言い換えれば、資本家になりたがっている人は、アナキズム社会において、厄介な労働者獲得競争に直面することになる。自主管理型の仕事場は、資本主義的になろうとしている仕事場よりも、労働者により多くの利益(自治やより良い労働条件など)を提供できるからだ。資本家になりたがっている人は、非常に高い賃金と労働条件を提供しなければならないだけでなく、十中八九、労働者自主管理と使用された資本の分割払い購入をも行わねばならなくなる。資本主義に関連する様々な独占が廃絶されると、利潤を得る機会はほんの僅かになるのである。
 ノージックがその主張の中で重大な誤りをしていることを指摘せねばなるまい。彼の前提は、アナキズム(つまり社会主義)社会に関連する「使用権」が資本主義社会における「所有権」と同じだ、ということである。これは事実ではない。従って、彼の主張は弱く、その論旨は失われている。簡単に言えば、所有について絶対的な法則や「自然」法など存在しないのだ。ジョン=スチュワート=ミルは次のように指摘していた。『独占的使用と管理の権限は非常に変化に富んでおり、それぞれの国で、社会の状況によって、全く異なっている。』["Chapters on Socialism," Principles of Political Economy, p. 432] 従って、ノージックはイデオロギー的替え玉をその事例に滑り込ませ、社会主義(もしくはこの件に関して言えばあらゆる社会)を誤って解釈しているのである。彼によれば、社会主義は、富の分配と同様に私的所有権の分配をも指定することだされる(彼のような人々や資本主義の支持者達はこのように信じている)。ミルは次のように論じている。『最も多く見られる誤りの一つ、これは、人間に関する事柄について最大の現実的誤謬の源泉となっているわけだが、それは、同じ名前は同じ考えの集合を意味している、と仮定することである。所有という言葉ほど、この種の誤解を数多く受けている言葉はない。』[前掲書] 不幸にして、この誤謬は、右翼リバタリアンに著しく共通しているように思える。彼等は、「所有」という言葉がどのように使われていようとも、自分達が意味していることを意味しているはずだと考えている(この誤謬は、この誤謬に基づいて個人主義アナキストを取り込もうとするという、バカげたレベルにまで達しているのだ!)。
 言い換えれば、ノージックは、あらゆる社会において、所有権が、消費生産双方の使用権は所有権に切り替えられねばならない、と仮定しているのである(これは、極度に歴史を無視した仮定である)。チェイニー=C=ライアンは次のようにコメントしている。『公正に関する様々な概念は、社会の所有財産を分配する方法についてだけでなく、それが分配された際に自分の所有物に対してどのような権利を持っているのかについても、異なっている。』["Property Rights and Individual Liberty", in Reading Nozick, p. 331]
 結局、リバータリアン社会主義社会で人が占有するものは、自分の財産(資本主義的意味で)にはならないだろう。これは、資本主義の下で会社の車が従業員の財産ではないのと同じである。つまり、個人があるコミューンのメンバーであり続け、そのコミューンにおいて作成する手助けをした規則を遵守する限り、その人はコミューンの資源を十全に利用でき、自分が適していると思うようにその占有物を使うことができるのである(新しい機械を作るために『それを溶かす』ことであろうと何であろうと)。このような絶対的「所有権」の欠如が自由を減じることはない。従業員が使う会社の車が自由を減じないのと同じである(車を破壊したり売り飛ばしたりしなければ、従業員は自分が適していると思うように車を使うことができる)。
 この点は、ノージックの主張が持つもう一つの誤りを浮き彫りにしている。彼の主張が正しければ、その主張は資本主義社会にも同様に当てはまる。週40時間以上、労働者はボスに雇用される。その時間中、労働者には、ボスの指示の下で使用する資源が与えられる。労働者がこうした資源を溶かして機械を作ったり、与えられた資源を使って自分達の計画を推し進めることは、絶対に許されてはいない。つまり、「資本主義社会は、合意した人々間での資本主義的行為を禁じねばならなくなる」わけだ。このことは、賃貸住宅についても同じように当てはまる。例えば、労働者が在宅勤務をしたり、備え付けの家具を売却したりすることを地主が禁じる場合がそうである。従って、皮肉なことに、資本主義は、合意した人々間の資本主義的行為を常に禁じているのである。
 もちろん、この点に対するノージックの反論は、契約にサインする際に関係者はこうしたルールに「合意」している、というものであろう。だが、同じことはアナキズム社会にも言えるのだ−−アナキズム社会に参加するのも離れるのも自由なのである。無政府共産主義社会に参加することとは、単に、自分の労働の産物をその社会にいる他のメンバーと自由に「交換する」ことに同意するというだけのことなのである。従って、自分の所有物を溶かして機械を作ることもできるし、他者と時間を交換したりすることもできる。しかし、賃労働がそこに含まれるようになると、賃労働に参加した個々人はその行為のために「社会主義社会」のメンバーではなくなってしまう。仲間との合意に違反したのだから、これは特定の行為を「禁じる」事例ではない。むしろ、個人が自分で創り出した義務を果たす事例なのである。これが「権威主義」だとすれば、資本主義もそうである−−強調しなければならないが、少なくとも、アナキストの提携組織は自主管理に基づき、従って、参加する個人は自分が生活する上で従う義務について平等な発言権を持つ。
 また、ノージックが交換と資本主義を混同していることも示しておこう(『他の物資と交換するために週に一度哲学の講義を開催する』)。これは資本主義のエキスパートだと称している人による明確な誤謬である。なぜなら、資本主義を定義している特徴は、交換ではなく(資本主義が存在するずっと前から交換が行われていたことは明らかだ)、労働者が生産した価値の一部を横取りする資本主義ブローカーを伴う労働契約−−つまり、賃労働−−だからだ。ノージックの例は、単に、生産者と消費者との直接的労働契約に過ぎない。これには、生産者が創造した価値の一定割合を取る資本主義仲介人は含まれていない。また、資本主義を資本主義たるものにしている搾取的賃労働も含まれていない。リバータリアン社会主義が阻止するのはこうした種類の経済活動だけである−−それを「禁じる」のではなく、単にそれが生じるために必要な諸条件(つまり、資本主義的所有の保護)を維持しないようにするのである。
 さらに、ノージックは、資本主義と「生産手段の私的所有」を混同していることも記さねばならない。「私的所有」を資本主義的所有ではなく占有に基づかせることで、リバータリアン社会主義と「生産手段の私的所有」とを両立させることができる。このことは、農民と職人労働者、『誰も搾取していない』人々がアナキズム革命で収用されることはない、というクロポトキンの主張にも見ることができる [Act for Yourselves, pp. 104-5]。言い換えれば、ノージックは、私的所有と占有とを混同し、前資本主義生産形態を資本主義生産形態と混同しているのである。自由コミューン外部で人々が生産手段を占有することは、社会的アナキストにとって完全に受け入れられることなのである(セクションI.6.2 も参照)。
 最後にもう一つ記しておかねばなるまい。ノージックは、譲渡の前に買収が行われねばならないという事実も無視している。つまり、「合意された」資本主義的行為が行われる前に、個人的行為が先行しなければならないのである。上記したように、このことを行うために、資本家になりたがっている人は、共同所有されている資源を、他者に使用させないようにすることで、盗み取らねばならない。これは、明らかに、現在資源を使っている人々の自由を制限することになり、従って、コミュニティのメンバーは激しく敵対するであろう。ある個人が賃労働を使って資源を使用したいと望むならば、その人は「社会主義社会」から事実上立ち去ることになろう。そして、その社会はその社会の資源を当該人物が使えないようにするであろう(つまり、彼等は、現在当然のように取っていた資源全てを利用する権利を購入しなければならなくなるだろう)。
 アナキズム社会は、ノージックの(誤った)主張に対して柔軟なアプローチを取る。個々人は、その自由時間に、自分が適していると思うだけ自分の時間と占有物を「交換」できる。しかし、これは、ノージックの主張とは異なり、「資本主義的行為」ではない。だが、個人が賃労働を採用しようとするときには、その行為によって、仲間との合意を破ったことになり、従って、もはや「社会主義社会」の一部ではなくなる。こうした人々は、コミューンでの生活の利益とコミューンの占有物を入手できなくなる。その結果、自分自身をコミュニティの外に置き、自身の規則に従わねばならない(must fair for themselves)。結局、「私有財産」(資本主義的意味で)を創り出したいと思っているならば、コミューン占有物の使用権は、その権利に対して支払をしない限り無いのである。賃金生活者になった人にとって、社会主義社会は、多分、さほどシビアではないだろう。バクーニンは次のように論じていた。

 個々人の自由は不可分であるが故に、社会は、いかなる個人であれ、その人の自由を法的に疎外するいかなる行為も許しはしないし、最大限の平等と相互関係以外の基盤に基づいて他者と契約をしたりすることを許すこともない。だが、自己の尊厳の感覚を欠いている人が他の個人と自発的隷属関係を持つ契約をすることに関して、その人が持つ権限を剥奪する権力を社会が持つことはない。ただ、そうした人を私的慈善行為に寄生して生きていると見なし、この隷属関係が続く限り政治的権利を享受するには不適当だと見なすであろう。[Michael Bakunin: Selected Writings, pp. 68-9]

 ノージックの理論が、共有資源の分配について、いかなる裏付けも提供していないことも記しておかねばなるまい。つまり、彼の(右翼)リバタリアニズムは完全に根拠がないのだ(詳しくは、セクションB.3.4を参照)。彼の主張は、こうした分配を好ましいとしながらも、ある種の自由は、私有財産によって非常に明確に制限されると認めている(そして、村の共有地のような共有資源の破壊は、国家によって実行されているということを肝に銘じておかねばならない−−セクションF.8.3を参照)チェイニー=C=ライアンは次のように指摘している。ノージックは『私的自由を決定的基盤として、パターン化された(patterned)公正の諸原理(例えば社会主義)と資本の所有に対する制限とを拒絶している。しかし、私有財産権が明らかに普通の人々の自由を制限している場合に、彼は、全体としての社会の物質的利益に反して、こうした自由を大喜びで売り払っているように思える。』["Property Rights and Individual Liberty", in Reading Nozack, p. 339]
 再度言うが、セクションF2「『自由』ということで『無政府』資本主義者は何を意味しているのか」で指摘したように、右翼リバタリアンは「有産主義者」(Propertarians)と名付けられた方がよい。社会主義に反対しているときには自由が最重要事項だと認められ、私有財産が自由を制限しているときには認められないのは、何故だろうか?明らかに、ノージックは、私有財産に関連する自由を、自由全般よりも重要だと見なしているのだ。同様に、資本主義は、様々な個人による類似した社会主義的行為(例えば、使用されていない地所を不法占拠したり、私有地に不法侵入したりすること)を禁じなければならず、合意した個々人間の社会主義行為(例えば、自分の財産に対して主権を持つ財産所有者やその使用者の意志に反して組合を作ったり、所有者のニーズではなく生産者のニーズを満たすように仕事場の資源を使ったりすること)をも禁じるものなのである。
 結論を述べよう。この疑問にはある種の奇妙な論理(そして多くの論点回避の前提)が含まれており、究極的には、リバータリアン社会主義が「個々人間の資本主義行為」を「禁じる」はずだということを証明できていない。加えて、この反論は資本主義を間接的に攻撃することになる。なぜなら、この反論は、そもそも、共有財産から私有財産を創り出すことを支持できないからである。

I.4.13 「汚い仕事」や不愉快な仕事は誰が行うことになるのか?

 この問題はあらゆる社会に影響する。当然、資本主義にも影響を与えている。資本主義の下では、社会階層の底辺にいる人々にこうした仕事を必ず行わせるようにすることで、この問題は「解決」されている。言い換えれば、この問題を実質的に全く解決していないのである−−自分の労働生活の大半をこの仕事に費やさねばならない人々が確実に存在するようにしているだけのことである。だが、大部分のアナキストはこの誤った解決策を拒否し、もっと良い解決策、得意なことと苦手なこととを共有し、万人の生活が確実により良いものになるようにする解決策を支持している。
 これがどのように行われるのかは、自分がどのようなリバータリアン=コミュニティのメンバーになるのかに依る。明らかに、ほとんどの人が反対しないと思うが、人は、自分が楽しく行っていることは自発的に取り組むものである。しかし、全くとは言わないが、ほとんどの人が楽しんで行えない仕事も幾つかある(例えば、廃物収集・汚水処理・危険な仕事など)。アナキズム社会ではこうした仕事に対してどのように対処するのだろうか?
 いかなる社会でも何が不愉快な仕事なのかは明らかとなろう−−ほとんどの人は(ゼロではないにせよ)その仕事を自発的にやろうとしないだろう。先進社会でそうであるように、臨時のヘルプが必要なコミュニティとシンジケートは、様々な既存媒体を使って他者にそのニーズを伝達することになる。さらに、個々のコミュニティに「活動分担」シンジケートが存在する見込みが高く、このシンジケートは、こうした投稿に関する情報を配布し、関心ある「職種」についてどのような求人があるのかをコミュニティのメンバーが探しに行く場所となるであろう。従って、シンジケートとコミューンが求人を出す際に使う手段と、個々人が求人を見つける手段とは存在する。明らかに、仕事の中には資格が必要なものもあり、シンジケートが求人の「広告を出す」時にはその資格を考慮することになろう。
 供給が需要を凌いでいる「仕事」の求人に関しては、ワークシェアリングの仕組みを用意することで、容易く、ほとんどの人がその仕事を行う経験を持てるようになるだろう(ある種の仕事に申し込む人々の数がその仕事を行う上で多すぎた場合、どのように対応できるのかについては下記する)。職業斡旋において需要が供給を凌いでいる場合、明らかに、当該の活動は好ましいものや望ましいものだとのは見なされていない。その活動が自動化されるまで、自由社会は、特に行いたいと思わない「仕事」の求人に対して志願してくれるように働きかけねばならないだろう。
 明らかに、全ての「仕事」が等しく関心あるものだったり楽しいものだったりするわけではない。人々は、もっと楽しい活動が含まれるシンジケートに参加したり、そうしたシンジケートを作ったりし始める、と主張されることもある。このプロセスによって、供給過剰で余った労働者はもっと楽しめる「仕事」を見つけることになり、退屈で危険な仕事は意欲的な労働者不足に悩まされる、というわけだ。従って、この主張が述べるところによれば、社会主義社会はある種の仕事を人々に無理矢理行わせ、その結果、国家が必要となる、ということになる。この主張が明らかに無視しているのは、資本主義下で、通常、悪い労働条件で最低の給料しか支払われないのは、退屈で危険な仕事である、という事実である。さらに、この主張が無視している事実がある。労働者自主管理下では、退屈で危険な仕事はできる限り最小限に抑えられ、変質させられる。人々が自分の仕事と仕事場環境の質を改善するような立場にいないのは、資本主義ヒエラルキーの下だけなのだ。ジョージ=バーレトは次のように述べている。

 現在、物事は非常に奇妙に組織されている。人が低賃金で行うのは、汚く不愉快な仕事だけである。その結果、その代わりとなる機械を大急ぎで発明することもない。逆に、自由社会では、明らかに、不愉快な仕事こそが、まず第一に機械によって削減を望まれるものの一つとなるだろう。従って、アナキズムの状態では不愉快な仕事は大幅に消滅することになる、と主張することは全く正当なのである。[Objections to Anarchism]

 それ以上に、大部分のアナキストは、莫大な数の労働者が「簡単な」職種を占めるという主張は具体性を欠いており、現実社会のダイナミクスを無視していると考える。多くの人が、既存シンジケートで行われている既存の研究開発以外の革新的な仕事で自己表現するために、新しい生産シンジケートを創り出そうとするだろう。だが、大多数の人が自分が現在行っている仕事をつまらない仕事だと見捨ててしまう、という考えはまともではない。仕事場はコミュニティであり、コミュニティの一部であり、人は仕事仲間と繋がりを持つことを大事にしようとしている。このように、人は、自分の決定が自分自身と社会全体とに及ぼす影響を承知しているのである。従って、シンジケート間で労働者の交替は予想されることではあるが、この主張で述べられているような大量の移動はありそうもない。新しい仕事で腕試しをしたいと思っている大部分の労働者は、自分自身の職場を創り出すのではなく、新しい人材を求めているシンジケートの職場に申し込むだろう。このため、転職はそれほど多くなく、容易く対処できると思われる。
 だが、大量の職場放棄の可能性は確かにあるため、対処しなければならない。リバータリアン社会主義社会は、労働者の大多数が興味深い仕事だけを行って、退屈な仕事や危険な仕事を行わずにいることに対してどのように対応するのだろうか?もちろん、どの種類のアナキズム何かによって答えは異なっており、これは、アナキズム社会で誰が「汚い仕事」を行うのかという問題と直接関係している。アナキズム社会は、どのようにして、特定の仕事に対する個々人の好みが、労働に対する社会的需要の要件と確実に一致するようにするのだろうか?
 相互主義の下では、特定の仕事を完了させたいと思う人は、労働者や協同組合と合意をし、当該作業を行うことに対して支払をする。個々人は協同組合を組織する。個々の協同組合は市場に居場所を見つけねばならない。そのことで、必要に応じて当該の仕事が確実に社会全体に広がるようになる。新しい協同組合を設立したいと思っている人は、自身の立ち上げ貸付金(クレジット)を用意するか、相互銀行から無利子ローンを調達するかのどちらかを行うことになる。だが、これでは、不愉快な仕事を行う人が常にいることになりかねず、従って、これは解決策とはならない。資本主義でそうであるように、全く仕事が無いよりもましだという理由で、酷い仕事を行う人がいることになりかねないのである。ほとんどのアナキストはこの解決策を支持してはいない。
 集産主義アナキズム社会や共産主義アナキズム社会では、コミュニティのメンバー間で可能な限り公平にこうした仕事を分担することで、この結果を避けることになる。例えば、誰も自発的に行わない仕事を行うために一ヶ月数日をコミュニティの健康なメンバー全員に割り当てることで、この仕事はすぐに終わるであろう。このように、万人が愉快な仕事だけでなく不愉快な仕事も共有するのである(もちろん、不愉快な仕事に費やす時間は最小限に抑えられることになる)。もしくは、非常に人気のある仕事を行う際には、不愉快な仕事も同様に行わねばならないようにする。このようにして、人気のある仕事と人気のない仕事とのバランスを取るのである。
 もう一つの解決策として、ジョサイア=ワレンの考えに従い、仕事の不愉快さを考慮して、受け取る労働券のレベルやコミュニティでの仕事時間を配慮することもできよう。つまり、集産主義社会では、不愉快な仕事をしている人は少し高い支払で「報酬を与えられる」(社会的尊敬と共に)見込みが高い−−例えば、こうした仕事に対する労働券の数は標準数の倍数となり、実際の数は供給が需要をどれほど凌いでいるのかに応じることになろう(個人が求める必要時間数を、参加する仕事の不快さに相当する量に換算することによって、共産主義社会でも同様の解決策を取ることもできる)。実際の「報酬」水準はシンジケート間の合意によって決まることになろう。
 もっと正確に言えば、集産主義社会では、新しいシンジケートをスタートさせるために、自分の貯金を使うこともできるし、地域の労働銀行からクレジットを調達することもできる。このことで、明らかに、新しく作られるシンジケートの数は制限される。既存シンジケートに参加している個人の場合、行われる仕事の労働価値はその仕事を行うことに関心ある人の数に依存する。例えば、ある種の仕事を行いたいと思っている人が実際に必要な人員よりも50%以上多くいた場合、この産業における一時間当たりの労働価値はそれに応じて一時間以下になるであろう。希望者が必要人員よりも少ない場合、労働価値は増加し、休日も増加する、といった具合である。
 このように、労働者の「需要と供給」はお互いにすぐに近似するであろう。さらに、集産主義社会は、自主管理組織とその組織内部での参加と議論とを通じて社会的意識が増大するために、現行システムよりももっと上手くワークシェアリング等の方法を使って、確実に、不快な仕事と楽しい仕事が社会全体に平等に行き渡るようにするであろう。
 共産主義アナキズム社会の解決策は、集産主義のものと類似することになる。やはり、行う仕事についてメンバー間で基本的合意をすることになり、労働者が過剰供給されている仕事場に対しては、シンジケート連邦が合意した最低必要時間数がそれに対応して増加する。例えば、志願者の供給が100%を越えている産業では、その最小要件が(例えば)20時間から30時間へと増加することになろう。必要人員よりも志願者が少ない産業では、「仕事」に必要な時間数が減少し、休日数が増加する、といった具合になるだろう。G=D=H=コールはこの点について次のように論じていた。

 まず最初に、機械と科学的方法を十全に活用して、そうした処理を行うことのできる「汚い仕事」を取り除いたり、減じたりしよう。これが資本主義の下で試みられたことはない。人間を搾取し破滅させる方が安価なのだ。次に、無くてもやっていける「汚い仕事」は何かを考えてみよう。そして、ある種の仕事が不愉快なだけでなく下劣なものでもあるとすれば、いかなるコストがかかろうとも、その仕事無しでやっていけるようにしよう。誰であろうと品位を落とすような仕事を行うことなど認められないし、強要されてもならないのだ。第三に、退屈だったり不愉快だったりする仕事が残るとすれば、その仕事に必要な労働者を引き付けるためにどのような特別条件を提示すればよいのか考えよう。その条件は、高賃金ではなく、労働時間の短さ・年間六ヶ月以上の休暇・他のことに使う時間や配慮を持っている人が自発的にその仕事を必要時間分だけ行うための充分魅力的な条件といったものになるだろう。[Guild Socialism Restated, p. 76]

 こうした方法で、個人が自由時間に対する自分の願望と関心ある仕事に対する自分の願望とのバランスを取ることにより、産業部門間のバランスが確立される。時間と共に、適正テクノロジーの力を使って、そうした時間の記録すらも最小限に抑えられ、社会が自由に発展するに従い、それは撤廃されさえするであろう。
 思い出さねばならないが、新しいシンジケートに必要な生産手段は空からふってくるわけではない。他の社会メンバーが必要物資を生産するために働かねばならないのである。したがって、シンジケートとコミューンが、生産の特定(最大)割合だけをシンジケート設立のために割り当てる(既存諸連邦の資源を増加させるのとは対照的に)ということに合意することになる可能性が高い。当然、こうした数字は、情況変化を考慮するために定期的に見直される。新しい生産活動のためにシンジケートを作ることや、同じ仕事であっても既存の連邦とは独立したシンジケートを作ることを決めた地域社会のメンバーは、生産に必要な手段を提供してくれるよう他の労働者と合意しなければならないだろう(現在、新しいビジネスを始めるのに必要な貸付金を受け取るために銀行の合意を得なければならないのと同じである)。自由社会は、標準生産量の予算を立てることで、特定種の仕事を行いたいという個人の願望が、有用な生産に対する社会的必要と合致できるように保証できるのである。
 指摘しなければならない(確実に誤解を招かないようにするためだ)が、自由社会には、資源のどのような活用方法を受け入れるのかを決める「計画者」集団などいなくなる。その代わり、個々人と協同組織とが資源を様々な生産ユニットに割り当て、その後に、生産ユニットの労働者が要請された物品を生産するかどうかを決める。その生産がシンジケートが合意した予算内であれば、要請された物資を生産することになる見込みが高くなる。このようにして、共産主義アナキズム社会は、新しいシンジケートを始め、既存シンジケートに参加するための最大量の経済的自由を保証し、このプロセスの中で社会的生産が損害を受けることがないように保証するのである。
 もちろん、完全なシステムなどない−−万人が、自分が最も楽しめる仕事を行うことができるようになるわけではない、ということは確かである(付言すれば、これは資本主義下でも真実である)。アナキズム社会においては、個人が、自分が関心を持つ仕事を確実に行い続けるようにする全ての方法が探求されるであろう。一つの実行可能な解決策を発見できれば、確実にそれを実行するであろう。自由社会が注意するのは、資本主義市場(確実に、大多数が賃金奴隷へと軽んじられるようになる)が再び発展しないようにすることや国家社会主義の「労働軍」型割り当てプロセス(確実に、長期にわたって、自由社会主義が自由なままでなくなったり、社会主義ではなくなったりする)が発達しないようにすることなのである。
 このようにして、アナキズムは自発的仕事と自由提携の原理を確保できるようになると同時に、不快で不要な「労働」が確実に無用になるようにもする。それ以上に、大部分のアナキストは次のように確信しているのである。自由社会では、人々を勇気づけて不快な労働を自発的に行うようにする必要は、相互扶助と連帯が当たり前のことになるに従い、時間と共に消え失せるだろう。実際、人が、他者が不快だと思う仕事を行うことで、尊敬を受けるようになる見込みは高い。従って、そうした活動を行うことは「カッコイイ」ことになるだろう。友人に対して誇示することはいかなる活動を行う上でも強力な刺激になり得る。従って、アナキストはアルバートとハーネルが次のように述べていることに同意するであろう。

 目立った消費以外に由来することを高く評価させないように尽力している社会において、努力させるためには大きな収入格差が必要だと見なされるのは驚くべきことではない。だが、資本主義の下でなんとかやりくりしているからという理由で、目立った消費だけが人々を動機付けることができると仮定するのは不当である。人が個人的富以外の理由で大きな犠牲を払ってでも行動することがあり得ることを示す数多くの証拠があるのだ。病的ではない人にとって、富は、経済的安心・安楽さ・社会的評判・尊敬・立場・権力といった富以外の目的を達成する手段としてのみ切望されることが多い。このことを信じるだけの理由があるのである。[The Political Economy of Participatory Economics, p. 52]

 ここで記しておかねばならないが、教育シンジケートは、学級構造を決定する際に、明確に、「職業」配置要件の傾向を考慮に入れることになろう。このようにして、(生産シンジケートと同様に)教育は個人のニーズだけでなく社会のニーズにも対応するであろう。

I.4.14 仕事をするつもりがない人についてはどうなのか?

 アナキズムは自発的労働に基づく。人が仕事をしたくないのであれば、その人に無理矢理仕事をさせることはできない(させてはならない)。問題は、仕事をすることを拒否している人(もちろん、ごく少数である)についてどのように対処するのか、ということである。
 この問題については意見が分かれている。アナキスト、特に無政府共産主義者は、怠惰な人も生活手段を剥奪されてはならない、と論じる。その主張によれば、社会的プレッシャーが、地域社会から受け取るだけで地域社会に貢献しない人に対して、自分の良心に耳を傾けさせるようにし、自分を支援している地域社会のために生産し始めるようにさせる。他のアナキストはそれほど楽天的ではなく、アナキズムは『労働を強制することにではなく、仕事をしたくない人に対して義務を課さないこと』に基づくべきである、というカミーロ=ベルネリの主張に同意している。["The Problem of Work", in Why Work?, Vernon Richards (ed.), p. 74] つまり、アナキズム社会は、生産活動をできるのに拒否している人に衣食住を提供し続けはしないのである。大部分のアナキストは、資本主義下において生産せずに消費するだけの金持ちにウンザリしており、革命後に新しい寄生集団を支援しなければならない理由など理解できないのだ。
 明らかに、仕事をしたくないことと、仕事ができないこととは違う。病人・子供・老人・妊婦などは、友人や家族(もしくは、関係者が望むならばコミューン)が世話することになる。もっと明白な経済的活動と共に子育てが「仕事」だと見なされれば、母親と父親は自分の子供を独りぼっちにして生活をやりくりするために働くことなどなくなるだろう。逆に、地域の託児所と保育所を作ると共に、両親と子供のニーズが配慮されることになろう。
 強調しておかねばならないが、アナキズム社会は誰に対しても生活手段を否定することはない。生活手段の否定は、あらゆるアナキズム学派の中核である自発的労働を侵害することになる。資本主義とは異なり、生活手段はいかなる集団−−コミューンも含む−−によっても独占されることはない。つまり、コミューンに参加したくなかったり、コミューンの中で自分の職務を行わなかったりして、コミューンから除名された人は、そのコミューンの外で生計を立てる手段を入手することになるのである。
 この事実を私たちが強調しているのは、資本主義支持者の多くがこの点を理解できていない(もしくは、好んで無視し、アナキズムの立場を曲解している)ように思えるからである。アナキズム社会では、独りで仕事をするために必要な生産手段や土地を入手できないからという理由で、コミューンに無理矢理参加させられる人はいない。生活手段の入手が資本家階級からそれを入手する権利を購入できるかどうかにかかっている(従って、事実上大多数の人々が手にできない)資本主義とは異なり、アナキズム社会は、万人が、入手する権利を持ち、コミューンで生活するか、自力で働くか、という現実的選択肢を手にするように保証する。この入手権は、占有と財産との根本的違いに基づいている−−コミューンは必要なだけの土地を占有するが、これはコミューンのメンバーではない人々も同様である。使用する資源は通常の占有原理の対象となる−−使用する限りにおいて所持し、使っていないときに他者が使用するのを妨げることはできないのである(つまり、これは財産ではないのだ)。
 アナキストのコミューンは自発的結合であり続け、あらゆる形態の賃金奴隷を確実に廃絶する(
セクションI.1.4も参照)。コミューンのメンバーは、地域社会の一部としての仕事の選択肢を持ち、能力に応じて提供し、必要に応じて受け取る(もしくは、平等な収入や労働券の受領などのような他の方法で生産と消費を組織する)か、独りで働いて、全く責務を持たず、公共の利益も(道路などのような公共資源を使用することに関わるものを除き)受け取らないかのどちらかである。
 従って、全てではないにせよほとんどのアナキズム地域社会において、個人は二つの選択肢を持つことになる。コミューンに参加して平等者として共に働くか、個人や単独の協同組合で働き、自分の労働の産物を他者と交換するか、である。コミューンに参加したのに、仲間の労働者が求めた後でさえも、自分の職務を果たさない人がいた場合、その人は、自分で働くのに充分な土地や道具などの生産手段を渡されて、コミューンから除名される見込みが高い。もちろん、人が鬱や衰弱といったコミューンの責務に参加できそうにない状態であったなら、友人と仲間の労働者ができる限り手助けできるすべてのことを行おうとし、この問題に対して柔軟に対応することになろう。
 ルイス=マンフォードが「基本的共産主義」と述べたことを導入するアナキズム地域社会もあり得よう。これは、万人が、生産活動とは無関係に基本的「購買力」を持つ、という意味である。最小限の資源で満足する人は働かなくても構わない。コミューンの十全な利益を入手したいと思うなら、コミューンの労働プロセスに参加できる。これは、人を労働に駆り立てるあらゆる強制力−−コミューンの強制力すらも−−を削減する手段になりえる。従って、あらゆる労働が十全に自発的なものになることを保証するのである(つまり、情況に強制されることさえないのだ)。ある地域社会がどのような方法を使うかは、その地域社会にいる人々が何をベストだと考えるのかに依ることになろう。
 だが、大部分のアナキズム地域社会では、人々は働かねばならないものの、その働き方は自発的なものになる見込みが高い。人が働かなかった場合、実際に働いている人々の労働に寄生して生きていく人がいることになり、資本主義に逆戻りしてしまう。しかし、大部分の社会的アナキストは、仕事をしたがらない人という問題は、アナキズム社会では微々たる問題になると考えている。これは、労働が人間生活の一部であり、自分自身を表現する一つの本質的やり方だからである。自発的に行う仕事と自主管理された仕事によって、仕事は今日の趣味活動のようなものになるだろう。多くの人々は、「実際の」仕事よりも自分の趣味に一生懸命になるものである(このFAQもその一例だと見なすことができよう!)。資本主義下での雇用の性質こそが、仕事を楽しみではなく「労働」にしているのである。仕事は、早く終わって欲しいと思う一日の一部である必要はない。クロポトキンが論じているように(そして、その後の実証的証拠が示しているように)、人々が憎んでいるのは労働ではない。むしろ、人々が憎んでいるのは、働き過ぎであり、不愉快な労働条件であり、他者の管理下に置かれることなのである。労働時間を削減し、労働条件を改善し、労働を自主管理下に置くことで、労働は忌まわしいものではなくなるだろう。クロポトキン自身の言葉を引用しよう:

 不愉快な仕事は消滅するだろう。なぜなら、こうした不健康な諸条件が全体としての社会にとって有害だ、ということは明白だからだ。奴隷ならばそれを甘受できるだろうが、自由人は新しい諸条件を創り出す。自由人の仕事は楽しいものになり、飛躍的に生産的になるだろう。今日の例外は明日の標準になるだろう。[The Conquest of Bread, p. 123]

 このことは、労働日が短くなることと相まって、愚者だけが独りぼっちで労働したいと思うようになることを確実にする手助けをするだろう。マラテスタは次のように論じていた。『自分自身の物質的欲求を独りぼっちで働くことで満たそうと思う人は、自分の労働の奴隷になるだろう。』[The Anarchist Revolution, p. 15]
 啓蒙された自己利益は、自発的労働と平等的分配を保証し、アナキストが民衆の大多数を支援できるようにしてくれる。資本主義に結び付いている寄生は、過去のものとなるだろう。「怠惰な」人の問題は、人間の本性を理解できないでいるのであり、仕事の性質と内容に対して自由と自由社会が持つ革命的影響を理解できていないだけのことなのだ。

I.4.15 未来の仕事場はどのようなものになるのだろうか?

 アナキストが全ての人に内在するアーティストを解放したいと望んでいることを考えれば、自由社会が労働環境を徹底的に変換するだろうと容易く想像できる。労働者はもはや自分の仕事場に対して無頓着にはならず、地元地域社会の生活と地元の環境とに仕事場を溶け込ませ、仕事場を快適な環境へと変換する中で自分自身を表現するようになる。結局、『労働者評議会を求めた運動は、それが仕事場環境の徹底的変換を促そうとしない限り、革命的だとは見なすことはできないのだ。』[Murray Bookchin, Post-Scarcity Anarchism, p. 146]
 未来の仕事場像は、現実の階級闘争に垣間見ることができる。1936年にミシガン州フリントにあるフィッシャー=ボディ第一工場で行われた40日間の座り込みストライキには、『2000人のストライキ参加者からなるコミュニティがあった。レクリエーション・インフォメーション・各種教室・郵便サービス・公衆衛生について委員会が組織された。議会手続き・演説方法・労働運動史に関する教室が開催された。ミシガン大学の大学院生たちは、ジャーナリズムと独創的文章の書き方に関する講座を行っていた。』[Howard Zinn, A People's History of the United States, p. 391] 同じ年、スペイン革命の最中に、集産化された仕事場は、図書館と教育機関を創り出し、同時に、学校や医療など社会的に必要なものに資金提供していた(記しておかねばならないが、CNT組合による学校・社会センター・図書館などへの資金提供は革命以前から行われていた実践だった)。
 従って、仕事場は個人の発達に対する教育と各種講座を含むように拡大されるであろう。(そのことで、プルードンの次のコメントに従っているのである。私たちは『協会を組織し、さらに、あらゆる仕事場が学校となり、全ての労働者が先生になり、全ての学生が徒弟となる』ようにしなければならない [No Gods, No Masters, vol. 1, pp. 62-3])。このことで、仕事場が拡大地域社会の一部になることができるようにし、様々な分野の人々が集まることで、その知識を共有し、新しい見識と考えを学ぶことができるようにする。さらに、仕事場を子供たちの授業に組み込むことで、子供たちは、詳しい情報を得た上で、大人になってから自分がどのような活動を追求することに興味を持つのか決めることができるようになる。
 明らかに、労働者が管理している仕事場は、労働環境をできるだけ愉しいものにすべく配慮するであろう。「シックハウス症候群」や不健康でストレス一杯の作業場はなくなる。建物は、スペースを最大限生かし、個人がその中で表現できるようにデザインされる。仕事場の外は、労働者自身が手入れをしている庭と菜園に囲まれ、仕事場に対して快適な環境を与えてくれると想像できる。その結果、都市と田舎の区別が取り壊されるであろう−−仕事場は田野の隣に位置し、その環境に溶け込むであろう:

 工場と仕事場を田野と庭園のすぐ近くに置き、そこで仕事をせよ。もちろん、これは、莫大な量の金属を扱わねばならず、自然が示す特定の地点に置いた方が良い大規模な施設のことではない。これは、文明人が持つ無限に多様な嗜好を満足させるために必要な無数の多様な仕事場と工場のことである。男性・女性・子供たちが、空腹に突き動かされるのではなく、自分の好みに合った活動を見つけたいという願望によって引き付けられる工場と仕事場である。そこでは、人々は、動力と機械に手助けされながら、自分の好みに最も合った活動分野を選ぶであろう。[Peter Kropotkin, Fields, Factories and Workshops Tomorrow, p. 197]

 この田舎と都会の統合というヴィジョンは、アナキストが考える未来の仕事場の一部に過ぎない。クロポトキンは次のように論じている。『私たちは統合を宣言する。統合され、結合された労働から成る社会を。個々人が肉体作業と知的作業の生産者である社会。壮健な人が労働者となる社会。個々の労働者が農作業と製作作業で働く社会。多様な自然資源を処理するだけ充分な規模の−−それは国、もっと厳密に言えば一地方だと思われる−−あらゆる人間集団が、自身の農産物・工業製品の大部分を生産し、自身で消費する社会である。』[前掲書, p. 26]
 未来の仕事場は、そこで働く人々の願望の表現となるであろう。庭園の中にあり、大規模な図書館や教育的講座など余暇活動の資源を持つ、愉しい労働環境を基盤とするであろう。自己実現と自己表現に基づいた社会、個性が権威と資本主義に破壊されていない社会において、このこと全てが、そしてこれ以上のことが可能になるであろう。再度クロポトキンを引用しよう。『もし、私たちが知っている仕事場の大部分が不潔で不健康だったなら、それは、工場組織の中で労働者が全く取るに足らないものとなっているからだ。』そして、『奴隷ならばそれを甘受できるだろうが、自由人は新しい諸条件を創り出す。その仕事は愉しく、生産性は無限に高まるであろう。』[The Conquest of Bread, p. 121 and p. 123]
 ウィリアム=モリスは次のように論じている。『要するに、私たちの建物は、仕事場としてそれ自体の簡素美を持ち、美しくなるであろう。単なる仕事場以外に、私たちの工場は、それ以外の装飾を持つ別な建物も持つことになるだろう。食堂・図書館・学校・様々な種類の研究を行う場所といった建造物が必要だからである。』こうしたヴィジョンは可能であり、現在は資本主義によって阻止されているだけのことである。資本主義はこうした自由のヴィジョンを「不経済だ」と非難する。だが、ウィリアム=モリスは次のように指摘している:

 不可能だ!と反社会主義者が述べているのを聞く。友よ、思い出して欲しい。ほとんどの工場が、今日、素晴らしい大庭園を維持している。そして時には公園も維持している。だがしかし、上記した庭園などは、工場から20マイル離れた場所、煙突の煙の届かない場所にあり、工場の一人のメンバーだけ、すなわち匿名社員だけのために維持されているのだ。[A Factory as It Might Be, p. 9 and pp. 7-8]

 労働の自主管理に基づいた愉しい労働条件は、個性と環境を崩壊させることなく経済「効率」を達成できる仕事場を生み出すことができるのである(アナキズムとテクノロジーに関するもっと十全な議論はセクションI.4.9を参照)。

I.4.16 リバータリアン共産主義社会は効率が悪くならないのだろうか?

 無政府共産主義などの非市場型リバータリアン社会主義は非効率的で非生産的仕事を助長する、と論じられることが多い。この主張の基盤は、労働者に規律を守らせる市場の力と労働者に報酬を与える利益動機がなければ、労働者は時間と資源を最小限に抑えるやり方で仕事をする気がなくなる、というものである。このことの最終的結果は、資源−−特に個人の時間−−の非効率的利用となる、というわけだ。
 これはある意味で妥当な指摘である。例えば、社会は、少ない時間で特定の商品を生産し、多くの時間を他の活動に使う、といった具合に生産性の増加から(潜在的に)利益を得ることができる(もちろん、階級社会においては、生産性増大の利益は、真っ先に、トップにいる人々のものとなることが多いのだが)。実際、一個人にとって、まともな社会は、自分が行いたいことを行うための時間・自分の望むようなやり方で自分自身を発達させる時間・楽しく過ごす時間を人々が持っているかどうかにかかっている。さらに、少ない資源で多くを行うことは、環境に対しても好ましい影響を持ちうる。こうした理由から、アナキズム社会は、生産の最中に効率性と生産性を上げることに関心を持つことになるだろう。
 資本主義は、仕事を増やし、少数者を金持ちにし、労働者階級を一様にプロレタリア化することで生産性を改善させてきたが、自由社会は生産性の問題に対して別なアプローチを取る。
セクションI.4.3で論じたように、無政府共産主義社会は、次の原理に基づくのである。

 一日当たり相当量(今日では金銭という点で、未来では労働という点で)、君は、様々な自分の欲求を−−贅沢を除き−−満足させる権利を持つ。[Peter Kropotkin, Small Communal Experiments and why the fail, p. 8]

 このことに基づき、特定産業での一定時間における平均的生産高を使って、効率性と生産性を促すことになる、と推測できる。あるシンジケートが、合意された平均数や最小数よりも少ない時間で、少なくとも平均的な品質を保ちながら(もちろん、生態系や社会的な外的影響を引き起こさずに)、この平均生産高を生産できれば、そのシンジケートのメンバーはその分の休暇を取ることができ、また、休暇を取らねばならないのである。
 このことは、技術を革新し、生産性を改善し、新しい機械と工程を導入するための強力な動機となり、同時に、利益動機と物質的不平等を再導入せずに効率よく仕事を行うための強力な刺激となるだろう。生産活動に参加している人々は、自分自身と自分がやりたい事とのためにもっと多くの時間を手に入れることができるため、効率的になることに強い関心を持つだろう。もちろん、当該の仕事が自分が楽しんで行っている仕事だった場合には、効率性の増大は、その仕事を愉しいものにしている事を、取り除くのではなく、よりいっそう強めてくれるであろう。
 効率性の報酬として自由時間を提供することは、資源の効率的使用を保証する重要な手段であると同時に、つまらないとか、さもなくば望ましくないとか考えられる生産活動に費やす時間を減じる手段でもある。不愉快な仕事をできるだけ早く片付けたいという動機が、仕事を効率よく終わらせ、技術をそれに向けて革新することを保証してくれるであろう。
 さらに、主な投資決定について言えば、あるシンジケートが優れているという評判を得ると、そのシンジケートの計画に他者が合意しやすくなる。このことが、再び、効率性を促すことになる。人々が、自分たちの仕事が効率よく信頼性を持って行われれば、自分たちの地域社会と仕事場(つまり、自分たち自身)に対する資源をもっと容易く手に入れることができると理解するようになるからである。これが、効率性と資源の有効利用とを促す重要な手段となろう。  同様に、効率が悪かったり無駄が多かったりするシンジケートは、仲間の労働者から否定的な反応を得ることになる。セクションI.4.7(生産者が消費者を無視しないようにするためにはどうすればよいのだろうか?)で論じたように、リバータリアン共産主義者会は、自由提携に基づく。あるシンジケートや地域社会が、資源を効率悪く使用しているという評判を得ると、他者はそのシンジケートや地域社会と関係を持たなくなるであろう(つまり、物資を供給しなくなったり、どの生産要求に物資の供給をするか決定するときに優先順位の最後に回したりする、といった具合である)。粗悪品を生産しているシンジケートと同様、非効率的なシンジケートも仲間の判断に直面することになる。これが、資源と時間との効率的利用を促す環境を創り出すのである。
 自由時間増加の可能性・効率的で優れた仕事に与えられる尊敬と資源・資源の非効率的使用のために他者との協同ができなくなる可能性、こうした要因全てが、無政府共産主義社会や無政府集産主義社会が非効率性を恐れる必要がないように保証しているのである。実際、効率性の増大が持つ利益を実際に仕事をしている人々の手に置くことで、効率性は必ず増大するであろう。
 自主管理と共に、人的時間が効率的かつ生産的に使われるのをすぐに見ることができるようになろう。仕事をしている人々が、時間の使用について直接的・現実的な関心を持っているからだ。人々は、資本主義下でそうであるように自分の自由を疎外するのではなく、生産活動を楽しいものにするようなやり方で、自分の時間を無駄にせずに、自分の創造性と知性を使って生産活動を変換するだろう。
 クロポトキンが次のように論じていたのは驚くに当たらない。現代の知識を社会に当てはめて、人々は『自分の手と知性の働きを使って、既に発明されている機械や今後発明される機械の助けを借りながら、考えられ得る全ての富を自分たち自身で創り出さなければならない。生産がこうした方向性を取れば、技術と科学が立ち後れることはない。観察・分析・実験によって導かれることで、技術と科学はあり得る要求全てに答えるであろう。要求された量の富を生産するために必要な時間を減じ、求めるだけ多くの余暇を万人に残すであろう。技術と科学は、超過労働をする必要のない仕事において、人間が持つ様々な能力を十全かつ多様に行使する際に見出すことのできる幸福を保証するのである。』[Fields, Factories and Workshops Tomorrow, pp. 198-9]
 最後に一点。自由社会は、疑いもなく、何を資源と時間の効率的使用と見なすのかについて新しい基準を創り出すだろう。資本主義においては、「効率的」使用だと認められていることは、少数者の権力と利益を増大させる上で効率的だという意味の場合が多い。個々人の時間・エネルギー・潜在的可能性の無駄な使用、そして、環境コストと社会的コストといったことは考慮されていない。意志決定をしたり、効率的生産を評価する上でのこうした限定的な基準は、アナキズム社会では存在しなくなる(例えば、価格メカニズムの非合理的性質に関する議論は、セクションI.1.2を参照)。効率性という言葉を私たちが使う際には、資本主義市場がこの言葉を歪めているような意味(つまり、ボスに対して最大の利益を創り出すこと)ではなく、効率性という言葉が持つ辞書的定義(つまり、無駄を削減し、資源を最大限生かすこと)を意味しているのである。

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