アナキズムFAQ

I.4.8 投資決定についてはどうなのか?

 明らかに、社会は消費の変動を考慮せねばならず、従って、新しい生産手段に対する投資も考慮しなければならない。アナキズム社会でも同じである。G=D=H=コールは次のように指摘している。『最終的使用のための生産と、さらなる生産のための生産とのバランスを保つことは、常に不可欠であり、時節に応じた様々な考慮事項に従って行われる。そして、このバランスは、地域社会全体によって、地域社会全体のためにすべき事柄なのである。』[Guild Socialism Restated, p. 144]
 このバランスを決定する方法は、アナキズム諸派の考えによって異なる。しかし、このような重要な課題は効果的な地域社会管理下にあるべきだということについては全てのアナキストが同意している。
 相互主義者は、投資の問題に対する解決策を、相互銀行システムの創設だと考えている。相互銀行システムは利率をゼロに引き下げる。『相互依存すなわち相互主義の原理に基づいた貸付金の組織化によって』このことは達成される。『そうした組織の中で、貸付金は、地域社会が管理する尊い社会的機能へと引き上げられる。社会がその構成員に投資しない場合には、貸付金は実際の取引コストに貸し出されることになろう。』[Charles A. Dana, Proudhon and his "Bank of the People", p. 36] これによって、必要とする人々が金銭を手に入れることができるようになり、従って、資本主義の所有関係だけでなく、その景気変動の力をも弱めることになる(つまり、貸付金を手に入れるのは必要に応じてであって、貸付金を提供することで銀行家が利益を得ることができるときにではない)。
 相互主義体制下では、投資のための貸付金は二つの出所から入手可能になる。まず、個人や協同組合の貯蓄資金から、そして、相互銀行や信用組合といった様々な形態の信用金庫からの利率ゼロ%の貸付金からである。成功する見込みが高く元金の返済可能性が高いと相互銀行が考えたプロジェクトに、融資が割り振られることになる。
 集産主義アナキストや共産主義アナキストは、貸付金は人間活動に基づいており、それが金銭で示されているのだ、ということを認めている。ギルド社会主義者G=D=H=コールは次のように指摘していた。『この点(投資)を理解することは、次の事実をハッキリと正しく認識できるかどうかにかかっている。あらゆる現実的資本追加は、生産的労働力の一部の方向付けると共に、製品製造やそれに伴う業務提供のためではなく、さらなる生産目的のために資材を使う、ということなのだ。』[Guild Socialism Restated, p. 143] 従って、集産主義アナキストと共産主義アナキストは相互主義の従兄弟が次のように述べていることに同意しているのである。『あらゆる貸付金は、労働を前提としているのであり、労働を止めると、貸付金は不可能になる。』そして、『貸付金の正当な出所』は、『労働する階級』であり、この階級が『貸付金を管理せねばならず』、『貸付金の収益を使用しなければならない。』[Charles A. Dana, 前掲書, p. 35]
 従って、集産主義においては、投資資金はシンジケート・コミューン・地域(「人民」)「銀行」関係者のために存在することになる。投資資金は、商店の減価償却基金に使われるだけでなく、集産集団が同意した投資プロジェクトに対する基金にも使われる(例えば、集産集団は、様々な主要投資プロジェクトで利用できる必要資金を調達するために、集産集団が持つ労働貨幣の一定割合を共通口座に割り振ることに合意するだろう)。同様に、個々のシンジケートとコミューンも、自分たち自身の投資プロジェクト資金の蓄えを創り出すだろう。その中で、集産主義アナキズムは、相互主義と同様に、共有の信用金庫を使って非搾取的原則(つまり、ゼロ利率で貸付金を出す)で貸付金と貯蓄を組織することで、投資を促すのである。
 ただ、「人民銀行」と関係を持つシンジケート連邦も、同様に、明確な計画立案機能を有する−−つまり、生産が確実に需要を満たすようにするために投資決定において一つの役目を果たすのである(下記を参照)。これは、投資計画に資金提供をすべきかどうかを決定する上での一つの要因となるであろう(強調しなければならないが、このことは、資本主義企業が予期される需要を満たすために将来的投資を計画するといった、「中央計画」ではない)。
 共産主義アナキスト社会では、相互主義や集産主義でのような労働貨幣は使われないため、事態は少々異なる。これは、集産集団は自分たちの生産と活動の一部が投資プロジェクトに向けられることに同意する、ということを意味する。その結果、個々の集産集団はコミューンが承認した金額を利用でき、それは、全集産集団の労働力に対する協定要求という形をとる(投資は『本質的に原料と労働の割り振りであり、根本的に、人的生産力の割り振りなのだ』[Cole, 前掲書, pp. 144-5])。このように、相互扶助によって、万人が利益を得るための将来の安定した資源貯蓄が確実にできるようになるのである。
 これはどのように行われるのだろうか?投資決定が社会全体に対して意味を持つことは明らかである。こうした決定の実行は、既存のキャパシティを使用するため、適正な連邦レベルで責任が持たれねばならない。必要物資を生産する能力を持つシンジケートの現行生産量に対する需要という形であれば、生産ユニットのレベル以上で行われた投資決定は有効になる。そのために必要なのが、個々のシンジケートが『すぐさま使用する商品やサービスの要件、そして拡大・改善のための要件について見積もりを示しつつ、予算を準備する』[Cole, 前掲書, p. 145]ことである。こうした予算と投資プロジェクトを、連邦の適切なレベルで議論するのである(この点について、共産主義アナキズムは集産主義アナキズムと同様である)。
 シンジケート連邦やコミューン連邦は、必要とされた様々な投資計画について議論(やり取り)する−−そして、競合する目的間で希少資源を割り当てる−−ための理想的なフォーラムとなる。多分、ここには、投資を二つのグループ−−必要と任意−−に分けること、そして、投資決定の影響を考慮するために統計テクニックを使うこと(例えば、投入算出表を使用することで、特定の投資決定、例えば、鉄鋼産業がエネルギー生産において投資を必要としているかどうかを評価することができるようになる)が含まれるだろう。このようにして、社会的ニーズならびに社会的コストが考慮され、様々な投資決定が互いに孤立して行われることで他の産業からの投入がないために障害が生じたり、不充分な生産が行われたりしないように保証するのである。
 必要な投資とは、適正な連邦が合意した投資である。つまり、合意された投資プロジェクトに示されていることに従って、この投資に対する資源と生産能力の優先順位を付けるわけである。特定の投資プロジェクトに対して誰が必要物資を提供することになるのかは正確に決めなくても構わないだろう。他の要求物資よりも特定物資が優先されるというだけで良いだろう。現在、銀行は、ある企業に信用貸しをするときに、その金が厳密に何を建設するものなのかを問うことはない。むしろ、信用貸しを提供することで、他の労働者の労働を命じる権限をその企業に与えている。同様に、無政府共産主義社会では、「必要投資」を指定することで、他の労働者が当該プロジェクトに自分の労働力を提供することに同意することが期待される。つまり、「必要投資」についてあるシンジケートに依頼が届いたとき、そのシンジケートは依頼を満たそうとしなければならないのである(すなわち、その依頼に応じるキャパシティを持っていれば、「任意の」依頼よりも先にその依頼を生産スケジュールに乗せねばならない)。必要な投資プロジェクトのリストには、そのプロジェクトが何を必要としているのか、以前にも受注されたことがあるかどうかが含まれ、リストは、そうした依頼が現実になることを保証するために全てのシンジケートが入手できるようになるだろう。
 任意の投資とは、単に、連邦が同意していない投資プロジェクトのことである。これは、あるシンジケートやコミューンが別のシンジケートに注文書を発行したとしても、注文には応じられなかったり、届くのに長い時間かかったりするかも知れない、という意味である。プロジェクトは前進するかも知れないが、それは、シンジケートやコミューンがその仕事を喜んで行いたいという労働者を見つけることができるかどうか次第である。これが当てはまるのは、小規模の投資決定や、他のコミューンやシンジケートが必要不可欠だと考えていない投資決定である。
 このように、私たちは二つの相互に関連した投資戦略を持つことになる。共産主義アナキズム社会では、「必要な」投資プロジェクトと「任意の」投資プロジェクトを使うことで、様々な投資に優先順位をつけることになる。この投資の社会化は、自由社会が、分権型で生き生きとした「経済」を維持しつつ、社会的ニーズを確実に満たすことを可能にする。社会ニーズを満たすための主要プロジェクトは効率的に計画されるが、比較的重要ではないプロジェクトについては多様なやり方で計画される。さらに、そうした社会が実際に資源の何パーセントを投資に使うのかを記録できるようにし、そのことで、現在のニーズが将来のニーズのために犠牲になったり、将来のニーズが現在のニーズのために犠牲になったりしないように保証するのである。
 投資が必要な時期に関しては、集産主義アナキズムにおいても共産主義アナキズムにおいても需要の変化に基づくであろう。ギョームは次のように述べていた。『一地方の全コミューンから集めた統計を使うことで、生産と消費のバランスを科学的に取ることが可能になるだろう。こうした統計に従うことで、生産が不充分な産業を支援し、生産過剰になっている産業にいる人々の数を減らすことができるようになるだろう。』[Bakunin on Anarchism, p. 370] 明らかに、需要の多い生産部門に対する投資は不可欠であり、集産集団とコミューンが集めた統計からもこのことは容易く分かるだろう。トム=ブラウンはこの明白な点について次のように述べている。

 現在のように、多様な製品が生産されることになるだろう。労働者は様々な種類の製品と新製品のモデルを生産することを好むからである。人気のない製品は売れ残ってしまうだろう。人気のある製品は店からなくなってしまうだろう。確かに、店員は人気のない商品の発注を減らし、人気のある商品の発注を増やすことは明らかである。[Syndicalism, p. 55]

 経験則として、投資財を生産しているシンジケートは、他の全てのことは平等だったとしても、他のシンジケートよりも需要過剰となっているシンジケートに優先して供給するものである。そうしたガイドラインと生産者間のコミュニケーションのおかげで、実際に投資を必要としている産業に対して投資がなされることになる。言い換えれば、消費者の選択(様々なシンジケートの生産活動の内で個人がどれを選ぶかによって示される)が、投資決定に関連する情報を生成するのである。
 生産の分権化は、それが理に適い、分権化する論理的根拠を持っている限り行われ、その結果、地域や地方はその土地独自の必需品を理解できるようになり、適切だと思われるだけ必需品を申請できるようになる。つまり、大規模な計画立案(もちろん、それが実効性を持つと仮定すれば)は、単にそれが不要だからという理由で行われなくなるのである。
 生産の分権化を包括的コミュニケーションネットワークと組み合わせることで、投資が、経済圏内で使用されていない工場を再び創り出さないように保証するだけでなく、個々の地元地域が持っている独自の問題と機会とを考慮するように保証する。もちろん、集産集団は、既存の生産ラインだけでなく、新しい生産ラインとテクノロジーを使って実験し、そのことで、新しいテクノロジーと製品に対して投資が行われることになろう。資本主義でも行われているが、新しい製品に対して主要投資決定をする前に、包括的な消費者テストが行われるであろう。
 さらに、投資決定には、様々な選択肢の結果を示す情報も必要となろう。これは、単に、様々な投資プロジェクトが、既存の技術と比べて、入出力という点で、どのように関連しあっているのかを分析する、という意味である。これは、費用便益分析(
セクション I.4.4で概略されている)という形を取り、工業技術をもっと効率的・もっと権限付与的・もっと生態調和的な方法に切り替えるために経済的・社会的・生態学的感覚に適うようにする際に、示されるであろう。こうした評価は、投入レベルを示し、生産見込みと投入レベルを比較する。例えば、新しい生産技術が総労働時間(機械を生産するための労働時間をその機械を使用した場合に削減される労働時間と比較する)を削減し、同じ生産量に対して廃棄物を削減したとすれば、そうした技術が使用されることになるのである。
 同様のことが地域社会にも言える。コミューンが市民投資(例えば、新しい公園や住宅など)の決定をし、計画をしなければならないことは明らかである。また、地域における産業発展といったことについても決定的な発言権を持つことになろう。シンジケートが、住宅協同組合が望まないのに、住宅の隣にセメント工場を建設するなど不当である。地域コミューンがその地域のシンジケートに対する投資決定の判断をすると主張する場合がある(例えば、シンジケートは○○計画を立案し、地域コミューンがこの計画を議論し、議論の結果として××計画を最終承認する)。広域地方の決定(例えば、新しい病院)については、保健シンジケートと消費者協同組合からの情報提供を利用して、適正レベルで決定がなされる。投資決定が行われる実際の場所は、参加する人々が決める。しかし、工夫を促すために、地元のシンジケートは新製品開発と投資計画立案の中心にならねばならない。
 従って、社会的アナキズム下では、投資が必要かどうか・どのような形態をその投資が取ることになるのかを決定するために、資本市場は必要ないのである。資本主義の擁護者が現在株式市場で行われていると主張している仕事は、分権型で連邦型のネットワークにある仕事場間の協働とコミュニケーションで置き換えることができる。ある製品に関して様々な消費者が持つ相対的ニーズは生産者が評価でき、最も上手く活用される場所では、充分な情報を踏まえた意志決定に到達することができる。
 資本市場がなくなれば、住宅や仕事場などは、もはやできる限り最小限の空間に束縛されることはなくなる。その代わり、住宅・学校・病院・仕事場などは「グリーンな」環境の中に建設されるだろう。つまり、自然な場所の中で、自然から孤立することなく、人的建築物が配置されるのである。このようにして、人間生活を豊潤にすることができ、「経済的」だからという理由で多くの人間・事物を小規模な空間に束縛するという害悪を克服することができる。
 さらに、株式市場は、資本主義の中で資本を実際にもたらす手段ではない。エングラーは次のように指摘している。『このシステムの支持者は、株式市場が事業資金を動員している、と主張する。そうなのだろうか?人々が株を買ったり売ったりするとき、いかなる投資も企業資金に行かず、現金取引については永遠に株式の持ち主が変わるだけを繰り返している。企業資金は新しい出資証券からしか入手できない。これは、1980年代の米国において、株式取引の平均0.5%だけだったのである。』[Apostles of Greed, pp. 157-158] 実際、ダグ=ヘンウッドは次のように述べている。『株式市場が発しているメッセージは、現実の経済活動にとって不適切であるか、有害であるかのどちらかでしかない。そして、株式市場それ自体は、資金源としてほとんどもしくは全く有効ではない。株主は全く有効な役割を持っていないのである。』[Wall Street, p. 292]
 それ以上に、株式市場の存在は投資に対して重大な(負の)効果を持っている。ヘンウッドは『経営者と株主との間には重大なコミュニケーション問題がある』と指摘している。『関係者が(企業の)収益予測に対する上向バイアスを意識し、それが正しかったとしても、経営者はなおも市場を欺こうとする動機を持っている。仮に真実を告げれば、疑い深い市場によって、正確な予測が示していた価格は引き下げられてしまう。従って、巧妙に会計報告をしたり、資本回収を素早くできる投資だけを行ったりすることで、短期的に利益を高めることは経営者にとって完全に合理的なのだ。』従って、『辛抱強い長期的成長よりも、今日の即時的利益を望ましいとすることで名高い市場(株式市場)に直面している』経営者は『その命令を実行する以外に選択の余地がない。そうしなければ、その会社の株は値下がりし、乗っ取りの機会を与えてしまうことになる。』『企業と経済組織は、ひもじい思いをすることでもっと金持ちになることはできない』が、株式市場の投資家は『自分が所有する企業がひもじい思いをする−−少なくとも、短期間−−ことで、もっと金持ちになることができるのだ。長期間についてはどうかというと、それは再来週あたりの他人事なのである。』[前掲書, p. 171]
 皮肉なことに、この情況はスターリン主義中央集権計画と類似している。国家のシステム管理者の下、仕事場は計画立案官僚制度に対してキャパシティを偽る動機を持っていた。そして、計画立案者はより高いキャパシティを仮定したため、正直な経営者を損ない、嘘をつくように奨励することとなった。もちろん、このことは、経済に対して重大な悪影響を及ぼした。当然の如く、資本主義市場が経済に対して及ぼすことと同様の効果が、同じぐらい酷い影響を仕事場にもたらし、長期的問題と長期的投資は軽視されたのである。
 労働者階級から離れて歪んだ生産を資本主義が生み出したこと、そして、市場分配の「効率性」は非常に疑わしいこと、これらを繰り返し述べる必要はあるまい。
 「専門家」から投資決定を奪い去り、普通の人々の手に渡すことによってのみ、現在の世代が自分たちの利益と将来の世代の利益に照らして投資をできるようになる。金持ちを作ることを目的とした機関・何百万もの人々の生活を思いつきで左右するような機関を持つことなど、私たちの利益にはならないのである。

I.4.9 テクノロジーの進歩は反アナキズムだと見なすべきなのか?

 必ずしもそうではない。テクノロジーは「より少ないもので多くを行う」ことを可能にし、万人の生活水準を改善することができ、個人の自由を増大するために使うこともできるからだ。例えば、医療テクノロジーは、苦痛・疾病・「自然な」短命といった苦しみから人を解放できる。また、テクノロジーを使って、生産に関わる日常的雑務から労働者を解放することもできる。高度のコミュニケーションテクノロジーは、自由に連合する能力を高めることができる。羅列すればきりがないほど様々なことが可能になる。従って、大部分のアナキストはクロポトキンが次のように指摘していることに同意しているのである。『(工業)技術の発達のおかげで、遂に、人間は奴隷のような苦役から解放される機会を与えられた。』[Ethics, p. 2]
 例えば、資本主義下で増大している生産性は、通常、より多くの搾取と支配、労働者の追放、経済危機等を導いている。しかし、アナキズムの世界ではそうはならない。一例として、あらゆる資源が成員の中で平等に分配されているコミューンを考えてみよう。このコミューンにはパン屋をやりたいと思っている人が五人おり(もしくは五人が共同パン屋の仕事をしなければならない)、論議のために、仮に、一人当たり週20時間を地元コミューンのパン作りに費やすとしよう。さて、労働者自身が望み、計画し、準備してオートメーションを導入し、この新しい機械を作り維持するための人件費を含め、パンを生産するのに必要な労働量が一人当たり週15時間に減った場合、何が起こるだろうか?明らかに、誰も何も失うことはない−−免職されたとしても、その人は以前と同じ資産収入(resource income)を受け取り続ける。さらに、利益すらも受け取るかも知れない。というのも、一人当たり5時間がパンを生産する仕事から解放され、こうした一人当たりの時間は他の場所での仕事に使うこともできるし、余暇に使うこともできるわけで、いずれにせよ個人の生活水準を向上させることになるからである。
 明らかに、この喜ばしい結果は、使用されたテクノロジーからだけでなく、公正な経済・社会システムでそれが使われることから(決定的に)導き出される。確かに、新しい社会システム下では広範囲にわたる多様な成果が可能になるだろう。これまで、私たちはこの点を証明するために尽力してきた。結局、民衆に権能を与え、民衆の自由を増大させるためにテクノロジーを利用できない理由などないのだ!
 もちろん、テクノロジーは抑圧的目的のために使うこともできる。人間の知識は、あらゆるものと同じように、人間の自由を増大するために使うこともできれば、自由を減少させるために使うこともできる。不平等を促すために使うこともできるし、それを減じるために使うこともできる。労働者を支援するために使うこともできるし、支配下に置くために使うこともできる。セクションD.10で論じたように、テクノロジーを、それを創り出し使用している社会と切り離して考えることなどできない。ヒエラルキー社会では、力ある者の利益に奉仕し、マイノリティを軽視し、その力を奪う手助けをするために、テクノロジーは導入される(デヴィッド=ノーブルの表現を使えば『テクノロジーは政治的なのだ』)。テクノロジーが、人間と社会関係から、そしてその間にある権力構造から、分離して進歩することはない。『資本主義が創り出したのは』とコウネリュウス=カストリアディスは正しく述べている。『資本主義自体の目的を果たすための資本主義テクノロジーである。それは全く中立ではない。資本主義テクノロジーの本質は、生産のために生産を発達させることではない。生産者を従属させ、支配することなのだ。』アナキズム社会では、テクノロジーはそれを使用した人に権能を与えるように変換・発達されるはずであり、そのことでテクノロジーの抑圧的側面が減じられる。コウネリュウス=カストリアディスの言葉を使えば、『テクノロジーの意識的変換が、自由な労働者からなる社会の中心的課題となるであろう。』[Workers' Councils and the Economics of a Self-Managed Society, p. 13]
 だが、クロポトキンが論じているように、私たちは良い立場に(潜在的に)いるのである。なぜなら、『文明の歴史の中で初めて、人類は、欲求を満足させる手段が欲求そのものよりも上回る地点に到達した。従って、これまでになされてきたからという理由で、少数者の幸福と一層の発展を確保するために、多くの人間に悲惨と零落の呪いを負わすなど、もはや必要ない。抑圧的で下劣な労苦の重荷を誰にも貸すことなく、幸福を万人に確保することはできる。遂に、人間はその社会生活全体を公正に基づいて構築できるようになったのだ。』[Ethics, p. 2] 大部分のアナキストにとって、問題は、このテクノロジーをどのようにして人間化し、どのように修正し、どのようにして社会的に・個人的に解放的なものにできるのか、なのであって、テクノロジーを破壊することではない(もちろん、当てはまる場合には、ある種のテクノロジーは、本質的に破壊的性質を持っているが故に、排除されることになるだろう)。
 大部分のアナキスト同様、クロポトキンにとって、テクノロジーと工業を人間化する方法は、『労働者が工場・住宅・銀行を入手し』、そのことで『この単純な事実によって、現在の生産は完全に革命化される。』『作業場・鋳造所・工場が田園の近くに作られることが肝要で』あるため、これが、工業と農業を統合するプロセスの始まりとなる。[The Conquest of Bread, p. 190] こうしたプロセスには、明らかに、資本主義の構造とテクノロジーとを単純に盲目的に適用するのではなく、それらを変換することが含まれる。
 アナキストが現行テクノロジーを排除するのではなく変換しようとしている理由はもう一つある。バクーニンは次のように指摘していた。『あらゆる労働手段(つまり、テクノロジーと工業)を破壊することは、万人に餓死を強いることになろう−−人間は莫大な数であまりにも多くいるため、全くの自然の賜物だけでは存在できないのだ。』テクノロジー問題に対する彼の解決策は、クロポトキンと同様、テクノロジーを、使用する人に奉仕するようにし、『資本と労働の密接かつ完全な結合』を創り出すことであった。そのことで、テクノロジーは『別個に存在する搾取階級の手に集中し続けない』ようになるであろう。このことだけが『資本の暴虐を粉砕』できるのだ。[The Basic Bakunin, pp. 90-1]
 このように、大部分のアナキストはテクノロジーと工業を完全に排除するのではなく、変換したいと思っているのである。
 大部分のアナキストは次のことを意識している。『(資本主義の仕事場内の)支配システムを強化する機械に投資された資本は、この投資決定は、選択されたテクノロジーを長期的には経済的なものとなるかも知れないが、この決定そのものは、経済的決定ではなく、文化的拘束を持つ政治的決定だった。』[David Noble, Progress Without People, p. 6] だが、このことが次の事実を変えるわけではない。私たちは、生産手段を所有しなければならず、その後に、何を維持し、何を変換し、何を非人間的だから放棄するのか、を決めることができるようになる。言い換えれば、ボスを排除することは、必要な最初のステップではあるが、それだけでは不充分なのだ!
 こうした理由から、アナキストは、人間の知識とアナキズムとの関係について幅広い見解を持っていた。ピョトール=クロポトキンのような人々は、自身が科学者であり、テクノロジーを使って人間の自由を拡充することに大きな可能性を見ていた。テクノロジーとは一定の距離を置き、その抑圧的使用を懸念している人々もいる。また、科学とテクノロジーを完全に拒絶している人々もいる。もちろん、これらの見解は全てアナキズムの立場としてあり得るものである。だが、大部分のアナキストは、テクノロジーが資本主義でいかに(不正に)使用されているのかを見た際に行われる健全な実践的ラダイト主義に賛同しつつ、クロポトキンの観点を支持している(『労働者が機械を尊重するのは、それが自分の友人となり、自分の仕事を短くしてくれる将来においてだけであって、今日のように、仕事を奪い取り、労働者を殺してしまう自分の敵となっているときにではない』[Emile Pouget, David Noble, 前掲書, p. 15、で引用])。
 あらゆるタイプのアナキストは、テクノロジーや工業などを批判的に評価することの重要性を認めている。あらゆる革命の第一ステップは、生産手段の奪取となろう。その直後に取られる第二ステップは、生産手段を使用する人々とそれに影響を受ける人々(つまり、地域社会や生産物を使用する人々など)による生産手段の徹底的変換の始まりとなろう。アナキストの中で、現在の工業設備を維持しようとしていたり、資本主義テクノロジーをそのままで適用しようとしていたりする者は、全くとは言わないが、ほとんどいない。むしろ、アナキストは、自分たち自身を解放するのと同じように、使用するテクノロジーを資本主義の影響から解放しようとする。クロポトキンは次のように述べている。『自分たちが知っている仕事場の大部分が不潔で不健康だとすれば、それは、工場組織の中で労働者が全く取るに足らない者になっているからだ。』そして、『奴隷がそれを甘受しているからである。だが、自由人は新しい条件を創り出す。労働条件は快適になり、生産力は飛躍的に上がるであろう。』[The Conquest of Bread, p. 121 and p. 123]
 もちろん、このことには、多くの工業部門の閉鎖(多分、すぐさま行われたり、一定期間かかったりするだろう)と、自由な個々人が使用するのにもっと適切なものに変換できないテクノロジーの放棄とが含まれることになろう。もちろん、多くの仕事場が、革命的民衆の欲求を満たすために必要な新製品を生産すべく変換されたり、社会革命が製品の市場を崩壊させたために必要がなくなって閉鎖されたりする−−贅沢な輸出品の生産者や国家安全保障部隊の弾圧装備の供給者などがそうである。結局、社会革命は、社会の変換を示しているのと同じように、テクノロジーと工業の変換を示しているのである。
 仕事を変換するこのプロセスは、スペイン革命に見ることができる。生産手段奪取の直後、スペイン労働者は生産手段を変換し始めた。危険で不衛生な労働条件と仕事場を排除し、安全で衛生的な労働条件に基づいて新しい仕事場を創り出した。業務慣例は、仕事をする者(従って、仕事を理解している者)が管理するように変換された。多くの仕事場は、戦争の準備に必要な物品(武器・弾薬・戦車など)を作り、地元住民の欲求を満たすための消費財を作るように変換された。クロポトキンが予測したように、経済崩壊と孤立のために、こうした消費財の通常の供給源が利用できなかったからである。言うまでもなく、これらは、プロセスの始まりに過ぎなかったが、明らかに、あらゆるリバータリアン社会革命が進展するやり方、つまり、労働・工業・テクノロジーの全面的変換を示している。テクノロジーの変化は新しい方針に沿って発展し、これは、少数者の権力と利益ではなく、人間と生態系のニーズを配慮したものとなろう。
 アナキズムは、資本主義・国家主義の方法を社会主義・リバータリアンの目的に使うことはできない、という明確な信念を持つ。労働者自主管理・地域社会自主管理を求めた闘争にとって、仕事場は単なる生産現場ではない−−生産の現場でもある。指図する者と指図される者との間の権力関係に基づいた社会関係を再生産しているのである。仕事場を民主化し、あらゆる生産活動の中心に現場の生産者の集団的発意を据える闘争は、明らかに、仕事場を・仕事の性質を・そして必然的にテクノロジーをも変換する闘争なのである。
 クロポトキンは次のように論じていた。『革命は、単に、既存政治システムの変化以上のものである。人間の知性を呼び覚まし、独創的な精神を十倍にも百倍にも増加させることを暗示している。革命は新しい科学の幕開けである。これは、その諸制度の革命というよりも、深遠な、さらに深遠な人間精神の革命である。中産階級の財産を奪取するというたった一つの事実が、仕事場・造船所・工場における経済生活全てを完全に再編成する必要性を暗示している。』[The Conquest of Bread, p. 192] こうしたプロセスを経ても工業とテクノロジーは何ら変わらず、労働者は同じような仕事を、同じやり方で、同じ方法を使って行い続けるだろうと考えている者もいるのだ!
 クロポトキンにとって、『あらゆる生産はこれまで誤った方向を向いていた。万人の幸福を確保する見解を持って行われていないからだ。』[前掲書, p. 101] 万人の幸福には、明らかに、生産を行っている人々も含まれ、従って、産業構造と使用される技術プロセスもその対象となる。同様に、幸福は、個人の環境と周辺地域も含まれ、従って、テクノロジーと工業は生態学に基づいて評価されねばならない。だからこそ、クロポトキンは『自分の田畑と庭園の近くに工場と仕事場』がある農業と工業の統合を支持していたのだった。こうした工場は、『風通しが良く、衛生的で、その結果、経済的であり、そこでは機械と過剰な利益追求よりも人間の生活が重要視される。』[Fields, Factories and Workshops Tomorrow, p. 197]
 言うまでもなく、アナキズム社会におけるテクノロジーの進歩は、こうした要因だけでなく、関連していると民衆が考えている要因も考慮することになる。さもなくば、『万人の幸福』という理想は拒絶されるのである。
 資本主義は多くのテクノロジーを発展させており、その中には有害だったり危険だったりするものもある。しかし、こうしたテクノロジーはそれ自体で発展するわけではない。例えば、安価な太陽電力テクノロジーが全く稼動することがないのは、資本家がそれに投資することを選んでいないからである。チェーンソーが熱帯雨林を切るのではない。人間が切っているのだ。そして、人間がそのようにしているのは、そうするだけの圧倒的な経済的動機があるからなのだ(利潤を作る側の資本家にせよ、生きるためには他に選択の余地のない労働者にせよ)。この経済システムが廃絶されない限り、こうした動機がテクノロジーの進歩と変化を推進し続けるだろう。
 テクノロジーは、常に、それが組み込まれている社会システムの基本的価値観を帯び、それを表現する。あらゆるものを疎外するシステム(資本主義)を手にしているのならば、当然、疎外された形態のテクノロジーを生み出すこととなり、こうしたテクノロジーはこのシステム自体を強化するように方向付けられる。セクションD.10で論じたように、資本家は自分の権力と利益を強めるテクノロジーを選び、その方向にテクノロジー変化を歪めるのであって、個人に権能を与え、仕事場をもっと平等主義的にするという方向に導くのではない。
 だからといって、階級社会が形成し、階級社会内部で発展したからという理由で、全てのテクノロジーと工業を拒否するわけではない。もちろん、ある種のテクノロジーは、あまりにもキチガイじみて危険であるため、正気の社会においては確実に即座に停止される。同様に、ある種のテクノロジーと工業プロセスは、本質的に抑圧的を目的として作られているため、変換することは不可能であろう。バカげた商品・時代遅れの商品・不必要な商品を生産している多くの産業は、もちろん、その商品関係や社会関係が消滅すると自動的に中止となる。だが、多くのテクノロジーは、それがどれほど現在乱用されていようとも、全くとは言わないがほとんど先天的な欠点があるわけではない。容易く他の使用方法に適合させることができるだろう。民衆が支配から自分自身を解放すると、有害なテクノロジーを拒絶し、他のテクノロジーを有効利用できるようにすることは、わけなくできるだろう。
 テクノロジーが、それを創り出した社会を反映しているということが真であるならば、テクノロジーが本質的に悪いものではあり得ない。解放された非搾取社会は必然的に解放的な非搾取テクノロジーを生み出す。丁度、現在の疎外された社会システムが必然的に疎外されたテクノロジー形態(テクノロジー使用)を生み出しているのと同じである。
 この主張は、大部分のアナキストが「労働廃絶」に反対しているという意味なのだろうか?違う。あらゆる生産的な活動を労働と混同しているだけのことである。産物(食物に限ったとしても)を生産するためには何らかの「労働」が常に必要となるが、労働は必ずしも賃労働やその他の疎外され労働や支配とヒエラルキーを前提とした労働だけではない。無駄時間のない生活とは、筋肉や頭脳を使う必要のない生活という意味ではない。
 そして、もちろん、異なる地域社会・地方では、それぞれ異なる優先事項やライフスタイルが選択されることになろう。リバータリアン共産主義に関するCNTのサラゴサ決議がこのことをハッキリ示している。『工業化を拒否するコミューンは、別な共存様式に合意するだろう。』この決議は『自然崇拝者と裸体主義者』の例を使い、次のように論じていた。彼等は、そのコミューンと自身の連合が合意した『全体の誓約を免除された自治管理権を与えられる。』そして『リバータリアン自治コミューン連邦会議に出席する代理人には、他の農業・工業コミューンとの経済交渉を行う権限を与えられる。』[Jose Peirats, The CNT in the Spanish Revolution, vol. 1, p. 106 で引用]
 (詳しくは、ケン=ナッブ著「プリミティヴィズムの貧困 The Poverty of Primitivism」を参照。私たちは、この優れたテキストから上記の主張の幾つかを展開している。)
 もちろん、こうしたこと全ては、テクノロジーの進歩は中立ではなく、誰が意志決定をするかということに依存する、ということを意味している。デヴィッド=ノーブルが論じているように、『テクノロジー決定論は、歴史を作っているのは人間ではなく機械であるという観点だが、これは間違っている。現在の社会変革が必然だと思われるとすれば、それは、その社会変革が肉体のないテクノロジー論理に従っているからではなく、社会的論理を形成しているからなのだ。』テクノロジーは『権力の利益』と一致しているが、『テクノロジーのプロセスは社会的プロセスなのだ』から、『あらゆる社会的プロセス同様に、葛藤と闘争で特徴付けられ、従ってその結果は極論すれば常に不確定なのである。』テクノロジーの発展を『自律的で卓越した決定論的力ではなく、社会的プロセスとして』見なすことは『解放的なものになり得る。なぜなら、長きにわたって否定されていた自由の領域を切り開くからだ。これが、民衆を、テクノロジーの単なる歩兵としてではなく、物語の主題という適切な役割に復活させる。そして、テクノロジーの発展それ自体は、社会の建造物として見なされ、第一原因ではなく新しい変数になり、一連の可能性を構成し、多様な未来を約束するのである。』[Forces of Production, pp. 324-5]
 社会を変えれば、導入され利用されているテクノロジーも同様に変化するだろう。テクノロジーのプロセスを、誰が意志決定を行うのか、どのような社会に住んでいるのか、に応じて変化する新しい変数だと見なすことで、テクノロジーの発展が本質的に反アナキズムではないということが分かるようになる。非抑圧的・非搾取的・生態調和社会は、非抑圧的・非搾取的・生態調和テクノロジーを発展させるだろう。丁度、資本主義が搾取・抑圧・環境破壊を促すテクノロジーを発達させるように。従って、アナキストはテクノロジーについて次のことを問題にするのだ。最適なテクノロジー?誰にとって最適なのか?何にとって最適なのか?いかなる基準・いかなるヴィジョン・誰の基準・誰のヴィジョンに従って最適なのか?
 大部分のアナキストにとって、万人の自由時間を最大にし、思慮のない苦役を有意義な仕事に置き換えるために、技術の進歩は自由社会で重要なものである。これを行う手段が、適正テクノロジーの使用なのである(テクノロジーそれ自体の崇拝ではない)。このことを達成できるのは、テクノロジーを批判的に評価し、権能を与え、個人と地域社会が理解・管理できると同時に、生態系破壊を最小限にするテクノロジーを導入することによってのみである(言い換えれば、これが適正テクノロジーと呼ばれるのである)。テクノロジーに対するこの批判的アプローチだけが、人間精神の力を正当に扱うことができ、そもそもテクノロジーを発展させる創造的力を反映することができる。テクノロジーの進歩を何の疑問も抱かずに受け入れることは、何の疑問も持たずに反テクノロジーの立場をとるのと同じぐらい誤っている。
 テクノロジーの進歩が良いものになるのかどうか、持続可能なものになるかどうか、これは、私たちが行う選択に、そして、私たちが使っている社会・政治・経済システムによっている。私たちが住んでいる世界には、事実上、莫大な物質資源とエネルギー資源が含まれているが、現在、私たちはこの惑星に大きく依存し、これまでその資源を乱用することしかできていない。アナキスト(や他の人々)は、どれほどの開発を地球が受け入れることができるのか、将来の開発はどの方向がベストなのか、についてのアセスメントに関してそれぞれ異なる見解を持っているが、進歩的なテクノロジー社会それ自体が、適切に構築され使用されるならば、予測可能な未来において維持されることはできない、と信じる理由などないのだ。

I.4.10 剰余分配を幅広く行うことの利点は何か?

 先に記したように、シンジケート間の競争は「プチブル協同組合主義」を導きかねず、この問題を取り除くためには、剰余が産業規模もしくは社会規模で分配されるように、集産化の基盤を拡大しなければならない。また、既に指摘したように、広範囲にわたる剰余分配のもう一つの利点は、そのままであれば競合してしまう諸事業の整理統合を可能にし、資源と技術改善をもっと効果的に割り振りできるようにしてくれる、ということである。ここで、スペイン革命の実例を使ってこの主張を裏付けてみよう。
 カタロニアの集産化は、市営交通機関と公共事業のような主要産業だけでなく、小規模な事業(町工場・職人の仕事場・サービス業者・修理業者など)をも包含していた。アウグスティン=ソウヒは、このプロセスを次のように述べている。

 職人と町工場の所有者とは、従業員と弟子とともに、自分の職業組合に参加することが多かった。その活動を集約し、友愛に基づいて資源を蓄えることで、仕事場は、非常に大きなプロジェクトを始めることができるようになり、もっと広範な規模でサービスを提供できるようになった。理髪店の集産化は、小規模製造業やサービス産業が資本主義から社会主義へと移行することをどのように達成したのか、の優れた実例を示している。
 1936年7月19日(革命が始まった日)以前に、バルセロナには1100の理髪店があった。その大部分はその日暮らしをしている貧しく悲惨な境遇の人々が所有していた。こうした理髪店は、不潔で掃除がされていないことが多かった。5000人の理髪店員は極貧の賃金労働者だった。それ故、所有者も店員も自分たちの店を社会化することを自発的に決めたのである。
 このことはどのようになされたのだろうか?全ての店が組合に加入しただけのことである。総会で、組合員は利益の上がらない店を閉店することに決めた。1100の店は235に減らされ、これは、家賃・光熱費・税金の点で一月135000ペセタの節約となった。残りの235店舗は、近代化され、上品に装飾された。節約された金から、賃金が40%上昇した。誰もが労働の権利を持ち、誰もが同じ賃金を受け取った。以前の所有者は、逆に、社会化されても影響を被ることはなかった。彼等は定収入で雇用されていた。皆が、同じ条件で同じ給料で共に働いていた。雇用主と雇用者との区別は取り除かれ、平等者からなる労働コミュニティへと変換された−−下から上への社会主義である。["Collectivisations in Catalonia," in Sam Dolgoff, The Anarchist Collectives, pp. 93-94]

 協同組合は、資源を確実に効率よく割り当て、不必要な競争を減らすことで廃棄物が最小限に抑えられることを確実にする。消費者協同組合と生産ユニットとが直接コミュニケーションを持つだけでなく、消費者がどのシンジケートから生産物を消費するのかを選択するため、生産の合理化が消費者の利益を損なう危険がほとんどなくなる。
 広範な剰余分配は、投資と研究開発にとっても有利に働く。個々のシンジケートが持つ財産とは別に研究開発の資金を創り出すことで、有用な新しいテクノロジーと新しい処理工程に接することによる社会全体の改善が可能になるのである。
 従って、リバータリアン社会主義社会では、民衆(仕事場にいる人も地域社会にいる人も)は、利用できる社会的生産の中から基礎研究へかなり多くの資源を割り当てることを決める見込みが高い。なぜなら、基礎研究の成果はあらゆる事業が無料で利用でき、長期的に見れば、万人を援助することになるからである。さらに、労働者は自身の仕事場を直接管理し、地元地域が効果的に仕事場を「所有する」ため、事業に影響を受ける全ての人が、労働・公害・使用原料などの削減や、ほとんどもしくは全く社会的影響のない生産の増加に関する研究を行うことについて関心を持つことになるのである。
 これは、研究と技術革新は関係者全員の直接的利益になる、という意味である。資本主義下では、このことは当たらない。大部分の研究は、生産性を増大させたり、生産を新しい(以前は無用だった)領域に拡大したりすることで、市場で優位に立つために行われる。生産性の増大は、生産に関与する人々に対して失業や単純作業化といった否定的効果を導くことが多い。リバータリアン社会主義ではこの問題に直面することはないのである。
 また、ここで述べねばならないが、人々が自分の仕事と教育に多くの関心を持つようになると、研究はますます行われるようになるだろう。民衆は、日常生活の単調な仕事から解放されると、自分の関心事に夢中になり、その結果、研究が社会の多くのレベルで−−仕事場・地域社会・教育などで−−行われるようになるだろう。
 さらに、基礎研究は、資本主義で巧みに行われているものとは異なる、ということも記しておかねばなるまい。米国国防システムの起源を考えれば、基礎研究が成功するためには国家の支援が必要だということになる。ケネス=アロウは、基礎研究を促進するためには市場要因では不充分である、と30年以上前に示していた。

 基礎研究は、他の発明活動に対する入力情報としてのみ使われる出力情報であり、特別に報酬を得る見込みはない。実際、他の企業がその情報を使用できなくなって初めて、研究を行った特定企業にとって商業的価値が生じるものなのである。しかし、こうした制限は、発明活動一般の能率を減じ、その結果、研究の質をも減じることになる。["Economic Welfare and the Allocation of Resources for Inventiveness," in National Bureau of Economic Research, The Rate and Direction of Inventive Activity, p. 618]

 近代社会は、国防システムや宇宙開発競争などの目的がなければ、これほど多くの発明を生み出してきただろうか?インターネットを例に取ろう。国家のためでなければ、インターネットは上手くスタートすることはできなかったように思われる。もちろん、言うまでもなく、このテクノロジーの多くは、悪しき動機や目的のために開発され、リバータリアン社会で使用され得るようになる前には、劇的な変化(多くの場合は廃絶)が必要となろう。しかし、純粋な市場型システムが、私たちが当然だと見なすテクノロジーの大部分を生み出すことができる見込みは少ない、ということはなおも事実である。ノーム=チョムスキーは次のように論じている。

 グリーンスパン(米国連邦準備銀行の頭取)は、米国の新聞編集者に対して談話を行った。彼は、市場の奇跡、消費者の選択がもたらした驚異などについて情熱的に語っていた。彼は幾つかの例を挙げている。インターネット・コンピュータ・情報処理・レーザー・人工衛星・トランジスタ。これは興味深いリストだった。これらは公共部門の創造力と生産の教科書的実例だったからだ。インターネットの場合、30年にわたり、それを計画し、開発し、資金提供したのは主として公共部門、特にペンタゴンであり、次には国立科学財団だった−−ハードウェア・ソフトウェア・新しい考え・テクノロジーなどの大部分がそうだったのだ。つい最近になってやっと、ビル=ゲイツのような人々の手に渡されたのである。インターネットの場合、消費者の選択はほとんどゼロに近かった。重大な開発段階には、コンピュータであれ、情報処理であれ、何であれ同じだったのだ。
 実際、グリーンスパンが示した実例全ての中で、多分冗談のレベルではないと思われるものは、トランジスタだけだろう。トランジスタは興味深い実例である。じっさい、トランジスタは民間の研究所−−AT&Tのベル電話研究所−−で開発された。この研究所は太陽電池・電波天文学・情報理論など多くの重要なことに大きく貢献していた。しかし、そのことについて、市場と消費者選択はどのような役割を果たしたのだろうか。そう、繰り返すが、ゼロだったのだ。AT&Tは政府が支援していた独占企業だった。従って、消費者の選択など皆無であり、独占企業として、AT&Tは高値をつけることができた。その結果が民衆への課税であり、この税金がベル研究所のような機関に使われたのである。繰り返すが、これは公的に助成されているのだ。あたかもこの点を証明するかのように、この産業が規制緩和されると、もはや民衆が代金を払わなくても良くなり、ベル研究所は閉鎖された。だが、これは物語の始まりに過ぎない。確かに、ベル研究所はトランジスタを発明した。しかし、これは、戦時テクノロジーを利用したのであり、戦時テクノロジーとはとどのつまり公的に助成を受け国家が指導したものだった。さらに、当時、トランジスタを購入する者など誰もいなかった。あまりにも生産に金がかかりすぎるからだった。従って、10年間、政府が主要な生産者だった。政府の買い上げが企業家的な率先性を提供し、テクノロジーの発達を導き、その後に、産業界へと普及させることができたのである。[Rogue States, pp. 192-3]

 技術発展と同様、広範な剰余生成は、地域社会の成員のスキルと知識を改善する手助けをしてくれるだろう。ケインズ派経済学者のマイケル=ステュワートは次のように指摘している。『市場要因が、教育と訓練だけでなく、研究開発費用に提供されていないことを支持する理由は理論的にも経験的にも存在している。』[Keynes in the 1990s, p. 77]
 職能訓練と教育に目を向けてみれば、幅広い剰余分配が限りなく訓練と教育を支援することが分かるだろう。自由市場資本主義下では、職能訓練は、市場の性質のために、損害を被る。この論拠は簡単だ。自由市場資本主義下では、より多くの労働者を訓練することが、より多くの利潤という点で、企業に利益をもたらす場合には、企業は労働者を訓練する。そうでない場合には、訓練は必要ないと証明されるだけのことである。不幸にして、この種の論法は次の事実を見過ごしている。利潤を最大にする企業は、他の企業に享受されることになるコストを負うことはないのだ。つまり、訓練を受けた労働者が、すぐに、(訓練提供のコストを負っていないために)より多くの金を支払うことのできる他の企業に横取りされるのではないかと企業が恐れている場合には、訓練に金を使うことなどその企業にとって不本意なものとなろう。これは、訓練を受けた労働者が競争相手の会社に移るかどうか分からないのに、必要な訓練を提供しようとする企業などほとんどない、ということを意味しているのだ(もちろん、訓練された労働力は、自身のスキルのおかげで、仕事場での力をもっと持つようになり、交替し難くなる)。
 仕事場連邦を通じて訓練を社会化することで、シンジケートはメンバーの技能レベルを高めることで生産性を増大させることができるだろう。より高い技能レベルは、労働者自主管理と組み合わせることで、技術革新と「仕事」の喜びを高めるものとなろう。というのも、教育を受けた労働力が自身の時間を管理することで、ありふれたつまらない機械のような仕事を我慢しなくても良くなり、そうした仕事を削減し、労働環境を改善し、もっと多くの自由時間を労働者に与えるように生産性を向上する方法を探し求めるからである。
 自由市場は、技術革新に対しても否定的影響を持つ。その理由は、より高い株価で株主を喜ばせるために、企業は実物投資と研究開発に使うことのできる資金を減らしかねないからだ。これは、長期的には成長と雇用を抑えることになろう。株主が「非経済的だ」として非難する恐れがあること(投資計画と研究開発を)こそが、全体としての社会をより良いものにできるし、より良いものにしている。だが、こうした利益は長期的なものであり、資本主義の中では、短期的利益しか考慮されない。今ここでの高い株価は生き残るために肝要であり、従って、長期的なものだと見なされてしまうのだ。
 もっと社会化された経済においては、広範囲にわたる集産化によって、研究開発・長期的投資・技術革新などに資源を割り当てることができるようになるだろう。相互銀行やシンジケート連邦・コミューン連邦を利用することで、資源の割り当ては、長期的優先事項の重要性を考慮に入れ、資本主義下では考慮されていない(実際、無視した方が利益になっている)社会的コストをも考慮するようになる。長期的投資や研究開発を不利なものにせずに、社会化された経済では、何らかの方法で社会にいる万人が利益を得るようなことに適切な資金が利用できるよう保証するのである。
 シンジケート・教育機関・コミューンなどが行う活動に加え、個人や小集団が「長年温めてきた計画」を追求できるように資源を提供することが肝要である。もちろん、シンジケートと連邦は、それ自体の研究機関をもつだろうが、関心を持った「アマチュア」の革新的役割を無視することはできない。クロポトキンは次のように論じていた。

 革新の精神を促すために必要なことは、思考の覚醒・概念の大胆さである。これは現在の教育が衰えさせていることである。科学教育の普及が調査者の数を百倍に増加させる。信念こそが人間性を一歩前進させる。善い行いをするという情熱・希望が、あらゆる偉大な発明者を鼓舞してきたのだから。社会革命だけが、思考に対するこの衝動・この大胆さ・この知識・万人のために活動するというこの革新を与えることができるのだ。
 そして、我々は莫大な諸機関を持つことになろう。あらゆる調査研究者に開かれた無数の産業研究所を持ち、そこでは、社会に対する義務を果たした後で、人々が自分の夢を追求することができるだろう。それぞれが自分の実験を行うことができるだろう。自分と同じように難しい問題に取り組むためにやってきている仲間や他の産業部門のエキスパートを見つけるだろう。そして、お互いに手助けし合い、啓蒙し合うだろう−−それぞれの考えと経験が出会い、待望の解決策をもたらしてくれるだろう。[The Conquest of Bread, p. 117]

さらに、資本主義下では、多くの場合、発明者たちは『自分の発明をお互いに注意深く隠す。特許と資本主義によって妨げられているためである−−これが現在の社会を悩ませている根元であり、知的・道徳的進歩の進路を阻んでいるのだ。』逆に、自由社会の発明家たちは、万人の知識と過去の世代の知識に基づいて構築できるだろう。競争して利益を手に入れる場合には、他者から知識を隠すのではなく、知識を共有することで、関係者だけでなくそれ以外の社会の成員も豊かにするのである [前掲書]。ジョン=オニールは次のように論じている。

 競争的市場経済には、情報伝達を阻害する要素がある。市場は秘密主義を促し、科学の公開性にとって有害である。市場は、所有者は他者を排除する権利を持つ、という所有権の観点を前提としている。科学の領域において、こうした排除の権利は、情報と理論の伝達に制限を課す。これは知識の増大とは相容れないのだ。科学が成長するのは、コミュニケーションが開かれているときであることが多い。(さらに)理論や実験結果が受け入れられるための必要条件は、それが、優れた科学的審査者による公開の批判的精査にパスすることである。非公開の理論や結果は、科学的容認可能性の基準から隠蔽されているのだ。[The Market, p. 153]

 社会化をすれば、技術革新と科学的発展が支援される。そうした活動に必要な資源を提供すること、そして、科学の境界線を突き破って前進するために必要なコミュニティ精神を提供すること、この二つによって支援されるのだ。
 最後になるが、働くことができない人々と全般的公益供給という問題がある。剰余を広く分配することで、公共病院・学校・大学などを作ることができる。いかなる社会にも働くことのできない(実際、働くべきではない)成員がいる、これは全くの事実である。例えば、若年者・老人・病人などである。相互主義社会、特に個人主義的アナキストの相互主義社会においては、誰か(家族や友人)が通院費用などに必要な金を提供してくれない限り、こうした個人に対する現実的対策はない。しかし、公共の分配基盤があれば、コミューンの全成員が、教育や医療などを権利として受け取ることができる。従って、特権としてではなく、権利として十全な人間生活を送ることができるのである。それ以上に、資本主義諸国の経験によれば、例えば医療の社会化は、主として民営化された医療よりも、サービスコストが低い、ということが示されている。例えば、英国の国民医療サービスにかかる行政コストは、米国やチリのシステム(このシステムでは、かなりの収入パーセンテージが結局は医療ではなく収益となってしまう)の極僅かでしかない。
 こうした公共サービス(病院や教育など)に剰余を使用する傾向は、スペイン革命からも見ることができる。多くの集産体はメンバーに対する新しい病院や大学に資金提供していた。数百万もの人に、これまで自分の労働では購入できなかったサービスを提供したのである。この有名な実例は、組合員が自分の孤立した活動でできることよりも遙かに多くのことを達成する手助けを協同組合が行っていたことを示しているのだ。

I.4.11 リバータリアン社会主義が利益追求動機を取り除いた場合、創造性と業務遂行に悪影響があるのではないか?

 まず第一に、完全にハッキリさせておくが、ここで意味している利益追求動機とは金銭的利益のことである。アナキストは、協働こそが自分たちの自己利益である−−つまり、可能な限り最も広い意味で協働から「利益」を得る−−と考えており、人々は自分たちの情況を改善するために行動するものだという事実を見過ごしてはいない。だが、金銭的利益は、「自己利益」の非常に狭い形態であり、実際、あまりにも狭すぎて多くの点(個性の発達・対人関係・経済的社会的福祉など)で個人にとって確実に有害なのである。「利益追求動機」に関するこのセクションの論議が自己利益の否定を意味していると受け取らないで欲しい。全く逆なのである。アナキストは『利益こそが人間社会で主要な唯一の動機だと考えることで成り立つ狭い生の概念』を拒否しているだけのことなのである。[Peter Kropotkin, Fields, Factories and Workshops Tomorrow, p. 25]
 第二に、競争と利益追求動機の有害な効果について、ここで十全に扱うことは私たちには望むべくもない。もっと詳しい情報については、アルフィー=コーン著『競争社会を越えて No Contest: The Case Against Competition』『報酬による罰 Punished by Rewards: The Trouble with Gold Stars, Incentive Plans, A's, Praise and Other Bribes』をお勧めする。彼は、社会を組織する最良のやり方は競争と利潤であるという資本主義の「常識」を反証する多くの証拠を示している。
 アルフィー=コーンによれば、報酬が業務遂行レベルを下げる、特に、業務遂行に創造性が必要な場合に、その遂行レベルを下げることになりかねない、と示した心理学研究が増えている ["Studies Find Reward Often No Motivator," Boston Globe, Monday 19 January 1987]。コーンは次のように述べている。『一連の関連研究によれば、ある課題を行うことで報酬を得ると、多くの場合、その課題に対する本質的関心−−何かをそれ自体で行う価値があるものだと感じること−−が低下する。』
 創造性と動機付けに関する研究の多くは、ブランダイス大学の心理学助教授テレサ=アマビルが行ってきた。彼女は、最近行った実験の一つで、小学生と大学生に、「バカげた」コラージュを作るように求めた。小学生に対しては、お話を創作するようにも求めた。教師がこの課題を評価したところ、報酬と引き替えに課題を行った生徒の作品は、創造性が最も低かった。『依頼された作業は、一般に、純粋な関心から行う作業よりも創造的ではなくなる、と言えよう』とアマビルは述べている。1985年に、彼女は、ブランダイス大学とボストン大学にいる72人の独創的な文書を書くことができる学生に、詩を書くように求めた。

 学生の一部には、教師に良い印象を与えるとかお金を稼いで大学院に行くとかいった外発的(外部からの)理由のリストを与え、こうした理由にそって自分の詩を考えるように求めた。別な学生には、内発的理由のリストを与えた。言葉遊びの楽しみ・自己表現からくる満足などである。第三のグループには全くリストを与えなかった。全ての被験者は、より一層頑張って詩を書くように求められた。
 結果はハッキリしていた。12人の詩人に評価してもらったところ、外発的理由を与えられた学生は、他の学生よりも創造的に書かなかったばかりか、その著述の質は有意に低かった。アマビルは、高水準の問題解決を含む創造的課題に対して、報酬は主として破壊的な効果を持っている、と述べている。「活動が複雑になればなるほど、外発的報酬は有害になる」と彼女は述べていた。[前掲書]

 シカゴのエリクソン幼児発達教育研究所のジェームズ=ガバリノによる別な研究では、5年生と6年生の女の子が、勉強を上手く教えるたら映画の無料チケットをあげる、と約束されると、年少の子供の勉強を上手く教えることができなくなる、という結果だった。『この研究は、報酬を求めて勉強を教えている人は、報酬をもらわない人に比べて、考えを伝達するのにより多くの時間がかかり、簡単に苛立ち、結局のところ上手く仕事を行うことができない、ということを示している。』[前掲書]
 こうした研究は、金銭的報酬が人々を動機付ける唯一の効果的方法−−最良の方法ですらある−−といった主張に疑問を提示している。コーンは次のように記している。『こうした研究結果は、同時に、報酬を得た活動は生じやすくなるという行動主義者の前提に異議を申し立てている。』アマビルは、自分の研究は『創造性がオペラント条件付けされうるという考えを決定的に論破している』と結論付けている。
 こうした知見は、他の科学分野の知見を強化している。生物学・社会心理学・民族学・人類学、これらは全て、人間の相互作用の自然な基盤として協働を支持する証拠を提示している。例えば、民族学の研究は、実質的に全ての原住民族文化は高度に協働的な関係に基づいて営まれている、と示しており、人類学者が示している証拠によれば、人間進化の初期を推進していた主要な力は協働的な社会的相互作用であり、これが文化を発達させるヒト科動物の能力を導いた。これは資本主義にさえも浸透している。産業心理学が現在「労働者参加」とチーム機能を促しているのは、ヒエラルキー型管理よりも決定的に生産的だからである。さらに重要なことだが、協働的仕事場は、他の原理で組織された仕事場よりも生産的だという証拠が示されている。他のことが同じであれば、生産者協同組合は、平均して、資本主義や国家事業よりも効率がよい。協同組合は、その器具や条件が悪い時でさえも、高い生産性を達成することができる場合が多い。それ以上に、組織が協働の理念に近づけば近づくほど、生産性が上がるのである。
 このこと全ては、社会的アナキストにとっては驚くべきことではない(そして、個人主義アナキストに自分の立場を再考するように促すはずである)。クロポトキンは次のように論じていた。『自然に対して「誰が適者なのか、お互いに戦争をし合っている生物なのか、それとも、お互いに支援し合っている生物なのか?」と問えば、相互扶助の習慣を獲得している生物が疑いもなく適者だとすぐさま分かる。こうした生物は生存の機会を多く持ち、それぞれの生物綱において、最大の知的発達・身体組織の発達を獲得している。』[Mutual Aid, p. 24] 相互扶助がそれを実践するものに対して進化上の利点を与えているという自身の観察から、クロポトキンは自分の政治哲学を導き出した−−コミュニティと協働活動を強調した哲学である。
 現代の研究は彼の主張を強化している。例えば、既に記したように、アルフィー=コーンは、『競争社会を越えて No Contest: The Case Against Competition』の著者であり、七年間かけて競争と協力を扱った四百以上の研究を精査した。調査を行う前、彼は『競争は自然で適切で健全だということになるだろう』と信じていた。研究知見を精査した後、彼はこの意見を完全に翻した。『教室・仕事場・家族・遊び場など、いかなる環境であっても、理想的競争量はゼロである。(競争は)常に破壊的である。』[Noetic Sciences Review, Spring 1990]
 ここで、彼の知見を簡単に要約しておこう。コーンによれば、競争には三つの基本的帰結がある。
 まず第一に、競争は、生産性と優秀さに対して負の効果を持っている。不安を増大させ、効率を悪くし(資源と知識の協力的共有と比べて)、内的動機を害するためである。競争は、他者に勝利することへと焦点を移し、好奇心・関心・優秀さ・社会的やり取りといった内発的動機付け要因から離してしまう。逆に、様々な研究が示しているように、協力行動は、業務遂行が改善する見込みを一貫して高くする−−この知見は様々な対象者に当てはまる。興味深いことに、協力が持つ正の利点は、課題が複雑になればなるほど、また、より大きな創造性と問題解決能力が必要となる所で(上述したように)、顕著になるのである。
 第二に、競争は自尊心を低め、健全で自律的な個人の発達を妨げる。自分がどれだけ他者の期待に適っているかどうかに自己評価が依存している場合、自己の強い感覚を獲得することは難しい。逆に、自分が集団的活動にどのように貢献しているのかに関連づけてアイデンティティを形成した人は、一般に、より大きな自己と高い自尊心を持つものである。
 最後に、競争は人間関係を台無しにする。人間は社会的存在である。自分の人間らしさは他者とのやり取りの中で最も良く表現される。勝者と敗者を創り出すことで、競争は人間の団結を破壊し、親密な社会的感情を妨げる。
 社会的アナキストはこうした点を以前から主張していた。競争様式では、人は互いに意図を誤解して仕事をしたり、純粋に(物質的)私利のために仕事をしたりする。これが社会の貧困化とヒエラルキーを導き、公共関係の欠如により、巻き込まれる人全員の貧困化(精神的、倫理的、究極的には肉体的な)を生む。これは、個性の衰弱と社会の崩壊を導くだけでなく、経済的非効率をも導く。エネルギーが階級闘争の中で浪費され、持つ者を持たざる者から保護するために、より大きなより良い収容所を構築することにエネルギーが投資されるからである。人間活動は、有用な事物の創造にではなく、不公正と権威主義システムを再生産する無用な苦役に費やされてしまう。
 結局、競争の結果は(多くの科学研究分野で立証されているように)競争の貧困さを示すと同時に、協力こそが適者生存の手段であると示しているのだ。
 さらに、コーンが『報酬による罰』で論じていたように、物質的報酬が業績を改善するという考えは断じて誤っている。こうした主張は、単純な行動主義心理学に基づいているが故に、長期的成功を検証できていない(実際、逆の効果を招きかねない)。実に、この主張が意味しているのは、人間をペットなどの動物とほとんど同じように扱う、とうことなのだ(コーンは『「これを行えば、あれが手に入る」ということの背景となる理論は他の動物種を使った研究から導かれており、行動マネージメントは動物に適した言葉で記述されている、これは偶然ではないのだ』と論じている)。言い換えれば、これは『まさにその本質からして非人間的なのである。』[Punished by Rewards, p. 24 and p. 25]
 人間は、精神を持たぬロボットのように単に外部刺激に動機付けられているのではないし、受動的でもない。人間は『自分自身と環境とに自然な好奇心を持っている存在であり、課題を探求し、克服する存在であり、技能習得に挑戦し、能力を獲得する存在であり、自分が学び行っていることについて新たな複雑な段階を追い求める存在なのである。一般に、私たちは環境から影響を受けるだけでなく、環境に対して働きかける。報酬を受けるという理由だけでそのようにするわけではないのだ。』[前掲書, p. 25]
 報酬は活動と個人を害する。コーンはこの主張を支持する数多くの証拠を示している。ここではそれを十全に評価することはできないが、幾つかの例を示しておく。大学生を使ったある研究では、パズルを行うことでお金を支払われた学生は、パズルをしてもしなくても構わないと伝えられると、『お金を支払われなかった学生よりもパズルを余り行わなかった。』『報酬のために活動をすることは、その活動への関心を削いでしまうと思われる。』子供を使った別な研究では、『外部からの報酬は内的動機付けを減少させる』と示された。多くの研究がこのことを確認している。報酬は、事実上、所与の活動がそれ自体で行う価値がないと述べていることになるからだ−−実行するために賄賂をもらわねばならないようなことを誰が行いたいと思うだろうか?[前掲書, p. 70 and p. 71]
 仕事場でも同様のプロセスが進行する。コーンは、外的動機付けが仕事場で上手く行かないことを示した数多くの証拠を提示している。実際、彼は次のように論じている。『経済学者が、仕事を「不効用」−−必要なものを買うことができるようになるために何か不愉快なことをしなければならない、単なる目的達成の手段−−だと考えているのであれば、それは間違っている。』コーンは次のように強調している。『金が人々を動かすと仮定するなど、人間の動機付けの理解が貧困だということだ。』それ以上に、『あらゆる奨励金や能力給システムが持つ危険は、それが自分の仕事に対する興味を失わせ、その結果、優れたことを行おうという情熱と献身を持って仕事に取り組むことが少なくなる、ということである。ひいては、業務遂行と代価(などの報酬)とを密接に結びつければ付けるほど、損害は大きくなってしまう。』[前掲書, p. 131, p. 134 and p. 140]
 コーンは次のように論じている。『責任ある行動・学習に対する自然な愛情・良い仕事を行いたいという願望が、既に、人間の姿の一部』だとすれば、人間は利益や報酬のためだけに働く、という考えは『極めて非人間的なものだと述べることができよう。』同様に、これは『民衆を統治しようとする方法』なのであり、従って、『報酬は無害なものだと時折認識されているが、人が他者を統治するという考えに主として基づいた人間関係モデルを懸念している人々は、報酬がそれほど無害なものかどうか熟慮しなければならない。』彼は、仕事場の例を使っている。『「能力給の基本的目的は操作である」という事実を回避することはできない。ある観察者はもっと露骨に、奨励金が実際に伝えるメッセージが「親分を満足させな、そうすれば、親分が適切だと考える報酬をもらえるさ」である以上、奨励金は「自己の品位を貶める」と見なしている。』[前掲書, p. 26]
 資本主義下では多くの仕事が他者に管理されており、有害な経験になってしまいかねない。だからといって、仕事がそのようになるべきだということではない。明らかに、賃金生活下でさえも、ほとんどの労働者は仕事に関心を持ち、仕事を上手くこなそうとすることができるし、現にそのように行っている−−報酬や罰が見込まれるからではなく、自分の活動に意味を求め、それを上手く行おうとしているからである。報酬志向型の仕事構造が生産性と優秀さにとって有害だということを研究が示していることを考えれば、社会的アナキストは、自分達の思想の基礎になると期待できること以上のものを手にしていることになる。こうした研究はクロポトキンの以下の論評を追認しているのである。

 賃労働とは奴隷労働である。賃労働は、生産できるはずのもの全てを生産できないし、生産するはずもない。もう、とっくに、賃金王国こそが生産的労働を刺激する最良の動機だと示している伝説に不信を抱く時代なのだ。現在の産業が、祖父の時代の数百倍の利益をもたらしているとすれば、その理由は、(一八)世紀の終わりに向けて物理科学と化学が突然覚醒したためである。資本主義の賃金王国組織のためではない。そうした組織があったにも関わらずなのである。[The Conquest of Bread, p. 150]

 こうした理由で、社会的アナキストは、自主管理の文脈内で利潤追求動機を削減することは、生産性と創造性を害するのではなく、むしろそれらを増進すると確信している(権威主義システムにおいては、労働者は官僚どもの権力と収入を増進させており、異なる結果を生み出すと予測できる)。自分自身の労働と仕事場を管理することで、全ての労働者が自分の能力を十全に発揮できるようになる。このことは、創造性と発意の減少ではなく激増をもたらすであろう。

[FAQ目次に戻る]

Anti-Copyright 98-forever, AiN. All Resources Shared.