アナキズムFAQ


I.1 リバータリアン社会主義という言葉は矛盾ではないのか?

一言で言えば、ノーだ。この質問は、いわゆる「リバータリアン」右翼からやってきた人々が尋ねるものだ。セクションA.1.3で論じたように、「リバータリアン」という言葉は、自由市場賛同型右翼よりも遙か昔からアナキストが使ってきた。実際、北米以外では、「リバータリアン」は、今でも本質的に「アナキスト」の同義語として、そして、「リバータリアン社会主義者」を短縮した言い方として使われているのである。

もちろん、このことだけでは、「リバータリアン社会主義者」という言葉が矛盾していないということを証明したことにはならない。だが、以下で見るように、この言葉が自己矛盾であるという主張は、社会主義が存在するためには国家が必要であり、社会主義は自由と両立しないという前提に依拠している(資本主義はリバータリアンであり、国家を必要としないという主張も、同様に誤っている)。社会主義に対する多くの反対論についても当てはまるものだが、この前提は誤解である。多くの権威主義的社会主義者とソヴィエト=ロシアの国家資本主義が、この誤解を促す手助けをしてきた。現実には、国家社会主義という言葉こそが真の矛盾語法なのである。

残念なことに、多くの人々が、社会主義はレーニン主義やマルクス主義だという多くの右翼・左翼の主張を認めており、社会主義思想の持つ豊潤で多様な歴史を無視している。社会主義思想は、共産主義・個人主義アナキズムからレーニン主義までの広がりを持っている。ベンジャミン=タッカーが述べていたように、『国家社会主義(中略)が、多種の社会主義を覆い隠してきたという事実があるからといって、(中略)国家社会主義に社会主義思想の独占権が与えられたわけではない。』(本の代わりに、363ページ〜364ページ)不幸にして、左翼の多くは、右翼と一緒になって、正にこのようにしてきたのだ。事実、右翼(そしてもちろん左翼の多くも)は、明らかに、「社会主義」を、国家所有と国家による生産手段の管理であると考え、同時に、中央集権的に計画された国有経済(従って社会生活も)の決定であると見なしている。この定義は頻繁に見られるものとなっている。なぜならば、社会民主主義者・レーニン主義者などの国権主義者たちが自分自身のことを社会主義者だと呼んでいるからだ。だが、ある種の人々が、自分自身を社会主義者だと呼んでいるからといって、その人が擁護しているシステムが実際に社会主義だというわけではない(例えば、ヒットラーは、自分自身を「国家社会主義者」だと呼んでいたが、実際には、資本主義者の権力と利益を確保し、助長していたのだった)。我々は、批判的・科学的思考を適用することで、社会主義者であるというその主張が正当なものかどうかを明らかにするために、問題となっているシステムを分析し、理解しなければならない。以下で見るように、上記の定義を受け入れるためには、社会主義運動の全歴史を無視しなければならず、全体としての運動を代表するものとして社会主義運動内部の特定傾向のみを考慮しなければならないのである。

社会主義運動史を一瞥しただけで、国有化と国家統制を社会主義と同一視することは一般的ではない、ということが分かる。例えば、アナキスト・多くのギルド社会主義者・評議会共産主義者(その他のリバータリアン=マルクス主義者)は、ロバート=オーエンの弟子たちと同様、皆、国家所有を拒絶していた。実際、アナキストは、生産手段は、国家が所有したところで資本としてのその形式を変えることはないし、国家が労働者を雇用したからといって賃金労働がその性質を変えることはない、と認識していたのだった(例えば、プルードンは、『国家が鉱山・運河・鉄道を没収』したところで、『君主政治に付け足しをし、さらに多くの賃金労働を(生み出す)』にすぎない(神もなく、主人もなく、第1巻、62ページ)と述べていたのだった)。アナキストにとって、資本の国家所有は、全く社会主義的ではない。それは、資本主義に反対する傾向ではなく、資本主義内部の傾向なのである。丁度、企業成長が次第に大規模になっていくからといって、それが社会主義に向かう傾向を全く示していないのと同じである(レーニンやマルクスがどのように主張していたとしても−−このことについてはセクションH.3.3を参照)。実際、タッカーが充分意識していたように、国有化は全ての人をプロレタリアにしてしまったのだ(国家官僚を除いて)−−賃金奴隷の終焉を目的とする政治理論にとって望ましいものなどではないのだ!

ならば社会主義は本当は何を意味しているのだろうか?そして、それは、リバータリアンの理想と両立するのだろうか?「リバータリアン」だとか「社会主義」という言葉は、実際には何を意味しているのだろうか?出発点として辞書的な定義を使いたいと思うものだ。だが、異なる辞書は異なる定義をもっているといったように、そうした方法には問題があることを強調しておかねばなるまい。また、辞書が政治的に洗練されていることなどほとんどない、というのが事実なのである。一つの定義を使えば、他の人は、自分の好みにあったもう一つの定義で対抗するだろう。例えば、「社会主義」は、「富の国有化」であり、「アナーキー」は「無秩序」だというわけである。政治思想を論じるときに、こうした定義の中でどれ一つとして有用なものはないのだ。従って、辞書の使用は議論の終わりではない。政治に適用された場合、それは、誤解を招くものなのである。

このことに注意しながら、辞書を見てみよう。

ウェブスター「New International Dictionary」は、リバータリアンを次のように定義している。『自由意志の原則を固守している人;同時に、自由の原理、特に、思想と行動に関わる個人の自由を支持している人。』前に論じた(例えば、セクションB.1を参照)ように、資本主義は、仕事場での思想と行動の自由を否定している(もちろん、ボスのものは例外だが)。従って、真のリバータリアン思想は、労働者自主管理を基盤にしたものでなければならない。つまり、労働者が仕事をどのように行うのか・どこでどのように仕事を行うのかの決定・労働の果実をどのようにするのか、を管理しなければならないのだ。このことが、賃労働の削減を意味するのである。賃労働の削減は、社会主義(少なくとも理論的に、アナキストは国家社会主義は賃労働を削減せず、むしろ、賃労働を普遍化する、と主張する)によく見られるテーマである。プルードンは、これを『プロレタリア階級の廃絶』と呼んでいた(ピエール−ヨセフ=プルードン選集、179ページ)。これは、階級なき反権威(リバータリアン)社会を意味している。そこでは、民衆が個々人として、もしくは集団の一部として(情況に応じて)、自分自身の事柄を管理するのである。つまり、生の全面における自主管理を意味しているのだ−−そこには仕事も含まれるのである。「自然の」自由システム(アダム=スミスの言葉だが、資本主義支持者に乱用されている)の中で、大多数は、生存のために自分の自由を売り渡さねばならない、などと言われるが、これは幾分奇妙で矛盾している(控えめに言っても)とアナキストはいつも見なすのである。

American Heritage Dictionaryによれば、『社会主義』とは『生産者が、政治権力だけでなく、製品の生産手段と分配手段をも保有する社会システム』だという。この定義は、上記した『リバータリアン』という言葉の意味とほぼ一致している。実際、このことは、社会主義は必然的にリバータリアンなのであって、国家主義ではない、ということを示している。なぜなら、国家が仕事場を所有すれば、生産者は仕事場を所有しないことになり、その結果、自分の仕事を自由に管理するのではなく、逆に、ボスとして存在する国家の支配下にあることになるからである。それ以上に、資本主義所有階級を国家の役人で置き換えたところで、賃労働を削減することにはなりはしないのだ。実際は、多くの実例で賃労働を悪化させているのである。従って、生産手段の国有化を是としている「社会主義者」など、社会主義者ではないのだ(つまり、ソヴィエト連邦などの「社会主義」諸国は社会主義ではないし、国有化を擁護している政党も社会主義ではないのである)。

確かに、社会主義を国家に関連づけようとする試みは、社会主義の本質を誤解している。万人の自由を確たるものにするためには、個々人間の(社会的)不平等を廃絶しなければならない(自然な不平等は廃絶できはしないし、アナキストは廃絶したいと思ってもいない)。これが社会主義の本質的原理である。プルードンは次のように述べていた。、社会主義は、『何にもまして平等主義なのだ。』(神もなく、主人もなく、第1巻、57ページ)このことは、権力の不平等にも、特に政治権力にも、同じように当てはまる。ヒエラルキーシステム(特に国家)の特徴は、権力の不平等である−−トップにいる人々(選挙で選ばれようと、そうでなかろうと)は、底辺にいる人々よりも多くの権力を持っている。だからこそ、社会民主主義の第二インターナショナルからアナキストを除名することについて、以下のコメントが出されたのだ。

我々(アナキスト)は最も論理的で最も完全な社会主義者だ(中略)と主張できるだろう。なぜなら、我々は、万人が、自身に十全な程度の社会的富だけでなく、社会的権力の一端をも持つべきだ、と要求しているからだ。つまり、公的事柄の運営において、自分自身の影響力を感じさせる真の能力を、他者と同様に持つべきだ、と主張しているのである。(神もなく、主人もなく、第2巻、20ページ)

公的事柄を運営するために自分のために他人を選ぶことは、社会的権力の一部を担うことではない。これは、エミール=プーゲ(フランスの主要なアナルコサンジカリスト)の言葉を使えば、『放棄の行為』、少数の手に権力を任せることなのだ(前掲書、67ページ)。つまり、『それを行使するものに対して、あらゆる政治権力は、特権的情況を必ず創り出す。つまり、はじめから、平等主義原則を破っているのだ。』(ヴォーリン著、知られざる革命、249ページ)

この短い議論から、リバータリアンと社会主義との関連が分かる。真のリバータリアンになるためには、労働者管理を支援しなければならず、さもなくば、権威主義的社会諸関係を支援することになる。労働者管理を支援することは、当然、生産者が生産手段と自分たちが創り出した製品の分配手段を確実に所有(そして管理)するようにしなければならない(つまり、生産者は、自分が製品を生産するために何を使うのかを所有・管理しなければならないのである)。所有なくしては、生産者は、自分の活動や自分の労働の産物を真に管理できはしない。労働者が生産手段と製品分配手段を所有している情況が社会主義なのだ。従って、真のリバータリアンであるためには、社会主義者でなければならないのである。

同様に、真の社会主義者は、個人の思想・行動の自由を支持しなければならない。さもなくば、生産者による生産手段・分配手段の「所有」は有名無実のものにしかならない。国家が生活手段を所有してしまえば、生産者が所有することにはならず、従って、生産者自身の活動を管理する立場にはいないことになる。レーニン政権下のロシアが示しているように、国有化はすぐさま国家統制と官僚階級の創造とを生み出す。官僚階級は、旧体制のボスども以上に労働者を搾取し、抑圧する。自由を確保するためには民衆間の不平等を廃絶しなければならない。これが社会主義の根本原理である以上、権力の不平等に基づいた機関を本物の社会主義者が支持するなど、ナンセンスなのだ。セクションB.2で論じたように、国家こそ、そうした機関なのだ。不平等に反対しておきながら、権力の不平等、特に政治権力の不平等に対する反対を拡大しないなど、明晰な思考力を欠いている証拠である。つまり、真の社会主義者は、リバータリアンでなければならないのだ。個人の自由に賛同するならば、その自由を制限する権力の不平等に反対しなければならないのだ。

従って、「リバータリアン社会主義」は、矛盾語法などではない。真の社会主義はリバータリアンでなければならず、社会主義者でないリバータリアンはイカサマだということを示しているのである。真の社会主義者は、賃労働に反対しているならば、同じ理由で国家にも反対するはずである。同様に、リバータリアンは、国家に反対するのと同じ理由で、賃労働に反対しなければならないのである。

リバータリアン社会主義は、国家それ自体と共に、経済の国有化・国家管理という考えを拒絶する。労働者自主管理を通じて、生産における権威・搾取・ヒエラルキーを終焉させようとする。このことそれ自体が自由を増大させるのであって、自由を減少させはしない。これとは逆に論じている人々も、政治的民主主義では政治的独裁よりも自由が少なくなる、と主張することなど滅多にないのである。

最後にもう一点。生活手段をコミューン所有にすることで、多くの社会的アナキストは国家を復権させてしまう、と論じられることもあろう。だが、このことは真ではない。このような主張は、社会と国家を混同しているのである。集産主義アナキストや共産主義アナキストが擁護しているコミューン所有は、国有化とは異なっているのだ。なぜなら、国有化における縦関係(国家官僚とその「市民」との間の関係)ではなく、現実の労働者と社会資本の「所有者」(つまり、全体としての諸地域連合、そこには労働者が含まれていることを強調せねばなるまい)との間にある水平的関係に基づいているからだ。同時に、こうしたコミューン所有は、労働者が自分の仕事と仕事場を管理することを基盤としている。つまり、コミューン所有は、労働者自主管理に基づいているのであって、労働者自主管理に置き換わるものではないのである。さらに、参加型アナキスト地域社会のメンバーは皆、以下の三つのカテゴリーの一つに該当する:

    (1)生産者(コレクティブのメンバーや自営職人)
    (2)働くことができない者(老人・病人など、以前は生産者だった人々)
    (3)若者(生産者に将来なる人々)

従って、コミューン所有の枠組みにおける労働者自主管理は、生産者自身による生産手段と分配手段の所有に関して、リバータリアン思想・社会主義思想と全く矛盾しないのである。

以上より、リバータリアニズムと社会主義との矛盾など全くなく、リバータリアンの理想は社会主義の理想であり、社会主義の理想はリバータリアンの理想だということが示される。バクーニンは、1867年に次のように論じていた。

我々は、社会主義のない自由は特権と不公正であり、自由のない社会主義は奴隷と野蛮だ、と確信している。(バクーニンのアナキズム、127ページ)

歴史はバクーニンが正しかったことを証明してきたのだ。

I.1.1 ルードヴィッヒ=フォン=ミーゼスの「経済計算論」は、社会主義が機能し得ないことを証明したのではないか?

1920年、右翼経済学者ルードヴィッヒ=フォン=ミーゼスは、社会主義は不可能である、と宣言した。「オーストリア」学派経済学の主導メンバーとして、彼がこのように論じた基盤は、生産手段の私有なしに生産財の競争市場などありえず、生産財の市場なくして財の価値を決めることはできない、ということであった。財の価値を知らなければ、経済の合理性は不可能であり、従って、社会主義経済は単に混乱状態−−『愚かな機構のバカげた生産活動』(F=A=フォン=ハイエク編、集産主義経済計画収録の「社会主義国における経済計算」、104ページ)−−になるだけだろうというのであった。彼の主張は、その「経済計算論」をマルクス主義思想の社会主義未来社会に当てはめていたが、現在では、リバータリアン社会主義を含めたあらゆる社会主義思想に適用できる、と主張されている。多くの右翼は彼の論を基にして、リバータリアン社会主義は(別種の社会主義も)原理的に不可能だ、と主張しているのである。

デヴィッド=シュワイカートは次のように述べている。『フォン=ミーゼスの主張が論理的に破綻していることは昔から認識されていた。生産財の市場が存在しなくとも、財の金銭的価値は決定できる。』(反資本主義、88ページ)つまり、値段に基づいた経済計算は、リバータリアン社会主義システムでも完全に可能なのである。どのみち、仕事場を作り出すためには、何トンものスチール・多くのレンガ・何時間にも及ぶ労働を必要とする。相互主義的(つまり、市場社会主義的・協同組合的)リバータリアン社会主義社会を想定してみれば、当該協同組合がそのサービスを売り出すのだから、その製品の価格を明らかにするのは容易い。こうした商品は生産財の製造に投入され、その結果、生産財の金銭的価値を明らかにできる(だからといって、金銭的価値が実際のコストを正確に反映しているのかどうかは扱われていない。この問題については次のセクションで論じる)。

充分皮肉なことだが、フォン=ミーゼスは、初期のエッセイでこの相互主義システムの考えを確かに述べていた。彼は『「炭坑(労働者)シンジケート」が、「鉄鋼(労働者)シンジケート」に』財を『提供する』システムについて書き、次のように論じていた。『双方のシンジケートが仕事で使用している生産手段を所有していない限り、いかなる値段も設定されない。』(これは、多国籍企業にとっては驚きかもしれない。異なる職場間で互いに製品を売り合っているのだから!)そうしたシステムは却下されてしまう。『このことは、社会主義化ではなく、労働者の資本主義とサンジカリズムとなるであろう。』(前掲書、112ページ)

だが、彼の論理には欠点がある。まず第一に、既に記したように、近代資本主義では、同じ団体(この場合は、大企業)が所有している様々な職場が、価格という形を取って製品を交換できる。フォン=ミーゼスがこうした主張をしているということは、彼の主張が現実に確固たる基盤を持っていることを充分に示している。第二に、そうしたシステムは、フォン=ミーゼスが述べているように、『サンジカリズム』だと考えることもできよう(少なくともサンジカリズムの一形態だと考えられよう。ただし、大部分のサンジカリストは昔も現在もリバータリアン共産主義を好ましく思っている。これはフォン=ミーゼスがどう見ても知らなかった純然たる事実である。)。だが、生産手段の労働者所有と労働者管理だというだけでなく、賃労働ではないという点からも、これは資本主義ではない。実際、サンジカリスト思想に関するフォン=ミーゼスの無知には驚かされる。ヒューマン=アクションという著書の中で、彼は次のように主張している。『市場は消費者民主主義である。サンジカリストはこれを生産者民主主義に変換したいと思っている。』(809ページ)だが、大部分のサンジカリストは市場を廃絶しようとしているのであり、全てのサンジカリストは、消費者の選択を補う(置き換わるのではない)ために生産の労働者管理を目指しているのである。サンジカリストは、他のアナキスト同様に、フォン=ミーゼスが主張しているような消費の労働者管理など目指してはいないのだ。フォン=ミーゼスが、市場(そこでは、一人の人間が千の投票権とその他の物事を持つことができる)を『民主主義』だと主張していることを考えれば、サンジカリズム思想に関する彼の無知は、現実全般に関する無知の一側面でしかないのだろう。

事実、そうした経済は、社会主義は『不可能』であるというフォン=ミーゼスの主張の核心を突いてもいる。フォン=ミーゼスが、社会主義経済には消費財に関する市場が存在するかもしれず、従って市場価格が存在するかもしれないとしている以上、社会主義の不可能性という彼の主張は、何の根拠もないことになる。フォン=ミーゼスにとって、社会主義に対する問題は以下のようになる。『いかなる生産財も交換の対象にならないのだから、その金銭的価値を決定することなどできなくなるだろう。』(前掲書、92ページ)彼の主張の誤りは明らかである。石炭を例に考えてみれば、石炭は生産手段でも消費手段でもあることが分かる。社会主義システムで消費財市場が可能だとすれば、生産財を創り出しているシンジケートが労働の産物を他のシンジケートやコミューンに売ることになるのだから、生産財に対する競争価格も可能になる。従って、当該デザイナーは、確かに、競争価格を利用して、新しい仕事場(例えば、鉄道や家)を決定できるのである。彼が反対しているのは、コミューンがシンジケートから製品を買うといったシステムでのコミューン所有なのだが、その論もうまくいってはいない。これは、資本主義の下で多国籍企業の一部が自社の他支部から製品を買うことができるのと同じことである。フォン=ミーゼスの主張とは逆に、自主管理シンジケートが生産した製品に値段が付くからといって、これは資本主義ではないのだ。

つまり、競争市場価格に基づいた経済計算は社会主義システム下でも可能なのだ。事実、このことは資本主義下であっても幾つかの実例を見ることができる。例えば、バスク国家にあるモンドラゴン複合協同組合は、リバータリアン社会主義経済は存在可能であり、繁栄可能だということを示している。相互銀行と協同組合ネットワークに基づいたシステムでは資本市場など必要ないのだ(実際、セクションI.4.8の終わりで論じるように、資本市場は、歪んだインセンティブを作り、情報の流れを誤った方向へ導くことで、経済的効率性を妨害する。従って、資本市場の廃絶は、生産と生産効率を実際には手助けするであろう。)。不幸にして、ミーゼスに反論した国家社会主義者たちは、そうしたリバータリアン経済など想定していなかったのだった。

フォン=ミーゼスの最初の挑戦に対する反論の中で、多くの経済学者が、パレートの弟子であるエンリコ=バローネ(Enrico Barone)が、『疑似市場型社会主義』の理論的不可能性を13年前に既に証明していた、と指摘していた。だが、フォン=ミーゼスの主張に対する主たる攻撃は、フレッド=テイラーとオスカー=ランゲ(この二人の主要論文については、ベンジャミン=リッピンコット編、社会主義の経済理論について(ミネソタ大学出版、1938年)を参照)からのものであった。彼らの著作を考察して、フリードリヒ=フォン=ハイエクは、理論的不可能性という問題から、理論的解決策に実践が近づきうるのかどうかという問題へと論点をシフトした。つまり、自由市場資本主義の主要な第一人者であるフォン=ハイエクさえもが、フォン=ミーゼスの主張を擁護することはできないと考えたのであろう。

それ以上に、双方の主張は、何らかの中央指令型経済という考えを受け入れていたことに注意しなければならない。つまり、フォン=ミーゼスとフォン=ハイエクの主張の多くは、あらゆる中央集権形態と同様に中央指令型経済を拒絶しているリバータリアン社会主義には適用されないのだ。これが重要なポイントである。大部分の右翼メンバーが、「社会主義者」は皆、お互いに、中央集権型経済システムを支援することに同意している、と仮定しているようだ。つまり、右翼の大部分は、社会民主主義とレーニン主義に集中するために、大部分の社会主義思想と歴史を無視しているのである。共通の利益を達成するために『人民銀行』と協同組合が協働で活動するネットワークという考えは、無視されている。だが、この考えは、ロバート=オーエンの時代から社会主義思想にはよく見られているのである。

テイラーとランゲの反論も、そもそも納得できるようなものではない。なぜなら、現実の認識よりも、新古典主義的資本主義経済理論に遙かに依拠しているからだ。ワルラス派の『競売人』(あらゆる市場を確実にクリアにしてくれる一般均衡理論の「機械の中の神」)の代わりに、テイラーとランゲは、計画立案権威(「中央計画委員会」)を提起した。その仕事は、価格を調整することで、市場をクリアにすることなのである。有効な資本主義経済理論だとワルラス派理論を受け入れようとしている新古典主義経済学者たちは、テイラーとランゲの『社会主義』の妥当性を受け入れざるを得まい。当時、テイラーとランゲは、経済学の専門家の大部分による『社会主義計算』で勝利者になるなどと思いもしなかっただろう(ソヴィエト連邦の崩壊と共に、この決定は幾分修正された−−だが、テイラーとランゲのモデルはソヴィエトシステムと同じではなかった、とういことは指摘しておかなければならない。この事実は解説者が都合良く無視するものだから)。

残念ながら、ワルラス派理論は、現実の基盤をほとんど持っていないということを考えると、テイラーとランゲの「解決策」も同程度の関連性しかないのである(国有化に対する基盤・中央集権・労働者自主管理の欠如など、非リバータリアン的諸側面を無視したとしても)。多くの人々は、テイラーとランゲを『市場社会主義』の先駆者だと見なしている。これは間違いである−−市場社会主義者というよりも、実際には「新古典主義的」社会主義者なのである。資本主義経済の現実ではなく理論を模倣した「社会主義」システムを構築していたのである。ワルラスの神秘的創造物である『競売人』を、計画立案委員会で置き換えたところで、本当に問題の核心を突いてはいないのだ!彼らの言う「社会主義」も充分な魅力を持ってはいない−−計画立案委員会・より平等な現金収入分配を使って、資本主義を再現しているだけのことなのである。アナキストは、そのようなものならば、こうした「社会主義」など資本主義のましなバージョンでしかない、として拒絶するのである。

ソヴィエト連邦の崩壊とともに、『フォン=ミーゼスは正しかった』そして社会主義は不可能だ、と論じることが流行になっている(もちろん、冷戦には、ソヴィエトの脅威は宣伝されねばならず、それを社会管理手段として利用し、資本主義産業に対する国家補助金を正当化するために利用しなければならなかったため、そうした主張は無視されていた)。全くのデタラメである。前セクションや他のセクションで論じたように、こうした国々は社会主義などではなく、(リバータリアン)社会主義思想(これこそが真の社会主義形態である)に近づきもしなかったのだ。明らかに、ソヴィエト連邦と東欧諸国は、中央官僚が計画立案する権威主義『指令経済』だったのである。だからこそ、その失敗を、分権型リバータリアン社会主義はうまくいかない、という証拠と見なすことなどできないのだ。テイラーとランゲに対するフォン=ミーゼスとフォン=ハイエクの主張も、リバータリアン相互主義・集産主義システムへの反論として使うことも出来はしない。そうしたシステムは(彼らが提起した「新古典主義的」社会主義モデルとは異なり)分権型でダイナミックだからである。この種のリバータリアン社会主義は、実際に、驚くべき困難に直面しながらもスペイン革命中に目覚ましいほどうまくいっていたのだった。多くの仕事場では生産力と生産高が向上し、平等と自由も増大したのだった(サム=ドルゴフ著、アナキストのコレクティブやガストン=レヴァル著、スペイン革命のコレクティブ、本FAQのセクションI.8を参照)

つまり、フォン=ミーゼスの「経済計算論」は、社会主義が不可能だということを示してはいないのだ。市場社会主義についてデヴィッド=シュワイカート(ダイナミックで分権型の市場社会主義システムに関する包括的考察については、彼の著書反資本主義を参照)などの社会主義者の理論的著作を見れば、フォン=ミーゼスによる『市場と市場価格を伴う社会主義システムは自己矛盾であり、三角の四角と言っているようなものだ』という主張は間違っていたことが分かる。実際、単純な商品生産を望ましいとする資本市場を停止することで、相互主義システムは、不平等を減じ、自由を増大させ、全般的経済動向を改善するだけでなく、長期的投資と社会責任を覆い隠す歪んだインセンティブの重要な源泉を改善する(セクションI.4.8を参照)ことになり、資本主義を改善するのである。

現在のところ、市場社会主義モデルの大部分は完全なリバータリアンではなく、資本の国有化という枠組み内での労働者管理の考えを含んでいる(エングラーはその例外であり、貪欲の使徒という著書の中で地域社会所有を支持している)。だが、セクションH.7で論じているように、リバータリアン形態の市場社会主義は確かに可能で、プルードンの相互主義に類似するものになるだろう。アナキストのロバート=グラハムは次のように指摘している。『市場社会主義は、プルードンが擁護した考えの一つにすぎないが、時宜に適っており、論議を呼んでいる。(中略)プルードンの市場社会主義は、産業民主主義と労働者自主管理という彼自身の概念と不可分に結びついている。』(「イントロダクション」、P-J=プルードン著、革命の一般理念、xxxiiページ)農工連合というプルードンのシステムは、市場要因に直面して、自主管理・自由・平等を保護する非国家主義的方法だと見なすことができる(連合の原理の中で、彼は次のように論じていた。『連合の原理が、その根本論理上どれほど完全無欠なものだったとしても、(中略)経済的諸要因が絶え間なく連合を解消させる傾向を示すのならば、連合は生き残らないだろう。つまり、政治的権利は経済的権利で支持されていなければならないのだ。』そして、『経済の文脈では、連合は商業と工業で相互保障が提供されるようにすることになるだろう。(中略)そうした特定連合処理の目的は、市民を(中略)資本家の搾取と財政的搾取から(中略)保護することなのである。それらが集合して形成するのが(中略)農工連合なのだ。』(連合の原理、67ページと70ページ)。

実際、レーニン主義マルクス主義者の中には、プルードンと市場社会主義との関連を認識しているものもいる。例えば、異端のトロツキスト、ヒレル=ティケティン(Hillel Ticketin)は次のように論じている。プルードンは『アナキストであり、カール=マルクスの仇敵者でもある。(中略)社会という概念を前面に掲げ、多分「社会主義市場」を初めて詳細に公表したのだろう。』(「問題は市場社会主義である」、バーテル=オールマン編、市場社会主義:社会主義者の議論、56ページ)さらに、反市場という著書の中で、デイヴ=マクナリーは、プルードンは現在の市場社会主義者の先駆であった、と正しく論じている。言うまでもなく、こうしたレーニン主義者は、市場社会主義という考えを矛盾しており、基本的に社会主義的ではないとして拒絶している(その一方で、充分奇妙なことだが、労働者国家におけるマルクス派共産主義への移行期には市場を使うことになると認めているのだ!)。

つまり、社会主義経済が、競争市場を使って資源の割り振りを行うことは可能なのである。だが、フォン=ミーゼスの主張は、市場を廃絶した社会主義(例えば、リバータリアン共産主義)は不可能だ、ということになるのだろうか?アナキストの大多数がリバータリアン共産主義社会を求めているということを考えれば、これは重要な疑問である。次のセクションで、このことを論じることにする。

I.1.2 ミーゼスの主張は、リバータリアン共産主義が不可能だという意味なのだろうか?

一言で言えば、違う。『経済計算論』は右翼リバータリアンが、共産主義(貨幣なき社会)は不可能だという主張の確固たる「科学的」基盤として使うものだ。だが、これは、貨幣が現在どのような役割を果たしているのか、そして、アナキスト社会が貨幣なしでどのように機能するのかに関する誤った考えに基づいている。これはさほど驚くべき事ではない。ミーゼスの理論基盤は「主観的」価値理論であり、「社会主義」経済がどのようなものになるのかに関しては、マルクス主義の(従ってレーニン主義も同様だ)社民思想をその基礎としていた。リバータリアン=マルクス主義者ポール=マティックは、正しくも次のように論じていた。

昔の(社民的)労働運動がどれほど分断されていたのかについては、様々なトピックや運動を団結させている社会主義の問題によって、意見が異なるであろう。ヒルファーディングの抽象的な「一般カルテル」、ドイツ戦争社会主義とドイツ郵便サービスに対するレーニンの賛美、カウツキーの価値−価格−貨幣経済の永久化(資本主義において盲目の市場力が行なっていることを意識的に行なうのが望ましいとした)、需要と供給の特徴を装備したトロツキーの戦争共産主義、スターリンの制度型経済。これらの概念は須く、既存生産諸条件の継続に基づいている。実際には、それらは、資本主義社会で実際に行なわれていることを単に反映しているに過ぎないのだ。事実、そうした「社会主義」については、今日、例えば、ピグウ・ハイエク・ロビンス・ケインズといった有名なブルジョア経済学者が論じ、数多くの文献を書いている。そして、現在、社会主義者はそうした人々の資料に目を向けているのだ。(反ボルシェビキ共産主義, 80ページ〜81ページ)

したがって、真の(つまり、リバータリアン)共産主義社会がどのようなものになるのか、という議論はこれまでなされてこなかったわけである。賃金システムと貨幣双方の廃絶と労働者自主管理によって、既存生産諸条件を全く転換した社会についてはなんら議論されてこなかったのだ。だが、ここで、貨幣なき(つまり、真の共産主義)「経済」が何故機能するのか、そして、『経済計算論』がそれに対する反論同様に何故欠点だらけなのかを示すことは有用であろう。

ミーゼスは、貨幣なしには社会主義経済が「合理的」生産決定を行なうことはない、と主張した。だが、フォン=ミーゼスでさえも、一定期間必要となるものの価値を、貨幣なき社会が評価できる(明確な種類の物の物理量として表現されるように)ということを否定してはいない。彼は次のように論じていた。『交換なき経済における自然状態の経済計算では、消費財のみを受け入れることができる。』(集産主義経済計画、F=A=フォン=ハイエク編、104ページ)次の段階は、どのような生産手段を用いるのかという問題を解決することだが、それは不可能であるか、少なくとも「合理的に」、つまり無駄と効率の悪さを省きながら、解決することはできなくなる、というのがミーゼスの主張である。彼は次のように論じていた。生産財の評価は『ある種の経済計算を使ってしか行なうことはできない。そうした補助なくしては、莫大な中間製品と可能性とがごちゃごちゃになっている中で、人間精神は適切に自身を方向付けることができなくなってしまう。管理と場所という問題以前に、混乱してしまうであろう。』(前掲書、103ページ)市場価格に基づいた貨幣計算というミーゼスの主張こそが、唯一の解決策だ、というわけだ。

この主張に効力がないわけではない。生産者がブリキと鉄を入手でき、自分の目的にどちらも適っているとだけ分かっている場合、ブリキのほうが鉄よりも利用価値のある資源だ、と生産者はどのようにして知ることができるのだろうか?また、A+2Bと2A+B(AとBは、どちらも、スチール・石油・電気などのような入力因子である)で作ることができる消費財を手にしている場合、どちらの方法がより効率的なのかをどのようにして言うことができるのだろうか(つまり、どちらが資源を最小限に利用し、そのことで、最大限他の使途に利用できるように残して置けるのだろうか)?ミーゼスの主張では、市場価格を使えば問題は簡単になる。もし、鉄が5ドルでブリキが4ドルだったならば、ブリキを使うべきなのである。同様に、もし、Aが10ドルでBが5ドルだった場合、最も効率の良い方法は明らかとなろう(20ドルと25ドルなのだから)。フォン=ミーゼスの主張では、市場なしにはそうした決定は不可能であり、あらゆる決定は『向こう見ず』となるのである。

だが、ミーゼスの主張は数多くの誤った前提に基づいている。

まず第一に、彼は中央集権型計画経済を念頭においている。これはマルクス主義社会民主主義(そして、そこから派生したレーニン主義)に共通した考えだが、アナキズムはこの考えを拒絶している。少人数の人々だけが社会で何が起こっているのかを知るべきだ、などと仮定することなどできないのだ(イサック=プエンテ著、リバータリアン共産主義、29ページにおける言葉を使えば、『いかなる単一の頭脳も頭脳群の事務局も、この組織を世話することなどできはしない』)。バクーニンは次のように論じていた。このことが実際に導くのは『極度に複雑な政府である。この政府は、大衆を政治的に管理し、支配するだけで満足しない。(中略)経済的に大衆を管理し、(あらゆる経済的・社会的活動を)国家の手に集中させるであろう。(中略)結局、莫大な知識と「頭脳で満ちあふれた」多くの頭が、この政府では求められるであろう。科学的知性の統治、あらゆる政治体制の中でも最も貴族的で専制的で傲慢でエリート主義の統治となるであろう。そこには新しい階級と新しいヒエラルキーが存在することになる。(中略)そうした体制は、必ずや、人民大衆の中に非常に大きな不満を喚起する。そして、人民を抑圧するために(中略)相当数の軍隊が(必要となるだろう)。』(バクーニンのアナキズム、319ページ)それ故、アナキストはミーゼスに同意できるのだ。中央による計画立案は実際には機能し得ない。だが、社会主義思想は、マルクス派社会民主主義に限定されるものではない。フォン=ミーゼスは自分が攻撃しているものよりも遙かに社会主義的な思想を無視しているのである。

彼の次の前提も同様に誤っている。その前提とは、市場なしには、生産物の最終結果以外、いかなる情報も生産者の間に出回らない、というものである。言い換えれば、彼は、最終製品が製品の使用を評価する上で大切だ、と仮定しているのである。言うまでもなく、所与の製品の名前以上の情報がなければ、その製品を使うことが資源の有効利用になるのかどうかは判断できない。だが、フォン=ミーゼスは、使用価値、つまり消費者にとっての製品の有用性、という基本概念を誤解している。アダム=ビューイックとジョン=クランプは次のように指摘している。『個々の生産ユニットや産業のレベルで、社会主義で必要な唯一の計算は、現物での計算になる。生産で使われた資源(原料・エネルギー・設備・労働)を記録し、生産物の量を副産物と共に記録する。(中略)社会主義生産方法は、使用価値から使用価値を生産する、ただそれだけのことなのである。』(国家資本主義:新しい経営管理下での賃金システム、137ページ)

こうした情報の生成と伝達は、生産者と消費者との間にある分権型の水平ネットワークを意味する。なぜなら、使用価値と見なされるものを決定するのは、それを直接使用する人々に他ならないからだ。つまり、使用されたり生産されたりする物品の使用価値という概念を中央集権型計画立案者が持っていないため、中央集権的計画立案を通じて使用価値による使用価値の産出が確立されることなどありえないのである。そうした知識は多くの人々の手中に存し、社会の至るところに拡散される。資本主義のイデオローグは、市場がそのような拡散した知識を認めている、と主張するが、ジョン=オニールは次のように記している。『市場は、拡散した知識に良い結果をもたらすことのできる一つの方法であろう。(中略)それは、(中略)唯一の方法ではないのだ。』(エコロジー・ポリシー・ポリティックス、118ページ)

さて、ある人にとって特定物品が有用であるかどうかを決定するためには、その人がその物品の「コスト」を知らねばならない。資本主義の下では、コストの概念は値段と結びつけられているため、「コスト」という言葉に引用符をつける必要がある。だが、例えば本を一冊書くときの本当のコストは、貨幣の合計額ではなく、紙・エネルギー・インク・人的労働の合計である。所与の物品が別な物品よりも所与の欲望を満たしているのかどうか合理的決定を行うためには、消費者となる人にその情報が提供されねばならない。だが、資本主義の下では、この情報は値段によって隠されているのだ。

それ以上に、純粋な市場型システムは、合理的資源割り当ての基になる情報を省略している(少なくとも、それを隠している)。その理由は、市場システムが比較しているのは、せいぜい、入手可能な選択肢の中から個々の買い手がどれを選択するか、ということだからである。これは次のことを前提としている。生産結果だとされる適正な使用価値とは、個人が消費する事物であって、集団的に享受される使用価値(きれいな空気のように)ではない、ということだ。市場における価格は、社会的コストや外的影響を評価してはいない。つまり、そうしたコストは価格には反映されない。故に、合理的な価格システムなどあり得ないのだ。同様に、集団的に享受される価値ではなく、独占可能で個々人に売ることができるものの中での選択しか市場が評価しないのであれば、生産における合理的意志決定に必要な情報を市場が提供しないのは当然であろう。

つまり、価格は、生産に含まれる個人・社会・環境に対する実際のコストを隠し、その代わりに、全てのものを価格という一つの要因に纏めてしまうのだ。生産者と消費者の対話も情報もそこには存在しない。ジョン=オニールは次のように論じている。『市場は僅かな情報を流通させ、(中略)(もっと)多くの情報の流通を妨げる。(中略)教育的対話は、市場を通じてではなく、市場と平行して存在する。』(エコロジー・ポリシー・ポリティックス、143ページ)

ジョアン=ロビンソンは以下のように述べている。

どの産業で、どの営業品目で、活動の真の社会コストがその勘定書に登録されているのだろうか?消費者に、呼吸するための空気と運転するための車とを公平に選択させる価格システムなど何処にあるのだろうか?(近代経済学への貢献、10ページ)

実際、価格は、企業が社会にコストを押しつける(例えば、公害・単純作業労働者・雇用不安など)ことで、競争で優位になれるように、製品を誤って評価するものだ。消費者が、低価格の理由(値段を見ただけではそうした情報を収集することはできない)を理解せずに最低価格を求める限り、コストの外部化は市場で現実に報酬をもたらす。そうした活動はその後に罰金などでペナルティを課せられると考えたとしても、やはり被害は与えられているわけであり、被害を取り消すことなどできはしない。実際には、その企業は、コストの外部化によってそもそも創り出した利潤のおかげで、罰金を切り抜けることができるだろう。

価格が社会的コストと外的影響を正確に反映していると仮定したとして、価格は実際にコストを反映するのだろうか?利潤の問題、つまり、資本の所有によって得る報酬と資本を他者に使用させることで得る報酬の問題は、労働や資源などと同じコストではない(利潤は労働と同種の犠牲だと説明しようとする試みもあるが、常に、バカげていて、すぐに撤回されるものだ)。商品の有効利用を評価しようとして価格を見ても、実際には、そうなのかどうか値段によっては分からない。二つの商品が同じ値段だったとしても、利潤レベル(市場支配力の影響下にあるのだろうが)では、一方が他方よりも仕入れ値が高いといった具合になるかもしれない。価格メカニズムは、市場力に影響されている限り、どちらが資源を最小限使っているのか、ということを示し得ないのだ。実際、タキス=フォトポウロスは次のように述べている。『もし、(中略)中央集権型の計画立案と市場経済双方が必ず権力の集中化を導くのなら、いずれにしても、経済システムが最善に機能するために必要な情報の流れと動因を創り出すことなどできはしない。』(包含的民主主義に向けて、252ページ)それ以上に、労働力を抑圧している権威主義国家の下で生産された製品は、労働組合の組織化を認め、基本的人権を保障している国で生産された製品よりも低価格になるであろう。この抑圧が、労働コストを無理矢理引き下げ、その結果、当該製品をもっと「効率的に」資源を利用しているように見せるのである。つまり、市場は、「効率性」ということで非人間性を覆い隠し、市場占有率によってその行動に実際に報酬を与えているのである。

簡単に述べれば、価格は、本当のコストを示していると見なし得ないだけでなく、製品評価額の社会的表現を示すこともできないのだ。価格は、製品に課せられ、そして、その投入力となっていること(もちろん労働を含む)に課せられた葛藤の結果である。市場力と社会的努力が、欲望や資源利用以上に、この問題を決定する。購入者の財産の不平等・企業の市場力の不平等・労働と資本の情勢の不平等、これら全てがそれぞれ一役買っているのであり、その結果、資源利用という点で価格がそのコストに対して持っている筈のあらゆる関係を歪めているのである。価格は歪められているのだ。クロポトキンが次のように問うたのは驚くべき事ではない。『我々は、今でも、価格を自分の行動の至高の盲目な支配者として受け入れるのではなく、価格と呼ばれる複合的結果を分析しなければならないのではないだろうか?』(未来の田園・工場・仕事場、71ページ)

フォン=ミーゼスは、次のように論じている。『複雑な生産プロセスについて計算を行おうとしている人は、自分が他者よりももっと経済的に仕事をしてきたかどうか即座に気づくであろう。市場で得られる交換価値を参照することで、自分の生産は儲けを生まない、とその人が分かったとしよう。これは、他者が、当該の高位商品をもっとうまく使用する方法を分かっている、ということを示しているのである。』(前掲書、97ページ〜98ページ)だが、これが示しているのは、単に、誰かが他者よりももっと儲けをあげるように働いていたかどうかということだけであって、それがもっと経済的かどうかを示してはいない。市場力は、自動的に、この問題を混乱させてしまう。生産にかかる金銭的コストの削減は、天然資源と労働の無謀な搾取や公害、さもなくば、他者に対するコストの押しつけによって可能なのだから。同様に、富の不平等の問題も重要である。貧困者にとって、贅沢品の生産が基本的必需品の生産よりも儲けになることが証明されたとして、それは、贅沢品の生産が資源をよりうまく活用していることになると示しているのだろうか?そして、もちろん、労働者と資本家の市場力の相対的強さという重要な問題が、「儲けになる」かどうかを決定する時に重要な役割を演じているのである。

よって、価格が本当のコストを反映しており、従って効率性も反映しているという主張は、二つのレベルで誤りを犯している可能性がある。それ以上に、価格以外のコスト計算手段を使わないのに、どのようにして、資本主義の支持者達は、実際のコストと価格上のコスト(actual and price cost)との間に相関があるなどと分かるのだろうか?そうした相関があるかどうかを決定するためには、一方を他方に対して比較すればよい。もし比較できないのなら、価格がコストを示すという主張は同語反復でしかない(何故、価格がコストを示していると分かるかと言えば、コストに価格がついているからだ、という論法なのである)。比較できるとすれば、市場価格以外の方法でコストを計算できることになり、市場価格だけがコストを示すという主張は誤っていることになる。

同様に、フォン=ミーゼスは、資本主義が投資コストを正確に算出できると仮定している。新しい線路を例にして、彼は次のように問うている。『線路は建設されるべきだろうか?もしそうなら、考え得る無数の路線の中からどれを作るべきだろうか?競争的貨幣経済においては、この疑問は貨幣計算で答えることができよう。新しい路線は、幾つかの製品の輸送をそれまでよりも安価にしてくれるだろう。そして、この費用削減が新しい路線の建設と維持管理にかかる費用よりも高くつくかどうかを、計算できるであろう。』(前掲書、108ページ〜109ページ)だが、これは真実ではない。投資決定の基礎は、将来の出来事が起こる可能性の推論である。新しい路線は、輸送コストを削減するかもしれないが、期待される削減は予想よりも比較的小さなものであるかも知れず、その結果、投資が失敗に終わるかも知れない。さらに、投資が社会的必要性に見合っていたとしても、投資は失敗するかも知れない。なぜなら、単に民衆がその製品を必要としているというだけで、実際には購入する余裕がないかも知れないからだ。つまり、フォン=ミーゼスの示した例は、貨幣計算の優越性を示してはいないのである。資本主義下での投資決定は、社会主義システムの場合と同じぐらい向こう見ずなのだ(言い換えると、未来は分からない、ということだ)。

最後の点だが、ミーゼスは、市場は合理的システムだと仮定している。オニールは次のように指摘している。『社会主義的計画立案に関してフォン=ミーゼスが初期に行った主張は、通約性(同一数で割り切れること)に関する仮説に向かっていた。彼の中心的主張は、経済の合理的意志決定には、他種の情勢が持つ価値を計算し、比較できるということに基づいた単一尺度があればよい、ということだったのだ。』(前掲書、115ページ)テイラーとランゲは、「社会主義」を擁護する中で、この中心的仮説に挑戦しなかった。つまり、フォン=ミーゼスに対する彼等の反論は、初めから防衛的なものであり、社会主義的計画立案は市場を模倣でき、資本主義の観点から見ても効率的な結果を生み出すことができる、という主張に基づいていたのである。従って、社会主義が持つ中央集権的計画立案の性質についても、合理的システムとしての市場ということについても、ミーゼスの前提に挑戦した者は誰もいなかったのだ。この議論が国家社会主義者たちを防衛的にしたのは驚くべき事ではない。国家社会主義システムは国家資本主義と大差ないため、資本主義の根幹(つまり、賃金労働と中央集権化)を攻撃することなどあり得ないのである。

さて、資本主義は合理的なのだろうか?資本主義は存在している。だが、存在したからといって、それが合理的だと証明されてはない。カトリック教会は存在するが、この機関の合理性については何も示していないように。この疑問に答えるためには、このセクションの最初で指摘したことに戻らねばならない。つまり、貨幣の使用は全ての意志決定を一つの基準に基づかせ、他の基準を全て無視することを意味しているのである。これは、重大な非合理的効果を持っている。なぜなら、資本主義企業の経営者達は、最も安価な結果を生み出す技術的生産手段を選択せねばならないからだ。他の考慮事項は全て従属的に扱われてしまう。特に、生産者の健康と福祉・環境への効果は従属的に扱われる。「合理的」資本主義生産方法が生み出す有害な効果は、ずっと以前から指摘されてきた。例えば、労働強化・苦痛・ストレス・事故・倦怠・過剰労働・長時間労働など、これらは全て、生産に従事している者の身体的・精神的健康を害する。また、公害・環境破壊・再生不可能な資源の枯渇、これらは全て、地球と地球に住む生き物に重大な影響を持っている。E=F=シューマッハーは次のように論じている。

だが、私たちが何かを不経済だ、と述べるとき、それは何を意味しているのだろう?(中略)金銭という点で適切な利潤を得ることができなかったときに、それは不経済となる。経済学の方法は、他の意味を創り出していないし、創り出すこともできない。(中略)経済学の判断は、(中略)極度に断片的な判断である。決定がなされる前に現実生活で見られ、共に判断されねばならない数多くの側面を度外視して、経済学はたった一つの側面−−金銭的利益が、それを企てている人々のものになるかどうか−−だけを提供するのだ。(スモール=イズ=ビューティフル、27ページ〜28ページ)

シューマッハーは次のように強調している。『経済学の断片的判断性質については、それがどのようなものであろうと全く疑い得ない。経済的計算方法という狭い範囲についてでさえ、そうした判断は必ず、そして、方法論的に狭い。第一に、その計算は、必ず、長期的なことではなく、短期的なことに比重をかけるものだ。(中略)第二に、その計算が基にしているコストの定義には、(中略)私有化されたものを除き(中略)あらゆる「只の物品」(中略)(例えば)環境(中略)が除外されている。つまり、ある活動は、環境を混乱させていても経済的なものとなり得、競争活動は、何らかの費用をかけて環境を保護・保全していたとしても、不経済となり得るのである。』それ以上に、『「それを企てる人々に」という言葉を見過ごしてはならない。例えば、あるグループの社会的活動が、社会全体に対して利益を生み出すかどうかを決定するために、経済学の方法論が標準的に応用されている、と仮定するなど大きな誤りなのである。』(前掲書、29ページ)

価格にこうした「外的影響」が含まれていると主張することはナンセンスだ。そうだとするならば、反公害法や労働法がほとんど、もしくは、全くない第三世界へと資本が移動しているのを目にする筈がない。被害について企業をうまく告訴したとしても、せいぜい、公害の「コスト」が価格に含まれる程度のことでしかない−−どのみち、被害は既に生じているのだ。究極的に、企業は、最低価格で投入量を(それがどのようにして生産されようとも)購入することに強い関心を持っている。ノーム=チョムスキーは次のように指摘している。『真の資本主義社会では(中略)社会的に責任を持った行動は、すぐさま罰せられてしまう。なぜなら、そうした社会的責任を持っていない競争相手が、私的利益以外のことに関心を持つように誤って導かれてしまった人に取って代わるからである。』(言語と政治、301ページ)還元主義的会計計算とそれに伴う「数学の倫理」こそが、「合理性の不合理」を生み出している。それが、「効率性」を測るために価格(つまり利益)にのみ依存するするよう資本主義を苦しめているのだ。それ以上に、ここまで概観したミーゼスの批判は、資本主義産業と資本主義経済を襲って大量失業と社会崩壊を生み出している周期的な危機−−価格メカニズムの操作に対する主観的・客観的圧力(詳しくは、セクションC.7を参照)に起因している危機−−を無視しているのだ。

充分皮肉なことだが、フォン=ミーゼスも、価格メカニズムの非合理的性質を指摘している。彼は(正しくも)『経済外の』諸要因がある、と指摘している。それは、『まさしくその性質』のために、『貨幣計算では捉えることのできない』ものだという。彼は、こうした『考慮事項それ自体を不合理だと呼ぶことなど出来はしない』と認めており、『近所や建物の美しさ・健康・人間の幸福と満足・個人や民族の栄誉を大切だと尊重している場所』を例として挙げている。そして、次のように述べている。『これらは、経済的諸要因同様に、合理的行為の推進力なのだ』が、これらが『交換関係の一部になることはない。』(フォン=ミーゼス著、前掲書、99ページ)人間の「健康・幸福・満足」を無視した経済システムが、どれほど合理的だというのだろうか?その環境の美しさを無視しているのはどうなのか?それ以上に、こうした諸要因に配慮している人々を罰する経済システムが合理的なのだろうか?アナキストにとって、フォン=ミーゼスのコメントは、資本主義の持つ倒錯した論理を充分示しているのである。フォン=ミーゼスが個々人の欲求・幸福・健康・周囲・環境などを無視しているシステムを『正にその性質から』支持できるということこそ、多くを物語っているのだ(金銭的価値をそうした諸次元に割り当てるという彼の示唆(100ページ)は、論点をはぐらかしているのであり、証明が仮定されていることを前提として始めて、そのもっともらしさを持つ。実際、友情に値段を付ける人がいたとすれば、その人には友人などいないのだ。そうした人たちは、友情とは何かを理解しておらず、その結果、人間生活の最良のことを締め出されているのである。美しい場所・幸福・環境など個人が尊重している「経済外の」物品についても同じ事が言えるのだ。)。

無政府共産主義の下では、最善の資源利用方法を決定するために使う意志決定システムは、市場の割り当てよりも多少なりとも「効率的」ではない。なぜなら、それは「効率性」という市場型概念を超越しているからである。市場を模倣しようとせずに、市場ができないことを行っているのである。このことは重要である。なぜなら、市場は、その擁護者達が主張しているような合理的システムではないからだ。あらゆる決定事項を一つの共通要因に還元することは、疑いもなく簡単な意志決定方法であるが、同時に、その還元主義的基盤の故に、重大な副作用を持っている(詳細は次のセクションで論じる)。アインシュタインが指摘したように、物事はできるだけ単純になされるべきだが、単純化するべきではないのだ。市場は意志決定を単純化し、多くの不合理性と非人間的効果を生み出している。

セクションI.4.4 と I.4.5は、共産主義の経済意志決定プロセスについて、可能な枠組みの一つを論じている。その枠組みが必要な理由は次の通りである。『意志決定の現実的判断が必要だと訴えたからといって、一般的諸原理の役割を否定するわけではない。技術的なルールと演算手続きを使う場を否定する(中略)わけでもない。(中略)それ以上に、経験則・標準的手続き・既定の手続き・慣例的取り決めには必要な役割があるのだ。これらは、深く考えずとも従うことができ、様々な状勢を比較することで、明白な判断のための範囲を狭めてくれる。時間・資源の効率的使用・知識の散布には限りがあり、ルールと慣例を必要とする。そうしたルールと慣例は、最も重要な事柄について思慮深い判断を行う時間と空間を利用できるようにしてくれるのである。』(ジョン=オニール著、前掲書、117ページ〜118ページ)

こうした演算手続きとガイドラインは、手で計算できるものであり、実際、そうあるべきものだが、入力データを受け取り、適切なフォーマットへとデータを処理するためにコンピュータを広範に渡って使うことができるだろう。実際、多くの資本主義企業は、原材料の入力データと製品のデータをデータベースとスプレッドシートに記録するためのソフトウェアを使っている。そうしたソフトウェアは、リバータリアン共産主義意志決定演算の基礎となり得る。もちろん、現在、そうしたデータは、金銭の下に埋もれ、外的影響と、含まれる仕事の性質は考慮されていない(アナキスト社会においてもそうなる可能性がある)。だが、だからといって、そうしたソフトウェアの共産主義的使用が決定を通知するために使用される可能性を制限するわけでも、否定するわけでもないのだ。

記しておかねばならないが、このことは、共産主義社会は、個々人とグループが経済的決定を行う上で、様々な「精神の助け」を使用する、という意味である。これにより様々な選択肢と資源をお互いに比較できるようになり、経済的意志決定の複雑さが減少するであろう。つまり、そのプロセスの手助けとなる合理的演算手続き・方法を使うことによって、多くの製品を持つ経済における経済的意志決定の複雑さを減少させることができるのである。そうしたツールは、人間とこの惑星に影響を与えるため、意志決定を支配するのではなく、意志決定を支援する。機械的に行われてはならないのである。

フォン=ミーゼスが、金銭が必要なのは近代経済の複雑さのためである、と論じているのを思い出すことが大切である。彼は次のように述べている。『家計という狭い領域の中では、例えば、父親が全経済管理を監督しているかもしれない。その場合、そうした精神の助け(金銭的計算のような)がなくとも、おおよその正確さを持って、生産プロセスの変化の意味を決定することは可能である。』だが、『たった一人の精神−−それがどれほど精巧であろうとも−−は余りにも弱すぎて、より高次の数え切れないほど多くの製品の中から一つの製品の重要性を理解することはできない。誰も、何らかの計算システムの手助けもなく即座に確かな判断を行う立場にいないのと同様、たった一人の人が、無数にある生産の可能性全てをマスターすることなどできはしない。』(前掲書、102ページ)

このことは真実であるため、リバータリアン共産主義社会は、特定の『高次の』製品が持つ現実的インパクトを、現実のコスト(つまり、使用される労働・エネルギー・原材料の量と、社会的コスト・生態系コスト)という点で比較する手段を即座に開発するであろう。上記したように、共産主義社会では、この本質的意志決定情報は、記録され、伝達されねばならず、合意された様々な比較方法を使って様々な選択肢を評価するために使われねばならない。比較の方法は、価格メカニズムとは全く異なっている。社会的選択をする上では思慮のない機械的計算など不可能だと認識しているからだ。そうした選択は、他者と環境を巻き込むため、避けることのできない倫理的・政治的次元を持っている。フォン=ミーゼス自身も認識していることだが、金銭計算はそうした諸次元を捉えていないのである。従って、選択を行うときには、現実的な判断を採用しなければならない。そこに含まれる現実の社会的コストと生態系コストを十全に理解することがこの判断を支援し、もちろん、そこには適切な「精神の助け」の使用が含まれているのである。

さらに、分権型システムでは、必ず、少ない選択肢の中で比較をしなければならなくなるだろう。現地についての知識が、利用可能な選択肢の多くを除外するからだ。フォン=ミーゼスが理解しているように、『家計』は金銭抜きで経済的決定を行うことができるのだ。資本主義よりも分権化されることで、リバータリアン共産主義経済も同様に行うことができるようになる。特に、外部資源と現地資源とを評価するために適切な「精神の助け」を使った場合にはそうである。アナキスト社会が複雑で統合されたものであれば、そうした助けは本質的なものとなるが、その分権型性質のために、価格メカニズムを含む必要がなくなるのである。決定が効率的かどうかの評価は、社会に関わる現実のコストを見ることでできるのであって、価格システムに顕在している原価計算という歪んだシステムを含んではいないのである(クロポトキンが述べていたように、『我々が価格を分析する場合』、合理的な割付と投資決定を行うために、『その様々な要素を区別し』なければならないのだ(前掲書、72ページ))。

従って、アナキストは、フォン=ミーゼスの主張は間違っている、と論じる。共産主義は実行可能であるが、それはリバータリアン共産主義だった場合だけである。金銭なき『経済』における経済的意志決定は可能なのだ。事実、フォン=ミーゼスの主張は、アナキズムではなく、資本主義の難しさを露呈しているとも言えよう。資本主義の『効率性』は合理的なものではない。十全なる人間的・生態系的効率性のためには、リバータリアン共産主義が必要なのだ。二人のリバータリアン社会主義者が指摘しているように、『社会主義社会は、資源を効率よく合理的に使用することに関わっていなければならないが、「効率性」と「合理性」の基準は、資本主義下でのものとは同じではないのだ。』(ビュイックとクランプ著、前掲書、137ページ)

つまり、共産主義は資本主義「よりも」効率的なものになる、とか、逆に、資本主義は共産主義よりも効率的になると主張することは、論点を見損なっているのである。リバータリアン共産主義は、全く異なるやり方で「効率的」になるのだ。そして、民衆が「不合理」だと見なされるようなやり方で行動するのは、資本主義の論理下でだけなのである。

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