アナキズムFAQ

I.4 アナキズム経済はどのように機能することになるのか?

 これは、特定システムに反対する全ての人が直面する重要な問題である。そのシステムを何で置き換えるのだろうか?もちろん、未来を創り出すのは、様々な書物やFAQを書いている少数のアナキストとリバータリアン社会主義者だけでなく、万人なのだから、未来のアナキスト社会がどのように機能するのかについて青写真を作るなど意味がない、と述べることもできる。これは全く正しい。自由社会が実際にどのようなものになるのか、どのように発展するのかを予測することなど出来ないのであり、ここでもそのようにするつもりはない。しかし、この答えは(他にどのようなメリットがあろうとも)大切なことを無視している。未来を創りながら生きていくことを決意する前に、アナキズムが何を目標にしているのかについて何かしらのアイディアを持っておかねばならないのである。
 さて、アナキズムのシステムはどのように機能するのだろうか?それは、人々が経済についてどのような考えを持っているのかに応じて変わる。例えば、相互主義経済は、共産主義経済とは全く異なって機能するが、類似した特徴も持っている。ルドルフ=ロッカーは次のように述べている。

 全てのアナキストに共通していることは、自由な人間性の発達を邪魔するあらゆる政治的・社会的強制機構から社会を自由にしたいという願望である。この意味で、相互主義・集産主義・共産主義を、それ以上の発展を許さない閉じたシステムだと見なしてはならない。自由な地域社会を保護する手段に関する単なる経済的諸前提だと見なすべきである。未来社会では様々な経済協力が平行して機能することもあり得よう。なぜなら、自由コミュニティ群からなる社会においては、あらゆる機会を持つことが可能になるため、社会発展は自由実験と実地試験に結びつくことになるからである。 [Anarcho-Syndicalism, p. 16]

 従って、アナキストの共通目標を考えれば、アナキストが示唆する経済システムが、労働者自主管理・連合・自由合意といった共通特徴を持っていることは驚くに値しない。全てのアナキストにとって、「経済」は『自発的連合』と見なされ、『それが労働を組織し、必需品の製造と流通を行うであろう』。これは『有用なものを創る。個人は美しいものを創る』のだ [Oscar Wilde, The Soul of Man Under Socialism, p. 1183]。例えば、機械は『単純製品の製造について手仕事に取って代わる。だが、同時に、手仕事の領域は、もっぱら工場で造られた多くのものを芸術的に仕上げることに拡大される。』[Peter Kropotkin, Fields, Factories and Workplaces Tomorrow, p. 152] 数十年後、マレイ=ブクチンは同じ考えを次のように主張した。『機械は、生産工程から苦役をなくし、人間に芸術的な仕上げの過程を任せてくれる。』[Post-Scarcity Anarchism, p. 134]
 『労働者組織が手を付けているのは、他者が自分のために行うことの出来る労働だけである。残りはエゴイスト的なままである。なぜなら、君以外に、誰も君の楽曲を作り上げたり、君の絵画の企図を実行したりするなど出来はしないからだ。誰も、ラファエルの労働に取って代わることは出来ない。後者は、その人だけが達成する資格がある唯一者の労働である。』[Max Stirner, The Ego and Its Own, p. 268] シュティルナーはこれに続けて次のように問うている。『誰のために(協会は)時間を割くのか?何のために人は、自分の疲れ切った労働力をリフレッシュするのに必要な時間以上の時間が必要なのか?ここで共産主義は沈黙するのである。』そして、彼は、次のように主張して、この疑問に答えている。個人が時間を割くのは『人間としての自分の役目を果たした後に、唯一者としての自分自身に慰めを見出すためである!』[前掲書, p. 269] これはクロポトキンが論じていたことと全く同じである。

 人は田園や工場などでの自分の仕事から解放される。こうした仕事は、生産全体への貢献として自分が社会に負っている義務である。仕事の後、その人は一日・一週間・一年間の残り半分を、自分の芸術的・科学的ニーズを満足させるため、自分の道楽のために使うであろう。[Conquest of Bread, p. 111]

 つまり、権威主義的共産主義は唯一無二の個人を無視している(シュティルナーがその有名な本を書いたときに存在していた共産主義はこれだけだった)が、リバータリアン共産主義者はシュティルナーに同意し、沈黙しない。シュティルナー同様、リバータリアン共産主義者の考えでは、労働を組織する全くの理由は、個人が自分の個性を表現するのに必要な時間と資源を提供してくれるからである。言い換えれば、「唯一者の労働」を追求するためである。従って、あらゆるアナキストは、自由社会を求めた自分の主張の基盤を、抽象概念や無定型の集団(「社会」のような)ではなく、現実の個々人をいかにして利するのか、に置く。だからこそ、「麺麭の略取」の第9章は「贅沢の欲求」であり、この点に関して言えば、その第10章は「愉快な労働」なのだ。
 この理念を現代にふさわしいものにするために、チョムスキーを引用しよう。『現在、近代産業社会の課題は技術的に実現可能なことを実現することである。ハッキリ言えば、民衆の自由で自主的な参加に基づき、ヒエラルキー構造が限定された社会、可能ならばヒエラルキーが全く存在しない社会を実現することである。そうした社会にいる民衆は、生産し、創造し、自分が管理する諸制度の範囲内で自由に自分の生活を送るのだ。』[Albert and Hahnel, Looking Forward: Participatory Economics for the Twenty First Century, p. 62 で引用]
 言い換えれば、アナキストは自主的な労働者協会を組織し、「仕事」の内外で創造的活動のために使うことが出来る時間を最大のものにするために、くだらない労働を最小限にしようとするのである。これを達成するのが、平等者間の自由協力である。競争は「ジャングルの法則」かもしれないが、協力は文明の法則である。
 この協力は「利他主義」には基づかない。利己主義に基づく。プルードンは次のように論じていた。『相互性・互恵性が存在するのは、ある産業にいる全労働者が、自分に賃金を払い、生産物を管理している事業主のためにではなく、お互いのために働いたときだけである。つまり、共通の産物を製造する上で協力し、自分達でその利益を分かち合っているときだけである。個々のグループの仕事を統一する原理としての互恵性を、単位としての労働者団体に拡大すると、これまでのあらゆる文明とはあらゆる観点で徹底的に異なる−−政治的に・経済的に・美学的に−−文明が創り出される。』[Martin Buber, Paths in Utopia, pp. 29-30 で引用] 言い換えれば、連帯と協力が、人生を享受し、自分の労働の恩恵を得る時間を持てるようにしてくれるのである。相互扶助は相互闘争よりも良い生活をもたらし、その結果、『闘争協会は、獰猛な日常競争を伴う生存競争よりも、文明・進歩・進化をはるかに効果的に支援するであろう。』[Luigi Geallani, The End of Anarchism, p. 26]
 資本主義の激烈な競争に代わり、アナキズム社会の経済活動は自分自身と社会を人間化し、個性を与える手段の一つとなる。それは生存から生活に移行する手段の一つとなるであろう。生産活動は、生存のために行わねばならないことではなく、自己表現・喜び・芸術の手段とならねばならない。究極的に「労働」は、現在のような疎外された活動ではなく、遊びや趣味と同種のものにならねばならない。生活の優先事項は、自分達を労働市場における商品へと変貌させ、ポランニーの表現を使えば『市場の付属物として社会を運営する』ことではなく、個人の自己実現と社会の人間化に関することでなければならない。従って、アナキストはジョン=スチュワート=ミルが次のように述べていることに同意するのである。

 「人間の一般状態は継続して闘争する状態である。」「人間にとって最も望ましいのは、現在の社会生活を形成しているような、踏みにじり、押しつぶし、肘てつを食らわせ、互いの足を踏みつけにし合うことである。もしくは、これらは産業進歩の一段階が持つ不愉快な症状などではない。」告白しよう。こうしたことを考えている人々が抱く人生の理想に私は魅了されはしないのだ。[Collected Works, vol. III, p. 754]

 アナキズムの目的は、貧困の終焉以上のことである。従って、プルードンは次のようにコメントしているのである。社会主義の『根底にあるドグマ』は、『社会主義の目的は、プロレタリア階級の解放と貧困の根絶である』ということだ。この解放は『民主的に組織された労働者協会』を通じた『賃金奴隷』の終焉によって達成される。[No Gods, No Masters, vol. 1, p. 57 and p.62] クロポトキンの言葉を使えば、社会主義の目的は『万人の幸福』−−身体的・精神的・道徳的!−−である。実際、単に貧困にだけ集中し、プロレタリア階級の解放を無視してしまえば、社会主義の真の目的は曖昧になってしまう。クロポトキンは次のように論じていた。

 「幸福になる権利」とは人間らしく生活できるようになること、現在よりも良い社会のメンバーになることができるように子供たちを育てることを意味する。一方、「労働の権利」は賃金奴隷・労働機械(drudge)になる権利、未来の中産階級に支配され搾取される権利を意味しているに過ぎない。幸福になる権利は社会革命である。働く権利は商業主義の踏車に過ぎない。今や既に、労働者が、共有の遺産に対する権利を主張し、その遺産を正式に占有すべき時なのである。 [The Conquest of Bread, p. 44]

 自由協力に対するこの欲望には、中央集権化システムを終焉させる欲望が組み合わされねばならない。中央集権への反対は、明らかに誤ったやり方で企てられることが多い。これがよく分かるのは、指導的な市場社会主義者アレックス=ノーヴが次のように論じたときである。『一方には横の繋がり(市場)があり、他方には縦の繋がり(ヒエラルキー)がある。他の次元が存在するだろうか?』[Alex Nove, The Economics of Feasible Socialism, p. 226] つまり、ノーヴは、中央集権型計画立案に反対することは市場を受け入れることだ、と述べているのである。だが、これは真ではない。縦の繋がりがヒエラルキー型のものだけでないのと同じように、横の繋がりは必ずしも市場型だけではない。ただ、彼の主張の中核は正しい。アナキズム社会は本質的に、個々人と様々な協同組織との間の横の繋がりに、自分達(中央機構ではなく)が適当だと見なす時に自由に協力し合うことに基づかねばならない。この協力が、アナキズム経済における「縦の」繋がりの源になるであろう。個々人や諸協会からなるグループは、自分達自身の意志決定によって結びつく。これは、命令を伝えるだけの中央機構とは徹底的に異なっている。なぜなら、決定に影響を受ける人々が決定内容を決めるからだ。つまり、決定事項はトップから下ろされるのではなく、ボトムアップで創り出されるのである。
 従って、私たちは、アナキズムのシステムがどのように機能するのかを正確に定義することを拒絶しながらも、上述したアナキズムの原則と理想とが実践に移される方法が何を意味しているのかを探求するのである。心に留めねばならないが、これは、証拠として頼りに出来る歴史的実例が殆どないシステムの枠組みに関する単なる一つの可能性でしかない。つまり、私たちに出来ることと言えば、アナキズム社会がどのようなものになり得るのかについての一般的な概要を示すことだけなのである。「レシピ」と正確さを求めている人は、余所に当たっていただきたい。十中八九、私たちが提示する枠組みは、新社会を創り出すときに民衆が直面する現実経験と現実問題に照らして、修正され、変更されることになろう(無視さえされるかもしれない)。
 最後に指摘しなければならないが、この枠組みを、現実の資本主義ではなく資本主義理論(つまり、完全に機能する「自由」市場や準完全な市場)と比較しようとする人がいるかも知れない。完全に機能する資本主義システムなど理論を現実と混同しているイデオローグの掌中や教科書にしか存在しない。完全なシステムなどあり得ない。特に完全な資本主義などないのだ。「完全な」資本主義を他のシステムと比較するなど、無意味である。さらに、真古典主義経済学の持つ「科学的」諸原理を、私たちの思想に適用しようとする人々もいるだろう。そのようにすることで、プルードンが『政治経済学の根元的悪徳』と呼んだこと、つまり、『移行条件を最終的状態だと断言すること−−ハッキリ言えば、社会を貴族と労働者に分断すること』を行っているのである[System of Economical Contradictions, p. 67]。従って、資本主義の理論化から発展した「法則」をアナキズムに適用しようとしたところで、非資本主義システムのダイナミクスを捉えることが出来ないのである(新古典主義経済学が資本主義のダイナミクスを理解できないことを考えれば、所有主独裁制と資本主義の不平等とを拒絶する非資本主義システムを理解することについて、いかなる期待を持つことが出来るだろうか?)。
 ジョン=クランプは、日本のアナキズムを論じる中でこの点を強調している。

 純正アナキストが主張していた社会システムの実行可能性を考えるとき、どのような基準でそれが測られねばならないのかをハッキリとさせなければならない。例えば、年間成長率・貿易収支などのような資本主義経済の物差しで評価しなければならないと要求するなど不当であろう。資本主義の業績を測るために考案された基準を使って無政府共産主義を評価するなど意味がない。純正アナキストが最も重要だと考えている個人的自由・公共的連帯・個人の無制限の自由消費権といった業績指標に対して資本主義の働きを評価しなければならないとなると、資本主義は途方に暮れてしまうであろう。こうした要求に直面した場合、資本主義は、これらの指標は資本主義を敏感に測定することはできないと認めるか、人間の自由を市場と同一視し、その結果賃金奴隷と同一視するといったよく使うグロテスクなイデオロギー的口実に訴えねばならないだろう。自分達が主張する代替社会に対する純正アナキストの確信は、GNPや生産性といった資本主義の基準という点で資本主義を量的に凌ぐだろうという期待から得られているのではない。逆に、無政府共産主義に対するその熱意は、それが資本主義と質的に異なるであろうという理解から溢れ出ているのである。もちろん、だからといって、純正アナキストが生産と分配という問題に無知だったと述べているのではない。無政府共産主義が万人の経済的福祉を提供するだろうと彼らは確かに信じていたのである。しかし、彼らには、資本主義が恒常的に行っているように、個人の自由と公共的連帯を無視して、狭く考えられた経済拡張に重点を置くつもりなどなかったのである。 [Hatta Shuzo and Pure Anarchism in Interwar Japan, pp. 191-3]

 クロポトキンは次のように論じている。『学問的な政治経済学は、資本主義の諸条件下で生じていることの一覧表に過ぎない。しかも、その諸条件それ自体を明確に述べてはいない。そして、お次に、こうした諸条件下で現代社会に生じている諸事実を記述するのである。(学問的な新古典派経済学はこのようにすら行っていない。強調しなければならないが、クロポトキンはアダム=スミスとリカルドのような人々を念頭に置いているのであって、現代の新古典派経済学ではない。)学者たちはこうした諸事実を使って、厳格な必然的経済諸法則を示すのである。』[Kropotkin's Revolutionary Pamphlets, p. 179] そこで、こうした諸条件が変われば、社会の「経済諸法則」が変わるわけだ。よって、資本主義経済学はポスト(もしくは前)資本主義社会には適用できないのである(同様に、現在見られる富と権力の不平等を正当化するために用いることもできないのである)。

I.4.1 アナーキーにおける経済的活動の意義は何か?

 アナキズム社会における経済活動の基本的意義は、消費したいと望んでいるものを確実に生産できるようにすること、さらに、自分達の消費を確実に自分達の管理下におくことである(消費にコントロールされることではない)。二番目の意義については奇妙に思われるかも知れない。消費が私たちをどのようにコントロールできるのだろうか−−自分が望むものを消費しているのであって、無理矢理消費するように強制されてはいないじゃないか!、というわけだ。だが、望むものだけを消費するという考えは、資本主義経済下では完全に事実に反している。資本主義では、生き残るためには拡大しなければならないし、より多くの利益を作り出し続けねばならない。このことが、例えば広告業のような、不合理な副作用をもたらす。何が消費できるのかについて生産者が消費者に知らしめる必要があることは言うまでもない。しかし、資本主義は、存在しないニーズを創り出すことで、それ以上のことを広告が行えるようにしているのである。
 必要なときにだけ生産する、これがアナキズム社会における経済活動のポイントである。資本主義下でのように、生産のために生産を組織するのではない。クロポトキンの言葉を使えば、生産は『消費の単なる召使い』になる。『生産は、消費者の様々な状態を指図するのではなく、消費者の欲望に合わせねばならない。』[Act For Yourselves, p. 57] アナキズム社会における経済活動の基本的目的は、確かに、生産過程において資本家などの寄生虫を蔓延らせずに富を生産する−−つまり、個々人の欲求を満足させる−−ことである。しかし、それ以上なのだ。そう、アナキズム社会の目的は、万人が十全な人間生活に適した生活水準を持つ社会を創り出すことである。そう、貧困・不平等・個人の困窮・社会的浪費と不潔さを除去することである。だが、それ以上のことを目差しているのだ。つまり、「仕事」の内外で自分の個性を表現する自由な個人を創造することを目的としているのである。結局、仕事場から現れることの中で、何が最も重要なのだろうか?資本主義に賛同する人々は利潤だと言う。完成品だとか商品だとか言う人もいる。実際、仕事場から出てくる最も重要なことは、労働者なのである。仕事場で労働者に何が起こっているのかが、労働者の人生の全面に影響を持つのだから、蔑ろには出来ないのである。
 従って、アナキストにとって、『真の富は、有用性と美しさを持つもので成り立っている。強く美しい肉体と住みたいと思わせる環境とを創り出す手助けをするもので成り立っているのである。』アナキズムの『目標は個人の潜在的力全てを出来る限り最大限に表現することであり、これを可能にするのは、仕事の様式・仕事の条件・仕事をする自由を、人が自由に選択出来る社会状況だけである。机を作ること・家を建てること・土地を耕すことは、芸術家にとっての絵画、科学者にとっての発見と同じである−−創造的力としてのインスピレーション・激しい熱望・仕事への深い関心の結果なのである。』[Emma Goldman, Red Emma Speaks, p. 53 and p. 54]
 資本主義が述べているように、何にもまして「効率性」に価値を置くこと(実際には、資本主義は何にもまして利益に価値を置いており、効率性を増大させて権力と利潤を阻害している労働者管理のような発展を妨害している)は、自分自身の人間性と個性を無視することである。優美さと美しさを尊重しなければ、ものを創り出すときに何の喜びもなく、ものを手にするときに何の楽しみもない。私たちの生活は「進歩」のおかげで豊かになるどころか単調になっている。(「効率性」を損なわず、資本主義の下で、資本家と経営者の利益と権力に害を与えないとして)技能と配慮が贅沢だと見なされているときに、人はどのようにして自分の仕事にプライドを持つことが出来るのだろうか?私たちは機械ではない。職人的技能が必要である。アナキストはこのことを認識して、自由社会のヴィジョンの中で考慮しているのである。
 つまり、アナキズム社会において、経済活動は、個人に権能を与えるやり方で有用かつ美しいものを生産するプロセスなのである。オスカー=ワイルドが述べていたように、個人は美しいものを生産するであろう。こうした生産は、『人間の欲求の研究と、人的エネルギーの浪費を最小限に留めながらその欲求を満たす手段』に基づくであろう [Peter Kropotkin, The Conquest of Bread, p. 175]。このことは、アナキズムの経済思想は、政治経済学の現状とではなく、政治経済学のあるべき姿と同じであるということを意味している。ハッキリ言えば、『あらゆる政治経済学に必要不可欠な基盤、人的エネルギーの最小浪費(現代の私たちは、最小限の自然破壊も付け加えねばならない)で最大量の有用産物を社会に提供するための最も好ましい条件の研究』なのである [前掲書, p. 144]。
 アナキストは、資本主義の不合理な仕組みによって人的エネルギーと時間とが浪費されている、と告発する。さもなくば、こうしたエネルギーは美しいもの(個性という点でも、労働の産物という点でも)を創り出すことが出来たであろう。資本主義の下で、私たちは『生きるために苦役し、苦役するために生きているのかもしれない。』[William Morris, Useful Work Versus Useless Toil, p. 37]
 さらに強調しなければならないが、アナキズム社会での経済活動の目的は、平等な成果−−万人が全く同じ物品を手に入れる−−を創り出すことではない
セクション A.2.5で記したように、資本主義賛同者たちはこうした「平等」の「ヴィジョン」を社会主義の特徴だとしているが、これは、社会主義思想を真に評価しているというよりも、社会主義の批判者たちの想像力と倫理が貧困であるということを示している。アナキストは、他の社会主義者同様、自由を最大にするために平等を支持するが、そこには、自分の欲求を満足させるために選択肢の中から選ぶ自由も含まれている。
 人々を平等者として平等に扱うとは、個々人の願望と関心を尊重すること、人が等しく自由の権利を有していることを認めることを意味する。他の人と全く同じものを人に消費させるなど、誰もが自分が適当だと思うだけ自分の能力を発達させるという万人の平等を尊重してはいない。つまり、平等とは、願望と関心を満足させる機会の平等を意味するのであって、唯一無二の個人に対して抽象的最低限(もしくは最大限)を押しつけることを意味しているのではない。唯一者を平等に扱うとは、唯一性を認めることであって、それを否定することではないのだ。
 従って、アナーキーにおける経済活動の真の目的は、確実に『万人が自分の人間性を発達させるための物質的・道徳的手段を持つ』ように保証することなのである [Michael Bakunin, The Political Philosophy of Bakunin, p. 295]。自分自身を自由に表現できなければ、自分の人間性を発達させることなど出来ない。言うまでもなく、唯一無二の個々人を「平等に」(つまり、同じに)扱うなど間違っている。例えば、同じ収入を得るために、20歳の男性と70歳の女性に全く同じ仕事を行わせることなどできはしない。アナキストはそんな「平等」に同意してはいない。そんなものは、資本主義の「数学の倫理」の産物であり、アナキズム思想の産物ではない。このような考えは自由社会とは異質である。アナキストが望む平等性は、自分に影響する決定事項を自分で管理することに基づいた社会的平等である。よって、アナキスト経済活動の目的は『万人の平等な自由、自分が望むことを誰もが行うことが出来るようにしてくれる条件の平等』に必要な物品を提供することなのである [Errico Malatesta, Life and Ideas, p. 49]。従って、アナキストは『正義の前提・道徳の基盤として、個人の自然な平等ではなく、社会的平等を要求する。』 [Bakunin, 前掲書, p. 249]
 資本主義の下では、人間が生産を管理するのではなく、生産が人間を管理している。アナキストはこのことを変えたいと思っており、個々人が自分の個性を表現し発達させるための(つまり「美しいものを創る」ための)自由時間を最大に出来る経済ネットワークを創り出そうとしている。従って、アナキストは、そうしなければ経済が崩壊するからという理由で生産を行おうとしているのではない。個人を解放し、その生の全面で個人に権能を与えるやり方で確実に有用なものを生産したいと思っている。アナキストは、古典的自由主義(の何人か)とこの願望を共有しており、フンボルトが次のように述べたことについて全面的に同意する。『人間の目的は、自分の様々な能力が、完全で一貫した全体へと、最高度に調和のとれた発達をすることである。』 [J.S. Mill, On Liberty and Other Essays, p. 64 で引用]
 この願望は、アナキストが、資本主義者による「効率性」の定義を拒絶していることを意味する。アナキストは、アルバートとハーネルが次のように述べていることに同意する。『民衆は、自分の特長を、そして、好みをゆっくり時間を掛けて発達させ、長期的効率性を手に入れる意識的行為者である。従って、評価しなければならないのは、民衆の発達に対する経済的諸制度の影響なのである。』[The Political Economy of Participatory Economics, p. 9] 上述したように、この点について資本主義は非常に非効率的である。ヒエラルキーが持つ様々な効果と、その結果として、社会の大多数が軽んじられ、権能を剥奪されてしまうからである。アルバートとハーネルは、続けて次のように述べている。『自主管理・連帯・多様性は、全て、経済的諸制度を評価するための正当で有用な基準である。特定の制度が、民衆が自主管理・多様性・連帯を獲得できるように手助けしているかどうかを問うことが賢明なのである。』[前掲書]
 つまり、アナキストの考えでは、自由社会における経済活動とは、その活動を行うことで出来るだけ多くの快楽を得られるようなやり方で、有益なことを行うことである。そうした活動の意義は、それを行っている人々の個性を表現することである。個性が表現されるためには、仕事のプロセスそれ自体が労働者によって管理されねばならない。仕事が個人に権能を与え、その力を発達させる手段になるのは、自主管理を通じてだけなのだ。
 簡潔に言うならば、ウィリアム=モリスの表現を借りるのが良いだろう。アナキズム社会では有用な仕事が無用な苦役に置き換わるのだ。

I.4.2 何故、アナキストは労働を廃絶したいと思っているのか?

 アナキストは人間が自らを「労働」から解放して欲しいと思っている。このことは、多くの人々にはショックだと思われるかも知れないし、アナキズムが本質的にユートピアンだということを充分「証明している」と言われるかもしれない。しかし、私たちは、労働の廃絶は必要だというだけでなく、可能だと考えている。「労働」は私たちが直面している自由への脅威の一つだからである。
 自由が自己統治を意味しているならば、仕事場でヒエラルキーに支配されることが、自分で考え自分で判断する能力を破壊していることは明らかだ。どの技能についても言えるが、その十全な潜在的可能性を保つためには、批判的分析と自立的思考を継続的に実践しなければならない。しかし、ヒエラルキー同様に、権力機構が創り出す仕事場環境も、これらの能力の土台を壊す手助けをしている。アダム=スミスも以下のように認めていた。
 『大多数の人々の知力を形成するのは、その通常行っている職業である。』そうならば、『単純で、その結果も常に同じ、もしくはほとんど同じ、といった機械操作を行うことに人生を費やしている人は、自分の知力を拡充する機会を全く持たず、人間がなり得る限りのバカで無知になってしまう。しかし、改良され文明化されたあらゆる社会において、政府が躍起になって防止しない限り、これは民衆の大半を占める貧困労働者が必ず陥る状態なのだ。』[Noam Chomsky, Year 501, p. 18で引用]
 スミスの主張は(スミスの思想に従っていると公言している人々には無視されているものだが)多くの証拠に裏付けられている。異なる権威構造とテクノロジーは、異なる効果をその内部で働く人々に及ぼす。キャロール=ペイトマンは(「参加と民主主義理論 Participation and Democratic Theory」において)次のように記している。『ある種の労働情況だけが、自信と自己の有効性の感覚(といったような、自由に適した)心理的特性を発達させる手助けになるのであり、これが政治的有効性の感覚の基礎となる』ということが証明されている [p. 51]。彼女は、ある専門家(「自由と疎外 Freedom and Alienation」の著者R=ブラウナー)の主張を引用している。資本主義企業は、高度に合理化された作業環境と莫大な労働分業に基づき、労働者は『自分の仕事ペースやテクニックをコントロールできず、スキルやリーダーシップを発揮する機会も持っていない』[前掲書, p. 51]。心理学のある研究によれば、こうした中にいる労働者は『自分の運命を放棄し、自立的であるよりも依存的になり、自信をなくし、控えめになり、恐怖と不安とが最も優勢な感情になってしまうようである。』[p. 52]
 だが『労働者が自分の仕事を自分で管理する度合いが高く、外部からの管理から自由である度合いが大きい仕事場、もしくは、従業員の一団が集団的責任を持ち、仕事のペースとそれをやり遂げる方法を管理し、作業班が概して内部の自制力を持っている仕事場では』異なる社会的特徴が見られる [p. 52]。この特徴とは、『個人主義と自律の強い感覚・より大きな社会における市民権の確固たる受け入れ・高度に発達した自負心と自尊心の感覚、従って、地域社会の社会的・政治的諸機関に参加する用意があるということ』である [p. 52]。彼女によれば、R=ブラウナーは次のように述べていた。『人の仕事の性質が、その人の社会的性格と人格に影響を与える。』そして、『産業環境は一つの明確な社会類型を生む。』[Pateman, 前掲書, p. 52で引用]
 ボブ=ブラックは次のように論じている。

 自分とは自分がやっていることだ。自分が退屈でバカバカしく単調な仕事をしているのであれば、最終的に自分自身が退屈でバカで単調な人間になってしまう見込みが高い。労働は、なぜ私達の周りの人々が恐るべき白痴になってしまうのかを、テレビと学校教育のような重大な魯鈍化メカニズムよりも遥かにうまく説明してくれる。自分の人生全てを組織化され、学校教育から仕事へと引き渡され、最初は家族で最後は老人ホームと一括り、こういった類の人々はヒエラルキーに慣れさせられ、心理的に奴隷にさせられている。本来持っていた自律への傾向が萎縮してしまっているため、自由の恐怖という何の合理的根拠もない恐怖症を手に入れるわけだ。仕事場で受けている服従訓練は、自分で始めた家族へと持ち越され、故に様々な方面でそのシステムを再び作り出し、それが政治・文化その他全てのことに及ぶ。一旦仕事場で人々の活力を枯渇させてしまうと、その人々は、全てのことにおいて、ヒエラルキーと専門家の言いなりになってしまうのである。それに慣れきってしまうのだ。[The Abolition of Work and other essays, pp. 21-2]

 この理由で、アナキストは「労働の廃絶」(ボブ=ブラックのフレーズを使えば)を望んでいるのである。この文脈で、「労働」は生産活動を意味しているのではない。全く違う。「労働」(必要なことを行うという意味での)は常に私たちと共にある。そこから逃げ出すことなど出来はしない。穀物は育てねばならず、学校は建てねばならず、家は修理しなければならない、といった具合だ。この文脈での「労働」とは、労働者が自分の活動を管理していない仕事のことである。言い換えれば、あらゆる形態の賃労働のことである。クロポトキンは次のように述べている。『労働する権利は』単に『賃金奴隷・退屈な重労働を行う人にいつでもなり、未来の中産階級に支配され搾取される権利を意味する。』そして、クロポトキンはこれを『幸福になる権利』と対比する。この権利は『人間らしく生きる可能性、現在よりもより良い社会の成員に子供たちを育成する可能性』を意味している。[The Conquest of Bread, p. 44]
 賃労働に基づいた社会(つまり、資本主義社会)は一般労働者が自分の能力を殆ど行使しない社会、勤務中は上司に支配されるが故に、自分の仕事を殆どもしくは全く管理しない社会を生み出す。これまでに幾度も証明されているように、こうした社会は、個人の自尊心と自負心とを引き下げる。労働者の自治を無視した社会関係についても同様のことが予想される。資本主義の特徴は極度の分業である。特に、精神労働と肉体労働との過度の分業である。これが、労働者をボスの命令に従うだけの単なる機械操作者に貶める。従って、経済的自由(つまり自主管理)を支持しないリバータリアンはリバータリアンではないのだ。
 資本主義はそれ自体の理論的根拠を消費に置いている。しかし、これは、私たちが生産活動に費やしている時間の大切さを軽視する観点に繋がる。アナキストは、個人があらゆる職種で自分独自の性格と能力を行使し、それを発達させることが必須であり、自身の才能を最大限に発揮することが大切だと考えている。従って、消費を優先して「仕事」を無視すべきだという考えは、完全に狂っている。生産活動は自分の内的力を発達させ、自己表現を行う、とどのつまりは、創造的になるための大切な手段なのである。資本主義が消費を強調するのは、資本主義システムの貧困を示している。アレクサンダー=バークマンは次のように主張している。

 我々はパンのみに生きるにあらず。まさしく、自分の身体的欲求を満足させる機会がなければ、私たちは存在できない。だが、こうした欲求の満足だけが生活の全てではない。数百万人を無産者にした現行システムは、いわば世界の中心を胃袋にした。しかし、賢明な社会ならば、人間的共感・正義・権利といった感覚を発達させ、充足させ、拡大させ、成長させる機会があるものなのだ。[ABC of Anarchism, p. 15]

 労働者が、生産的・創造的・自主管理型活動に関連する幸福をそれが存在しない場所に−−店の棚に−−見出そうとしているように、資本主義は疎外された消費という不断のプロセスに基づいている。このことが、思慮のない消費主義と宗教とが増加する理由をある程度まで説明してくれる。個人は、人生の意味と幸福とを見つけようとしているのだ。賃労働とヒエラルキーの中で台無しにされている意味と幸福とを見つけようとしているのである。
 資本主義は個人の魂を貧弱にする。これは驚くほどのことではない。ウィリアム=ゴドウィンは次のように論じていた。『抑圧の精神・奴隷の精神・欺瞞の精神、これらは既に行われている財産管理から直に成長している。これらは一様に、知的・道徳的進歩に敵対している。』[The Anarchist Reader, p. 131] つまり、賃労働や仕事場でのヒエラルキー関係に基づいたシステムは、個人のやる気を削ぎ、「奴隷の」特徴を創り出すのである。こうした個性の破壊は、ゴドウィンが『第三級財産』(the third degree of property)と呼んだもの、つまり、『人が他者の産業の産物を処分する機能に参入することで成り立つシステム』から、言い換えれば資本主義から、直接生じているのである [前掲書, p. 129]。
 アナキストはこのことを変えたいと思っており、人生の全面において自由に基づく社会を創り出したいと思っている。だからアナキストは労働を廃絶したいのだ。労働が自由を制限し、働かねばならない人々の個性を歪めているからだ。エマ=ゴールドマンを引用しよう。

 アナキズムの目的は、労働から、気力を無くさせ鈍感にさせる側面を、陰鬱さと無理強いとを剥ぎ取ることである。労働を楽しみの道具・長所の道具・個性の道具・本当の調和の道具にし、極貧の人が娯楽と希望とを労働に見出すことができるようにするのである。[Anarchism and Other Essays, p. 61]

 アナキストは、労働を排除することで、必要物資などを生産しなくても良くなるなどとは考えてはいない。全く逆である。アナキズム社会は『何もするなという意味ではない。遊びに基づいた新しい生活様式を創り出すという意味である。つまり、遊戯的革命である。全般的な愉しみと自由に相互依存し合う豊さの中での集団的冒険である。』[Bob Black, 前掲書]
 つまり、アナキズム社会では、退屈で不快な活動を最小限に抑え、行わねばならない生産活動全てをできる限り愉しく自発的な労働に基づいたものにするために、あらゆる努力を行うことになる。だが、コーネリゥス=カストリアディスが次のように指摘していたことを思い出さねばならない。『社会主義社会では、労働日の長さを減少できるだろうし、減少させねばならない。だが、このことは根本的関心事とはならないだろう。第一の課題は、労働の正にその性質を変えることである。問題は、個々人により多くの「暇」−−空虚な時間になってもおかしくない−−を残し、その時間を「詩」や木彫に当てることができるようにすることではない。全ての時間を自由の時間にし、創造的活動の中で具体的自由が表現されるようにすること、これが問題なのだ。』本質的に『問題は詩を仕事に組み込むことなのである。』[Workers' Councils and the Economics of a Self-Managed Society, p. 14 and p. 15]
 これが、「労働」(つまり賃労働)をアナキストが廃絶したいと思っている理由である。アナキストは、行う必要のある「労働」(つまり経済活動)全てが、確実に、それを行う人々の直接管理下に置かれるようにしようとしている。このようにして、仕事は解放され、自己否定の一形態ではなく、自己実現の手段になることができる。言い換えれば、アナキストが労働を廃絶したいと思っているのは、労働によって『生活、生きる術が、均一で不活発で退屈な公式になる』からである [A. Berkman, 前掲書, p. 27]。アナキストは生の自発性と喜びを生産活動と調和させ、資本の圧力から人間性を救いたいと思っているのである。
 だからといって、誰もが一種類の生産形態に関する「専門家になりたい」たいとは思っていない、とアナキストが考えているわけではない。全く正反対に、自由社会における民衆は、自己表現方法の焦点として自分が興味を持っている活動を選ぶだろう。クロポトキンは記している。『全ての男女が、科学研究の探求を同じように愉しめるわけではない。ある人は科学に、ある人は芸術に、また別な人は無数にある富の生産部門の幾つかに、多くの喜びを見出す、といった具合に多様な傾向がある。』この『分業』は人間にとって当たり前のことであり、資本主義の下でも見ることができる。殆どの子供や十代の若者は、特定の仕事に自分が関心を持っているし、少なくともそれを行いたいと思っているがために、特定業種を選択する。自分が関心を持っていることや得意とすることを行いたいという自然な願望がアナキズム社会では促される。クロポトキンが論じていたように、アナキストは『知識の専門化の必要を充分に認識している。しかし、専門化は一般教養の後になされるべきであり、一般教養は科学に関しても手工芸に関しても同じように提供されるべきである、と我々は主張しているのである。社会を頭脳労働者と肉体労働者とに分断することに対して、これらの活動を結合させることで対抗するのである。我々はeducation integrale(総合教育)、完全教育を支持する。これは、この有害な分断の消滅を意味している。』だが、多様な活動と強力な一般教養から個人と社会双方が利益を得ることになることに彼は気付いていた。『だが、いかなる職業を好もうとも、本格的な科学知識を有していれば、誰もが自分の分野でもっと役に立てるようになる。どのような人であれ、自分が工場や農場(工場農場)で人生の一部を過ごし、日常の仕事で人間と接し、特権なき富の生産者としての職務を果たしたことを理解して満足を得るならば、その人は富んでいるのである。』[Fields, Factories and Workshops Tomorrow, p. 186, p. 172 and p. 186]
 専門化が継続する一方、個人を肉体労働か頭脳労働かに永久に分断することは減っていく。個人は、必要な「仕事」の全面を管理することになる(例えば、技術者は自分の仕事場の自主管理にも参加する)。多様な活動が推奨され、資本主義が持つ厳格な分業は廃絶される。
 つまり、アナキストは分業を仕事の手分けで置き換えたいと思っているのである。強調しておくが、これは言葉遊びではない。ジョン=クランプは、この違いに関して、日本のアナキスト、八太舟三の思想を上手くまとめている。

 (我々は)八太が行った「分業」と「仕事の手分け」との区別を認識しなければならない。彼は、手分けについて悪意を持っていなかった。逆に、八太は手分けを生産プロセスが持つ良性で不可避の特徴だと信じていた。『言うまでもなく、社会の中ではいかなる生産であろうとも手分けしなければならないのだ。』[Hatta Shuzo and Pure Anarchism in Interwar Japan, pp. 146-7]

 クロポトキンは次のように論じている。

 様々な職務の一時的分業は個々の事業の成功を最も確実なものにし続ける。だが、永続的分業は消滅する運命にあり、個人の様々な能力と人間集団内での様々な能力とに応じて、多様な仕事−−知的・工業的・農業的−−に置き換えられることになる。[Fields, Factories and Workshops Tomorrow, p. 26]

 資本主義の支持者は小声で次のように論じる。統合された労働は分業された労働よりも効率が悪いはずであり、だから、資本主義企業はそれを導入していないのだ、と。多くの理由からこれは誤りである。
 まず第一に、この主張の非人間的論理を明るみにしなければなるまい。結局、奴隷制が賃労働よりも生産的だったとしても、奴隷制を望ましいとする人はほとんどいないだろう。だが、この論理の帰結は、奴隷制を望ましいと言っているようなものなのだ。奴隷制が主たる労働様式ではないのはそれが非効率的だからに過ぎない、と論じる人がいれば、そんな人は人間ではないと見なされるだろう。単純に言って、ほんの少しばかり多くの製品を生産するために、大喜びで個人を犠牲にするなど異常なイデオロギーなのだ。悲しいかな、資本主義を擁護する人々の多くが、結局のところ、このイデオロギーに賛同しているのである。
 第二に、資本主義企業の構造は中立的ではなく、既得権とニーズを持つヒエラルキーシステムだ、ということである。経営者は自分の権力を(そして、その利益を)維持する作業テクニックしか導入しない。
セクションJ.5.2で論じているように、一般に労働者の参加が効率性を高めると見なされていても、経営者はこの計画を中止するものである。なぜなら、労働者に権能を与えることで、労働者は自分が生産する価値のより多くの取り分を求めて戦うことができるようになり、経営者の権力を削り落とすことになるからだ。従って、資本主義の下で統合された労働が欠如しているのは、単に効率が悪いためではなく、それが経営側に力を与えないということを意味しているからだけのことなのである。
 第三に、現在、経営者とボスとが労働組合を撤廃することで「柔軟性」を導入しようとしているが、これは、統合された労働が遙かに効率的であるということを示していることが挙げられる。労組との協約に対しては出されている様々な不満の一つは、労働者が何を行うことができ、何を行うことができないのかをハッキリと文書化している、ということであった。例えば、組合員が、自分が同意した職務記述書以外の仕事を行うことを拒否したとしよう。通常、これは規定が持つ弊害の一例に分類されている。
 しかし、契約という観点から見れば、これは協働の手段としての契約は非効率的で融通が利かないということを露呈している。結局、この拒絶は実際には何を意味しているのだろうか?契約に特定されていないことの実行を労働者が拒否しているという意味なのだ!職務記述書は労働者が何をすべきかを示しており、示されていないことは予め合意されていない。労働者とボスとの間での契約という手段によって、仕事場での分業が明示されているのである。
 経営者は、上手く策定された契約の実例であっても、その契約のために仕事場を運営できないことを理解した。むしろ、経営者に必要なのは一般的な「言われたことをやる」契約(もちろん、これは権威を減じる契約の実例などではない)であり、こうした契約は、様々な仕事上の課題を一つに統合してくれる。労働協約に対する経営者の痛烈な非難は、生産が実際に機能するためにはある種の統合された労働が必要だということを示している(同様に、資本主義下での労働協約の欺瞞も示しており、そこでの労働の柔軟性とは、労働の「商品化」を示しているに過ぎない−−機械がそれが何のために使われるのかを疑問視しないのと同様に、資本主義下での労働の理想は労働者が何の疑問も抱かずに労働することなのだ)。労組の職務記述書は、契約が資本主義の仕事場にそぐわないということだけでなく、生産には労働の手分けだけでなく労働の統合も必要である、ということも示しているのである。コーネリゥス=カストリアディスは次のように論じている。

 近代生産は、多くの伝統的専門技能を破壊した。自働機械や半自働機械を創り出し、その結果、産業的分業のために、それ自身の伝統的枠組みを破壊した。比較的短期の見習い期間で、大部分の機械を操作できる普遍的労働者を生み出したのである。その階級的側面を抜け出すと、近代巨大工場の特定職務に労働者を「配置すること」は、純粋な手分けとは次第に無関係になり、単なる職務分業と同じになっていく。労働者は、生産プロセスの特定領域に割り当てられるのではなく、そこに固定させられる。なぜなら、自分の「職能技能」は、常に、経営側に「必要とされる技能」に対応するからである。特定の空きがたまたま存在したために、そこに置かれただけのことなのだ。[Political and Social Writings, vol. 2, p. 117]

 もちろん、別な選択肢として、自主管理によって資本主義を排除することが挙げられる。労働者が自分の時間と労働を管理するのであれば、何をすべきか命令する人と契約などしないわけだから、「これは私の仕事ではない」と述べる理由はなくなる。同様に、労働者に押し付けられていた労働統合プロセスを素直に受け入ることができるようになり、素直に受け入れた職務は、強制(もしくは脅迫)によって押し付けられた職務よりも常に優れた結果を生み出す。つまり、『社会主義の下で、現在蔓延しているような厳格な人工的分業を工場が容認する理由はなくなるだろう。小売店と百貨店の間で(between shops and departments)で、生産現場と事務所の間で、労働者のローテーションを促すあらゆる理由がある(there will be every reaosn)。』『資本主義の分業の残余物は次第に除去されるはずである。』なぜなら『この分断を撤去しなければ社会主義社会が生き残ることができない』からだ。[前掲書]
 自由社会では職務(もしくは仕事)の手分けが労働分業に置き換わる。『社会経済学の主題は、人間の欲求を満足させるために必要なエネルギーの経済』である、とクロポトキンは論じる。こうした欲求が示しているのは、明らかに、生産者の二つの欲求、仕事への自信と関与を求めた欲求と健康でバランスの取れた環境を求める欲求であった。クロポトキンは『工業の仕事と集約農業との組み合わせ、頭脳労働と肉体労働の組み合わせから生じ』うる『利益』について論じた。『個々の地域社会が様々な農業・工業・知的事業を兼ね備えている時に、最大の福祉を得ることができる。こうした事業の一つに自分の人生を集中させるのではなく、農場・工場・書斎・スタジオで複数の事業に自分の様々な能力を適用することができる方が、人は自分のベストを示すのである。』[Fields, Factories and Workshops Tomorrow, pp. 17-8]
 労働分業を手分けで置き換えることで、生産活動を愉快な作業(もしくは一連の作業)に変換できる。労働を統合することで、生産者が持つあらゆる能力を表明できるようになり、社会における疎外と不幸の主要源泉を減じることができるのである。
 労働廃絶論について最後に一つだけ挙げよう。五月一日−−国際労働者デー−−は、セクションA.5.2で論じているように、シカゴのアナキスト犠牲者たちを追悼するために創設された。従って、アナキストは、当時も今も、この日はストライキと大衆デモで祝うべきだと考えている。つまり、アナキストにとって、国際労働者デーは働かない日なのだ!これこそ、労働に対するアナキストの立場を上手く要約している−−労働の拒否を基盤にして、労働者の日は祝わねばならないのである。

I.4.3 アナキストはどのようにして労働を廃絶しようとしているのか?

 基本的に、生産の労働者自主管理と生産手段の地域社会管理によってである。悪しき労働条件・退屈な反復労働といったことが、現実に「仕事」をしている人々の利益になりはしない。従って、労働からの解放に関して大切なことは、自主管理型社会を創造することである。それは『成長するための手段を万人が平等に持ち、誰もが知的労働者にも肉体労働者になり得、人々の唯一の差異は才能の自然な多様性から派生するものだけとなり、いかなる仕事に就こうともいかなる職務を遂行しようとも、様々な社会的可能性を享受する平等な権利が与えられる社会』である [Errico Malatesta, Anarchy, p. 40]。
 これを達成するためには、分権化と適正テクノロジーの使用が必要不可欠である。分権化が大切なのは、労働を解放する方法を労働者が確実に決定できるように保証するためである。分権型システムは、一般人がどの領域で技術革新すべきかを確実に同定できるようにし、その結果、いかなる種類の労働を取り除く必要があるのかを理解できるようにしてくれる。一般の人々がテクノロジーの導入を理解し管理しなければ、人々はテクノロジーの利点に十全に気付くことができず、導入した方が得策だと思われる技術革新に抵抗するかもしれない。適正テクノロジーの十全な意味はここにある。最も影響を受ける人々が一定情況でベストだと感じるテクノロジーを使用するのである。こうしたテクノロジーは、技術的に「進歩した」ものかも知れないし、そうではないかも知れない。だが、一般人が理解でき、そして最も重要なことだが、一般人が管理できるようなものとなるであろう。
 テクノロジーを理性的に使用する潜在的可能性は、資本主義からも見ることができる。だが、資本主義下では、テクノロジーは利益を増大させ、経済を拡張するために使われる。無駄な労苦からあらゆる個人を解放するためにではない(もちろん、少数者はそうした「活動」から確かに解放されている)。テッド=トレイナーは次のように論じている。

 二つの数字が充分納得させてくれる。長期的に見て、生産性(つまり、一時間の仕事あたりの生産量)は一年間で約2パーセント増加している。つまり、最初と同じぐらいの量を生産しながら、三五年毎に、週間労働時間を半分にカットすることができるはずなのだ。OECD諸国の数値によれば、過去二五年間で、生産量を同じレベルに維持しつつ、週五日間労働から約一日の労働日を実際に削減していなければならない。つまり、この経済において、失業率が上がらないようにし、投下資本を吸収するために利用できる販路の減少を防ぐためには、三五年ごとに一人当たりの年次消費量を二倍にしなければならないのである。
 第二に、米国鉱山局によれば、合州国国民一人当たりの投資に利用できる資本量は、一年で3.6パーセント増加するという(二十年間では二倍になる)。つまり、消費する商品とサービスの量を二十年毎に二倍にしない限り、米国経済は重大な困難に陥る、ということになる。
 その結果、さらに多くのビジネスチャンスを見出さねばならないというプレッシャーが絶え間なく増大していくのである。["What is Development", p 57-90, Society and Nature, Issue No. 7, p. 49]

 そして、思い出していただきたい。こうした数字には、自由社会には存在しない多くの経済領域−−国家と資本主義のお役所仕事・兵器製造など−−における生産も含まれている。さらに、この数字は現実に有用なものを生産していない人々の労働は考慮していない。従って、自由社会における有用商品の生産レベルはトレイナーが示しているよりも高いと思われる。また、自由社会では、商品は長持ちするように作られ、生産のほとんどが思慮分別を持つようになり、他の全てを犠牲にしてでも利益を最大にするという狂気じみた欲望に支配されることはないであろう。
 権力集中の排除によって、自主管理は確実に普遍的なものになる。精神労働と肉体労働が一体化し、仕事をする人々が自分の仕事を管理するようになる。このことで労働分業の終焉を目にすることになるだろう。「仕事」の内と外双方で『人間の能力全ての自由な行使』が可能になるであろう [Peter Kropotkin, The Conquest of Bread, p. 148]。こうした発展が目差しているのは、生産活動を楽しめる経験へと可能な限り転化することである。マレイ=ブクチンの言葉を使えば、問題となるのは労働プロセスの種類なのだ。

 労働を楽しめる活動へと、自由時間を素晴らしい経験へと、仕事場をコミュニティへと変換しなければ、労働者評議会と生産の労働者管理など、依然として単なる形式的体制であるに過ぎない。実際、階級構造のままなのである。ブルジョア社会諸条件の産物としてのプロレタリア階級が持つ限界を保持し続けているのである。実際、労働者評議会を求めた要求を掲げるいかなる運動も、仕事場環境の全面的変革を促そうとしない限り、革命的だと見なすことなどできないのである。 [Post-Scarcity Anarchism, p. 146]

 仕事は、主として、自分が行っていることに対する喜びの表現となり、芸術のように−−創造性と個性の表現に−−なるだろう。芸術としての仕事は、仕事場で表現されるだけでなく、仕事のプロセスにおいても表現され、仕事場は変化し、地元地域・地元環境に統合されるであろう(セクションI.4.15 「未来の仕事場はどのようなものになるのか?」を参照)。これは、明らかに、家庭で行う仕事についても同様である。さもなくば『革命は、それが自由・平等・連帯という美しい言葉に酔いしれていようとも、家庭に奴隷を置き続ける限り、革命などではない。家庭の奴隷にさせられている人間が半分いるのなら、なおも、もう半分の人々に対して叛逆しなければならない。』[Peter Kropotkin, The Conquest of Bread, p. 128]
 つまり、アナキストは『仕事の最良の部分(実際、唯一の良い部分なのだが)−−使用価値の生産−−を遊びの最良の部分−−自由と楽しみ、自発性と本源的満足感−−と組み合わせること』を望んでいる−−経済学者が生産と呼んでいるものを生産遊びに変換するのである。[Bob Black, Smokestack Lightning]
 さらに、分権型システムは、コミュニティ感覚と個々人間の信頼感を増進することになろう。そして、市場力の流れに捕らえられた商品の関係ではなく、個々人の相互関係に基づく経済、倫理的経済の創造を保証するであろう。この道徳的経済という理念は、市場システムの終焉を望む社会的アナキストにも、「経費を価格の上限にすべきである」と主張する個人主義者にも見ることができる。アナキストは次のように認識する。『伝統的な地場市場は、近代資本主義で発展した市場とは根本的に違う。地場市場での物々交換は、商品を交換するという目的を達成する機会を提供していた。生産者と客は顔見知りになった。彼等は比較的小さい集団だった。近代市場は、もはや会合場所ではなく、抽象的で非人格的な需要に特徴付けられるメカニズムである。人が生産するのはこの市場に対してであって、既知の顧客たちに対してではない。その裁定は、需要と供給の法則に基づいているのである。』 [Man for Himself, pp. 67-68]
 経済活動はその究極目的として利益の最大化に基づかねばならない、という資本主義の概念(「非人格的市場」における売買)をアナキストは拒絶する。市場が機能するのは、売買をする人々、個々人を通じてのみである(結局のところ、売買を管理する人々を通じてのみである−−「自由市場」においては市場だけが自由なのだ)。そうである以上、資本主義においてそうであるように、市場が「非人格的」なものになるためには、参加している人々が、自分自身をも含め、人格について無関心でなければならない。倫理ではなく、利益を重視しなければならない。「非人格的」市場は、非人格的な、従って非倫理的なやり方で行動する人々を意味する。利益を生む以上、自分が何を生産するのか、何故それを生産するのか、どのように生産するのかに関する道徳性など関係ない。
 逆に、アナキストは、経済活動を人間精神の表現、自分自身を表現し創造するという生得的な人間欲求の表現だと見なす。資本主義はこうした欲求を歪め、経済活動を労働分業とヒエラルキーによる死の経験にしている。アナキストは次のように考える。『産業は目的それ自体ではない。人が最低限の必要物資を確保し、より高い知的文化の恩恵に接することができるようにする手段であるはずだ。このことを人々は忘れている。産業が全てであり人間は無価値だという場所で、無情な経済的独裁制の領域が始まる。労働者は政治的独裁制と同じぐらい悲惨になる。経済的独裁制と政治的独裁制は、相互に増強し合うのであり、同じ源泉によって育まれているのである。』[Rudolph Rocker, Anarcho-Syndicalism, p. 11]
 アナキストの考えでは、分権型社会システムによって「仕事」が廃絶され、経済活動が人間化され、経済活動は目的(つまり、有用物を生産し、個々人を解放すること)達成の手段となる。ルドルフ=ロッカーが述べていたように、『協力して労働し、地域社会のために計画的に物事を運営することに基づいた人々の自由集団の同盟』がこれを達成するあろう [前掲書, p. 62] 。
 だが、人間が物を生産する以上、「計画的に物事を運営すること」とは「計画的に民衆を管理すること」を意味することになりうるのではないか(この危険性を述べている人々の中で、ミニ中央計画国家である資本主義企業にこのことを当てはめようとする人はほとんどいない)。この異議は誤っている。アナキズムの目的は、『民衆の経済生活を根本から再構築し、社会主義の精神でそれを新たに築き上げること』だからである。それ以上に『この仕事をやり遂げるのは生産者自身だけである。なぜなら、生産者は社会の中で唯一の価値創造要素であり、新たな未来はそこから生まれるからである。』このようにして再構築された生活は、アナキズム原理に基づくことになろう。つまり『成員個々人の自己決定権を他の何よりも優先し、同様の関心事と共通の信念を基盤にした万人の有機的合意だけを承認しながら、連合主義、つまり下から上への自由結合に基づくのである。』[前掲書, p. 61 and p. 53]
 言い換えれば、生産をする者が運営も行い、自由協同組織の中で自治するのである(指摘しておかねばならないが、協同組織にいる個々人が関わるあらゆるグループが「様々な企画」を立て、「計画する」のである(will make plans and plan)。重要な問題は、誰が計画立案をし、誰が実行するのかである。アナーキーにおいてのみ、計画と実行の機能双方を同じ人々が行うのである。)。ロッカーはこの点について次のように強調していた。

 アナルコサンジカリストは確信している。政府の布告や法律では社会主義経済秩序は創造できない。個々の専門生産部門において肉体労働者と頭脳労働者が連帯的に協力し合うことによって初めて創造できる。つまり、別々なグループ・工場・産業部門が全体的経済有機体の独立メンバーであり、自由な相互合意に基づいて地域社会のために産物の生産と分配を体系的に実行するといった形態の下で、生産者自身が全工場の経営を乗っ取ることを通じてである。[前掲書, p. 55]

 「計画的に物事を運営すること」は、様々な独立集団の中で生産者自身が行うことになる。これは、内部で情報交換を行い、協同組合型の(つまり「計画型」の)やり方で必要な生産手段を増加させたり減少させたりすることで、産物の生産と分配におけるシンジケートの諸連邦という形態(セクションI.3で示しているように)を取ることになるだろう。いかなる「中央計画」も「中央の計画者」も経済を支配しない。平等者として共に協力する労働者がいるだけである(クロポトキンが主張しているように、自由社会主義は『同じ目的に向けて行われる何千という別個の地域的活動の結果でなければならない。中央の団体が命令することなどできはしない。無数の地元の必要と要求の結果でなければならないのだ。』[Act for Yourselves, p. 54])
 アナキズム社会は、実際に仕事を行う人々が仕事を確実に管理できるようにすることで労働を廃絶する。労働者は自主管理型協同組織ネットワークの中でこのことを行う。この社会は『共通の活動に必要なあらゆることを行うべく結束した数多くの結社、様々な生産に関する生産者連合・消費者協会連合などで成り立つ。こうしたグループ全ては、相互合意によって自分達の活動を団結させるであろう。個人の発意が奨励され、統一と中央集権化に向かうあらゆる傾向が抵抗されることになろう。』[Peter Kropotkin, quoted by Buber in Paths in Utopia, p. 42]
 消費パターンに応じて、シンジケートは生産の拡張や減少をしなければならず、必要な仕事を行うボランティアを集めねばならなくなる。自由提携の正にその基盤は、労働の廃絶を保証することである。個々人は自分が楽しんで行う「仕事」に申し込むことになり、従って、自分が行いたくない「仕事」を最小限まで減じることに関心を持つようになる。こうした権力の分散化は、多様な技術革新を解放し、そのことで不愉快な労働を最小限にし、公平に分担するように保証するだろう(セクションI.4.13を参照)。
 さて、いかなる協同組織の形態であっても合意を必要とする。無政府共産主義の格言「各人からは能力に応じて、各人へは必要に応じて」に基づいた社会であっても、協同組合型の冒険的事業を確実に成功させるためには合意が必要となる。言い換えれば、協同組合型の団体はその内部で合意を形成し、合意に従わねばならないのである。つまり、あるシンジケートのメンバーは、そのシンジケート内やシンジケート間において、仕事の開始・終了時間について合意し、自分が「仕事」を変更したい場合には事前に通知しなければならないわけである。いかなる共同活動であっても、ある程度の協力と合意が必要である。それ以上に、シンジケート間では、社会の全成員が労働可能となるために必要な最低労働時間を決める合意に(九分九厘)到達することになるだろう。この最低労働時間がどのようにして実際にまとまるのかは、個々のシンジケートが決定する労働時間・フレックスタイム制・仕事のローテーションなどに応じて、仕事場とコミューンによって様々なものとなろう(例えば、あるシンジケートは労働日二日で一日八時間労働、別なシンジケートでは労働日四日で一日四時間労働、フレックスタイム制を使うところもあれば、厳密な仕事開始時間と終了時間があるといった具合である)。
 クロポトキンが論じていたように、無政府共産主義社会はメンバー間での以下のような「契約」に基づくことになる。

 君が、家・店・街路・輸送手段・学校・博物館などを使用する前提は、あってしかるべきだと認められた労働に、二十歳から四十五歳や五十歳まで一日四時間から五時間を捧げることを前提とする。自分が参加したいと思う生産集団を自分で選んだり、必要物資の生産を請け負うという条件で、新しいグループを組織したりする。そして、残りの時間については、自分の好きな人と共に、自分の好みに応じて、レクリエーション・芸術・科学などのために当てればよい。年間百二十から百五十時間の労働が、君に求める全てである。この労働量で、こうしたグループが生産している物や今後生産する物全てを君が自由に使用することが保証されるのである。[The Conquest of Bread, pp. 153-4]

 こうした「あってしかるべき」仕事は、個々人が承認し、生産シンジケートからの労働力の需要に示される。もちろん、様々な既存協同組織からの求人の中で、どの仕事を自分が行いたいのかは個々人に委ねられる。労働時間を記録し、社会の共有財産に接することを保証するために、組合員証を利用することになるだろう。そしてもちろん、個々人と様々なグループは、独立して仕事をし、望むならば自分の労働の産物を他者(連邦シンジケートも含む)と交換することも自由にできる。アナキズム社会はで可能な限り柔軟なものになるだろう。
 このように、社会的アナキズムの社会は、二つの時間配分に基づいたものになると想像することができる−−一つ目は自分が選んだシンジケートにおいて同意した最低労働時間(例えば二〇時間)、そして、自分が行いたいと感じている「仕事」−−例えば、芸術・実験・DIY・演奏・作曲・ガーデニングなど−−に費やす時間である。必要な「仕事」と自由時間の楽しみという正にその概念が消滅するまで、基本的労働時間をますます減少させること、これがテクノロジー発展の目的となろう。さらに、危険だったり誰もやりたがらないと思われる仕事に関しては、この仕事を行う有志は、こうした仕事に費やす数時間を、もっと多くの自由時間と交換することになるだろう(このことに関してはセクションI.4.13を参照)。
 この種の合意は「人為的な」(「需要と供給」に関わる「自然法」に反対している)のだから、自由の制限である、と述べることもできよう。例えば、これは個人主義アナキストが無政府共産主義に対して自由市場を擁護するときによく見られる。理論上、個人主義アナキストは、その社会ヴィジョンの中で、ある人がいつ・何処で・どのようにして生計を立てるかなど、それが迷惑なものでない限り、気にかけないと主張できる。だが、事実はといえば、いかなる経済も個々人間のやり取りに基づいているのである。「需要と供給」の法則は、個々人が自分の好きなだけ働くことができるという考えの茶番になりやすいし、多くの場合そのようになっている。結局のところ、市場動向に要求されるだけ長く働くことになってしまうのだ(他者の様々な行為が、当事者にも制御できない一つの力になってしまうのである。セクションI.1.3を参照)。個々人は自分が好きなだけ働くのではなく、生き延びるために必要なだけ長く労働する。「市場動向」が長時間労働の原因であるということを知ったからといって、長時間労働が素晴らしいものになりはしないのだ。
 さらに、平等者の間でなされた自由合意の中には、権威主義的だと見なされるものもあれば、そうでないものもあるなど、無政府共産主義者にとっては奇妙に思える。個人主義アナキストの主張では、労働を減じるための社会的協力は「権威主義的」だが、市場における個々人間の合意はそうではない。社会的アナキストにとって、これは不合理である。自分達の事柄を管理して自分達の自由時間を最大にすべく他者と調整するようになるよりも、人が望むよりも長い時間にわたり労働するように「目に見えざる手」を使って圧力をかける方が個々人にとって良いのかどうかなど、彼等には分からないのだ。
 以上より、自由で平等な個々人間の自由合意こそが、権力の分散化と適正テクノロジーの使用に基づいて労働を廃絶するための鍵だと考えることができるのである。

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